16 per annum

年間 第十六月曜日
「ヨナのしるし以外は与えられない」
マタイ12・38-42


人はいつの時代でも、しるしや奇跡を求めます。「奇跡を見せれば信じてやる」と。これは本当でしょうか。本当に奇跡を見れば人は信しるのでしょうか。じつは奇跡から信仰に至るのは、めったにないことなのです。聖書の中でも、奇跡を見て信じた人は非常に少ないのです。むしろ奇跡を見る前に信じた、信じたから奇跡が起こった、と言うのは一般的です。人は奇跡を素直に認めるかというと、そうでもないのです。何かと合理的に解釈しようとするからです。そして合理的に説明できるなら、それを奇跡だとは思いません。じつは合理的説明の付かない現実、不可思議なしるしがあることに普通人々は気づかないのです。むしろ、あたりまえのことだと思ってしまうのです。
「しるしを欲しがる」ということは、自分の考えどおりになるように求めることでしよう。だからこそ、求めたら、欲しがるなら奇跡は絶対に与えられないのです。求めなくなった時に、しるしは見えてくるものなのです。自分の狭い要求を捨てた時、ありのままの奇跡が見えてくるのです。(静)

年間 第十六火曜日
「ここに私の母、私の兄弟がいる」
マタイ12・46-50


母、兄弟は血のつながりで結ばれています。イエスも母マリアや親戚と同じ血で結ばれ、同じ家族、親族、階級、メンタリティによって共通の文化遺産を受け継いでいます。しかし神の国では、同じ血によってではなく、同じ信仰によって、天の父の子らが兄弟として結ばれます。自然的な血縁関係によってではなく、父の子イエスの血によって兄弟の契りが結ばれ、父と子らとの関係が結ばれます。イエスのことばは剣のように父母兄弟をわけます(マタイ10・35-36)。主イエスと弟子の関係は、上下関係から(マタイ10・24)、兄弟同士の横の関係になります。天の父はわたしたちに聖母マリアを母として、イエスを兄弟として、すべての人を兄弟姉妹として与え、同じ神の愛の共同体に招き入れます。教会はこの神秘を「聖徒の交わり」ということばで表しまします。信仰による交わりは、自然的な関係よりも強く、もっと時間にたえて、永遠につながるのです。(荒)
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考えて見れば、兄弟姉妹、親など、血の繋がりがあっても、とても悪い関係に生きる人が少ないのです。自分の野心や欲望を優先して自分の子供に対する責任を怠ったり、または子供を虐待したりする親がいたら、自分の両親を敬わずに、ただの色々な援助や資金の源としてしか見ない子供も沢山います。家族の中で色々な問題が世代から世代へと伝わることも珍しくありません。
血族関係が大切であっても、何よりも大事なのは、神との関係であるということを教えています。神は、わたしたちの幸福を妬ネタむ恋がたきではなく、すべての人が互いに愛し合うことを求めておられる天の父であり、愛の源です。ですから、神との関係を何よりも大切にするということは、他の人間関係を犠牲にするということではなく、神から真の愛を頂くことによって血族関係を含め、あらゆる人間関係を癒すということなのです。

●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ書49:15)。


子どもは成長する中で「親離れ」をしなければなりません。関係をいったん断ち切って、別な形で親と子が出会う必要があると心理学者たちは言います。自立できない人は「マザコン」、「ファザコン」と言われます。今日の福音書を見ますと、イエス様はちゃんと親離れができていたと言えます。この観点から解釈できると思います。
子どもが成長して、自分の生き方を確立するようになり、一人前の人間として親を愛するようになるとき、家族は新たな絆を生き始めることになります。家族の絆よりももっと大切なものを見つけたときに、本当に家族を愛せるようになる、ということもあるのではないでしょうか。
人間にとって家族ほど大事な人間関係はないと言われますが、それを正しく位置づけるために、いったんそれを相対化しなければなりません。家族より大切なもの、つまり神様の観点から位置づける必要があります。



年間 第十六水曜日
「ある種は道端に落ちた」
マタイ13・1-9


種は、芽を出して実を結ぶ可能性を秘めたものです。しかしその可能性は、種の中で眠っています。ある条件が整うまで、つまり芽を出して、きちんと育つための条件がそろうまで、種は眠り続けます。時として、何千年も眠り続ける種もあります。
聖書は二千年も前に書かれたものであると、昔話のように言う人がある。確かに聖書は二千年前のものである。だから、聖書をそのまま信じていくということが最も正しい読み方とは言えないと思います。二千年という時間や、日本と.ハレスチナという空間的な隔たりがあるのに、いまここで起きていることのように聖書を読んでいくことは、私たちの都合で曲げてしまうことになると思います。そういう意味では、聖書は確かに二千年前のもので、かびも生え、しわもあると思います。しかし問題はそこに生命があるかどうかということである。
種に命がなければ、水をやっても、肥料を施しても、そこからは何も成長してこない。
イエスが天国を語られるのに、種というものを繰り返し語られたのは、御言葉には命があるのだということであり、このことをしっかり覚えたいと思う。聖書の言葉には命がある。私たちがそれをしっかり受けとめていったならば、[御言には、あなたがたの魂を救う力がある」(ヤコブ1・21)という言葉があるように、私たちの生活を変えてしまうような力をもっているのです。(榎本)
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3万年前の氷河期に自生していたナデシコ科の花を咲かせることに、ロシアのチームが成功した。シベリアの永久凍土に埋まっていた植物の化石の一部を培養して育てた。古代から現代によみがえらせた最古の植物になるという。 古代の植物を現代に復元させた例は、数千年前の縄文時代の古代ハスなどがある。

化石は、地下38メートルに埋まっていた。氷河期のリスがエサをためていた巣穴から見つかった。状態が良い化石を選んで、めしべの組織の一部を採取、培養して育てたところ、1年後に白い花が咲いた。

シベリアの永久凍土で見つかった約3万年前の植物の実から種を取り出し、花を咲かせることにロシアの研究チームが成功し20日、米科学アカデミー紀要に発表した。絶滅した植物の再生や新たな生物資源としての利用が期待できるという。

開花したのはナデシコ科の「スガワラビランジ」。チームは北東シベリアの川岸にある永久凍土を調査し、リスが食料貯蔵用に開けたとみられる穴からスガワラビランジの実を発見。付近の年間平均気温は氷点下7度で、凍った状態で保存されていたとみられる。実に含まれる放射性炭素による年代測定法で約3万年前のものと判明した。(朝日新聞 2012年2月22日朝刊)


年間 第十六木曜日
「見ても見えず、聞いても聞えない」
マタイ13・10-17

イエス様は、神の国のことをたとえ話で教えました。たとえ話は、真理をわかりやすくするために使われます。しかし、わかりやすくすると同時に、真理を隠すためにも使われるのです。理解しようとする人に神の国の秘義(秘密)をあかし、攻撃しようとする人の目から隠すためなのです。
たとえ話は、話し手であるイエス様の立場に立ってみると、真理が見えてきます。しかし私たちの側に立って考えると、秘義が隠れてしまうのです。イエス様を知る人は、たとえ話の意味を理解します。イエス様をまず愛する人が、たとえ話の探い意味を知り、悟り、種々の教えを学ぶのです。自分を中心に、つまりこちら側の人間を中心に考える限り、たとえ話は障害になります。神中心に考えてみる時、そのたとえ話のみごとさがよく見えてくるのです。
たとえ話を理解するか理解しないかは、イエス様を信じているのか、それとも自分自身だけを愛しているのかを示す、はかりの一つなのです。(静)

年間 第十六金曜日
「あるものは百億、あるものは六十倖、あるものは三十倍」
マタイ13・18-23


どうしてイエス様は百倍、六十倍、三十倍とだんだん数を減らしたのでしょう。普通、私たち人間の数え方なら、三十倍、六十倍、百倍もの実を結ぶ、と話すのではないでしょうか。少ないほうからだんだん多い方へいき、ついに完全な百倍の実を結ぶとしたほうが、私たちにとってはわかりやすく、感動的ではないでしょうか。低いところから努力して、だんだん完璧になっていく方が、完全なものから不完全なものにいくよりは、ずっと教育的なのです。ではなぜイエス様は、それをわざわざ反対にしたのでしょうか。
おそらくはその道徳的・教訓的なにおいを消すためだったのかもしれません。低いところから努力して高いところを目指すとなると、もうこれは努力主義になってしまいます。他人と比較して、その実りの多少を計算することになります。そして多く実を結んだ人は立派で、そうでない人は劣(おと)った人になってしまうのです。人の目から見たら確かに、三十倍実を結んだ人より、百倍結んだ人のほうがずっと立派とみなされるでしょう。しかし信仰的に神の目から見たら、結果ではないことも確かなのです。人は結果を問いますが、神はむしろ結果より、人の心をごらんになります。だとすると、イエス様の目は私たち人間とは違って、神の価値観を示しているのです。(静)
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この「種」とは、御国の言葉、すなわち御言葉のことだというのです。‥‥イエスさまの言葉、神の言葉=みことばを、人々に語る=まく。ところが、畑にまいた麦の種がすべて順調に育つのではないように、みことばもすべて人の中で成長するのではない、ということになります。当時の農業というものは、今の時代よりもずっとたいへんでした。まず、一粒の種が、芽を出して麦の穂を実らせたときに、どのくらいになるのか。清水恵三によると、現在の麦は、1粒から60粒~100粒になると書いています。しかし、この時代は、せいぜい10粒、豊作でも30粒といった程度だったようです。だから、昔は、農民はたくさんいたのに、収穫はそれほど多くはないということになるのです。生産性が低かったわけです。
だから、1粒1粒の種を、大切にまいたことでしょう。1粒でもむだにすることがないように、大切にまいたのです。それでも道ばたに落ちる種がある。また、パレスチナは、石の多いところだそうです。そしてまた深く耕さないので、畑の土の下には石があるかもしれない。それが石地です。また、この地方にはイバラという植物がある。このイバラは、一般には、鋭いトゲがついている植物を言うのだそうです。そして根が丈夫で固い。パイプの材料になるそうです。だから、そういうところに麦が落ちても、十分に成長することができません。‥‥そういう光景が思い浮かびます。

私たちがこのたとえ話を聞いて、犯しやすい誤りは、自分自身を裁いてしまうということだろうと思います。‥‥「どうせ自分は、悪い土地なのだ。良い土地ではないのだ。だからいくら教会に通っても、聖書を読んでも、どうせ豊かな実を結ぶことはできないのだ」と、投げやりになってしまうことです。
これらは、間違っています。何が間違っているかといえば、決めつけている点です。「あの人は、石だらけの土地なのだ」「あの人は、茨の生えた土地なのだ」とか、「自分はどうせ道ばたなのだ」「だからいくら教会に通っても、聖書を読んでもダメなのだ」と決めつけることです。
信仰には、「素質」というものはありません。この世の出来事は「素質」というものが必要かもしれません。世界の一流のサッカー選手になるには、やはり「素質」というものが必要でしょう。生まれもっての体格、身長、運動神経‥‥いくら努力といっても、あそこまでになるには、やはり天性というか、生まれもっての素質というものが必要でしょう。しかし、信仰には「素質」というものは、まったくないのです。みんな平等です。信仰の「才能」などというものはないのです。生まれつき「神さまに近い人」などというものはありません。才能も素質も、実は信仰には全く関係ありません。それゆえ、イエスさまにとっては、物事についての知識もないような幼子が天国の住人だとされるのです。

年間 第十六土曜日
「両方とも育つままにしておきなさい」
マタイ13・24-30


親たちは子供に、「我慢しなさい。」とよく言うが、子供はそれを聞く度にむしろいやになってしまうだろう。その気持ちは理解できる。我慢とはあまりいい言葉ではないと思う。我慢する人は、いつも損をしているからである。我慢することとは結局、「仕方がないから、諦めよう。」といった、消極的な態度の現れだからである。忍耐は、これとは全く違うものである。忍耐は希望を生み出す。忍耐はとてもいい言葉だと思う。忍耐強い者は、試練を耐え忍び、強い者になる。忍耐強い者は常に期待している。人に欠けているところを見つけても落胆せず、むしろよくなる可能性を考え、許し、助ける優しい心を持っているのである。これが寛容であり、慈悲深い者の性質である。妥協とは根本的に違います。(ジラール)
パウロの言うように、「私たちは、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺(あざむ)くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・3-5)。神は、「善い者の上にも、悪いものの上にも雨を降らせ、太陽を昇らせる」ではありませんか。

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