30 per annum

年間第30月
ルカ13・10-17

  安息日は一日に何歩以上歩いてはいけない日になっていった。いっさい火をつかって料理をしてはいけなと日になっていったのです。その日はお偉方が、今日でいえば警察がみんなが安息日を守っているかどうか、遵守してるかどうかを監視する日になっていった。それは民衆にとっては、休まる日どころではなく、安息日律法に違反していないかどうか、びくびくする日になってしまったのです。
われわれ人間のわざの中でももっとも人間的なわざというのは、いわば人をさばくということではないかと思います。ある人の言葉に、人が誰からも教えられないで生まれつきもっている技術がある、それは人をさばく技術だ、という言葉がありますけれど、そのわれわれ人間が生まれつきしみついている技術、わざ、人をさばくというわざがまさにこの安息日に横行し始めたのです。つまり安息日は人間のわざを中断しなくてはならない日なのに、その日こそもっとも人間的なわざ、しかももっとも悪しきわざが横行する日になっていってしまったのです。

安息日こそ、すべての束縛から人々を解放する日にするとイエスは宣言したのです。「安息日であっても」というところを、むしろ「安息日だからこそ」とも訳すことができるのです。
この女の人は「かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女」と記されていて、別に汚れた霊、悪霊にとりつかれたというようなことではないようです。肉体の病です。それなのにイエスは「十八年間もサタンに縛られていた」というのです。病気はサタンに縛られることなのだというのです。

現代では、もうそのように病気について考えることはないと思います。精神的な病ですら、あるいはアルツハイマーという痴呆症の病気でも、心の病というよりは、脳の欠陥から起こる病気と考えられているでしょう。われわれのかかる病気はすべてもう生まれた時から持っているDNAというもので決定されているのだといわれているくらいです。もうそこにはサタンとか入り込む余地はないです。しかしそのように病気について考えるようになって、われわれは果たして病気から解放されたか、幸福になったということです。DNAなどといわれたら、われわれはもうかえって何の望みもなくなってしまうのではないかと思います。かえって、絶望するだけです。人間のからだというものをすべてそのような物質的なものだけでなにもかも考えようとすることによって、われわれは病気からひとつも解放されないのではないかと思います。 
人間を造られたのは神です。従って、神はその人間の心だけでなく、からだにもかかわっておられる。支配しておられる。それならば、われわれの病にも神は関与しておられる。そういう考えのほうが、われわれは病気に対処する力を与えられるのではないかと思います。

しかしこの十八年間も病で苦しんでいた女は、いっさいの束縛から解放されるべき安息日に、からだも魂もイエス・キリストによって解放されたのです。われわれのからだも魂も、究極のところ決してDNAが支配しているのではなく、神が支配しておられることを信じたいと思います。
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主キリストは安息日にたくさんの病人を癒しました。私たちも日曜日や休みの日に苦しんでいる人々と時間を分かち合うことができるように祈りたいと思います。また、主は神殿に通うが苦しんでいる人々をさけることを非難し、偽善だと言われました。教会に通う人々は偽善者にならないで、惜しまずに他人を愛する力と喜びを見出すことができますように祈りたいと思います。キリストが、第一のおきては「隣人を愛する」ことであると教えてくださいました。日常生活の中で、あるいは人生の中で他人を助ける機会が訪れた場合、逃げないように深く反省し、キリストの支えと守りを願いたい。キリストは神に対するをさけるように教えました。神に対する愛と隣人に対する愛を対立させないように気を付けたいと思います。日曜日は自己中心的に過ごしてしまうことがあれば、キリストにならって人々を愛することを学ぶチャンスにしたいと思います。
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「安息日はいけない」という会堂長の言葉には、人間がつくりあげた権力、威圧感、冷たさを感じます。この権力は弱い人、貧しい人を軽んじたり無視します。一方イエスは、群衆の中の病の婦人を「見て呼び寄せ」「病気は治った」と言い「その上に手を置かれ」ました。
イエスが持つ権威は人間のそれとは次元の違うものであり、死から命へと導く愛そのものです。
天の御父は、復活されたイエスを通してこの真の権威、愛を今も私達に注がれています。
私達は神の愛を実現するために生きたいと心の奥深くで望んでいます。御父の助けを求め聖霊の導きに耳を傾けながら丁寧に生きていくことができますように。 sese06
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主は長い病に苦しむ女を呼ばれ、声をかけ、手を触れて癒されます。神の愛は人の思いをはるかに超えて広く、深いことを示すために。癒された女はまっすぐに立ち、神を賛美します。
主よ、私の心にも触れてください。そして解放してください。他人の目や批判、自分の考えを正当化する誘惑や束縛から。私にも与えてください。本当の愛に動かされて毅然として行動する勇気を。
そして歌わせてください。賛美の歌を。主がもたらされた救いを、今日出会う人々と共に喜ぶことが出来ますように。sese05


年間第30火

ルカ13・18-21

① 目に見えない
からし種とパン種がどのようにして広がり成長するかという共通点のひとつは、どちらも成長は目に見えないという事です。
神様の支配の広がりも、私たちの目にはなかなか見えません。最初にイエス様を救い主として受け入れて、信仰を持った後も、自分にはなかなか変化を見る事ができなかったりします。何年も経った後にも、変わり映えしない自分にがっかりしてしまう事も少なくはありません。しかし、神の国は私たちの内に根付くと、確かに影響を与え、広がっています。
世界への広がりも、決して目に見える形で広がっていったわけではありません。クリスチャンは大きな迫害の中にいましたから、世間には目に触れないところで密かに広がっていき、力を増やしていきました。現代でも、中国でのクリスチャンの広がりは、最近まで表面的には見えませんでした。今でも、中国にクリスチャンがどれだけいるのか、完全に把握している人はいません。しかし、気が付けば日本の人口くらいのクリスチャンが中国にはいると言われるようになりました。
日本での福音の広がりは、やはりあまり見えてきません。しかし、見えないところで必ず人の心を動かし、潜在的に広がっていると僕は思います。この広がりがはっきりと見えるようになった時、日本の大半の人たちが福音に変えられていくような状態になっているといいですね。

② 力は内側から起こる
さて、からし種とパン種の2つめの共通点は、広がり成長する力は、表面的なものではなく、内側から起こる力によるのだということです。力は内側から起こっているのだから、見えないはずですね。
私たちは、表面的な成長ばかりを求めてしまいがちです。身長、体重、テストの点、営業成績など、目に見える形での成長は確かにわかりやすいですが、それが全てではありません。顧客対応はマニュアル化し、せいぜい研修を受けさせて外側だけを教育します。
それは教会でもあまり変わりません。どのようにふるまい、どのような言葉遣いをするかという事に一生懸命になってしまう傾向があります。しかしそれで表面の行いが変わっても、中身が変わっていないなら、いざという時にはやっぱり元の行動に戻ってしまうのです。
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からし種、パン種はとても小さいものですが、成長すると大木、大きなパンになります。どちらも小さな目立たないものですが、どんなに大きな影響を及ぼすものであるかをイエスは語っておられます。神の国は派手なものではないと。私達一人一人がからしの木、大きなパンになるように神はそれぞれに必要な恵みを常に注がれています。私達の内にある小さな種に気づいているでしょうか。
今いただいている恵みに感謝し神の国の実現のために今日を生きることができますように。
また、私たちは目立ちたがり屋のような生き方を捨て、小さなことでも、隠れているところでも、心の中に蒔かれた愛の一粒の種を芽生えさせ、パン種の役目を携えて、冷たい社会を内側からあたため、生かす力となれますように。
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「からし種」と「パン種」。どちらも小さな目立たないものですが、どんなに大きな影響を及ぼすものであるかをイエスは語っておられます。神の国は派手なものではない。ご自分の生命の深い神秘。
復活へとつながる死の神秘。
限りない愛の神秘を暗示するものとして・・・。
主よ、私たちも自分中心の生き方を捨て(目立ちたがり屋の生き方を捨て)、心の中に蒔かれた愛の一粒の種を芽生えさせ、パン種の役目を携えて、小さなことでも、隠れているところでも、冷たい社会を内側からあたため、生かす力となれますように。sese05


  年間第30水
ルカ13・22-30

「主よ、救われる人は少ないのですか」というこの問いにはどういう意味があるでしょうか。それは救いの問題を自分の救いの問題として受け止めるのではなく、他人が救われるかどうかなどと問うということがおかしいということです。あの人は救われるのかどうか、などと問うべきではないということです。
 救いの問題はまず自分自身の救いの問題を問い続けなさいというのです。自分はもう救われてしまったということにあぐらをかいて、あの人は救われるのか救われないのかと、まるで相撲の点取り表を作って、まるばつをつけるようなことはするなということです。
それでは、自分の愛する家族とか、友人知人の救いの問題は考えなくていいのかと言われるかもしれません。それは決してどうでもいい問題ではなく、切実な問題ではないでしょうか。確かに、パウロも自分はキリストによって救われたけれど、自分の同胞、イスラエル民族はキリストを拒み続けて、神に見捨てられてしまうのかということを真剣に問うているところがあります。そこではパウロはこういうのです。「わたしはキリストにあって真実を語る。偽りはいわない。わたしの良心も聖霊によってわたしにこうあかしをしている。わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身が呪われて、キリストから離されてもいとわない」と、述べて自分の同族の民、イスラエルの救いの問題について論じるのです。
この人が救われないないならば、この人と一緒に地獄に堕ちてもいいというくらいの切実さをもってその人の救いの問題を考えるならば、もうその人の救いの問題は他人事ではなくなっているのです。この人が救われなければ、「わたしの身がのろわれて、キリストから離されてもいい」というほどに、他の人の救いの問題を切実にかかえて生きるということはすばらしいことであり、福音宣教へ駆り立てる動機にもなると思います。Ekyamada
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生(なま)のものを美味しくいただくためには、賞味期限というものがあります。どんなに冷蔵庫にいれても、保存しても、それは新鮮な味は失われてしまうものであればしようがありません。愛も生きたものであるならば、それに応答するのに、遅すぎてしまうということがあるのです。親孝行をしようと思ったら、もう親はいないということがあるのです。
この「狭い戸口」という狭さは、場所的な意味での狭さ、他人をけおとして、自分ひとりだけしか入れないという狭さではなく、時間的な切迫さ、時間的な狭さのことのようです。二五節をみますと、「家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人さま、どうぞあけてください』といっても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこから来た人なのか、わたしは知らない』と言うであろう」と言われてしまうというのです。この狭さは時間的な狭さです。
神と私達との間に、もう遅すぎるということがあるのだ。そのことをここでよく知っておかなくてはならない。もう遅すぎるということがあるのは、まさに愛の世界においてである。眠っているような愛、どうでもよいような愛、機械的にしか反応しない愛、マンネリ化してしまった愛は煮ても焼いても食えないものです。知らん顔をしている神になってしまう。われわれは眠るわけにはいかない。神の愛が呼んでいる。神の愛が呼び覚まそうとしている。眠るわけにはいかない。今、目を覚ませと、主イエスは声をかけておられる」と、言っております。
愛に応えるためには、遅すぎてはならないというのです。愛には遅すぎるということがある。遅すぎてしまったら、もう取り返しのつかないことになってしまうのです。生きた愛というのは、機械のようなものではないのです。タイミングというものがある、それに応えるという切迫さというものがあるということです。
Ekyamada
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「狭い門から入りなさい」と言われている。これはなぜか?
 それは、門を狭くしてしまっているのは、イエスさまではなく、私たちなのです。イエスさまは、大きく門を開けて、手を広げて入るのを待っておられる。ところが、その前を素通りしてしまうのです。
 この園田教会は、たくさんの人々は通る幹線道路に面して建っています。朝は、多くの人はこの前を素通りして、学校や職場に行くのです。そちらのほうが興味は引かれるのです。
 ある神学者が、「教会は天国の出張所だ」と言われた。しかしこの小さな教会が天国の出張所のようには見えないのです。そんな感じがしないのです。それでみんな違う方へ行くのです。そのように、それらしきところ、多くの人が行くところ、そういうところに行けば無難だろうと思う。まさに、イエスさまは大きく手を開き、門を開けているのに、まさかそんなところに天国の出張所があるとは思わないで通り過ぎていくのです。
 そのように、実は誰でも通ることのできる広い門であるのに、「狭い門」にしてしまっているのは、私たち人間のほうであると言うことができます。 nibanmati


年間第30木
ルカ13・31-35

イエス様の答えに注目する。イエス様はヘロデを指して 「行って、あの狐にこう言いなさい。」と言われます。3233節:「よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、 悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三 日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」 まずイエス様はここで、ご自分の行動の基準について述べておられます。イエス様は、ヘロデがあなたを殺そうとしていると聞いて、それじゃ 大変だ!と、ご自分の生き方を変えてはおら れません。イエス様はそれとは関係なく、ご自身の道を歩み続けられます。すなわちこれまでと同じように神の国を 宣べ伝える働きをして、ご自身の使命を全う して行かれる。33節では「だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。」と言って います。ここに出て来る「~しなければなら ない」という表現は、神のご計画を指す表現です。イエス様はご自分の思いで歩んでいるのではなく、神の御心に 従って歩んでおられたのです。
そして、このイエス様の姿勢とセットになっているのが、父なる神の摂理に対する全き信頼です。なぜイエス様は、 ヘロデがあなたを殺そうとしていると言われ たのに、慌てず、心騒がせず、これまでと同じ歩みに専心没頭できたのでしょうか。それは神こそが主権者であり、 神がわたしに定めた地上の人生は最後まで必 ず成し遂げられると信頼していたからです。だから今日と明日とは悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全 うされると告白された。ここに私たちも様々 な恐れに振り回されず、なすべき歩みに没頭するための秘訣があります。
1223節で「いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。」というイエス様の 言葉を見ました。私たちにいのちと体を与え た神は、私たち一人一人の人生に明確な目的と計画を持っておられ、それが成し遂げられる前に食べ物がなくなった り、着物がなくなることはないし、命が失わ れることもない。私に対する神の計画が全うされた時のみ、神は私をご自身のみもとへと引き寄せられる。もし私た ちがこの真理をしっかり心に留めるなら、多 くの恐れから解放されるのではないでしょうか。私は前にこの真理が分かってからは、ロシアで乗りたくない飛行機にも乗れ るようになった。あるいは何らかの病気の兆候が現れた時もそうです。病院で見てもらうことは大切ですが、ともすると私たちは心配だけで日々を過ごしてしまいやすい。しかし神が私に定めた一生の計画がみな成し遂げられるまでは、私が天に召されるということはない。もし私たちが今日の箇所のイエス様の立場にあって、ヘロデがあなたを殺そう としていると聞いたらどうでしょう。心配で浮足(うきあし)立つでしょうか。しかしイエス様はそうなりませんでした。その恐れを乗り越えさせたのは、父なる神への全き信頼です。詩篇1127節:「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心は揺るがない。」 すべてを支配し、私たちの人生に主権を持って全うさ せて下さる神を真に仰ぐ時、私たちは静かな心で、自分のなすべきことへと集中できるのです。そして私たちもイエス様と同じように言うことができます。「私 は今日も明日も進んで行く。そして神の目的がみな成し遂げられた時に、神によって全うされる。」と。
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この時主イエスは、エルサレムに上ろうとしている旅の途中でした。その時にあるファリサイ派の人が親切に、「ここから出ていったほうがいいですよ、ヘロデがあなたを殺そうとしている」と忠告したが、イエスは旅を続けられたのです。

それは十字架への道です。イエスは今日も明日も、そしてその次の日もゲッセマニからカルワリオへ、そして復活へと自分の道を歩み続けます。
私達は、「もうダメです」と言いたい時がある。相手を攻めたい時がある。心優しく人に接することは出来ないと感じるときがある。でも、キリストのように、今日も明日もその次の日も、委ねられた私の小さな十字架を手放すことなくキリストに従って生きていきたいのです。主よ、あなたが目指された十字架から復活への道をあなたと共に歩ませてください。
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かけた愛と期待が大きければ大きい程、裏切られた時の心は痛みます。エルサレムを前にして主は嘆いておられます。幾度も幾度も繰り返された回心への呼びかけに応えなかった民に対する神の痛みの深さ切なさを。最後には、神の御子さえかたくなに拒み続ける人々への主ご自身の切ない思いを重ねて。
主よ、今日、私にわからせてください。あなたのみ心の深い思いを。与えてください。立ち帰りの恵みを。神を拒む世にあって、たとえ人々から拒まれても神の愛の真実を証する者としてください。
復活された主への希望に生かされますように。sese05
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「負けるが勝ち」という諺があります。これに、二つの解釈(捉え方)があります
 
まず第一は、いまここで負けるのは、長い目で見た勝負や、他の視点から見た勝負で勝つことにつながるという意味で、「この敗戦で落胆せず、次の勝利につなげなさい」という、敗者を勇気づけることわざである。しかし、いまこの勝負で負けてしまった敗者から、「この負けが勝ちにつながるという具体的な根拠を述べよ」と問われたとき、それをわかりやすく説明するのは難しく、結局のところ、敗者を元気づけるにはあまりに説得力のない、どちらかというと「負け惜しみ」とか「負け犬の遠吠(とおぼ)え」に近い言葉であるというとらえかた。(JPZB)http://www.fleapedia.com/

今日の第一朗読(ローマ書)にある、「艱難、苦しみ、迫害、飢え」などは全部負けることであるが、「輝かしい勝利」に導くと言います。キリストもやがて自分が殺される(敗ける)エルサレムに向かっていきます。けれども、パウロもキリストも決して負け惜しみ、負け犬でなないのです。


第二の解釈。 対人関係でトラブルが生じたとき、私たちはつい、「どちらが間違っているか」で決着をつけようとしてしまいます。
恋人が私の気持ちを判ってくれない、友人に冷たい態度をとられた、同僚と仕事のやり方が合わない……。相手の間違いをただし、説き伏せることができれば、一時的に気は晴れます。

しかし、まわりのすべての人と正当性を争って対決し、勝利をおさめたとしても、いったい何が残るでしょうか。敗れた側には恨みが残ります。他人から恨まれることは、自分にとっても損なことです。
まわりのすべての人を打ち負かせば、すべての人から恨みをかいます。それが果たして幸せといえるでしょうか。豊かな人生を送るためには、「正しいこと」よりも大切なものがあるのです。

人間同士のトラブルは、片方だけの問題によって起こるのではありません。双方ともが勝ち負けにこだわっている場合にのみ起こります。
片方に問題があっても、もう片方がその問題に頓着せず、おおらかに譲ることができれば、トラブルとはなりません。

「私は他人に迷惑をかけられてばかりいる」と腹を立てている人も、「負けたくない、損をしたくない」と張り合っているという点では相手と同じです。相手のほうがうわ手だったから悔しいだけなのです。
自分への不満が多い人ほど、他人を見る目も厳しくなります。「私はこんなにつらい思いをしているのだから、あなたも少しは苦労しなさい」というわけです。

「どちらが間違っているか」を明らかにしても、人間同士のトラブルは解決しません。
どちらが間違っているかという問題ではなく、互いの関わり方が間違っているのです。
自分と他人の考え方がぴたりと一致することはありえません。
自分がある行動を「そうしたいからしている」のと同様に、他人もまた「そうしたいからしている」のです。

仕事とはこうあるべき、恋愛とはこうあるべきという考え方は、人それぞれに違います。
自分が相手を気にかけている度合いと、相手が自分を気にかけている度合いも同じではありません。
友人とは何でも腹を割って話し合いたいという人もいますし、ある程度の距離を置いてこそ尊重し合えると考える人もいます。
置かれている環境も、好き嫌いも、知能のレベルも、その日の体調も、みな違うのです。
自分のものさしで他人を測ろうとすれば、必ずゆがみが生じます。
(↓つづく)

暑がりの人と寒がりの人が同じ部屋にいて、エアコンの温度を上げるか下げるか、どちらの主張が正しいかで争っても、らちがあきません。
暑がりの人が自分の要求を押し通して、強引に温度を下げたとしたなら、寒がりの人は我慢できずに出て行くでしょう。
互いが気持ちよく一緒に過ごすためには、双方が望む中間の温度でけりをつけるしかないのです。


つまり、勝ち負けにこだわらない。キリストのために負けてもいいというのは勝ちにつながります。

年間第30金
ルカ14・1-6

「人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。人々はイエスの行いを見て、何を感じたのでしょうか。安息日の律法を犯す罪人なのか。律法よりも今ここで苦しんでいる人を大切にする憐れみ深い方と見ているのか。人々は沈黙の内にイエスを見守りながら、自分自身は何を選ぶのかを決断し、表明することができません。しかし、安息日でも自分の息子なら助けると思い、自分の自己中心的考えに気づいた人、人を自由にしない律法に気づいた人、神への恐れが喜びに変わっていくのを感じた人などがいたのではないでしょうか。
私達も今日出会うイエスの様子を沈黙のうちに心にとめ、新たな気づきと回心への助けとしたいと願います。sese06
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習慣や規則は、知らず知らずのうちに生活に定着し、落ち着かせ暮らしやすくさせる。
人が生きるため、より自由になるための規則や掟は、それ自体が主体、目的となり、やがて人がそれに仕える者になっていく。今も変わらない、陥りやすい罠。真実は人を黙させ、また隔てさせる。イエスは真実を語る。
主よ、あなたに、真実に耳を開かせ、聴き従うものとならせてください。


年間第30土
ルカ14・1,7-11

「上席を選ぶ様子」とはどういう様子でしょうか。この世で価値があるとされているもの、他よりも良いもの、優れたもの、美しいもの、あるいは多くあるものを選ぶことではないでしょうか。
そして自分自身を選んだ上席と同じように価値ある者と思い込み、その結果、人を見下し、けおとしてしまう様子ではないでしょうか。天の御父の前にすべての人は塵に等しく、誇れるものはありません。すべてはいただいているものです。その恵みに気づいているでしょうか。
「自分の力だけで生きている」と高ぶる者になっていないでしょうか。
罪深い私達にあふれる恵みを注いでくださる御父の前でへりくだって感謝しながら毎日を生きることができますように。sese06
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「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい」と主は言われます。末席とは、自分のありのままの姿を知って高ぶることなく神と人々の前に謙虚に生きる心の置き処ではないでしょうか。
また自分に何か優れたものがあれば、それは神の恵みによることを認め、マリアのように「力ある方が、私に大きなことをしてくださった」と神をたたえて生きることではないでしょうか。
主よ、人間としての弱さ、いたらなさを認めながら、自分の中に働いている神の力を知り、「全ては恵み」と感謝する心をお与えください。「ご自分を低くして仕えるために来られた」主に倣い、隣人に奉仕することの中に本物の喜びを見出すことができますように。sese05

31 per annum

毎日の福音
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第31月曜日  
ルカ14・12-24
「お返しのできない人を招け。」

神が人を招く場合には、お返しができる人ではなく、到底お返しができない貧しい人、からだの不自由な人を招いてくださったということであります。それは神が人を招く場合には、わざわざそういう人を招くというのではなく、すべての人が実は貧しい人、病の人なのだというのです。主イエスは「わたしは義人、正しい人を招くためにきたのではなく、罪人を招くために来たのだ」と言われたのです。それはわれわれ人間には義人と罪人という区別があるというのではなく、われわれ人間には、自称義人と自分のことを思っている人と自分は罪人だと思ってうなだれている人がいる、わたしは自称自分を義人だと思っている人などを相手にしないのだ、自分は自分の罪に悩み苦しんでいる人を招くために来たのだということです。

 われわれができるただひとつの神の愛に対するお返しは、わたしは到底お返しなどできません、ただこのような自分を愛してくださったことを感謝して、神に対して砕けた魂、悔いた心を神に捧げるたげですと告白するということです。そして、私達は神のこのような与え方を少しだけでも真似すれば、世の中はどれだけよくなるか、ということです。
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ねたみ深い神は、わたしたちが愛の業を、神のため以外の意向で、たとえば、人からお返しや感謝のためにすることを嫌われます。それは、もはや神への清いささげものではないからです。むくわれず、不毛だと思うときこそ、神はわたしたちをいけにえとして受けいれてくださいます。すべての人が神の恵みの祝宴に招かれています。きさげるいけにえは、神のみをたよりとする貧しい心です。しかし、パンの形のうちに、もっとも貧しくなられたイエスをいただくことによって、豊かにされた自分白身をささげます。聖体祭儀がすべての人に差し出されているように、ご聖体をいただいたキリスト者は、恵みを人びとにもたらすために派遣されます(イテ・ミサ・エスト)。(荒)
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見返りが期待できないのに何かをする時、自分の持っている何かが減ることへの恐れがありませんか。この恐れは、私たちを真の喜びから遠ざけ、物々交換という狭い枠の中へと追いやる落とし穴ではないでしょうか。そこでは自分の行いが常に人からの感謝や評価などに依存しているので、私達の心は不安定です。この世での報いに期待して振り回される自分から解放され、天の国に心を根ざして生きることができますように。sese05
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「報われたい」という想いを、自分の中に探してみる。それは、何について求めているのか。誰によ
って報われることを望んでいるのか。この世において受ける報いはその場限りで消え去る。そのはかない報いを追い求めてしまう自分がある。しかし確かに、この世でお返しができない人々こそ正しい者たちが復活する時に来られる主であり、その時に実現される「あなたは幸いだ...あなたは報われる」という約束は、永遠に消えることがない。主よ、私にいつも永遠の報いを求める心をお与えください。sese06

年間第31火曜日 
みんな招待をことわった。 
ルカ14・15-24

1 イエスが語った「盛大な宴会」は、神の国に譬えて語られた言葉です。質素な食生活を送っ ていた当時の人々にとって「宴会」は、その言葉自体がとても大きな喜びを想起させるものでした。宴会の主人とは、真の神です。真の神は、大きな喜びの待つ祝宴に全ての人を招いているのです。

2 ところが最初に招待された人々は、何かと理由をつけてその招待を断りました。財産、仕事、結婚と理由は様々でしたが、そこに共通していたのは結局彼らが自分の事ばかり考えていたという点です。この人々は第一義的には先に神の招きを受けたユダヤ人を指しますが、神の招きを受けつつも自分の都合、希望、願いばかりを優先させてしまうという点においてはあなたも無関係とは言えないのではないでしょうか。信仰における優先順位を「私」でなく、「神」にしていますか。生活、信仰のあり方において自分を脇に置き、神を中心に据え直すべき点はありませんか。

3 怒った主人はしもべに命じて町中の貧しい人、身体の不自由な人を片端から宴会に招き入 れました。なぜ、そこまでするのでしょう。ここには真の神の熱情が表されています。裏切られても拒絶されてもなお人の救いを取りやめにせず、神の国の祝宴即ち神と人が共に生きる喜びを実現したいと神は願っておられるのです。それはお返しなどできない者に与えられる、恵みの招きです。御子の十字架による救いという大きな恵みを与えられたあなたも、その招きを受けた一人なのです。

4 この大きな愛から何を学びますか。①恵みの招きを受けた者としてどう生きるか⇒どんな 人も十字架に表された神の大きな愛に釣り合う愛など持ち合わせていません。ならばせめて救われた我が身の全てをもって神の愛を素直に受け止め、心からの感謝をささげましょう。②恵みの招きはまだ継続中である⇒「まだ席はあります」と聖書は告げています。神の愛と恵みには限界がなく、御国の席はまだ空いています。一人として滅びる事を望まない神の御心を我が心として、まだこの恵みを受けていない人々に福音を伝え、キリストを証し、招待しましょう。
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招待をことわる理由は、自分の問題のぼうが重要だと思っているとき、いくらでも作ることができます。例えば、インカルチュレーションを口にする人の中で言い訳に聞こえるときがある。「典礼が変わらないと人々が教会に来ない」とか。イエスは人生の諸問題にもまして、あるいは文化の諸問題にもまして神の呼びかけに耳を傾けなければならないと述べます。そのために、旧約の預言者たちの「おどし」をかけます。「父は怒って、招待客を追い出し、貧しい人を招く。
お返しのできない人を招きなさいという昨日の教え(ルカ14・12-14)が、具体的に示されています(ルカ14.21)。 同時に、招かれた側の心構えについても教えています。すべてをさしおいて、福音の呼びかけに答えなければならないのです。本当に神に、救いに飢えていれば、昔の人々のように、ラテン語のミサでも十分満足できます。
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「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」という発言の背景には、おそらくそれは「難しいだろう」、「手の届きにくいこと」、「できる人は少ない」、「いつのことなのか分からない」というような考えがあったでしょう。イエス様の答えはそのような考えを覆します。招かれる人は「大勢」だとか、断る人もいるので席があまることもあると。そして、「宴会の時刻になった」とか、「もう用意ができました」ということばからすると、それはすでに起こっていますと。

神の国で食事をする幸いは、私たちの前にすでに用意されている。私は今、この幸いへの招きを受け入れ、味わっているだろうか。主の宴会への招きに「一切の待ったなしで」応えられるのは、貧しさの中にある人だけ。主と共に生きるなら、主の惜しみない歓待を受けて悦びに満たされる。
主よ、あなたの愛をいただく招きの声を聴き分ける耳と応えていく心の貧しさを与えてください。
sese06


  年間第31水
ルカ14・25-33

聖書でいっている、自分を捨てる、ということは、仏教的な意味での、自分を捨てる、自分を無にする、無我の境に立つ、そういう悟りを得るということとは違います。それでしたら、まだ自分中心的な生き方となるのです。
 「自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ」ということ、ただ自分を捨てればいいというのではなく、イエスに従う、神に従うということが大事なのです。
 自分を何もかも中心にすえて生きるのではなく、神を中心に据えて生きる、それは具体的にはイエスに従って生きるということなのです。ですから、それは無我の境の悟りを開くというようなことではなく、神に従う、常に神のみこころは何かということ、それに耳を傾けながら、神に従順になろうとして生きるということなのです。
 自分が自分みずからの決断で負う十字架というものも、果たしてそれがその人にとって「自分の十字架」といえるかどうかです。それは自分で選んだ十字架であって、結局は自分が好んだ十字架であって、主イエスが求めたように、「わたしの思いではなく、あなたのみこころに従って」ということにはならないのではないかと思います。
この二つのたとえ話と、その結論、「それと同じように」というつなぎの言葉がどのようにつながれるのか不思議であります。自分の十字架を担い切れなかったら、担わなくてもいいというのではないのです。
 自分の十字架を担いきれそうもなかったら、それが現実に担い切れるまで力をためなさいというのです。じっくりと待ちなさい、また他の誰かの助けも借りなさい、そうして自分を捨てなさい、とイエスは勧めているのです。自分の十字架を負うということは、やみくもに負うということではない、その十字架を自分が負えるのかどうか、自分ひとりで負いきれるものかどうか、まず座ってじっくり考えて、ある意味では計算をして、決断しなさいということです。
この十字架を負うということが、殉教者気取りの英雄主義的な十字架でないことは、場合によっては、敵に対して降参してしまいなさい、とイエスが勧めていることでよくわかります。これは今の問題でいえば、たとえば、老人介護の問題でしたら、家族だけで担いきれないならば、公的なサービスを進んで利用しなさいというようなことでしょうか。誰かにの助けを求めることは決して恥じではないのだということです。
大事なことは、イエスに従うというとです。イエスの「前」に行く必要はひとつもないのです。われわれはしばしば神よりも完璧主義者になるのです。神よりも、イエスよりも先きんずる必要はないのです。主イエスに従っていけばいいということなのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm
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長田弘(おさだ・ひろし)という詩人がこんな詩を書いております。「はじまりというのは、何かをはじめること。そう考えるのがほんとうは順序なのかもしれません。しかし、実際はちがうと思うのです。はじまりというのは、何かをはじめるということよりも、つねに何か
をやめるということが、いつも何かのはじまりだと思えるからです」という言葉で始まる詩であります。
 何かを始めるということは、常に何かをやめるということだ、何かをやめることが何かの始まりだというのであります。そしてその詩人はこういうのです。「わたしの場合、子どものときから、はじめたことよりも、やめたことのほうが、人生というものの節目、区切り目として、濃い影のように、心の中にのこっています」と歌うのです。
 そしてそのあと、その詩人がいっていることは、やめるということよりは、やめさせられたということ、断念せざるをえなくて、やめて、やめさせられて、何かが始まったというのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm
 

年間第31木
ルカ15・1-10



バッハには、《心地よきヴィーデラウよ》BWV30aと呼ばれる有名なカンタータがあります。ヴィーデラウ(Wiederau)は町の名前で、バッハの研究者、礒山雅((いそやま ただし)さんがドイツに行って現地を訪れたという話が最近聞きました。お店すらほどんどない町で宿を探したいきさつを報告していました。隣町からタクシーを呼んでもらって訪れた現地の閑静な一角には、小さな小さな離宮が、ぽつんと立っていました。バッハの時代には、今ある住宅もなく、田野の中だったことでしょう。この地域を与えられた荘園領主へニッケのために、52歳のバッハはカンタータを作曲し、離宮の庭園か内部で初演したわけです。

イメージを蓄えて聴くこの曲は、驚くほどみごとな作品です。運命、幸運、時、エルスター川という4人の寓意的人物が登場して「ドラマ・ペル・ムジカ(dramma per musica)」を展開し、トランペット・グループを擁する大編成の音楽です。その壮大な音楽を、見聞した現地とのミスマッチを感じつつ聴いた磯山さんは、「バッハさん、あなたもとことん手抜きを知らない人ですね!」と心で呼びかけてしまったというわけです。
今日の福音書の喩えは、まさに「とことん手抜きを知らない」神様の姿を描いています。

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ここは失われたものを見つけるという話が中心ではなく、それを見つけた時に、みんなと一緒になって喜ぶではないかという、その後の喜びが中心なのです。
一人の罪人が悔い改めて神のもとに帰ってきたならば、神は自分ひとりで喜ぶのではなく、仲間を集めて共に喜ぶということなのです。天にある大いなる喜びというのは、天には天使
たちがたくさんいて、神はその天使たちを集めて喜び祝うということです。神はひとりの人
間が悔い改めた時に、神おひとりで喜ぶのではなく、みんなを集めて共に喜ぶということな
のです。
主イエスがここで言おうとしていることは、一人の人間が自分の罪を悔いたならば、共に一
緒になって、喜ぶのが当たり前ではないかということです。どうしてお前たちにはそれがで
きないのかということです。パリサイ派の人々は自分たちだけが救われればいいと考えてい
るのです。自分たちが天国にいければいいと考えていたのです。

できることならば、救われる者はできるだけ少ないほうがいい、それのほうが有難味が増す
というものなのであります。彼らの考える救いというのは、結局はそのようにきわめて利己
的なもの、自分だけが救われれればいいという自己中心的なものだったということでありま
す。そんなものは神の救いではないと主イエスはここで語ろうとしておられるのであります。
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何でもないようなものを見つけ出すのにほぼ一日を費やすこともあります。
今日の福音書の神様の様子はそれに似ています。「悔い改める見込みのある人を必死で捜し
出すこと」とまとめてることができると思います。百匹の羊を持っている人がいて、その一
匹を見失った時に考えたことは、まだそんなに時間も経ってないし、捜せば見つかる見込み
があると判断したのだと思います。時価五千円相当の銀貨も、まだ旦那にばれていないし(
「へそくりがね」だと仮定しての話ですが)、どう考えても外に持って出た覚えはない。だ
としたら、捜せば見つけ出す見込みがあると考えたのだと思います。
私はこの、「見込みがある」と考えたことに必死で努力することが、今日の朗読からの学び
なのではないかと思っています。イエス様は直接「見込みのある努力をしなさい」とか「見
込みのないことからは手を引きなさい」と仰っているわけではありませんが、そこでわたし
たちの生活に目を向けたいのですが、実はわたしたちの教会(共同体)のなかには、手を付
ければまだ見込みのある部分がたくさん残されているのではないかと思うようになります。
羊を持った人のたとえ話では、「九十九匹を野原に残して」とありました。あと一人、教会
に足を向ける見込みのある人がいるとすれば、それは必死に努力する価値があるということ
です。そのあと一人二人が、教会に来ない理由は何なのでしょうか。
または、教会運営に手を貸してくれない人がいるかも知れません。そういう人が何人もいる
として、あの人とあの人は、きっかけがあればまた足を向けてくれるのだなあということも
あるでしょう。では、どんなきっかけがあればいいのか、必死で考えてみることでしょう。
イエス様は、立ち返る人が一人でもいれば、天使たちの間に喜びがある、それだけの価値が
あると仰っているのです。


年間第31金
ルカ16・1-8

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「旅の恥は掻き捨て」という諺がある。旅先では知っている人もないから、どんなに恥ずかしいことをしてもその場限りのものだと、という意味だそうです。
今日の福音書の男(管理人)は、はっきりと自分のおかれた状況を見つめています。ぎりぎりの状況の中に追い詰められて、それを切り抜けるために、恥を掻き捨て、生き抜こうとしています。イエスは、この男の不正な行為をみならえといっておられるのではない。ぎりぎりの状況を意識して、そこから抜け出そうとする切実さを、弟子たちに示そうとされたでしょう。イエスの目から見れば、彼らの心はどこかにゆるみがあり、どこかのんびりしています。切迫感がありません。イエスはそうした弟子たちの姿勢をもどかしく思って、危機の迫った状況に置かれた男の必死に生きようとする姿をもってこられたのではないかと思います。
なりふり構わず救いを求めようとする姿勢、それは自分が滅びの危機にあるという飢え・渇きから生まれてくるのだ、ということをイエスは私たちに伝えたかったのだと思います。弟子たちと同じように私たちにも生ぬるいところがある、迫った危機にあるという意識は促される。
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(文:西経一神父=神言修道会/カット:高崎紀子)

ひたむき、という美しいことばがあります。ひたむき、ということばの響きが思い描かせる振舞いの美しさがあります。人生を歩みゆく者の生きる姿そのものの美しさを映し出します。「ひたむき」に対して、これが「ふたむき」になると途端に印象が悪くなります。ふたごころ、うらおもて、かげひなた、二枚舌、いずれも一連の共通した心象風景の中にあります。「ふたむき」とは、「二人の主人に仕えること」あるいは「神と富とに仕えること」であって、それはひたむきな信仰に反する姿となります。

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」という教えも同じ方向を指し示しています。ここに「忠実」と訳されている語は、日本古来の表現で言えば「まこと」を尽くすという意であって、誠実で裏表のない生き方を表現するものです。それは「ま水」「ま心」といった語と同じ線上にあって、混じり気のない、純粋な、分かたれない心で事に対するということであって、ひたむきに生きる者の姿にほかなりません。

今日の福音に登場する「不正な管理人」と呼ばれる人物もまた、「二人の主人に仕える」ことの放棄、を迫られています。それは、財産の管理を委ねている主人と、その主人の下で働く小作人(こさくにん)、そのどちらの立場に立つかの選択です。地主である主人と、年貢(ねんぐ)として納めるべきオリーブ油あるいは小麦を納めることができずに、その累積負債に苦しむ小作人との二者択一です。あるいは、管理人が上乗せした手数料。

この管理人は、地主である主人ではなく、負債に苦しむ小作人の側に立つ決断をしたのです。「百バトスの油」の借用書を「五十」に、「百コロスの小麦」の借用書を「八十」に、それぞれ書き換えさせる、それはたしかに主人にとっては不正であります。しかし、当の主人は、管理人の賢いやり方をほめたといいます。なぜなら、負債に苦しむ小作人の側に立つことが、同時に管理人自身の生活を立てることにもなるからです。

ひたむきに生きる者は決断を迫られます。それはわが身を削る痛みを伴います。「あれもいいし、これも捨てがたい」という態度から、「これを捨て去る」という痛みを引き受ける決断を要します。もっとも、わたしたちの日常は「とりあえず」と「さしあたって」そして臨機応変によって対処されるのであって、そうした決断は人生途上にあって頻繁にあるものではありません。しかしながら、「神のみを神とする」という信仰者の姿は、すでにひたむきであります。つまずいても、ころんでも、傷だらけになっても、なおまた立ち上がって神とひたむきに向き合い、主に向かって歩み続ける者に対して、イエスさまは「天の国は彼らのものである」という祝福を与えられることでしょう。

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要するに友達を作っておけば、いざというときに役に立つよ、ということぐらいでいいと思います。
 ただここで主イエスが言わんとしていることは、案外はっきりしております。それは富の奴隷になってはいけないが、富を敬遠してはいけない、富に対して賢くふるまわなてはならないということを、光の子、弟子達に語っているということであります。それでも主イエスがここで、「不正な富をもちいてでも、友達をつくれ」といわれた時、それはお金をばらまいて、友達をつくれと、ただいわれたのではなく、その人の借金をゆるすことにそのお金を用いて友達をつくれといわれていることは大事なことだと思います。主イエスがいつも人を裁いてはいけない、いつも人のあやまちを許しなさい、そうしたら天の父もあなたのあやまちをゆるしてくださると繰り返しいわれているのがこういうところにもあらわれているのではないかと思います。友達をつくるということは、その根底にはその友達のあやまちを許す、罪を赦すということによってしか、友達をつくることはできないということであります。それも大変難しいことだけどそうしなさいということであります。不正な富をもちいてでも、そのようにして友達をつくりなさいというのであります。天国への賢い入り方は、他人の負担を軽くすることである。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke56.htm


  年間第31土
ルカ16・9-15

握っている物を手放さなければ、他の物をとることは出来ません。人生は手放すことの連続ではないでしょうか。私達が従いたいと願っているイエスは、名声・富…あらゆるものを手放され、
最後は十字架上で命を手放されました。それは、神と罪人である私たちへの愛を選び取られたからでした。手放すことには痛みが伴うものですが、今、私達には、その痛みに共に耐え、支えてくださるイエスがいます。
イエスよ、この世の富よりあなたに従おうとする私達の歩みを助け、強めて下さい。sese05

                                                                                                  
 

32 per annum


年間 第32月曜日
「赦してやりなさい」
ルカ17・ 1-6

長くまた立派な信仰生活を送っている人でも、自分に対して罪を犯した人をなかなか許せないことがある。自分自身も苦しみ、もんもんとした生活をしていることさえある。でも、私たちがイエスに許されたことを思えぼ、人がどんなことをしてもそれはとるに足りないものである。しかし私たちにはイエスの十字架を感謝しながら、他方では人の罪が許せない弱さがある。イエスがわたしの来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだと言われるのを聞くことは、自分の罪にもだえ、自分ではどうしようもないと気づかされた者にとって、大きな喜びである。罪は私たちが神の言葉に従って生きるときに、はじめて気づくものであり、自分の罪に気づくことは信仰生活にとって大事である。
 御言葉に従って生きるとは、御言葉に従いきることではなく、従ったときに自分がどんなに罪深い者であるかに気づかされることである。聖書の言葉を私への語りかけとしてまじめに聞いていくとき、私たちは自分の姿を知ることができる。だからイエスは、私たちに自分の罪に気づかせるために、一日に七度罪を犯し七度悔い改めますと言って、あなたのところへ帰ってくれば許してやりなさいと言われたのである。人間が自分の罪を具体的に知るのは、人を許すことにおいてである。(榎本)
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御言葉に従って生きるとは、御言葉に従いきることではないのです。私たちはみ言葉を自力で完全に実践できないのです。み言葉を人生の道しるべにしてみると、自分がどんなに罪深い者であるかに気づかされることである。聖書の言葉を私への語りかけとしてまじめに受けとめていくとき、私たちは自分の本当の姿を知ることができる。罪は私たちが神の言葉に従って生きるときに、はじめて気づくものであり、自分の罪に気づくことは信仰生活の始まりといってもいいと思います。
イエス様は、私たちに自分の罪に気づかせるために、今日の言葉を語っておられるのではないかと思います。「一日に七度罪を犯し七度悔い改めますと言って、あなたのところへ帰ってくれば許してやりなさい」。人間が自分の罪を具体的に知るのは、人を許さなければならない時である。(榎本)実は、「一日に七度罪を犯」すのは、この私であって、その都度主のところに行って、心から「悔い改める」と言えば、再出発できるというわけです。
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人を赦すことの出来ないわたしが居る.「あなたは間違っている。わたしが正しい。」という人間的な思いに留まっている。イエスの言われるとおり、気をつけなければ、私こそ神の無限の愛と赦しから離れてしまう。
主よ、裁くのはわたしではないということを悟らせてください。あなたの愛により頼むからし種一粒ほどの信仰をお与えください。sese06

年間 第32火曜日
「私は取るに足りないしもべです」
ルカ17・ 7-10

神様と私たちとの関係は、主人としもべの関係なんですね。ですので信仰というのは、神のしもべとして生きることなんです。ただ、そうは言っても、なんだかはっきりしませんね。しもべというのは奴隷のことです。奴隷というとなんだか、大変な重労働を一日に何時間もさせられそうな気がします。私たちは我慢して我慢して、そんな大変な思いをしなければならないんでしょうか。実は、当時の奴隷というのはそういうものではなかったんですね。私たちが持っている奴隷のイメージは、近代の奴隷のイメージです。200年とか300年前の奴隷のイメージです。聖書の時代の奴隷は違ったんですね。例えば、エジプトのピラミッドは奴隷が作ったんですが、その奴隷たちの出勤簿が残されています。出勤簿というのは仕事に来た時にチェックするリストですね。そこには仕事を休んだ場合には仕事を休んだ理由も書かれているんですが、それがなんと、「二日酔いのため」と書かれていたりするんですね。前の日にお酒を飲みすぎてしまって、今日は体の具合が悪いです、だからお休みします、ということですね。私たちがイメージする奴隷は、「二日酔い」では休めないですよね。そもそも、お酒なんて飲めるのか、という感じですよね。では、奴隷とはどのようなものだったのかといいますと、それは、「雇われ人」ということです。わかりやすく言いますと、土地を持っていないので、土地を持っている人に雇われて働く、ということです。
もちろん、主人の指示通りに動かなくてはなりません。けれども、主人は奴隷が働くために必要なモノを提供しなければならないという義務を負っていました。主人の配慮があるので、奴隷はスムーズに働くことができたわけです。
ですから、古代には、自分から進んで奴隷になる人もいたんです。要するに、ここで言われている主人と奴隷の関係というのは、現代の会社とサラリーマンの関係と同じです。聖書の時代の人が現代のサラリーマンを見れば、「サラリーマンというのは私たちの時代で言うところの奴隷だ」と言うんだろうと思いますね。ですので、ここで言われているのは、あなたがたはサラリーマンで、神様は社長なんだ、ということですね。その自覚を持ちなさい、ということなんです。
こうなりますと、だいぶん話は変わってきますね。サラリーマンというのは言われたとおりに仕事をするんですけれども、その代わりに給料をもらって、休みをもらって、会社にいろいろ面倒を見てもらっているんですよね。
仕事をするために必要な知識や技術も教えてもらって、トレーニングも受けさせてもらって、会社に養われているんです。それと同じように、あなたがたも神様に養われているんだよ、ということですね。そのことに気づきなさいということですね。サラリーマンが会社の手の内に置かれているように、あなたがたも神様の手の内に置かれているんだよ、ということです。それに気づいていることが信仰なんですね。そして、そういう信仰があるのなら、赦すために戒めるということができるようになるんだと思いますね。
考えてみればこれ、赦すために戒めるというのは、神様がなさったことですね。私たち罪びとを赦すために、神様ご自身が人間として生まれてくださって、私たちの罪を代わりに背負って十字架にかかってくださった。だからもう私たちは裁かれない。
神様に逆らって、神様の前から迷い出てしまっていた人間が、神様とつながって生きていくようにされた。だからこそ私たちは悔い改めるんですね。神様が命がけで私たちを赦したいと思っておられることを知るからこそ、私たちは悔い改めるんです。
そして、だからこそ、私たちは、神様が私たちになさってくださったのと同じように、赦すために戒めるということをしていくようにされるんだと思います。社長がやっていることを社員がまねるんですね。
そうは言っても簡単なことではないかもしれません。けれども、今日、約束の御言葉が与えられていますね。
6節ですが、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。ほんのわずかでも、自分は神様の御手の内にあって養われているという気持ちがあれば、考えられないようなことだって起こるんだということですよね。要は、神様と同じように、赦しの心で戒めるときには、神様の力が働くということなんです。
それを約束してくださっているんです。そして、それを目指すとき、私たちは、もう、弟子とは呼ばれないで、5節にあるように、「使徒」、遣わされた者、神様のもとから派遣された者、と呼ばれるようになるんじゃないですか。
出かけていきましょう。私たちそれぞれに、派遣される場所があります。その場所で、神様と共に働きましょう。
その時、考えもしなかったような素晴らしいことが起こる。
そのことを、神様は約束してくださっているんです。
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普段私たちは空気が吸えるからといって神様に特に感謝することはないでしょう。空気を大量に作ってくれる原始林に対してありがたく感じることはあまりない。車に乗れるから石油にたいして、魚が食べれるから海に対して、特に感謝することはない。
考えてみれば、感謝すべきことがたくさんあるのにもかかわらず、普段私たちは感謝しません。ところが私たちは何か人に役ったようなことをしたときに感謝を期待します。自分が受けている恩は気づかないが、人に感謝の気持ちを押し付けたがります。
イエス様は弟子に警告を発します。自分たちのやったことで感謝を期待するとき、思い出しなさい、毎日ただで受けている恵みを。神の豊かな気前よさに感謝しなさい。(ステファニ)。
パウロによれば、アダムの罪は、結局神に「感謝をしなかった」(ロマ1・21)。1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
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わたしは誰から何を命じられているのか。それをどのように果たしているのだろうか。わたしの力でそれをしているという思いがあるのではないだろうか。わたしがしていることは、させて頂いていることだと悟ろう。
「わたしは取るに足りない僕です。」主よ、いつもこのように言える心をお与えください。sese06


年間 第32水曜日・パウロ会  96/11/13    
ルカ17・ 11-19

  「健康さえあれば恐いものなし」と思っている人々はたくさんいますが、しかし体の健康よりも心の健康の方が大切であることを改めて学ぶ必要があると思います。らい病を患っていた人々は病気のときにグループとして行動し、助け合っていたが、元気になったとたん、ばらばらになりました。自分たちの心の病気に目を止めていなかったからでしょう。(ステファニ)
イエス様はこの人々のいのちを助けて上げたけれども、決して恩きせはしません。完全に彼らの自由にまかせます。困った時に、助けを求めますが、よくなりますと、(のどもとを過ぎれば熱さわすれる)恩を忘れて平気な顔をします。信仰生活の場合もそうですが、困っているとき神の助けを求めますが、一応問題が解決しますとイエスの言うことを聞かなくなります。恩着せがましい神様に従った方がいいなのでしょうか?自由にしてくださる神様に従うことにどのような意味があるのでしょうか?
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わたしが患っている重い皮膚病は何か。わたしを他者から隔ててしまう心の傷、エゴイズム、偏見、プライド・・・。その重さにわたしは気付いているだろうか。声を張り上げて、「イエスさま、憐れんでください」と叫ぶことができるだろうか。実際に私たちは既に、イエスの血と水によって清くされた。その事実を見ようとしているだろうか。
主よ、敏感な心をお与えください。日々あなたに癒して頂いていることに気付き、感謝のうちに生きていけますように。

「あなたの信仰があなたを救った」

十人のハンセン病者は、村のはずれで、遠くから、大声で助けを求めることしかできませんでした、彼らが身体的ケガレヤ社会的差別から解放されたとき、自由になって、イエスに感謝したのは、そのうちの一人、サマリア人だけでした。いま、かれはイエスの足もとにひれ伏します。神の権威に服従し、感謝をささげることこそ、人間が自由になったしるし、救いのしるしです。
誰でも、体の健康と社会的尊厳を求めています。そして、それさえあれば神などはいらないと思う人は多い。9割まででしょうか。



年間 第32木曜日
「神の国はあなたがたの間にある」
ルカ17・20-25

 神の国は、死後のはるか遠い出来事ではなく、すでに私たちの間にあると言われる。神の国は愛、平和、正義に基づいた世界ですので、それを目で見ることができません。しかしそれを実現させたときに人間の間に感じられるようになります。平和がないところに平和をもたらす人が出てくれば、その違いがわかるように。神の国は健康あるいは空気(あるいは忘れ物)と同じように、普段は意識しないが、なくなればすぐわかります。
私たちは全世界に神の国を実現させることはできないかもしれませんが、自分の生活している周りに、神の国を実現させることができます。また、神の国を完全に実現できなくても、それに近い状態を目指すことができます。
人の悪口を聞いても、中身を聞き流して、次の人に伝えない。差別がなされる場に立ち会うならそれに加担しない。若い人たちにに平和とゆるしの大切さを教える。周囲の人々のなかで一致を創るために努力する。誰にでもできる、このような生き方をする人は神の国を造っているのです。それははでなものではなく、地味なもので、目を引かない。また、ときどき苦しみを伴いますが、それを受け入れるかは私たち一人一人に問われています。
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「神の国は実にあなたがたのただ中(entos hymon)にあるのだ」といわれています。この句をめぐってはいろいろな解釈がありますが、これは人間の心の内面にある、心の中にあるというように解釈されるのです。
しかしそうしますと、これを語る相手はファリサイ派の人々ですから、神の国はパリサイ派の人の心の中にあるということになっておかしなことになります。そうでなくても、神の国は人間の心の内面にある、それは結局は人間の心の持ちようにかかっているということなりますと、神の国というのは大変人間臭いものになってしまいます。
最近の聖書学者の説明では、これはそういう人間の内面性の中に神の国は存在するとか、始まるとか、という意味ではなくて、イエス・キリストがこの地上に来たことによってすでにあなたがたの中に始まっているのだという意味だということです。
 神の国はもうすでにあなたがたのところに来ているのだ、どうしてそれがわからないのかと、イエスはここでパリサイ派を叱っているのだということです。ルカ福音書の別の箇所(11,20)では、主イエスが「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」という言葉があります。
そしてその後、イエスは今度はイエスのほうから弟子達に終末について語るのであります。
「あなたがたは人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るだろう」と語るのです。ここで言われている「人の子」というのは、まずはメシアのことを意味しております。そしてこの場合は主イエス・キリストご自身のことです。
  神が遣わされるメシア、人の子、つまり神の子が十字架で殺される、その神の子の死を通らない神の国などは実現しないということです。つまり神の国というのは、なにか人間の善意とか神の国運動とか、そうした人間的な理想主義的な努力によって実現されるものではないということです。「憲法9条を守ろう」というような運動、ある意味では楽天的な運動によってはこないのだということです。
 神の子が十字架で殺されるという出来事、人間の罪があらわにされ、神の子が十字架で殺されるという出来事を通して、神の国は来るというのです。
 従ってそれ以外のメシアと自称する者があらわれてもまどわされるなというのです。人々が「見よ、あそこにメシアが現れた、ここにメシアが現れた」と言っても、ごまかされるな」というのです。メシアは十字架で殺される以外のメシアはいないからだというのです。
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地震学の専門家によりますと、21世紀中に起こるだろう大地震はいくつかあります。近い将来に発生すると指摘されている南海地震と東南海地震の2つの巨大地震に備えるための防災対策が各地で進められています。NHKラジオ第1放送で、毎週月曜日から土曜日の午後0:55から放送しているラジオ防災キャンペーン「地震ひとくちメモ」から、役立つ防災知識、防災の知恵、地震や津波の基礎知識を紹介しています。
そんなしているうちに、誰も予想できなかった東北大地震が起こったかけです。結局人間がまだ具体的にいつどこで地震が起こるのか言い当てることはできないのです。この意味では、神の国の到来に似ています。「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と同時に「稲妻のように」突然起こるというのです。結局、具体的な場所と時間を言い当てることはできないので、いつも準備していなければならないのです。
地震の場合は、いつも日ごろの建物作りや街づくりなどは怠ることはできないでしょう。どのような地震にも耐える建物と町が備えていれば少なくともダメージは少なくてすむ可能性は高い。
同じように信仰生活では、神の国の到来にいつも備えていなければならないでしょう。いつも日ごろ神様を受け入れる姿勢、心作りは大事だと教えてくれる福音です。

年間 第32金曜日    
「人の子が現れる日」
ルカ17・26-37

こんなふうに言われる、カトリックとか古い教会はいつも昔話をしている。昔イエスさまは、一九九九年昔にイエスさまが現われて、まだイエスさまは成功していない。新宗教は、そうではなくて、これからの宗教である。「今、あらわれて、これからです」といわれることに魅力を感じて、若者はそっちについていく。私たちはやはり正しい信仰をもって再び来られる主を信じる。本当に、待降節の時だけでなく、私たちは再び来られる主を待つことが大切です。
ミサの度毎に「再び来られるまで」ということを唱えます。ところで再び来られる主を信じるとは、どういうことでしょうか。それは、イエスさまはもう昔来られたけれども、個人としても世界としても、充分よく受けとめていないのです。イエスという人物、出来事はあまりにも大きくて一発で理解できない。ニ千年も足りない。毎週ミサにあずかって少しずつかじって味わうしかない。もっと良く受けとめるチャンスが与えられる。それが再び来られる主を信じることではないかと想います。新しい啓示が、ではなくて、もっと良く受けとめる。受け取るチャンスが与えられている。それはミサです。(沢田)
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人の子が現れる時、わたしは他の何をも顧みずに人の子に従うことができるだろうか。きっと今わたしが大切にしているものにその時も心を向けるだろう。イエスは永遠のいのちをとるか、死をとるか、という厳しい選択を今も私たちに迫られている。実際に自分の執着のあるところに、あたかもはげ鷹が集まるような死のしるしがあらわれてくるのではないか。
主よ、わたしから執着を取り除いてください。真に大切なものを知り、それ以外のものから自由になれますように。
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ノアの大洪水の時のように、のんきに、食い、飲み、買い、売り、植え、建てたりしていた時に、人の子は突然現れてこの世を裁くのだというのです。
神がくだされる裁きのときは、私たちが予想したり、期待するような人間的な価値判断、意味づけはすべて無視されていく。それは私たちが大震災やそうした災害に遭う時と同じようなことが起こる。そうした災害では、誰が生き残るかなどということは、誰にもわからない。ひとりは残され、ひとりは連れ去られる、その間に一切の価値判断はない、少なくも人間的な価値判断はないというのです。これが神の裁きです。
 私たちがこの世に生きている時には、まるで偶然のような出来事がいくらでもあります。まるで偶然のようにしてある人は九十歳まで幸福に生き、まるで偶然のようにして、ある人は小さい時から病苦に苦しめられて、若くして死んでいく人もいる。その時、私たちはそこにどんな意味づけをしようとしてもできるものではないことを知るのです。
 私たちはそうした不条理な出来事が起こる時に、人間の浅はかな小賢しい(こざかしい)意味づけは断念せざるを得ない、そうして神のなさるわざにひれ伏す以外にないのではないか。私たちが神が生きて働いているということを信じるのは、むしろこうした私たち人間の目には不条理としか思えないことが起こることを通して、ああ、神は人間を超えて働いておられるということを感じ取り、その神の前にひれ伏さなくてはならないのではないか。
 パウロにも、こういう言葉があります。「わたしたちはみな、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ、悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない」とあります。これはもう偶然というような裁きではなく、私たちがこの世にあって、どれだけ真剣に生きたかということが問われる、そうして裁かれるというこが言われております。
 ただこの言葉を私たちが読む時に、うっかりしますと、自分の人間的な価値判断を神に押しつけて、神に期待して、自分がほめられたり、裁かれたりすることを予想する場合が多いのではないか。
 「自分の命を救おうと思うものは、それを失い」というのは、「自分の命を自分の持ち物とか、自分の業績とか、自分の行いというもので、つまり、自分で自分の命を救おうとする者はそれを失う」という意味です。もうそうしたことをやめて、ただ神の憐れみにすがるものは、助けられるというのです。
  「死体のあるところには、また禿げ鷹が集まるものである」というのは、現代風に言えば、食べ物があるところにゴキブリが集まる、ゴミのあるところにクラスは集まるというようなことです。「死体」というのは人間の罪、あるいは不正のことで、人間の罪があるところには、かならず禿げ鷹が死体に集まるように、神の裁きがあるという意味です。これは死体のあるところには、差別なく、至るところに禿げ鷹が群がるように、この終末の裁きには、「どこで」というある特定のところにということではなく、いたるとこに起こるのであるという意味だというわけです。
 迫害の中にあって苦しめられていた初代教会の人々は「マラナ・タ」「われらの主よ、きたりませ」と教会の中で叫びつづけて、終末の裁きが来て、主イエスが再臨してくれることを切実に望んだということです。それは「終末はいつくるのか」というのんきな問いではなく、ただ神の憐れみにしか自分達の慰めも救いもないという切実な信仰、それがマラナ・タという叫びです。私たちも「いつ来るのか」というのんきな問いではなく、マラナ・タという切実な祈りをして、終末を待ち望む信仰をもちたいと思うのです。
www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke64.htm


年間 第32土曜日    
「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」
ルカ18・1-8

私たちの現実の中で、神の言葉は必ず成就するのだと信じて、生きていくために、どうしても必要なことは祈りである。祈りとは、私たちが神に求めていくものだと考えがちである。もちろんその祈りも大事であるが、祈りの根本は、願いや求めではなく、神の言葉に従って生きていこうとする者の、直面する困憊(こんぱい)や、不安の中から生まれる叫びだと想う。これでよいのですか、こんなことをしていてだいじょうぶですかという叫びだと思う。
パウロも次のように証言している。「十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあ癒たがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」(コリントI.2.2ー3)。イエスの十字架だけで生きようとしたとき、彼もまた非常に不安を感じたのである。そのように神に信頼をおけばおくほど、私たちは不安を感じ、その中から叫びが出てくる。私たちが信仰生活をしていくとき、不安を感じてこないのは、神の言葉をまともに聞いていないからである。
イエスの祈りはどうであったろうか。「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」(ヘブル・5・7)とあるが、それは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」-すなわち「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ・27・46)に見られる。このときだけ、ただ祈ったというのでなく叫んだと書かれてある。
神に祈っているのか、人に聞いてもらっているのか、神様感謝いたしますという最後の言葉がなければ、祈りかなにかわからないあいさつのような祈りをする人がいます。祈りは、祈る言葉とか、祈る時が問題ではなく、私たちが神に対してどのような生き方をしているかが問われるのである。神への深い信頼と真実の生き方からだけ叫びの祈りは生まれてくる。(榎本)

                                                                                                 

33 per annum

毎日の福音
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年間第33月
ルカ18・35-43

目が見える群衆はイエスを「ナザレのイエス」と言っています。しかし目が見えない人はイエスを「ダビデの子イエス」と言っています。イエスが誰であるかがわかるのは外面的なことによるのではありません。イエスを見るのは心の目、ここにこそ、人格的な出会いがあるのではないでしょうか。
主よ、あなたを見る眼を開いてください。sese06
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これは弟子達がイエスの十字架の出来事を理解できなかったということと結びつけられての記事であると思います。弟子達がいかに盲目であったかということです。そうした中でわれわれが今求められていることは、求めなくてはならないことは、「見えるようになる」ということなのではないかと思います。「主よ、見えるようになることです」と私たちは今切実に求めなくてはならない。
何が見えるよになるのか、それはイエスの十字架の死です。それが見えるようになること、それをイエスは今私たちに求めておられる。「主よ、見えるようになることです」とイエスに求める、それが私たちの信仰でなくてはならないということなのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke69.htm


年間第33火
ルカ19・1-10

ザアカイ

ザアカイにはハンディキャップ(低身長)と希望(イエスを見たい)があり、矛盾するこの二つに対して積極的にそして勇気で対応しました。自分の限界に閉じられらこちなく、あきらめずに行動を起こします。人生では、恐れではなく、希望に向けて行動する人だけが前進する、というようなことを教えてくれます。

ザアカイは若い時から劣等感を持って悩んでいました。人間は誰でも、多かれ少なかれ、コンプレックスを持っているものです。劣等感には、四つの種類があるとある人聞いたことがあります。(1)肉体的劣等感。(2)性格的劣等感。(3)能力的劣等感。(4)社会的劣等感。‥‥の四つです。そして、ザアカイには、このどれもがあったのではないかと推測することができます。まず、彼は背が低かったことが書かれていますから、彼には「肉体的劣等感」があったのです。また、背が低かったザアカイは小さい時から友だちもなく孤独な少年時代を過ごし、性格的にも卑屈でひねくれた人間になり、「性格的な劣等感」を持っていた可能性もあります。また、彼は背が低いために普通の人ができることができないという「能力的劣等感」があったことも推測できます。そして、彼の職業のゆえに、まわりからは売国奴のように言われ、「社会的劣等感」があったであろうと思われます。

イエスが通り過ぎて上を見上げました。 イエスの眼差しは、人の罪とまるのではなく、常にその人のの貧しさ、完全な人生にまだ欠けているものに目を向けるものです。そこで、美しい出会いがあります。喜びが生まれます。改心が起こります。
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ザアカイがイエスを見つけるより先に、イエスのほうが先にザアカイを見つけて、イエスのほうから声をかけてきたということです。
それはちょうど、あの放蕩息子を待っている父親の姿を思いださせるのです。父親は自分から去っていった息子がいつ帰ってくるかを毎日のように待っていた。畑仕事を終えた夕方、息子が去っていったほうを見つめて待っていたのです。それで息子が帰ってきた時には、父親のほうから先に見つけて声をかけたというのです。
 これも考えてみればおもしろいところです。といいますのは、あの金持ちに対しては、イエスは「持っているものすべてを売り払って貧しい人々に施せ、そしてわたしに従ってきなさい」と言われているからです。それなのにここでは、ザアカイは「自分の財産の半分を」といっている。それをイエスはそのまま何も文句もいわずに、それを受け入れて「救いがこの家にきた」といわれているのです。
金持ちの場合には、救いを得ようして、何をしたらいいかという問いから始まった問題でありましたので、イエスは救いというのは、自分が何をしたら、という問題ではない、何をしたらという問いそのものを捨ててしまうことだ、つまり自分を捨てることだ、それにはあなたのもっているものすべて、すべての財産を捨てることだ、つまり自分を捨てることだというのに対して、このザアカイの場合にはもうイエスとお会いして、イエスにきていただいて、救われているのです。イエスは罪人の客となったのです。それでもう救われているのです。救われるために何かをするのではなく、救われた感謝の証として、自分の財産の半分を貧しい人々に施すということなのです。
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ある青年は、川で祈るインドの神聖な老人を見た。終わったときに、その青年は言った、「祈りを教えてください」。そうすると聖なる老人は青年の頭を捕まえて水の中に入れてしばらくそこに保持した。しばらくしてから頭を放した。息を取り戻してから青年は言った、「なぜそんなことをしたのですか」。老人は答えて言った、「今私はあなたに祈りの第一レッスンを与えた。水中にいる時のように呼吸することを望むほどに祈りたい気持ちがあれば、祈ることは学べます。」
イエスを知ることも同じです。ザアカイはイエスを知りたいがために木に登った。私にとって「木に登る」ことはなんでしょうか。私はどのぐらいキリストを知ることを望んでいるのでしょうか。
"Christ is not valued at all unless he is valued above all" (St. Augustine)
「キリストはすべてに勝るものとして評価されなければ、十分評価したことにならない」(アウグスティヌス)


年間第33水
ルカ19・11-28

ヘロデ大王の息子、アルケラオがユダヤを治める王権を得ようと、当時ユダヤを支配していたローマまで旅立った。当時はローマの皇帝からそのような権限、お墨付きをもらわないと、王位にはなれなかったわけです。ところがすぐそのあと、ユダヤ人の代表者五十人の人がローマを訪れ、彼を王にしないようにという陳情(ちんじょう)をしたというのです。しかしアルケラオはローマから王位を受けて帰り、ただちにこの五十人を殺した。この事はユダヤ人に衝撃的な事件だったというのです。そういう記述がヨセフスという人が記した古代史に残っている。イエスもその話を知っていて、それでこの話を用いたのだろうといわれているのです。(マタイ2・22参照)http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke71.htm
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このイエスの話の中心は、最後の僕のことです。一ムナ(タラントの1/60)を主人が帰ってきた時に、そのまま差し出して、主人からひどく怒られたと言う話です。彼はなぜそうしたか。つまり、この一ムナをなくすことを恐れて、そのままにしたのは、彼の主人に対する誤解がそうさせたと言ってもいいと思います。私たちも神というかたを悪いことをしたらただちに地獄に落とすかただと思いこんでいたら、私たちの人生はずいぶん暗い人生になるし、戦々恐々(せんせんきょうきょう)として、人生を送ることになってしまうと思います。
私たちはイエス・キリストを通して、父なる神はもうそのようなかたではないことを示されたのです。従ってこのかたにこそ、本当の神であり、本当の王になって欲しいかたです。
アケラオは確かに残虐な人物であったからそんな人間が王になっては困ると訴えるのも当然かもしれません。しかしイエス・キリストはアルケラオとは違うのです。このかたこそ私たちの王になって欲しいかたなのです。このかたこそ私たちの王にしなくてはならないのです。もう現代は神なんかいらない、私たち人間がすべてを支配すればいいのだというところに、今日の世界の危機であり、そこにこの物語のひとつの意義があると思います。もし私たちに私たちを超えた存在としての神を認めないとすれば、報復に対しては報復という、復讐という連鎖反応を絶ち切ることはできないと思います。弱肉強食の世界になります。
私たちはイエス・キリストが再び来る終末の時まで、それぞれ与えられた一ムナを生かしきっていきたいと思います。そのためには、あの十字架と復活において示されたイエス・キリストこそ本当の王であることを、そのかたが終末の時に実際に王となってくださることに望みをおいて、この地上での生を生きたいと思うのであります。
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僕たちはそれぞれ同じ金額を預けられました。しかし返した額は同じではありませんでした。私たちはみんな同じ恵みを頂いています。しかしその恵みをどのように管理しているかが問題です。みんなが同じ出発点に立っていると認めない人もいるでしょう。しかし神様のほうから見ると同じです。
ある人には知力がある、ある人には体力がある、ある人には技能があります。皆自分なりの賜物を持っています。各人がいただいた宝を主にお返しするためにどのように活かすかが大事でしょう。
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恐れ、不安の中にいるときは出来ることもできなくなります。緊張状態のスポーツ選手や受験生のようです。信仰生活も同じだといえます。いつも怖い神の姿、イメージをもっているならば信仰は萎縮します。悪い僕は主人は厳しい恐ろしい方であると自分の考えで見ています。私の神のイメージはどんなものでしょう。あらためて今日の福音の私へのメッセージを心を込めて受け止めてみましょう。

年間第33木
ルカ19・41-44

イエスがこれから歩もうとする十字架の道、自分が死ぬ道、つまりは自分が負ける道、それこそが平和の道なのだ、そのことを今エルサレムの都の人々は知らないというのです。だからやがて周りの国に滅ぼされることになる、というのです。そして事実この時から40年経って、エルサレムの都はローマ軍によって破壊されてしまうのです。
イエスはこの時、「もしおまえも、この日に平和をもたらす道を知っていさえしたら、・・
しかし、それは今おまえの目には隠されている」と言っております。しかし今日私たちにはもう隠されていないのです。イエス・キリストの十字架のことはもう今日全世界に隠されていない筈なのです。それなのに、今日まだこの平和の道を歩むことはできないでいるのです。
 もちろんこのことは容易なことでないことは痛いほどわかります。個人と個人の争いにおいても、これを実際に行うということは容易なことでないことは明らかです。自分の問題になったら、こんなことは言っておれないということも明らかです。まして、これが国家と国家の問題、あるいは、国家とテロの問題となった時に、こんなことで平和の道が来る筈はないと誰でも思うかもしれません。
 しかしこの時のこのイエスの言葉が、今日実際にこの通り実現されるかどうかはともかく、この言葉は今や隠されていないということはあきらかです。このイエスの言葉は個人の問題においても、国家の問題としても、重みのある言葉として今日あるということは、われわれは知っておかなくてはならないと思います。しかしこの言葉が今や隠されてはいない、報復に対しては報復という道では真の平和は来ない、その事はもはや隠されていない、そのことを知って報復するのと、それを全く念頭に置かないで行動に移るのとではやはり違ってくると思います。
今イエスはご自分を十字架につけようとしているエルサレムの人々のことを思い、その将来がやがて滅亡の道をたどることを思って、泣いたというのです。子どもが親に反抗し、そして自分勝手な道を歩みだす、それは親から見れば確実に子どもにとって滅亡の道であることがわかっている時には、親も子の将来を思い、涙を流し、悲しむと思います。今もイエスはそのように私たち人類の将来を思い涙を流されているのではないでしょうか。
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パウロのフィリピへの手紙(2:6-8)にこういう有名な箇所があります。「 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
この言葉今日の福音書を一番よく説明する箇所ではないかと思います。キリストは自分の長い旅の終着点エルサレムを前にして、自分のメッセージが受け入れてもらえない、そして十字架に上らなければならい、つまり自分の(人間的に考えれば)全面的な失敗を前にして泣きました。全知全能の神はそこまで低くならなければならなかったのです。私たちはこういう言葉で表される考えにとてもついていけない面があります。私たちの考えでは、全知全能の神ならさっさと問題を片付けてもらいたいということでしょう。だから、私たちは「平和への道をわきまえて」いないのです。「神の訪れの時」をわきまえていないのです。「平和への道」と「神の訪れの時」は深く結ばれています。だから、私たちは「神に心を閉じてはならない。きょうこそ神のことばを聞こう」(アレルヤ唱、詩編95)ではありませんか。

年間第33金
ルカ19・45-48

イエスは、「神殿の境内に入った」ように、私たちの内にも入ってこられ、時には厳しいやり方で、生きるべき道を教えてくださいます。祈りを通して神とつながっていなければ、私たちは自分が創られた目的を果たすことはできません。すべては神からいただいた恵みであることを忘れ、神の住いとされた私自身をも自分の利益のためにだけ使ってしまうかもしれません。
主よ、私の内から自分勝手な思いを取り除いてください。そして、あなたのみ心を行なわせてください。sese05
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神殿の中には祈る人もいれば商売をする人もいます。善人もいれば悪人もいます。イエスと、イエスに従う人々もいれば、商人もいるのが現実です。私たちの心も同じです。いつもよい心を持っているとは限りません。だからこそイエスの強い働きが必要です。私たちの心が祈りよりも利己的な打算に傾くとき、イエスの叱責は私たちを救います。主よ、私の心を清めてください。sese06


年間第33土
ルカ20・27-40

大事なのは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」と言う言葉です。「人はみな神に生きるものだから」という言葉です。これはつまりすべては「神を中心にして生きなさい、神を中心にして考えなさい」ということです。すべてを神を中心にして考えるならば、神は死んだものを死にぱなっしになどは決してなさらないだろう、神を中心にして考えるならば、死人の復活は当然信じられることだし、神に生きるということを考えれば天国での生活の仕方も、この世の生活の仕方とは当然ちがったものになるだろう、だから、この世的な考えで、めとったり、とついだりする世界をかの世の世界に持ち込めないということになると思います。
復活とか、死んでからのいく世界、天国のことを考える時に、私たちはこの世的な思いを捨てて、神を中心にして考えていかないといけないということです。
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カゲロウとバッタの話があります。一日を楽しく遊んだ後、バッタがカゲロウに言いました。明日また会おうね。カゲロウはわかりませんでした。明日ってなに?今度は、バッタがカエルとある夏を一緒にすごし、カエルがバッタに言いました。来年までお元気でね…バッタは理解できませんでした。来年、来年、らいねーんが有るのか?サドカイ派の人々も私たちも、復活を経験した人はいません。唯一経験したイエスだけが、私たちを復活へと導くことができるのです。
復活へのゆるぎない希望のうちに、今日、イエスに従うことができますように。sese06

 

                                                                                              

34 per annum

 王であるキリストの祭日と典礼暦の終わり

この祭日を含む典礼暦の終わりの時期の聖書朗読は、とくに終末的な性格を帯びた箇所が選ばれています。今週は第1朗読ではダニエル書が、福音朗読ではルカ福音書の終末に関するキリストの説教の箇所が含まれています。そこではキリストが再び来られることへの待望、神の支配の到来と救いの完成へへの待望が中心主題となっています。そしてこの救いの到来を待ち望む主題は、次の日曜日から始まる待降節へと受け継がれていきます。こうして典礼暦は常に循環して、救いの完成に向かってキリストの救いのわざを記念していきます。

 

年間第34月曜日
ルカ21・1-4

「 長者 ( ちょうじゃ ) の 万灯 ( まんとう ) よりも 貧者 ( ひんじゃ ) の 一灯 ( いっとう ) 」ということばがあります。これは「 阿闍世王 ( あじゃせおう ) 受決経 ( じゅけつきょう ) 」に出ていますが、信心深い貧しい女が仏に一灯(ともしび)をささげた功徳が国王や 富者 ( ふしゃ )の万灯にまさった、ということです。確かに神の前でささげる額は問題ではない。しかし、それはど
うでもよいということではない。ある人が献金の大きさはささげた額ではなく、残した部分によってきまる、と言いましたが、なるほどなと思う言葉です。貧しいやもめは生活費全部をささげたのだから、残るものはないということになります。だからこれほど大きななものはない。
 献金は、神への感謝のしるしであり、その感謝は、神に対する信頼から起きてくるものでなければならない。いかに敬虔な思いをもってささげても、信頼の伴わない献金は、どぶへ投げたようなものです。やもめの献金は、全生活が神に支えられているという彼女の信仰の告白であったから尊い。(榎本) 
イエスも神にすべてをささげる生き方を十字架の死において示します。

年間第34火
ルカ21.5-11

ニセ救世主、戦争、暴動、地震、飢饉、疫病、天変‥‥。福音は、人生の苦しみや悩みに目をつぶった非現実的な楽天主義ではなく、世の終わりまで続く人間社会の困難を知った上での、イエスの愛と命と希望のメッセージです。
様々な暗いニュースに沈みがちな心を奮い立たせながら、この世の現実のまっ只中に共にいて、闇に光をもたらしてくださる神の愛を、今日も信じて生きることができますように。sese04
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イエスはこの世の見事な飾りや権力はいとも簡単に崩れ去ることを予告なさいます。また、自然現象や戦争、世の不調和にいたずらに脅(おびえ)えないように諭されます。「惑わされないように気をつけなさい。」外にあるものに目を奪われるのではなく、心の深いところにある神からの静かな声に耳を傾け、神に信頼する心の平和のうちに歩み続けることができますように。sese06


年間第34水
ルカ21.12-19



神の愛の宣教者会の2代目総長としてシスター・ニルマラ・ジョシーが選ばれたのは1997313のことであり、マザー・テレサは半年後の199795日に87歳で亡くなった。なお、カトリックの女子修道会の総長は「マザー」と呼ばれるのが通例であるが、ニルマラは「私達がマザーと呼ぶべき人はマザー・テレサただ一人である」という理由により、総長職を継いだ後もマザーを名乗ることはなく、2015623日に亡くなるまでずっとシスターを名乗り続けていた。これは3代目総長のシスター・メアリー・プレマも同様である。

バラモンとは、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称。

マザーテレサの宣教を引き継いだ人は、カトリックに回心したとき、父親(Brahmin family)が刃物を持って娘のところにやって来たということを読んだことがあります。

親に憎まれる。

2) 聖書の終末論(終わりについての教え)には、2つの面があります。

 1つは、厳しい迫害や大きな苦難の中にあっても神に信頼するように、と促す励ましのメッセージという面です。きょうの箇所では、特に迫害の中でのイエスの助けと神の守りが約束されています。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」(15節)、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)。身の安全が保障されるというわけではありません。約束されるのは、裁きの場に引き出されてもそれを「証しをする機会」にする力が与えられること、たとえ殺されても「命をかち取る」ことができるということです。

 「髪の毛の一本」(18節)はごくわずかなもの、ほんの小さなもののたとえです。神のわたしたちに対する愛が確かなもので、大きく、また細やかであることを強調しています。しかしそれは、危害がなくなるというよりも、どんなに危害を加えられても本当に大切なものを奪われることはない、という意味のようです。19節の「命をかち取る」の「命」はギリシア語では「プシュケーpsyche」です。「プシュケー」は「たましい」とも訳される言葉です。ある辞書には、「なまの人間の人格生命の本質的部分」という説明がありました。決して奪われることのない本当に大切なものは、この「本質的な部分」だと言えるでしょうか。なお、「忍耐」と訳された言葉の元の意味は「下に留まること」です。ただじっと我慢するというよりも、「神のもとに踏み留まること」と言ったらよいでしょうか。この神とのつながりこそが、決して傷つけられることのない「本質的な部分」だと言うこともできるでしょう。


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日常の只中で自分の立場が脅(おびや)かされる恐れや、裏切られ、悲しみの淵に沈み込むことがあります。そのような時、神は私たちに言葉と知恵を授けてくださるから、自分で、あれこれ勝手に動かないように決心することを促されます。髪の毛一本に至るまで守り抜いてくださる神への信頼に留まり、忍耐するように望まれています。神からの憐れみが必ずある、そういうことに信頼をおいて、「待つ」恵みをいただくことができますように。sese06
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末期ガンなどのターミナル・ケア(終末医療)への取り組みが盛んになる中で、「クオリティ・オブ・ライフquality of life」ということが言われるようになりました。迫り来る死を前にした時、いかに命の長さを伸ばすか、という「生命の量」の問題よりも、残された日々をいかに充実したものとして生きるか、という「いのちの質」が問われる、という考えです。
 キリスト信者にとって「クオリティ・オブ・ライフ」の根源的なモデルは、イエスご自身の地上での最後の日々でしょう(きょうの箇所の後、すぐに受難の物語が始まります)。イエスは死を目前にして最後までどう生きたか、そのイエスのいのちの輝きを見つめたときに、人はパウロとともにこう確信することができるようになるのです。
 「愛は決して滅びない。…信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13章8、13節)
 わたしたちの人生にも必ず「終わり」が待ち受けています。その終わりに向かってどう生きるかをきょうの福音は、そしてイエスの生き方はわたしたちに問いかけているのです。
ーーーーー
 ダニエル書 第5章

   歴史の中で、権力を持っている者が、神とキリストのご性質に対して挑みかかるエピソードは、いくらでもあります。卍(まんじ) 鉤十字(かぎじゅうじ)ナチスのシンボルを選んだヒトラーもそうですし、レーニンやスターリンも、メシア信仰の真似をしていましたのです。これはまさにアッシリヤやバビロンが行なったことであり事態は深刻です。戦前には、天皇を高く引き上げ、キリストを引き下げる動きがありました。また、民主党の幹事長だった頃の小沢一朗は、唯一神また西洋の神は排他的であるとし、批判する人々がいます。自民党と古くからつながりのある団体に民主党との関係強化を求める狙いがあったものと見られる。これは単なる政治家の一発言だとして看過している人がいますが、ダニエル書によれば、国の行く末を決めてしまいかねない、神の裁きを招きかねない恐ろしいことなのです。

ダニエル書のメッセージは、軍事)力によらず、信仰によって、この迫害の時代を乗り越えていく。これこそが信仰による戦いのあり方であり、仮にそこで目に余るような不幸な出来事が起こったとしても、「神は必ず、そうした暴虐による人的損失、生命の損失に対して報いてくださる」という確信に立つのです。
 
  その意味で、この二つの物語は、アンティオコス4世の治世において、迫害下に生きるユダヤ教の人々にとって、そうした信仰によってこの迫害を生き抜く、そうした希望を与えるものとなっているのです。
 


年間第34木
ルカ21.20-28

人生の荒波を越えて 


 この世の中にも戦争や暴動や飢饉や疫病が起きてくるように、私たちの人生もまたすべて順調に行くという人は少ないでしょう。「なぜこんなひどいことが起きるのか?」と不審に思うことも起きてきます。絶望するような時もあります。しかしイエスさまのみことばは、常に私たちに希望を与える言葉です。そしてその言葉は、天地が滅びても決して滅びない、無駄にされることのない確かなみことばであると言われます。 

 年前から話題となった映画「ザ・テノール」という映画があります。これは日本と韓国の共同制作映画で、韓国人オペラ歌手べー・チェチョルさんと、べー・チェチョルさんを支えてきた日本人の輪嶋東太郎(ワジマトウタロウ)さんというプロデューサーの、2人3脚の物語です。このことについて、その輪嶋東太郎さんが、キリスト教の月刊誌「百万人の福音」で取り上げられていました。 

 輪嶋さんは2003年に初めてべー・チェチョルさんの歌を聴いて、「おそらくこれ以上のテノール歌手に人生のなかで出会うことはないだろう」と思い、惚れ込んで、一緒に仕事をするようになったそうです。そして2005年には日本での全国ツァーも成功させる。ところが、べーさんに甲状腺ガンが見つかった。そして手術によって、歌声を出すために必要な三つの神経を切断するに至りました。医者からは、「以前のように歌うことはあきらめて下さい」と絶望的な宣告を受けたそうです。 

 そういう中でも輪嶋さんは、べーさんをサポートし続けた。そういう支えにより、クリスチャンであるべーさんは祈りを通して神と向き合い、次第に平安と希望を得ていったそうです。そしてついに、「ぼくは病気になって良かったのかもしれない。おかげで、人生で何が一番大切で、何にために歌うのかあらためて教えられた」という心境に至ったそうです。その言葉に感動した輪嶋さんは、さらにべーさんの回復のために奔走することになりました。そして2008年、べーさんは再び舞台に復帰することができました。 

 さて、輪嶋さんのほうはクリスチャンではないどころか、キリスト教が大嫌いだったそうです。事務所には神棚を置いて欠かさず水を替え、コンサートがある時は、般若心経を唱えながら会場を歩き成功を祈願するような人でした。もらった聖書も神棚に置いたままだったそうです。ところが、2012年、制作中の映画「ザ・テノール」が暗礁に乗り上げたそうです。すでに制作費として億単位のお金を投じていた。それで自殺まで考えたそうです。神社仏閣や、先祖に手を合わせてお祈りした。そんなとき、韓国人牧師にもらった1冊の信仰書を手にとって読み出した。読み進めていくうちに、乾いた降る雨のように言葉がしみこんで、それからは聖書を手放せなくなったそうです。そして聖書を夢中で読むようになった。そしてキリスト教信仰を持つようになりました。 

 雑誌の中で彼は言っています。「聖書の言う通りに生きれば、どんな課題も必ず越えていける。あの挫折を通して、本当の意味で導いていただいたと感じています」。 

 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と言われた主の言葉の通りだと思います。私たちは危機を恐れます。苦しみを恐れます。しかし、今日の聖書は、私たちが依り頼むべきものがある。それはイエス・キリストご自身であり、その変わることのないみことばであることを教えています。 


ーーーーーー
上があるからには下がある。左があれば右はある。物質あれば精神もある。目に見えるものはあれば、目に見えないものもあるだろう。過ぎ去る世界があれば、過ぎ去らない世界もある。キリストは過ぎ去るものの類(たぐい)と違う、と。
わたくしたちの命をお造りくださり、わたくしたちを御手の内に置いてくださっている天の父なる神さまは、たとえわたくしたちが死んでも、それによって何かもう、一仕事終わったと、手を離しておしまいになる御方ではありません。最後の最後にわたくしたちを死から呼び覚ます、救いの日に至るまで御手の内に抱いてくださっています。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。あなたは見ることになる、と主イエスはわたくしたちに約束してくださいました。
この約束の内容が確かであることを、天の父なる神さまは御子イエスを死から復活させてお示しくださっています。さらに神さまは礼拝において、御言葉と聖礼典とによって御霊を降し、この救いの日がわたくしたちにやって来ることを約束してくださっています。わたくしたちはこの約束と共にあって、生きるにも死ぬにも、天の父なる神さまの懐へとこの身をお献げしてまいるのです。
私共は、東西ドイツの壁の崩壊を見ました。ソ連の崩壊も見ました。本当に驚きました。しかし80歳代の方は、先の大戦において日本の敗戦、日本の滅びを体験されました。私共はバブルの崩壊の後、銀行の倒産も見ました。どんなに確かに見えるものも、やがて滅びる時が来る。そのことを私共は何度も見てきたのであります。この肉体もそうなのです。一つ一つ衰えていき、やがて死を迎える。しかし、それは終わりではないのです。本当の終わりの時、それは主イエスが再び来られる時なのです。生ける者と死ねる者とが裁かれる時なのです。
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自分が生きている間には起きて欲しくない災害(人災や天災)の描写が続きます。しかし、イエスは言うので
す。それらが起こったら、怖れて逃げまどうのではなく、「身を起こして頭を上げなさい。あなたが
たの解放の時が近いからだ。」私たちを愛してくださる神がいます。どんな災いも怖れることはない
のです。要は私がそれを信じるかどうかです。信じられるでしょうか?信じたいです。主よ、信じさ
せてください。sese04 パウロも言うように、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ロマ8:35)
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この世が終わってしまう、しかしそれがすべての終わりではないというのです。そこからさらに先があるということなのです。それが主イエスが語る終末であり、聖書の語る終末なのです。この世が終わってあとに、新しい事が始まるというのです。そこから真の新しい事が始まるのだ、そのときに、人の子が、つまりメシアがもう一度来る、今度は大いなる力と栄光とをもって雲に乗って来るというのです。

終末というのは、いつやってくるかわからないのです。そうであるならば、終末がいつくるか、その前兆はなにかと、終末に備えて、晴れ着を着るようにして、なにか改めよう、などと、そんなことばかり考えるのてはなく、いつ来てもいいように、今の日常の生活において、この平凡であるかも知れないこの毎日の生活において「絶えず目を覚まして祈っている」ということが大事なのだというのです。あの羊のほうに分けられるとイエスに言われた人々は、ひとつも大げさな愛をした人ではないのです。ごくごく日常の生活において、われわれがしているようなこと、自分の目の前に困っている人がいたら小さな親切をしてあげる、どこか難民がいるところに出かけていって命がけの愛の実践をしにいく人のことではないのです。病気の人がいたら、ただ見舞いにいくだけ、そんなことはわれわれが今日常の生活においてできることです。

  終末に備えるには、われわれはまず神の愛を信頼し、望みをそこから与えられて、耐え忍ぶということです。耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取る、救われる、というのです。耐え忍ぶということは、自分からじっとしている、動かないことだと、思われがちですが、しかし、二○節からをみますと、「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げよ。市内にいる者は、そこから出ていくがよい。」と言われております。ここでは「逃げなさい」といわれています。何もじっと忍耐していなさいとはいわないのです。耐え忍ぶということは、何か我慢することではないということです。我慢して自己を主張したり、我を張ることではないのです。そんなかたくになってはいけない。逃げなくてはならない時にはさっさっと逃げなくてならないのです。

 つまり、忍耐するということは、我慢して歯を食いしばって我慢する、我を張るということではなく、あくまで、神の愛を信じて、神が守ってくださるのだから、何があっても、天体に変化があったとしても。われわれの髪の毛一本も失われることはないということをどこに行っても信じていけ、ということなのです。 神の愛をどこまでも信じていきなさいということです。それが終末への備えなのです。 愛と信仰と希望、それがわれわれが終末に耐えさせる力なのです。
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霊魂の不滅

肉体は決して自己同一を保つことのない物体的なもの、目に見えるものであり、合成的なものである。(五才の時の私の体と今の体を比べると、前者は今の半分だった。それから、五十年間の間、私の細胞は何回も死んで、新しくなっています。五歳の時の体の物質は一つも残っていません。)7~10年間ですべての細胞は変わる。
したがって、肉体は散り散りになる。
これに対して、魂は、常に自己同一を保つ神的なもの(イデア)、目に見えないものに似て、常に自己同一を保つ、目に見えないもの、非合成的なものである。そして、非合成的なものが散り散りになることはない。
したがって、魂が死後、散り散りになることはない。

「全世界を手に入れても、魂を失ったら、どうなるのか」ということばがあるが、今日の福音書は同じことを逆の観点から述べています。「全世界は滅びても魂は滅びない。魂は大事だよ」と。

Different types of cells have different lifespans, e.g.:

・we shed our skin cells about every 35 days
・red blood cells 赤血球 せっけっきゅう live about 120 days, platelets 血小板けっしょうばん 6 days and white cells 白血球はっけっきゅうless than a day
・most of the adult skeleton is replaced about every 10 years
・the average age of a fat cell seems to be about 10 years
・a 25-year-old heart replaces about 1% of all its cardiomyocytes (heart muscle cells ) over the course of a year, while a ・75-year-old heart replaces about half a percent
・our neocortical neurons, the cell type that mediates much of our cognition, are produced prenatally and retained for our entire lifespan



年間第34金
ルカ21.29-33

この世の混乱とか危機の時に、われわれを支えてくれるのは、われわれの意志とか決意とかと
いうものではなく、希望なのです。
ドイツのナチスによって造られた強制収容所のアウシュビッツでの過酷な生活に耐えて生き延びた人は、な
んらかの意味で希望をもっていた人だと、その体験を記したV・フランクルという心理学者が書いています(『夜と霧』)。
それは丈夫な体の持ち主がその過酷な中を生き延びたのではないというのです。希望をもっ
ていた人が生き延びたというのです。どんなに弱々しそうな体つきをしている人でも、その人が何か
希望できるものをもっていたら生き延びたというのです。その希望はたとえば、愛する妻との再会と
いう希望というようなことです。そういう希望をもてる人が生き延びたというのです。そういう希
望をもてなくなっている人はどんなに体力があっても、気力が衰えて死んでいったというのです。
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世情(セジョウ)の不安や天変地異(てんぺんちい)などが起こるとき、神の国が近づいているとあります。この世の終わりかと思われるようなとき、神の御言葉は生きて働かれます。すべてを失ったように思えるとき、やっと曇りのない目で神を仰ぎ見ることが出来ることがあります。
この世のものの変化に心を騒がせず、神から送られてくる徴(しるし)だけに、心を留めることができますように。sese06
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イザヤ書(四○章)では、イスラエルの民がバビロンで囚われの身の生活を強いられていた時に、そのバビロンから解放される救いの時がきたと預言するのです。その時にその預言者はこう語るのです。
 神がこう言われるというのです。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役(ふくえき)の時期は終わり、そのとがはすでにゆるされた」と慰めを語れと神から告げられたというのです。そしてこういいます。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ、しかし神の言葉はとこしえに変わることはない」というのです。
 これは人を慰める言葉として大変不思議な慰めかたです。つまりいってみれば、人間は所詮死ぬ運命にある、野の花が枯れてしぼむように、人間はやがて枯れ果てるというのです。そういって、慰めを語りだすのです。不思議な慰めかたです。所詮人間は人間に過ぎない、そう言ったあと、しかし神の言葉はかわることはない、というのです。つまり、神ご自身の愛の言葉は変わることはないということです。 
終末というのは、「天地は滅びても、神の言葉は決して滅びることがない」ということが明らかにされる時なのです。
いちじくの木が枯れて朽ち果てるだろう、その時に終末が来るといわれたのではなく、木が芽を出したときに、夏が近づいたとさとりなさい、というのです。イエス・キリストが終末というものをどんなに輝かしい時として、希望の時として考えおられるかということです。  
終末というのは、大地震が起こったり、戦争が起こったり、天変地異(てんぺんちい)が起こったりして、この世が混乱し、滅亡してしまう。それが終りではないのだと主イエスはいうのです。それは終末の前兆にすぎない。終末はそこから始まるのだというのです。なぜなら、終末というのは、ただこの世が終わる日だというのではなく、この世が終わったあと、神が神として立ってくださる時が来る日だからです。(第一朗読で言えば、「聖なる都、新しいエルサレム」(黙示録21・2)が見えてくる日です。)
終末というこの世の破滅の時に、なお希望をもつことができるのだというわけです。われわれには神が神として裁きの座にたってくださる、そして神が本当の救いをわれわれすべての人に与えてくださる時なのだ、だからわれわれにはこの日は希望の日なのだというのです。
終末というものがただなにか悲惨なことが起こる日と考えているなら、その悲惨さから逃れようとするでしょう。しかし主イエスは、終末というのは、この世の滅亡のあとに本当に救いが始まる時なのだというのです。それならば、ずるがしこく、その前兆を知ろうとするのではなく、絶えず目を覚まして神の救いの日を待ち望みたいと思うのです。そのために祈りたいと思います。

年間第34土
(ルカ21.34-36)

イエスから私のところに、“急だけど、今日会いにおいで”あるいは“突然だけど、今日会いに行く
から”というメッセージが届いたら、どう反応するでしょうか。今日が「その日」かもしれません。
“はい、喜んで!”という答えが出るでしょうか。
明日から教会の暦は待降節に入ります。主の降誕を祝うクリスマスを準備すると同時に、主の再臨に
心を向ける季節でもあります。今日一日を本気で大切にするかどうか、私の姿勢が問われています。
sese04
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生きている中で世の色々なものに心は支配され、鈍くなっています。目を覚まして祈り続けることの
難しさを感じます。けれど、私たちの喜びの源はどこにあるのかを心の底から解るとき、そこへ至るために、ただ、神に心を向けて祈り続ける以外に出来ることはないと気づきます。
神よ、目を覚まして祈り続ける恵みをお与えください。sese06
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「放縦や深酒や生活の煩い」は心を鈍らせ、生活の優先順位を狂わせ、ひいては神と人への愛を損なうものです。
今私にとって、具体的に何をいうのでしょうかイエスはすべてをよくご存知で小さな声でそっとささやかれることが多いようです。
私たちはそのささやきを聴かず容易に無視してしまいがちです。
明日から待降節。希望と喜びのうちにキリストの到来に心を向ける季節が始まります。私たちが
いつも目を覚まし神の促しに敏感になっていることができるよう祈りましょう。sese07