1 advent

毎日の福音
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 待降節は、かつては四旬節と同じように回心の期間としての面を強調する傾向がありましたが、現在の教会は、待降節を「もはや悔い改めの期間とは考えず」(「ローマ典礼暦」規範版の待降節の解説)、むしろ「愛と喜びに包まれた待望の時」(「典礼暦年と典礼暦に関する一般原則」39)と考えています。そして、希望と喜びのうちにキリストの到来に心を向け、降誕祭の準備をするよう勧めています。待降節中、ミサと「教会の祈り」で使用する祭服等は紫色が用いられます。ただし、待降節第3主日には、習慣のあるところでは、ばら色を用いることができます。(『ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)』346参照) (毎日のミサより)

待降節第1月  第1周年(遇数年)
マタイ8・5-11

イエスはみことばを語るだけでなく、ご白身がみことばであり、存在そのものを通して教えます。新しいモーセとして教えるだけでなく(マタイ5-7章)、旧約の律法によっては救われなかったけがれから、ハンセン病者、異邦人、婦人を救います。
異邦人の百夫長はイエスのもとに来て願います。「みことばを送って治してください」(詩編107・20)。
マタイは、みことばに対する希望を示し、神の愛がすべての人に向けられていることを述べようとしています。
モーセに律法がみことばとして与えられ、イスラエルは律法に聴従するように命じられました(中命記6・4など)。いま、みことばイエスが与えられています。わたしたちはイスラエルの祈りを、イエスヘの祈りとして用いることができます。「あなたのしもべに言われたことば、希望のことばを思いおこしてください」(詩119・49)。「主よ、苦しんでいるわたしに、みことばによっていのちを与えてください」(詩119・107)。(荒)


待降節第1火
ルカ10・21-24

今日は待降節の三日目ですが、早速人間となった神の子の深い意味が示されます。イエスは悪霊を追い出し、神の救いの秘義を啓示しました。それによって弟子たちはイエスがメシアの権能を持つことを知ります。さらに、イエスが父なる神と特別なかかわりを持つかた、父の子としても理解できるようになりました。。「天地の主である父よ」と叫ぶ親密な関係は、父と子の関係の深さを示しています。
父は子にいのち、愛を与え、子はそれを受けて、父のいのちに生き、父を愛しているために、父にすぺてをささげます。
三二五年、ニカイア公会議はイエスの神秘を、「神の子」という信条によって表しました。神の子イエスは神と人との一致であり、「まことの神にして、まことの人間」です。父との一致を(ヨハネ10・30)「至福直観」(visio beatifica)ということばでも表すことができます。
イエスは人間の霊魂と体を持ち、人間の意志によって、自由に、父に従おうと決断します。「至福直観」はイエスの人間としての苦しみや体験に基づく知識を無にするものではありません。むしろ、そのような苦しみにおいて・父との一致はますますはっきりと示されています。ゲツセマネの祈りはその一例です(マルコ14・36)。その祈りは神の権能に対する人間の従順とともに、いつくしみあふれる父に対する親密な愛にみちています。
神の愛の息吹に生きるイエスは、その同じ愛の息吹をわたしたちに注ぎます。聖霊を通して、父と子の親密な交わりにわたしたちを招きます。エスが聖霊によって喜びにあふれて祈ったその同じ祈りを・わたしたちの心にも湧きあがらせます。「天地の主である父よ」と。(荒)
降誕説の第一叙唱にはこういう言葉があります。「人となられたみことばの神秘によって、わたしたちの心の目にあなたの栄光の光が注がれ、見えるものとなられた神を認めることによって、見えないものへの愛に強く引かれます。」 

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オランダの著名な画家ヴァン・ゴッホは、生きている間1700枚の絵を描いたそうです。そして、生きている間売った絵と言えば、一枚だけです。その一枚でおよそ8000円もらったそうです。今は、ヴァン・ゴッホの絵と言えば、何百万もします。ヴァン・ゴッホは生きている間実現しなかった夢を見続けたわけです。今日のイザヤ預言者のように。一生美の理想を追求し続けた。これは待降節の精神ではないかと思います。


待降節第1水
マタイ15・29-37

マタイはイエスの活動を要約し、奇跡をイザヤの預言の成就として捉えます(マタイ8・16-17=イザヤ53・4、マタイ12・15-21=イザヤ42・1-4)。奇跡は神は全能であると示すためではなく、苦しみのしもべが貧しい人と連帯していることを示すために行われます。
マタイ15・31では、「耳の不自由な人が書物のことばを聞き、もやとやみから解放され、盲人の目は見え」(イザヤ29・18)、「足の不自由な人は鹿のように飛び、口の不自由な人の舌が喜び叫ぶ」(イザヤ35・6)といわれていた預言が成就します。(荒)
福音書の深みを知るためにやはりイザヤ書をもう一度読みたいな。また、ここで耳、口、足などすべての不自由から解放してくれる方がいます。私の不自由はどのようなものでしょうか。そこから解放される希望をもっているでしょうか。
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主は私たちのために「会食を整え」、私たちの「杯を満たされる」という約束がなされています。それに対して私たちは、今日の答唱詩編にあるように、「乏しいことがない」と歌うことができるでしょうか。私たちの住んでいる社会はものが有り余って、飽食(ほうしょく)社会と言われています。食事をおいしくいただくために、条件として、お腹はすいていなければならりません。いくら豪華な宴に呼ばれても、お腹がすいていなかったら、おいしい
と思うどころか、むしろ不愉快に感じるでしょう。
自分の悩みで心がいっぱい。他人をそこに入れる余地はない、毎日のように他人に対する恨み、不満、嫉妬、怒りなどをなめていては、ほかのものは何も入らないのです。
せっかく、主が準備してくださった会食を味わうことができるように、心を整えて、お腹をすかしておきたいものです。


待降節第1木
マタイ7・21,24-27

「裁くな」(1-2節)、「偽預言者を警戒せよ」(15節)、「父のみ旨を行え」(21節)といういましめが、具体的な場面によって描写されています。
「兄弟の目にあるおがくずと自分の目にある丸太」(3-5節)、「いばらとぷどう」(16-20節)、「岩の上の家」(24-27節)。「父のみ旨を行う者」とは、同時に、「わたしのことばを聞いて実行する者」(ルカ6.46、マタイ7・24)のことです。
初代教会は、みことばを聞くだけで実行しない人びとに対していましめました(ヤコブ1.22-23)。
「 1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」
グノーシス主義者は、知恵についての悟りを重んじ、愛の実践を忘れます。ファリサイ派は愛のおきてを知っていても、愛の心を持っていません。カリスマに恵まれて奇跡を行っても、岩であるキリストにたよる貧しい人の生きかたを忘れるならば、砂上の楼閣(ろうかく)にすぎないのです。(荒)
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立派な家を建てるかどうかが問題ではないのです。どこに家を建てるかです。もし立派な丈夫な家を建てることだとしたら、力のある人、才能のある人、有能な人が建てることができるだけです。しかしそういうことをイエスさまは言っておられません。‥‥どこに家を建てるのか、ということです。
それが問題なのです。その家を、私たちのやぐらであり岩である(イザヤ書)=父なる神さまの上に建てるのかどうか、ということです。
 イエス・キリストを信じること、それを告白してイエスさまに信頼して行くことが、岩の上に家を建てることです。どんな嵐が来ても、倒れることがありません。世界が滅びるような洪水が来ても、しっかりと立っています。
他の家は、立派に見えても、しばらくはとても丈夫に見えても、実は嵐がきたら簡単に流されます。
私はどこに信頼をおいているのでしょうか。
イエスの言葉に耳を傾け、それを行動で示すことはとても難しいことですし、なかなかそれができていない現実もあるでしょう。しかしみことばが私たちの生活を変えた分だけは、私たちはすでに岩の上に立っているのです。すなわちイエス・キリストという硬い土台の上に立っているのです。とてもありがたいことです。感謝したいものです。私たちは「風見鶏」(かざみどり)にならなくてもいいのです。私たちがイエスの言葉に応えられない時にでも、常にイエスに希望を持ち続けることができますように。
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野田阪神駅の付近に「松下幸之助ゆかりの地」というのがあって、覗いてみたらそこに松下 幸之助(こうのすけ、1894年 - 1989年)が1918年に最初の工場を作った跡があった(後にパナソニック、ナショナルとなる)。そこに記念碑があって、こういうことばが刻まれています。

「自分には
自分に与えられた道がある
広いときもある
せまいときもある
のぼりもあればくだりもある
思案にあまる時もあろう
しかし心を定め
希望をもって歩むならば
必ず道はひらけてくる
深い喜びも
そこから生まれてくる」

「主こそがとこしえの岩」(今日のイザヤ書)、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(福音書)ということばとかさねて考えますと、自分はどういうことに希望を置いているか、希望はどこに置くべきか、あらためて考えさせられます。

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待降節第1木
「神のみ心を行う者」
マタイ7・21,24-27

「神のみ心を行う者」はどのような者でしょうか。例えば、マザーテレサは若いときにかなり悩んだそうです。自分にとって神のみ旨はなんなのかと。修道会に残って学校の先生として働くべきか、それとも違う道に進むべきなのか。悩んだ結果、そしてさまざまな人と相談した上で、自分にとっての神のみ心がわかったわけです。晩年には、こうしたはっきりとしたお示しはなくなったと手紙のなかで嘆いていたのです。
けれども、貧しい人を助けること、祈りの生活を続けることは間違いなく神のみ旨だろうと思って、忠実にそれらを守りました。それで、しっかりとした土台に据えられた家を建てました。
神のみ心というと、それは何なのか、なかなかわからない時と場合があります。けれども、間違いなく神の御心だと思われることもあります。例えば、今日のミサに参加したこと、今日しなければならない仕事など、これは心をこめてやっていれば神様は喜ぶでしょう。
救い主は二千年前にもすでに来ているし、(ほとんど誰も気がつかなかったが)、今日も来ているでしょう。けれども私たちには見えないのです。気がつかないのです。見えるために、気がつくようになるためには、「神のみ心を行う」姿勢を育てる必要があります。待降節の観点から見て、今日の福音書はこのようなこと教えているでしょう。




待降節第1金
マタイ9・27-31

この奇跡物語はエリコの二人の盲人のいやし(マタイ20・29-34)に似ています。エリコでは、二人がイエスのあとについていくのに対し、ここでは、「だれにも言うな」と沈黙を命じられています。しかし、二人は、その地方一帯にイエスを宣教します。
この物語は盲人をいやす奇跡物語であると同時に、イエスをメシアとして認める信仰物語です。
旧約の預言がダビデの子について述べていたことは、すべて、イエスにおいて成就します。二人の盲人は旧約時代のメシア信仰に基づいて、イエスに祈ります。かれらは貧しい人たち、取り残された人たち、神をたよりにする以外に、なに一つ誇りとするものを持たない人たちです。イエスは、か
れらの信仰のゆえに奇跡を行っています。それによって、かれらはキリストの宣教者にかわります。(荒)
信仰は奇跡をおこす力があると改めて示されます。
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私たちは、今日の答唱詩編にあるように、今日の答唱詩編を見ると、そこに強い希望を感じます。27:1神はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰も恐れない。神はわたしの命の砦/わたしは誰をはばかろう。27:13 神に生きる人々の仲で私は神の美しさをあおぎみる。27:14 神を待ち望め/強く、たくましく、神を待ち望め。ところが、今の社会を見ると先はどうなるか、全く見えないので不安になります。占いを頼りにして生きる人もいますが、でもそれは一時的な気休めにすぎない。先の詩編のような歌は歌えない。救い主を待ち望むことにおいて、このように歌うことが出来ルためにはどうしたらよいか。そのために、今日の二人の盲人はさんこうになるでしょう。まず、自分は見えないということを認める。自分の力で自分を救うことはできないと気づくこと。貧しい人、弱い人のようにへりくだって、謙虚に助けを求めること。キリストに「さわって」もらうことが必要条件です。この「さわる」(haptomai)というのはなんでもない、地道な動作ですが、秘跡において行われるようなものを思わせるのです。私たちは秘跡においてキリストに触れることができる。「さわって」もらうことができるのです。

待降節第1土
マタイ9・35~10・1,5a,6-8

羊の群れは唯一の大祭司キリストによって養われます。あらゆる時代、あらゆる場所でキリストの祭司職が行われるために、弟子たちは召命を受けます。司祭は司教の按手(あんしゅ)によってキリストの祭司職を授与され、みことばと食卓の奉仕に一生をささげます。司祭は、信者たちの霊的いけにえ、信徒の一般祭司職のいけにえを一つに合わせ、父なる神にキリストの代理者としてささげます。教会はよき牧者が与えられるよう祈ります。「キリストのために生涯をささげる司祭、修道者の召命をお与えください。聖霊の恵みと力が与えられ、多くの青年があなたの招きにこたえることができますように」(召命を求めるミサの集会祈願)。

2 advent

待降節 第二月曜日
「人よ、あなたの罪はゆるされた」
ルカ5・17-26

中風を患った人は癒された。確かに体のいやしは必要であった。私たちは、命にかかわる病気にかかったら、必死になってできるだけのことをするだろう。費用が足りなければ、何とかして工夫するに違いない。また、私たちは人間関係を正しく保つためにも努力する。大きくは国際的な問題から小さくは家庭内の問題に至るまで、正常な状態を維持するためには大変た努力が払われている。しかし、人間にとってはそれらのこと以上に、神との関係を正しく持つことの方がはるかに重要である。この神との関係が正しい状態にないために、人々はそれを何とかして得ようと、昔からさまざまたことをしてきた。
 いろいろの宗教の話を聞くが、私は、キリスト教以外の宗教の話を聞くたびにいつも考えさせられることがある。それらの人々は真剣に努力しながら話をしているのであるが、彼らの姿勢は、結局一生涯が求道者のままで終ってしまうものなのである。それは、彼らの勧める道においては、「あなたの罪は赦された」という声が、いつまでたっても、どこからも聞えてこないからである。
私たちキリスト者は、この世界で、イエスから罪のゆるしのことばを与えられている。現在の我々の状態は、過去において自分がやってきたこと(罪)の結果である。例えば、毎日食べ過ぎる結果、病気を起こす。五十数年前に、東南アジア諸国を戦争に巻き込んだから、現在に至るまで不信がられることがある。過去のことは確かに重い、身動きをとれない気持ちになる場合もある。しかし、イエスのお陰でそれにこだわる必要はなくなるのです。罪の重荷から自由になれる。全く新鮮な再出発ができる。この自由を体験し、それを世界につげなければならないのはキリスト者の役割である。

待降節 第二火曜日
「迷い出た一匹を捜しに行く」
マタイ18・12-14

羊の乳は牛の乳と比べると四倍の栄養分があるそうです。つまり牛の乳でチーズを作る場合、羊の乳の四倍を使わないと同じ重さのチーズにならない、ということになる。多分そのために昔の人々は牛よりもたくさんの羊を飼っていたのかもしれない。しかも羊は小さいので小回りが聞くし、かわいくて、毛まで与えてくれます。やさしさの象徴としてよく使われている。このような「目に入れても痛くない」羊のイメージは、罪によって弱い立場におかれている人々に当てはめられている。(ステ)
 神のいつくしみは、失われた者を見つけたときの喜びに似ている。神の愛は、民と結んだ契約(約束)に忠実であるという面、すなわち、信頼するに足るかたであるという面と、心のやさしさという面をもっています。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼキエル34:16-17)
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「11月(2013年)のフィリピンの台風のあと被災地で撮影された1枚の写真に衝撃を受けた。十字架を担(かつ)ぐ女性を中心に、幼児キリストの象その他をもった数人の人々は歩いている。破壊された教会から持ち出されたものなのか。その小さな行進の図は17世紀スペインかオランダの宗教画のようで、胸をしめつける。傷ついた土地で行政が機能しないとき、帰ってくるのは宗教的感情。フィリピンの人々のカトリック信仰の強さを思った。
 思い、また、考え込んだ。中途半端に世俗化され、どこか聖性を求めながらもそれに至る道を知らず、経済に代わる生活の原理をもたない自分のような心はいつ生まれたのか。たとえばカトリック教会が人の想像力をまるごと支配しているような社会=時代には、人々は何を考え生きていたのか」
(菅 啓次郎 明治大教授、読売新聞・2013年12月8日朝刊、10ページ)

世俗化、宗教離れ、無宗教はやはり一つの迷いであり、それとして今日の迷える羊に似ている。そこから考えると、今年もクリスマスは祝われる意味は何なのか。クリスマスは伝統行事、楽しい祭りだけではない。信仰的にみれば、主なる神が迷える羊を探しに来られる。もう一度。こういうことになるのではないかと思います。
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「広い道を通せ、谷はすべて身を起こし」
イザヤ40、1-11


車が走りやすいように、カーブを減らし、高速道路のようになるべく真っ直ぐな道にします。道を真っ直ぐにするということは、曲がった道を走るより、目的の場所に速く到着するということです。
 それでは、その道を私たちの心に例えてみますと、正直で曲がっていない心には、キリストは最も早く来られます。曲がった心にもキリストは来て下さいますが、そのスピードは快速とはいえません。車は渋滞し、なかなか進みません。また、新幹線も、高い山を登らずにトンネルをくぐり、深い谷を下らずに橋を渡って走ることにより、真っ直ぐ走ることができ、スピードが出せます。この山と谷を人間の心や生活に対比させてみると、山は元気すぎる時(奢り高ぶる心や金持ちにあこがれる生活)、谷は失望する時(鈍い心や貧しさを嘆く生活)ではないでしょうか。私たちは、深い谷を少しずつ埋めることによって、高い山を低くしていかなければならないでしょう。つまり、両方の極端な状態を平均的にしていくことにより、その状態は、穏やかになります。
 キリストは柔和な心の人、公平な心の人の中に、真っ直ぐ豊かな恵みをもって宿ります。この山と谷は、私たちの日常生活を見回してみても思い当たることが一杯あるのではないでしょうか。人間関係の中で「あなた」と「私」の間に、いろいろな妨げがある時、それは、それぞれが心に抱えている曲がった道です。ベルリンの壁が崩壊したときに、ヨハネ・パウロ2世教皇様は、「"壁"ではなくて"橋"を作りましょう」と強くおっしゃいました。これはイザヤのような預言と言えるでしょう。私たちの心の中にある曲がった道(壁)を避けて通るのではなく、道を整えて"橋"を、「あなた」と「私」の間に架けましょう。お互いを信じ、信頼し、お互いにチャンスを与え会話をすること。そうすれば、「あなた」の中にいらっしゃるキリストを、「私」は優しく迎えることができるのです。しかし、このことは、私たちの力だけではできません。そのために神様に"祈り"ます。『神様、力を与えてください』と。
  クリスマスは、平和と一致の季節です。国と国の間、私たち一人ひとりの間にその心を持つことが出来るように神様に願うことは、とても大切なことです。



待降節 第二水曜日
「疲れた人、出荷を負わされた人は皆、私のもとに来なさい。」
マタイ11・28-30

? 私たちは少なからず、この世の生活に疲れ果てています。複雑な人間関係、仕事、育児、家庭生活、社会生活などなど、身も心も疲れ果てます。そういう時、私たちはどこに安らぎを見いだすのでしょう。趣味、レジャー、パチンコ、競馬、酒、あるいは、もっともっと仕事に没頭する…。しかしおおむね、もっと疲れてしまうことが多いように思います。「私のもとに来なさい。私が休ませてあげる」とは何とすごい言葉なのでしょうか。けっして他の人間には、口にできない言葉です。疲れ果てて相談に行っても、お説教されたり、よく聞いてもらえなかったり、変に同情されたりで、よけい疲れることがあまりにも多いからです。
私たちが疲れきった時、自分の心を本当に分かってくれる人のそばで、ゆっくりくつろぐことで十分なのです。何も話さなくても、疲れきった自分を、ありのままに受け入れてもらえる時、疲れがいやされていくのを感じます。そしてゆっくり休んだら、「さあ、がんばろう」と、自分の重荷をかつぐ気力がわくのです。
私の重荷はだれかが背負ってくれるわけではなく、私が背負わなければならないからです。
私も人の重荷を背負うことはできないのです。その人の重荷は、その人がになわなければならないものであって、人は人の重荷を身代わりになってになうことはできないからです。しかしそれぞれ自分の重荷をになう者同士として、互いに思いやることこそ大切なのです。
信仰とは本来、疲れた人に安らぎを与え、またその重荷をになう力を与えるものです。
疲れた人をよけいに疲れさせるお説教をたれたり、高飛び車にしかりつけたり、よけいなお荷物を負わせてはいけないのだと思います。イエス様はご自分を、人のために完全に御父にささげました。だからこそ、ご自分のもとに来る人に安らぎを与えられるのです。本当に、その人をその人として受け入れてくださるからです。エゴイストこそ、他の人を疲れさせるからです。
私たちはいったい人を休ませているのでしょうか、あるいは疲れさせている方でしょうか。
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「重荷を背負っている者は、私のもとに来なさい」
マタイ11・28-30
神の知恵イエスは、律法の重荷のかわりに安らぎを与え、神の愛のくびきを受けるようにと呼びかけます。愛のおきては難しいものではなく(Iヨハネ5・3)、イエスのため、人々のために、労苦、疲れを受けることを、かえって誇り、慰めとさせます(Iコリント15・10、Iテサロニケ2・9)。主が力づけてからである。
主は「 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40・29-31)
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疲れると頭の働きも鈍くなる。では、疲労が解消されないまま蓄積されると、どのような症状が出てくるでしょうか。
一般的に疲労というと、注意力が散漫となって、物事が考えられなくなり、うたたねをするような状態をいいます。
具体的に書いてみましょう。

・注意力の低下=間違いが多くなります。
・反応時間が遅くなる=頭がぼんやりして、反応が遅くなります。
・何かに執着する=頭が切り替えられなくなります。
・無関心=周囲のことに興味を示さなくなります。
・無気力=受身の状態で、自分からは何もしません。
・居眠り=起きているつもりでも瞬間的に寝ている時間があります。
・忘れやすい=ちょっとしたことが思い出せません。
・決断力の低下=漫然とした現状維持を続けてしまいます。
・会話の減少=話をするのがいやになります。

ひどく疲労している場合、本人は、これらの兆候を認識する能力が落ちてしまうため、疲れを自覚できなくなる、ということもあります。長時間仕事をして疲れてくると、眠くなったり、頭が痛くなったり、ミスが多くなったりします。

霊的に、この世のものに目を奪われやすくなる。世間の声に耳を奪われやすくなる。そんな私たちは、今日のイザヤ書の言葉、あるいは福音書の言葉「私に学びなさい」という力強い呼びかけの前に、もう一度信仰の姿勢をしっかり正すか、あるいは無視するか、今年のクリスマスもそういう選択に直面させられます。



? 待降節 第二木曜日
「洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった」
マタイ11・11-15

? 洗礼者ヨハネに出会って、その話を聞いた人々はたくさんいましたが、ヨハネの一番伝えたかったことを理解した人はあまりいませんでした。それだけ人間の心はにぶいのです。歴史は神の計画にそって動いていますが人間は全体図が見えてきません。そのために私たちはあまり自分の見解に自信を持ち過ぎることなく、いつも神の光を受け入れるような姿勢でいた方が望ましいのです。要するに、神は歴史の出来事、日常生活の出来事を通して人間に語りかけていますが、多くの場合は人間はその出来事の面(おもて)だけで判断して、本当のメッセージが読めないのです。
「人間に対する神の語りかけは、われわれがみなそれぞれに営んでいる生活のうちにおける出来事、われわれを取りまく世界のうちにおける出来事(…)に浸透し、そしてそれらすべてを通して、あなたにそして私に対する呼びかけ、使命となる。(…)われわれはあまりにもしばしば想いこむ、そのような語りかけなどいささかも聞き取れはしない、と。だがしかし、われわれはすでに久しく耳を蝋(ろう)で封じているのだ」(M・ブーバー、『我と汝』)。世間では「空気を読めない」という言い方がありますが、神様のことに関しては、私たちはまさに「空気を読めない」状態にいます。イエスがヨハネのことを聖書の中で教えてくれたので、私たちはヨハネが最後の預言者だと分かりました。私たちの周囲に起こるたくさんの出来事をイエスの光に照らして識別しなければならないと思います。
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「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」(12節) 天の国と言えば神の国のことです。全能の主なる神さまの国が、人間によって暴力的につぶされるはずがないではないか、と思います。神さまが支配しているところが天の国である、となると、「この世も、目には見えないが、神さまが支配しているのではないか?」と思われるかもしれません。もちろん、神さまがこの世界を支配し、治めておられるので、宇宙が法則に従って動き、存在し、地球も存在し、その中の命も保たれているわけです。主イエスは、雀一羽さえも、父なる神のお許しがなければ、地に落ちることはないとおっしゃいました。神さまは、雀一羽さえも、養い育ててくださるのです。 しかし人間はどうでしょう? もちろん人間も神さまに養われているわけです。雀と同じように、人間もまた神さまは愛し、養ってくださる。しかし人間のほうはそうは思っていない。?
毎日のようにテレビのニュースでは、人が殺されたことが報道されています。しかも変な事件が多いですから、先日のテレビのワイドショーで、あるゲストが、「神さまなんているのか、と思う」と言っていました。殺人事件はともかく、自分の理解できないことに出くわすと、神を非難し、神を否定するのです。聖書を通して神が語りかけているのに、そんなものを聞こうともしない。従おうとしない。?
神さまは、神の支配のもとで調和のとれた世界を用意したのに、人のほうが神を信じることをせず、自ら神の支配を離れていったと、聖書は説明しています。そういうわけで、神は確かにこの世の支配者であるのですが、人のほうがその支配から離れていったということです。神の支配から離れていった、神さまの支配を受けるのがイヤだといって去っていった。神を信じ、神に従って生きるところをやめてしまったのです。
さて、洗礼者ヨハネは、天の国の近づいたことを宣べ伝えました。ところが、そのヨハネは、領主ヘロデによって捕らえられ、牢獄に入れられ、処刑の日を待つばかりになっている。‥‥まさにイエスさまのおっしゃるように、天の国は、力づくで襲われているのです。天の国は奪い取ろうとされている。?
神は約束通り、天の国を持ってこられた。そのイエスさまが来られたとき、まさに人々は、天国の持ち主であるイエスさまを、暴力で襲い、力ずくで奪い取ろうとしたのです。それが人間の罪です。「神さまなんかいるものか」と思い、「このイエスというものが、キリストであるはずがない」「神はこんなキリストを送られるはずがない」と、人間の物差しで測ったのです。
相撲で言えば、ヨハネは横綱の土俵入りの、露払い(つゆはらい)役です。旧約の預言者は、言ってみればすべて、やがて来るキリストを指し示していたと言ってよいでしょう。「天の国で最も小さな者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大である」。‥‥ヨハネは天の国を指し示した人です。ですから実際にその天の国に入る者は、もっと偉大である、もっとすばらしいというのです。
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待降節 第二金曜日
「知恵の正しさは、その働きによってしめされます」
マタイ11・16-19

今日のテーマは優柔不断です。神様はいろいろな形で人々に呼びかけています。海の汚染が余りにひどくなると赤潮(あかしお) が発生し魚が死んでしまいます。大気汚染のレベルが高くなると赤ちゃんの突然死、若い母親の流産、森林の木が枯れる等の現象が頻繁に起きます。アレルギーのケースが多いことも現代社会に生活している私たちの体の機能がおかしくなっていることを示しているのかもしれません。これだけの自然からの警告があるにもかかわらず、現代人は自分の手で、自分の死の宣告を書いています。その中で、「神の知恵の正しいことは、その働きで認められる」ことになっています。つまり、もし私たちは神の知恵に従って働けば必ず良い結果があるということです。まだ希望があるというわけです。(ステ)
ヨハネは砂漠での厳しい生き方を通して、メシアの出現をしめしました。イエスは人々を食事に招き、神のいつくしみを示しました。神の業は色々な形をとっています。どれ一つとっても、知恵にみちている。後はこちらの決断を待つだけです。
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『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった』‥‥これは要するに、結婚式ごっこのことを指しているのですね。また、『葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』というのはお葬式ごっこです。神様の呼びかけに答えない人々のことがこういう風に描かれているのです。 この神様の御心が分かるでしょうか? 神様がどれほど、私たちを愛し、救おう、取り戻そう、天の国に招き入れようとして、ずーっと招き続けてこられたことが、分かりますか??
きょうのイエスさまの最後の言葉、“しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される”。
 「知恵」というのは、神の知恵、イエスさまのことです。神の知恵の正しいことは、その働きによって証明される。‥‥この言葉は、イエスさまの働きをよく見よ、ということです。イエスさまのなさっていることを、目を見開いて、よく見よ!と。
 地上でのイエスさまの歩みの行き着く先はどこですか?‥‥十字架です。ゴルゴタの丘の上の、十字架です。イエスさまの働きは、この十字架の姿に結晶しています。神の知恵の正しさは、十字架を見れば分かるのです。
 十字架、イエスさまが私の代わりにかかってくださった十字架。イエスさまがご自分の命に代えても、私たちひとりひとりを救ってくださった十字架。ここまで神は導かれる。ここまでして神様は、私たちを愛し、救おうとされているのです。この事実に、目を開いて、礼拝する者でありたい。
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メシアの到来、イザヤの時代から洗礼者ヨハネまで、長い年月待たれて、すべての預言者から告げられたメシアの到来は実際に起こった時に誰が気づいたでしょうか。ほとんど誰も気づかなかった。数人の羊飼いだけです。また、メシアが救いを成し遂げた時(十字架)、それは全人類の贖われる時、だということに気付いた人はどのぐらいいたでしょうか。弟子たちでさえ逃げていました。
こうして、私たち人間は、神のこと、神の世界となると、イエス・キリストのこととなると、本当のことは極めて見過ごしやすい資質となっています。
今年もクリスマスの祝いがあることにそれなりの意義があるでしょう。そういうことに関しても注意しないと見過ごしてしまう可能性があります。
神様はいろいろな形で人々に呼びかけています。けれども、私たちは今日の福音書の子供たちのように、さまざまな遊びを見せられても、全部勝手に断ってしまうようなことにならないように判断力を高めたいと思います。


待降節 第二土曜日
「好きなようにあしらった」
マタイ17・10-13

人間は自分勝手な生き物です。自分のつごうによって、相手をあつかい分けるのです。自分にとって必要な時は大切にしますが、そうでなければふり向きもしないのです。役に立つ時はちやほやしますが、役に立たなくなれば古い靴のように捨てるのです。自分がそういう目にあったなら、怒るくせに、人には平気でそれをし、役に立たないのが悪いのだと考えます。神についてもまったく同じです。必要な時だけ神にたのんで、必要がなくなればサヨナラなのです。
どうして人が、こんなに高慢になってしまったのかというと、聖書によれば、それは人の高さから生じたのです。神はあまりにも人を高貴につくったので、人はすっかり思いあがってしまい、神をさえ不要と考えるようになったというのです。
しかし創世記によれば、人間は土のチリで造られている。粘土からつくられたということは、人の卑しさ、低さを表します。つまり人の中には、高さと低さ、偉大さといやしさが同居しているというのです。(荒)
ですからこそ、いと高き神の独り子が、高い天から下って低い人間の姿を取ってくださったのです。神に出会うために、やはり自分の低さ、卑しさを思い出す必要があるのです。

3 advent

待降節第3月
マタイ21・23-27

祭司長・長老たちはもし「天の神様からの権威によってヨハネは洗礼を授けていた」と答えれば、そのヨハネがイエスさまを神から遣わされた方だとあかししたのだから、なぜ信じなかったのかということになる。しかし逆に、「人からのものだ」と答えれば、群衆はヨハネを神から遣わされた預言者だと思っているから恐ろしいというのです。なんということでしょうか。群衆が恐ろしい。彼らの権威とはしょせんそんなものだったのです。
 そこで彼らは、「分からない」と答えました。本当に分からなかったのかどうかは知りません。ただ、「天から」と答えてもまずいし、「人から」と答えてもまずいことになる。だから、「分からない」と言うことにしたということです。
 
 こうして彼らは結局イエスさまに出会うことができなかったのです。イエスさまを目の前にしながら。そこにいる方が、実は神の国の所有者で、永遠の命を持ち、そしてそれを与えることのできる方、神の世界のすばらしさを見せてくださる方であるのに、そういうイエスさまと出会うことができな
かった。もったいないことです。自分たちのこの世の権威にしがみつき、見栄や体裁を気にして、イエスさまとの出会いに至らなかった。
 彼らの問題は、そこに自分自身の言葉が一つもないことです。こう言ったらまずい、こう言ったら群衆からバカにされる、と、自分の立場や見栄ばかりを気にしているのです。イエスさまはそのような問いには何もお答えにならないということが分かります。
 本当は彼ら一人一人はどう思っているのか。「ヨハネの洗礼は天からの権威ではない、人からのものだ」と本当に思っているのなら、群衆がどう言うかなど関係なくそう言えばよいのです。そこからイエスさまとの本音の出会いが始まるはずです。
 マルコ福音書9:24で、悪霊に取りつかれた息子をイエスさまに助けていただくために、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫んだ父親のように。
 苦しいときは主イエスに向かって、「苦しい、助けてください」と本音から祈りましょう。信じられないときは、主イエスに向かって、「信じられません。信じられるようにしてください」と祈りましょう。主イエスは心からの祈りを、無視されるような方ではありません。なぜなら主イエスの権威は、「仕える権威」だからです。愛の権威です。それによって私たちはしっかりと支えられているのです。 nibanmati

待降節第3火
マタイ21・28-32

徴税人の頭でさえあったザアカイ、この福音を記したやはり徴税人のマタイ、それから罪の女と言われたマグダラのマリアは、それをしたのです。罪の中から、イエスの立派な弟子として変えられていったのです。だからこそ評価されるのです。
 しかもこの話は、人間の一生涯の話でもあります。と言うのも、なんとか従った兄でしたが、彼らの多くは、イエスの十字架を前にして、再び「いいえ」と断わることになったからです。徴税人や娼婦はその再びの否定の後、どうしたでしょう。大祭司や長老はどうしたでしょう。それ以外の裏切り
者ペトロはどうしたでしょう。同じように裏切ったユダはどうしたでしょう。キリストの迫害者パウロはどうしたでしょう。
 復活したイエスのもとに回心し、救われた人もいます。しかし最後まで、イエスと交わることができず、永遠の滅びにいたった人もいます。私たちの回心に完成はなく、この世の命を終える最期の時まで、生き方が問われ続けられるのです。
 この私も今、自分の持っているものを本当にすべて差し出し、投げ出してでも、神に従うことができるのかどうか、問われます。そして私たちは、この兄か弟かのどちらかでしかない。傍観者ではいられないのです。自分自身の回心を真剣に受け止め、回心の機会を逃さないようにしたいと思います。もしかしたら今日こそが、最後の審判の日かもしれないからです。
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一番目の息子は悪い答えをして、後は思い直しました。これはOKとされます。二番目の息子は正しい答えをしましたが、悪い行動にでました。これは、もちろんいけないということは皆分かっています。
昔の信心書にはこのように書いてありました。「自分が悪かったと分かったときに、直ちにみとめなさい」。この「直ちに」で、おそらく、頑固さ、つっぱり、二の足を踏む、お茶を濁すなどのことはだめだと言えるでしょう。思い直すことは悪くないのはよく分かります。例えば、車に乗っていて間違った道に入ったら、前に進むよりも、さっさとUターンして元に戻った方が自分のためになるでしょう。ヨハネは回心を呼びかけました。そして徴税人、娼婦が悔い改めた。これはよしとされます。悪い選びをよい選びに変える。私たちは最近、何かのことで呼びかけがあって、どのように答えたか、今日反省してみましょう。



待降節第3水
ルカ7・18b-23

洗礼者のヨハネは「女の産んだ者の中で、ヨハネよりも大きい人物はいない。しかし神の国では最も小さい者も、彼よりは大きい」とイエスが言われたので、私たちは分かりました。
 真面目な生活をすることが悪いわけではないのです。しかしそれだけでは足りない面があるということなのです。そういう意味では、ヨハネは人間の側から神の救いに預かろうとする道を誠実に歩もうとした最も良質の人物であったのです。しかしその道では救われないということであります。
それはあの金持ちの青年の姿にもわれわれは見ることができかも知れません。彼は救いを求めてイエスのところに来た。「永遠の命を得るためには何をしたらよいでしょうか」と、尋ねに来た。その時にイエスは「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証をたてるな、父と母を敬え」という、十戒の後半、
いってみれば、人間に関しての律法を守りなさい、といいます。彼はそれらの律法は全部幼いときから守っていますと答えるのです。すると、イエスは、「お前の持っているものを全部売り払って貧しい人々に分けてやりなさい」といいます。それを聞くと彼は悲しそうにしてイエスのもとを去ってい
ったというのであります。やはり、ここで、キリストをメシアとして認めることが必要だということでしょうか。キリストに出会ったら、その存在を過小評価しないこと、その大切さを十分認める準備が必要ということが示されていると思います。
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第一朗読のイザヤ書の美しいことばを味わってみましょう。「天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ」。これは、救い主はどのような形でこの世に来られるのかを示しているでしょう。救い主は、皆驚くような、目立つような姿でやって来るわけではない。露が降りるように、春雨が降ってくるように、静かに、やさしく、音沙汰をたてないように来てくださる。そして、露や雨のように地を実らせる、豊かにする。これは、おそらく受胎告知の時の天使のことばに反映されています。「聖霊があなたにくだり、いと高き方の力があなたをつつむ」(ルカ1・35)
次は、「地が開いて、救いが実を結ぶように」(フランシスコ会訳で、「地よ、開け」)。聖母マリアの連祷に「天の門」という呼び名があります。マリアこそ地が開いたところです。天がこの地に入ってきた門。天と地が通じるところ、交わるところ、コミュニケーションできるところです。そこからキリストが来て、今日の福音書にあるように、地を豊かにしました。病気の人、苦しんでいる人が癒されました。


待降節第3木
ルカ7・24-30

ヨハネについて、「風に揺れる葦」のように人の意見に左右される者でも、また、「柔らかい着物を着た人」のように権力に取り入って「贅沢に暮らす」ような人ではないと言います(7:24,25)。


ヨハネの父ザカリヤはエルサレム神殿での宗教儀式を誤りなく司る忠実な祭司でした。それは「罪の赦し」、つまり、神との和解を得るための神の方法のはずでした。ところがヨハネは、まるでそれが無意味であるかのように、人々を神殿から遠く離れたヨルダン川に導いてバプテスマを授けたのです。これは当時の宗教システムを破壊する革命とさえ言えます。パリサイ人や律法の専門家たちは、自分はまじめにお勤めを果たしているから神の裁きを免れると思っていたのに、ヨハネはその安心を砕きました。一方、取税人は、自分たちが当時の神殿では救われようがないことを分かっていましたから、ヨハネのバプテスマを受けて、神のあわれみにすがろうとしました。つまり、ヨハネは、儀式を守ること以前に、真心から神の前にへりくだることを説いたのです。神殿も律法も契約の箱も、聖なる神が汚れた民の真ん中に住むためのあわれみのしるしでした。神は、一方的なあわれみによって、彼らにヨルダン川を渡らせ、ご自身の国を建てようとされました。その原点に立ち返らせるのがヨルダン川でのバプテスマでした。そして、これがなければ、当時の人々がガリラヤ出身の大工のことばに耳を傾けることはあり得なかったはずです。

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「キリストは人間のみじめさを帯びてこの世に来られたとき、父の定められた愛の計画を実現し、私たちに永遠の救いの道をお開きになりました。」(待降節の叙唱)

「愛の計画」とは、今日の第一朗読イザヤ賞は述べていることです。


イスラエルの国には、それまでにたくさんの預言者がおりました。エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミア、エゼキエル、アモス、ホセア、たくさんの名前を挙げることができます。皆、遠い未来にメシアが来ると告げました。ヨハネだけは、すぐそばに来ていると。見じかにいる。

主イエスの言葉は、神秘を告げる言葉だと思います。神の国がやってくると、今までの当たり前であった考えがひっくり返されることが起こる。しかしやはり問題となってくるのは、神の国がやって来ているということを識別できるかということです。

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人々は一時的な熱狂から荒れ野に出ていった揺れ動く葦(あし)にすぎませんでした。砂漠は人々のさわめきと足跡を消し去り、悠久(ゆうきゅう)の沈黙のなかにもどっています。荒れ野の叫ぶ声も消えていくのでしょうか。そうではありません。預言者ヨハネのことばは、永遠のみことば、神の子を指し示しているがゆえに、消え去ることはありません。それによって、荒れ野(ミドバール)は、神のことば(ダバール)に耳を傾ける場、神に立ち帰る場となります。(荒)クリスマスを前にして、私たちも今日ちょっとした沈黙の時間をつくり、荒れ野を体験したいものです。
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ヨハネは荒れ野で活躍しました。荒れ野というとピンとこないかもしれません。福島の第一原子力発電所の周りに20キロの周りに誰も住めないことになっています。今の東京都知事、石原慎太郎さんが40年も前に、『化石の森』(1973)という小説を書きました(受賞もしました)。
たとえ表面的にははなやかに活動し、快適な生活をおくることに恵まれたとしても、神を見失った心は、精神的には不毛な荒れ野といえます。また、そうした意味で、大都会は、たとえそこに、現代の技術の粋(いき)をつくした高層ビルが乱立し、どんなに多くの人々が群がってこようとも、神を見失っているかぎり、荒れ野といえます。利己的な欲望と快楽を求めながら、互いの信頼を失った人々の群がる大都会は、石原慎太郎の「化石の森」となっています。また、こうした荒れ野に呼びかけ、神への目覚め、悔い改めを訴えていくのが、「荒れ野に叫ぶ声」なのです。ヨハネは、その当時の人々の心に、神の姿が消えかけている現実を見つめていて、人間の救いのために叫ぶのです。
「あなた方の中に、あなたがたの知らない人が立っている」と。
神の恵み、神の愛は、私たちを救うために、私たちの中にすでに注がれているのです。この恵の現実に目覚めて、私たちも精神的な滅び、不毛さから立ち上がりたいものです。

待降節第3金
ヨハネ5・33-36

まことの光が昇るまで(イザヤ42・6、49・6、62・1)、ヨハネはメシアを指し示す灯(あかり)として輝いています。その証しは、イエスの業や父ご自身の証しにくらべるなら、人からの証しにすぎず、相対的なものです。しかし、その証しは、私たちを光そのものへ導いており、その証しを受け入れないなら、光そのものを拒絶することになります。(荒)取るにたらないと見える準備をしないとクリスマスの恵みに預かれないのです。「イエスの誕生物語のように、救い主を信じる者の在り方は、繁栄を求め続ける現代世界にあって、愚かなほど慎ましく見えるかもしれません。けれども神さまがお始めになった出来事は、神さまが完成してくださると信じることもできるのです。」(嘉松宏樹)


待降節第3土
マタイ1・1-17


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12月17日以降は当日のページ参照

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December 17 - 24

待降節の前半から後半へ

待降節は12月17日から後半に入ります。この日から24日にいたる週日は降誕前の八日間として、いっそう直接にキリストの誕生の準備に当てられます(『典礼暦年と典礼暦に関する一般原則』42参照)。福音を中心とした聖書朗読は降誕祭が目前に迫っていることを感じさせる内容となり、司祭が唱える叙唱も主の降誕に直接結びつく出来事を述べるようになります。また、アレルヤ唱の旋律も変わり、待降節の前半から後半に入ったことがはっきりと分かります。
 
12月17日
マタイ1・1-17

イエスは、当時、偉大な人物として評判の“時の人”だっただけではありません。世の初めから神のうちにあり、救いの計画の中に預言されてきた方です。連綿とつながっている系図の中には、立派な人ばかりではなく、不名誉な人の名も記されています。すべての人の救い主となるために、何も包み隠すことなく、人間の弱さの中に入って来られたのです。人となってくださったイエスよ、あなたのうちに神の限りない愛を悟らせてください。sese04
主イエス、私たちの罪の只中に来て下さったことを心から感謝します。今日もあなたの救いの業を喜んでほめ歌います。sese05
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系図は、イエスがダビデの子孫であることを証明しようとしています。淡々と語られていく祖先の名を通して、あるいはタマル、ラハブ、ルツ、ウリアの妻ベトサベなどの女性の名を通して、神が私たちとともにいてくださる(イザヤ7・14)、ドロドロとした歴史を通った、罪びとと連帯していることが伝わってきます。(荒)
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「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」‥‥実はここに全新約聖書のテーマがあります。「主なる神様が、アブラハムと結んだ契約をダビデが受け継いだ。そして、それがさらにイエス・キリストへと至った」、ということになります。 つまりこれは、未解決のままいったん閉じられた旧約聖書の扉が、開かれた、ということなのです。そのむかし、アブラハムと主が交わした契約、ダビデにされた約束、それが尻切れトンボのままわけが分からなくなってしまったのではないということです。‥‥私たちに当てはめて言えば、どうしたら救われるのか、私たちはどこに向かっているのか、それが不透明なまま終わってしまっているのではない。
聖書を探偵小説に例えると、犯人はみつからないまま終わるのではない。
 今、ここについにその答えを与えるページが開かれたのです。イエス・キリストというお方、ここにいたって解決を見るというのです。それが1章1節の意味するところです。ここに救いがあります。マタイは、旧約聖書の続編をここに書いているのです。(ちなみに、「旧約聖書続編」と名の付いたものが出回っていますが、正しく言えばそれは「続編」ではありません。新約聖書が本当の続編です。
)‥‥神さまが一度約束されたことは、決してうやむやになったのではなかった。イエス・キリストにおい て果たされたというのです。
 私たちは、この世のはかない命を、先行き不透明なまま滅びに向かって歩んでいるのではないのです。救いの扉が開かれたのです。イエス・キリストによって成就した神の約束の中を歩むことができるのです。
 その約束のしるしが、十字架です。キリストの血潮による平和と永遠の命。アドベントはこのことを私たちに向かって約束してくれているのです。


12月18日
マタイ1・18-24

ヨセフは、マリアとの結婚を待っていた婚約中に、主の天使から、マリアが聖霊によって受胎していることを告げられます。そこで、身を引こうとしますが、命名権をもつ父としての使命を与えられます。思いがけない出来事に直面し、世間の評判も神に委ねて、全人類の救いにかかわる大きな任務を
引き受けたのです。ヨセフのように、心を開いて、神の招きに応える力と助けをいただくことができますように。sese04
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「信仰」というものを考える時に、たぶんにそういう人間の目から見たら、確実には思えないことを受け入れるという面があるのは事実です。
 もし神の言葉が受け入れやすいものであったなら、信仰というものはいらないのです。たとえば、「神さまを拝むには、1年に1回初もうでをすればよい」というならば簡単なことです。何の抵抗もなく、世の人々は受け入れるでしょう。しかし、主の天使はヨセフに、簡単には受け入れがたいことを言われました。
 そこで、その天使の言葉が、本当に主なる神様の言葉であるかどうかが、いったいどうやって分かったのか、ということになるのです。 これが神の言葉であるのかどうか、ヨセフはいったいどうやって判断したのでしょうか。
 そのことについてきょうの聖書の箇所には、次のように書かれているのです‥‥(22-23)「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 ヨセフは、これらのことがイザヤ書に預言されていた「インマヌエル」=「神は我々と共におられる」という言葉の約束の成就だと信じ、その共におられる神にその後のすべてをゆだねてイエスさまを身ごもったマリアを迎えたのです。
 私たちも、インマヌエルの君、共におられる神であるイエスさまにゆだねて、その主イエスにすがりながら歩んでまいりたいと願います。そこにあかしがうまれます。

12月19日
ルカ1・5-25

神の前で正しい人はすんなりと道を進むことができると、思いがちですが、エリサベトとザカリアの例を見ると様々な心配がありました。
われわれが神を信じることは気がかりがなくなることではありません。日々の心痛(しんつう)の中から、神のみ旨を見出し、従うことでしょう。
主よ、困難な状況の中で示されるあなたのみ心を悟り、行なう力をお与えください。sese05
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ザカリヤは信じられなかった。それに対して、天使は、今までお前が祈り願ってきたことが実現するというのに、どうして神の言葉を信じなかったといって、ザカリヤを叱り、そのために「お前は口が利けなくなる」と言われるのです。そうしたことを背景にして、マリアに対する受胎告知、御子イエスの誕生の告知が語られているのです。ザカリヤの不信仰に対して、マリアの信仰が対比されているのです。
神を信じるということはどういうことでしょうか。それはマリアに天使がいわれましたように、「神にできないことは何ひとつない」という事を信じることです。ザカリアはこの時、その信仰をもてなかったということです。ザカリアは子供が与えられるようにと祈っていたのです。しかし子が与えられなかった。そしてとうとうもう年をとってしまった。もうその時、ザカリアは、「ああ、神にもやはりできないことがあるのだ」という心境になっていたのではないでしょうか。「やはり」というのは、われわれ人間と同じように、「やはり」ということです。「やはり、神様にもできないことがあるのだ」、これはもはや神を信じていないということです。神を自分たちと同じ人間のレベルに降ろしてしまっているということです。それが自分達に子が与えられると告げられた時に、そんなことは信じられません、というザカリアの言葉です。この時、ザカリアの信仰というものが暴露されてしまったのです。
 信仰とは、神にはできないことは何一つないということを信じることであります。しかし、われわれがそのことを、自分達の人間的な浅はかな思いで考えようとすると、自分達の利己的な、自己中心的な思いで、考えようとしますと、われわれの信仰は行き詰まってしまうのではないでしょうか。ザカリアがそうであったように、熱心な信仰もやがて諦めの境地になってしまうのではないでしょうか。われわれはすべてのことをあまりにも人間的な思いで、ある時には人間的な合理主義的な考えで、考えようとするから、処女降誕なんかばかばかしくて信じられるかということになるのではないか。復活なんて信じられるかということになるのではいか。神はわれわれの浅はかな思いよりも、もっと深くお考えになって、われわれの祈りに応えようとしているのかもしれないのに、その神の御心を知ろうしないで、神さまを乗り換えようとしていないか。神を信じなくなっていないか。
マリアは天使から「神にできないことは何一つない」と告げられた時に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、ただちに告白しました、その信仰をこのクリスマスを待つ待降節にあたえられたいと思うのです。
Ekyamada1/luke1a.htm
私たちは、人間的な力に信頼をおくことがあります。その態度を改め、ゆるしを願いましょう。
 

12月20日
ルカ1・26-38

「恵まれた」とはどんな意味でしょうか。自然に恵まれたとか、環境に恵まれた、健康に恵まれたと言いますが、今日の福音を見ると、恵まれるとは主と共にいることです。今、主と共にいる、その恩恵を一層深く悟ることができますように。sese05
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私たちには、いつも恐れというものがあります。将来への不安、生活の不安、年老いていくことへの不安、死への不安。この恐れ、不安というものに、マリアもヨセフもけっして無縁ではなかった。そのことにほっとする思いもします。神様に信頼するということは、自分の計らい、計画を捨てることでもあります。しかしこれがなかなかできません。その代わりに、金、学歴、健康、保険、そして外国であれば銃、国レベルともなれば武力。そのようにいろいろなもので身を固めようとします。あるねずみは、いつも猫を恐れてびくびくして生活していました。そこで神様にお祈りしまして猫にしてもらいました。これで安心と思いきや、今度は犬にいつもほえられるようになりました。
そこで虎にしてもらいました。これで一安心と思いましたが、そうしたところ今度はハンターに狙われるようになりました。そこでやっぱり神様に頼んでねずみに戻してもらいました。 この話は何を言っているのでしょう。
 私たちはいつも金・地位を得ることによって、力を身につけ、大きくなっていくことによって安心を得ようとします。しかしそのようにしてもきりがない。むしろより大きな敵に狙われやすくなるのです。私たちにとって最大の武器は、そのようなことよりむしろ、小さいままであったとしても、神さまにしっかり信頼していく。そのことの大切さなのではないでしょうか。
 いつも主の僕であることを忘れずに、今のありのままの弱い自分であっても、それでもすべてを完全に支配している神様、私をそのようなものとしてここに置いてくださっている神様をすっかり最後まで信頼すること。そして恐れずに今の場を受け止め、そこでしっかり立って歩んでいく。そのことが大事です。
 人生にはいろんな荒波が襲います。時にもうだめ、「どうして」と思うことがあるでしょう。しかしマリアやヨセフが、そしてイエスさ
ま自身が最後には、神様に委ね、自分を明け渡した。そのことを思い起こし、また神様のみ前にしっかり立ちなおして歩んでいきましょう。神様にはできないことは何一つないのですから。


12月21日
ルカ1・39-45



現代社会の大きなテーマは、世代間格差とか世代間の連帯です。今の大人の世代は、国レベルで、大きな借金をつくって、今日生まれる赤ちゃんはすでに何百万円の借金をかかえることになるということとか。原子力発電で何百年も続くゴミをつくってしまって、次の世代はそれを背負わなければならないこと。今の世代は、石油など、資源を使い過ぎて次に世代は困るだろう、と言われているようなことです。 
これでは、アンバランスが出てきて平和な社会は生まれないでしょう。そのために、世代間の連帯が必要です。 
今日の福音書のマリアはまだ二十歳になっていないと言われています。エリザベトは、子供をうめない年齢で、60をこえているでしょう。世代の違うこの二人の女性の美しい出会い、助け合いは今の社会の問題に光を投げかけています。

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ダビデが「契約の箱」をエルサレムに運んだように(Iサムエル6・21、IIサムエル6.12)、マリアは新しい契約の箱となって、神の子を、「ユダの町」(恐らくエルサレムの西6KM離れたAin-Karim)の方へ運びます。「祝されよ」というエリサベトのあいさつは、イスラエルの母デボラ(士師5章)、ユディト(ユディト13・17-18、15・9-10)と同じように、勝利をもたらす女性への賛歌になっています。
ヨハネは胎内で、主の訪れのために喜び踊ります(ダビデが契約の箱の前で踊ったように。ヨハネはイスラエルを代表している)。契約の箱が三ヶ月間、オベド・エドムの家にとどまり、祝福をもたらしたように、マリアも三ヶ月間とどまり、恵みをもたらします。契約の箱が象徴的に示していた「神の現存」は、明白に、イエスご自身の存在によって示されるのです。(荒)
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人を受け入れるエリサベトの態度は素晴らしいものです。彼女の胎内の子が、最も敏感にマリアの挨拶の声に救い主の来訪を感じ取り、その動きに促されて、エリザベトはマリアとその子イエスへの賛美を声高らかに口にします。われわれも出会う人々のうちにキリストの来訪の声を聴き、受け入れていくことができますように。sese05
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私たちは生きている間、たくさんの人々と出会います。利己的な出会いの場合は長続きしませんが、喜びや悲しみ、労苦と楽しみを共有する出会いなら、深く心に残ります。マリアとエリサベトの出会い、それは、互いに力と勇気を与える美しい出会いではなかったでしょうか。その出会いの中に、あらゆる難しさを越えるための慰めと励ましがあったことでしょう。今日もそのような出会いに気づかせていただけますように‥‥。
sese04
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マリアも、エリザベトも「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方である」。その点でキリスト信者の模範になる方です。
私たちはどれほど主のおっしゃることは実現すると信じたものでしょうか。主のおっしゃること、つまり聖書に書かれていることがらを私たちはどれほど信じるものになっているでしょう。いまだ単に、良いことを記した書物ととらえているだけで、それを生活の中心においていない、肉となっていない、と言うことがたくさんあるのではないでしょうか。
 物理学の用語で、「応力」という言葉があります。応じる力と書きます。その意味は簡単に言えばこう言うことです。
 皆さんの座っている椅子。1人で座っているのもあれば、3人座っているのもあります。当たり前のようですが、これは不思議なことです。 一人が座っているとき、椅子はちょうどその1人を支えてびくともしません。なぜでしょう。実は50kgの重さが椅子にかかったとき、椅子の方からもまったく同じ50kgの、1人を支える力が下から上に出ているのです。だからこそ椅子はつぶれることもなく、また人を飛び跳ねさせることもなく、ちょうどぴったり支えることができるのです。
 2人が座ります。やはり同じです。100kg人が座って重荷がかかった時、椅子の方からもまったく同じ100kgの、2人を支える力が出ているのです。今度は3人が座ります。すると今度は椅子からは150kgもの、3人を支える力が出てくる。
 どれくらいの重さが椅子にかかっているか、それがその人の信仰の度合い。この椅子の人間を支える力が、神様から発せられる力。そう捉えたらどうでしょう。椅子はとても頑丈で、300kgの力が掛かってもつぶれることはありません。なのにほとんどの人は、その椅子に、中腰で、恐る恐る、そっと座っているだけです。自分の足に頼って支えようとして、腰からすっかり、じっくり自分の全体重をかけて座ろうとしていません。そのために人はいつもふらふらしているし、また椅子の方も、力を出しきらずに置かれているだけ。そんなことがあるのではないでしょうか。
 私たちはこの椅子にどれだけ腰を据えて座っているでしょうか。自分の足を頼りにし、椅子に深々と座ろうとしないうちは、けっして椅子が本当の力を発揮することはないのです。しかもこのように信じると言うこと、それは本当は簡単なことなのです。自分の足を頼りにすることをやめて、自分で何とかしようとすることをやめ、心配することを忘れ、恐れを捨て、すっかり神に任せ、深々と座ってみたらどうでしょうか。それが主がおっしゃることは必ず実現すると信じるものの姿です。すべて重荷を置いて、椅子に座りなさい。そうイエス様は呼びかけておられます。


12月22日
ルカ1・46-56

誰でも自分が身分の低い者として扱われることを厭うでしょう。自分をそのような者と認めることは、難しいことです。しかし神の中で喜ぶためには自分の低さ、弱さ、限界をよく知る必要があります。自分の弱さの中で神の働きに委ねることができますように。sese05
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このマリアの賛歌をよく味わってみると、マリアがどんな信仰をもっていたか、知ることができます。私たちが幸せだと感じるのは、だれかが自分を愛してくれているとわかった時です。だれかが自分を認めてくれたときのうれしい経験もあるでしょう。しかし、もっと幸せなのは、他の人を愛するとき、認めるときです。
マリアは幸せな思いでしたが、神もまた、喜ばれたでしょう。神の喜びとなるマリアのような信仰を与えてくださいますように‥‥。sese04
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マリアと心をあわせて、神の恵みを賛美しましょう。高ぶるものがしりぞけられ、神のみをたよりにする貧しい人々が選ばれます。その選びも、恵みをすべての人々にもたらすためです。恵みそのものであるキリストを宿したマリアが幸いなのは、その恵みをすべての人に与えようとされるからです。(荒)
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イギリスの貴族院の一人であるロングフォード(Longford)侯爵の語ったことですが、ある人は謙遜について本を書きました。そして、「謙遜について最もよい書物はどれですか」と聞かれて、「じつは自分が書いた本がベストだ」と答えたそうです。おかしな話ですね。自分の謙遜について自慢するのは矛盾ですよね。さて、今日の福音書の中でマリアは、「身分の低い、このはしため(は)、いつの世の人も幸いな者と言うでしょう」と言っています。マリアも自分の身分の低さについて自慢しているでしょうか。そうでなければ、違いはどこにあるのでしょうか。マリアは、神に対する身分の低さを言っています。「主が目を留めて下さった」。神に目を向けて初めて謙遜になれます。神を信じない人は本当の意味で謙遜になれません。
クリスマスの喜びを迎え入れるために謙遜でなければなりません。人の目ばかり気にしていて、人の評判ばかり考えては謙遜なれません。神の目を気にする必要があります。



12月23日
ルカ1・57-66

名前をザカリアと名付けるのはその時代の慣習ですが、エリサベトは頑固に「いいえ、名はヨハネになければなりません」と断りました。
神に従うためには、世の習慣に逆らわなければならない時があります。私たちにも、エリサベトのように神に従っていく勇気が与えられますように。sese05
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しかし洗礼者ヨハネは、自分はメシアではない。偉くなんかない。イエス様こそメシアで神の子だから偉いと、率直に語りました。「自分
はただの人。イエス様の履物をお脱がせする価値もない。イエス様こそメシアなのだ」と言ったのです。
 指揮者バーンシュタインは、一番難しいパートを問われて、第2ヴァイオリンと答えました。けっして目立って音を奏でる第1バイオリンではなく、かと言って技量も同じものを持ちながら、それでも第一ヴァイオリンを引き立たせる第2ヴァイオリンの役こそ、一番難しいと言ったわけです。
 考えてみれば私たちは誰も第二バイオリニストです。第一ヴァイオリンであるイエス様を引き立たせるための。そうでなく自分が何よりも目立とうとするときに、いろんなカルト的な誤りが起こってきます。 また私たちはすぐ自分のすることの実りを求めます。しかし働いてくださるのは神である主です。主が働いて実りをもたらしてくださることを信じ、実を結ばないように思えるときも、自分のすることを地道にしていく忍耐を持ちましょう。
 そのような地道なヨハネとの再会を機に、イエス様は30年の隠れた生活から、世に出て、宣教活動を始めます。イエス様もそもそも人間になったときから謙そんな生き方を始めたのでしたが、それは十字架にまで降ることによって、さらに完全に示されていきます。
 私たちもまっさきにイエス様のみを指し示しましょう。イエス様よりも自分のことを先にすることのないように気をつけましょう。そしてイエス様のみを伝えることに専念し、自分については何も期待しないときにこそ、天の報いがあることを信じましょう。
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「教会の祈り」(聖務日課)の一番最初のことばがあります。「神よ、私の口を開いてください」、「私はあなたの賛美をささげます」。これは、「一日の初めに用いる」とあります。つまり、神を賛美するために、まず口を開いていただく必要があります。今日の福音書のザカリアは、「口が開き、神を賛美しはじめた」とつながります。ザカリアは年をとった祭司で、長年自分の任務を忠実にこなしてきた人です。けれども、神の訪れを受けたとき、それを信じなかったために、口が閉ざされた。順番に従って神殿でいけにえを捧げながらも、しかし、神の賛美をとなえることができなくなった。ザカリアは、おそらく長い人生の中でマンネリ化していたかもしれない。神のことを諦めていたかもしれない。そしてその諦めは馴染み深いものになっていたかもしれない。私たちもおなじかもしれない。長い信者生活の中で、神の訪れを受けて(例えば、「その人を許しなさい」)、信じなかったために、心から喜んで神を賛美することができなくなったことはあるのではないでしょうか。クリスマスを迎えて、喜びのうちに来られる救い主を賛美することができるために、やはり口を開いていただく必要があります。ザカリアのように、自分が受けた神の訪れに戻って、それを受け入れる、言われたとおりにすることによって口が開かれる。

12月24日
ルカ1・67-79

ザカリアの賛歌はとてもスケールの大きい、個人的なことはほとんど出てきていない、イスラエルの民、神様の大きな契約・救い、イスラエルの民を越えて世界に約束されている、そういう契約が前進しているということを歌っているのです。
 私たちは弱い者で、広い視野を持ちなさいといっても、なかなか持ちえない者であり、また一方に、身近なところを大事にする。自分の生活や家族の生活を大事にしていく。そのこと抜きに神様の救いの歴史に預かるということはないといっても良いでしょう。
 でも、自分一人の生活や自分の家族だけの生活ではない。足元の生活をしっかり見つめることによって、そこにクリスマスの出来事は新しい出来事を起こしてくださっている。2007年のクリスマス、私たちもよくよく身の回りを見ますときに、きっといずれかの形で、神様が救いの出来事を新たに起こしてくださる兆しが、私たちの生活の中にはあるはずです。
 クリスマスの出来事はステージや劇の上で向こうで行われていることを、こっちで眺める、そしてそれが済んだら、またもとの生活。クリスマスの出来事は、そういう出来事ではないのです。私たちを巻き込むんです。
 そして私たちの喜びに満ち溢れているとはいえない楽しいことばかりとはいえない、つらいことや、どうしていいかわからないこと、よくよく思いを寄せると本当にどうしたらよいかわからない、そのような只中に主が来たりたもうて、主の御力によって私たちの閉塞(へいそく)状況が変えられる。
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ザカリアは主の天使に、合理的(常識的)な質問をしました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」そして口が利けなくなりました。しかし子供の名前を付ける時、非合理的な答えで口が開きました。こうして今日の福音の預言をしています。神の道に従う時、非合理的な、理解できない、説明できない場合があります。
われわれもザカリアのように、自分の考えをはるかに超える神を知り、賛美することができますように。sese05
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ザカリアの預言の歌を聴くと、彼が神の協力者になったことがわかります。ルカ福音書の初めから、神は協力者を探しておられます。最初にザカリア、次にマリア、その次は、私かもしれません。
神は私たちに協力を求められます。私たちは皆、例外なく、神の協力者です。さて、私は、協力しているでしょうか?sese04
どういう事柄で協力するようによびかけられているでしょうか。

Feriae Nativitatis et Epiphaniae

12月26日(月) 聖ステファノ殉教者

マタイ10.17-22
 
「話すのはあなたではなく、あなたがたの父の霊である」ステファノは反対と迫害を受けましたが、それはかつてイエスが弟子たちに予告されたことでした。そして、「最後まで耐え忍ぶものは救われる」ことを確信したステファノの最後は、イエスの十字架上の姿と二重写しでした。神の霊に満たされ、神が語る言葉を授けられたのです。
主よ、あなたの霊に生かされて、迫害する者のためにゆるしを願い求め、イエスの永遠の命に与ることができますように。
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この世の価値観と逆行して生きるとき、私達はしばしば孤独におちいります。そのような時、父の霊が私の内に注がれていることに信頼し、さまざまな困難に惑わされないように心を鎮め、忍耐のうちに授けられる力に身をゆだねて生きるようにとイエスは諭して下さいます。何事も待つことができず、世俗的知恵を巡らして、何とか自分の力で生きて行こうとしがちな私達に「待つこと」、「ゆうだねること」の大切さが身に浸みます。
主よ、あなただけを頼りにして生きてゆく勇気と忍耐をお与え下さい。
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いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかったいのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった(星野富弘、『鈴の鳴る道〈花の詩画集〉』)



12月27日 聖ヨハネ使徒福音記者

ヨハネ20.2-8

ペトロより速く走って、先に墓に着いた弟子。そして、「イエスの頭を包んでいた覆い」の場所の違いを、「見て、信じた」とあります。
私たちも、日常の中で起こる出来事を、先入観なく、事実をそのまま受け入れて、神の働きを素直に信じることができますように。
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日常生活の中で、時として、思いもよらない出来事が起こり、全く新しい目で物事を見るように招かれる時があります。今まで持っていた価値観、こだわり、執着を捨て、新しい目で見ることが出来たとき、はじめて、その中に隠された真実を見つけることができます。
この信仰の眼を通して受ける宝は、すでに私達の心の奥深くに与えられていたのではないでしょうか。
主は今も生きて私達の生活に関わってくださっているという現実に心の目を開かせ、主をより深く信じることが出来ますように導いてください。
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ヨハネは神の子の受肉、上からのキリスト論を述べましたが、同時に、イエスの人間性、肉であること、すなわち下からのキリスト論を強調しています。私たち人間が神になるという神化(theosis)の思想は、アレキサンドリア(エジプト)をはじめ、小アジアのアンティオキア(今のトルコ)に影響を与えました。イエスの栄光は、この地上ではベールに覆われていました。父のもとにのぼり、栄光を受けられる復活では、もはやベールは必要でなくな
ります。巻かれているベールを見て弟子は復活の神秘を信じたのです。(荒)


12月28日 幼子殉教者

マタイ2.13-18
 
「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)。「損する人があれば、そのために得する人もある」。ホロコスト、ロシア革命、中国、ミャンマーなど。
一人の権力者の罪によって幼子たちが殺害され、母親たちの嘆きと声なき幼子たちの叫びが、聞こえてきます。
命を与え尽くして信仰の賛歌を捧げている人々を思い起こし、私たちの行いの中に信仰を表す恵みを願います。
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人生には、「こんな筈ではなかった」という思いにかられながら、当然の権利も主張できずに耐え忍ばなければならない時期があります。そのような時、なぜこのような苦しい目に会わなければならないのか、不当な扱いを受けなければならないのか、などと思い勝ちです。
しかし、何か目に見えない力に身を任せることができて、その時期を何とか通り過ぎることができたとき、イエスが共にいてくださったこと、確かに自分は守られていて、自分の人生で救いの業が成し遂げられたことを感謝の内に感じるときがあります。
人の思いをはるかに超えた幸せにあずかることを約束してくださった主よ、不条理と思える苦しみをもあなたと共に乗り越える力をお与えください。
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北朝鮮の今の状態でたくさんの子供が餓死していると言われいます。また、今月は、真珠湾攻撃の70周年にあたります。これもたくさんの犠牲者を出しました。なぜ神様はこんなこと許しているのでしょうか。これは、哲学的にも神学的にも難しい問題なのですが、簡単に説明してみます。人間には血圧があります。血圧は上がりますと具合悪いので下げないといけません。食生活を変えたり、薬を飲んだりします。けれども、無理やりに下げるととんでもないことが起こります。やはり、自然のリズムや条件に合わせなければうまくいきません。人間にはある程度の自由がありますが、同時に自然に従わなければなりません。神様に従わなければなりません。Von Balthasarの言う「有限的自由と無限的自由のドラマ」(Theo-Drama, II)。ヘロデ王もキム・ジョンイルもこの点は一緒です。二人とも自分の限られた自由は絶対と思って、好き勝手に人の命を扱います。自分を神にしてしまっている。人間の自由はうまく使われるためには、神様の自由と相談しなければならない。そうしないと、とんでもない犠牲者を作ってしまします。イエス様の到来はこの世に光をもたらしました(第一朗読 参照)。その光で闇も見えてきました。人間が神を無視することによって、自分自身を神に仕立ててしまいます。こういうことを悟る人は一人でも多く増えたら、これ自体は一種の購いであり、救いとなります。


12月29日 主の降誕節 第5日

ルカ2.22-35


イエス様が30歳になったころは、安息日に自分の町ナザレの会堂に入り、イザヤ書の一ヶ所を朗読した後、「今日、この聖書のことばは実現した」(ルカ4・21)と話した。イザヤの告げたメシア的な働きはここにあるということですが、認めてもらえなかった。むしる、町から追い出されて崖っぷちから皆落としいようしました。
それなのに、今日の福音書のシメオンは、赤ちゃんを見て、これは「イスラエルの慰め」だとさとった。不思議ですね。赤ちゃんはこれからどうなるのかわからないでしょう。元気に育つのかそうではないのか。どうしてシメオンは断言できたのか。
シメオンは「正しい人で信仰があつく」、「聖霊がかれにとどまっていた」とあります。
たとえてみれば、これはモーセの「燃える柴」(出エジプト3)の体験に似ている。柴が燃えるが「燃え尽きない」(つまり、神と被造物は共存できる、非競争的関係)。これは、モーセの神体験、召命を受ける時です。シメオンも慰めを受けて、赤ん坊について証しする使命を受けていた。、
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シメオンが腕に抱いた幼子は、すべての人のために与えられた救いの光です。一緒にこの幼子を見つめてみます‥‥耳を澄ましてみます‥‥。
そこに、闇を照らす光、私たちへの神からの語りかけが与えられているのです。
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ごく当たり前の日々の暮らし、その中で行われる日常のしきたり、そこに送られてくる神からのメッセージ。絶えず祈り、「待つ」ことによって私達の心は敏感になります。
自らにあたえられた使命に気付き、定められた時を見逃すことのないように、主よ、あなたの救いの光を私達の上に照らしてください。


12月30日  主の降誕節 第6日

ルカ2.36-40

先週もらった名刺にある人の様々な情報がのっていました。「どこそこの大学」、「何々研究室」など。一週間前なのに今は何も覚えていません。今日の福音書ではルカはアンナ預言者について大変詳しい情報を伝えています。ルカはアンナ預言者の名刺をもらったのかなと思ったりします。ルカの情報源は何だったでしょうか。
専門家(Ratzinger, L'infanzia di Gesu', p. 24-25, Joachim Gnilka)によりますと、ルカ自身ヒントを与えています。2章51節にこのようなことばがあります。「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(2章19節参照。「思い巡らしていた」)。母マリアはルカの情報源だったのです。確かに、お告げの場面を伝えうるのは、立ち会う人間はいなかったので、マリアだけでしょう。
マリアはすべてを心に納めて、思い巡らしていたのは事実なのか、それともルカはでっち上げたのか。恐らく、イエスの死と復活の後に、イエスは生まれたのはどうだったのか、子供のころどうだったのか。皆興味を持ち始めたでしょう。それで、母マリアは親戚や家族の人びとに伝えた事柄は伝承になってルカの情報源となったと言われています。教会の信者さんでも、子供は洗礼を受けた時に、神父は誰だったのか、誰が立ち会っていたのか、母親なら何十年経っても覚えるでしょう。
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女預言者アンナは、「救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」私たちは、何を信じてよいのかわからない情報過多の時代に生きています。幼子に心を開き、その語りかけを聴くことができる私に戻らせてください。
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特別な実を結びそうも無い平凡な日々でも、心の深いところでかき消されることのない希望、憧れ、渇き、何かを求め続けている自分の心。そして、やっと気付きます。その何も生まれてきそうもない日常生活を誠実に生きる中にこそ幼子イエスと出会い、主とともに成長し、イエスの弟子となる恵みに満ちた道があることを。
主よ、わたしが与えられた場で感謝のうちに、真心こめて生きることができるよう支え導いてください。
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シメオンもアンナも共に、信仰厚く祈りの日々を過ごしていた人であった。
私たちも日々の生活の中に祈りの時を持ちたい。人に知られることの少ないガリラヤのナザレで、幼子とマリアとヨゼフの生活が祈りに満ちたものであったように、神の恵みに包まれるために。
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聖家族

「私は父の家にいるのは当たり前でしょう」。しかし、「両親はイエスのことばの意味はわからなかった」とあります。これは、マリアがお告げの時以来、イエスが神の子であることを知っていたことと矛盾するものではないとおもいます。イエスが神の子であると十分分かっていても、それが実際の生活の中でどのような形をとり、どのように展開していくか、その具体性に関するかぎり、マリアにもヨセフにも明らかでなかったということなのです。甘いつながりの中に、ともすると憩(いこ)い、しがみつき、ときにはそこに眠り込んでしまう私たちにとって、現実の中で、自分たちの究極が、神のみ旨の中にあり、神に向かうものであることをみつづけるのは、ほうんとうに難しいということなです。互いのつながりを大切にしながらも、神に向かう旅であるという人生の現実をしっかりとみつめて生きるという課題が、マリアとヨセフにも私たちにも与えられているのです。



12月31日 主の降誕節 第7日

ヨハネ1.1-18
 

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」「わたしたちの間」とは、私たちの家庭・職場・教会・地域‥‥人々の出会いと交わりの中でしょう。
今も宿り住んでおられる神を、今日も見つけることができますように。
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「言は肉となった」天地創造はまず「光あれ」という神の言にはじまりました。今日の福音では「言の内に命があり、命は人間を照らすひかりであった。」とあります。
洗礼者ヨハネは光であるキリストを人々に証するために遣わされました。
そして私たちも、先駆者、預言者と同じ使命をいただいています。
主よ、今年もずっと共にいて、恵みで満たしてくださったことに感謝と賛美をささげます。
来たる新たな年、あなたの恵みを一層深く悟り、救いを求める周囲の人々に神の愛と真の喜びを伝えることができますように。
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私たちは善きにつけ悪しきにつけ、両親の言葉によって育てられます、神も“ことば”によって私たちを育てます。しかしそれはいつも善です。わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。耳を傾けて聞き、魂に命を得よ。(イザヤ55・2-3)神のことばそのものであるイエスはその全てをもって父である神を示しました。
それは私たちを神の子とするほど、恵みと真理に満ちている方です。


1月 2日 主の降誕節 主の公現前

ヨハネ1・19-28


イスラエルの人々は、ヨハネのもとへ祭司やレビ人たちを送って、ヨハネがどういう人なのか尋ねさせた。わたしたちを救うメシアなのか?それとも、わたしたちの進むべき道を教えてくれる、預言者なのか?私たちはいろんなものに救いを求める。どう生きればいいか、失敗しない道はどの道なのか・・・。ヨハネははっきり言っている。「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる。その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない」。
私たちの中に隠れておられる、真の救い主に気づくことができますように。
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ヨハネは言う。「わたしはその履物の紐を解く資格もない」。人の履物の紐を解くのは、当時最下層の人たちの仕事だった。「その人」の前では、そうした最下層の人たちが持つ資格もないと、ヨハネは明言する。神の子の前で自分が何者なのか、神の子のために自分は何をするべきなのかを、ヨハネは知っていた。私はどうだろう。少しでも自分を偉く見せたい、人より優れていたいなどという思いによって、自分を見失っていないだろうか。
いつも神の子の前に立ち返りながら、自分の本当の姿を知り、使命を果たしていくことができますように。


1月 3日 主の降誕節 主の公現前

ヨハネ1・29-34

ヨハネはイエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証しします。人間的な関わりの中では、その方を知りませんでしたが、神が教えてくださり、自分に与えられた使命も、この方のためであったと確認します。私たちも今、出会う人々の中にイエスを観て、「見よ、神の小羊だ」と指し示すことができるのではないでしょうか。今私に与えられているすべての恵みを、この方のために差し出すことを通して。
主よ、日々の出会いの中で、あなたを証ししていくことができますように。


1月 4日  主の降誕節 主の公現前

ヨハネ1・35-42

イエスは弟子たちを振り返り、「何を求めているのか?」と問われた。私はなんてこたえるだろう。頭の中が真っ白になって、戸惑って、満足のいくこたえはできないんじゃないのかな。お金、健康、友情、家族愛、いろいろなことが頭をよぎる。すべてはこの目の前にいるイエスあってのこと。イエスは続けて私に言われる。「来なさい。そうすればわかる。」
そこにイエスがいるだけで、満たされることがわかる。どうかいつもイエスだけを求めていくことができますように。


1月 5日  主の降誕節 主の公現前

ヨハネ1・43-51

イエスは、ナタナエルとまだ一言も話をしていないのに「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われた。その根拠は、ナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見たから。イエスは、いちじくの木の下で、何をしているナタナエルを見たのだろう。
泣いているナタナエル、それとも必死で何かを祈っているナタナエル?分からないけど、イエスは、誰にも見られたくないこと、知られないこともちゃんと見ておられる。
「見られたくない」「知られたくない」というわたしのエゴを超えて注がれるイエスのまなざしに、少しでも一致していくことができるよう、祈りたい。



1月 6日 主の降誕節 主の公現前

マルコ1・7-11

その当時、人の履物のひもを解くのは奴隷の仕事だった。それなのに洗礼者ヨハネは、イエスの前ではその奴隷よりも自分は値打ちが無いと言った。謙遜な人だ。実際、神の前で人間は何者でもないのだ。しかし、イエスに向けられた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という天からの声は、今、イエスを通して私たちの内にも行き渡る。
神の前で塵にすぎない私が、神の子として愛されている恵みに気づき、感謝と喜びの内に生きることができますように。


1月 7日 主の降誕節 主の公現前 

ヨハネ2・1-11

カナでの婚礼で、イエスは水を上等のぶどう酒に変えられた。でも、もしわたしが召使だったら、どう振舞っただろう。「水瓶に水をいっぱい入れなさい」。「え、なぜ水なんか汲まなきゃいけないの?」。「それを宴会の世話役のところへ持っていきなさい」。「エー、お客に水を出すなんて。やめましょうそんなこと・・・」。実際のところ、イエスを世間の尺度で測ってしまい、奇跡の邪魔をたくさんしているかもしれない。信頼しなければ、奇跡は起こ
らない。イエスがその力を発揮できるのは、わたしの信頼があってのことだから。
自分の貧しさを知り、主に全面的に信頼して、従っていくことができますように。


主の公現後月曜日

マタイ4.12-17,23-25
 
「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
」今日で正月の三が日も終わります。明日から初仕事の方もあるでしょう。新たな歩みの中で、周りにいる人々の叫びに耳を傾け、その人にどのように寄り添い、具体的にどうすることが必要なのかを知る恵みを願います。
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主の公現後火

マルコ6.34-44
 
弟子たちは、大勢の群衆を前にして、こんなに多くの人に食べさせることはできない、と諦めます。
イエスは、群衆の姿に心を動かされ、何かをせずにはいられませんでした。
普段の生活の中で、他人の困難な状況に対して、いろいろな理由で自ら手を出さないことがあります。自分の判断基準ではなく、イエスのように他人の苦しみに心を向け、行うことができますように。
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全能の神、宇宙の作り主、時間と空間に縛られない神様は、小さな赤ん坊、弱い存在となったというクリスマスのパラドックスは、今日の福音書にも現れます。大勢の群衆の飢えに対して、神の子の力を発揮して、なんでもできるはずなのですが、イエスはむしろ人間の持っていいる不十分なもの(五つのパンと二匹の魚)を求めます。全能の神は一番弱い者になる。全能の神は足りないに決まっているものを求めます。でも、足りないものの背景に神の愛がある(今日の第一朗読、「神が[先に]私たちをしました」)ということを悟れば、足りないものの中に神の愛があると分かれば、そしてそれを惜しみなく差し出すと、大群衆の満足につながります。パウロのことばで言えば、私たちは神から慰めていただいた慰めで人々を慰めることができる、と。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」(コリントの信徒への手紙二 1章1節~11節)また、「何 よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(マタイ6:33)」、その他のものは与えられる」ということばにもつながると思います。



主の公現後水

マルコ6.45-52
 
イエスは、おびえる弟子たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、すぐに語りかけます。恐れていると、真実の姿が見えなくなります。
主よ、あなたが助けを求める人をすぐに力づけてくださることを、私は知っています。
いつも、あなたを信頼し、心の深いところで安心していることができますように。
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逆風や大波に飲み込まれそうになった弟子たちは、湖の上を歩いて来るイエスを見て、自分たちを滅ぼそうとする幽霊であると思い込み、恐れおののき大声で叫びました。しかしイエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言い弟子たちを安心させ、力づけます。第一朗読にヨハネは言います。
「神の愛に留まる人は恐れることはない。完全な愛は恐れを締め出します。」(一ヨハネ4・18)私たちも私たちに対するイエスの限りない愛とケアに信頼するならばどんな恐れも私たちを征服することはできないでしょう。
私たちも弟子たちのように振舞うとき、苦しいとき、問題とぶつかるとき、また、物事がうまくいかないとき、神がわたしを見捨てたと思い込み、希望と信仰を失うことがあります。
しかし、このようなときこそイエスはわたしたちのすぐそばにおり、私たちと共に歩んでいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」といつも言っているイエスの声に耳を傾けましょう。
主よ、どんなときにもあなたへの希望を失わないように、あなたへの信頼と愛を一層深めてください。
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海の上を歩くことは神のすることである。また、出エジプトのときに紅海を渡った出来事を思わせる言葉です。

ヨブ9:8 神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。
詩編77:20 あなたの道は海の中にあり/あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。
イザヤ43:16 主はこう言われる。海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方「わたしだ」(ego eimi)というのは、神が民を救いに来られるときを思わせる言い方です。(出3,14、申命記32,39、イザヤ41,4、43,10-13参照)

弟子たちはまだ神としてのイエスとそのミッションを受け入れる準備ができていない。


主の公現後木
ルカ4.14-22a
 
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」
「貧しい人」とは、迷ったり、うまくいかないことだらけだったりする私かもしれない。
苦しい時にイエスの語りかけを耳にした私には、実は、もうすでに、御言葉が実現しているのです。あとは、当面自分を惑わすものから自由になりますように。
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「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主の恵みの年を告げるためである。」
これは、イエスが朗読した聖書の箇所であり、また公生活においてイエス自身が実際に生きたことでもあります。私たちも、イエスのように洗礼によって神の子とされ、また堅信の秘跡によって、イエスのように神の国の福音を告げ知らせる恵みと任務を受けました。
イエス自身の福音宣教が、自分が育ったナザレで始まったように、私たちも、自分の最も近い者から福音宣教をするように招かれています。
神の子である私たちも、主の霊をいただくことによって捕らわれ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人に自由を告げるために主の道具として遣わされています。
主よ、まだあなたを知らない人々にあなたがもたらした救いを告げ知らせることができるようわたしたちに必要な恵みをお与えください。
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「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った信仰です。世に勝つものとは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ 5:4,5)


「いわしの頭も信心から」といいまして、魚でも何でも信じていればご利益が与えられる、といったような考えをします。「念じれば道が開ける」ともいわれます。そこには信仰の内容は問われません。何を信じていようが信じることが尊いという考えでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。信じるということは漠然としているというようなことではないと思います。何を信じているか、そのことが問われているのではないかと思うのです。それは、この箇所から言うと、「イエスのキリストであることを信じる」(1)信仰、「イエスを神の子と信じる」(5)信仰であるということができます。イエスを神の子、まことの神と信じる信仰のことです。あのナザレのイエスがわたしたちの救い主であるということなのです。神の救いが、わたしたちと同じ顔かたちをとられて、イエスという存在として現れた、ということなのです。

 私達が生きている「この世」を浮き世、また、憂き世と言いあらわす事があります。それは、浮いたようで、はかない世。定まらない世。辛いことの絶えない世の中、と言う意味が込められています。
 一生の間には、何をやっても調子よく事が運び、世の中、自分を中心に廻っているかのような上り調子の時もあれば、その反対に、どんなに真面目に努力しても、報われず、わが身の不運を呪いたくなるような時もあります。
 また、他人には到底わかってもらえないような悲しみに襲われ、悶々とした日々を過ごすこともあります。

 しかし、そのような世にあっても、勝利する秘訣があります。
 それは、イエス・キリスト(神)に対する「信仰」です。この「信仰」はギリシャ語で「ピスティス」と言いますが、その言葉はイエス・キリスト(神)に対して用いられる場合には「真実」と訳されます。ですから、イエスの真実に信頼して歩んで行くことが信仰であり、そこにこそ勝利の鍵があるのです。

 イエス・キリストの真実さは、私たちに対して、様々なかたちで現されます。 その一つは「助ける、守る」ということにおいてです。
 聖書に、「神はわれらの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け」(詩46:1)とあります。
 またその「真実」は時には、「慰め、励ます」と言うかたちで現されることもあります。ガンに冒され、あと数ヶ月と宣告された婦人が、私に言いました。「私は、イエス・キリストを信じてきて、今、本当によかったと思っています。何故なら、イエスさまは私に『私は、よみがえりです。いのちです。私を信じるものは、死んでも生きるのです。』と約束してくださったからです。それが私の大きな慰めです」と。

ヨハネがこの手紙を書いた頃は、「イエスは主である」という告白は、即当局者からの迫害の対象とされるという外からの戦いがありました。また、「イエスは人であって神ではない」という、いわゆる「異端」、教会内における戦いも熾烈を極めていた時代です。このような時代の只中にあって「イエスは主である」という告白は、並大抵のことではなかったであろうと思うのです。しかし、彼らは大胆にこの告白をしたのです。それは、その背後に聖霊がおられたからです。聖霊がその告白をさせたのです。背後に聖霊がおられる戦いは「勝利」以外の結果は生じないのです。人間の力、人間の告白、自分の‥、という「肉」の行いや告白は、しばしば「敗北」という結果を生じさせ、時には落胆し、時には高ぶり、時には破滅へと至るものです。しかし、「私たちの主であり救い主であるイエスを信じる信仰」は聖霊によってのみ生まれるものであり、そのもたらすところは勝利なのです。

ヨハネ文書及びパウロ書簡は「世」を神から離れた自立的悪しき存在と考えているようです。ヨハネ伝3章16節の「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。」と語られた「世」は、神から離れて、永遠の命を持たない存在と観ている事がわかりますし、パウロは復活への信仰を記す中で「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」と記した後「神はわたしたちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を賜ったのである」と宣言しております。それは、世(コスモス)というものがどれほど美しく秩序だっているとしても神から離れて、「運命と死」の力が支配しているのが「世」であると見ていたと考えることができるでしょう。

「死と運命」に打ち勝つ力は主イエス・キリストへの信仰であり、キリストの十字架と復活を信ずる者になったということは「死と運命」の思いに勝った事であるというのがここで言おうとしていることではないでしょうか。なぜなら、当時のギリシャそして今の日本において「死と運命」は100パーセントの力を持って人々を支配していると考えていましたし、そのように確信しているのが、私たちを取り囲んでいるこの世です。それに勝つのが「我らの信仰」であると言うのです。

 



主の公現後金

ルカ5.12-16
 
ヨハネ第一 5:6~13 
 ヨハネはイエス様の歴史的事実を、イエス様の御生涯のうちに極めて重要な二つの出来事に要約し、象徴して、「このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである」(6節)と書いています。ここで「水によって」という言葉が象徴しているのは、洗礼のことです。この時、神様は「これはわたしの愛する子」と宣言されました。こうしてイエス様が神の御子キリストと証されたのです。また「血によって」という言葉が象徴していることは、十字架の上での死のことです。イエス様は十字架にかかって死ぬことによって、購い主としての務めを成し遂げられ、ご自身がキリストであることを証されたのです。そしてこの二つの歴史的事実を私たちの心に絶えずあかし続け、わからせてくださるのは聖霊様なのです。(伊藤)
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この重い皮膚病の人は、どれほどの差別を受け生きてきたのか。どれほど自分の存在価値をないがしろにされてきたのか。人間としての尊厳を無視されたような悔しさ、全身が火照るほどに悔しい経験をしたことがあっただろう。今もその最中かもしれない。だから、イエスに頼む前に、自分はイエスによって病気を癒されるという確信を持つことができたのです。イエスに対するこの病人の信仰はわたしたち、信仰の薄い者にとって良い模範です。イエスは神の子キリストであると言うことを疑わずに信じることができるならば、私たちもこの病人のようにイエスに直接打ち明け、必要な恵みを頼み、祈ることができます。
イエスはわれわれの心の中を強引にこじあけるようにして、入ってこられるのではなく、場合によっては、そうする時もあるかも知れませんが、イエスは大変辛抱つよい深い愛のかたですから、われわれが心を開くまでじっと待っていてくださる、そのようにしてわれわれを招こうとしてくださっているのです。この重い皮膚病の人のように絶望感に包まれる時でさえ、イエスに駆け寄る勇気が与えられます。 大変希望に満ちた福音書です。
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主の公現後土

ヨハネ3.22-30

 三つの確信 ヨハネ第一  5:14~21 
 ここには神の子が持つべき三つの確信が書いてあります。第一の確信は、永遠のいのちを持っているという確信です。13節の「神の子の御名を信じる者」とは、クリスチャンのことです。著者の目的は、彼らに「永遠のいのちをもっていること」を悟らせることです。即ち、永遠のいのちを持っているという事実に確信を持ち、その上で「世に勝つ」(4節)歩みをしてもらいたいのです。第二の確信は、祈りの確信です。神様が私たちの祈りに耳を傾けて聞いてくださるという確信です。そしてただ自分のためにのみ祈るだけでなく、兄弟のためにとりなしの祈りを勧めているのです。第三の確信は、自分は神のものであるという確信です。自分が神によって生まれ、神から出たものであるという確信こそ、罪に対する勝利の原動力だからです。(伊藤)
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「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」ヨハネにとっては、自分が崇められることなどどうでもよいことで、それよりも「花婿」の到来に心から喜びを感じたのでした。
降誕節の終りを迎えながら、人として来られたイエスが私たちを支えてくださっていることに、喜びと感謝を味わうことができますように。
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7 opere di misericordia

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7 opere di misericordia

Le sette opere di misericordia corporale [modifica]
Dar da mangiare agli affamati.
Dar da bere agli assetati.
Vestire gli ignudi.
Alloggiare i pellegrini.
Visitare gli infermi.
Visitare i carcerati.
Seppellire i morti.
Le sette opere di misericordia spirituale [modifica]
Consigliare i dubbiosi.
Insegnare agli ignoranti.
Ammonire i peccatori.
Consolare gli afflitti.
Perdonare le offese.
Sopportare pazientemente le persone moleste.
Pregare Dio per i vivi e per i morti.

七つの慈善のわざ
「慈善のわざとは、身体的・精神的に困っている人々を助ける愛の行為です。教え、助言
し、慰め、励ますことなどは、ゆるし、耐え忍ぶことなどと同じように、精神的な慈悲のわ
ざです。とくに飢えている人に食べさせ、宿のない人に宿を提供し、着る物を持たない人に
衣服を与え、病人や受刑者を訪問し、死者を埋葬することなどは、身体的な慈善のわざです。」Catechismo 2447
「高山右近史話」によると、高山右近は、当時キリシタンが暗唱していた教理箇条にある「慈悲の所作」を実践し、その領地は福祉国家だったとされています。
この「慈悲の所作」は、当時の教理書「どちりいな・きりしたん」によると以下の七つの肉体的慈善業と七つの精神的慈善業に分かれていたようです。
色身にあたる七のこと
一には、飢えたる者に食を与ゆること、
二には、渇したる者に物を飲ますること、
三には、膚をかくしかぬる者に衣類を与ゆること、
四には、病人をいたはり見舞うこと、
五には、行脚の者に宿を貸すこと、
六には、とらはれ人の身を請くること、
七には、死骸を納むること、これなり。
スピリッツ(精神)にあたる七のこと
一には、人には異見を加ゆること、
二には、無知なる者に道を教ゆること、
三には、悲みある者をなだむること
四には、折檻(せっかん。厳しく諌める)すべきものを折檻すること
五には、恥辱を堪忍すること
六には、ポロシモ(隣人)の不足を赦すこと
七には、生死の人と、また我に仇をなす者のために、デウス(神)を頼み奉ること、これなり。