5 easter

復活節第5月曜日
ヨハネ14:21-26
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イエスはこの世に来られてから、自分のことではなく自分をお遣わしになった方のことを知らせました。しかし私たちはしばしば、私を慈しみ、派遣した方のことより、自分のこと、自分自身を現わそうと、力を尽くしているのではないでしょうか。
神が一人一人をいとおしむ心に倣い、自分を忘れて人びとを大切にしていくことができますように。
復活節第5火曜日
ヨハネ14・27-31a

私たちは自分の安定した生活を構えて、そこから一歩も出ない範囲において、イエスに従っているのではないでしょうか。そしてイエスがだめになったら、他へ 鞍替え (くらがえ)することが、そんなに苦しむことなしにできる範囲に自分をおいているのではないでしょうか。教会に誘われたからつい行ってみたというぐらいで、イエスのために少しも苦しまない、心が騒がない。クリスチャンであるゆえに辱めを受けるようになってきても、私にとってイエス以外に主はないということが言えるでしょうか。
昔、ポリカルポという人が、ローマの兵隊に捕らえられ、キリストをのろえ、のろったら釈放してやる、のろわなかったら生きたまま火の中に放り込むと言われたとき、私は今日までイエスに一度も裏切られたことはない、そのイエスに対して私は裏切ることはできない、と言って、殉教したという話がある。
自分のかって気ままに、今日は神を信じようと思い、今日は忙しいからイエスのことはほうっておこうというような、自分の都合で信仰生活をしている者には、多分イエスの平和、慰めのことばは決して心の中に響いてこないでしょう。(榎本)
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「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」とイエス様はおっしゃいました。これはミサでも唱えられています。しかしイエス様の与える平和は世が与えるようなものではないと、同時に指摘されています。これはどういう意味でしょう。
ベトナム戦争の頃、反戦運動が高まり、上から押し付けられた価値観に疑問を出していきました。その際、愛と平和が何より大切とされました。もちろんこの運動が間違っているわけはありません。しかしその愛と平和の主張には、今さえ良ければいい、嫌なことは嫌、快楽に浸っていればいい、あらゆる苦痛から逃れられればいい、個人の自由が何より大事。苦労・忍耐などばかげたこと、束縛されるのはいや、自分の感情に素直になるのがいい。こうした社会の制約や束縛から解放され、「好きなら一緒。嫌いになれば別れる」という自由な考え方。それは、家庭を簡単に壊すことになっていきました。世が与えるような平和。世が求める平和。たとえば、このような結末をもたらした平和だと思います。 ではイエス様の言う平和とはなんでしょう。それは単なる感情とか楽だ、心地よいとか言うものではなく、忍耐、苦しみのかなたにというより、忍耐、苦しみのなかにもあるものだと思います。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_155.htm
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復活したイエスが弟子たちに現われて、初めに伝えた言葉は「平和」です。私たちもミサで平和の挨拶を交わして、互いに平和を持つことが出来るように願います。この心を騒がせない平和、おびえない平和を伝えることが出来ますように。

復活節第5水曜日

ヨハネ15・1-8

「私につながって、実を結びなさい」。これが、最後の晩餐におけるイエス様の遺言です。逃げまどう弟子、裏切ることになるユダ、さらには現代、同じキリスト者の名の下に争い合っている世界。それらをすべて知っているイエス様がこのように語ったのです。「つながる」と言えば現代人は携帯電話を思い出すでしょう。
携帯電話は便利で、人間にとって実り多いもので、だからこそ普及しました。電波は今もたえず一人ひとりの人間とつながりを持つべく、発せられています。しかしその携帯の実りも、人間は自ら、あるいは不注意で、ないがしろにしてしまうことがあります。それはいつも人間の側の責任であり、使われないままの携帯電話なら、何ら実を結ばず、投げ捨てられるだけなのです。 
 また神様は語ります。「携帯が無線基地局とつながっていないなら何の役に立つのか(エゼ15:2-5)。なぜあなたは電源を切り、バッテリーが切れた状態のまま平気でいるのか。つながらない携帯に何の用があるのか。そんな携帯は解約し、資源ゴミに出すしかないではないか」。
 無線基地とつながっていなさい。電源を切らず、充電させていなさい。いつも、たえず、最後まで持っていなさい」。    http://jns.ixla.jp/users/moseos194/
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ただ木につながっているだけで実がなるとイエスは言っていません。木につながっていて、そして手入れを受けるのは大切です。言い換えますと、ただ洗礼を受けた、誓願をたてたからといって、信仰の実をみのらせるとは限らない。生活の見直し、反省が必要です。共同体の中でお互いにもまれて分かち合い、そして必要なときに要らない部分、じゃまとなる部分を切り落とす覚悟が大切です。

同じ木につながっていることは、イエスとのつながりだけでなく、互いのつながりをもしめしています。一人の悩みは皆の悩みで、一人の喜びは皆の喜び。そういう人間関係を通して神の子となるために訓練を受けます。神の子を育てる場として教会があります。けっして、儀式だけの教会ではありません。(ステ)「私のことば」があなたたちに留まっているならとは、兄弟愛を実践することです。
兄弟愛は祈りの条件になっていますが、同時に、兄弟愛は祈りの内容そのものです。「望むものをなんでも願いなさい」。この願いは兄弟愛を求める祈りにほかなりません。兄弟たちが互いに愛し合うとき、父は栄光を受けます。父の子供たちが、父の愛を反映させているからです。(荒)
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「わたしにつながっていなさい。」つながっているとはイエスに留まるという意味でしょう。私たちとイエスの関係がぶどうの木と枝の関係であれば、枝が木から独立して勝手に生きようとするなら、枯れてしまうだけです。ぶどうの木と枝は一つであるように創られているのです。
私たちが木と枝のようにしっかりとイエスに留まることが出来ますように
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「あなたがたは枝である」(5節)という宣言と「わたしにつながっていなさい」(4節)という命令は、一見矛盾するようです。しかしその表現は、信仰の本質をついていると思います。イエス・キリストはぶどうの木として、わたしたちに関係をもち、私たちひとりひとりをその枝として結び付けてくださる。しかもそれを自分から積極的に言われる。それは確かな事実です。
 しかし私たちは、それをそのまま受けとめるわけではありません。私たちはそれを見失い、離れて行ってしまう。深いところでは、受けとめられているけれども、私たち自身がそれを認識していなければ、実際には離れているのと、同じ状況になってしまうのではないでしょうか。「信じない者は既
に裁かれている」(ヨハネ3:18)と言われているとおりです。「従っていく」という呼びかけへの応答が伴っていなければ、本当に「聞いた」「信じた」ということにはならないでしょう。
http://www.km-church.or.jp/preach/
復活節第5木曜日
ヨハネ15・9-11
現代社会では、喜びを感じながら生活している人々があまりにも少ない気がします。私たちはいつも、自分の喜びを求めています。しかしめったに、喜びに満たされることはありません。喜びがあっても、それは非常にはかないものです。それは私たちの求める喜びが往々にして人から(奪い取る)期待するものだからでしょう。
私たちには、人間的な喜びがあります。おいしいものを食べたり、親しい人と会ったり、願ったものが得られた時などです。また同時に、人間的な悲しみもあります。失敗したり、人間関係のトラブルで悩んだり、解決できない問題にぶつかったりした時です。
キリストが約束する喜びは、そのどちらにも浸透しています。人間的な喜びの中にも信仰的な喜びが満ちており、人間的な悲しみの中にも、信仰的な喜びが満ちているのです。つまりどちらにも含まれ、その二つの矛盾したものを止揚する(むすぶ)絶対的な喜びなのです。御父の愛に感謝し、人々を一方的に愛することです。これはだれにも奪い去られることのできない喜びです。本当の喜びは人から奪うものではなく、与えるものだからです。与えることによって、私たちの喜びは満たされるのです。(静)
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父が私たちに掟をくださったのは私たちが父から離れないため、また永遠の喜びをいただくためです。
しかし私たちは掟を守ることを難しく考えてしまいます。イエスはこの難しさから私たちを解放させるために一つの掟、すなわち愛にまとめました。
互いに愛し合うことを通して、イエスの喜びが私たちの内に満たされますように。
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「坊主憎けりゃ袈裟まで」という諺があるように、いやな先生から学んだことがらがいやになる、いやな上司から命令されたことは憎いと思う。私たち皆はこういう経験があるから、今日の福音書にある、掟と愛の関連性はもう一つぴんと来ないと思う。一般の人々も、愛と掟を結び付けるのは分かりやすいことではないでしょう。愛と掟はむしろ相容れないではないかと、これは一般的な考え方でしょう。
これを理解しやすくするために、愛してくれる人から何かを教えてもらった体験を思い出す必要があると思います。例えば、私は父親を思い出す。うちは畑があったから、父は中学生の頃私にトラクターの乗り方、運転の仕方を教えてくれた。「こうしたらいいんだよ」、「あれしたらだめよ」というような感じですが、今から考えるとすごくありがたく思う。私は40年近く無事故で車の運転して来れたのは父のお陰だと思っています。
こういして、神のおきては愛であるとちょっと分かるような気がします。詩編119(日課で昼に唱える詩編ですが)にこういう言葉がある、「愛するあなたのすすめをいだき、あなたのおきてに思いを潜(ひそ)める。」今日はこういう言葉を黙想しましょう。


復活節第5金曜日
ヨハネ15・12-17
おきてを守ることによって、神への愛を表わすのでしょうか。それとも、神を愛するためにおきてを守るのでしょうか。神に愛されているから、自分から自発的におきてを守ろうとするのではないでしょうか。しかしいつも、神への愛を感じるわけではありません。実は、感覚的に神の愛を全く感じない時も多いのです。ではその時は、おきてを守らなくてもいいのでしょうか。いいえ、そうではありません。かえっておきてを守ることによって、神の愛を証明できるのです。
鶏と卵のように、どちらが先でもありません。だいたい、愛とおきてをパラレルに考えることが間違いなのです。なぜならイエスのおきては、○○をしてはいけないといった消極的なものではなく、「互いに愛し合うこと、これが私のおきてである」というものだからです。だから愛とおきては、対照的なものではけっしてありません。愛はおきてを成り立たせる原理なのです。感情をこめて愛することも、おきてを守ることも、ともに、この神の愛の中に止揚されるのです。つまり愛はすべての対立、矛盾を統合する原理なのです。
おきて、イコール愛することなのです。人に迷惑をかけない、人のいやがることをしないといった、消極的なものではないのです。もちろん、親を愛し、友達を大事にしなさいというおきてもあるでしょう。しかしそれらのおきても、神の愛という基盤を失ったら、親をとるか友達をとるか、と分裂してしまうでしょう。やはり神を愛する愛で、親も友人も愛さなければならないのです。(静)
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僕、召使いは、主人の言われたとおりにしなければなりません。自分の判断を差し挟む余地はありません。しかし私たちと主イエスの関係は、そうではない。イエス・キリストの思いを知って、納得してそれに従う。だから「友」だとおっしゃるのです。
 その「友」は、私たちのこの世のすべての友を超えています。この世の友は、どんなに親しくても裏切られる可能性があります。「世の友われらを捨て去る時も、祈りにこたえて慰め」(『讃美歌21』493)てくださる。この世の友がどうであろうと、イエス・キリストだけは真の友になってくだ
さる。そのイエス・キリストが、ご自分の命をかけて、私たちを召されるのです。そうしたことを受けとめて、この方に従っていきたいと思います。それを受け入れる時に、私たちの人生が新しく見え、新しくなっていくのではないでしょうか。イエスさまを通して私たちが生きてゆくために必要なエネルギーと知恵と導きとが豊かに与えられるのです。だから心配はいらない。
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イエスは弟子たちと新しい関係を作ろうとしています。イエスが弟子たちを選ばれたとき、主人と僕の関係ではなくて友の関係になることを望まれました。その友情関係は、「わたしがあなたがたを愛したように」という、イエスの大きな愛に導かれて成り立ちます。
イエスの愛を受け入れ、この愛に従い、イエスの友となることができますように。
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「神様から預かったものをいつかお返しする日が来る」と考えたら、「天の国とはツタヤ(レンタルビデオ屋)みたいなもの。神様はツタヤの店長、天使はアルバイトの店員。私たちはビデオテープ、赤ちゃんは新作ビデオ」という感想がうまれる。この言葉は、恵まれた人生を歩んでいると感じている人にとっても、逆に人目に不運と見られるような経験をしている人にとっても、それぞれに大きな意味を持った言葉であると思います。
 環境に恵まれ、お金に恵まれ、あるいは才能に恵まれている。人からそう思われ、自分でもそう思う。そういう人は、ただ、自分はラッキーだと思ったり、いや自分の努力でそれを得たのだと思ったりしてはならないでしょう。そこに私たちの傲慢が入ってきます。またその恵みを自分自身のために
用いるにとどめてはならないと思います。神様は何らかの意図があって、そうした恵み、そうした賜物を与えられたのだということを、考えなければなりません。そこに神様の選び、目的というものを見抜く目を持っていただきたいと思います。
 
復活節第5土曜日
ヨハネ15・18-21

ヨハネは兄弟愛と正反対な生き方を「世の憎しみ」と呼んでいます。この世と弟子たちは対立します。イエスに従う人は兄弟たちを愛し、兄弟のためにいのちをささげます。この世も自分たちのものを愛しますが、自分のものとして愛するために、人を自分に従属させ、自由を奪い、奴隷にします。キリスト者は世の憎しみに対して、同じ憎しみによって対抗するのではなく、愛のおきてを守ることによって戦います。イエスの弟子はイエスと同じ運命を受けます。イエスの名のために憎まれます。(荒)
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この世にはいつの時代も、神に逆らう力、不信や憎しみが溢れています。しかし同時に救援の対象でもあり、それ故にイエスはこの世界のただなかで神の愛を全うされました。
私たちも悪の力に流されずに、イエスの福音を伝えていくことができますように。
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「世があなた方を憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(18節)。先ほど申しあげましたように、イエス・キリストはこの翌日に十字架かけられて死んでいくことになるのです。そのことを承知しながら、この言葉を語られたのでしょう。
 イエス・キリストと「世」の関係は、二面的です。一方で、「世」(この世)はイエス・キリストの伝道の対象であり、愛の対象でありました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16~17)。
 しかし他方では、「世」はイエス・キリストを知らず、イエス・キリストを憎むのです。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(同1:10~11)。イエス・キリストは「世」のために祈られるのですが(17:21)、「世」は聖霊を受け入れないし(14:17)、従ってイエスを受け入れません。それゆえに、イエス・キリストは「世」を裁くために来たのではないにもかかわらず(3:17)、結果として「世」に対する裁きとならざるを得ないのです。「信じない者はすでに裁かれている」(3:18)という言葉は、そうした状態を指しているのだと思います。しかしイエス・キリストは、そういう「世」に打ち勝っていくのです(16:33)。

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