エフェソ 3.2 4

エフェソ 3.2

 
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
そして強められるのは、外なる人ではなく「内なる人」であることに注目してください。パウロは他の個所で、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされます。(Ⅱコリント4:16)」と言っていますね。ここの理解がとても大切です。エペソの人たちがパウロの外なる人を見て、落胆したかもしれません。「これほど偉大な神のご計画があるのに、パウロは牢屋の中にはいっている。」と。私たちも、これほどすばらしい神の約束があるのに、どうしてこうなっているの、という問いかけを持っています。しかし、神がご自分の栄光の豊かさにしたがって、私たちを強めてくださるのは、内なる人であることをおぼえておく必要があります。私たちの周囲の状況は、さほど変わることはないかもしれません。けれども、内なる人はどんどん変えられていきます。同じ状況の中にいるのに、その中にいても喜び、平安が与えられ、愛に満たされる自分を発見します。神にゆだねることを覚えていきます。
そして、このように内なる人が強められる結果、私たちが得られるものは、キリストのご臨在です。次をごらんください。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
  私たちの心が神の栄光によって満たされてくると、その栄光であられるキリストが私たちのうちにおられることが、ますます現実のものとなってきます。キリストが私たちの心のうちに「住んで」くださるのです。これは、家の中の置物のようにイエスさまがじっとしておられるということではなく、私たちと奥深い会話をし、生活を共にしてくださるということです。
  このイエスさまとの生活を可能にするのは、私たちのゆだねた心です。私たちは、イエスさまが、家の中にある引き出しを開けたいと願われても、そこには鍵がかかっています。イエスさまにきれいにしていただけばよいのですが、私たちはどうしても、鍵を渡したくないと思います。これは、自分だけの場所としておきたい、と思っているからです。そうすれば、イエスさまは開けることはできません。私たちの自由意思に反してまで、私たちの心の奥底に入って来ようとは思われないからです。しかし、イエスさまは意地悪な方ではありません。愛に満ち満ちた方です。イエスさまが私たちの心のお住みになるのは、私たちがどこまで、キリストの愛に信用しているかにかかっています。
そして、愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」について述べています。愛の広さとは、全人類に広がっているキリストの愛です。キリストは全人類のなだめの供え物となるために、死なれました。どのような人であっても、キリストがその人のためにいのちをお捨てにならなかった、ということはないのです。こう考えると、私たちは絶えず、キリストの愛の広さを自分のものとしていく必要があることを知ります。自分に気が合わない人、自分が無関心であった人、そのような人々にも、キリストの愛を見ていく必要があるわけです。キリストの愛の広さです。
  次に、キリストの愛の長さです。神の愛は永遠の愛であり、十字架の上で御子を通して成されたことは、二千年前のパウロであっても、現在の私たちであっても同じなのです。ルターは、「キリストが死なれたのは、つい昨日のことのように感じる。」というようなことを話したということを聞いたことがあります。あの時代にキリストの十字架と復活を経験した人たちと同じように、私たちもその愛を自分たちのものとすることができるのです。
  そして、キリストの愛の「高さ」です。先ほど天上にいる聖徒たちも、この祈りに含まれていることをパウロが述べましたが、キリストの愛は天よりも高くあります。天国において、ほふられたと見える神の小羊がいると、使徒ヨハネは言っています(黙示4:6)。つまり、イエスさまは、地上におられたときと同じように、その両手には釘の跡が、足にも釘の跡が、そしてわき腹が裂かれているのです。賛美にも、このような歌あります。「手足に釘がある。これが神の愛を伝えてくれる。額にはいばらが。これが、私を愛するために、どれだけのものを背負ってくださったかを知る。そして天が過ぎ去るが、それでもその傷は残っており、永遠に、どれだけ私を愛してくれているかを知らせる。」キリストの愛は、天にまで及んでいるのです。
  そして、キリストの愛の「深さ」です。キリストの愛は、それを知ったときもありますが、それで終わるものではありません。さらにさらに深く、キリストの愛は私たちに迫ります。私は、クリスチャンになったときにキリストの愛を知りました。当たり前ですが。それからは必要ではないと思いました。きよい良いクリスチャンになるのだから、と。しかし、クリスチャンになってから、自分がとてつもない罪人であることを気づかされることが起こりました。キリストは、その罪のためにも死んでくださいました。今の自分も、キリストの愛がなければ、たちまち滅ぼされているでしょう。キリストの愛は、さらに深められていきます。
  そしてパウロは、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」と祈っています。これは普通に読んだら、矛盾する言葉です。人知をはるかに越えているのに、知ることができるように、と祈っています。キリストの愛は、知性では計り知ることはできませんが、しかし、私たちの霊によってそれを体験することができます。キリストの愛がどうしても分からない、と悩んでおられる方は、- いや、すべてのクリスチャンがこのことで悩んでいるのですが、- パウロのように霊によって、キリストの愛を体験することができるよう、ますます祈っていこうではありませんか。キリストの愛は、私たちが把握して、自分の頭の中にしまっておくことができるようなちっぽけなものではありません。満たされて満たされて、それでもあふれていくような奥の深いものなのです。

エフェソ 4

「その招きにふさわしく歩みなさい。」と言っています。つまり、この招きがいかにすぐれているかを、神の召しについて知らない人が、ふさわしく歩むことはできない、ということです。救いについて、そのすばらしさを知らない人が、その救いにふさわしい歩みをすることはできません。
 エペソ人への手紙について、よく、「歩くことを学ぶ前に、座ることを覚えなければいけない。」と言われます。「神は、キリスト・イエスにおいて、…とともに天のところにすわらせてくださいました。」と2章6節に書いてありますが、私たちがキリスト・イエスにあってどのような存在であるかをまず、学ばなければいけないということです。天のところにすわっていることをまず知ってから、それからその召しにしたがって歩むことができます。赤ちゃんが成長して、歩くことができるまえに、座ることを学びますね。これと同じです。
 別のたとえを用いるならば、私たちは、海に浮かぶ氷山のようです。「氷山の一角」と言われるように、私たちが目にする氷山は、海中に広がっている何倍もの大きさの氷があるからこそ、海上から氷山を眺めることができます。私たちの歩みは氷山の一角のようであり、キリストにある自分というものが、歩みとして自然に現れてくるのが正しいのです。したがって、「招きにふさわしく歩む」ことが第一歩になります。
「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、招きのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」
 この個所を読んで、お気づきになられたでしょうか?三位一体の神がここに啓示されています。「御霊は一つ」「主は一つ」「父なる神は一つ」とありますね。神がひとりであられるがゆえに、その神の教会である私たちも一つでなければいけない、ということです。イエスさまは、十字架につけられる前夜に、このように父なる神に祈られました。「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。(ヨハネ17:21)」イエスさまと父なる神が一つであるように、彼らも一つになること。そして、彼らが一つになっているのを世が見て、世がキリストを信じるようになること。これが、イエスさまの祈りでした。
 もし私たちクリスチャンが、互いにいがみ合っているのであれば、クリスチャンではない人は、キリストは分割されている方なのか、というイメージを持ちます。神がばらばらになっているという印象を持たせます。しかし、三位一体の神を神としてこの世に示すために、私たちは一つになっている必要があるのです。

エフェソ 1-3

エフェソ 1

宅急便の荷物のラベル

パウロがここで賛美しているご聖霊の働きは、一言でいうと、「証印」であります。私たちが、キリストにあって、真理のことば、救いの福音を聞き、それを信じたら、聖霊によって証印を押されます、とパウロは言っています。「証印」というのは、かつて、貿易の貨物がだれのものであるかを明らかにするためのスタンプでありました。昔は、今のように紙のラベルに印刷するのではなく、蝋(ろう)があって、自分の指輪の印を、まだ柔らかい蝋に押しつけました。それが固まったのが証印であるわけです。
  この手紙を読んでいるのは、エペソにいる信徒たちでした。エペソは、当時、貿易中継都市としてもっとも栄えた都市の一つでした。東の国々から、世界の中心地であるローマに対して数多くの貨物が輸送されました。そのエペソにおいて、貿易商人たちは、自分たちが売るための商品を梱包して、それから、今話しました「証印」を押しました。これが自分たちのものであることを、こうして証明したのです。積荷された船は次に、コリントの町を通って、イタリヤのポテオリという港町に行きます。ポテオリからローマは近くにあり、この港からローマじゅうに製品がポテオリで積荷は降ろされますが、そのときに、どの荷物がだれのものか証印によって判断するのです。貿易商人は使いを送って、自分の荷物を探させます。その使いは、「あった、あった!」と言って、主人の指輪の証印と、ろうそくに型どられた印の跡と照合した荷物を持ってくるのです。
  パウロは、エペソにいる人たちがよく知っている、この出来事を用いて、神の贖いのご計画について説明しているのです。私たちは、この貿易商人の商品であります。貿易商人、つまり所有者は神でありキリストです。私たちが、救いの福音を聞いて、信じたときに、神は私たちに、私たちがキリストのものであることの証印を押してくださったのです。それは、目に見える証印ではありません。神の聖霊ご自身が、証印となってくださっているのです。
  これはとてつもない霊的祝福です。私たちは、まだすべてのものが贖われているのを見ていません。私たちのからだは、相変わらずアダムから引き継いだところの罪を宿しているし、この世界もまだキリストの支配に従っていません。キリストの血によって、すべてのものは神の支配下にあるのですが、すべての者が神に従っているわけではないのです。ダビデが油注がれて、王となったのにもかかわらず、サウルがしばらくの間、王位に着いていました。同じように、キリストは今、神の右の座に着いておられるのに、悪魔は不法に、自分の王座をこの世に置いています。しかし、すべてのものがキリストの足下に来る日が来るのです。まず、私たちのからだが変えられて、キリストに似た者になる時が来ます。そして万物が変えられて、すべてのものが、自然も、国も、経済も、政治も、文化も、教育も、家族関係も、すべてがキリストに服従する時が来ます。したがって、神は、すべてのものをご自分のものにしておられますが、その所有権をまだ行使されていないのです。
  その間、私たちも、また被造物も、自分たちが贖われるのをうめいて、待っているような状態にいるのです。しかし、私たちには、その道程にともにおられて、助け、慰めてくださる方がおられるのです。その方がパレクレトス、聖霊であります。創世記の学びをおぼえおられますか、アブラハムのしもべエリエゼルは、イサクの妻になる人を探しに行きました。リベカがいました。リベカは、エリエゼルの言い寄りに従い、彼とともにイサクのところに行くことを決めました。そこからイサクが住んでいるところまでは、かなり長い道のりです。しかし、その道すがら、エリエゼルはリベカに花婿イサクのことを話したことでしょう。彼がどのような人であるか、彼が父からどれほどの財産を受けているのかなどを話し、さまざまな言葉で彼女を励まし、慰め、助け、イサクに目を向けさせたはずです。これがご聖霊の働きなのです。聖霊は、この暗き世において、私たちを慰めてくださいます。キリストの栄光を知らせてくださり、私たちが苦しみの中にいても、希望を持つことができるようにしてくださっているのです。
  私たちはちょうど、証印を押されて、ポテオリに向かっている貨物のようであります。まだ所有者のものとなっていません。しかし、証印があるので、確かに所有者の手の中に入ります。その時が待ち遠しいです。所有者が、「これはわたしのものだ。」と言ってご自分のものとされる時が近いのです。このように、ご聖霊は、私たちが神の子どもであり、キリストによって贖われていることを確認してくださるのです。
それでは次の節に行きます。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
  ここの「保証」というのは、「手付け金(てづけきん)」とか「頭金(あたまきん)」と訳すことができます。高い買物をするとき、自分が必ずそれを購入することを確かにするために、手付け金を払いますね。例えば家やマンションを買うときは、売主と買主の間で契約を結びます。そのときには、買主は購入代金の一部を売主に払います。それは、買主が、他の良い物件が見つけて、それに乗り移ってほしくないからです。買主が買うと言っているので、その間、他の人には売らないようにしておきます。けれども、途中で気が変わって、契約をキャンセルしたら、その間に本当は他の人が買ったかもしれないその機会を失ってしまいます。ですから、手付け金を受け取って、確かに買主が購入を完了させる保証としているのです。
  そして、パウロは、聖霊が、この手付け金であると言っています。神が私たちを贖ってくださるのですが、本当に贖ってくださることを保証するために、その祝福の一部を、私たちに与えてくださったのです。私たちが今得ているのは、神が与えてくださるところの祝福のごく一部です。ご聖霊によって、私たちに平安が与えられ、キリストの愛によって満たされ、言葉で言い表すことのできないほどの喜びに満たされ、私たちは、ああ、なんと祝福されているのであろうかと思います。けれども、それは頭金でしかないのです。天における祝福のほんの少しなのです。ですから、神の御国がいかに栄光に富んでいるものであるかを、知ることができるのでしょう。

エフェソ 2

組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
新しいマンションの建設現場
 これは面白いですね。エルサレムのヘロデの神殿がまだ完成していませんでしたが、私たちもまだ完成しておらず、建築中であるとされています。私たちが集まるときに、相手に期待しすぎる傾向がありますね。けれども、「鉄が鉄を研ぐ」という箴言の言葉があるように、互いに成長するために存在するのです。相手の不完全さを見てもがっかりしないでください。むしろ、不完全な者どおしで、成長できることを喜びとしてください。
イスラエルは、神を礼拝するために神殿に行きましたが、なんと私たちは、その神殿そのものになっているのです。それは神の御霊が私たちのうちに生きてくださっているからです。
 このように、私たちは、遠く離れていた者たちから、神の御住まいそのものになってしまいました。また、罪の中に死んでいた者から、天にキリストとととに座する者となってしまいました。「以前のあなたと今のあなた」です。私たちはどれほど、このすばらしい恵みの豊かさに浴しているでしょうか。あたかも、だれかから請わなければいけないように、貧乏人を装っていることはないでしょうか。神は、すべての霊的祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。キリストにあって、私たちは満ち満ちています。

エフェソ 3

神が私たちに秘められた計画を持っておられるとは、どういうことなのでしょうか。ちょっとたとえで話してみましょう。あなたが有能な大工さんで、棟梁であるとします。自分の愛する人と結婚することになりました。その人は、この女性を愛し、その愛をどのように示せばよいか考えています。そうだ、彼女のために別荘を建築してあげよう。だまって内緒でそれを建てるのだ。彼女が好きなデザイン、色彩、好みなどを考えながら建てよう。そして、あなたは、妻に隠して建築をはじめます。二年の歳月が経ちました。結婚記念日のときに、「ちょっとプレゼントがあるんだ。」と言って、彼女を別荘まで連れていきます。まさにあなたのあらゆる技能をもって出来上がった最良の別荘です。
 これがmusthrion(ムステリオン)、秘められた計画であります。神は、永遠の昔から、私たちのために計画を立てておられました。神のあらゆる知恵と思慮深さをもって、ご自分の恵みを明らかにする方法を考えられました。そしてそれを、ずっとお隠しになっていたのです。旧約時代の聖徒たちにさえ隠しておられました。おぼえていますか、ダニエルが御使いから受けた幻について、理解できずに悩んでいたときに、御使いは、「あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。(12:4)」と命じました。あの神の人ダニエルでさえ知らなかったこと、また他の偉大な預言者も知りたいと思いながら知らされていなかったこと、それを私たちは今、知らされているのです。
2C ともにあずかる者 6-7
 そして、この計画は次のとおりです。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
 異邦人がユダヤ人とともに、神の相続人となること。一つのからだ、あるいは神の家族の中に入ること。そして、ユダヤ人とともに約束にあずかることです。これは実はすでに、エペソ書2章で、パウロが語っていることでした。異邦人は、神もない希望もない者たちであったけれども、キリストの十字架によって隔ての壁が壊され、二つが一つになる。新しいひとりの人に作り上げられる、とありました。
ユダヤ人でもなく異邦人でもない、まったく新しいアイデンティティーを持つことになりました。つまり、「キリストにある者」です。「だれでもキリストのうちにある者は、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しくされたのです。」という言葉です。

ルカ 11

ルカ  11

 「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。』」

 祈るときは、まず祈る相手がだれであるかを知らなければなりません。祈る相手は、「父」であります。つまり、私たちが神を父とするような親密で、個人的な関係がなければ、祈りをすることはできないということです。私たちはとかく、祈ること自体に重きを置いてしまいます。「私はクリスチャンなのだから、とにかく祈らなければいけない。」というように、儀式的に義務的になってしまいます。けれども、もし私たちが、神が父であることを知ったらどうでしょうか。自ずと祈りへと導かれるのではないでしょうか。その方と意志伝達をしたいと思うはずです。ですから、祈るときには、その相手がだれであるかを意識しなければいけません。

 「御国が来ますように。」

 祈る相手がわかったら、今度は、その方の考えておられること、願っておられること、計画されていることが実現するように願います。自分の願いや考えよりも、信頼する父が願っておられること、考えておられることが実現することほうが、もっと有益だからです。私たちが、父ご自身のなさることを自分の喜びとするとき、父は私たちにご自分の願いを置いてくださいます。そして、それを私たちが願うと、その願いはかなえられるのです。

 私たちの日ごとの程を毎日お与えください。

 今度は、実際の生活の場面で、父に生きて働いていただくようにします。日ごとに、毎日お与えくださいと、毎日願うことが強調されていますね。いつも、絶えず、父に自分の身をゆだねていかなければいけません。「ここの部分は自分でいろいろやるから、後で神さま、あの部分をやってください。」というようなものではないのです。糧とあるように、物質的なことに父が関心を持っておられることを認めます。

 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。

 今度は、実際の生活の場面でも、霊的なこと精神的なことについてです。つまり、神との関係と、人との関係について祈ります。クリスチャン生活にとって、例えば、病気になったとか、盗難にあったとか、そのような不幸は不幸に数えられません。苦しみは、しばしば神から与えられる賜物です。けれども、罪を犯すことは神との関係を崩します。すぐに関係の修復のために取り組まなければいけません。また、例えば夫婦が貧乏になっても、問題ではありません。けれども、けんかをしていれば問題です。ですから、神との関係、人間関係のために、父が働いてくださるように祈ります。

 私たちを試みに合わせないでください。

 最後に、御国の外にいる者から守られるように祈ります。使徒ヨハネは、「わたしたちは神からの者であり、全世界は、悪い者の支配下にあることを知っています。(1ヨハネ5:19)」 と言いました。私たちは、つねにこの世と接触しているので、受ける誘惑も大きいのです。ですから、私たちが誘惑に立ち向かうことができるように祈ることは大切です。


 



 

 
 


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