8 per annum

年間 第八月曜日
「永遠のいのちを受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」
マルコ10・17-27
 

 
「人が神の国に入るためには何をすればよいのであろうか。この青年はまじめな求道者だったが、いくつかの間違いも犯していた。その一つは永遠のいのちの理解であるが、彼は多分それを地上における祝福やこの世的ないのちとして考えていた。
また、「何をしたらよいでしょうか」という言い方で分るように、彼は自分の努力で永遠のいのちを受け継ぐことができると考えていた。彼が誠実に求道していたことを疑う余地はないが、
結局は神の国も自分自身も分っていなかったのである。自らの弱さを知らずに自分を過信していた。
今日でも同じような考え方は人々の間に根強く、宗教的な規律を守り、道徳的なことを行っていれば救われると考えている者は多い。しかし、努力や行いでは永久に神の国に到達できないことを私たちは認めざるを得ない。
イエスは、「よい(尊い)先生」という言い方をたしなめてから、モーセの十戒の後半を要約して示された。すると彼は、それらすべては小さい時から守っていますと即座に、また確信をもって答えた。今日でも、多くの人々が同じように答えるであろう。しかしそれはきわめて皮相的な確信でしかない。その中にひそむ自己中心的な考え方と実際の自分の弱さや罪には少しも気づいていないのである。(泉田)
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ザアカイが自分の財産の半分を貧しい人々に施しますと言った時、イエスは彼をほめられたのであるが、ここでは、持ち物をみな売り払って貧しい人に施しなさいと言われた。「みな」というのは数量的なことではなく、そのことに徹することを言っておられると思う。青年のしていることは、自分が損しない限りにおいてしているにすぎず、それではほんとうに律法を行っているのではないことを示されたのである。
弟子たちは、この話を聞いて驚いたが、イエスは「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」と言われた。たとえば、私たちもいやな人を半日や一日ぐらいは愛することができるかもしれないが、それはいつまでもつづくものであれば「どうしよう」と思うでしょう。それができなければ救われないとすれば、いったいだれに救われる資格があるだろうか。律法は人間では守り通すことはできない。しかし、神にはできる。それは神に念願すれば、愛を全うすることができるようになるということよりも、十字架をさしている言葉である。イエスの十字架のいさおしによって許されるという世界でしか、私たちは律法の成就を見ることはできないということである。(榎本)

年間 第八火曜日
「今この世で、百倍を受ける」
マルコ10・28-31



今日の福音書のイエス様の約束は、ある意味で「約束の地」の約束に似ています。かつて、選ばれた民は「約束の地」に入るために、まずエジプトから出なければならなかったように、キリストの約束にあずかる人たちは、兄弟、親、畑を捨てなければならないのです。これは人間という存在者の大原則、人間の常を示しています。ロナーガンのことばでいうと、「自己超越」(self-transcendence)です。つまり、人間はいつも自分を超えて、より高いものを求めなければならない。例えば、大人になるために子供を捨てなければならない。70歳になるために60歳をやめなければならないというふうに。福音は、他人との比較について何も述べていません。世間並みになるといっていません。
さて、私たちにも「約束の地」があります。またキリストの約束を受けました。私たちは過去からの教訓、過去においてしてもらった約束と、未来に対する約束、希望を持っています。この二つは現在においてどのように組み合わさるかを今日思いめぐらしていきたいと思います。

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ベトロの質問に現れる気持ちは弟子たち皆の気持ちだったでしょう。実際に、彼らはイエスについて行くために家族と共に生活することを断念していました。族するのに歩くしか方法のない時代でしたから、定期的に家族と会うことは不可能でしたし、電話することもなかったでしょう。一生そのような生活を営むには、彼らにとって相当の覚悟が必要であったと思う。この質問に対して、イエスの答えは希望を与えます。この世で百倍を約束します。イエスは来世について目を向ける前に、この世に、弟子の目を向けさせています。一人の兄弟から離れると百人の兄弟に出会えると言います。
現代でも同じことが言えます。信仰に入ることで多くの兄弟、姉妹を得て、困った時に一人で苦労する必要がありません。問題になるのは、教会(修道会)が兄弟(姉妹)的な人間関係になっているかどうか、です。(ステファニ)

年間 第八水曜日
「人の子は使えるために来た」
マルコ10・32-45

日本の歌には、「実るほど頭の下がる稲穂かな」、またことわざには、「実る は頭を垂れる」というのがあります。その意味は、「稲穂が実れば実るほど頭を低くさげることから」、「成熟した人間、すぐれた人間になればなるほど、謙虚になる」ということであると説明されています。
ところで、謙遜のきわみともいうべき行動を示した人がいます。彼は、自分が指導していた弟子たちの心のなかに高ぶり、すなわち他人よりすぐれているという誇りがあるのを見抜いて、弟子たちが度肝(どぎも)を抜くような方法で謙遜の必要性を示しました。ある時、彼は「夕食の席から立ちあがって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた」のです。
これを見た弟子たちは唖然となり、驚いた弟子の一人は、「あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」「わたしの足を決して洗わないで下さい」と言ったほどでした。
ヨハネ福音書でイエス・キリストは、「あなたがたはわたしを教師、または主と呼んでいる。そういうのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがもまた、互いに足を洗うべきである」(ヨハネ13・13-14)と言われました。(新名)
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「皆に仕える者になり、すべての人の僕になりなさい。」イエスは弟子達と同じように見当違いの望み願いや競争心をあらわにしている私に諭してくださいます。「人の子は仕えられるためでなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」と。こうおっしゃるイエスを前にして、どう答えればよいでしょうか。
この慈しみ深い神の愛を充分に味わうことができますように祈るしかないでしょう。
主よ、神からこの上なく大切にされている者同志である私達を互いに敬い仕え合う者としてください。sese07

年間 第八木曜日
「先生、目が見えるようになりたいのです」
マルコ10・46-52

「あなたに欠けているものが一つある。持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それによって自由となり、それからわたしについて来なさい。」これを聞いた若者は悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからだと。
若者の悲しみと物乞いの喜び、これは全く対照的だ。若者は、世の富に執着していたので、イエスについて行くことが出来なかった。バルティマイは、イエスに呼ばれた瞬間、すべてを捨て、イエスのもとに行った。
若者は、少年時代からモーセの律法を堅く守ったが、にもかかわらずイエスに従う勇気がなかった。バルティマイは違う。彼の心を動かしているのは律法ではなく信仰、神の愛を輝かしているイエスヘの信仰だ。だから、イエスは彼に「あなたの信仰があなたを救った。」と言って、誉めた。そしてイエスは盲人の目をいやしたと同時に、心の目を救いのメッセージに開いた。
さて、バルティマイと同じような信仰と信頼を持ってイエスに向かって叫ぶなら、きっとイエスはわたしたちを顧みてくださる。わたしたちは、ぬくぬくとした上着を脱ぎ捨て、躍り上がって、イエスのもとに行こう。そうすれば、思いがけないすばらしい姿でイエスを見いだし、生きるための光を与えられるでしょう。(ジラール)
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イエスはある時、「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知である。」と言われたのです。だから、くどくどと祈るな、と言われたのであります。イエスほどの人ならば、自分の目の前に盲人が来て、「わたしをあわれんでください」と叫んでいるのですから、その人が何を求めているかくらいは、すぐわかった筈です。しかし、イエスは「わたしに何をしてほしいのか、お前はわたしに何を求めているのか」と聞いているのです。

そしてわれわれも、イエスに「お前はわたしに何を求めているのか」と改めて問われるという事は、大変大事なことではないかと思います。
われわれはイエスから改めてそのように聞かれた時、その時にわれわれもイエスに自分が何を求めなくてはならないのか、何を求めていいのかという事に気づかせられるからであります。
一流の大学を目ざし、一流の企業に就職したいと願っているかもしれないけれど、それが本当にお前が求めている事なのかと問われてくると言う事です。

彼は道ばたで物乞いをしていたというのですから、イエスにお金を恵んでくださいと頼んでもいいのですが、彼はそんな事をイエスに求めたのではありません。
イエスは「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われるのです。本当はイエスがその人の目をいやしているので、その人の信仰なんかではないのです。その人の念力とか、信仰的な修業とかではなく、その人のそうした信仰ではなく、イエスがその人の目をいやしているのです。それなのにイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というのです。それはイエスがわれわれに対して、どんなに信仰を求めておられかという事であります。

それではそれはどんな信仰かと言えば、それは盲人の人がただ「見えるようになる事です」と求めた、ただそれだけの信仰なのです。たったそれだけの信仰なのです。イエスが、神様が、われわれに求めておられる信仰はそういう信仰なのであります。

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「彼は再び見えるようになり、その道を進んで行くイエスに従った」52節b。この言葉によって、8章27節から始まる「受難に向かうイエスの道」シリーズをマルコは締め括っています。その道の最後に、この盲人の開眼物語を配置したのはマルコでした。彼は、その道シリーズの直前にも、ベッサイダの盲人の開眼物語(8章22~26節)を配置しました。マルコは、ベッサイダの盲人の開眼物語によって、第1部「ガリラヤ内外でのイエスの活動」を閉じ、今また、バルテマイの開眼物語によって、第2部「受難へ向かうイエス」にピリオドを打ちました。「マルコがこの出来事を取り上げた時、彼はそこに存在する象徴的な意味を知っていたものと思われる。即ち、肉体の視力の回復は精神的な洞察力の創造であるということを。しかし彼は52節bを加えることによって新しい象徴的意味を導入した。"見る"ということは、イエスと共に十字架の道を行くことである。強調点はもはや信仰を見出した弟子に置かれているのではなく、イエスに従ってイエスの道を行く弟子に置かれている。即ち、主題は弟子の道であり、その弟子の道は、苦難の道である」(E・ベスト)
エリコの乞食、盲目のバルテマイは、イエスに目を開けて戴いて、イエスに従ってその道を進みました。マルコはそう書き記すことによって、彼の福音書の読者にも、バルテマイと同様に、イエスに従って十字架の道を歩くように勧めているのです。

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イエス様は、ある時、ファリサイ派の人々を「盲人の道案内をする盲人だ」(マタ15:14)と言って批判したことがありました。ファリサイ派の人々は、自分が盲目であるとは思いも寄らなかった。しかし愛そのものであるイエス様という光から見れば、ファリサイ派の人々は実は、神様の深い愛と希望に欠けるという点で、盲目でした。
イエスはイスラエルの指導者たちに見えなかったもの、神のみ旨がはっきり見えた人でした。しかし目に見えるものであっても、周りが目の見えないものばかりである時には、目の見えるものというよりは、異常な人とみなされます。そのために迫害され、苦しみを体験しました。
闇を照らす光を、光であるがゆえに拒んでいる。そういうものになっていないでしょうか。光より闇を好む。そういう人間になっていないでしょうか。
日本では「百聞は一見にしかず」と言います。しかし目が見えれば、それで本当に正しいことが見える、分かるというわけではありません。見えるからこそ罪を犯す、ということもなかったでしょうか。ほんとうに大切なもの。真理であり光である神様をしっかり見すえているか。
バルティマイと同じように、私たちこそ叫びましょう。「私は何も見えていない人間です。自分の罪も、傲慢さも、何も。そんな私を憐れんでください。私は自分を知りたい。そして本当に大切なものを見つめていきたい」。
眠りからさめ、信仰に目覚め、光そのものであるイエス様と共に、光の中を歩みましょう。そのために回心の恵みを願いましょう。Moseos


年間 第八金曜日
「祈り求めるものは、すべてかなえられる」
マルコ11・11-26

 

「念ずれば花は咲く」というフレーズは、一般的には「信じれば奇跡は起こる」「心の力で望むことは実現する」という意味合いで使用されます。この表現は、思考や信念の力が現実を形作ることを強調しています。
このフレーズは、ポジティブな思考や信念の力が、人々の行動や結果に影響を与えることを示唆しています。ポジティブな思考や信念を持つことで、自信ややる気を高め、困難に立ち向かったり、目標を達成したりする力が生まれるという考え方です。
ただし、このフレーズはあくまでメタファー的な表現であり、現実世界の事象や結果を単純に思考だけで変えることを意味するわけではありません。努力や計画、適切な行動も必要ですが、ポジティブな思考や信念はそのサポートとなることができるのです。
要するに、「念じることによって、肯定的な思考や信念を持つことが重要であり、それが行動や結果に影響を与える」という意味合いで「念ずれば花は咲く」というフレーズが用いられることがあります。(ChatGPT)

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エレミヤ書8章には、「わたしは彼らを、刈り入れたい。・・・しかし・・・いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。(13)」とあります。また、ホセア書9章には、「わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖を、いちじくの初なりの実のように見ていた。(10)」とあります。したがって、イスラエルは、実が結ばれるために、神の祝福と聖さが現われ出るために、神に選ばれました。しかし、イエスがご覧になられたのは、葉は生い茂っているけれども、実を結ばせない木だったのです。口や頭では神を信じているかもしれないけど、実質をともなっていないイスラエルの姿を表していました。
このことが、クリスチャンの場合にも当てはまります。イエスは言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。(ヨハネ15:5-6)」私たちは、実を結ばせるために召されたのです。私たちは、商売、金儲け、権力争いではなく、「すべての国の人の祈りの家」、つまり福音宣教に実を結ぶように召されています。
このように、神を信じることはとても大切になります。祈りの中で神を信じ、その生きた交わりに入ると、私たちのうちから実が結ばれます。イエスは、エルサレムの中にその実を見たいと願いましたが、見ることができませんでした。彼らは、預言のみことばに心が閉ざされていただけでなく、生きた信仰を持っていませんでした。
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いちじくの木は昔からイスラエルを象徴する木であり、イエスのことばはエルサレムに対する警告であった。エルサレムは、葉は茂っていても実がなっていないいちじくの木のように、外面的には栄えていたが霊的には衰えていた。すばらしい大神殿、巨大な宗教勢力を有し、儀式が盛んに行われていたエルサレムであったが、神への真実の信仰、貧しい人々への配慮には欠けていたのである。
翌日、イエスと弟子たちが通りがかりに例のいちじくの木を見ると、何と根まで枯れていた。根まで枯れていたとは徹底的に完全に枯れていたことを意味している。この出来事は弟子たちに大きなショックを与えたようで、マルコはペテロのことばで彼らの驚きを代弁している(21)。
ペテロは、昨日のイエスのことばの力とそののろいの意味の重大さを感じ、大きな不安に駆られたのであろう。彼は「あなたののろわれた」ということばで、このいちじくの木に神ののろいとさばきが及んだことをはっきりと感じ取っていた。枯れたいちじくは、まさに信仰的に不毛なエルサレムに対する神のさばきを象徴するものであった。
イエスはペテロのことばに答えて真実な信仰と祈りの力について教えているが、これこそがエルサレムの宗教的指導者たちに欠けていたものである。私たちも壮大な教会聖堂を持ち荘厳な礼拝を守って、行きどいた組織、さまざまな評議会、委員会、無数の会議をしていても、社会に尊敬されるものをたくさんもっていても、もし真実の信仰と祈りの力に欠けているならば、結局神のさばきを受けて枯れてしまうのである。この点に関しては油断は禁物である。(泉田)
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いちじくの木は昔からイスラエルを象徴する木であり、イエスのことばはエルサレムに対する警告であった。実のないいちじくの木に対する呪いは、商売の家になりはてた神殿に対する呪いを表しています。イエスは呪いを用いて、イスラエルの回心を呼びかけます。
「山を移すほどの信仰」ということばは、パウロの愛の賛歌にもありますが(Ⅰコリント13・2)、信仰があっても、愛がなければ無にひとしいという意味で用いています。
マルコでは、神が信仰者の祈りに答えて山を動かし、すべてをかなえ(マルコ9・23)、人は、神が行うことをもすることができます(マルコ17・20)。わたしたちは、そのことばを取り引きの条件のように単純に思い込んでしまいます。信じるなら、なんでも聞き入れてくれる。だから信じようと。信じたから山を移すことができるのではありません。山を移すのは、信仰の結果ではなく、信仰の深さを表しているのです。(荒)


年間 第八土曜日
「なんの権威をもってそういうことをするのか」
マルコ11・27-33

新しいことをしようとすると、反対が起こり、その分野の権威者から非難されます。祭司長は祭儀について、律法学者は聖書の教えについて、長老は管理について権威者だと思っています。ところが預言者は伝統的な権威によらず、神のことばに促されて、革命的なことばを語り、民衆の心を捉えます。イエスも予言者のように語ります。
イエスは自分の権威がなにに基づくか述べるかわりに、天からのものを、天からのものとして認めるかどうか、根本的な態度について問い返し、かれらの偽善を明らかにします。
神からのものを、神からのものとして認めず、神を第一とする信仰がないなら、神殿は枯れたいちしくの木のようになります。

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