17 per annum

年間 17月
マタイによる福音(13:31-35) 

 からし種とパン種のたとえが天の国の不思議さを見せてくれます。自分を振り返ったとき、神の光にふさわしくない自分を感じ、力を失うこともあるでしょう。しかし、天の国が育つためには、ほんの小さな一歩でよいのです。その小さな種も神が与えてくださっています。主のもとに立ち返り、みこころのままに愛を注いでいただきましょう。私のうちにも小さな愛の思い・言葉・行いが動き出すでしょう。種は大きく成長します。想像をはるかに超えて葉は茂り、実がたわわに結ばれ、そこに集う者は憩い、豊かに養われます。
愛こそがわたしたちを養います。主のみ前に進み出て、わたしのすべてをさしだし、主の愛の中で育てていただきましょう。


年間 17火
マタイによる福音(13:36-43)


アウグスティヌスの有名な言葉があります。
 「神はどんな悪も行われえないようにするよりも、悪からも善を生ぜしめるようにするほうが良いとお考えになった」
 なるほど、毒麦は確かに自分の中に、社会の中にあるけれども、大きな目で見たら、その毒麦すら、私という畑の中で何らかの役割を負っているのかもしれない。普通に考えたら、抜ける毒麦は少しずつでも抜いて、自らを良い麦畑にしたらいいように思うけれども、仮に、抜くことに夢中になるあまり、一番本質のこと、つまり、「私は神さまが用意してくださった良い麦畑だ。私たちの世界は、本質的には良い畑なんだ」という信頼、喜びを忘れちゃったら、神さまが私たちに与えて下った本当の恵みを受け入れられないでいるってことになってしまう。
神さまが最後はちゃんと上手に悪い部分も全部抜いて、きれいな麦畑にしてくださる。世の終わりには必ずそうしてくださるし、一人ひとりが神さまのもとに召されていく時にこそ、そうしてもらえる」。
 煉獄(れんごく)って、そんなようなことかもしれないですね。カトリックには、天国に行く前に浄めのプロセスとして煉獄に入るっていう伝統的な考え方がありますけど、神さまのみもとに行くとき、神さまご自身に全部きれいにしてもらって、清らかな麦畑としていただいてから、神さまに迎えいれてもらえるってことです。これは、福音でしょう。希望です。こういう福音を信じて、自分は本来そのような良い麦畑だと受け入れることこそが、救いなんじゃないですか。自分は毒だと思い込むとか、その毒を抜き続けようとして疲れ果てるかではなく、イエスさまの福音、「あなたは良い麦だ、良い麦畑だ」、これを信じましょう。
他人の毒麦を抜こうとする人。「あなた、ちょっと鼻毛(はなげ)が出ていますよ」(笑)みたいな感じで。あなたの毒麦、目立ちますよ、抜いたほうがいいですよ、みたいに指摘する人いますよね。
あの政治家を抜いたらホントに国は良くなるのか。そういう問題じゃないって分かってるはず。抜いて、抜いて、抜いていったら何もなくなったっていうのが、真実じゃないですか。神さまは毒麦つきの世界をおゆるしになっているんです。私たちはその中で、良い麦を見るべきじゃないですか。忍耐強く、良い麦をこそ育てるべきじゃないですか。人の毒麦を抜いて、抜いて、抜いていっても、それは決して良い世界にはならない。(福音の村)
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イエスをとりまく人々の群れには、イエスのメッセージの真実を見抜いた魂もあれば、イエスの求める心とはほど遠い魂もあったでしょう。人間的な打算、一時的な好奇心、地上的な成功を求める心などが、外側からは確かめられなくとも、その内側に隠されながら生きていたはずです。
イエスに従い、イエスの名を語る群れであっても、そこには本物と偽物、まことの信仰と偽りの信仰、持続する情熱と底の浅い群集心理、永遠への渇きと地上的な充足を求める心などが、互いに入り混じっているのです。しかし外見からその真偽を区別するのは無理なことです。
もしそこで弟子のだれかが、熱心の名のもとに自分の目で判断した毒麦を抜こうとすれば、よい麦をとりのぞいてしまう危険性もあります。自信のある人は、どうしても他人の信仰のあり方を、自分の枠組み、自分のはかりで量り、その行動を批判しがちです。それはいつのまにか狭く堅苦しい教会(共同体)にしてしまうことになりますし、枠組みに入らない人々は、教会に来にくくなってしまうことにもなります。
イエスは、人を裁くことの危険性を指摘したかったのだと思います。人間は心に中まで見分けることができないのです。それは神の領域のことです。口先だけの信仰か本物の信仰か、それを知る人は、ただキリストだけであり、それがあらわになるのは、終わりの時なのです。今、終わりではないのに、終わりだと思うには大きな過ちがある。
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 人の子と悪魔が、私たちの世界に種を蒔いているようです。わたしの心に蒔かれた種はどんな芽を出しているでしょうか。人の子が蒔いた良い種は神の子にふさわしい愛に満ちた芽を生じさせているでしょう。毒麦は愛に反する思いや行いです。今、ここで、わたしの心の毒麦の芽を摘み取り、主のもとに立ち帰りましょう。主は今、ここで導いておられます。主はすべてにおいて優る方です。
罪を犯した者に対して、その悔い改めを待ち、決して見捨てることなく養ってくださいます。主は、わたしたちがこの世においても太陽のように輝くことを望み、導いておられます。主よ、私に透明な目をお与えください。勇気を持って悪の芽を捨て、良い麦を根付かせ、育てたいのです。どうぞわたしを憐れみ、きよめてください。世の終わりにあなたの光を受け、太陽のように輝くことができますように。

年間 17水
マタイによる福音(13:44-46) 


私たちの周囲には無数の善意の人々がいます。カトリック信者ではないにもかかわらず、信者以上に純粋で献身的な人々がたくさんいます。あるいはまた、人生のさまざまな試練に打ち倒されたり、信頼する人に裏切られて絶望し、その中でもう一度、希望をもって立ち上がらいたいと願っている人々もいます。そうした人々は、何かに飢え、何かを求めているのです。神に向かって祈り求めているとは知らずに、神に向かって祈っている人々なのです。こうした人々に、キリストも神も隠されています(畑の中に隠されている宝のように)。「神はこの世を愛された」にもかかわらず、人々は、愛が消えたといって孤独に苦しんでいます。「疲れた者、重荷を負うものは私のもとに来なさい」といってすべての人々の労苦を背負うことのできる方が、与えられているにもかかわらず、だれも言葉をかけないといって嘆き苦しむ人々がいます。
「私はすでに世に勝っている」と、復活したキリストが宣言しているにもかかわらず、病や死を前にして、不安と絶望に動揺し続ける人々がいます。「あなたの罪は許された」といって、その罪がどんなに深いものであっても、それをゆるすことのできる方がいるにもかかわらず、自分のおかした罪の深さにおおわれてしまう人々がいるのです。
キリストは、すべての人々の求めに、願いに、答えることができるだけの光と力と愛を持っているのですから、もし、人々がそれに気が付けば、それこそすべてを捨てて、それを自分のものとするために努力するでしょう。見つけた宝や真珠のために全財産を捨てて、それを自分のものとするように、イエスとの出会いを大切にすることでしょう。真実に飢え、渇いている者にとって、その出会いはこのうえもない喜びであり、もはやそれなしには生きられないほど、決定的な意味をもつことになるでしょう。
しかし、現実には、残念ながら、人々の飢え、渇きとイエスとの出会いがなかなかおこらないのです。私たちの社会に、真実の愛に飢え、理想に渇いている善意の人が無数にいるのに、それがなかなかキリストと結びつかないのです。
どうしてでしょうか。人々の責任なのでしょうか。彼らの求め方が悪いというのでしょうか。
私(森一弘)はそうは思いません。むしろ、キリストを紹介し、キリストを伝える人々の方に責任があるような気がいたします。現代の人々の問題や課題に、キリストの光、キリストのメッセージを伝える努力と工夫が足りないような気がします。私たちは、もっともっと努力して、宝であり、真珠であるキリストを人々に伝えるならば、この世にもっともっと喜びと希望があふれることでしょう。

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天の国は、持ち物をすっかり売り払って買うほどにすばらしいのです。天の国を見つけた者は、「わたし」という小さな枠から自由になります。神の愛に信頼するなら、もう自分のために何も心配はいりません。 seseragi
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主イエスの世界は、「献身」の世界です。自分自身を神様にささげるのです。一度しかない人生、一つしかない命、これを丸ごと神様にささげるのです。  「献金」あるいは「維持費」のようなものとは全然違う。献金は「献身のしるし」です。私たちが、すべて神様のものである、そのように私たちはイエスさまを通して神様に自分自身をささげた。私たちが神様のものである、というあかしですね。  ですから、献金ばかりではない。私たちは時間を神様にささげます。このように朝の大切な時間を礼拝のために神様にささげている。教会の奉仕のための時間をささげる。仕事の時間も神様に捧げます。また家に帰っても、聖書を読み、祈る時間をとる。時間というのは命そのものです。命は連続した時間から成り立っているからです。私たちの命が神様のものである、そのことをあかしし、時間を神様にささげているのです。 nibanmati


年間 17木
マタイによる福音(13:47-53) 



マクベス   『マクベス』(Macbeth) 第5幕第5場 シェイクスピア。夫人の死の報せを聞いて、マクベスがつぶやく台詞。その人生観が垣間見える。

Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury
Signifying nothing. 

明日、また明日、また明日と、時は
小きざみな足どりで一日一日を歩み、
ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
昨日という日はすべて愚かな人間が塵(ちり)と化す
死への道を照らしてきた。
消えろ、消えろ、 つかの間の燈火(ともしび)!
人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、
舞台の上でおおげさにみえをきっても
出場が終われば消えてしまう。
白痴のしゃべる 物語だ、
わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、
意味はなに一つありはしない。

人生は愚か者が語る物語で、騒ぎも意気込みもえらいが、たわいのないものだ。

また、サルトルは、「人間は一つの無益な受難(意気込み)である。( L' homme est une passion inutile.) 」(『存在と無』、松浪信三郎訳)と言っている。 
今日の福音書は、網というイメージを使って、私たちは神の手の中にいるという感覚を教えています。水の中にあるものは見えないが、網をかけると見えてくる。人生は、歴史は無意味に見えても、その中身は分かるときが来る。

また、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す主人」に関しては、リチャード・ニーバーの有名な祈りを思い出します。

神よ
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気を
われらに与えたまえ
変えることのできないものについては
それを受けいれるだけの
冷静さを与えたまえ
そして
変えることのできるものと
変えることのできないものとを
識別する知恵を与えたまえ
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新しいものと古いものが入っている倉を持っている人といえば、それは便利に違いありません。現代のふつうの若い人の家では、新しい物しかありません。古いものがないし、あっても、それをとってしまっておく倉がないからです。しかし、例えば、もちつきなどは、昔の杵(きね)と臼(うす)でついた餅がうまいでしょう。また、停電になったとき、懐中電灯の調子が悪かったということになりますと、ローソクが必要となります。
 このように、新しいものもある、古いものもある、ということになると、どんな事態にも対応できます。パウロはピリピ人への手紙でこう言っている‥‥(フィリピ 4:11~13)「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道
を知っており。富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」 nibanmati (粘土が陶工の手の中にあるように」(偶数年、第一朗読)、私たちも神の手の中にいるという感覚を学ぶようなことです。



年間 17金
マタイによる福音(13:54-58) 

顔見知りの者が、人々を驚かせるようなすばらしいことを言ったら、わたしは語る内容をすぐに受け入れられるでしょうか。大したことはないと思ったり、同郷の者としてその偉大さにあやかろうしたりすることがあるかもしれません。わたしたちは目に見えるものにつまずきがちです。
人は目に見えるものを見ますが、神は心を見ます。信じる心がないところでは、イエスの恵みも生かされることがありません。
主よ、私を「心」を観る者としてください。あなたがわたしたちを愛してくださったようにわたしも人を愛し、信じる者になれますように。seseragi
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人々は、自分たちと同じ生活を送っていたイエスにつまづいた。
つまずく、というのは、イエスさまを信じることができなかった、ということです。人の子としてのイエスさまを、小さい頃から知っていたばかりに、イエスさまが神の国の福音を携えてきた時に、「えー?なんで?こいつが?」と思ったのです。つまりこの人々は、先入観にとらわれてしまって、本当のことが見えなかったのです。
わたしにも思い当たることはいくつかあります。たとえば、私は25歳で神父にないましたが、なったばかりの頃は、世間の人から、「神父さんというのは、もっと立派な人だと思った」などと言われたものです。まあ、やがて歳をとって、白髪になると思うのですが。しかしそれも本質とは何の関係もないことのはずです。神父というものは人生相談をする職業ではないからです。「人生経験があればいいことですが、神父として一番必要なことは、神の言葉を聞いて、それを語るということだ」と。 人生相談をしたいなら、そういう相談に乗ってくれる人はたくさんいます。人間の常識としての人生
のアドバイスがほしければ、そちらに行けばよろしい。しかし教会でなければ聞くことができないことというのがあるのです。それが神の言葉です。そして教会を通してでなければできないことというのがある。それが、キリストと出会うということです。教会がいくら社会に奉仕しても、あるいはバ
ザーや慈善事業で多くの人が集まったとしても、もしそこで神の言葉を聞くことができず、またキリストがそこにおられなかったとしたら、それはもはや教会とは呼べないものです。逆に言えば、いろいろなことが不十分であったとしても、みすぼらしい教会でも、神父が下手でも、そこで神の言葉が
語られ、またキリストが臨在しておられるなら、それでよいと言えるのです。
 しかしナザレの人々は、この世のことにとらわれてしまって、イエスさまと共におられる神様を見ることができなかった。イエスさまの語る言葉に、神の言葉を聞き取ることができなかった。イエスさまのなさるわざに、神の働きを見ることができなかったのです。実にもったいないことです。これ
が「不信仰」ということです。nibanmati
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人々は感動を求めて、ディズネイランドや
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの
ようなところに行きます。身の回りの現実には、あまり感動がない、灰色で、当たり前、どっちかというとつまらないこと、みすぼらしいことは多い。けれども考えてみれば、いつも住んでいる家の窓の外を見るだけでも、すばらしい景色のときもある。普段出会っている人々の中にも、気をつけて接すれば、様々なドラマ、悲しみ、喜びがある。本にすれば立派な文学になる。音楽にすれば立派な協奏曲になる。
自分のそばに座っている人は深い信仰体験を持っているかもしれない。それでも、ほとんど気がつかない。そう考えることもないでしょう。
キリストはどうでしょうか。彼は立派な人間だったでしょう(二千年この方噂されているぐらいですから)。けれども、私たちとはあまり変わらない姿で現れて、キラキラと輝くような生き方をしなかった。そして、今は様々なしるしの中に生きておられる。そのしるしはどこにでもある。ミサは毎週、毎日行われる。みことばは何回も聞いたがある。ありふれたものです。馴れてしまうと当たり前で、つまらないことにもなるのだが、実はその中にすばらしい宝が隠されている。もっとも身近で当たり前のものの中にすばらしい神秘があります。信仰の目さえあれば。司祭とミサに馴れ馴れしくなるのは、ある意味ではしかたがないでしょう。キリストに対してでさえ、ナザレの人々はそうなったというから、ところが、それは不信仰の世界だよと、今日の福音書を注意を促しています。不信仰の世界、面白くない。

年間 17土

マタイによる福音(14:1-12) 

ヘロデのようなことを自分は決してしないだろうと思うとき、くもりのない目で、自分の姿を見つめているでしょうか。「自分」という殻を守るために弱みを隠し、自分の物差しに合わせて相手を裁く時、そこにあるのは自己への執着です。この執着は恐れを生み、自分も人をも殺してしまいます。
神は、わたしたちが互いにいたわり、思いやり、受け入れ、生かしあうために命をくださいました。
主の声に聞きしたがいましょう。自分のすべてを手放したとき、主の恵みは豊かに注がれ、恐れはなくなり、真の自由へと導かれます。そのとき心の目と耳は開かれます。
主よ、わたしが守るものは主の愛だけです。わたしを強め、義のために生きる勇気をください。

1.人を見ているとブレた生き方になる

 ヘロデの問題は、「人を見てしまう」というところです。一番大切にすべき神様が見えていない。一番恐れるべきかを恐れず、人の評価が気になってしまうというところです。ヘロデ自身は、ヨハネが正しいということがわかっていましたが、その行動を変えることができませんでした。そうして、ヨハネの首を要求された時も、人の顔色やメンツを重んじてしまい、結局、人に利用されるだけの生き方しかできなくなってしまいました。

 私たちは、人の評価よりも、恐れるべき方を恐れなければなりません。聖書の言葉を聞くだけでなく、具体的な行動となって現れるような聞き方をしなければなりません。そうしないと、ずるずると罪の世界に引きずり込まれていって、結局は身を滅ぼす生き方しかできなくなってしまいます。

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