列王記第二22−23章 「最後のリバイバル」

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終わりの時は、実はこのような時であります。神の歴史の中で、何度か、徹底的なさばきをもたらすことによって、初めからやり直させるということを神は行なわれました。ノアのときの大洪水、ソドムとゴモラ、イスラエルによって聖絶されることになったカナン人などです。罪が積み上がり、神が介入されなければ自ら全滅してしまうような状態になっているとき、神は一度滅ぼされて、それから建て上げるわざを行なわれます。それがイスラエルの身にも起こり、一度バビロンによって滅んで、それからエルサレムに帰還してエルサレムを再建させるという計画を立てておられたのです。

 私たちも、そのような時代に生きています。もはや修復不能というところまで来ています。しかしだからといって、私たちが何もしなくて良い、ということではありません。ヨシヤのように、心からへりくだり、心を尽くして主に仕えることができます。その中で、もう修復不能かもしれませんが、やれることはあるのです。そして何よりも、自分自身が取り上げられるまで、神のさばきは下ることはない、ということです。

列王記上 18・41−46

列王記上 18・41−46

エリアが祈ったところ、天から雨が降った (ヤコブ5・18) 

アハブは神をあまり信じないタイプ。現代人のように。

そしてまた、次にも祈りが書かれています。18:41 それから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」

 先ほど、主がエリヤに雨を降らせると告げられたとおり、今、アハブに告げています。

18:42 そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。18:43 それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません。」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」18:44 七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています。」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」

 エリヤは、主のことばがあったのにも関わらず、祈りつづけました。いや、主のことばがあったからこそ、祈りました。私たちは、祈りについて二つの過ちを犯します。一つは、約束されているのだから、祈らなくても主が行なってくださるだろう、と考える過ちです。聖書のことは知っていますが、主が生きてその人には働いてくださいません。もう一つの過ちは、聖書に書かれている主のみこころをわきまえないで、ただやみくもに祈ることです。先ほど話した、空を拳で打つようなものです。

 けれどもエリヤは、主からことばをいただき、そして、一度ならず、七たびも祈りました。そして、もう一つ気づくことは、地中海のほうを見ていたであろう若者が、小さな雲だけしか見ていないのに、それをエリヤは大雨の前兆だと悟ったことです。私たちは、祈り待ち望んでいなければ、見えるものも見えなくなります。けれどもエリヤのように、祈り求めているときに、確かに約束がかなえられていることを、まだその徴候がわずかなときでも気づくことができるのです。

18:45 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。18:46 主の手がエリヤの上に下ったので、彼は腰をからげてイズレエルの入口までアハブの前を走って行った。

 エリヤは確かに、すごい人です。車に乗っているアハブと同じぐらい早く、足で走りました。こうしてアハブに対する、ヤハウェなる神の証しを立てましたが、次の章を見ると、彼はマザー・コンプレックスならず、ワイフ・コンプレックスにかかっているようで、ただ妻のイゼベルに、起こった事をすべて告げるだけでした。次回、その続きを読んでいきましょう。

列王記上 19・9a、11−16


自分が主に召され たところに留まらないで、自分の好きなところに来てしまったのです。そうですね、私に例えれば、 私が今の務めを放棄して、関西空港に行き、ミラノ空港まで飛行機で飛んで、子供の頃通った教会に戻ってそこで一人でこっそり祈るような感じでしょうか􏰀霊の故郷に 来たのですが、そこに神が呼ばれているのではないのです。
エリヤは、主の呼びかけや命令に応答 するのを放棄してしまっています。その代わりに、自分が熱心に主に仕えたのに、いかに人々が 主のことばに応答しなかったのか、そのことについての落胆の思いを吐露しています。そして、自 分の命を狙っているという人への恐れも明かしています。

神との対話、付き合い方
2C かすかな細い􏰂 11-18 主は優しい方です。このような我がままになっているエリヤに、優しく、彼が悟ることのできる形で付き合ってくださっています。
19:11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎら れ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。 風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。19:12 地震のあとに火があっ たが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い􏰂があった。
これは実に面白い移行です。主は、火や風、また地震などの大きな目に見える業によって、エリ ヤを通して働いてくださっていました。エリヤはこれらの目覚しい主の働きをずっと見ていました。 このような働きが目によって、自分の体に入ってきて、それが刺激となって自分の内に溜まっていました。主が大きく働いてくださると、そこで見える徴を見ると、それは魂を喜ばせると同時に、そ の刺激が強すぎて魂を疲れさせていきます。
けれども、主はいつまでもエリヤにそのように関わるのではありません。ここに「かすかな細い 􏰂」とあります。主がエリヤに対して、これまでのようには劇的な奇蹟によって働きだけでなく、か すかな細い􏰂に聞き従うことによってエリヤを用いられようとしておられるのです。
19:13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。する と、􏰂が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」19:14 エリヤは答えた。「私は 万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの 祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のい のちを取ろうとねらっています。」
エリヤは、かつてのモーセと同じように、主の御姿のすべてを見ることがないように、外套で顔を おおって外に出ました。すると、その静かにささやく声は、再び「ここで何をしているのか。」という尋 ねだったのです。ここまで主が語られたにも関わらず、エリヤは再び「私だけが残りました」と同じ 事を繰り返しています。そこで主は、ご自分で答えられます。
19:15 主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を そそいで、アラムの王とせよ。19:16 また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王と せよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者 とせよ。19:17 ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが 殺す。
主は、エリヤがここまでやって来たことを咎めることなく、次に行なわなければいけないことを教 えられました。三つあります。一つは、当時アラムあるいはシリヤが、ベン・ハダデ二世が王でした が、その家来であるハザエルがアラムの王となるので、彼に油を注ぎなさいというものです。そし て、北イスラエルの将軍エフーに油を注ぎなさいというものです。そして、エリシャという後継の預 言者を育てなさいということです。最後の三つ目はエリヤは行いましたが、初めの二つはエリシャ とエリシャのともがらが行ないました。でも、エリシャが行なったことで、間接的にそれを手助けした ということもできます。
エリヤが知らなければいけなかったのは、「あなたが受け継いだエリシャが、アハブ家の滅びを 行なうよ。」ということであります。王となったハザエルがイスラエルと戦うことによって、傷を負って イズレエルに戻ります。その時にエフーに油が注がれて王となります。そしてエフーがイゼベルを 殺し、バアル信仰をイスラエルから根絶させます。したがって、エリヤによってイスラエルが主に立 ち返ることはしなかったが、主はさらにご自分の働きは知っておられて、それを後継者で完成することを初めから知っておられたのです。ですから、エリヤがすべてを抱え込む必要はなかったので すが、それを彼は自分にすべて背負い込んでしまっていたのでした。そしてエリヤが最も見失って いたのは、次です。
私たちも決して、自分がたった独りだと思わないでください。そして肩肘(かたひじ)を張らないでください。自 分に責任を、神から与えられていない責任を背負わないでください。主は恵みの中で、着々と、少 しずつご自分の事を行なっていってくださいます。
ところでここの箇所は、パウロがローマ 11 章で引用している箇所です。ユダヤ人が福音に敵対 して、かたくなにされているけれども、実はイエスを信じるユダヤ人がいて、残された者たちがいる のだという話の中で引用されました。


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癌で亡くなった12歳の少女が『鏡の裏に託した家族へのメッセージ』に号泣 「幸せになれるかどうかは全て自分次第」など - エキサイトニュース(1/2)



癌で亡くなった12歳の少女が『鏡の裏に託した家族へのメッセージ』に号泣 「幸せになれるかどうかは全て自分次第」など

2014年6月6日 20時00分 (2014年6月7日 11時27分 更新)
生きていること、健康であることを当然のように思って、何気なく日々過ごしている人は多いのではないだろうか。そんな人達が、ハっと我に返らざるを得ない心に響くメッセージを紹介したい。癌(がん)で亡くなった12歳の少女が、鏡の裏に託した家族へのメッセージが死後に発見され、その前向きなメッセージが大きな感動を呼んでいるのである。

・癌で亡くなった少女が残したメッセージ
昨年、イギリス在住で12歳だったアテナ・オーチャードちゃんは、骨肉腫と診断され壮絶な化学療法による治療を開始した。しかし治療の甲斐もむなしく、5月28日家族に見守られるなか息を引き取った。そしてアテナちゃんの死後から数日後、父親のディーンさんが部屋に置いてあった鏡の裏に、彼女が書き連ねた数々のメッセージを発見したのである。

・死後に知った娘の想い
メッセージを読み始めたディーンさんは、あまりの驚きで呆然としてしまったという。「娘はメッセージのことを何も言っていませんでした。でもアテナらしいと思います。あまりにも辛くて、途中で読み続けるのが困難でした」と、生前には知りえなかった娘の想いに、彼は大きな感動を覚えたそうだ。

・前向きで希望に満ちた言葉の数々
弱りつつある体で受ける抗がん剤治療は、かなりの辛さだったはずである。それにもかかわらず、アテナちゃんのメッセージは前向きで希望に満ちた言葉で綴られ、12歳の女の子が書いたとは思えない人生観であふれているのだ。

以下で紹介するので、ぜひ命の尊さや一度しかない人生を後悔なく生きることの大切さを実感してほしい。

・アテナちゃんからのメッセージ
「幸せになれるかどうかは、全て自分次第」
「人生がハッピーエンドに終わるかどうかよりも、ちゃんと内容のある人生だったかが大事なの」
「人生の目的は、人生に目的をもつこと」
「幸せは目的地じゃなくて道順よ。そこを勘違いすると、平凡な人生になるか並外れた人生になるかの分かれ道になるの」
「家族がいてくれて感謝してる。信仰心を忘れず自由で幸せに、そして気を若く保ってね」
「人は私の名前を知ってても、私の人生は知らない」
「私が何をしたか知っている人も、私が何に耐えてきたかは知らない」
「愛はガラスみたいなもの。見た目は美しいけど壊れやすいから」
「愛は希少で人生は奇妙だわ。永遠に続く物なんてないし、人は変わっていく」
「どの日も特別だから最大限に生きなくちゃ。明日は不治の病になるかもしれないんだから、毎日精一杯生きてね」
「人生は、あなたが望まない限り最悪にはならない」

詩のように美しく、悟りを開いたようなアテナちゃんの人生観に胸を打たれる人は多いに違いない。
貴重な毎日を無駄にしないよう、一日一日を大事に過ごしたいものだ。

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