1 per annum

年間第一月
マルコ1・14-20

イエスは、悔い改めて、福音の勧めに従って日々歩いていきなさいと、励まされます。四人の漁師たちは、舟、網、父親さえも後に残して、イエスの呼びかけに応えます。彼らは、それまで当然としていた生き方を、イエスの意向、望みにサッと切り替え、予想される心配事もすべて委ねてイエスに従います。
「わたしについて来なさい」というイエスの力強い招きに信頼して、イエスの望みを選び、行うことができるよう恵みを与えてください。sese04

年間第一火
マルコ1・21b-28

イエスの権威ある教えにもっとも鋭く反応したのは人間ではなく、悪霊でした。人間は霊的な事柄に鈍感なものですが、悪霊はイエスの聖なる本質と権威を知っています。イエスの出現によって自分たちの存在が根底から脅かされることを恐れていました。現代社会で悪霊のことなど話題にすれば、笑われるかもしれない。しかし、現代社会の狂った様子を見ますと、それはまさに悪霊のしわざであり、悪霊の意のままに動いている人々もいます。新聞やテレビが毎日のように伝えている暗いニュースはそのことをよく表わしていると思います。
このような世界の中でも、私たちはキリストにあって悪霊の支配を打ち砕き、勝利を得ることが出来ます。イエスは私たちの救い主として私たちを縛っている悪の鎖から解放するために来られました。しかし、悪からの解放は一生続く戦いでもあります。最近、子供を殺してしまった親たち、また親を殺してしまったこどもたちのために祈りたいと思います。彼らは悪から解放され、人間性を取り戻すことができるように祈りたいと思います。
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今日の福音書では、人間のほうは鈍いのに、汚れた霊のほうが、すぐにイエス様の正体を「神の聖者」(まだメシアまではいかないかもしれませんが)とはっきり見分けていることも興味を引く部分です。 でもそれも当たり前かもしれません。たとえば警察官とすれ違って一番びくびくするのは、おそらく指名手配中の人でしょう。加えて、制服を着ていない私服の警察官もいるでしょうから、それを見分けることは、そのような逃亡中の犯人にとって死活問題となります。私服の警官をも見破るほどの敏感さ。そのようなものを悪霊も持っていました。だからイエスが誰かすぐ見分け、また神の権威を持つイエスが、こうして自分の前にいることに、耐えられなくなって叫びだしたというわけです。「神の聖者。我々を滅ぼしに来たその正体を知っている。かまわないでくれ」。
 さて、悪霊も恐れ、逃げ出してしまうほどの神の権威を持った、最高のみ言葉、真理そのものを、私たちはこうして毎日聞きます。
私たちもいろんな「汚れた霊」をもっています。皆と仲良くさせない不和の霊とか、エゴイズムの霊とか、見栄っぱりの霊などです。
 そして私たちには、いろんな恐れがあります。将来への不安、犯罪にあうこと、事故にあうこと、自分をおびやかす人。しかしそんなことより何より、神の言葉を聞くことに恐れましょう。何の回心もなく、ただ聞き流して終わる。そうでなく、私たちの悪霊に恐れをなしてもらって、恐れて、神の御言葉に本当に聞き従うものになりましょう。
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ヘブライ2・5-12

ちょっとわかりにくいと思います。大切なことだけを申しますと、イエス様は神の御子であり、天使に勝れる者であるにもかかわらず、天使よりも低き者、弱き者、貧しき者、つまり人間となられたのだということが言われているのです。人間としての低さ、弱さ、貧しさを身に負われて、私たちのところに来てくださったということなのです。その人間イエスの弱さ、貧しさがここで語られているのです。
ある意味でとんでもないことが書かれています。イエス様は神様の御子であり、万物の創造者、支配者であるならば、それに従わないものは何一つないはずなのに、《しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。》と、現実はそうなっていないと語られているのです。万物の創造者だ、支配者だ、神の子だと言っても、イエス様はこの世に対して何の力もないじゃないか。それどころか、人々の手にかかって十字架につけられ、殺されてしまったのではないか・・・そういう風に言われても仕方がないような現実があると、言っているのです。
 こういう現実は、私たちも日常の生活で経験しているのではありませんでしょうか。イエス様は救い主だと教えられているのに、私の生活は苦しいことばかりじゃないか。ニュースを見ても悲惨なことばかりだし、戦争はなくならないし・・・いったいイエス様は何をしているのか? どこにその救いがあるのか? 『ヘブライ人への手紙』は、実はそのようなイエス様の弱さの中にこそ、神様の恵みが、救いがあるのだと言われるのです。9節
私たちは、イエス様に強き力を求めます。「神の御力をもって病気を治してください」、「立ちはだかる問題を打ち砕いてください」、「私たちの弱さを強めてください」(都合の良い神)・・・しかし、私たちに本当に必要な救いはそういうことなのでありましょうか? 病気が治ったら、問題が解決したら、自分が強い人間になったら、私たちの人生はバラ色だと本当に言えるのでしょうか。そうではないと、聖書は語っているのです。むしろ、私たちに必要なのは、イエス様の弱さ、貧しさ、小ささなのだというのです。いと高き神の子であるイエス様が、そのような者になってくださった。私たちと同じものになってくださった。私たちの弱さを、貧しさ、小ささを分かってくださるお方になってくださった。そこに神の愛、神の恵みがあるのだというのです。

年間第一水
マルコ1・29-39

「手を取ると、熱が去り、その結果、起き上がった」と言うかわりに、「そばに行き、手を取って起こすと、熱が去った」と述べています。「起き上がる」(ギリシア語で、エゲイロー)ということばに注目させ、死から立ち上がる復活を示そうとしています。(荒)奉仕できない状態は、死の状態に等しい。健康な人間は奉仕できる人だと言わんとしている。この奇跡は主婦の役割を引き立たせています。
イエスが手を取って起こされると、しゅうとめの熱は去り、彼女は一同をもてなしました。イエスの癒しは、私たちが自分に与えられた使命を生きることへと向かわせます。神の力はイエスを通してこの世にもたらされ、イエスに出会った者は神の国の実現に協力するようになります。それこそ、人間
が渇望する、救いではないでしょうか。
主よ、神から離れて倒れている私を癒してください。あなたからいただく使命を生きる喜びに立ち返らせてください。sese05 今わたしが罹っている熱病は何だろうか。イエスの差し出される手は、どこにあるだろうか。深く心を沈めてゆくと、イエスの手がわたしの痛むところに置かれ、わたしの手を取って引き起こして下さるのが分かる。あなたに起していただいたこの喜びを周りの人々と共に味わうことができますように。sese07

年間第一木
マルコ1・40-45

モーセの律法も救うことのできない領域があります。ハンセン病は罪によるけがれともされ(レビ記13~14章参照)、病人
は社会から締め出されていました。ただ神だけがらい病を清めることができるとされ、らい病人の清めはメシヤがもたらす終末的な祝福の一つとされたいた。神の働きはイエスの愛、さしのべられた手からあふれ、病人を清めます。「らい病人を清める」ことは、「死人を生き返らせる」ことと並んで、終末時の神の業として特別の意義を持っているので、マルコは一人のらい病人の癒しを詳しく伝えるのです。
らい病人は人に近づくことも許されていなかった。彼がその律法の枠の中に止まっていたならば、救われることはなかったであろう。彼が癒されたいという切なる願いと、イエスに対する信頼とによって、律法という隔ての垣根をあえて踏み超えて、イエスのもとに来てひれ伏した時、救いが始まったのである。イエスも律法を超えてらい病人を受け入れておられる。イエスのもとにひざまずくらい病人、そこはすでに律法を超えた場である。らい病人に触れることは、病気への恐れだけでなく、自分も宗教上の汚れに陥ることとして極度に嫌われていた。しかし、イエスはすでに浄・不浄の差別を超えた次元におられ、ただ社会から疎外され、治癒の見込みもない絶望的な病人へのあわれみから、その人に「さわり」、その人とひとつになって、ご自身の中にある神の力を注ぎ与えられるのである。
らい病人が清められることは何を意味するのか、らい病人本人はまだ十分に自覚していなかったであろうが、イエスはそれを知り、それがユダヤ教社会でどう受け取られるのかを知っておられた。それで、イエスはあわれみにより病人を癒しながら、メシヤであることを自称する者であると理解されることを極力避けようとして(すくなくともマルコの描くイエスはそうである)、この出来事の公表を厳しく禁じられるのである。

「御心ならば…」と、重い皮膚病を患った人はイエスに願い出ます。イエスの「よろしい」という言葉は、「私はそれを望む」(Autos thelo)と訳すこともできます。私たちが癒され、周りの人々とより良い交わりを持ち、喜んで生きることはイエスの望みでもあります。イエスはご自分の業が、名声を得たり、いたずらに好奇心を駆り立てるために用いられることを望まず、純粋な憐れみの交わりの中に留まることを望まれます。
主よ、あなたの憐れみの心に生かされる者としてください。sese05
イエスはいつもわたしに「よろしい。清くなれ」と言ってくださっている。それは私の痛みへの深い憐れみから。イエスのこの心をしっかりと受けていきたい。イエスのこの愛に触れた喜びを告げ知らせたい。主よ、日々の出来事の中であなたに清められる喜びを見出す恵みをお与え下さい。sese07
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ヘブライ3・7-14

『ヘブライ人への手紙』は、ひとりで読んでいても、なかなか難しい書物であるかもしれません。しかし、ところどころに信仰の核心をずばりと言い当てた珠玉の御言葉が出てまいります。とくに文語訳聖書で読みますと、心に響きます。たとえば、
《心をかたくなにしてはならない》とあります。かたくなな心とは、自分自身のねじれた考えに凝り固まってしまって、何も受け入れなくなってしまう心です。先ほどからくり返し言っていますが、人生には自分の意のままにならないものがあります。自分の力を超えたものが働いています。実はそこに神様の御心があったり、御業があったりするんですね。
 こんな話を聞いたことがあります。ある老牧師が、目を輝かせ愉快そうにこう言うのです。「長い間、仕事に邪魔が入ると、つねに文句を言ってきましたが、その邪魔というのが、じつはわたしに与えられた仕事であることが、だんだんと分かってきました」
 数多くの思いがけない出来事を、単に自分の計画を邪魔するやっかいな出来事として恨みがましく思うのではなく、そこに何らかの神様のご意志があるのだということを認め、信じると、人生の色がガラリと変わるのです。

年間第一金
マルコ2・1-12

目に見える状況がどんなに良くなったように見えても、内面が癒されなければ、人は本当に幸せにはなれません。イエスは私たちの最も深い望みに応えてくださいます。神から罪を赦された者は、外面的なことがどうであろうと、真の自由と喜びの内に生きるのです。
主イエス、私を罪の力から解放し、いつも神の子の自由と喜びを生きる者としてください。sese05
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 イエスはその非常識で突飛な行動の中に彼らの信仰を見ておられる(五節)。聖書は信仰の内面の心理を説明しない。やむにやまれず外に現れる行動によって信仰を描く。イエスは彼らの、とくにそのからだの麻痺した人の「信仰を見て」こう言われる、「子よ、あなたの罪は赦されている」。病気だからつれてきたのに、イエス様は病気のことは何も言わずに、ただ罪が赦されたとだけ言い
ます。考えてみればおかしな話です。病気の癒しを求めてイエスのもとに来た者にとって意外な言葉でしょう。神の言は人間の願いにとってまことに意外です。それは、天が地よりも高いように、神の道は人間の道よりも高く、神の思いは人間の思いよりも高いからです(イザヤ五五・九)。人間は地のことを求める。眼前の切実な必要を神に訴える。しかし、その全存在をもってする訴えが信仰として神に受け入れられる時、神は天のものを与えられる。
また、私たちは恐れるべき病気は、体の病気よりも心の病気であると言うことが示されているのだと思います。実際、風邪を引いたなどの体の病気は、何日か寝ていれば治ります。治らない病気もありますが、多くの病気は治るようになってきました。神の「安息にあずかれない」(ヘブライ4・1-5 第一朗読参照)ような心の病気は人間の力だけでは治りません。意地悪な心、自分中心の心、不平不満ばかり言う心、優しさに欠けた心、人を傷付けるような心。この心の病気のために体は死ぬことはありませんが、そのために魂が滅びてしまうなら、それこそ恐ろしいことです。だから体を治す方が、心の重い病気によって犯し続けている罪を赦すことよりも簡単だと言っているのです。
 ですからイエス様にとって、心の病気のほうが大変なことでした。そこでまず何よりも、心の癒し、罪を赦すことを宣言したのです。(マタ10:28体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。)

年間第一土
マルコ2・13-17

神の前では同じ罪人にすぎない私たちの間で、互いに批判したり、裁いたりすることがよくあります。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」神のこの憐れみこそが救いです。自分の罪を自覚する者は神の憐れみに触れ、神の国に招かれます。そして今度は、他のすべての人を憐れみをもって迎え入れることにより、救いを告げ知らせるよう招かれます。
主よ、罪人の私を招いてくださったあなたの憐れみの心を一層深く味わわせてください。その心を人々と分かち合っていくことができますように。sese05
私がどういう人間か、イエスはすべてご存知です。その上で、『わたしに従いなさい』と声を掛けて下さっています。『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』と。主よ、あなたの招きに応えてゆきたいのです。素直に従っていく勇気を与えて下さい。sese07

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