25 per annum pari

年間第 25月
ルカ8・16-18

「どう聞くべきかに注意しなさい」とイエスは言われます。神のことばをどのように聴くかに、「ともし火」のようになれるかどうかがかかっています。へりくだって神のことばに耳を傾ける時、私たちは主の道を悟り、歩むことが出来るようになります。草原の動物たちは、より大きな動物に襲われないよう耳を澄まします。私たちも、全身で神の想いを聴くことができますように。sese06


年間第25火
ルカ8・19-21

12歳の主イエスが両親の心配をよそに神殿に残り,神についての話を聞き,質問している。必死で探し回って主を見つけた両親が,「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」,ととがめるようにして言うと,主はおっしゃる,「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを,知らなかったのですか」。人間の親であれば当然するであろう反応が,主イエスの前にはどうも通じないようなのです。何か普通の子供,ふつうの人間にはない,特別なことが,この人の身の上には起こっている,それが何なのかは分からないけれども,とにかく家族があれこれちょっかいを出すべきことではないようだ,そういったことを家族は感じ取っていただろうと思うのです。それがルカがマリアについてたびたび記している言葉です,「母はこれらのことをすべて心に納めていた」。主がお生まれになった時,この乳飲み子を拝みに来た羊飼いたちが天使たちのお告げがあったことを語った時も,「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて,思い巡らしていた」(2:19)のです。主イエスのことを兄弟たちが心配したり,その行っていることを気味悪がったりする時,母マリアは今は静かに見守るように兄弟たちを諭し導いていたのではないでしょうか。主イエスとその家族たちとの間には,つかず離れずの関係があったのではないでしょうか。家族であるには違いないけれども,この人は家族以上の関係を,この地上にもたらそうとして来ておられる。それが何なのかは今ははっきり分からないけれども,とにかく主イエスがなしていることを今は邪魔せずに静かに見守らなければならない。それが,この家族たちの中にできていた暗黙の了解だったように感じられるのです。

戦国時代にあらわれた孟子においては、秩序ある社会をつくっていくためには何よりも、親[注釈 1]や年長者[注釈 2]に対する親愛・敬愛[注釈 3]を忘れないということが肝要であることを説き、このような心を「孝悌」と名づけた。そして、『孟子』滕文公(とうぶんこう)上篇において、「孝悌」を基軸に、道徳的法則として「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した[2]。
父子の親
父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない。
君臣の義
君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない。
夫婦の別
夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる[注釈 4]。
長幼の序
年少者は年長者を敬い、したがわなければならない[注釈 5]。
朋友の信
友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない。
孟子は、以上の五徳を守ることによって社会の平穏が保たれるのであり、これら秩序を保つ人倫をしっかり教えられない人間は禽獣に等しい存在であるとした[2]。なお、『中庸』ではこれを「五達道」と称し、君臣関係をその第一としている[1]。
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なぜイエスはこの時わざわざご自分の肉親に対して冷たいとも思われる態度を示したのでしょうか。イエスはやはり特別な使命をもった存在なのであって、人間的な血のつながりとか人間的な情で、イエスを動かそうということであってはならないということです。イエスはそうした狭い関係に閉じこめてはならないのであって、「神の御言葉を聞いて行う者こそ、あるいは神のみ心を行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのだ」ということです。イエスは肉と言うつながりの家族関係をここで一度否定して、新しい家族関係を造ろうとされたということができると思います。それはなぜかというと、血のつながりという家族関係というのは、自分を守る、自分だけを守るということ、自分の一族だけを守るという人間の利己的な集団になりがちだからです。ある意味では、自分を捨てるためには、あの甘いぬくもりになりがちな家族関係を切り捨てなくてはならないのです。
   家族に対する感情は、やはり家族の人びとに限られていて、すべての人に施すわけにいかない、ということは解らない人がいるだろうか。本能的なものです。それは文明のもたらしたもののかげに奇妙に隠されているが、依然として残っている。生来的に私たちは直接に愛するのは、やはり身内の者や同国人であって、人類愛は間接的なもの後天的なものにすぎない。両者のちがいは本性上のちがいであって、単なる程度の差ではない。人類へは回り道をしなければならない。キリスト教は人類を愛せよと呼びかけているのは、神を通して、神においてだけである。
 確かに、他人の生命、財産を尊重する義務は社会生活の基本だと思われる。そして、健全な宗教は、その義務に神聖な重みを与える。ところが、社会自体がこのような基本的な義務を停止するときもあるのではないかとベルグソン(『道徳と宗教の二源泉』)は指摘しています。裏切り、欺瞞はもとより、殺人や略奪でさえもゆるされるばかりでなく、何と手柄になる。これは、戦争の状態ですが、たとえば経済というのもきれいごとではすまない。企業どおしの競争においてもルールは停止されることがある。ですから、隣人愛や人類愛は、やはり「神のことばを聞いて行う者」が必要になってくるのです。

拙論、「神の存在を知る道」(6)、英知大学キリスト教文化研究所紀要、第16巻、2001年参照。






年間第25水
ルカ9・1-6


この箇所を読む時に少しとまどうことがあります。それはこの弟子達がどうして福音を宣べ伝える資格があるのだろうかということなのです。彼らはイエスの十字架を前にしてみなイエスを裏切り、そこから逃げた弟子達です。そういう弟子達に果たして福音というものが宣べ伝える資格があるのだろうかという疑問です。挫折を経験し、イエスの十字架と復活を知らされ、復活の主イエスにお会いし、聖霊を与えられた弟子たちならば、分かります。しかしこの時の弟子達はまだそういう挫折を経験してないのです。十字架という、福音のもっとも中心的な場に立っていない弟子達によって、どうして福音が宣べ伝えられるのだろうか。
これはいわば、教会生活の経験のまだ浅い、求道者によって福音の伝道がなされるということです。
 しかしイエスはそのことは十分承知していたのではないかと思います。マタイによる福音書では、弟子を派遣するときに、「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものだ。だからへびのように賢く、はとのように素直であれ」と言われているのです。イエスのほうでは弟子達の挫折は十分予測はしているのです。それでもあえてここで弟子達を、自分から離して弟子達だけを伝道に派遣しているのです。
福音を宣べ伝える人間はどうでもいいのかと言えばもちろんそんことはないことは明らかです。福音は宣べ伝える人間の資質とかその方法によって、福音がゆがめられてしまうということはいくらでもあります。ただ神のみを信頼して、この世のもの、お金とか、そういうものに頼って福音宣教するなと
いうことです。http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke29.htm
「下着は二枚持って行くな。」着の身着のままで行け。あとはすべて主にゆだねよ」。私たちも、今日、それぞれの家庭に、学校に、職場に派遣されています。私たちに働く悪霊はどのような霊でしょうか?私たちの癒すべき病気は何でしょうか?私たちが無力なことを神は御存知です。神が私たちを通して、その愛を表わされますように祈りましょう。


年間第25 木
ルカ9・7-9

イエスの到来の準備をした洗礼者ヨハネを不当な理由で殺してしまった領主ヘロデはこのイエスは洗礼者ヨハネのよみがえりだといううわさを聞いて、おびえたというのです(新共同訳では「戸惑った」となっていますが、ギリシア語のdiaporeoを参照)。領主ですから、その一帯ではもっとも権力をもっていた筈です。しかし彼は「ヨハネはわたしがすでに首を切ったのだが、こうしてうわさされているこの人はいったいだれなのだろう」と、おびえていた(diaporeo)というのです。彼は権力はもってはおりましたが、落ち着きがない、せっかくの権力を楽しめないということです。自分の犯した罪におびえていたのです。良心の声に、神の力に対抗する力はないのです。
私たちにもこの世の権力者を恐れる傾向があります。世間の評判を恐れ、人間関係において苦手な人の「力」を恐れたりします。けれども、権力のある人も人間ですから、それなりの弱み、悩みを持っています。いくら権力を持っていても、やはり神に勝てません。ですから、人間を恐れるよりも、神を畏れるべきだということを学んでおきたいと思います。

年間第25 金
ルカ9・18-22

ペトロは「神のメシア(キリスト)です」と告白しました。それに対してイエスはこの事は誰にもいうなと言われた後、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」と言われるのです。ペトロが「神のメシア(キリスト)です」と言ったのに対してイエスはご自分ののことを「神のキリスト」とは言わないで、「人の子は」と言っていることが大事なことなのだと、学者が指摘しております。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして、三日目によみがえる」とイエスは言われるのです。「わたしは確かに、神の、神から派遣されたキリストだ、救い主だ。しかしその神から派遣されたわたしは人間として、人間の罪を担って、ひとりの人間として、罪人のように辱めを受けて、十字架で殺されることになるのだ」と言われたのです。これはパンの奇跡を通して人々が期待していたメシアとは全く異なるメシアの姿です。それは弟子達が、ペトロが期待していたメシア像とも違うものだったのです。
ここにイエス様の弟子たちに対する教育の姿勢、つまり勘違いを乗り越えて粘り強く弟子達を導く姿勢を、見て取ることができます。私たちもこういう教育に預かりたいと思います。実を言うと、こうやって私たちは毎日みことばを聴くことによって、イエス様のこういうきめの細かい教育を受けているのです。今日は感謝したいと思います。


年間第25 土
ルカ9・43b-45


悪霊を追い出し、病人を癒されるイエスは「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と言われます。捕らえられ死刑になることの意味は弟子たちには分かりませんでいた。強いメシアを期待し、想像していたから怖くて質問もできませんでした。そして、イエスの死が、大切な息子を捧げる父なる神とイエスの愛のしるしであることも分かりませんでした。私たちのために命を捧げられたイエスの愛を心に深く刻むことが出来ますように。sese06
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今この瞬間にも、私たちの周りで、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」大きな政治権力のもとで、強い会社組織の中で、脆(もろ)い生活の場で、屠り場にひかれる羊のように。日常生活でも誰か犠牲者にされる場面は結構あります。「スケープゴート(身代わりの山羊)メカニズム」(R. Girard)が社会生活の基礎にあるといわれています。「十字架につけろ」と叫ぶ群集は、現実を知ろうとはせず、無関心を装(よそ)い、自分の殻だけを守りながら生きていく。イエスの言葉が理解できない弟子たちは、
わたしでもある。
主よ、「名ばかりの弟子」ではなく、あなたの言葉をよく聴くことができる弟子にしてください。
 

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