1 easter

毎日の福音
Home | References | Aisatsu |


復活の月曜日
マタイ28・8-15

救いの歴史において女性は中心的な役割を果たしています。イエスの復活のメッセージは婦人たちに託されています。神様は男女差別をしないことを意味します。当時の社会において女性は男性と同じような人間として扱われることはなく、むしろ人の目にふれないような所に生活する役割を与えられていました。

このようにして、復活はイエスの新しい生き方を表わすだけでなく、新しい人間関係、役割の見直しをもたらしているものです。差別意識、隔たりに支配された人間が、洗礼によって死に、平等、愛、正義に基づいた新しい人間に生まれ変わります。考えてみれば、洗礼を受けても古い生き方をし続けているならば、私たちにまだ復活のメッセージは届いていないということになります。そのメッセージを託された人々は、社会においてはあまり注目されないから、目を引かないから、権威をもつと思われていないから、私たちはそのメッセージを聴き損ねているかもしれない。(ステファニ)
--------
復活したイエスと出会った人たちには二つのタイプがあるようです。それは婦人たちと番兵たち、どちらもイエスの復活の知らせを受けました。婦人たちは何か手放しの喜びを持っている感じです。番兵たちは、そうではなく、世俗的にお金を得る機会にしました。復活したイエスに出会うのは大きな恵みですが、その時の私たちの態度はどうでしょうか。復活したイエスを心から迎え入れ、神の国の喜びと自由を生きることができますように。

復活の火曜日
ヨハネ20・11-18

電車や公共施設に置きっぱなしにされる品物はたくさんあるそうです。時には相当なお金を忘れる人もいるそうです。銀行の自動振込機の上に「お金を忘れないでください」と書いた一枚の紙があります。銀行員の話によると、人は忘れたものを探しに行かないらしいです。
ところがマリアは探していました。イエスが見つからなかったので「外に立って泣いていた」とあります。彼女は探し、ついにイエスに出会うことができました。もし彼女があきらめて帰ってしまったならば、多分イエスに会わなかったことでしょう。
小さな人を受け入れる人は私を受け入れるとイエスは教えていました。小さな人々、あまり注目されない人々、目を引かない人々を「探す」、注目するならば私たちもマリアと同じようにイエスに出会えます。(ステファニ)
-------------
マリアは墓の中にイエスを探しましたが、イエスは墓の外でした。マリアが園丁だと思った人がイエスでした。キリストを信じる人々はイエスに出会いたいので教会に行ったり、巡礼をしたり、聖書を読んだり、黙想をしたりします。イエスは教会の中ではなくて教会の外、巡礼地の中ではなくて巡礼地の外、聖書や黙想の中よりも外の現実におられるかもしれない。そういう気持ちでもってこの復活節をすごしたい。私たちがそこには絶対いないと、思っているところにこそイエスがおられるかもしれない。
今、ここに、あなたを見出すことができますように。

復活の水曜日
ルカ24・13-35 

エマオに向かっていた弟子たちは聖書を知っていたでしょう。 しかし、聖書が分かると言っても、それは、たくさんの本を読み、勉強を重ねれば良いというものではありません。もちろん、知識は多いに越したことはありませんが、知識から理解へと進まなくてはなりません。知識は客観的なものですが、理解は、知ったこと、学んだことを自分のこととして当てはめることです。そこには主観的な作業が入ってきます。たとえば、小さいこどもでも暗唱聖句ができます。いや、こどものほうが、おとなよりたくさんの聖句を覚えることができるでしょう。詩篇23篇や、コリント第一13章などを全部暗記できるかもしれません。しかし、それを自分のものと理解しているかというと話は別です。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」という詩篇は、ある程度の人生の経験をしてはじめて理解できると思います。聖書のことばには、人生の体験を経ないとわからないものが数多くあります。私は神学校を卒業した時、聖書のことは何でも知っているように思っていました。しかし、毎週、毎週、ひとりびとりの現実の生活を考えながら説教しなければならなくなった時、私は、まだまだ聖書が分かっていないと思うようになりました。そして、様々な体験をして、聖書が分かるようになってきました。多くの人が「聖書は読むたびに別の意味を持って来る。」ということを感じています。聖書の「解釈」(interpretation)は一つかもしれませんが、その「適用」(application)はいくつもあって、ひとりひとりに、また、読むたびに違ってくるからです。聖書は、単に客観的に研究、分析するだけのものではありません。それは、神から「私」へのメッセージとして読むべきものなのです。

 そして、客観的な「知識」、主観的な「理解」へと進んだなら、次に、人格的な「信頼」へと進みましょう。聖書にある約束を信じて神に任せていく、聖書にある命令に聞き従う、聖書にある慰めによって心を満たす、聖書にある祈りのことばの通りに祈るというように、知識が理解に、理解が信頼に進んでこそ、「聖書が分かる」ようになるのです。そして、聖書が分かる時、私たちの目は開かれ、主イエス・キリストが分かるようになるのです。

----------
人生は与えられた道のりを歩むようなものだとよく例えられます。その中でさまざまな出会いがあります。先週大学の新入生に会いました。年齢と出身はいろいろですが、彼らの目の中に今の生活だけで満足しない、何かをつかみたいという気持ちが読めとれます。彼らは自分の人生の道で私とばったり会うことになりました。この出会いは私にとってどういう意味があるか今は分かりません。
エマオの二人が絶望感におそわれて歩いていました。何気なく近づいて来て聖書の話をしてくれたその人に何かあたたかいものを感じたでしょう。有難かったでしょう。そのために彼を誘って共にテーブルを囲んで食事をしたかったでしょう。一緒に食事した時にイエスだと気がつきました。道の途中、言葉を通じてのつながりでしたが、食事を通じてのつながりは心の中までふれました。私たちも毎日のミサにおいて生きたイエスにつながるのです。(ステファニ)
------------------
イエスから直説に説き明かされている時には、自分たちの心が燃えていたとは気がつかなかつたようなのです。あとから思いだしてみると、心が燃えていたというのです。この感激の仕方というのも面白いと思います。

 信仰というものは、あとでじわじわとわかってくるというわかりかたではないか。もちろん、熱狂的に感激することもあるかもしれませんが、このふたりのように、あとになってそういえば、あの時、心が熱くなったね、と思いだすというわかりかた、感激の仕方というのも、なかなかいいものだと思います。

 イエスの語りかたというのは、人々にただ熱狂的に分からせようとするのではなく、人々が自分たちの心のなかで納得するまでじっと待ってくださる、そういう語りかたをするということではないかと思うのです。

 ある人が「人に話をする時に『説得』と『納得』という方法があると言っております。説得は相手に反論を許さない、説得されたからといって、納得したとは限らないということがある。納得していないのに、説得されたというのは、非常に不愉快なものだ。相手を説得するのではなく、相手に納得してもらうほうを自分は選びたい」といっております。

 イエスの語りかた、特に復活の主イエスがこのエマオ途上のふたりに語りかけるとき、復活という事実を彼らに分からせようとしたときに、主イエスは説得ではなく、納得してもらうまでじっと待っておられる、そういう納得という語りかけをなさったのだということではないかと思うのです。

復活の木曜日
ルカ24・35-48

毎年数百万人の子供が死んでいます。その死に対してテレビカメラが向けられることもなく、マスコミに注目されることなく、世界の人々にほとんど気づかれることもなく死んでいきます。これはユニセフ(国連児童基金)が毎年発表する「世界子供白書」に書いてあることです。
イエスは私たちと共に生きていることを示すのに手段として食事を使いました。世界の富は数ヶ国、そして少人数の手に収められて(牛耳られて)います。東京で一日に捨てられる食べ物によって、数十万人の腹を満たすことができます。神から造られた富が平等に分配されるということは数百万人の子供にいのちを与えることを意味します。
死ぬことが定められている子供たちに食べ物を与えることは、人間に実現できる復活です。人類が復活を信じていれば、抱えている問題を解決する知恵と力を見出すでしょう。(ステファニ)
-----------
直接に体験した弟子たちにとっても、キリストの復活というものは決して分かりやすいことではなかったようです。
復活したイエスに食事はいらないと思われがちですが、魚を食べられたのは何故でしょうか。これは弟子たちに理解させるため、弟子たちの目線に合わせるためでしょうか。なぜわからないの!といわずに、叱らないで相手に合わせて共感するところに優しさが感じられます。弟子たちの心をほぐして悟らせるイエスの接し方に倣って、私たちも、福音を伝えていくことができますように。
----------------------------
聖書には、作り話ときこえる部分がありますが、間違いなく歴史的事実と言えるで部分もあります。
  例えば、「イエス様が十字架にかけられて死に、墓に葬られたこと。その事実を目の当たりにしたとき、弟子たちが、自分も同じような目にあうのではと逮捕を恐れ、皆逃げ出してしまったこと。
そしてその同じ弟子たちが、その後、自分の命さえなげうって、自ら死ぬことになりながらも、イエス様の復活を第1朗読に見たように証しするものに変わったこと。その命がけの弟子たちの宣教によりましてキリスト教が成立し全世界に広まったこと」。これらのことです。
 しかしここには常識的には、どうしてもつながらない2つの事実があります。「イエス様の死とそれを見た弟子たちが皆、裏切り、逃げ出してしまった」こと。そして「その同じ弟子たちが命を捨ててまで宣教した」こと。この二つには大きな溝があります。そしてこの2つをつなぐものこそ、イエス様の復活の出来事ということになります。
 しかしこの復活という出来事こそ、躓きであり、正しく理解することの難しいところです。世間では幽霊の話は、結構聞きますので、イエス様の復活の出現を、この幽霊話と結び付けて理解するかもしれません。しかし今日の箇所は、復活の出来事が幽霊話とはまったく違うことを、証しする大切な箇所ということになります。
 弟子たちもイエス様が現れたとき、亡霊が現れたと思い、恐れ、びっくりしたのです。むしろ聖書に記される弟子たちの復活体験は喜びよりは驚きと恐れのほうが強調されています(マコ16:8)。それにはさらに裏切ってしまったイエス様に顔を向けられない、今会うのは恐ろしいという思いもあったかもしれません。
 しかしこうしておののく弟子たちにイエス様はこうおっしゃいました。「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある」。そう言って手足を見せた。それでも不思議がっている弟子に、わざわざ焼いた魚を食べて見せた。ここにはイエス様のユーモアがある感じがします。
そこに「あんな人知らない」といって逃げてしまった弟子へのゆるしも含まれているように思えます。
 私たちも目の前で死んだ人間が、突然現れたらびっくりして逃げ出してしまうでしょう。しかし肉体があることをしっかりと見せただけでなく、物を食べ、本当に、そこにいるのが死に打ち勝ったイエス様がいるということを証してくださったのです。聖書はこのようにしてイエス様の復活の出来事、赦す神、神様の愛を伝えます。
 

 聖書はこう私たちに迫っています。「臆病者の私たち弟子が変わった。それはこのようにして実際に復活の出来事を体験したからだ。そして裏切り者をさえ赦す神様の愛を体験したからだ。この証言を聞いたあなたも、私たち弟子の証言を信じて、神様の深い愛を伝えるために、イエス様に、私たちに従いなさい」と。
 私たちがその命がけの弟子たちの証言を、そのまま受け止めていくことができるよう、恵みを願いましょう。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_046.htm

直接に体験した弟子たちにとっても、キリストの復活というものは決して分かりやすいことではなかったようです。
弟子たちの心をほぐして悟らせるイエスの接し方に倣って、私たちも、福音を伝えていくことができますように。

復活の金曜日
ヨハネ21・1-14 

--------------
・弟子たちは、故郷であるガリラヤに戻って、そこで宣教を始めました。しかし、何も取れません(21:4)、何の成果も上がらなかった。弟子たちは失望し始めます。イエスの復活は、絶望した弟子たちを立ち上がらせる契機にはなりましたが、まだ彼らは半信半疑でした。自分たちが見たのは幻ではなかったのか、本当にイエスは復活されたのか、復活されて私たちに伝道の使命を与えられたのであれば、それなりの成果が出るはずではないか、そのような疑問が次から次に弟子たちの胸中に押し寄せました。「自分たちは何をすればよいのだろう」、彼らは元々ガリラヤの漁師でした。不安な心を静めるために、再び漁に出ることにしました。

復活に生かされた生活

・弟子たちはエルサレムで、復活のイエスに出会っています。そして、イエスの指示でこのガリラヤに来ました。それにもかかわらず、イエスの到着が予定よりも遅くなると、不安になり、自分たちが出会ったイエスは幻ではなかったのかと思い始めます。人間の信仰とはこの程度のものです。復活のイエスに出会って感激する。しかし、感激はすぐにさめ、やがて、不信に囚われてしまう。私たちの生活もそうです。神が私たちを養って下さると信じていても、実際に失業してみると、「これからどのように暮らしを立てれば良いのか」と悩み始めます。

・今コロナウィルス感染拡大による営業自粛や外出自粛で、飲食店やホテル・旅館等は売り上げが半分や三分の一になり、家賃や給与が払えなくなり、事業継続が難しい状況に追い込まれています。個人でも解雇されたり、給与が減ったりで、明日の生活の目途が立たない人も出ています。国や自治体も様々の支援制度を打ち出していますが、手続きに時間がかかり、今日・明日の資金繰りにも窮迫し、心が折れ始めている人も出ています。「主は本当に私たちを養ってくれるのか」、信仰者の中にも疑う人も出てくるでしょう。信仰がまだ私たちの生活を規定していない、これが私たちにとって最大の問題です。弟子たちもそうでした。イエスが復活されたことがまだ弟子たちの生存を変えるまでの出来事になっていなかった。だからイエスが再び来られたのです。
---------
イエス様の弟子達は、まさに「イエスという人」に自分自身の人生を託していました。
つまり、弟子達にとって、主イエス様は、彼らの希望の星でした。
この方にさえ付いておれば、きっと将来は安泰だ。
きっと将来はこの方の下で、権力を手にいれて、羽振りをきかせる事が出来るはずだ。
程度の差こそあれ、彼らは全員がそういった思いで、この数日前まで、イエス様に従ってきたのでした。
 
さて、あの十字架の時のことでした。
 あれほどまでに忠誠を誓った筈のイエス様を、自分たちは、あんなにもあっけなく見捨ててしまった、命からがら逃げ出してしまった、あの不甲斐(ふがい)なさ。
それは彼らには、最初の勢いが良かっただけに、一層情けない、
思い出したくもない自らの行為でした。
或いは「意気揚々と故郷を出てきたものの、一体どんな顔をして家族の所に帰ればいいのか?」
あるいは、言い訳がましく、
「心ならずも、あの時には逃げ出してしまい、無様な所を見せてしまったが、それはここにいる全員が同罪だから、まあいいや」
「それに、自分たちは逃げただけだが、みんなのリーダーを気取って、偉そうにしていたペテロさんなんかは、イエス様を裏切ってしまったのだから、あの人に較べれば自分はましだ」きっと、こんな事ばかり考えていたのではないでしょうか?
 
あまつさえ、みんなからそんなふうに思われていただろうペテロに至っては、きっとその場にいたたまれなかったのではないでしょうか?
きっと彼はね、その場の誰よりも深く傷ついていたのだ、と思うのです。
そんなふうに、その場にいた全員が、あれやこれやと考えながら、きっとですね、自分だけは人よりはましだと言えるような、言い訳や逃げ道を考えていたかも知れません。
そうしましたら、その部屋の中に、まるで壁をすり抜けるようにして、イエス様が入ってこられたのです。
それが、20章までの出来事でした。
そこでね、彼らは、イエス様が生き返られたのだ、という事を知ります。そして大喜びをしたのです。
そして21章になるのですが、
21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
とあります。
もう一度お姿を現された、と書いてあるのですね。
という事は、あの部屋の中で、弟子達にお姿を顕されたイエス様は、皆に顔をお見せにはなっただけで、またすぐに、いなくなられた、という事なのですね。
 
つまり、弟子達は、「イエス様は復活されたのだ、だったら、前と同じように、もう一度、この方に従って行けばいい」
きっとそう考えたのではないでしょうか?
まずは一安心した筈だったのですね。
会社がつぶれてしまって、どうしよう?と思っていたけど、大丈夫、再建されます、という事でみんな安心していた、すると又社長が雲隠れしてしまったぞ、というところではないでしょうか?
 
さて、みんなは、一体この時に、どう思ったのでしょうか?
 
聖書を読む、ということはね、こういう事を想像しながら読むのです。
すると、あれこれと考えが浮かんできて、とても楽しいのです。
 
さて、彼らはね、またまた、どうすればいいのか?と思い始めたのですよ。
そしてね、今回は、前の時とはちょっと事情が違います。
と言いますのは、彼らは、最初の時は、イエス様はもうおられない、死んでしまった、と思っていました。
だからそれなりに、自分の身の振り方さえ考えれば良かったのです。
はなはだ帰りにくいけれども、ほっかむりでもして知らん顔をして、親元にでも帰って、ほとぼりが冷めるまで待てばよかった。
ところが今回は、そうではなくて、イエス様は生きておられた。
じゃあ、プロジェクト復活だ、と思えば、またイエス様は見えなくなってしまいました
さあ、帰るに帰れない、と言ってこれから一体どうするの?
これは一体どういう事なんだ?
イエス様が蘇られたという事は分かったけれど、でもそれからが、わからんじゃないか?
イエス様は一体この私達に、なにをさせようというのだろうか?
そんな、ハテナマークがみんなの頭上にいくつも飛び回っていた、そんな数日を、彼らは過ごしていたのではないでしょうか?
 
彼らはね、見失っていたイエス様を見いだした、と思ったとたんに、又もや見失ってしまったのですね。
それで、「ガリラヤで会える、と言われたイエス様のお言葉だけを頼りに、このガリラヤ湖の畔まで来たのです。
しかし、それからどうすればいいのか分からない。
こういう時、というものを、私達も時折経験させられる時がありますね。
 
  (どうすればいいのか?みことばの約束を信じて待つのです)
----------
イエスは働くものの苦労をいやすために炭火を起こし、魚を焼いてパンも準備して待っていました。そして弟子たちを食事に招きます。弟子たちが取った魚、労働のみのり、いのちのかてになるために捧げます。湖のほとりの静けさを通して主のやさしさと弟子たちの感動が伝わってきます。
復活の物語は食事で終っていますが、それは、復活が天国における祝宴の始まりであることを暗示するためです。
ヨハネの好む七という数字が、七人の弟子で表わされ、多様性と一致、つまり完全さを象徴しています。153匹の魚と破れない網は、あらゆる時代の多種多様なキリスト者の、生き生きとした集まり、教会の一致と多様性を象徴しています。魚は初代教会では、イエスはキリスト、神の子と信じるキリスト者を表わす暗号に使われました。(荒)
-------------
私たちはよくイエスと出会いたいと願って祈ります。しかしイエスは私たちの期待(希望)通りに現れません。復活したイエスはご自分が行きたい所に、行きたい時、ご自分のしたい方法で現れます。私たちがイエスと出会い、イエスに従うのは私たちの様式を捨ててイエスの様式を受け入れる時でしょう。主よ、あなたの導きに気づかせ、従わせてください。
復活の土曜日
マルコ16・9-15
弟子たちは、自分の故郷、社会的・経済的・精神的地盤から離れ、全く異なるメンタリティの人々の中に、異邦人のように入っていきます。「地のはてまで」、たよるものをなに一つ持たず、ただイエスが主であることだけを頼りにし、イエスだけを伝えるために、出かけていきます。
イエスが神の福音を宣教したように(マルコ1・14)、弟子たちも世界中どこでも福音を宣教します。福音宣教は、すでに神の力の介入の現れであり、全世界の救いを近づけます(引き寄せます)。「私は、あなたを国々の光として、地のはてまで、私の救いをもっていかせよう」(イザヤ49・6)とイザヤ書に書いてあります。イザヤは主の霊がダビデの子孫に注がれ、彼によってイスラエルが解放され、幼子が毒ヘビの穴に手を入れても害を受けない、平和な時代を予言していました。マルコは、そのような時代をもたらす者として、宣教する弟子たちを描きました。(荒)
-----------
見た人が言うのを信じなかった。信じることの難しさです。死んだ人が復活して姿を現すということは、人間の理解をはるかに超えたこと、信じられなくて当然でしょう。それでも確実に、信仰は伝わってきています。それは確かに人間の業ではなく、神の業といえるでしょう。
主よ、信じる恵み、主の復活の喜び、希望、平和をもっと深く味わう恵みをお与えください。
------------
復活したキリストは、弟子たちの日常生活の中で、普段の仕事(魚を取る、朝の食事)の只中で現れる。しかし、それはキリストであると理解するのは、これは人間の能力をこえるのだ、と。普通の考え方、常識ではたりない。何も取れなかった夜を体験したあとに得られる認識である。深い祈り(瞑想)を通して得られる生命が必要である。

No comments:

Post a Comment