29 per annum

 
年間第29月
ルカ12.13-21

「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と愚かな金持ちのたとえで、主は私たちの「貪欲」に注意を促されます。これから一生楽しんで過ごせる、財産が出来たと安堵した金持ちでしたが、その夜、命が取り上げられました。せっかく貯えた財産は自分のためになりませんでした。
自分がいただいている恵みを決して人と分かち合おうとはせず、自分の楽しみのためにだけ宝を積んで神の前に豊かにならなかった者の愚かさに気付かせてくれます。
主よ、「受けるよりは、与える方が幸いである」(使徒言行録20.35)といわれたイエスご自身のことばを思い、自分のために宝を積むより、愛の業に生きて神の前に豊かになれますように。sese06
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国民幸福指数という言葉がありますが、貧しい国の国民が豊かな国の国民より幸福と感じている結果が出ています。いくら財産を持っていてもそれが幸福を保証することではなさそうです。経済的に復興しても霊的に破産することがあり、経済的に破産しても霊的に豊かになることができます。
主よ、あなたからいただいたものを今日、きょうだいたちと分かち合うことができますように。sese05


年間第29火
ルカ12.35-38

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ」と言われる者は本当に幸いです。なぜなら、主人が「そばに来て給仕してくれる」のですから。僕に仕えるこの主人はイエス以外には考えられないでしょう。イエスは私たちを食事の席に着かせ、ご自分を分かち合って下さり、永遠の命のパンを与えてくださるのです。
主よ、イエスの食卓にあずかることができるよう、いつ呼びかけがあっても応えられるよう目覚めて、ともし火をともして待っていることができますように。sese06
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幸福の条件として、一般的にいろいろと言われます。いい学校に入る、いい仕事を見つける、いい結婚相手に巡り会う、人から認められ、尊敬される、‥‥など。はたしてその通りでしょうか?また、幸福の条件は、ありのままの自分を受け入れること、「吾れ唯(ただ)足るを知る」こと、完ぺきよりは、成長を目指すこと、などとも言われます。しかし、イエスの教えは、少し違うようです。主人が帰ったときに目を覚ましている僕が幸福だというのです。だれかを待ち望み、その人に出会うのは、本当の喜びでしょう。私が出会いたいのは、だれでしょうか。sese04
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「たえず目覚めている」ということは、どういうことでしょうか。具体的に何を意味しているのでしょうか。生活・人生のすべての場面、事柄はキリストと関係がある。私たちの言動、行いは一つ一つ、そしてすべてが最終的にキリストにおいてその意味、その価値を見出す、ということを忘れない。また。主人が「帰ってきた」とき、考えられないようなことが起こる。つまり、主人は僕に使える。神の愛は、私たちが想像できることをはるかに超えて、私たちの心の望みを満たしてくださることを意味します。神様は僕となることは人間には考えにくいことです。けれども、イエスはまさにそういう生き方を示してくださった。
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京都の龍安寺というお寺に、右の図のように彫られたつくばいがあります。
このつくばいは、あまりにも有名なのでご存知の方も多いと思います。真ん中の水を入れる四角を共有すると上から時計回りに「吾唯足知(われ ただ たるを しる)」と読めます。文字通り読めば「私は満ち足りていることだけを知っている」という意味でしょうか。「吾唯足知」というのは、もともと禅問答のようですから、本来は一生かかっても悟る事ができないような、きっと難しい意味なのだと思いますが簡単に言ってしまえば「満足することを知っている者は貧しくても幸せであり、満足することを知らない者はたとえ金持ちでも不幸である。」ということかと思います。 この満足することを知るということは幸せに生きる為には、とても大切な事だと思います。



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ローマ書
「善悪の木からの実を食べてはならない」という神のおきてに背いたその結果を、アダムの子孫である私たちも被らなければいけません。私たちは、アダムとともに、死んで、死んだ後に神のさばきを受けるという運命の中に入っている、というのがパウロの主張です。そうすると、私たちは、「ひどすぎる。アダムが行なったことなのに、私たちまで迷惑を被っているのか。」と考えるかもしれません。けれども、その不満は、アダムがキリストのひな型であることに気づくときには、なくなってしまいます。私たちは、罪と死においてアダムと一体化している一方で、義といのちにおいて、キリストと一体化しているのだ、というのがパウロがここで言いたいことなのです。

原発で働いている人の、たった一つの操作ミスによって、大ぜいの人が放射能をあびて死んでしまう可能性があるように、アダムの違反によって、多くの人が死んだのです。飛行機のパイロットは自殺したかったので、沢山の人が死にました。人間にはそういう運命みたいな現実がある。罪における連帯という現実。けれども、神においては、キリストが行なわれたことによって、私たちがまったく何も行なっていないので、そのキリストが行なわれたことにともなう祝福が、怒涛(大波)のごとく私たちに押し寄せる、というものなのです。満ち潮のときは全ての船は上がると言いますね。これも又事実なんです。ある小国において、原油が発見されて、その国の住民全体がまったく働かなくても裕福に暮らせるほど潤いがもたらされるように、キリストが行なわれたことによって、私たちに祝福が満ちあふれます。しかも、パウロは、「それにもまして」と言っています。たった一人の人間が多くの人を死にいたらしめるほど影響力を持っているのなら、神とキリストが行なわれたことは、どれほど私たちに影響を与えて、恵みに満たしてくださるだろう、とパウロは言っているのです。恵みは、罪と死に対して、勝ち誇っているのです。
 アダムとキリストが似ていたのは、一つの行為を行なったことです。アダムは、善悪の知識の木から、実を食べるという行為を行ないました。それによって、すべての人が罪に定められました。キリストの場合は、十字架の上で、血を流されて、死なれました。この一つの義の行為によって、キリストを信じるすべての人にいのちを与えることがおできになります。

 

年間第29水
ルカ12.39-48

「すべて多く与えられた者は、多く求められる」どんな恵みも多く与えられた者、多く任された者は、その責任が大きいのでしょう。我々には実際になにが任されているのでしょうか。自分の才能、能力、知識、健康、財産などななど。しかしそんなに大きなものではないかもしれません。周りの人々にほほえんだり、親切な挨拶をしたり、このように些細なことが私たちに任されているかも知れません。
それより、私たちはキリストを通して神の愛と赦しを受け、永遠のいのちを与えられたことを知りました。それはパウロが言うように「計り知れない富」(エフェ3.7、偶数年の第一朗読)です。このいただいた恵みをどのように使うか、どのように応えていくかが問われるのでしょう。
主よ、あなたの心に適うことをいつも求め、人々の中におられるあなたに忠実に仕え、人の子が思いがけない時に来てもよいように目覚めて生きることができますように。sese06 sese05
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いつも目を覚ましていなさい」と言われますと、ペトロが「主よ、この譬えを話しておられるのは、わたしたちのためですか、それとも、みんなの者のためなのですか」と、主イエスに問うのです。終末に備えて常に目をさましていなくてはならない、そのように緊張して生活していなくてはならないのは、大変なことだ、それは特別に自分たちだけがしなくてはならないことなのですか、という思い、自分たちだけが、特別に緊張をしいられる、いわば不利な立場におかれる、そのことに対する責任回避の言葉なのではないかと思います。ほかの人にはそれほど厳しいことは要求されないが、自分たちにはそのように厳しいことが要求されるのですか、という思いからでた言葉ではないかと思われます。
 
 それに対してイエスは直接ペトロの質問に答えることはしないで、さらに譬えを続けます。前と同じような譬えなのですが、「主人が召使いたちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令はいったいだれか」というのであります。そしてもうひとつの家令の姿として、主人の帰りが遅いと心の中で思い、男女の召使いを打ちたたき、飲んだり食べたりして酔っぱらっているならば、主人が気がつかないうちに帰ってきて、そうしたところを見られる、そしてその家令は、主人から厳罰に処せられるだろうというのであります。
 そして主イエスは、「主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず、勤めもしなかった僕は多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるような事をした者は、打たれかたが少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである」と言われのであります。ここに来て、主イエスの譬えの真意がはっきりするのです。つまりペトロの質問、「これは自分たちに対してされたたとえなのか、それともみんなの人にも当てはまるたとえなのか」という質問に対する答えは、これは何よりも弟子たち、お前たちに対して与えられたものだということであります。弟子たち、お前たちこそ、みんなに率先して終末的な緊張感をもって毎日を過ごさなければならないということを言われるのです。
 
 弟子たちだけは特別だというのです。それをペテロは自分たちだけは特別に何か損するような気持ちで、それは自分たちだけに特別に厳しいことが要求されることなのですか、という思いから質問したのに対して、主イエスは弟子たちに対して「お前たちは多く与えられた者だ」というのです。だから「多く求められるのだ」というのであります。「お前たちは多く任せられた者だ、だから多く要求されるのだ」というのであります。つまり弟子たちは多くの恵みを与えられた者だと、イエスはペテロとは全く別の視点から弟子たちを見ておられるのです。お前たちはみんなよりも特別に恵また者ではないか、だから多くのことが要求されるのは当然だろうのというのであります。ペテロは自分たち弟子は何か特別に責任を課せられ損するような気分でいるのに対して、イエスはそうではない、お前たちは特別に恵まれた存在だ、といのうのです。
 
  「時に応じて定めの食事を備える忠実な僕」としての生活をするのであります。それは自分だけがうまいものを食べるという生活ではなく、時に応じて人々に食事をさせる、そういう奉仕する仕事を忠実に淡々としつづける僕です。

  そして忠実でない僕とはどういう僕なのかといいますと、「主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使いたちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば」という僕のことであります。つまりこの僕たちは僕でありながら、「主人の帰りがおそい」つまり、主人が不在であるということをいいことにして、自分が主人のごとくに振る舞っている人々のことです。ただめちゃめちゃな生活をする、酒に酔っぱらうということではなく、僕でありながら、主人のごとく振る舞うということが厳しくしかられているのです。Ekyamada
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ローマ書

 ささげなさい、という命令です。自分は罪に対して死んだとみなしていくことによって、私たちのからだに罪は働かなくなりますが、そこまででは、ちょうど、自動車のギアがバックになっていたのをニュートラルにしただけです。それからさらに一歩進んで、自分の手足を神にささげなければいけません。この「ささげる」と言うギリシヤ語は、「並んで立つ」とか、「近くに立つ」という意味があります。つまり、罪を犯させるようなつまずきの近くに立たないということです。そして、良いもののそばに立ちなさい、という命令です。例えば、自分がパチンコをしてしまって、やめられない、とします。帰り道にパチンコ店が並んでいるとします。パチンコをする誘惑に打ち勝つためには、どうすればよいでしょうか。パチンコのお店に近づいたとき、祈りをすればよいのでしょうか。聖書のことばを思い出せばよいのでしょうか。違います。パチンコがある通りをさけて帰宅すればよいのです。とても簡単ですね。これが不義の器として罪にささげてはいけない、ということです。と同時に、私たちは、義の器としてささげることができます。たとえば、このように礼拝に参加しています。これは、自分のからだを義の器としてささげていることです。多くの人は、自分が調子悪いとき、教会に行きたくないと思います。もっと、きよくなってから、霊的に良い状態のときに教会に行こうとします。間違いですね。その逆です。弱いから、礼拝に来るのです。ある牧師が、こう言いました。「神は、牧師がほんとうに弱い人間だから牧師に召したのだと思う。祈りとみことばに専念しなければ、容易に罪に陥ってしまうことをご存知で、そのような働きに召してくださった。」本当にそうだと、私は思いました。
罪に対して死んでいる、という原則の次は、「神の奴隷とされた」という原則があります。私たちは、完全に主体性のある存在ではないことを知るべきです。私たちは何かの奴隷になっているのです。何かに自由にされているのであれば、他の何かに従っています。ここでパウロは、神から自由になっているのであれば、同時に罪の奴隷になっていると言っています。「クリスチャンは、窮屈で、苦しそうだなあ。自分のしたいことができないではないか。」と言います。けれども、クリスチャンは例えばこう言います。「ええ、だって、酒飲んで、酔っ払わなくたって、大声で笑えるし、自分のこと話せるぜ。お酒がなければ楽しめないの?ずいぶん、不自由だね。」ですから、神の奴隷であれば、罪から自由にされています。結局、どちらにおいても奴隷なのですが、どちらの奴隷でいるかは私たちが選択することになります。 

 

年間第29木
ルカ12.49-53

「わたしは火を地上に投じるためにきたのだ。ここで言われている「火」とは何か。火というのは焼き尽くす火ですから、聖書ではいつも裁きを表す時があります。しかしここでは主イエスは「火がすでに燃えていたなら」と言われておりますから、単なる裁きではなく、救いです。人々が救われることを主イエスがなによりも願って、そのためにこの世にこられたからです。
 しかしその救いはただ人々が喜んで受け入れるような救いではないのです。それは裁きを含んだ、あるいは、裁きを通しての救いなのです。どういう裁きなのか。マタイ福音書では、「平和ではなく、剣だ」と言うのです。そして「平和でなく、分裂だ」といわれるのです。
 平和をもたらすためではなく、分裂をもたらすために来たのだというのです。「今から後は、一家の内で五人が相分かれ、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対立する」というのです。まず家族関係が崩壊する、分裂するというのです。ここでは驚くべきことに、主イエスがこの世に来たのは、この世が分裂状態だからこの地上に平和をもたらすために来たのだというのではないのです。この世があまりにも平和だから、剣を投げ込むために来た、そして分裂を引き起こすためにイエスは来たのだというのです。
 
 イエスの誕生の時に天使たちは、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、みこころにかなう人々に平和があるように」という賛美の声があります。つまりイエスがこの地上に来られることによって、平和が訪れるというのです。しかしここでは平和ではなく、分裂だというのです。それはイエスの誕生のところでも、「み心にかなう人々に平和が」といっておりますから、手放しの平和ではないのだということです。みこころにかなう者に与えられる平和だということです。
 
 家族関係の平和というのは、しばしば誰かの犠牲、犠牲というと大げさかもしれませんが、誰かの我慢といったらいいかもしれません、そういう誰かの我慢によってその家族の平和が保たれている場合が多いのではないか。夫のわがままで乱暴な振る舞いに対して他の家族のものが我慢して、平和が保たれているのかもしれない。妻のヒステリーをみんなが我慢して平和が維持されているのかもしれません。しかしそれが崩壊する。そして分裂が起こる。
 分裂というのは、いつも自己が激しく主張される時に起こるものです。主イエスが来たことによってなぜ分裂が起こるのか。それはイエスが正しいことを述べるからです。イエスは律法学者やパリサイ人に対して正しいことを述べる、そうすると彼らはそれに反発してイエスを殺そうとするのです。彼らがイエスのいわれたことに本当にそうですと、その正しさを受け入れれば、分裂は起こらないのです。しかしそれができない。正しさが明らかにされるということは、人間の罪が明らかにされるということです。われわれは自分の罪が明らかにされるときは、前以上に自分のことを主張し始めるのです。自分を弁護するために、自分の罪を隠すためにますます自分を主張し始めるのです。前以上にです。イエスが現れる前よりも、イエスがいらして、正しいことを述べると、それに反発して、もっと自己主張が激しくなるのです。家族の場合、たとえば、夫であり、父親が横暴(おうぼう)である時に、それに対して妻や子供があなたは横暴ですと言い出しますと、夫は、父親は前以上に横暴になるのではないでしょうか。それまでは言葉による横暴だった者が、今度は暴力をふるうようになるのではないか。
 
 罪人はその罪が指摘されれば、罪を悔いるのでなはく、ますます前以上に罪を増し加えていって、ますます罪人になっていくのではないか。 家族の間の平和が本当に相手を受け入れ、許しあうということに成り立っている平和ならば、問題はないのです。しかし家族の間の平和はしばしば誰かの我慢によって辛うじて成り立っている場合が多いのではないか。

主イエスは「わたしは火を地上に投げ込むためにきたのだ。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それでイエスは「火を地上に投げ込むために、洗礼を受けねばならない」というのです。これはいうまでもなく、ご自分が十字架で死ぬということを指しております。イエスはすでにヨハネから洗礼を受けているわけです。それなのにここでは「わたしが受けねばならない洗礼」といっているのです。
 
  イエスは、「火を投げ込むためにこの地上にきた」というのです。そしてその「火」が本当の火になるためには、自分が十字架で死ななくてはならないのだというのです。単なる火だけでは、それは裁きに終わってしまう。そして人間の罪を指摘し、それを裁くというだけの裁きだけでは、裁かれた人は、律法学者やファリサイ人、祭司長たちのように、ますます自分の罪を隠すために、弁護するためにいきりたち、ますます自己を前以上に主張し始め、ただ分裂だけで終わってしまうことになるのです。それで主イエスは、ご自分は最後には自分が死ぬことによって、その罪を自分が引き受け、その罪を自分があがない、その罪を赦す、そうでなければ、罪の問題は本当には解決しないことを知っておられたのです。
 家族の問題でも、父親の横暴でも、母親のヒステリーでもそれを指摘するだけでは真の解決にはいたらないで、そうした上でやはりその罪を赦し、その人を受け入れるという覚悟がなければ真の平和は訪れないのではないかと思います。
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「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」(エフェ3・18)なさい、というパウロのことばはありますが(偶数年の第一朗読)。今日の福音書はそれを説明するかのようです。
イエスは愛の火を投じ、それが地上に燃え広がることを命がけで切望しておられます。しかし、そのためには受けなければならない洗礼があるのです。イエスの十字架の死と復活は、イエスがこの地上に火を投じようとしてのことだったのです。イエスの思いは平和をもたらすことでも、地上の不正、不信仰のため、対立、分裂をもたらすことになるのでしょう。
主よ、洗礼により、イエスの愛の火をともされた者が、イエスと苦しみを共にして愛の火が地上に広がり、真の平和をもたらすことができますように。
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私たちは祈るとき、よく、イエスに出会いたいと願っています。でも、心からそう願っているでしょうか?イエスとの出会いによって、今まで自分が積んできた全てのものを失うかもしれません。そんな予感から、心のどこかで、イエスとの出会いを避けていることがあるかもしれません。この世における困難、痛み、弱さの只中で、主よ、あなたの愛を生き抜くことができますように。sese05
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洗礼を受けた時のことを思い出してみます。どんな気持ちだったでしょうか?これから、私は新しく生まれる‥‥これから、私は神の子になる‥‥これから、私はイエスの友になる‥‥そんな喜びがあったかもしれません。今日の福音には、「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とあります。イエスを信じることは、決断と覚悟を伴います。新たに生まれ、神の子とされて、イエスの友になるということは、福音という新しい観点で生活を見直して生きることなのです。sese04
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キリストは「地上に火を投ずるために来た」。火は一つのシンボル(象徴)である(復活徹夜祭の「新しい火」 参照)。シンボルは大体複雑な内容を含んでいる。例えば、家に火がつくと、瞬く間に破壊される。毎日のように私たちが作っているゴミは火で焼かれる。キリストは罪の力を破壊する。人類のゴミである罪を焼かれる。
 また、火はものに変化をもたらす。例えば、食べ物。生の肉が火をとおしてビーフステキとなる。お米はご飯となる。小麦粉はパンとなる。火はものに本質的変化をもたらす。さらに、金属を溶かしてさまざまのものを作る。我々は住んでいる家を支えている鉄はを通っている。電車の車輌もレールも火でできている。
 火は清める役割をもっている。医者さんは注射するときに針を火で消毒し、殺菌する。家畜の伝染病が起こると、伝染を絶つために死んだ動物を焼くしかない。
 火は光をもたらす。今でも私たち祭壇の上にロウソクを使っている。キリストは「世の光」であると表すシンボルである。
また、火は暖かさをつくります。寒い冬の夜に家族はいろりを囲んで食事を食べます。
 ギリシア神話には火を初めて見つけたプロメテウスという人物がいます。彼は火を神々の住まいから盗んで人々のところに運んだといわれます。そのために罰を受けた。やはり、火は使い方によっては危ないものでもあると教える神話です。けれども、人類は火を見つけて以来手放すことはないです。生活に欠かせないものです。
キリストは罪を破壊し、清め、光とぬくもりをもたらす。また、生の人間をおいしいものに変える。キリストは人類に欠かせないものである。キリストを受け入れるのも、受け入れないのも、全く自由ですが、どちらにしても結果は同じではない。
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ローマ書
パウロはここで、基本的に、「これからもあなたがたは服従しつづけなさい。」と言っています。あるいは、信じつづけなさい、ということです。福音を初めに信じた大学の学生のことを思い出します。彼の場合、家族にも親にもクリスチャンがおらず、社会には新興宗教がはびこり、宗教アレルギーの学生が多い中で、クリスチャンになりました。また、これから自分で道を切り開き、企業に入り、昇進して、人々に認められるビジネスマンになるという野望も、神のみこころであれば捨てるかもしれないという決断も必要でした。あらゆる自分の願いや思惑を、聖書のことばに明け渡して、それでクリスチャンになったのです。同じようにこれからも歩んでいきます。これからも、他の人々が行なっていることや思っていることに反しても、神の呼びかけに応えていき、自分の願いや考えではなく、神の考えておられることを優先していく決断が続いていくのです。これが、パウロが話している、義の奴隷としてささげて、聖潔に進むことであります。 
罪の奴隷であれば死ですが、神の奴隷であれば永遠のいのちが与えられます。けれども、聖潔に至る実を得たから、行き着く先が永遠のいのちである、という因果関係に注目してください。聖潔に進んでいることと、永遠のいのちが与えられることは、切っても切り離せないものなのです。したがって、クリスチャンになってから、聖い生き方を求めずして、天国に行けると考えるのは、明らかに間違いです。信じたら、どんなに罪を犯しても神に赦されているのだから天国に行ける、と教える人がいますが、聖書に照らすと明らかに間違いです。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(Ⅰコリント6:9-10)」とパウロが言いました。神の奴隷とされているのですから、必ず聖潔の実を結ぶのであり、聖潔の実が結ばれる結果として永遠のいのちを持ちます。

 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 ここで二つのことが対比されています。報酬と賜物です。私たちは罪を犯すことにより、その当然の報いとして死に至ります。けれども、永遠のいのちを持つときには、私たちが行なったことではなく賜物として受け入れるのです。神は、イエス・キリストにあって行なわれたものを、私たちに与えてくださいます。それを受け取るのが私たちの仕事であり、私たちがしなければいけないことは、唯一、信じることなのです。

 ですから、聖潔に進むことは、完全に神の恵みなのです。私たちが行なうことではなく、神がキリストを通して、すでに行なってくださったことなのです。古い自分はもうすでに、キリストとともに死にました。また、もうすでに、神の奴隷とされました。私たちは、これからもこのことを信じつづけ、受け取りつづけていきます。信じるときに、神の御霊が私たちのうちで働いてくださり、私たちが自分ではできなくなっていることを行なってくださるのです。どうぞ、この新しい歩みの中に入ってください。自分がこれまで克服できなかった罪、悪習慣、それらをどうか、もうすでにキリストともに十字架につけられたことを信じてください。ただ信じるだけなのです。死んでいるとみなすだけで、私たちのうちで、神の御霊が、聖めの働きを行なってくださいます。問題は、自分の意思力が弱いからではなく、この御霊の働きの中に入っていなかったからです。神が用意されている義の賜物を受け取っていないからです。けれども、神の賜物として受け取るときに、神が私たちのうちで、新鮮な御霊の働きを行なってくださいます。


年間第29金
ルカ12.54-59

 ここでイエスはいきなり「偽善者よ」ということばが出てきます。どうして天気の模様を見分けることを知りながら、今の時代を見分けられないことが偽善者になるのでしょうか。われわれが天気の模様、雲を見てにわか雨がくると予想する、そのためにあわてて洗濯物を取り込むというようなことをします。われわれが天気の模様を知ってそれに備えるのは、みな自分の生活の利益のためです。しかし今の時代を見分けるということは、つまり神の裁きの時が近いことを見分ける、それに心構えをするということは、単に自分の利益のためにそうするということでは、もうおいつかないのです。何でも自分の生活上利益のために行動を起こす。あるいは、自分の目先の利益のことばかりに目をいっているからもっと大事な神の終末の裁きに対してわれわれは鈍感になってしまっているということです。それを主イエスは「偽善者よ」という言葉でいわれていることではないかと思います。
 
 更に主イエスは「また、あなたがたはなぜ正しいことを自分で判断しないのか」といいます。終末に備えるためには、「自分で正しいことを判断しなくてはならない」というのです。そしてその「正しい判断」とは何かということを言うのです。「たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへゆくときには、途中でその人と和解するように努めなさい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを役人に渡し、役人はあなたを牢屋に投げ込むであろう」というのです。ここでは自分を訴える者と何よりも和解することが大事なことで、それが「正しい判断」だというのです。ここは何か割り切れないものが残るかもしれません。つまりここではもう何が正しいのかという真理問題(どっちが悪いか)は問われていない、なによりも早く仲直りしなさい、和解しなさいということが勧められているのです。真理問題ならば、裁判官のところに行って、堂々と争えばいいのにと思います。それが正しい判断のように思えます。しかしここではもう真理問題よりは和解のほうが大事だというのです。
 
 ここには主イエスのわれわれ人間に対するするどい洞察があるのではないかと思います。われわれの真理問題、もめごと、人間関係というものも、結局は自分がいかに正しいかということを主張することにすぎない、またいかに自分にとって利益をもたらすかという問題にすぎないのではないか。自分を訴えるものがいるということは、やはり自分の側になんらかの理由で巻き込まれるものがあるということです。それならば、その自分の非を早く認めて、もう自分を主張しないで、和解をしたほうがいいということになります。ここで言われている「和解」とはただ妥協とか調停するということではないのです。自分の非を認めるということです。謝るということです。
 終末に備えてわれわれが目を覚まして、それに備えるということは、自分の罪を認め、自分の非を認めて、それに備えるということです。
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「空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」日常生活の中で、自然現象を見て天候を見分けることをしているのに、神からのしるしを読み取る力を育てているでしょうか。今は神からのしるしがイエスを通して与えられています。
主よ、イエスに従って生きるよう呼びかけられているわたしたちが、神のまなざしを持って何が正しいかを判断し、互いに心から和解し合うことで、神の道を歩むことができますように。sese06
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私たちは毎日のように天気予報をテレビ・新聞などで見ます。それに為替相場の動向、ドル・株価の変化、健康の指数、経済の詳しいデータも毎日ぬようにテレビ・新聞にのります。人々はそれを見て社会の動きを読みとって敏感に反応します。天気予報のアナウンサーは出かけるときに傘をもって、とか着る服まで親切に教えてくれます。私たちはそれに関心をもって敏感に反応します。しかし、聖書について、魂の救いについて考えさせてくれる番組はありません。あってもそれに耳をかさないのです。そんな私たちをイエス様は「偽善者」と呼んでいます。なぜだろうか。本当の幸せはどこか
らくるのか、なぜもっと真剣に考えないのか、そういうお叱りでしょう。主よ、あなたのみことばにいつも心を向け、あなたのささやかな呼びかけに応えていくことができますように。
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晴佐久昌英、『十字を切る』、120頁以下

「ただいま」
正(しょう)太郎くんが学校から帰ってきました。お母さんはお買いものに行っているようです。正太郎君くんはランドセルを部屋に放り込むと、お母さんにいつも言われていたとおり手を洗い、うがいをしました。きれい好きのお母さんが毎日洗うタオルからは、いい香りがします。リビングルームに入ると、テーブルの上にお花が飾ってあり、メモがありました。
「正太郎へ。お帰りなさい。冷蔵庫におやつが入っています。ちゃんとお祈りして食べてね。今夜はカレー。いい子にして待っててね」。
カレーの大好きな正太郎くんは、思わず「やったー」と叫ぶと、冷蔵庫からおやつをだし、十字を切りました。
正太郎くんは幸せ者です。お母さんの愛に包まれて、毎日何の心配もなく暮らしています。お母さんの愛そのものは目に見えませんが、おうちの中にいるだけでそこにお母さんの愛があふれているのがわかります。タオルもお花もおやつも、お母さんが家族のために整えたものですから、タオルに触れればお母さんの愛を感じるし、お花を見ればお母さんの愛が見えるし、おやつを食べればお母さんの愛を味わえます。そもそも、おうち自体がお母さんの愛の表れですし、正太郎くん自身がお母さんの愛のしるしですから、すべてはお母さんの愛の中なのです。

正太郎くんが生まれてきたのは、偶然ではありません。どうしてもわが子がほしいという親心、親の強い願いがあったからこそ生まれてきたのです。
この世界は、神の親心によって創られました。私たちの生活にはそれを感じられるしるしはいっぱいあります。それらを感じられない人にたいしは、今日の福音書は「偽善者よ」と叫んでいます。
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ローマ書
 この文章は、日本語で読むと難しいのですが、すべて英語の直すと理解できます。原理も、律法もみな、Lawだからです。ですから、ここで4つの原理を見出します。一つは、先ほどから話している神の律法です。神が、これこれこうしなさい、と命じられていることです。そして二つ目は、その律法を喜んでいる、心の律法があります。それを行なってみたいと願っている法則です。けれども、三つ目に、からだの律法があります。からだの中に悪が宿っている原理があるのです。そこで、罪の原理があります。からだに悪が働く原理によって、罪をどうしても犯してしまう原理が働いているのです。これでは、たしかに、「罪に売られた者」です。罪によってがんじがらめになったのです。

2B その解決 - 「主イエス・キリスト」 24-25
 けれども、解決があります。次をご覧ください。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

 えっ、なんでこれが解決なの?逆に敗北宣言ではないですか?と思われるかもしれません。そうなんです、敗北宣言ができるようになったとき、私たちに初めて希望が見出されます。13節からのパウロの言葉に注目してください。何回、「私は」という言葉が出てきたのでしょうか。新改訳には、ここまで21回出てきました。この「私が」が問題だったのです。これは、神のみことばを行ないたい、聖い生活を送りたいと願うクリスチャンならだれでも陥る過ちです。私たちはこう祈ります。「主よ。おゆるしください。朝にデボーションを持つことができませんでした。必ず、次の朝には、持つようにします。」こう神に約束するのですが、その時点で、「私は、次の朝には、持つようにします。」という、自分の肉に拠り頼んでしまっている過ちがあるのです。思い出してください。パウロは、「私たちは罪に対して死んだ者であり、神に対して、キリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。」と言いました。けれども、私たちが、自分がキリストともに十字架につけられていることを忘れた瞬間に、この「私が」という動作をしてしまい、それゆえ、からだの原理によって罪が働き、自分は行ないたくないと強く願っているのに行なってしまうのです。

 失敗すると私たちは、さらに何とかして、それを行なわないように努力します。けれども、ますます、行なえないどころか、してはならないことまでするようになります。そしてついに、パウロの叫びである、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言うことができるのです。チャックはよく、このことを説明するのに、水の中で溺れている人を助けるためのレスキュー隊のレッスンを話します。溺れている人を助けるとき、その人がまだ元気なときは助けることはできません。助けようとすると、その人は自分にしがみついて、自分までもが溺れてしまう危険があるからです。けれども、溺れている人が、もう自分はだめだと思ったとき、自分でもがくのをあきらめたときに、初めて手を差し伸べることができるそうです。救いは自分にはない、と知ったそのときに、私たちに道が切り開かれます。




年間第29土
ルカ13.1-9

ガリラヤというのは、イエスが育ったところです。エルサレムから遠く離れておりますが、そこは反ローマ帝国の政治運動の盛んなところだったようです。それでこのビラトに殺された人々もあるいはそういうグループだったかもしれないと言われております。その人々が殺された。その上彼らの捧げる神への供え物である動物の血に混ぜられるという屈辱的な目に会ったというのです。そういう残酷な目にあったのは、きっと彼らがよほど悪いことをしていたからではないかという思い込めて、イエスに報告したと思われます。なにか普通以上の理不尽な災難にあった人をみますと、その原因がわからない時には、われわれはなにか理屈をつけてその理由を探そうする、そうしないと安心がいかないのです。そういう理由付けをして、彼らがそのような悲惨な目にあったのは、彼らの罪に原因があったのだ、しかしわれわれはそれほどの罪を犯しているわけではないから、そのような悲惨な目にあわないだろうと安心したいのです。それに対して主イエスは「そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と言われるのです。このイエスの「そうではない」という言葉が、因果応報という考え、あるいは祟りという考えを否定した言葉なのかどうかという問題があります。

つまり自分を因果応報の適用範囲から遠ざけて、自分を安全地帯において、他人の悲惨さを眺めるという気楽な無責任な姿勢をイエスはここで戒められたのだというこです。イエスはここでは他人の陥っている悲惨な状況をみて、それに因果応報という思想を当てはめて他人を裁くという態度を厳しく戒められたということです。自分の現在の安泰している状況から考えて、自分はそれほど悪いことはしていないと考える、だから、こういう幸福な状況に自分はあるのだとあぐらをかいている、そういう姿勢をイエスは厳しく戒められたのだということになります。罪とか、罰とかという問題は、他人を非難したり、裁くために利用していけないので、それはいつも自分の問題として考えるべきだということです。

現代人は因果応報とか祟りという思いからは無縁だと言われる。しかしその考えを追放すると同時に、われわれ現代人は人間の罪に対する深い認識まで追放してしまったのではないか。そのために罪というものを人間の環境のせいにしたり、政治的なものに押しつけようとしたりするのです。しかし罪というものは、いつでも不合理なものをその中に潜めております。罪というものは、人間がどんなに合理的な知恵で分析したり、解決をはかろうとしても決してそれを解決などできないものです。

そしてそのあと、主イエス・キリストは一つの譬えを語ります。この園丁はイエス・キリストのことです。なんとかしてわれわれが自分の罪に気づき、悔い改めさせようとして忍耐強く待っておられる、そのようにしてとりなしの祈りを捧げて待ってくださる園丁がおられる、それなのにどうしてお前たちは悔い改めようとしないかのというのです。そしてそのかたはとうとう最後には、ただわれわれの悔い改めを待つだけではなく、とうとう最後にはわれわれの代わりに十字架についてくださろうとしているかたなのです。悔い改めとは、自分の罪に気づくことです。そしてその悔い改めを忍耐強く待ち、とりなしてくださるかたがおられるということに気づくことです。そして自分の罪に気づくとは、自分の罪に対する罰を誰かが身代わりに引き受けている、そのようにして自分の罪は赦されている、そのことに気づくことです。そのようにして自分の罪を自覚すること、それが悔い改めるということです。
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今まで何かを待つあるいは待たせる経験がありますか?人と待ち合わせをする時、電車を待つ時、何年ぶりの友たちとの約束、干害(かんがい)のとき雨を待っている農夫の心、収穫を待っている耕作人(こうさくにん)、何よりも人間の成熟を待つ経験がありますか。我々は待つ時があり、待たせる時があります。おん父は私たちが悔い改めることを待っているかもしれません。私は主に、何を待たせているでしょうか。主よ、それを直ちに実行する力を与えてください。sese05
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人が生きる歳月を重ねていくとき、時間的な年齢、精神的な年齢、健康上の年齢と、分けて考えることができるかもしれません。詩編には、人の一生は七十年、八十年、と記されていますが、現代、平均寿命はさらに延びています。植物は、実を結ぶと落ちます。私たち人間の寿命が延びるのは、もしかすると、まだ実を結ばないから?物理的には平均九十年でも、精神的に実を結んでいるでしょうか。
主よ、私が人間として実を結ぶとは、どういう意味なのでしょう?どうぞ教えてください。

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