ヨブ記 3

ヨブ記 3

 しかし、ヨブはそれをいま剥ぎ取られてしまいました。そこで彼は、もっとも基本的な問いかけを口にしたのです。それは、「なぜ自分が生まれたのか」という問いかけです。なぜ自分が生まれたのか、なぜ自分が生きているのか、自分がいま生きている意味は何なのか?という疑問です。

 私たちは、普段はこのような問いかけはしないでしょう。しかし、この疑問の答えることが実は私たちが生きている上で至上命題なのです。生まれたときにも、また死ぬときにも、私たちは裸であり、何か持ってきたわけでもないし、何か持っていくこともできません。

 しかし、私たちの人生の物差しは、主が言われた「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか。」になっています。今の日本人に、自分が生きている価値を聞いたときに、この世の中で成功するための教訓は話せるかもしれませんが、なんで自分が生存しているのかという根本的な問いかけは答えることができません。けれども、これがもっとも早く見つけなければいけない解答なのです。

 それを主イエス・キリストは、「永遠のいのち」と言われています。単に肉体が生きることではありません。また、精神的に幸せな状態を保つことでもありません。なぜ自分が生きているのか、ヨブのようにすべてが剥ぎ取られたときに、それでも生きている価値があると言える霊のいのちを持っていることです。

ヨブ記 9

これは地上で起こっていることだけを見れば、現実です。正しい者も悪者も同じ災いを受けます。罪のない人が酷い目にあいます。そして裁判所では正しい裁判が行なわれません。ヨブは、「もし、神がそうするのでなければ、そうするのはだれか。」と言っています。彼は神の主権に焦点を合わせています。もちろん人の罪が、そして世の制度が、そして悪魔が不正な裁判をさせる背後に存在します。けれども、これらのものはみな神の許しあって起こっていることです。神はすぐにでも、人を、この世を、悪魔を滅ぼすことができますが、それをあえてなさいません。もちろん、これは人々が自分で神を愛する選択をすることができるようにするためのものですが、神の主権の中で起こっていることです。

人生のなやみとはそのように深く、結局神、生ける神との出会い以外に解決の道がないことを思わせられる。


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