4 easter

復活節 第四月曜日
「私は羊の門である」
(B・C年)ヨハネ10・1-10

人は若いときは、一人で育った、大きくなったと思いがちです。しかし年をとって子どもを育てたり、いろいろの経験をすると、自分のしてきたことがだんだん小さくなって、人からしてもらったことがどんなに大きなものであったかがわかって来ます。信仰生活においても、イエスあっての自分であるという信仰が大事ではないかと思います。イエスのゆえに信じる者とされており、いまキリストのあかし人として立たされています。私たちの生きる根拠が常にイエスご自身にあることが大事です。「私は羊の門」と言われたのは、このことでしょう。私たちは時々、過ちを犯したり、イエスの恵みにあずかった者としてふさわしくないようなことを考えたりしています。しかしなお私たちはその中でイエスの慰め、励ましを与えられています。「私は門ある。私をとおって入る者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」。イエスを通して信仰生活はなされていかなければならない、ということを教えています。(榎本)
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わたしたちが命を豊かに受けるために、「その声」の主は一人一人の名を呼んでいます。御父の元にむけて先頭に立って行かれるイエスの声を聞き分けながらついて来なさい、と招いて居られます。
イエスについてゆくためには、私たちの中にある「自分の進むべき道を知っている」というファイリサイ的なおごりを捨てることが求められているようです。
主よ、あなたの声を聞き分け、それに従って歩む謙遜な心をお与え下さい。

「羊は私の声を聞き分ける」
(A年)ヨハネ10・11-18

イエスの言葉を聞いて、彼は悪霊にとりつかれていると言う人たちと、またそうでないと言う人たちがいました。人間の意見というのは、その人の立場によってさまざまです。人間の世界は相対的なものであることを忘れてはならないと思います。どんな偉い人がりつぱなことを言っても、それは絶対者の言葉ではない。私たちは絶対者の言葉に耳を傾けることによって、はじめて人の言葉を相対的なものとして聞いていくことができます。テープ・レコーダーに人の声を吹き込んで、あとで聞くと、すずめの鳴き声や自動車の音などが聞こえて来ます。あんな声があったのだろうかと思うのは、一生懸命人の言葉を聞いていたからでしょう。私たちがイエスの声を聞いているとき、他の音は聞こえなくなって来ます。私たちはしっかりとイエスの声を聞いて生きていくことが一番大事なことでしょう。(榎本)

復活節 第四火曜日
「わたしと父とは一つである」
ヨハネ10・22-30

「わたしと父とは一つである」ということばは、まさに聖書、啓示の頂点であると言えます。それは、三位一体の神の啓示であり、それはキリストがもたらした新約の世界に示された啓示の完成でもあるのです。このことは、ヨハネ福音書の中の、イエスの最後の祈りを思いおこせばすぐわかります。

「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みなが一つとなるように。(…)彼らもわたしたちにおいて一つになりますように」、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになりますように」(ヨハネ17・1~参照)。

十字架につけられるまえのキリストの祈りは、実はわたしたち人間を、父と子の関係の中に導こうとするものだったのです。そして今や、キリストの救いの業の目的が達成されるのです。今になって、やっと弟子たちは悟ったのです。

それはきょうの福音書からもわかります。よき牧者が、羊たちを導いていくところは、ほかならない神の住んでおられるところです。それは裏づけとなり、それに基づいて現在(現世)に生きる希望と力をいただけるのです。(森)
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イエスは、わたしたちに「永遠の命を与え」て下さり、「誰もわたしの手から奪うことはできない」と断言なさいます。これは、イエスが常に、時間と空間を越えて、死をも越えてわたしたちと共にいてくださることを確約して下さっているのではないでしょうか。
主よ、わたしの思いではなく、あなたの声だけに従ってゆくことが出来ますようお導きください。
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トマス・アクィナスは、今日の箇所でユダヤ人たちは信じようとしないことに関して、このようなコメントを書いています。「私は見えるのは太陽の光のおかげです。けれども、もし私はめを閉じるなら何も見えなくなります。しかし、それは太陽の責任ではなく、私の責任である」、と。

"[S]icut ego non possum videre lumen nisi illuminarer a sole, si autem clauderem oculos non viderem lumen, quod non esset ex parte solis sed ex parte mea, qui, claudendo oculos, praebeo causam ut non illuminer.([87487] Super Io., cap. 10 l. 5) "I can see thanks to the sun light, but if I close my eyes I cannot see, but that is not the fault of the sun, but mine".

 この場合、目というのは、おそらく信仰の目でしょう。目を閉じるというのは、この世のことしか見ようとしない態度でしょうか。キリストの言葉や業から大きな光が放たれます。素直な態度さえあれば、見えてくるはずである。ある人は信仰の恵みは与えられ、ある人は与えられない。それは、神の責任ではなく、人間側の問題だということになります。


復活節 第四水曜日
「わたしは光としてこの世に来た」
ヨハネ12・44-50

生きるとは、神に向かって歩むことでしたら、歩くために光が必要です。イエスは世の光であり、かれが教えた兄弟愛のおきては、その光の輝きであり、現れです。兄弟を愛する人は光の中にいます(Ⅰヨハネ2・9-11)。光の子として、イエスのあとに従って歩くとき、いのちの光を受けます。ヨハネは福音書の初めに、光について、荘厳に述べました。「みことばのうちにいのちがあった。このいのちは人間の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった」(ヨハネ1・4-5)。
光と闇の対立を人びとにあてはめると、次のようになります。「光は世に来たが、人びとは光よりも闇を愛した。かれらの業が悪かったからである。悪を行う人は光を憎み、光のほうに来ない。自分の行いがさらけ出されるのを恐れるからである。しかし、真理を行う人は光のほうに来る。その行いが神と一致してなされたということが明らかになるからである」(ョハネ3・19-21)。(荒)
パウロの言葉で言うならば、「昼歩くようにつつましく歩こうではないか」(ローマ13・13)。
まだ暗い夜です。渡世(よわたり)は難しいのです。昼になって昼のように歩くことはだれでもできるが、夜が明けていない時に、夜が明けているように生きていくところに、キリスト者の生き方があります。(榎本)
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わたしたちといつも共にいて下さり、わたし以上にわたしをご存知のイエスが、今、「わたしはお前を裁かない。お前を救うために来たのだ」と言って下さっています。何と有難いことでしょう。
主よ、暗闇の中に留まることがないように、あなたのことばで私たちの心を照らして下さい。

復活節 第四木曜日
「遣わされたものは遣わしたものにまさりはしない」
ヨハネ13・16-20

今日の福音書は、足洗いの意味を説明しています。弟子たちの中にはだれがいちばん偉いのかというような争い、反目(はんもく)がありました。自分が要職につきたいという野心が弟子たちの心の中にありました。人を押しのけて自分だけが前に出ていこう、人を踏み台にしても自分だけが高いところに上ろうという思いがみなぎっていました。その弟子たちを前にして、主イエスはみずから進んで足を洗うしもべになられました。その姿のうちに、御父から派遣され、父のみ旨を行うイエスの生き方が読み取れます。主イエスと一致するためには、弟子たちも兄弟愛にそむく罪から互いに洗い清められなければなりません。しもべは主人より偉いではありません。主人がしもべの足を洗うなら、しもべも他の兄弟たちの足を洗うのは当然です。愛の負債を持つ者は、他の負債者に対して、当然要求できると思っている権利を捨て、ゆるしあい、兄弟の間柄になるべきです。それが、愛の秘跡、聖体祭儀の交わりの根本条件なのです。(榎本、荒)
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『わたしのパンを食べている者がわたしに逆らった』(詩編41:10)という聖書の言葉が実現しなければならないのは何故なのでしょうか。それは、パンを食べている12弟子やわたしたち一人ひとりの弱さの極みにこそ、神の愛が現れるのだというメッセージではないでしょうか。
主よ、わたしの無力、わたしの弱さを悟らせて下さい。そして、そこにこそあなたがいて下さることを感じ取らせて下さい。
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「土足厳禁」ということばがある。日本家屋に入る前に靴を脱ぎます。泥足(どろあし)というように、家の外は汚い。足は結構汚いところを歩きます。手で人にふれる(肩をたたく、握手(あくしゅ)する)と、そこでコンタクト、交わりが生まれる。足でふれると失礼なことになります。また、足は頭から一番遠い体の部分です。同時に、足にマッサージをすると、それは体全体に効きます。足の裏に体の各部分につながるツボがあります。こうして考えてみると、なぜキリストは弟子たちの足を洗ったのか分かるような気がします。キリストは人間の足を洗うために来た。人間は生活する中で汚くなります。キリストはそれをどのように清めるかを弟子に教えました。そしてそのために弟子を遣わしました。それは、現在にまで至っています。キリストは弟子を通して全人類の足を洗っています。「私の遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ」るのであると。今日はこのみ言葉を黙想し、感謝したいと思います。

復活節 第四金曜日
「心を騒がせるな」
ヨハネ14・1-6

例えば、私たちは、言葉の通じない外国で単身で生活しなければならなくなったとしたら、いろいろ心配になり不安を抱くでしょう。ただ、冒険やかけ離れたことが好きな人だったら、むしろ心配になるどころかウキウキしてしまうかもしれません。いずれにしても、新しい土地で何かをしようという目的心があるならば、不安や心配を超える希望を持っているので、不安や心配はあってもそれらに心が圧倒されることはありません。それでは、別に外国に行かなくても、長く住み続けた場所にいて、何かの原因で周囲の人たちが自分のことをよく思っておらず敬遠している環境の中にいるとします。その中である人だけは自分のことを分け隔てなく付きあってくれて、困ったことがあればいつも相談に乗ってくれたり手助けをしてくれるので、その場所に住むことは平気だった。ところがある日、その人は遠くに引っ越さなければならなくなってしまった。さあ、頼りにしていた人がいなくなってしまった今、自分はこの場所で一人でやっていけるだろうか。この場合は、不安や心配を上回る希望自体がなくなってしまうので、それらに心が圧倒されてしまい、心が騒ぐことになるでしょう。今日の福音書の箇所でイエス様が「心を騒がせるな」と言った時の弟子たちの状況は、今申し上げたことに似ています。

ここに出てくるイエス様は、肉体をもって世にある者として、また肉体としては既に世を去ってしまった者として、その両方の立場を持って語っておられるのだし、それは同時に、過去の歴史的人物として語っている面と、今も霊において生きておられる神・キリストとして語っておられる面の両方を持っているということです。だから、ここに登場する弟子もまた、イエス様が十字架に磔にされる直前の弟子たちであると同時に、この福音書が書かれた当時の教会員でありまた今の私たちの姿でもある。そういうことなのです。
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私は子供の頃、近所の子供たちと二組に分かれて、よくサッカーをやっていました。私はその仲間の中で一番小さいものだったので、年長のリーダーが組み分けを決めるまで、私のこころはいつも騒いでいました。グループの中にとても上手な子が一人いました。私は彼のいる組に入れたくてたまらない。先輩たちはたいていその強い子のいる組に私を入れてくれました。小さい私など、本当は大したプレーは出来なかったが、その子と同じ組になると、私は急に大胆になります。実力ではともかく、口ではだれにも負けないぐらいの大口(おおぐち)をたたいて回ったものです。本人は気づいていなかったと思いますが、そばにいてくれるというだけでその子は、小さい私を力付け、勇敢(ゆうかん)な戦士にしてくれたのです。

しかし今の私にはもっと力のある頼もしい方がいつもついていて下さいます。キリスト同じ組に入れてもらったら、それは決して貧乏籤(くじ)ではないと思います。キリストだけでは十分、いや十分すぎるではないでしょうか。イエス・キリストを知る者にとって恐れるものは何一つないはずです。(村上)
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人間には「帰る」ところが必要だといわれています。一日働いた後「家」に帰る。旅した後も家に帰りたくなるのです。「わたしの父の家」とは、わたしたち人間すべての魂のあこがれの場所です。イエスの人としてのこの世での生は、そこに行くために用意して下さった道、そこに迷わず到達するために示して下さった真理、そこに行き着くために与えて下さった命です。このように、キリストを中心にキリスト者の生き方が描かれています。
主よ、道であり、真理であり、命であるあなたの愛の中にわたしたちを憩わせて下さい。
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ヨハネ14・6
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

道、真理、命である自分を通らなければ、だれも父なる神のもとに行けないとイエスは言います。
日本では剣道、柔道、茶道(さどう)、華道(かどう)など、「道」のつくことばがたくさんあります。道教、禅仏教に由来する伝統でしょうが、自分の身をみがき、道を習い、究めていくことを通して達する窮地(きゅうち)に、すばらしいものがあることを、誰でも理解できるのではないでしょうか。
主よ、どうか私たちが真理であり、命である「イエス」の道を最後まで歩み、永遠の命に達することができますように。

復活節 第四土曜日
「わたしを見たものは父を見た」
ヨハネ14・7-14

この目で神を見ることができれば信じられるのですが、と言う人がいます。霊的存在者である神が人となってこの世に誕生してくださらなければ、人間は肉限で神を見ることはできませんが、神は御子イエスを実際にこの世に生れさせ、これを実現されました。そして人々はこのお方を見た。しかし皮肉なことに、当時の人々はこの現実のゆえにつまずきました。イエスが神であるという事実、目で神を見ることができるという事実につまずいたのです。神を肉眼で見ることができたのに、いや見えたからこそ人々はイエスにつまずいたのです。
私たちはイエスの時代から大切な歴史的教訓を学ぶことができます。ユダヤ人の多くは、その宗教的な偏見のゆえにイエスにつまずきました。しかしこうした中でイエスを神の子と信じた人々もいたのです。彼らは「イエスのことば」を聞いて信じた。イエスのことばに信頼するからイエスについて深く知ることができたのです。それは私たちの時代も全く同じであると言えます。イエスのことばは今、聖書という形をとって私たちに語られています。この聖書のことばを受け止めて信じられなければ、たとい肉限でイエスを見たとしても決して信じないでしょう。重要なのは肉の目で見ることではなく、なるべく素直な(清い)心の目で見ることなのです。(村上)

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「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」とイエスはおっしゃいます。この文章をアラジンのランプのような感覚で受け止めたら、意味がおかしくなります。イエスが求めていることは全ての人が救われること、神の国が実現することですので、それらに関する願いを必ずかなえてくださる、という意味になります。
この言葉は、個人的な問題の解決や、一時的な悩みの特効薬ではありません。そのようなことをかなえることが本人にとってプラスになるとは限らないので、その時々の判断は神様に任せたほうがいいのです。人間にとって悩みや苦しみは大切な体験なので、これらを避けることはイエスの望みではありません。(ステファニ)
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私たちには見ることができない神である天の父を、イエスを通して見ることができるようにと、イエスは「業そのもの」を示されます。イエスは、御自分を信じて受け入れる者の内で働かれ、御父のもとに招きます。こうしてイエスを身に帯び、イエスの名によって願うことは何でもかなえてくださるといわれます。
主よ、あなたの招きに応える道を示して下さい。あなたに全幅の信頼を置き、あなたの示される業を行っていくことができますように。

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