Holy Week     聖週間

受難の月曜日
「マリアは香油をイエスの足に塗った」
ヨハネ12・1-11

やがて死んでいくイエスの姿を見抜いて、マリアは自分の最善のものをささげました。マリアのようにこたえていくことが私たちの信仰生活だと思います。こうしておけばこうなるというのではなく、こうなったからこうするという生活が生まれてこなければならない。そこには律法でない生活がある。私たちは自分自身をふり返ってみて、私のために死んでくださったイエスに対して、あまりにもふさわしくない歩みをしているのではなかろうか、とこの聖週間の間に深く反省したい。人は、そこまでしなくてもいいではないかと言うかもしれない。信仰は自分あっての信仰で、信仰のために自分が苦しんだり、損したり、貧しくなったりしていくのはおかしい、というのが、イスカリオテのユダの論理です。私たち信仰する者にとっては、イエスの命が注がれたのであるから、何をもってこたえたとしても、十分なこたえにはならない。そこには信仰のない人々の理解できない世界があります。(榎本)
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イエスはマリアが高価な香油でイエスの足を清めたことを、イエスご自身の「葬りの日」のためと言われます。そこにいた、よみがえったラザロとあわせて眺める時、この高価な香油を通してイエスの死と復活が響き合ってきます。
主よ、あなたの死への道行きが、わたしたち全ての人の復活へとつながることを悟る遠いまなざしを与えてください。

受難の火曜日
「あなたたちのうちの一人がわたしを裏切る」
ヨハネ13・21-33、36-38

新しい家を建てる前に古い家を壊す作業はよく見かけます。聞くところによると、解体作業をする業者と建設する会社は違うそうです。仕事のタイプも違うし、労働者のスキルも違う、と。建設する場合は大工さんのような職人カタギが求められる。十分注意しながら進めなければならないのです。解体作業の場合は基本的に力づくで壊せばいい。
裏切りは家の解体作業のようなものです。短時間で長年住んだ家を壊すように、裏切りは人間関係を壊します。この聖週間にあたって、私はどちらのタイプに属しているのかを自問することは、とてもいいと思います。私は人間関係を壊すタイプなのか、それとも建設するタイプなのか、と。
解体業者は、社会に役立っています。裏切りも神の計画の中で何らかの役割を果たしているかのようです。神様は裏切りからも、よい結果を導きます。だからと言って、裏切りを行った人はどうでもいいということではないのです。ユダとペトロは全く異なった結果をもたらしたことからも分かるように、放っておくようなものではないのが明らかです。
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第一朗読に、「あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝き[栄光]は現れる」(イザヤ)とあるように、福音書では、ユダの裏切りとペトロの否認は、神の栄光を表してる。大変なパラドックス(逆説)ですが、こういう出来事は単なる人間のはからい、企て、たくらみではなく、神の計画の実現である、と。
ユダとペトロはイエスの愛にそむく点では同じです。ペトロはやさしい愛情をもっていますが、困難に耐え抜く強さに欠けています。ユダは合理的に筋道を追求する完璧主義者です。そのため、横領(おうりょう) や裏切りを悪いとも思わない氷のような頑固さに陥ります。
「心をつくし、精神をつくし、力をつくして神を愛せよ」。愛のおきてで大切なのは、「つくす」ということではないでしょうか。それは自分を与えつくし、ゆだね、まかせ、信じきることです。たとえ愛にそむき、裏切ったとしても、イエスの愛を信じて、みじめな自分をそっくり、そのまま、まかせることです。そこにペトロの涙とユダの絶望の違いが生まれます。(荒)
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La messa a Santa Marta
Mai parlare male degli altri

Parlare male di qualcuno equivale a venderlo. Come fece Giuda, che vendette Gesù per trenta denari. E proprio prendendo spunto dal brano del vangelo di Matteo che preannuncia il tradimento dell’apostolo, nella breve omelia della messa celebrata la mattina di mercoledì 27 marzo nella cappella della Domus Sanctae Marthae, Papa Francesco ha messo in guardia dalla maldicenza. Con un invito esplicito e netto: «Mai parlare male di altre persone».

A loro il Papa ha voluto lasciare una riflessione sul gesto compiuto da Giuda, uno degli amici di Gesù, che non esita a venderlo ai capi dei sacerdoti. «Gesù è come una mercanzia: è venduto. È venduto in quel momento — ha sottolineato — e anche tante volte nel mercato della storia, nel mercato della vita, nel mercato della nostra vita. Quando noi facciamo una scelta per i trenta denari, lasciamo Gesù da parte».
Quando si va da un conoscente e il parlare diventa pettegolezzo, maldicenza, secondo il Papa «questa è una vendita» e la persona al centro del nostro chiacchiericcio «diviene una mercanzia. Non so perché — ha detto ancora il Pontefice — ma c’è una gioia oscura nella chiacchiera». Si inizia con parole buone, «ma poi viene la chiacchiera. E si incomincia quello “sp ellare”l’altro». Ed è allora che dovremmo pensare che ogni volta che ci comportiamo così, «facciamo la stessa cosa che ha fatto Giuda», che quando andò dai capi dei sacerdoti per vendere Gesù, aveva il cuore chiuso, non aveva comprensione, non aveva amore, non aveva amicizia.
E così Papa Francesco è tornato a uno dei temi a lui più cari, quello del perdono: «Pensiamo e chiediamo perdono», perché quello che facciamo all’altro, all’amico, «lo facciamo a Gesù. Perché Gesù è in questo amico». E se ci accorgiamo che il nostro parlare può fare del male a qualcuno, «preghiamo il Signore, parliamo col Signore di questo, per il bene dell’altro: Signore, aiutalo». Non devo essere io — ha quindi concluso — «a fare giustizia con la mia lingua. Chiediamo questa grazia al Signore».


誰かの悪口を言うことは、その人を売り込むことに等しい。イエスは商品のように売られる。歴史という市場、人生という市場、日常生活の市場でキリストは売られる。銀貨30枚の方がキリストよりも選ばれる。
ゴシップとか悪口は売却(ばいきゃく)である。ゴシップや悪口の対象となった人は商品となって、売られる。なんだか、おしゃべりには変な喜びがある。ユダもこのようにしていた。イエスに対して心を閉じていた。理解はなかった、愛まなかった。友情もなかった。(教皇フランシスコ、2013年3月26日)



受難の水曜日
マタイ26・14-25

使徒ユダの裏切りの理由について、マタイ、ヨハネ福音書とも、明確な答を述べていない。いろいろな理由が考えられるその一つに、ユダは、イエスの選んだ道が、“失敗”に向かっていると理解し、自分の描く“大成功のドリーム”と大きく違ったことに気づく。イエスを自分のドリームに従わせることができず、失望したことが、イエスを引き渡すことに繋がったと思われる。山上の説教を思い起こさせる。「弟子は師にまさるものではない。しかし誰でも修行を研鑽すればその師のようになれる。」
主の僕イザヤとともに祈ろう。「主なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてください。」(イザヤ50・4)sese07
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ユダの裏切りは選ばれた民、イスラエル人の不信の歴史を代表しています(縮図)。イスラエル人は荒れ野で肉を食べたいと不平を言い、奴隷状態を懐かしがりました。彼らは、そして私たちも、苦しみの中では、神のいつくしみを忘れます。
過去過ぎた日の未練にとらわれず、未来の苦しみに思い惑わず、きょう一日を神のいつくしみのうちに送らねばなりません。そのために新しい過ぎ越しの食事、聖体祭儀が行われます。(荒)
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「生まれてこなかった方が、その者のために良かった。」という言葉は重く心に沈みます。イエスから決定的に離れてしまうことは、救いにあずかれないこと、不幸そのものであることを、イエスは語っておられるのではないでしょうか。
「まさかわたしのことでは」と問いかけ「それはあなたの言ったことだ」とのイエスからの答えをかみしめながらも、あなたに従ってゆくことができますように。


「聖なる過越の三日間」

「過ぎ越し」

「ヘブライ語で《ペサハ》。すなわち《通り過ぎる》という動詞から来ている。エジプト脱出という神の救いのわざ全体うを表す重要なことばになった。」(『聖週間の典礼《会衆用》』、オリエンス宗教研究所、5頁)
過ぎ越しといえばエジプトからの脱出を思い出しますが、3500年前の昔話で正直言って他人ごとに聞こえる。キリストの過ぎ越しも2000年前の話でこれも昔話で身近に感じないでしょう。
過ぎ越しをもっと身近に感じるように考えてみたいと思います。

これはヘブライ語のことばからきていて、「変化」という意味もあります。
卵は鳥になる。これも過ぎ越し、変化、だから復活祭のシンボルです。神戸から梅田まで行くためには尼崎駅を過ぎ越さなければならない。人生も過ぎ越し、私たちは子供から、青年になって、大人になって、またおじいさん、おばあさんになる。けれども、おじいさん・おばあさんになっても、神様の目からみたら、みなまだ卵の状態です。今からどうなるのか、それは分かりません。言ってみれば、赤ちゃんに50歳になるのはどういうことかを説明してみるようなことです。小学生に親になることはどういうことか、教えてあげてみても分かる能力はないからね。人生において、私たちは様々な変化、過ぎ越しを体験してきました。どれもやさしいこととは限らない。子供は大人になっていく中で、思春期があったり、闘いがあったり、苦しいときがあったり、迷い、失敗もあります。けれども、振り返ってみて、色々あったけれども、それでも感謝できるなら、今からどうなるかを希望を持てると思います。
イエス・キリストは十字架という、最悪の過ぎ越しを引き受けて、新しい命のはじめりに変えてくださいましたから、とても大きな希望をもたらしてくださいました。
麦は変化してパンになります。ぶどうはつぶされてぶどう酒に変わります。キリストは残酷の死を受ける前の日に、自分の体を私たちのために、捧げもの、食べ物に変えてくさいました。キリストは仕方がないから、否応なしに死んだのではない。意識的に前の日にいやなことをとてもうれしいことに変えたのです。パンはキリストの体に過ぎ越す、変わることを可能にしました。昔のことばでいうと、「聖変化」です。
私たちは食事のときに、豚肉や野菜やケーキなどを食べます。その肉とか野菜は人間に必要なタンパク質になります。自然界には何百種類のタンパク質があるそうです。人間のタンパク質になれるのはたった16種類だそうです。これも不思議なことで、学者も完全に解明しているわけではない。どうやってパンはキリストの体になれるのか。これは赤ちゃんに新陳代謝(しんちんたいしゃ)のメカニズムを説明してみるようなことです。赤ちゃんは説明はいらないでしょう。素直に母乳を飲めば大きくなるだけです。不思議なことですが。私たちも素直にキリストの体をいただくと成長していくのです。卵の状態からきれいな鳥になっていくのです。
豚や鳥の肉は人間の肉となるといいましたが、キリストの肉の場合は、ちょっと違う側面があります。キリストの肉は人間の肉になるのではなく、逆なんです。キリストの肉を食べる人間は「キリストの体」と過ぎ越していくのです。そして、キリストのように人の足を洗うことのできる人間になるのです。





聖木曜日(主の晩餐の夕べ)    (園田教会、2004年)
「弟子たちの足を洗い」
ヨハネ13・1-15

イエスは弟子たちの足を洗われました。弟子たちの中には「だれが一番偉いのか」というような争い、 反目 (はんもく)がありました。自分が要職につきたいという野心もあっただろうし、人を押しのけて自分だけが前に出ていこう、人を踏み台にしてでも自分だけが高いところに上ろうという思いがみなぎっていました。そのような弟子たちを前にして、イエス様はみずから進んで上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それからたらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い始められた。それはたいてい奴隷のする仕事であった。さすが弟子たちも、そういうことをされたとき驚いたのです。
 ペトロは「私の足を決して洗わないで下さい」と言ったが、イエスは「私のしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
 私たちがキリスト信者である理由は、イエスが私たちのために十字架について死んでくださったということだけである。それより深いものも、浅いものもない。それが自分にとって真理であると受けとったときに、その人は信仰者である。キリスト信者は、イエス・キリストにおける神の愛の迫りというものを感じた者である。
 アメリカの田舎に年老いた母親と息子という家庭がありました。息子は親孝行で給料の中からいくらか必ず母親に渡していました。戦争が起こり、息子が兵隊に行ってからは、手紙はたびたび来るがお金を送ってこなくなった。軍隊に入って息子が悪い人間になったのかと、母親は寂しく悲しい思いをしていたが、あるとき、そのことをだれかに相談し、手紙を見せたところ、中から小切手が出てきた。母親は小切手を知らなかったので、単なる紙切れと思い、喜ぶことができなかったわけです。そのように、神の愛に感謝できないのは、神の愛がないからではなく、知らないからである。私たちクリスチャンの生活は、神から与えられる、神に足を洗ってもらっている、ことによって起きてくるものであって、神から受けたから他人に与えていくのは当然である。むしろ与えざるをえなくなるのです。パウロは「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいである」(1コリ9・16)と言っています。
 ある地方にはお米はたくさん取れる稲の種類があった。その名前はなんと「だまっとれ」でした。人に言うとそれを作るから「だまっとれ」という品種名がついたのです。自分だけがたくさん収穫したい。それはわざわいである。私たちも福音を聞きながら、それを伝えないならば、「黙っとれ」と同じことになる。本当にわざわいである。許されることのないような罪人である私たちに、イエス・キリストの十字架の死を通して、神の許しと愛が注がれたということを信じながら、そういうことを語ろうとせず、人に伝えようとしないなら、それはわざわいである。それがどんなに大きな愛であるかということがわかればwかるほど、それに対して答えていくし、答えていかずにはおれないのが信者の証しであり、使命なんです。そのためにはまず自分がどんなに神から愛されているか、足を洗ってもらっているか、ということを、教理としてではなく、自分にとって事実にならなければならない。
 何十年信仰生活をしているひとでも、敵のために祈ることが自然にできる人や、憎い人を愛する人はあまりいないかもしれない。イエスが私のために十字架について死んでくださったことを知り、そのために「感謝の祭儀」をくりかえし奉げていくことが私たちの信仰生活である。それができるかできないか、それが私たちの信仰の闘いである。天のパンを日ごとに求めていく以外に勝利はないと思う。
 イエス様は、「私が足を洗ったからあなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われた。足を洗いなさいというのは、その喜びをもって人々に仕えていきなさいということだと思う。イエスの愛を受け、そこに目をとめ、そこで生かされる、生き甲斐をうける。そしてそのことによって人の足を洗い、またイスカリオテのユダのような人にも、私たちが仕え、愛していくことができる新しい世界が生まれてくるのではないかと思う。(榎本)
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よく分かるようで分からない。分からないけれど、何か得体(えたい)の知れない深みがあって、その深みに誘い込まれていく。しかし、穴の奥に行けば行くほど暗くなり、自分が何処にいるのかも分からなくなる。でも、きっとそのもっと奥に光が輝いているのだろうと思って、どんどん深みに嵌る。ヨハネ福音書に記されている主イエスの業や言葉は、特にそういうものです。実に神秘的なのです。
 主イエスご自身が、今日の箇所でも「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われる。しかし、その直後には「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」とおっしゃるのです。「後で分かるようになる」とおっしゃった直後に、「分かるか」と言われたって困ります。そして、さらに、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」とおっしゃる。これは、将来のこととして言われているのではなく、現在のこととして言われているのです。主イエスの言葉を聴き、その業を見たその時現在のことです。「後で分かった時」ではありません。
 ヨハネの二重構造
しかし、そのことが分からないペトロが、「主であるあなたが、わたしの足を洗うなんて」と驚き、「決して洗わないで下さい」と言って拒否することは、罪の赦しと新しい命を拒否することなのであり、それは主イエスとの関りを拒否することでしかありません。
ここで言わずもがなのことを一つ言っておきますが、私たちは、聖書のことをよく知っている人のことを信仰深いと思い勝ちです。主イエスの業や言葉をたくさん知っていて、そらんじる事が出来るような人は信仰深いと思ってしまう。さらに原語を知っていたり歴史的背景を知っていたりすると、イエス様のことをよく知っていると思ってしまう。しかし、それとこれとは関係がないことです。もし、そうならいわゆる聖書学者が最も信仰深いということになりかねません。もちろん、学者の中にも信仰深い人、イエス様との関係が深い人はいます。しかし、聖書のあちこちをよく知らなくても、イエス様との関係の深い人はいくらでもいるのです。何が問題かと言うと、要するに、イエス様を罪の赦しを与えてくださる救い主として信じているかいないかなのです。私たちとイエス様との関係は、ただそこに関るのであって、それ以外のことでイエス様を幾ら知っていたとしても、それは何も知らないことと同じなのです。イエス様と三年間も寝食を共にして、そのすべての言葉と業を見てきたこの時のペトロは当時の誰よりもイエス様のことを知っていると言ってもよい人物ですけれど、でも、ここで主イエスに足を洗って頂かなければ、彼と主イエスは何の関わりもないのです。何を言った、何をしたと知っていることが、イエス様を知っていることではないし、まして信じていることではありません。そのことをよく踏まえた上で、やはり聖書をよく読むことは大事であることもまた言わずもがなのことです。
最後に、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」という言葉は何を語っているかに耳を澄ませたいと思います。この言葉を巡っては様々な解釈がありますし、考えれば考えるほど迷路に入るような気もしますけれど、興味深いことに、「体を洗った者」の「洗う」(luomai)は、「足を洗う」(niptw)の時に使われる言葉とは違います。そして、その「体を洗う」という言葉の用法を調べてみると、その一つは、ある人を祭司として任職する際に水で汚れを洗い清める場合に使われる言葉であることが分かりました。祭司の大事な仕事は、罪人に罪の赦しを与える犠牲を捧げる祭儀を司ることです。そういう聖なる仕事に就かせる為に聖別する。それが水で「体を洗う」ことなのです。
主イエスは、ユダを除くペトロを初めとする弟子たちに向かって「既に体を洗った者は、全身が清いのだから、足だけを洗えばよい」とお語りになりました。そこで洗い清められる汚れは、もちろん罪の汚れです。その汚れが既に清められている者。それは洗礼を受けた者を表すと私は思います。主イエスを信じる告白をして、水と霊による洗礼を受けた者は既に清められているのです。新たに生まれ、神の国に入れられているのです。そして、それは聖なる職務に就かせられることをも意味します。
毎週、罪の汚れを清められ、神様との平和を与えられた礼拝の最後にこの世へと派遣されることは、そのことを意味します。私たちは礼拝によって清められて、聖なる務めをするために派遣されるのです。他人の足を洗うために。

私たちキリスト者一人一人は、主イエスの十字架の死と復活の贖いの御業を信じる信仰において既に全身を清められています。しかし、私たちはこの世を肉体をもって歩く限り、絶えず悪の誘惑にさらされ、気付きつつも負け、気付くこともなく負けていることしばしばです。しかし、そういう私たちを主イエスは、この上なく愛し、愛し続けてくださっているのです。今日もこうして礼拝を与えられていること、御言が与えられ、聖霊が与えられ、主との交わりが与えられていることがその一つの証拠です。私たちは愛されています。赦されています。そして、今日も清められています。そして、今日も聖なる職務に就くように促され、そして祝福をもって派遣されるのです。その愛に応えて歩むことが出来ますように。祈ります。
 主イエスは過越祭の直前に、「ご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たち(ご自分の者たち)を愛して、この上なく愛し抜かれた」のです。その愛は、世にいるご自分の者たちのために過越の小羊として死ぬということです。そういう愛がここで言われている。
 そうなると、私は、いくらなんでも真似は出来ないと思う他ありません。このような愛は、主イエスだけが与えることが出来るものなのであって、その主イエスに「模範を示したのだ」と言われても、「はい、私もその模範に従います」と即座に応答など出来ません。しかし、主イエスは、それでも「このことが分かり、そのとおり実行するなら、幸いである」とおっしゃる。理解だけではなく、あくまでも実行することをお求めになるのです。それは一体どういうことなのか?
よく教会の内外で、「敬虔なクリスチャン」という言葉を聞きますし、「清く正しいクリスチャン」という言葉も聞きます。私たちも、信仰を持っていない人と自分たちを区別して、自分たちには罪がないかのように錯覚し、だから互いに愛し合えるかのように錯覚している場合もあると思います。私たちはえてしてそういう錯覚をしたいのです。しかし、錯覚は錯覚であって、現実ではありません。私たちは敬虔なクリスチャンであるかもしれません。でも、私たちはどうしようもない罪人です。それは教会生活を続けていれば分かることです。分かりたくないと目をつぶっていればいつまで経っても分かりません。でも、目を開けていれば分かる。御言によって目を開かれれば分かることです。私たちは誰もが罪人です。罪人だからこそ、主イエスによって罪を赦していただき、神の子として頂いたことを恵みとして受けることが出来るのです。信仰を与えられていない人と私たちの違いは、ただそこにあります。また、信仰を与えられていなかった当時の自分と、今の自分の違いもただそこにある。そして、恵みを恵みとして受ける道は、愛されたように愛し、赦されたように赦すということなのです。それ以外にはありません。恵みは応答することにおいて初めて実を結ぶのですから。




 
聖金曜日・主の受難の祭儀
ヨハネによる福音(18:1-19:42) 

ピラトの名が意味するもの
 
 まずピラトという人物です。この人は、これを読む限り、それ程悪い人間には思えません。一人の弱い人間です。何とかしてイエス・キリストを釈放しようとしたけれども、その努力も空しく、企てに失敗したのです。しかしいかがでありましょうか。私たちが、毎週、唱えています信仰告白(使徒信条)には、「(主は)おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け……」とあります。使徒信条で、イエス・キリスト以外に固有名詞が出てくるのは、母マリアとポンテオ・ピラトだけであります。これにより、ピラトの名前は永遠にキリスト教会に刻まれることになりました。果たして、これまで一体、何度、代々の教会において、この名前が口にされたでありましょうか。これは一体何を意味しているのでしょうか。なぜ使徒信条に、ポンテオ・ピラトの名前があるのでしょうか。使徒信条というのは、これ以上削ることはできない最小の形で、キリスト教の信仰を言い表したものです。その中には、マリアの夫ヨセフの名前も、一番弟子、初代教会の創始者ペトロの名前もありません。アブラハムの名前も、モーセもエリヤもない。
この時の黒幕で言えば、カイアファの方がもっと悪いのではないか。イスカリオテのユダも出てこない。省けるものは全部省いたのです。それでもポンテオ・ピラトの名前は残った。どうしてでしょうか。
 それは第一に、イエス・キリストの受難が、私たち人間の歴史の中にしっかりと組み込まれるためであります。ピラトという名前によって、私たちは、イエス・キリストの苦難と十字架が架空の話ではなく、歴史上の出来事であったことを確認するのです。ポンテオ・ピラトという名前は、歴史上、確認できる名前だからです。
 第二に、ピラトという名前は、イエス・キリストがリンチ(私的復讐)によって殺されたのではなく、しかるべき人物のもとで裁かれ、法のもとで死刑に処せられたことを示しています。そうしたことから、ある意味でたまたまその裁判を取り扱ったピラトが、その名前、汚名を残すことになってしまったとも言えるかも知れません。

(4)上に立つ者の責任
 しかしピラトの名前が残ったもう一つの理由は、上に立つ者の責任、決定権をもった人間の責任はそれだけ重いということではないでしょうか。誰かを助けられる地位にありながら、それを用いて、その人を助けることをしなかった場合、その責任まで、問われてくるということです。ピラトの場合がまさにそうでありました。この時ピラトはイエス・キリストを、釈放をする権限をもっていました。彼自身がそう言っているのです。しかも彼は、「この男には罪がない」ということを承知していたのです。イエス・キリストが無罪であることを知りながら、彼を釈放しなかった。その罪は、ピラトに課せられるのです。ピラトは自分の権限をふりかざす一方で、多くのものを恐れ、びくびくして生きている人間でありました。何かを決定する時にも、自分が正しいと思うことで判断することができない。力関係の中で、つまり、何が今の自分に有利であるかによって、それを決定する弱い人間でした。それでもピラトの罪が消えるわけではないのです。

http://www.km-church.or.jp/preach/

イエスをあれほど熱狂的に迎えていた人々が、全てイエスを離れてゆきます。そして、ペトロが「違う」「違う」「違う」と何度も否みます。私がイエスにかぶせた茨の冠とは何でしょうか、紫の衣とは何でしょうか、そして、わたしが十字架に掲げた罪状書きにはなんと書いたのでしょうか。

主よ、あなたを十字架にかけたわたしの罪をお許しください。あなたに従ってゆけますよう謙遜な心をお与えください。
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人はなぜ、苦しむのか。神はなぜ、人が苦しむのを許されるのか。苦しいとき、あるいは愛する人が苦しむとき、心に浮かぶ当然の問いです。
キリスト教はこう答える。「神と人が真の親子となり、真に愛し合うため」。
この世界は神の失敗作ではない。本来は苦しみのない世界を創ろうとして、できなかったというわけではない。神は苦しみも含めてこの世界を創造し、すべてをよしとされたのです。ならば、苦しみにも必ず意味があるはずだ。何か「良い」意味が。
事実、すべての苦しみを取り除いても、真の幸せは訪れない。空腹は苦しいが、満腹の連続が喜びになり得ようか。病も障害も、失意も痛みも、果ては死さえも取り除いた世界に、果たしていたわりの愛やあわれみの心、試練に耐える成長や苦難の中で輝く希望が生まれるだろうか。
そもそも、苦しみを創造したということは、創造主自ら苦しむことを引き受けられたということでもある。親は子を生むとき苦しむものだ。そして、わが子もまた苦しむことがあると知っている。それでも生むのは、それでもわが子に存在を与えて愛し、わが子の苦しみを全面的に共有する覚悟があるからだ。
神は苦しみのない冷たく閉ざされた世界ではなく、苦しみを親子兄弟で共有する、温かく開かれた世界をお創りになった。苦しみによってこそ人は真に出会い、親子は真に愛し合えるからです。
難病のわか子を抱きしめる親は、決して「生まれなければ良かった」とは言わない。代われるものなら代わってあげたい」というでしょう。それは自分の命すら惜しまないということであり、それこそが親心というものではないでしょうか。
全能の神はその親心をイエス・キリストにおいて現実のものとした。共に苦しむことですべてのわが子が親心に目覚め、その愛を信じて神と一つに結ばれ、新たに生まれて「永遠のいのちを得るためである。神は、なんととしてもわが子が「一人も滅びないで」栄光の世界へ生まれ出ることを望んでおられるのです。
神が創造主であるならば、世界の責任者は神である。苦しみを創造した以上、神はその責任をおとりになる。まさに十字架こそは、創造のわざの極みなんおです。人間は苦しみの中でなおも信じるとき、その創造のわざに与っている。今苦しんでいる人に、福音を宣言したい。あなたのその苦しみを神は共に苦しまれ、今あなたは神の国へ生まれようとしている。陣痛の苦しみと出産の喜びは、一つだ。神の愛の内にあっては、絶望と希望すら、ただ一つの恵みの裏表(うらおもて)なのです。(春佐久昌英、カトリック新聞、2009年3月22日)

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昨日は主の晩餐を祝い、今日は主の受難で二日目、聖なる過ぎ越しの三日間は続きます。クライマックスは明日の徹夜際。徹夜際は火を灯(とも)して、「新しい火」の祝福ではじまります。そして、その火をろうそくにつけて光を作ります。
キリストはかつて、「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(ルカ12.49-53参照)とおっしゃいました。
イエスの十字架の死と復活は、イエスがこの地上に火を投じようとしてのことだったのです。イエスの思いは平和をもたらすことでも、地上の不正、不信仰のため、対立、分裂をもたらすことになるのでしょう。


キリストは「地上に火を投ずるために来た」。火は一つのシンボル(象徴)である(復活徹夜祭の「新しい火」 参照)。シンボルはたいてい複雑な内容を含んでいる。例えば、家に火がつくと、瞬く間に破壊される、消防車が来ても間に合わないこともある。すごい破壊力です。毎日のように私たちが作っているゴミは焼却炉で火で焼かれる。キリストは罪の力を破壊する。人類のゴミである罪を焼かれる。
 また、火はものに変化をもたらす。例えば、食べ物を考えてみましょう。生の肉が火をとおしてビーフステキとなる。お米はご飯となる。小麦粉はパンとなる。火はものに本質的な変化をもたらす。さらに、金属を溶かしてさまざまのものを作る。我々は住んでいる家を支えている鉄筋は火を通っている。電車の車輌もレールも火でできている。ガソリンは石油からとられています。石油は何千年も前に焼かれた木から出来上がりました。
 火は清める役割をもっている。医者さんは注射するときに針を火で消毒し、殺菌する。家畜の伝染病が起こると、伝染を絶つために死んだ動物を焼くしかない。
 火はまた光をもたらす。今でも私たちは祭壇の上にロウソクを使っている。キリストは「世の光」であると表すシンボルである。
また、火は暖かさ、ぬくもりをつくります。寒い冬の夜に家族はいろりを囲んで食事を食べます。
 ギリシア神話には火を初めて見つけたプロメテウスという人物がいます。彼は火を神々の住まいから盗んで人々のところに運んだといわれます。そのために罰を受けた。やはり、火は使い方によっては危ないものでもあると教える神話です。けれども、人類は火の使い方を見つけて以来手放すことはないです。生活に欠かせないものです。
キリストは罪を破壊し、清め、光とぬくもりをもたらす。また、生の人間をおいしいものに変える。キリストは人類に欠かせないものである。キリストを受け入れるのも、受け入れないのも、全く自由ですが、どちらにするかで結果はずいぶん異なります。

十字架という火から光が生まれます。十字架の光、キリストの光は、繁華街のようなキラキラ輝く光と違う。目をくらますまぶしい光、分別を失わせる光とは違う。「暗闇の中」に光るものです。つまり、人間の現実を見抜いた上で、人間の姿をありのままに見せる光です。



聖土曜日 

大事な息子を殺されて、すべてが終わりかと見えるこの日をマリアはどのように過ごしたでしょうか。毎週の土曜日はマリアにささげられるのは、まさにこの聖土曜日がってのことです。今日、マリアの気持ちと心を合わせてすごしましょう。

祈りのヒント

イエスは葬られました。イエスは、私たちから取り去られたのです。明日は復活祭です。復活は当然なこととして起こることではありません。先の見えない絶望的な暗闇の中におかれても、イエスの愛の勝利を信じ、心から願い求める人々の心にだけ、ほんとうの復活が訪れるはずです。
イエスが取り去られたように見える闇の中でこそ、私たちの信仰の真実さが問われるのではないでしょうか。当然なことは信じる必要がなく、起こるかどうか、実現するかどうかも分からないことを希望し信じることこそ、信じるということでしょう。「イエスは死んだ。それでも、私は信じる」信仰を与え強めてください。 sese07

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