パウロの回心と情報理論

パウロの回心を情報理論の観点から捉えてみたい。

情報とは何か。情報にはいくつかの特徴があります。何かを情報といえるためには新しさがなければならない。明日の新聞には今日の新聞と同じ情報であれば、誰も読まないでしょう。価値がない。
また、情報は同時に「冗長性」(じょうちょうせい redundancy)がなければならいといわれます。規則だたしさといったら分かりやすいかもしれない。繰り返される部分がなければならない。ですから、明日の朝日新聞はいきなり韓国語になったら、ついていけない人は多いでしょう。
あるいは、ニュートンの法則、F=ma 力は質量にかける加速度に等しいと言われても、慣れていないひとはちょっと待ってよ、というでしょう。その人にとって新しすぎる情報となります。

遺伝子にはたくさんの情報が詰まっています。遺伝子は体の形を伝えています。毎日体の細胞は遺伝子の情報に従って変わっていきます。変わらない細胞は死んでしまいます。毎日変わらない生き物は死んでしまいます。だから、毎日体は新しくなりますが、ここにも冗長性、繰り返される部分がなければならない。ネズミの実験で、鼻をつくる遺伝子を操作(そうさ)して、足に鼻を作らせた実験があります。やはり、体は唐突的に変わるものではない、少しずつ変わるが、突然全部新しくならない。

「あいうえおかきくけこ」50音表、あるいはabcdefgアルファベットには、決まった順序があって、いつも変わらない冗長性、繰り返される部分、規則正しさがある。けれども、アルファベットを繰り返すだけで情報を伝えることはすくない。やはり、順序を崩して、様々な言葉を作ります。文字を並べ替えて言葉と《話を作ります。

パウロは若い時から、ガマリエルという先生から聖書のことを熱心に学んだ。聖書のことをアルファベットのように、ひらがなのようによく知っていたからこそ、そこにイエス・キリストのようなメシアが入る余地がなかった。だから、初代教会を迫害した。パウロにとっては、「あいうえおかきくけこ」でないとおかしい。
パウロの回心は唐突、ドラマティックに描かれていますが、パウロの持っていた情報は全部ひっくり返されたわけでないでしょう。イエス・キリストの復活という新しい情報を入れて、聖書全体について少し新しい情報が加えられた。情報を並べ替えたというふうにもとることができます。凝り固まっていた認識が柔らかくなった。

アルベリオネ神父は、パウロのよう突然な回心を体験していないかもしれない。けれども、彼は教区司祭として、決まったレールに乗って、司牧活動をするのではなく、アルファベットを繰り返すのではなく、並々ならぬ活動を選んだ。新しいメディアで規則正しさのある信仰という情報を伝える。
メディアが新しくても、メディアを使うパウロ家族は古いまま、凝り固まった認識のまま、新しい情報は伝わらない。

「回心」と言われると、四旬節のときのように、まさに自分が嫌がる嫌なことをしなければならないという反応を起こすことは多いではないでしょうか。あるいは、罪悪感を持たせるだけで、あとはなにも変わらない。