6 easter

復活節第6月曜日
ヨハネ15:26-16:4a

「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」(2~3節)。
非常に今日的な言葉ではないでしょうか。戦争をしかけたアメリカもそうですが、それ以前にテロでもって世界を変えようとする過激派も「自分は神に奉仕している」と考えているのかも知れません。しかしそれももちろん、神様の御心を知らないと言わなければならないでしょう。

真理の霊
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(26節)。最後に、聖霊について触れられています。この聖霊こそが、まことの弁護者であり、私たちがいかなる状態にあって
も、励まし、力づけてくださいます。また間違いをおかしていたら、ただしてくださるでしょう。
パウロは、「"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8:26)と言いました。
そういう風に「聖霊が私たちを導いてくださる。イエス・キリストと一つにしてくださる」という信仰を持って、自分を謙虚に見つめながら、苦しみにあう時には、イエス様の姿を思い起こしながら、苦難に打ち勝っていきたいと思います。

罪、義、裁き
「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(8節)。今、罪とはこういう風に考えられている。義とはこういう風に考えられている。裁きとは、こういう風に考えられている。しかしそれらは全部誤っている。聖霊が、この三つについて、その正しい理解を与えてくれると、おっしゃいました。しかしその後のイエス・キリストの説明は、なかなかわかりにくいものではないでしょうか。

「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」(9~11節)。
一般的に罪とは、旧約聖書の律法に違反することと考えられていましたが、この時イエス・キリストは、イエス・キリストを信じないこと、それが最大の罪であると言われたのです。これは、逆に言えば、イエス・キリストを信じることによって、他のすべての罪から解放される、その一点に集中し
ているということです。それを信じないならば、どんなに自分を正しく神様の方へ持っていこうとしても、罪は残ると言おうとされたのでしょう。
わかりにくいのは、二番目の義についてです。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」。義というのは、聖書の中で最もわかりにくい言葉のひとつでしょう。本来的には、「正しさ」、「神様との正しい関係」をあらわす言葉です。旧約聖書では
、人はそれを、律法を守ることによって示すとされていました。しかし、どんな人間であっても、それを完全に示すことはできないので、矛盾に陥ってしまいます。イエス・キリストは、それとは違った道を示されました。イエス・キリストが十字架と復活を経て父なる神様のもとへ行って、一体とな
られる時にはじめて、私たちと神様の関係が正しい関係と認められる、「義」が成立するということを言おうとされているのではないでしょうか。
三番目、「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」。イエス・キリストの時代、そしてヨハネ福音書が書かれた時代にも、クリスチャンたちは、迫害の最中にありました。あたかもこの世の支配者であるかのようにふるまっている人たちがいました。しかしそれらすべては本当
の支配者ではなくて、神様が本当の支配者であることが明らかになる時が来ると言おうとされたのではないかと思います。
聖霊には二つの働きがあるということを申し上げました。一つはイエス・キリストのことを思い起こさせてくれるということ、そこから離れて行ってしまわない。しかしながら、それでいて過去のものになってしまわない。「いつも新しくイエス様の言葉がよみがえってくるという形で、私たちに何をすべきかを教えてくれる」。それが聖霊であろうと思います。今日のところでもそれと同じことが示されているのではないでしょうか。

復活節第6火曜日
ヨハネ16:5-11 

 

 

#恵みについて

 私が本当のキリスト教と出会ったのは、高校生の時でした。宗教の授業で、マスール(シスター)が、「キリスト教は、ご利益宗教ではないのです。病気でつらい時、一般には神様、どうか病気を治してくださいと祈りますが、私たちはその苦しみに耐えられる強さをお与えください、と、祈ります。」と。

 これは驚きでした。それまで、商売繁盛、家内安全、無病息災などを願う祈りしか知りませんでしたから。自分にとってつらいこと、世間的にマイナスのことが、実は大きなお恵みなのだと知るには、多くの年月を要しました。が、今は少しだけ理解しています。

 ロザリオの祈りへの導きは、人間関係のつらさからでした。心の中の怒りや汚いもやもやを背負いかね、昔のロザリオを持って近所の山のルルドに行き、マリア様につらさを訴えながらうろ覚えの天使祝詞(アヴェマリア)を唱えました。そしてそこで大きな癒しをいただいたのでした。これが大きな一歩となりました。

私は先天的な骨格形成不全のため、50代で大きな手術を受けるまで、脚に痛みを抱えていました。そのことですら、実は大きなお恵みだったことに、今気づいています。この歳で、痛みがなく歩ける幸せ!山のルルドにお参りをすることが、何と楽しいことか! 

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肉体をもったイエス・キリストと、共に過ごすことが許された弟子たちは、とても幸運であったと思いますが、その時イエス・キリストは、時間と空間の制限を受けて、ある特定の場所におられたわけです。ですから逆に言えば、肉体をもったイエス・キリストが去って行かれるからこそ、肉体に束縛
されない聖霊(弁護者)として、いつでもどこでも、どの弟子に対しても、共にいてくださることが可能になる。イエス様はそのことを、弟子たちに、告げようとされたのです。

聖霊には二つの働きがある。一つはイエス・キリストのことを思い起こさせてくれるということ、そこから離れて行ってしまわないように。しかしながら、同時にそれでいて過去のものになってしまわないように。「いつも新しくイエス様の言葉がよみがえってくるという形で、私たちに何をすべきかを教えてくれる」。それが聖霊であろうと思います。今日のところでもそれと同じことが示されているのではないでしょうか。
イエス・キリストが十字架と復活を経て父なる神様のもとへ行って、一体となられる時にはじめて、私たちと神様の関係が正しい関係と認められる、「義」が成立するということを言おうとされているのではないでしょうか。
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この祭壇とこの朗読台はここで何十年存在してきた。朝昼晩ずっと向かい合っている。けれども、互いに意識し合っていないので、その関係から何も生まれない。外の庭には同じ種類の木二本たっている。何十年も一緒に生きてきた。枝も触れ合っています。互いに意識し合っているかどうか、分かりません。もしかしたら、雄と雌でそれで実を結ばせているかもしれない。隣の民家には人が住んでいます。顔見知りでしょう。ある程度意識し合っているかもしれないが、それほど深い付き合いになっていないかもしれない。
さまざまな存在の仕方がある。無意識的に向かい合っている関係もあれば、意識し合って、愛し合っている関係もある。息子はオーストラリアにいても、日本に住んでいる母親の心にはいつも彼の居場所がある。遠いからかげはちょっと薄いが、電話一本ですぐに大きな存在になります。
イエス・キリストはいつも我々と一緒におられると約束しました。その存在の仕方はどのようになっているのか、今日はこれについて考えて黙想しましょう。
"Ci sono molti modi di essere presenti. Se due alberi si trovano l'uno vicino all'altro, sono presenti l'uno all'altro, ma in un senso del tutto esteriore ed imperfetto. Non sanno nulla l'uno dell'altro, non si preoccupano l'uno dell'altro e, nonostante la loro vicinanza, rimangono estranei l'uno all'altro.
La presenza nel vero senso della parola comincia solo nel momento in cui due esseri si conoscono spiritualmente e si mettono l'uno di fronte all'altro consapevolmente. Ciò permette loro di avere interiormente una sorta di immagine l'uno dell'altro, per cui l'altro ha, per così dire, una seconda esistenza in colui con il quale è in rapporto. E se una presenza di questo genere è mantenuta nella maggior parte delle persone che si incontrano, essa può diventare una realtà potente in chi ci conosce e ci ama. L'immagine dell'altro che ognuno porta in sé è, per così dire, carica di realtà. Anche la solitudine può essere piena della presenza dell'altro" (Balthasar).



復活節第6水曜日

ヨハネ16:12-15

 

 思えば、お恵みはあちらにもこちらにも。日常の暮らしの中で。仕事の場で。

昨年は、趣味のスケートにのめり込んで優先順位がめちゃくちゃになっていた時、小さな怪我をし、しばらくスケートができなくなりました。それについて、いろいろな考え方ができるでしょう。以前の私なら、ああ、しくじった、損した、とだけ思ったことでしょう。また、信仰的に見れば、趣味を優先した私を、神が罰したという見方も出来るかもしれません。でも、私はこう考えています。執着から逃れられずに苦しむ私を、神が解放してくださったのだと。実際、この時はどんなにホッとしたことでしょう。

神父様の言葉 「なんでも、その人がお恵みだと思った時に、それは本当のお恵みになるのです」………きっと、その通りなのだと思います。  さて、写真は、山のルルドの帰り道のものです。木々の枝が重なって、十字架のように見えるのは偶然なのか。私は、山のお参りを励ましてくださる神様のサインと思って、単純に喜んでいます。 お恵みに感謝  エリザベト 追記〜〜本当につらい時には、自分についても癒しを願いますね。また、他の人の病気や怪我については、もちろん、痛み、苦しみの軽減と、治癒を祈ります。(重要ポイント)

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キリストは弟子たちに慰めと励ましを与えつつ、ご自分は去って行こうとされます。長い、長い説教でありますが、「いくら言葉を尽くしても、あなたたちは今理解することはできないだろう」と言いながら、言葉を置いていかれました。この時弟子たちは、まだ不十分な理解のまま、これらの言葉を
あたためていったのでしょう。そして十字架と復活の後に、「ああイエス様がおっしゃったのは、こういうことだったのか」と、新しく聖霊に教えられていったのではないかと思います。
そのことは今日の私たちにもあてはまることであります。聖書の言葉は、学問と関係なく、私たちの心にすっとはいってくる面もありますが、同時に、なかなかわかりにくい奥深いものでもあります。
今日は、何でも早分かりの時代、インスタントの時代です。本でも「何々のすべて」とか「何々の早分かり」というような類のものがもてはやされます。み言葉は、いかにもそうした時代にそぐわないものであるかも知れません。しかし、本物というのは、そう簡単なものではないと思います。簡単
なものはそれだけ薄っぺらいものです。「わかった」と思った途端に、私たちを通り過ぎていく。しかしそうしたものと違って、深い味わいがあり、私たちを根底から生かしてくれるもの、それがみ言葉です。そうした思いで、この聖書に取り組んでいきたい、そのようにして自分の信仰を深めていき
たいと思います。
なぜこういう目にあわなければならないのか理解できない。そうした思いをもつこともきっとあるでしょう。そうした中にあって、私たちは、聖書が約束している終わりの日には、喜びが待っている。宴が待っている。その事柄に目を向けながら、今を生き抜いていく力を得たいと思います。
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6. 日本人の「道」の思想
内田樹氏の『日本辺境論』(新潮新書)を読んでいて、日本人の「道」についての面白い論述があった。日本人はどんな技術も「道」にしてしまう。柔道、剣道、茶道、華道、香道。この何でも道にしてしまう思想の本質は何か。要するに、道の思想とは、この道の果てに「完全」があるという思想で、今はわたしは「道の途中」にあるという現状認識である。「日暮れて道遠し」とか、「学ならぬままで死んでも、悔いなし」という価値意識である。この場合重要なことは「道上にいる」ということ、「途上」とか「途中」ということで、これからのことはよく分からないし、先の方は見通しがついていないが、とにかく一歩づつ進めば、完成にに至るという信念である。その信念さえあれば、現在の自分がいかに未完でも、未熟でも、あるいは先のことが理解できなくても正当化できる。この道の思想は師弟関係において具体化される。弟子は師に勝らない。弟子が不出来でも師は完全である。わたしにはわからないことがたくさんあるが、先生はすべてを理解している。
ここで論じられている道の思想は聖霊論と重なる。師はもちろんイエス・キリストである。わたしたちはイエス・キリストを目標として生きているが、キリストのことを理解している訳ではない。そこに到達する道が「霊の導き」である。霊に導かれて一歩一歩進めが、たとえ牛歩のような歩みでも、必ずいつかはイエス・キリストに到達できる。たとえ、到達できないで死んでも、悔いはない。重要なことはその道の上にいるかどうかということである。

復活節第6木曜日

ヨハネ16:16-20


イエス・キリストの弟子たちへの別れの言葉が続いています。イエス・キリストは、とにかく弟子たちに慰めと励ましの言葉を残そうとしておられるのがよくわかります。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16節)。弟子たちは、イエス・キリストの言葉と態度に、何かしら、いつもと違うただならぬものを感じ取っています。はりつめた空気が漂っています。しかし、その言葉の真意を悟ることができません。
この時になっても、まだイエス・キリストが明くる日に十字架にかかって死ぬことになるということを、誰も信じることができなかったのでありましょう。
この時、弟子たちは不安と恐れのただ中にありました。まだ悲しみはそれほど感じていないかも知れません。主イエスがまだ目の前におられる訳ですから。しかし、主イエスは彼らの悲しみを先取りして、しかもその悲しみは一時的なものだと言って慰め、その先には喜びが待っていると告げられるのです。
弟子たちにとって、主イエスと一緒に過ごした「しばらく」の間は、あっという間に過ぎたでしょうが、その後の悲嘆にくれる「しばらく」の間は、とても長く感じたことでしょう。しかしそれもずっと続くわけではない。この「しばらく」の間は、あなたがたを苦しめる者が勝ち誇ったように喜ぶことになるが、それはやがて過ぎ去る、やがて覆(くつがえ)されることになる。そういう風に、イエス様はおっしゃったのです。
この最初の「しばらくすると」の後は、イエス・キリストの受難、十字架の死を指していると思いますが、その次に「喜びに変わる」時とは、復活を指していると読むこともできますし、「聖霊降臨」を指している、と読むこともできるでしょう。
ヨハネ福音書は、ルカのようにはっきりと復活の40日後に聖霊降臨という出来事があったという書き方をしておりません。復活と聖霊降臨が同時的です。復活のイエス・キリストが弟子たちの家を訪れ、(鍵がかかっているのに、ドアをすり抜けて)、そして息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」と言われるのです(ヨハネ20:22)。



復活節第6金曜日

ヨハネ16:20-23a

昨日の新聞にシスター渡辺和子の書籍は、5万部を突破したということで、広告が載っていました。タイトルは面白い、『置かれた場所で咲きなさい』。なるほど、セメントの隙間、アスファルト固めた道路の穴からきれいな花が咲いたりします。私たちは必ずしも好ましい状況に置かれていると限らない。けれども、どこでも咲くことができる、と。
今日のヨハネ福音書に、弟子にお別れを告げるイエスのことばがあります。そのことばに本当に深い意味が込められていると思いますが、こういう側面もあるのではないかと思います。
「闇の中に置かれたがゆえに、それまで知らなかったさまざまの「明るさ」のありがたさが分かるのです。それこそ、「当たり前が輝いて」見えるのです。
「踏まれても踏まれてもなお咲くタンポポの笑顔かな」(俳句、作者不詳)。
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「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(22~23節)。それは復活と聖霊降臨の日に起こったことであると言えますが、現代の私たちにしてみれば、今もイエス・キリス
トは見える形ではおられません。分かる人にだけ分かる、目に見えない形で臨在してくださっています。しかし「その日」にはすべての人の目に明らかなように、謎が解けるような形で一緒にいてくださる。23節を見ますと、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」とあります
。なぜ尋ねないのか。もうあきらめたのか。そうではありません。すべての疑問が解けるのです。イエス様と顔と顔を合わせて一体となるような世界が実現するということを言おうとしているのではないでしょうか。

私たちを悲しませる最たるものは、やはり死でありましょう。死によって、私たちは愛する人と無理やり引き裂かれる経験をします。しかし、その死さえも永久に滅ぼしてくださる、と言われるのです。
聖書を読んでいるとわからないことがたくさん出てきます。内容が難しくて理解できないということもありますし、内容はわかるけれども、今の自分には受け入れることができない、というものもあるでしょう。
なぜこういう目にあわなければならないのか理解できない。そうした思いをもつこともきっとあるでしょう。そうした中にあって、私たちは、聖書が約束している終わりの日には、喜びが待っている。宴が待っている。その事柄に目を向けながら、今を生き抜いていく力を得たいと思います。

あなたがたは苦しむだろう。しかしそれは産みの苦しみと同じもので、苦しみを経て新しいいのちが誕生するのであり、その誕生の喜びのためにこの苦しみはすっかり忘れ去られる、そういった苦しみのだよ、と。だから苦しむだろうけれど、絶望してはいけない。新しい命が生み出されたとき、悲しみ、苦しんでいたあなた方は、きっと心から喜ぶことになる、その喜びはどんなことをしても、あなたがたから奪い去ることはできない。疑問を持ったり、不安に駆られたりするのはしばらくの間ですよ。


復活節第6土曜日

ヨハネ16:23b-28

この時、イエス・キリストは、まだ肉体をもった形で、弟子たちと共におられました。しかし去っていかれた後、「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」と言われているのです。ですから私たちは、今まさに、「その日には」という時を生きているということになるでしょう。
私たちは、「主キリストによって」、「イエス・キリストの御名によって祈ります」という祈りの形式をもっています。教会へ初めてやって来て、どうやって祈ったらいいかわからない、という中で、私たちはそうした祈りの枠組み、呼びかけとこの締めくくりの言葉を学ぶのです。「イエス・キリ
ストの名によって祈ります」という時に、イエス・キリストが確実に父なる神様のもとに届けてくださるという風に、私たちは理解しています。


「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」(25節)。ヨハネ福音書の中で、たとえと言いますと、「わたしはよい羊飼いである」とか「わしはまことのぶどうの木である」とかを思い起こしますが、そういうさまざまな言いかえをなしながら、ご自分が誰であるかということを示されてきました。しかしもう今はたとえには頼らない。今ここで、十字架への道を歩み始めようとする。まさにその行為、歴史的な行為を通して、自分が何をするために来たかを示されるということです。十字架は単なるたとえではない。神からの人類に対する直接な語りかけです。

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