1 advent

毎日の福音
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 待降節は、かつては四旬節と同じように回心の期間としての面を強調する傾向がありましたが、現在の教会は、待降節を「もはや悔い改めの期間とは考えず」(「ローマ典礼暦」規範版の待降節の解説)、むしろ「愛と喜びに包まれた待望の時」(「典礼暦年と典礼暦に関する一般原則」39)と考えています。そして、希望と喜びのうちにキリストの到来に心を向け、降誕祭の準備をするよう勧めています。待降節中、ミサと「教会の祈り」で使用する祭服等は紫色が用いられます。ただし、待降節第3主日には、習慣のあるところでは、ばら色を用いることができます。(『ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)』346参照) (毎日のミサより)

待降節第1月  第1周年(遇数年)
マタイ8・5-11

イエスはみことばを語るだけでなく、ご白身がみことばであり、存在そのものを通して教えます。新しいモーセとして教えるだけでなく(マタイ5-7章)、旧約の律法によっては救われなかったけがれから、ハンセン病者、異邦人、婦人を救います。
異邦人の百夫長はイエスのもとに来て願います。「みことばを送って治してください」(詩編107・20)。
マタイは、みことばに対する希望を示し、神の愛がすべての人に向けられていることを述べようとしています。
モーセに律法がみことばとして与えられ、イスラエルは律法に聴従するように命じられました(中命記6・4など)。いま、みことばイエスが与えられています。わたしたちはイスラエルの祈りを、イエスヘの祈りとして用いることができます。「あなたのしもべに言われたことば、希望のことばを思いおこしてください」(詩119・49)。「主よ、苦しんでいるわたしに、みことばによっていのちを与えてください」(詩119・107)。(荒)


待降節第1火
ルカ10・21-24

今日は待降節の三日目ですが、早速人間となった神の子の深い意味が示されます。イエスは悪霊を追い出し、神の救いの秘義を啓示しました。それによって弟子たちはイエスがメシアの権能を持つことを知ります。さらに、イエスが父なる神と特別なかかわりを持つかた、父の子としても理解できるようになりました。。「天地の主である父よ」と叫ぶ親密な関係は、父と子の関係の深さを示しています。
父は子にいのち、愛を与え、子はそれを受けて、父のいのちに生き、父を愛しているために、父にすぺてをささげます。
三二五年、ニカイア公会議はイエスの神秘を、「神の子」という信条によって表しました。神の子イエスは神と人との一致であり、「まことの神にして、まことの人間」です。父との一致を(ヨハネ10・30)「至福直観」(visio beatifica)ということばでも表すことができます。
イエスは人間の霊魂と体を持ち、人間の意志によって、自由に、父に従おうと決断します。「至福直観」はイエスの人間としての苦しみや体験に基づく知識を無にするものではありません。むしろ、そのような苦しみにおいて・父との一致はますますはっきりと示されています。ゲツセマネの祈りはその一例です(マルコ14・36)。その祈りは神の権能に対する人間の従順とともに、いつくしみあふれる父に対する親密な愛にみちています。
神の愛の息吹に生きるイエスは、その同じ愛の息吹をわたしたちに注ぎます。聖霊を通して、父と子の親密な交わりにわたしたちを招きます。エスが聖霊によって喜びにあふれて祈ったその同じ祈りを・わたしたちの心にも湧きあがらせます。「天地の主である父よ」と。(荒)
降誕説の第一叙唱にはこういう言葉があります。「人となられたみことばの神秘によって、わたしたちの心の目にあなたの栄光の光が注がれ、見えるものとなられた神を認めることによって、見えないものへの愛に強く引かれます。」 

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オランダの著名な画家ヴァン・ゴッホは、生きている間1700枚の絵を描いたそうです。そして、生きている間売った絵と言えば、一枚だけです。その一枚でおよそ8000円もらったそうです。今は、ヴァン・ゴッホの絵と言えば、何百万もします。ヴァン・ゴッホは生きている間実現しなかった夢を見続けたわけです。今日のイザヤ預言者のように。一生美の理想を追求し続けた。これは待降節の精神ではないかと思います。


待降節第1水
マタイ15・29-37

マタイはイエスの活動を要約し、奇跡をイザヤの預言の成就として捉えます(マタイ8・16-17=イザヤ53・4、マタイ12・15-21=イザヤ42・1-4)。奇跡は神は全能であると示すためではなく、苦しみのしもべが貧しい人と連帯していることを示すために行われます。
マタイ15・31では、「耳の不自由な人が書物のことばを聞き、もやとやみから解放され、盲人の目は見え」(イザヤ29・18)、「足の不自由な人は鹿のように飛び、口の不自由な人の舌が喜び叫ぶ」(イザヤ35・6)といわれていた預言が成就します。(荒)
福音書の深みを知るためにやはりイザヤ書をもう一度読みたいな。また、ここで耳、口、足などすべての不自由から解放してくれる方がいます。私の不自由はどのようなものでしょうか。そこから解放される希望をもっているでしょうか。
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主は私たちのために「会食を整え」、私たちの「杯を満たされる」という約束がなされています。それに対して私たちは、今日の答唱詩編にあるように、「乏しいことがない」と歌うことができるでしょうか。私たちの住んでいる社会はものが有り余って、飽食(ほうしょく)社会と言われています。食事をおいしくいただくために、条件として、お腹はすいていなければならりません。いくら豪華な宴に呼ばれても、お腹がすいていなかったら、おいしい
と思うどころか、むしろ不愉快に感じるでしょう。
自分の悩みで心がいっぱい。他人をそこに入れる余地はない、毎日のように他人に対する恨み、不満、嫉妬、怒りなどをなめていては、ほかのものは何も入らないのです。
せっかく、主が準備してくださった会食を味わうことができるように、心を整えて、お腹をすかしておきたいものです。


待降節第1木
マタイ7・21,24-27

「裁くな」(1-2節)、「偽預言者を警戒せよ」(15節)、「父のみ旨を行え」(21節)といういましめが、具体的な場面によって描写されています。
「兄弟の目にあるおがくずと自分の目にある丸太」(3-5節)、「いばらとぷどう」(16-20節)、「岩の上の家」(24-27節)。「父のみ旨を行う者」とは、同時に、「わたしのことばを聞いて実行する者」(ルカ6.46、マタイ7・24)のことです。
初代教会は、みことばを聞くだけで実行しない人びとに対していましめました(ヤコブ1.22-23)。
「 1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」
グノーシス主義者は、知恵についての悟りを重んじ、愛の実践を忘れます。ファリサイ派は愛のおきてを知っていても、愛の心を持っていません。カリスマに恵まれて奇跡を行っても、岩であるキリストにたよる貧しい人の生きかたを忘れるならば、砂上の楼閣(ろうかく)にすぎないのです。(荒)
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立派な家を建てるかどうかが問題ではないのです。どこに家を建てるかです。もし立派な丈夫な家を建てることだとしたら、力のある人、才能のある人、有能な人が建てることができるだけです。しかしそういうことをイエスさまは言っておられません。‥‥どこに家を建てるのか、ということです。
それが問題なのです。その家を、私たちのやぐらであり岩である(イザヤ書)=父なる神さまの上に建てるのかどうか、ということです。
 イエス・キリストを信じること、それを告白してイエスさまに信頼して行くことが、岩の上に家を建てることです。どんな嵐が来ても、倒れることがありません。世界が滅びるような洪水が来ても、しっかりと立っています。
他の家は、立派に見えても、しばらくはとても丈夫に見えても、実は嵐がきたら簡単に流されます。
私はどこに信頼をおいているのでしょうか。
イエスの言葉に耳を傾け、それを行動で示すことはとても難しいことですし、なかなかそれができていない現実もあるでしょう。しかしみことばが私たちの生活を変えた分だけは、私たちはすでに岩の上に立っているのです。すなわちイエス・キリストという硬い土台の上に立っているのです。とてもありがたいことです。感謝したいものです。私たちは「風見鶏」(かざみどり)にならなくてもいいのです。私たちがイエスの言葉に応えられない時にでも、常にイエスに希望を持ち続けることができますように。
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野田阪神駅の付近に「松下幸之助ゆかりの地」というのがあって、覗いてみたらそこに松下 幸之助(こうのすけ、1894年 - 1989年)が1918年に最初の工場を作った跡があった(後にパナソニック、ナショナルとなる)。そこに記念碑があって、こういうことばが刻まれています。

「自分には
自分に与えられた道がある
広いときもある
せまいときもある
のぼりもあればくだりもある
思案にあまる時もあろう
しかし心を定め
希望をもって歩むならば
必ず道はひらけてくる
深い喜びも
そこから生まれてくる」

「主こそがとこしえの岩」(今日のイザヤ書)、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(福音書)ということばとかさねて考えますと、自分はどういうことに希望を置いているか、希望はどこに置くべきか、あらためて考えさせられます。

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待降節第1木
「神のみ心を行う者」
マタイ7・21,24-27

「神のみ心を行う者」はどのような者でしょうか。例えば、マザーテレサは若いときにかなり悩んだそうです。自分にとって神のみ旨はなんなのかと。修道会に残って学校の先生として働くべきか、それとも違う道に進むべきなのか。悩んだ結果、そしてさまざまな人と相談した上で、自分にとっての神のみ心がわかったわけです。晩年には、こうしたはっきりとしたお示しはなくなったと手紙のなかで嘆いていたのです。
けれども、貧しい人を助けること、祈りの生活を続けることは間違いなく神のみ旨だろうと思って、忠実にそれらを守りました。それで、しっかりとした土台に据えられた家を建てました。
神のみ心というと、それは何なのか、なかなかわからない時と場合があります。けれども、間違いなく神の御心だと思われることもあります。例えば、今日のミサに参加したこと、今日しなければならない仕事など、これは心をこめてやっていれば神様は喜ぶでしょう。
救い主は二千年前にもすでに来ているし、(ほとんど誰も気がつかなかったが)、今日も来ているでしょう。けれども私たちには見えないのです。気がつかないのです。見えるために、気がつくようになるためには、「神のみ心を行う」姿勢を育てる必要があります。待降節の観点から見て、今日の福音書はこのようなこと教えているでしょう。




待降節第1金
マタイ9・27-31

この奇跡物語はエリコの二人の盲人のいやし(マタイ20・29-34)に似ています。エリコでは、二人がイエスのあとについていくのに対し、ここでは、「だれにも言うな」と沈黙を命じられています。しかし、二人は、その地方一帯にイエスを宣教します。
この物語は盲人をいやす奇跡物語であると同時に、イエスをメシアとして認める信仰物語です。
旧約の預言がダビデの子について述べていたことは、すべて、イエスにおいて成就します。二人の盲人は旧約時代のメシア信仰に基づいて、イエスに祈ります。かれらは貧しい人たち、取り残された人たち、神をたよりにする以外に、なに一つ誇りとするものを持たない人たちです。イエスは、か
れらの信仰のゆえに奇跡を行っています。それによって、かれらはキリストの宣教者にかわります。(荒)
信仰は奇跡をおこす力があると改めて示されます。
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私たちは、今日の答唱詩編にあるように、今日の答唱詩編を見ると、そこに強い希望を感じます。27:1神はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰も恐れない。神はわたしの命の砦/わたしは誰をはばかろう。27:13 神に生きる人々の仲で私は神の美しさをあおぎみる。27:14 神を待ち望め/強く、たくましく、神を待ち望め。ところが、今の社会を見ると先はどうなるか、全く見えないので不安になります。占いを頼りにして生きる人もいますが、でもそれは一時的な気休めにすぎない。先の詩編のような歌は歌えない。救い主を待ち望むことにおいて、このように歌うことが出来ルためにはどうしたらよいか。そのために、今日の二人の盲人はさんこうになるでしょう。まず、自分は見えないということを認める。自分の力で自分を救うことはできないと気づくこと。貧しい人、弱い人のようにへりくだって、謙虚に助けを求めること。キリストに「さわって」もらうことが必要条件です。この「さわる」(haptomai)というのはなんでもない、地道な動作ですが、秘跡において行われるようなものを思わせるのです。私たちは秘跡においてキリストに触れることができる。「さわって」もらうことができるのです。

待降節第1土
マタイ9・35~10・1,5a,6-8

羊の群れは唯一の大祭司キリストによって養われます。あらゆる時代、あらゆる場所でキリストの祭司職が行われるために、弟子たちは召命を受けます。司祭は司教の按手(あんしゅ)によってキリストの祭司職を授与され、みことばと食卓の奉仕に一生をささげます。司祭は、信者たちの霊的いけにえ、信徒の一般祭司職のいけにえを一つに合わせ、父なる神にキリストの代理者としてささげます。教会はよき牧者が与えられるよう祈ります。「キリストのために生涯をささげる司祭、修道者の召命をお与えください。聖霊の恵みと力が与えられ、多くの青年があなたの招きにこたえることができますように」(召命を求めるミサの集会祈願)。

2 advent

待降節 第二月曜日
「人よ、あなたの罪はゆるされた」
ルカ5・17-26

中風を患った人は癒された。確かに体のいやしは必要であった。私たちは、命にかかわる病気にかかったら、必死になってできるだけのことをするだろう。費用が足りなければ、何とかして工夫するに違いない。また、私たちは人間関係を正しく保つためにも努力する。大きくは国際的な問題から小さくは家庭内の問題に至るまで、正常な状態を維持するためには大変た努力が払われている。しかし、人間にとってはそれらのこと以上に、神との関係を正しく持つことの方がはるかに重要である。この神との関係が正しい状態にないために、人々はそれを何とかして得ようと、昔からさまざまたことをしてきた。
 いろいろの宗教の話を聞くが、私は、キリスト教以外の宗教の話を聞くたびにいつも考えさせられることがある。それらの人々は真剣に努力しながら話をしているのであるが、彼らの姿勢は、結局一生涯が求道者のままで終ってしまうものなのである。それは、彼らの勧める道においては、「あなたの罪は赦された」という声が、いつまでたっても、どこからも聞えてこないからである。
私たちキリスト者は、この世界で、イエスから罪のゆるしのことばを与えられている。現在の我々の状態は、過去において自分がやってきたこと(罪)の結果である。例えば、毎日食べ過ぎる結果、病気を起こす。五十数年前に、東南アジア諸国を戦争に巻き込んだから、現在に至るまで不信がられることがある。過去のことは確かに重い、身動きをとれない気持ちになる場合もある。しかし、イエスのお陰でそれにこだわる必要はなくなるのです。罪の重荷から自由になれる。全く新鮮な再出発ができる。この自由を体験し、それを世界につげなければならないのはキリスト者の役割である。

待降節 第二火曜日
「迷い出た一匹を捜しに行く」
マタイ18・12-14

羊の乳は牛の乳と比べると四倍の栄養分があるそうです。つまり牛の乳でチーズを作る場合、羊の乳の四倍を使わないと同じ重さのチーズにならない、ということになる。多分そのために昔の人々は牛よりもたくさんの羊を飼っていたのかもしれない。しかも羊は小さいので小回りが聞くし、かわいくて、毛まで与えてくれます。やさしさの象徴としてよく使われている。このような「目に入れても痛くない」羊のイメージは、罪によって弱い立場におかれている人々に当てはめられている。(ステ)
 神のいつくしみは、失われた者を見つけたときの喜びに似ている。神の愛は、民と結んだ契約(約束)に忠実であるという面、すなわち、信頼するに足るかたであるという面と、心のやさしさという面をもっています。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼキエル34:16-17)
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「11月(2013年)のフィリピンの台風のあと被災地で撮影された1枚の写真に衝撃を受けた。十字架を担(かつ)ぐ女性を中心に、幼児キリストの象その他をもった数人の人々は歩いている。破壊された教会から持ち出されたものなのか。その小さな行進の図は17世紀スペインかオランダの宗教画のようで、胸をしめつける。傷ついた土地で行政が機能しないとき、帰ってくるのは宗教的感情。フィリピンの人々のカトリック信仰の強さを思った。
 思い、また、考え込んだ。中途半端に世俗化され、どこか聖性を求めながらもそれに至る道を知らず、経済に代わる生活の原理をもたない自分のような心はいつ生まれたのか。たとえばカトリック教会が人の想像力をまるごと支配しているような社会=時代には、人々は何を考え生きていたのか」
(菅 啓次郎 明治大教授、読売新聞・2013年12月8日朝刊、10ページ)

世俗化、宗教離れ、無宗教はやはり一つの迷いであり、それとして今日の迷える羊に似ている。そこから考えると、今年もクリスマスは祝われる意味は何なのか。クリスマスは伝統行事、楽しい祭りだけではない。信仰的にみれば、主なる神が迷える羊を探しに来られる。もう一度。こういうことになるのではないかと思います。
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「広い道を通せ、谷はすべて身を起こし」
イザヤ40、1-11


車が走りやすいように、カーブを減らし、高速道路のようになるべく真っ直ぐな道にします。道を真っ直ぐにするということは、曲がった道を走るより、目的の場所に速く到着するということです。
 それでは、その道を私たちの心に例えてみますと、正直で曲がっていない心には、キリストは最も早く来られます。曲がった心にもキリストは来て下さいますが、そのスピードは快速とはいえません。車は渋滞し、なかなか進みません。また、新幹線も、高い山を登らずにトンネルをくぐり、深い谷を下らずに橋を渡って走ることにより、真っ直ぐ走ることができ、スピードが出せます。この山と谷を人間の心や生活に対比させてみると、山は元気すぎる時(奢り高ぶる心や金持ちにあこがれる生活)、谷は失望する時(鈍い心や貧しさを嘆く生活)ではないでしょうか。私たちは、深い谷を少しずつ埋めることによって、高い山を低くしていかなければならないでしょう。つまり、両方の極端な状態を平均的にしていくことにより、その状態は、穏やかになります。
 キリストは柔和な心の人、公平な心の人の中に、真っ直ぐ豊かな恵みをもって宿ります。この山と谷は、私たちの日常生活を見回してみても思い当たることが一杯あるのではないでしょうか。人間関係の中で「あなた」と「私」の間に、いろいろな妨げがある時、それは、それぞれが心に抱えている曲がった道です。ベルリンの壁が崩壊したときに、ヨハネ・パウロ2世教皇様は、「"壁"ではなくて"橋"を作りましょう」と強くおっしゃいました。これはイザヤのような預言と言えるでしょう。私たちの心の中にある曲がった道(壁)を避けて通るのではなく、道を整えて"橋"を、「あなた」と「私」の間に架けましょう。お互いを信じ、信頼し、お互いにチャンスを与え会話をすること。そうすれば、「あなた」の中にいらっしゃるキリストを、「私」は優しく迎えることができるのです。しかし、このことは、私たちの力だけではできません。そのために神様に"祈り"ます。『神様、力を与えてください』と。
  クリスマスは、平和と一致の季節です。国と国の間、私たち一人ひとりの間にその心を持つことが出来るように神様に願うことは、とても大切なことです。



待降節 第二水曜日
「疲れた人、出荷を負わされた人は皆、私のもとに来なさい。」
マタイ11・28-30

? 私たちは少なからず、この世の生活に疲れ果てています。複雑な人間関係、仕事、育児、家庭生活、社会生活などなど、身も心も疲れ果てます。そういう時、私たちはどこに安らぎを見いだすのでしょう。趣味、レジャー、パチンコ、競馬、酒、あるいは、もっともっと仕事に没頭する…。しかしおおむね、もっと疲れてしまうことが多いように思います。「私のもとに来なさい。私が休ませてあげる」とは何とすごい言葉なのでしょうか。けっして他の人間には、口にできない言葉です。疲れ果てて相談に行っても、お説教されたり、よく聞いてもらえなかったり、変に同情されたりで、よけい疲れることがあまりにも多いからです。
私たちが疲れきった時、自分の心を本当に分かってくれる人のそばで、ゆっくりくつろぐことで十分なのです。何も話さなくても、疲れきった自分を、ありのままに受け入れてもらえる時、疲れがいやされていくのを感じます。そしてゆっくり休んだら、「さあ、がんばろう」と、自分の重荷をかつぐ気力がわくのです。
私の重荷はだれかが背負ってくれるわけではなく、私が背負わなければならないからです。
私も人の重荷を背負うことはできないのです。その人の重荷は、その人がになわなければならないものであって、人は人の重荷を身代わりになってになうことはできないからです。しかしそれぞれ自分の重荷をになう者同士として、互いに思いやることこそ大切なのです。
信仰とは本来、疲れた人に安らぎを与え、またその重荷をになう力を与えるものです。
疲れた人をよけいに疲れさせるお説教をたれたり、高飛び車にしかりつけたり、よけいなお荷物を負わせてはいけないのだと思います。イエス様はご自分を、人のために完全に御父にささげました。だからこそ、ご自分のもとに来る人に安らぎを与えられるのです。本当に、その人をその人として受け入れてくださるからです。エゴイストこそ、他の人を疲れさせるからです。
私たちはいったい人を休ませているのでしょうか、あるいは疲れさせている方でしょうか。
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「重荷を背負っている者は、私のもとに来なさい」
マタイ11・28-30
神の知恵イエスは、律法の重荷のかわりに安らぎを与え、神の愛のくびきを受けるようにと呼びかけます。愛のおきては難しいものではなく(Iヨハネ5・3)、イエスのため、人々のために、労苦、疲れを受けることを、かえって誇り、慰めとさせます(Iコリント15・10、Iテサロニケ2・9)。主が力づけてからである。
主は「 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40・29-31)
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疲れると頭の働きも鈍くなる。では、疲労が解消されないまま蓄積されると、どのような症状が出てくるでしょうか。
一般的に疲労というと、注意力が散漫となって、物事が考えられなくなり、うたたねをするような状態をいいます。
具体的に書いてみましょう。

・注意力の低下=間違いが多くなります。
・反応時間が遅くなる=頭がぼんやりして、反応が遅くなります。
・何かに執着する=頭が切り替えられなくなります。
・無関心=周囲のことに興味を示さなくなります。
・無気力=受身の状態で、自分からは何もしません。
・居眠り=起きているつもりでも瞬間的に寝ている時間があります。
・忘れやすい=ちょっとしたことが思い出せません。
・決断力の低下=漫然とした現状維持を続けてしまいます。
・会話の減少=話をするのがいやになります。

ひどく疲労している場合、本人は、これらの兆候を認識する能力が落ちてしまうため、疲れを自覚できなくなる、ということもあります。長時間仕事をして疲れてくると、眠くなったり、頭が痛くなったり、ミスが多くなったりします。

霊的に、この世のものに目を奪われやすくなる。世間の声に耳を奪われやすくなる。そんな私たちは、今日のイザヤ書の言葉、あるいは福音書の言葉「私に学びなさい」という力強い呼びかけの前に、もう一度信仰の姿勢をしっかり正すか、あるいは無視するか、今年のクリスマスもそういう選択に直面させられます。



? 待降節 第二木曜日
「洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった」
マタイ11・11-15

? 洗礼者ヨハネに出会って、その話を聞いた人々はたくさんいましたが、ヨハネの一番伝えたかったことを理解した人はあまりいませんでした。それだけ人間の心はにぶいのです。歴史は神の計画にそって動いていますが人間は全体図が見えてきません。そのために私たちはあまり自分の見解に自信を持ち過ぎることなく、いつも神の光を受け入れるような姿勢でいた方が望ましいのです。要するに、神は歴史の出来事、日常生活の出来事を通して人間に語りかけていますが、多くの場合は人間はその出来事の面(おもて)だけで判断して、本当のメッセージが読めないのです。
「人間に対する神の語りかけは、われわれがみなそれぞれに営んでいる生活のうちにおける出来事、われわれを取りまく世界のうちにおける出来事(…)に浸透し、そしてそれらすべてを通して、あなたにそして私に対する呼びかけ、使命となる。(…)われわれはあまりにもしばしば想いこむ、そのような語りかけなどいささかも聞き取れはしない、と。だがしかし、われわれはすでに久しく耳を蝋(ろう)で封じているのだ」(M・ブーバー、『我と汝』)。世間では「空気を読めない」という言い方がありますが、神様のことに関しては、私たちはまさに「空気を読めない」状態にいます。イエスがヨハネのことを聖書の中で教えてくれたので、私たちはヨハネが最後の預言者だと分かりました。私たちの周囲に起こるたくさんの出来事をイエスの光に照らして識別しなければならないと思います。
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「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」(12節) 天の国と言えば神の国のことです。全能の主なる神さまの国が、人間によって暴力的につぶされるはずがないではないか、と思います。神さまが支配しているところが天の国である、となると、「この世も、目には見えないが、神さまが支配しているのではないか?」と思われるかもしれません。もちろん、神さまがこの世界を支配し、治めておられるので、宇宙が法則に従って動き、存在し、地球も存在し、その中の命も保たれているわけです。主イエスは、雀一羽さえも、父なる神のお許しがなければ、地に落ちることはないとおっしゃいました。神さまは、雀一羽さえも、養い育ててくださるのです。 しかし人間はどうでしょう? もちろん人間も神さまに養われているわけです。雀と同じように、人間もまた神さまは愛し、養ってくださる。しかし人間のほうはそうは思っていない。?
毎日のようにテレビのニュースでは、人が殺されたことが報道されています。しかも変な事件が多いですから、先日のテレビのワイドショーで、あるゲストが、「神さまなんているのか、と思う」と言っていました。殺人事件はともかく、自分の理解できないことに出くわすと、神を非難し、神を否定するのです。聖書を通して神が語りかけているのに、そんなものを聞こうともしない。従おうとしない。?
神さまは、神の支配のもとで調和のとれた世界を用意したのに、人のほうが神を信じることをせず、自ら神の支配を離れていったと、聖書は説明しています。そういうわけで、神は確かにこの世の支配者であるのですが、人のほうがその支配から離れていったということです。神の支配から離れていった、神さまの支配を受けるのがイヤだといって去っていった。神を信じ、神に従って生きるところをやめてしまったのです。
さて、洗礼者ヨハネは、天の国の近づいたことを宣べ伝えました。ところが、そのヨハネは、領主ヘロデによって捕らえられ、牢獄に入れられ、処刑の日を待つばかりになっている。‥‥まさにイエスさまのおっしゃるように、天の国は、力づくで襲われているのです。天の国は奪い取ろうとされている。?
神は約束通り、天の国を持ってこられた。そのイエスさまが来られたとき、まさに人々は、天国の持ち主であるイエスさまを、暴力で襲い、力ずくで奪い取ろうとしたのです。それが人間の罪です。「神さまなんかいるものか」と思い、「このイエスというものが、キリストであるはずがない」「神はこんなキリストを送られるはずがない」と、人間の物差しで測ったのです。
相撲で言えば、ヨハネは横綱の土俵入りの、露払い(つゆはらい)役です。旧約の預言者は、言ってみればすべて、やがて来るキリストを指し示していたと言ってよいでしょう。「天の国で最も小さな者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大である」。‥‥ヨハネは天の国を指し示した人です。ですから実際にその天の国に入る者は、もっと偉大である、もっとすばらしいというのです。
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待降節 第二金曜日
「知恵の正しさは、その働きによってしめされます」
マタイ11・16-19

今日のテーマは優柔不断です。神様はいろいろな形で人々に呼びかけています。海の汚染が余りにひどくなると赤潮(あかしお) が発生し魚が死んでしまいます。大気汚染のレベルが高くなると赤ちゃんの突然死、若い母親の流産、森林の木が枯れる等の現象が頻繁に起きます。アレルギーのケースが多いことも現代社会に生活している私たちの体の機能がおかしくなっていることを示しているのかもしれません。これだけの自然からの警告があるにもかかわらず、現代人は自分の手で、自分の死の宣告を書いています。その中で、「神の知恵の正しいことは、その働きで認められる」ことになっています。つまり、もし私たちは神の知恵に従って働けば必ず良い結果があるということです。まだ希望があるというわけです。(ステ)
ヨハネは砂漠での厳しい生き方を通して、メシアの出現をしめしました。イエスは人々を食事に招き、神のいつくしみを示しました。神の業は色々な形をとっています。どれ一つとっても、知恵にみちている。後はこちらの決断を待つだけです。
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『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった』‥‥これは要するに、結婚式ごっこのことを指しているのですね。また、『葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』というのはお葬式ごっこです。神様の呼びかけに答えない人々のことがこういう風に描かれているのです。 この神様の御心が分かるでしょうか? 神様がどれほど、私たちを愛し、救おう、取り戻そう、天の国に招き入れようとして、ずーっと招き続けてこられたことが、分かりますか??
きょうのイエスさまの最後の言葉、“しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される”。
 「知恵」というのは、神の知恵、イエスさまのことです。神の知恵の正しいことは、その働きによって証明される。‥‥この言葉は、イエスさまの働きをよく見よ、ということです。イエスさまのなさっていることを、目を見開いて、よく見よ!と。
 地上でのイエスさまの歩みの行き着く先はどこですか?‥‥十字架です。ゴルゴタの丘の上の、十字架です。イエスさまの働きは、この十字架の姿に結晶しています。神の知恵の正しさは、十字架を見れば分かるのです。
 十字架、イエスさまが私の代わりにかかってくださった十字架。イエスさまがご自分の命に代えても、私たちひとりひとりを救ってくださった十字架。ここまで神は導かれる。ここまでして神様は、私たちを愛し、救おうとされているのです。この事実に、目を開いて、礼拝する者でありたい。
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メシアの到来、イザヤの時代から洗礼者ヨハネまで、長い年月待たれて、すべての預言者から告げられたメシアの到来は実際に起こった時に誰が気づいたでしょうか。ほとんど誰も気づかなかった。数人の羊飼いだけです。また、メシアが救いを成し遂げた時(十字架)、それは全人類の贖われる時、だということに気付いた人はどのぐらいいたでしょうか。弟子たちでさえ逃げていました。
こうして、私たち人間は、神のこと、神の世界となると、イエス・キリストのこととなると、本当のことは極めて見過ごしやすい資質となっています。
今年もクリスマスの祝いがあることにそれなりの意義があるでしょう。そういうことに関しても注意しないと見過ごしてしまう可能性があります。
神様はいろいろな形で人々に呼びかけています。けれども、私たちは今日の福音書の子供たちのように、さまざまな遊びを見せられても、全部勝手に断ってしまうようなことにならないように判断力を高めたいと思います。


待降節 第二土曜日
「好きなようにあしらった」
マタイ17・10-13

人間は自分勝手な生き物です。自分のつごうによって、相手をあつかい分けるのです。自分にとって必要な時は大切にしますが、そうでなければふり向きもしないのです。役に立つ時はちやほやしますが、役に立たなくなれば古い靴のように捨てるのです。自分がそういう目にあったなら、怒るくせに、人には平気でそれをし、役に立たないのが悪いのだと考えます。神についてもまったく同じです。必要な時だけ神にたのんで、必要がなくなればサヨナラなのです。
どうして人が、こんなに高慢になってしまったのかというと、聖書によれば、それは人の高さから生じたのです。神はあまりにも人を高貴につくったので、人はすっかり思いあがってしまい、神をさえ不要と考えるようになったというのです。
しかし創世記によれば、人間は土のチリで造られている。粘土からつくられたということは、人の卑しさ、低さを表します。つまり人の中には、高さと低さ、偉大さといやしさが同居しているというのです。(荒)
ですからこそ、いと高き神の独り子が、高い天から下って低い人間の姿を取ってくださったのです。神に出会うために、やはり自分の低さ、卑しさを思い出す必要があるのです。

3 advent

待降節第3月
マタイ21・23-27

祭司長・長老たちはもし「天の神様からの権威によってヨハネは洗礼を授けていた」と答えれば、そのヨハネがイエスさまを神から遣わされた方だとあかししたのだから、なぜ信じなかったのかということになる。しかし逆に、「人からのものだ」と答えれば、群衆はヨハネを神から遣わされた預言者だと思っているから恐ろしいというのです。なんということでしょうか。群衆が恐ろしい。彼らの権威とはしょせんそんなものだったのです。
 そこで彼らは、「分からない」と答えました。本当に分からなかったのかどうかは知りません。ただ、「天から」と答えてもまずいし、「人から」と答えてもまずいことになる。だから、「分からない」と言うことにしたということです。
 
 こうして彼らは結局イエスさまに出会うことができなかったのです。イエスさまを目の前にしながら。そこにいる方が、実は神の国の所有者で、永遠の命を持ち、そしてそれを与えることのできる方、神の世界のすばらしさを見せてくださる方であるのに、そういうイエスさまと出会うことができな
かった。もったいないことです。自分たちのこの世の権威にしがみつき、見栄や体裁を気にして、イエスさまとの出会いに至らなかった。
 彼らの問題は、そこに自分自身の言葉が一つもないことです。こう言ったらまずい、こう言ったら群衆からバカにされる、と、自分の立場や見栄ばかりを気にしているのです。イエスさまはそのような問いには何もお答えにならないということが分かります。
 本当は彼ら一人一人はどう思っているのか。「ヨハネの洗礼は天からの権威ではない、人からのものだ」と本当に思っているのなら、群衆がどう言うかなど関係なくそう言えばよいのです。そこからイエスさまとの本音の出会いが始まるはずです。
 マルコ福音書9:24で、悪霊に取りつかれた息子をイエスさまに助けていただくために、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫んだ父親のように。
 苦しいときは主イエスに向かって、「苦しい、助けてください」と本音から祈りましょう。信じられないときは、主イエスに向かって、「信じられません。信じられるようにしてください」と祈りましょう。主イエスは心からの祈りを、無視されるような方ではありません。なぜなら主イエスの権威は、「仕える権威」だからです。愛の権威です。それによって私たちはしっかりと支えられているのです。 nibanmati

待降節第3火
マタイ21・28-32

徴税人の頭でさえあったザアカイ、この福音を記したやはり徴税人のマタイ、それから罪の女と言われたマグダラのマリアは、それをしたのです。罪の中から、イエスの立派な弟子として変えられていったのです。だからこそ評価されるのです。
 しかもこの話は、人間の一生涯の話でもあります。と言うのも、なんとか従った兄でしたが、彼らの多くは、イエスの十字架を前にして、再び「いいえ」と断わることになったからです。徴税人や娼婦はその再びの否定の後、どうしたでしょう。大祭司や長老はどうしたでしょう。それ以外の裏切り
者ペトロはどうしたでしょう。同じように裏切ったユダはどうしたでしょう。キリストの迫害者パウロはどうしたでしょう。
 復活したイエスのもとに回心し、救われた人もいます。しかし最後まで、イエスと交わることができず、永遠の滅びにいたった人もいます。私たちの回心に完成はなく、この世の命を終える最期の時まで、生き方が問われ続けられるのです。
 この私も今、自分の持っているものを本当にすべて差し出し、投げ出してでも、神に従うことができるのかどうか、問われます。そして私たちは、この兄か弟かのどちらかでしかない。傍観者ではいられないのです。自分自身の回心を真剣に受け止め、回心の機会を逃さないようにしたいと思います。もしかしたら今日こそが、最後の審判の日かもしれないからです。
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一番目の息子は悪い答えをして、後は思い直しました。これはOKとされます。二番目の息子は正しい答えをしましたが、悪い行動にでました。これは、もちろんいけないということは皆分かっています。
昔の信心書にはこのように書いてありました。「自分が悪かったと分かったときに、直ちにみとめなさい」。この「直ちに」で、おそらく、頑固さ、つっぱり、二の足を踏む、お茶を濁すなどのことはだめだと言えるでしょう。思い直すことは悪くないのはよく分かります。例えば、車に乗っていて間違った道に入ったら、前に進むよりも、さっさとUターンして元に戻った方が自分のためになるでしょう。ヨハネは回心を呼びかけました。そして徴税人、娼婦が悔い改めた。これはよしとされます。悪い選びをよい選びに変える。私たちは最近、何かのことで呼びかけがあって、どのように答えたか、今日反省してみましょう。



待降節第3水
ルカ7・18b-23

洗礼者のヨハネは「女の産んだ者の中で、ヨハネよりも大きい人物はいない。しかし神の国では最も小さい者も、彼よりは大きい」とイエスが言われたので、私たちは分かりました。
 真面目な生活をすることが悪いわけではないのです。しかしそれだけでは足りない面があるということなのです。そういう意味では、ヨハネは人間の側から神の救いに預かろうとする道を誠実に歩もうとした最も良質の人物であったのです。しかしその道では救われないということであります。
それはあの金持ちの青年の姿にもわれわれは見ることができかも知れません。彼は救いを求めてイエスのところに来た。「永遠の命を得るためには何をしたらよいでしょうか」と、尋ねに来た。その時にイエスは「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証をたてるな、父と母を敬え」という、十戒の後半、
いってみれば、人間に関しての律法を守りなさい、といいます。彼はそれらの律法は全部幼いときから守っていますと答えるのです。すると、イエスは、「お前の持っているものを全部売り払って貧しい人々に分けてやりなさい」といいます。それを聞くと彼は悲しそうにしてイエスのもとを去ってい
ったというのであります。やはり、ここで、キリストをメシアとして認めることが必要だということでしょうか。キリストに出会ったら、その存在を過小評価しないこと、その大切さを十分認める準備が必要ということが示されていると思います。
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第一朗読のイザヤ書の美しいことばを味わってみましょう。「天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ」。これは、救い主はどのような形でこの世に来られるのかを示しているでしょう。救い主は、皆驚くような、目立つような姿でやって来るわけではない。露が降りるように、春雨が降ってくるように、静かに、やさしく、音沙汰をたてないように来てくださる。そして、露や雨のように地を実らせる、豊かにする。これは、おそらく受胎告知の時の天使のことばに反映されています。「聖霊があなたにくだり、いと高き方の力があなたをつつむ」(ルカ1・35)
次は、「地が開いて、救いが実を結ぶように」(フランシスコ会訳で、「地よ、開け」)。聖母マリアの連祷に「天の門」という呼び名があります。マリアこそ地が開いたところです。天がこの地に入ってきた門。天と地が通じるところ、交わるところ、コミュニケーションできるところです。そこからキリストが来て、今日の福音書にあるように、地を豊かにしました。病気の人、苦しんでいる人が癒されました。


待降節第3木
ルカ7・24-30

ヨハネについて、「風に揺れる葦」のように人の意見に左右される者でも、また、「柔らかい着物を着た人」のように権力に取り入って「贅沢に暮らす」ような人ではないと言います(7:24,25)。


ヨハネの父ザカリヤはエルサレム神殿での宗教儀式を誤りなく司る忠実な祭司でした。それは「罪の赦し」、つまり、神との和解を得るための神の方法のはずでした。ところがヨハネは、まるでそれが無意味であるかのように、人々を神殿から遠く離れたヨルダン川に導いてバプテスマを授けたのです。これは当時の宗教システムを破壊する革命とさえ言えます。パリサイ人や律法の専門家たちは、自分はまじめにお勤めを果たしているから神の裁きを免れると思っていたのに、ヨハネはその安心を砕きました。一方、取税人は、自分たちが当時の神殿では救われようがないことを分かっていましたから、ヨハネのバプテスマを受けて、神のあわれみにすがろうとしました。つまり、ヨハネは、儀式を守ること以前に、真心から神の前にへりくだることを説いたのです。神殿も律法も契約の箱も、聖なる神が汚れた民の真ん中に住むためのあわれみのしるしでした。神は、一方的なあわれみによって、彼らにヨルダン川を渡らせ、ご自身の国を建てようとされました。その原点に立ち返らせるのがヨルダン川でのバプテスマでした。そして、これがなければ、当時の人々がガリラヤ出身の大工のことばに耳を傾けることはあり得なかったはずです。

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「キリストは人間のみじめさを帯びてこの世に来られたとき、父の定められた愛の計画を実現し、私たちに永遠の救いの道をお開きになりました。」(待降節の叙唱)

「愛の計画」とは、今日の第一朗読イザヤ賞は述べていることです。


イスラエルの国には、それまでにたくさんの預言者がおりました。エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミア、エゼキエル、アモス、ホセア、たくさんの名前を挙げることができます。皆、遠い未来にメシアが来ると告げました。ヨハネだけは、すぐそばに来ていると。見じかにいる。

主イエスの言葉は、神秘を告げる言葉だと思います。神の国がやってくると、今までの当たり前であった考えがひっくり返されることが起こる。しかしやはり問題となってくるのは、神の国がやって来ているということを識別できるかということです。

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人々は一時的な熱狂から荒れ野に出ていった揺れ動く葦(あし)にすぎませんでした。砂漠は人々のさわめきと足跡を消し去り、悠久(ゆうきゅう)の沈黙のなかにもどっています。荒れ野の叫ぶ声も消えていくのでしょうか。そうではありません。預言者ヨハネのことばは、永遠のみことば、神の子を指し示しているがゆえに、消え去ることはありません。それによって、荒れ野(ミドバール)は、神のことば(ダバール)に耳を傾ける場、神に立ち帰る場となります。(荒)クリスマスを前にして、私たちも今日ちょっとした沈黙の時間をつくり、荒れ野を体験したいものです。
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ヨハネは荒れ野で活躍しました。荒れ野というとピンとこないかもしれません。福島の第一原子力発電所の周りに20キロの周りに誰も住めないことになっています。今の東京都知事、石原慎太郎さんが40年も前に、『化石の森』(1973)という小説を書きました(受賞もしました)。
たとえ表面的にははなやかに活動し、快適な生活をおくることに恵まれたとしても、神を見失った心は、精神的には不毛な荒れ野といえます。また、そうした意味で、大都会は、たとえそこに、現代の技術の粋(いき)をつくした高層ビルが乱立し、どんなに多くの人々が群がってこようとも、神を見失っているかぎり、荒れ野といえます。利己的な欲望と快楽を求めながら、互いの信頼を失った人々の群がる大都会は、石原慎太郎の「化石の森」となっています。また、こうした荒れ野に呼びかけ、神への目覚め、悔い改めを訴えていくのが、「荒れ野に叫ぶ声」なのです。ヨハネは、その当時の人々の心に、神の姿が消えかけている現実を見つめていて、人間の救いのために叫ぶのです。
「あなた方の中に、あなたがたの知らない人が立っている」と。
神の恵み、神の愛は、私たちを救うために、私たちの中にすでに注がれているのです。この恵の現実に目覚めて、私たちも精神的な滅び、不毛さから立ち上がりたいものです。

待降節第3金
ヨハネ5・33-36

まことの光が昇るまで(イザヤ42・6、49・6、62・1)、ヨハネはメシアを指し示す灯(あかり)として輝いています。その証しは、イエスの業や父ご自身の証しにくらべるなら、人からの証しにすぎず、相対的なものです。しかし、その証しは、私たちを光そのものへ導いており、その証しを受け入れないなら、光そのものを拒絶することになります。(荒)取るにたらないと見える準備をしないとクリスマスの恵みに預かれないのです。「イエスの誕生物語のように、救い主を信じる者の在り方は、繁栄を求め続ける現代世界にあって、愚かなほど慎ましく見えるかもしれません。けれども神さまがお始めになった出来事は、神さまが完成してくださると信じることもできるのです。」(嘉松宏樹)


待降節第3土
マタイ1・1-17


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12月17日以降は当日のページ参照

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December 17 - 24

待降節の前半から後半へ

待降節は12月17日から後半に入ります。この日から24日にいたる週日は降誕前の八日間として、いっそう直接にキリストの誕生の準備に当てられます(『典礼暦年と典礼暦に関する一般原則』42参照)。福音を中心とした聖書朗読は降誕祭が目前に迫っていることを感じさせる内容となり、司祭が唱える叙唱も主の降誕に直接結びつく出来事を述べるようになります。また、アレルヤ唱の旋律も変わり、待降節の前半から後半に入ったことがはっきりと分かります。
 
12月17日
マタイ1・1-17

イエスは、当時、偉大な人物として評判の“時の人”だっただけではありません。世の初めから神のうちにあり、救いの計画の中に預言されてきた方です。連綿とつながっている系図の中には、立派な人ばかりではなく、不名誉な人の名も記されています。すべての人の救い主となるために、何も包み隠すことなく、人間の弱さの中に入って来られたのです。人となってくださったイエスよ、あなたのうちに神の限りない愛を悟らせてください。sese04
主イエス、私たちの罪の只中に来て下さったことを心から感謝します。今日もあなたの救いの業を喜んでほめ歌います。sese05
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系図は、イエスがダビデの子孫であることを証明しようとしています。淡々と語られていく祖先の名を通して、あるいはタマル、ラハブ、ルツ、ウリアの妻ベトサベなどの女性の名を通して、神が私たちとともにいてくださる(イザヤ7・14)、ドロドロとした歴史を通った、罪びとと連帯していることが伝わってきます。(荒)
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「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」‥‥実はここに全新約聖書のテーマがあります。「主なる神様が、アブラハムと結んだ契約をダビデが受け継いだ。そして、それがさらにイエス・キリストへと至った」、ということになります。 つまりこれは、未解決のままいったん閉じられた旧約聖書の扉が、開かれた、ということなのです。そのむかし、アブラハムと主が交わした契約、ダビデにされた約束、それが尻切れトンボのままわけが分からなくなってしまったのではないということです。‥‥私たちに当てはめて言えば、どうしたら救われるのか、私たちはどこに向かっているのか、それが不透明なまま終わってしまっているのではない。
聖書を探偵小説に例えると、犯人はみつからないまま終わるのではない。
 今、ここについにその答えを与えるページが開かれたのです。イエス・キリストというお方、ここにいたって解決を見るというのです。それが1章1節の意味するところです。ここに救いがあります。マタイは、旧約聖書の続編をここに書いているのです。(ちなみに、「旧約聖書続編」と名の付いたものが出回っていますが、正しく言えばそれは「続編」ではありません。新約聖書が本当の続編です。
)‥‥神さまが一度約束されたことは、決してうやむやになったのではなかった。イエス・キリストにおい て果たされたというのです。
 私たちは、この世のはかない命を、先行き不透明なまま滅びに向かって歩んでいるのではないのです。救いの扉が開かれたのです。イエス・キリストによって成就した神の約束の中を歩むことができるのです。
 その約束のしるしが、十字架です。キリストの血潮による平和と永遠の命。アドベントはこのことを私たちに向かって約束してくれているのです。


12月18日
マタイ1・18-24

ヨセフは、マリアとの結婚を待っていた婚約中に、主の天使から、マリアが聖霊によって受胎していることを告げられます。そこで、身を引こうとしますが、命名権をもつ父としての使命を与えられます。思いがけない出来事に直面し、世間の評判も神に委ねて、全人類の救いにかかわる大きな任務を
引き受けたのです。ヨセフのように、心を開いて、神の招きに応える力と助けをいただくことができますように。sese04
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「信仰」というものを考える時に、たぶんにそういう人間の目から見たら、確実には思えないことを受け入れるという面があるのは事実です。
 もし神の言葉が受け入れやすいものであったなら、信仰というものはいらないのです。たとえば、「神さまを拝むには、1年に1回初もうでをすればよい」というならば簡単なことです。何の抵抗もなく、世の人々は受け入れるでしょう。しかし、主の天使はヨセフに、簡単には受け入れがたいことを言われました。
 そこで、その天使の言葉が、本当に主なる神様の言葉であるかどうかが、いったいどうやって分かったのか、ということになるのです。 これが神の言葉であるのかどうか、ヨセフはいったいどうやって判断したのでしょうか。
 そのことについてきょうの聖書の箇所には、次のように書かれているのです‥‥(22-23)「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 ヨセフは、これらのことがイザヤ書に預言されていた「インマヌエル」=「神は我々と共におられる」という言葉の約束の成就だと信じ、その共におられる神にその後のすべてをゆだねてイエスさまを身ごもったマリアを迎えたのです。
 私たちも、インマヌエルの君、共におられる神であるイエスさまにゆだねて、その主イエスにすがりながら歩んでまいりたいと願います。そこにあかしがうまれます。

12月19日
ルカ1・5-25

神の前で正しい人はすんなりと道を進むことができると、思いがちですが、エリサベトとザカリアの例を見ると様々な心配がありました。
われわれが神を信じることは気がかりがなくなることではありません。日々の心痛(しんつう)の中から、神のみ旨を見出し、従うことでしょう。
主よ、困難な状況の中で示されるあなたのみ心を悟り、行なう力をお与えください。sese05
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ザカリヤは信じられなかった。それに対して、天使は、今までお前が祈り願ってきたことが実現するというのに、どうして神の言葉を信じなかったといって、ザカリヤを叱り、そのために「お前は口が利けなくなる」と言われるのです。そうしたことを背景にして、マリアに対する受胎告知、御子イエスの誕生の告知が語られているのです。ザカリヤの不信仰に対して、マリアの信仰が対比されているのです。
神を信じるということはどういうことでしょうか。それはマリアに天使がいわれましたように、「神にできないことは何ひとつない」という事を信じることです。ザカリアはこの時、その信仰をもてなかったということです。ザカリアは子供が与えられるようにと祈っていたのです。しかし子が与えられなかった。そしてとうとうもう年をとってしまった。もうその時、ザカリアは、「ああ、神にもやはりできないことがあるのだ」という心境になっていたのではないでしょうか。「やはり」というのは、われわれ人間と同じように、「やはり」ということです。「やはり、神様にもできないことがあるのだ」、これはもはや神を信じていないということです。神を自分たちと同じ人間のレベルに降ろしてしまっているということです。それが自分達に子が与えられると告げられた時に、そんなことは信じられません、というザカリアの言葉です。この時、ザカリアの信仰というものが暴露されてしまったのです。
 信仰とは、神にはできないことは何一つないということを信じることであります。しかし、われわれがそのことを、自分達の人間的な浅はかな思いで考えようとすると、自分達の利己的な、自己中心的な思いで、考えようとしますと、われわれの信仰は行き詰まってしまうのではないでしょうか。ザカリアがそうであったように、熱心な信仰もやがて諦めの境地になってしまうのではないでしょうか。われわれはすべてのことをあまりにも人間的な思いで、ある時には人間的な合理主義的な考えで、考えようとするから、処女降誕なんかばかばかしくて信じられるかということになるのではないか。復活なんて信じられるかということになるのではいか。神はわれわれの浅はかな思いよりも、もっと深くお考えになって、われわれの祈りに応えようとしているのかもしれないのに、その神の御心を知ろうしないで、神さまを乗り換えようとしていないか。神を信じなくなっていないか。
マリアは天使から「神にできないことは何一つない」と告げられた時に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、ただちに告白しました、その信仰をこのクリスマスを待つ待降節にあたえられたいと思うのです。
Ekyamada1/luke1a.htm
私たちは、人間的な力に信頼をおくことがあります。その態度を改め、ゆるしを願いましょう。
 

12月20日
ルカ1・26-38

「恵まれた」とはどんな意味でしょうか。自然に恵まれたとか、環境に恵まれた、健康に恵まれたと言いますが、今日の福音を見ると、恵まれるとは主と共にいることです。今、主と共にいる、その恩恵を一層深く悟ることができますように。sese05
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私たちには、いつも恐れというものがあります。将来への不安、生活の不安、年老いていくことへの不安、死への不安。この恐れ、不安というものに、マリアもヨセフもけっして無縁ではなかった。そのことにほっとする思いもします。神様に信頼するということは、自分の計らい、計画を捨てることでもあります。しかしこれがなかなかできません。その代わりに、金、学歴、健康、保険、そして外国であれば銃、国レベルともなれば武力。そのようにいろいろなもので身を固めようとします。あるねずみは、いつも猫を恐れてびくびくして生活していました。そこで神様にお祈りしまして猫にしてもらいました。これで安心と思いきや、今度は犬にいつもほえられるようになりました。
そこで虎にしてもらいました。これで一安心と思いましたが、そうしたところ今度はハンターに狙われるようになりました。そこでやっぱり神様に頼んでねずみに戻してもらいました。 この話は何を言っているのでしょう。
 私たちはいつも金・地位を得ることによって、力を身につけ、大きくなっていくことによって安心を得ようとします。しかしそのようにしてもきりがない。むしろより大きな敵に狙われやすくなるのです。私たちにとって最大の武器は、そのようなことよりむしろ、小さいままであったとしても、神さまにしっかり信頼していく。そのことの大切さなのではないでしょうか。
 いつも主の僕であることを忘れずに、今のありのままの弱い自分であっても、それでもすべてを完全に支配している神様、私をそのようなものとしてここに置いてくださっている神様をすっかり最後まで信頼すること。そして恐れずに今の場を受け止め、そこでしっかり立って歩んでいく。そのことが大事です。
 人生にはいろんな荒波が襲います。時にもうだめ、「どうして」と思うことがあるでしょう。しかしマリアやヨセフが、そしてイエスさ
ま自身が最後には、神様に委ね、自分を明け渡した。そのことを思い起こし、また神様のみ前にしっかり立ちなおして歩んでいきましょう。神様にはできないことは何一つないのですから。


12月21日
ルカ1・39-45



現代社会の大きなテーマは、世代間格差とか世代間の連帯です。今の大人の世代は、国レベルで、大きな借金をつくって、今日生まれる赤ちゃんはすでに何百万円の借金をかかえることになるということとか。原子力発電で何百年も続くゴミをつくってしまって、次の世代はそれを背負わなければならないこと。今の世代は、石油など、資源を使い過ぎて次に世代は困るだろう、と言われているようなことです。 
これでは、アンバランスが出てきて平和な社会は生まれないでしょう。そのために、世代間の連帯が必要です。 
今日の福音書のマリアはまだ二十歳になっていないと言われています。エリザベトは、子供をうめない年齢で、60をこえているでしょう。世代の違うこの二人の女性の美しい出会い、助け合いは今の社会の問題に光を投げかけています。

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ダビデが「契約の箱」をエルサレムに運んだように(Iサムエル6・21、IIサムエル6.12)、マリアは新しい契約の箱となって、神の子を、「ユダの町」(恐らくエルサレムの西6KM離れたAin-Karim)の方へ運びます。「祝されよ」というエリサベトのあいさつは、イスラエルの母デボラ(士師5章)、ユディト(ユディト13・17-18、15・9-10)と同じように、勝利をもたらす女性への賛歌になっています。
ヨハネは胎内で、主の訪れのために喜び踊ります(ダビデが契約の箱の前で踊ったように。ヨハネはイスラエルを代表している)。契約の箱が三ヶ月間、オベド・エドムの家にとどまり、祝福をもたらしたように、マリアも三ヶ月間とどまり、恵みをもたらします。契約の箱が象徴的に示していた「神の現存」は、明白に、イエスご自身の存在によって示されるのです。(荒)
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人を受け入れるエリサベトの態度は素晴らしいものです。彼女の胎内の子が、最も敏感にマリアの挨拶の声に救い主の来訪を感じ取り、その動きに促されて、エリザベトはマリアとその子イエスへの賛美を声高らかに口にします。われわれも出会う人々のうちにキリストの来訪の声を聴き、受け入れていくことができますように。sese05
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私たちは生きている間、たくさんの人々と出会います。利己的な出会いの場合は長続きしませんが、喜びや悲しみ、労苦と楽しみを共有する出会いなら、深く心に残ります。マリアとエリサベトの出会い、それは、互いに力と勇気を与える美しい出会いではなかったでしょうか。その出会いの中に、あらゆる難しさを越えるための慰めと励ましがあったことでしょう。今日もそのような出会いに気づかせていただけますように‥‥。
sese04
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マリアも、エリザベトも「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方である」。その点でキリスト信者の模範になる方です。
私たちはどれほど主のおっしゃることは実現すると信じたものでしょうか。主のおっしゃること、つまり聖書に書かれていることがらを私たちはどれほど信じるものになっているでしょう。いまだ単に、良いことを記した書物ととらえているだけで、それを生活の中心においていない、肉となっていない、と言うことがたくさんあるのではないでしょうか。
 物理学の用語で、「応力」という言葉があります。応じる力と書きます。その意味は簡単に言えばこう言うことです。
 皆さんの座っている椅子。1人で座っているのもあれば、3人座っているのもあります。当たり前のようですが、これは不思議なことです。 一人が座っているとき、椅子はちょうどその1人を支えてびくともしません。なぜでしょう。実は50kgの重さが椅子にかかったとき、椅子の方からもまったく同じ50kgの、1人を支える力が下から上に出ているのです。だからこそ椅子はつぶれることもなく、また人を飛び跳ねさせることもなく、ちょうどぴったり支えることができるのです。
 2人が座ります。やはり同じです。100kg人が座って重荷がかかった時、椅子の方からもまったく同じ100kgの、2人を支える力が出ているのです。今度は3人が座ります。すると今度は椅子からは150kgもの、3人を支える力が出てくる。
 どれくらいの重さが椅子にかかっているか、それがその人の信仰の度合い。この椅子の人間を支える力が、神様から発せられる力。そう捉えたらどうでしょう。椅子はとても頑丈で、300kgの力が掛かってもつぶれることはありません。なのにほとんどの人は、その椅子に、中腰で、恐る恐る、そっと座っているだけです。自分の足に頼って支えようとして、腰からすっかり、じっくり自分の全体重をかけて座ろうとしていません。そのために人はいつもふらふらしているし、また椅子の方も、力を出しきらずに置かれているだけ。そんなことがあるのではないでしょうか。
 私たちはこの椅子にどれだけ腰を据えて座っているでしょうか。自分の足を頼りにし、椅子に深々と座ろうとしないうちは、けっして椅子が本当の力を発揮することはないのです。しかもこのように信じると言うこと、それは本当は簡単なことなのです。自分の足を頼りにすることをやめて、自分で何とかしようとすることをやめ、心配することを忘れ、恐れを捨て、すっかり神に任せ、深々と座ってみたらどうでしょうか。それが主がおっしゃることは必ず実現すると信じるものの姿です。すべて重荷を置いて、椅子に座りなさい。そうイエス様は呼びかけておられます。


12月22日
ルカ1・46-56

誰でも自分が身分の低い者として扱われることを厭うでしょう。自分をそのような者と認めることは、難しいことです。しかし神の中で喜ぶためには自分の低さ、弱さ、限界をよく知る必要があります。自分の弱さの中で神の働きに委ねることができますように。sese05
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このマリアの賛歌をよく味わってみると、マリアがどんな信仰をもっていたか、知ることができます。私たちが幸せだと感じるのは、だれかが自分を愛してくれているとわかった時です。だれかが自分を認めてくれたときのうれしい経験もあるでしょう。しかし、もっと幸せなのは、他の人を愛するとき、認めるときです。
マリアは幸せな思いでしたが、神もまた、喜ばれたでしょう。神の喜びとなるマリアのような信仰を与えてくださいますように‥‥。sese04
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マリアと心をあわせて、神の恵みを賛美しましょう。高ぶるものがしりぞけられ、神のみをたよりにする貧しい人々が選ばれます。その選びも、恵みをすべての人々にもたらすためです。恵みそのものであるキリストを宿したマリアが幸いなのは、その恵みをすべての人に与えようとされるからです。(荒)
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イギリスの貴族院の一人であるロングフォード(Longford)侯爵の語ったことですが、ある人は謙遜について本を書きました。そして、「謙遜について最もよい書物はどれですか」と聞かれて、「じつは自分が書いた本がベストだ」と答えたそうです。おかしな話ですね。自分の謙遜について自慢するのは矛盾ですよね。さて、今日の福音書の中でマリアは、「身分の低い、このはしため(は)、いつの世の人も幸いな者と言うでしょう」と言っています。マリアも自分の身分の低さについて自慢しているでしょうか。そうでなければ、違いはどこにあるのでしょうか。マリアは、神に対する身分の低さを言っています。「主が目を留めて下さった」。神に目を向けて初めて謙遜になれます。神を信じない人は本当の意味で謙遜になれません。
クリスマスの喜びを迎え入れるために謙遜でなければなりません。人の目ばかり気にしていて、人の評判ばかり考えては謙遜なれません。神の目を気にする必要があります。



12月23日
ルカ1・57-66

名前をザカリアと名付けるのはその時代の慣習ですが、エリサベトは頑固に「いいえ、名はヨハネになければなりません」と断りました。
神に従うためには、世の習慣に逆らわなければならない時があります。私たちにも、エリサベトのように神に従っていく勇気が与えられますように。sese05
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しかし洗礼者ヨハネは、自分はメシアではない。偉くなんかない。イエス様こそメシアで神の子だから偉いと、率直に語りました。「自分
はただの人。イエス様の履物をお脱がせする価値もない。イエス様こそメシアなのだ」と言ったのです。
 指揮者バーンシュタインは、一番難しいパートを問われて、第2ヴァイオリンと答えました。けっして目立って音を奏でる第1バイオリンではなく、かと言って技量も同じものを持ちながら、それでも第一ヴァイオリンを引き立たせる第2ヴァイオリンの役こそ、一番難しいと言ったわけです。
 考えてみれば私たちは誰も第二バイオリニストです。第一ヴァイオリンであるイエス様を引き立たせるための。そうでなく自分が何よりも目立とうとするときに、いろんなカルト的な誤りが起こってきます。 また私たちはすぐ自分のすることの実りを求めます。しかし働いてくださるのは神である主です。主が働いて実りをもたらしてくださることを信じ、実を結ばないように思えるときも、自分のすることを地道にしていく忍耐を持ちましょう。
 そのような地道なヨハネとの再会を機に、イエス様は30年の隠れた生活から、世に出て、宣教活動を始めます。イエス様もそもそも人間になったときから謙そんな生き方を始めたのでしたが、それは十字架にまで降ることによって、さらに完全に示されていきます。
 私たちもまっさきにイエス様のみを指し示しましょう。イエス様よりも自分のことを先にすることのないように気をつけましょう。そしてイエス様のみを伝えることに専念し、自分については何も期待しないときにこそ、天の報いがあることを信じましょう。
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「教会の祈り」(聖務日課)の一番最初のことばがあります。「神よ、私の口を開いてください」、「私はあなたの賛美をささげます」。これは、「一日の初めに用いる」とあります。つまり、神を賛美するために、まず口を開いていただく必要があります。今日の福音書のザカリアは、「口が開き、神を賛美しはじめた」とつながります。ザカリアは年をとった祭司で、長年自分の任務を忠実にこなしてきた人です。けれども、神の訪れを受けたとき、それを信じなかったために、口が閉ざされた。順番に従って神殿でいけにえを捧げながらも、しかし、神の賛美をとなえることができなくなった。ザカリアは、おそらく長い人生の中でマンネリ化していたかもしれない。神のことを諦めていたかもしれない。そしてその諦めは馴染み深いものになっていたかもしれない。私たちもおなじかもしれない。長い信者生活の中で、神の訪れを受けて(例えば、「その人を許しなさい」)、信じなかったために、心から喜んで神を賛美することができなくなったことはあるのではないでしょうか。クリスマスを迎えて、喜びのうちに来られる救い主を賛美することができるために、やはり口を開いていただく必要があります。ザカリアのように、自分が受けた神の訪れに戻って、それを受け入れる、言われたとおりにすることによって口が開かれる。

12月24日
ルカ1・67-79

ザカリアの賛歌はとてもスケールの大きい、個人的なことはほとんど出てきていない、イスラエルの民、神様の大きな契約・救い、イスラエルの民を越えて世界に約束されている、そういう契約が前進しているということを歌っているのです。
 私たちは弱い者で、広い視野を持ちなさいといっても、なかなか持ちえない者であり、また一方に、身近なところを大事にする。自分の生活や家族の生活を大事にしていく。そのこと抜きに神様の救いの歴史に預かるということはないといっても良いでしょう。
 でも、自分一人の生活や自分の家族だけの生活ではない。足元の生活をしっかり見つめることによって、そこにクリスマスの出来事は新しい出来事を起こしてくださっている。2007年のクリスマス、私たちもよくよく身の回りを見ますときに、きっといずれかの形で、神様が救いの出来事を新たに起こしてくださる兆しが、私たちの生活の中にはあるはずです。
 クリスマスの出来事はステージや劇の上で向こうで行われていることを、こっちで眺める、そしてそれが済んだら、またもとの生活。クリスマスの出来事は、そういう出来事ではないのです。私たちを巻き込むんです。
 そして私たちの喜びに満ち溢れているとはいえない楽しいことばかりとはいえない、つらいことや、どうしていいかわからないこと、よくよく思いを寄せると本当にどうしたらよいかわからない、そのような只中に主が来たりたもうて、主の御力によって私たちの閉塞(へいそく)状況が変えられる。
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ザカリアは主の天使に、合理的(常識的)な質問をしました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」そして口が利けなくなりました。しかし子供の名前を付ける時、非合理的な答えで口が開きました。こうして今日の福音の預言をしています。神の道に従う時、非合理的な、理解できない、説明できない場合があります。
われわれもザカリアのように、自分の考えをはるかに超える神を知り、賛美することができますように。sese05
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ザカリアの預言の歌を聴くと、彼が神の協力者になったことがわかります。ルカ福音書の初めから、神は協力者を探しておられます。最初にザカリア、次にマリア、その次は、私かもしれません。
神は私たちに協力を求められます。私たちは皆、例外なく、神の協力者です。さて、私は、協力しているでしょうか?sese04
どういう事柄で協力するようによびかけられているでしょうか。

Feriae Nativitatis et Epiphaniae

12月26日(月) 聖ステファノ殉教者

マタイ10.17-22
 
「話すのはあなたではなく、あなたがたの父の霊である」ステファノは反対と迫害を受けましたが、それはかつてイエスが弟子たちに予告されたことでした。そして、「最後まで耐え忍ぶものは救われる」ことを確信したステファノの最後は、イエスの十字架上の姿と二重写しでした。神の霊に満たされ、神が語る言葉を授けられたのです。
主よ、あなたの霊に生かされて、迫害する者のためにゆるしを願い求め、イエスの永遠の命に与ることができますように。
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この世の価値観と逆行して生きるとき、私達はしばしば孤独におちいります。そのような時、父の霊が私の内に注がれていることに信頼し、さまざまな困難に惑わされないように心を鎮め、忍耐のうちに授けられる力に身をゆだねて生きるようにとイエスは諭して下さいます。何事も待つことができず、世俗的知恵を巡らして、何とか自分の力で生きて行こうとしがちな私達に「待つこと」、「ゆうだねること」の大切さが身に浸みます。
主よ、あなただけを頼りにして生きてゆく勇気と忍耐をお与え下さい。
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いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかったいのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった(星野富弘、『鈴の鳴る道〈花の詩画集〉』)



12月27日 聖ヨハネ使徒福音記者

ヨハネ20.2-8

ペトロより速く走って、先に墓に着いた弟子。そして、「イエスの頭を包んでいた覆い」の場所の違いを、「見て、信じた」とあります。
私たちも、日常の中で起こる出来事を、先入観なく、事実をそのまま受け入れて、神の働きを素直に信じることができますように。
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日常生活の中で、時として、思いもよらない出来事が起こり、全く新しい目で物事を見るように招かれる時があります。今まで持っていた価値観、こだわり、執着を捨て、新しい目で見ることが出来たとき、はじめて、その中に隠された真実を見つけることができます。
この信仰の眼を通して受ける宝は、すでに私達の心の奥深くに与えられていたのではないでしょうか。
主は今も生きて私達の生活に関わってくださっているという現実に心の目を開かせ、主をより深く信じることが出来ますように導いてください。
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ヨハネは神の子の受肉、上からのキリスト論を述べましたが、同時に、イエスの人間性、肉であること、すなわち下からのキリスト論を強調しています。私たち人間が神になるという神化(theosis)の思想は、アレキサンドリア(エジプト)をはじめ、小アジアのアンティオキア(今のトルコ)に影響を与えました。イエスの栄光は、この地上ではベールに覆われていました。父のもとにのぼり、栄光を受けられる復活では、もはやベールは必要でなくな
ります。巻かれているベールを見て弟子は復活の神秘を信じたのです。(荒)


12月28日 幼子殉教者

マタイ2.13-18
 
「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)。「損する人があれば、そのために得する人もある」。ホロコスト、ロシア革命、中国、ミャンマーなど。
一人の権力者の罪によって幼子たちが殺害され、母親たちの嘆きと声なき幼子たちの叫びが、聞こえてきます。
命を与え尽くして信仰の賛歌を捧げている人々を思い起こし、私たちの行いの中に信仰を表す恵みを願います。
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人生には、「こんな筈ではなかった」という思いにかられながら、当然の権利も主張できずに耐え忍ばなければならない時期があります。そのような時、なぜこのような苦しい目に会わなければならないのか、不当な扱いを受けなければならないのか、などと思い勝ちです。
しかし、何か目に見えない力に身を任せることができて、その時期を何とか通り過ぎることができたとき、イエスが共にいてくださったこと、確かに自分は守られていて、自分の人生で救いの業が成し遂げられたことを感謝の内に感じるときがあります。
人の思いをはるかに超えた幸せにあずかることを約束してくださった主よ、不条理と思える苦しみをもあなたと共に乗り越える力をお与えください。
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北朝鮮の今の状態でたくさんの子供が餓死していると言われいます。また、今月は、真珠湾攻撃の70周年にあたります。これもたくさんの犠牲者を出しました。なぜ神様はこんなこと許しているのでしょうか。これは、哲学的にも神学的にも難しい問題なのですが、簡単に説明してみます。人間には血圧があります。血圧は上がりますと具合悪いので下げないといけません。食生活を変えたり、薬を飲んだりします。けれども、無理やりに下げるととんでもないことが起こります。やはり、自然のリズムや条件に合わせなければうまくいきません。人間にはある程度の自由がありますが、同時に自然に従わなければなりません。神様に従わなければなりません。Von Balthasarの言う「有限的自由と無限的自由のドラマ」(Theo-Drama, II)。ヘロデ王もキム・ジョンイルもこの点は一緒です。二人とも自分の限られた自由は絶対と思って、好き勝手に人の命を扱います。自分を神にしてしまっている。人間の自由はうまく使われるためには、神様の自由と相談しなければならない。そうしないと、とんでもない犠牲者を作ってしまします。イエス様の到来はこの世に光をもたらしました(第一朗読 参照)。その光で闇も見えてきました。人間が神を無視することによって、自分自身を神に仕立ててしまいます。こういうことを悟る人は一人でも多く増えたら、これ自体は一種の購いであり、救いとなります。


12月29日 主の降誕節 第5日

ルカ2.22-35


イエス様が30歳になったころは、安息日に自分の町ナザレの会堂に入り、イザヤ書の一ヶ所を朗読した後、「今日、この聖書のことばは実現した」(ルカ4・21)と話した。イザヤの告げたメシア的な働きはここにあるということですが、認めてもらえなかった。むしる、町から追い出されて崖っぷちから皆落としいようしました。
それなのに、今日の福音書のシメオンは、赤ちゃんを見て、これは「イスラエルの慰め」だとさとった。不思議ですね。赤ちゃんはこれからどうなるのかわからないでしょう。元気に育つのかそうではないのか。どうしてシメオンは断言できたのか。
シメオンは「正しい人で信仰があつく」、「聖霊がかれにとどまっていた」とあります。
たとえてみれば、これはモーセの「燃える柴」(出エジプト3)の体験に似ている。柴が燃えるが「燃え尽きない」(つまり、神と被造物は共存できる、非競争的関係)。これは、モーセの神体験、召命を受ける時です。シメオンも慰めを受けて、赤ん坊について証しする使命を受けていた。、
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シメオンが腕に抱いた幼子は、すべての人のために与えられた救いの光です。一緒にこの幼子を見つめてみます‥‥耳を澄ましてみます‥‥。
そこに、闇を照らす光、私たちへの神からの語りかけが与えられているのです。
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ごく当たり前の日々の暮らし、その中で行われる日常のしきたり、そこに送られてくる神からのメッセージ。絶えず祈り、「待つ」ことによって私達の心は敏感になります。
自らにあたえられた使命に気付き、定められた時を見逃すことのないように、主よ、あなたの救いの光を私達の上に照らしてください。


12月30日  主の降誕節 第6日

ルカ2.36-40

先週もらった名刺にある人の様々な情報がのっていました。「どこそこの大学」、「何々研究室」など。一週間前なのに今は何も覚えていません。今日の福音書ではルカはアンナ預言者について大変詳しい情報を伝えています。ルカはアンナ預言者の名刺をもらったのかなと思ったりします。ルカの情報源は何だったでしょうか。
専門家(Ratzinger, L'infanzia di Gesu', p. 24-25, Joachim Gnilka)によりますと、ルカ自身ヒントを与えています。2章51節にこのようなことばがあります。「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(2章19節参照。「思い巡らしていた」)。母マリアはルカの情報源だったのです。確かに、お告げの場面を伝えうるのは、立ち会う人間はいなかったので、マリアだけでしょう。
マリアはすべてを心に納めて、思い巡らしていたのは事実なのか、それともルカはでっち上げたのか。恐らく、イエスの死と復活の後に、イエスは生まれたのはどうだったのか、子供のころどうだったのか。皆興味を持ち始めたでしょう。それで、母マリアは親戚や家族の人びとに伝えた事柄は伝承になってルカの情報源となったと言われています。教会の信者さんでも、子供は洗礼を受けた時に、神父は誰だったのか、誰が立ち会っていたのか、母親なら何十年経っても覚えるでしょう。
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女預言者アンナは、「救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」私たちは、何を信じてよいのかわからない情報過多の時代に生きています。幼子に心を開き、その語りかけを聴くことができる私に戻らせてください。
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特別な実を結びそうも無い平凡な日々でも、心の深いところでかき消されることのない希望、憧れ、渇き、何かを求め続けている自分の心。そして、やっと気付きます。その何も生まれてきそうもない日常生活を誠実に生きる中にこそ幼子イエスと出会い、主とともに成長し、イエスの弟子となる恵みに満ちた道があることを。
主よ、わたしが与えられた場で感謝のうちに、真心こめて生きることができるよう支え導いてください。
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シメオンもアンナも共に、信仰厚く祈りの日々を過ごしていた人であった。
私たちも日々の生活の中に祈りの時を持ちたい。人に知られることの少ないガリラヤのナザレで、幼子とマリアとヨゼフの生活が祈りに満ちたものであったように、神の恵みに包まれるために。
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聖家族

「私は父の家にいるのは当たり前でしょう」。しかし、「両親はイエスのことばの意味はわからなかった」とあります。これは、マリアがお告げの時以来、イエスが神の子であることを知っていたことと矛盾するものではないとおもいます。イエスが神の子であると十分分かっていても、それが実際の生活の中でどのような形をとり、どのように展開していくか、その具体性に関するかぎり、マリアにもヨセフにも明らかでなかったということなのです。甘いつながりの中に、ともすると憩(いこ)い、しがみつき、ときにはそこに眠り込んでしまう私たちにとって、現実の中で、自分たちの究極が、神のみ旨の中にあり、神に向かうものであることをみつづけるのは、ほうんとうに難しいということなです。互いのつながりを大切にしながらも、神に向かう旅であるという人生の現実をしっかりとみつめて生きるという課題が、マリアとヨセフにも私たちにも与えられているのです。



12月31日 主の降誕節 第7日

ヨハネ1.1-18
 

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」「わたしたちの間」とは、私たちの家庭・職場・教会・地域‥‥人々の出会いと交わりの中でしょう。
今も宿り住んでおられる神を、今日も見つけることができますように。
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「言は肉となった」天地創造はまず「光あれ」という神の言にはじまりました。今日の福音では「言の内に命があり、命は人間を照らすひかりであった。」とあります。
洗礼者ヨハネは光であるキリストを人々に証するために遣わされました。
そして私たちも、先駆者、預言者と同じ使命をいただいています。
主よ、今年もずっと共にいて、恵みで満たしてくださったことに感謝と賛美をささげます。
来たる新たな年、あなたの恵みを一層深く悟り、救いを求める周囲の人々に神の愛と真の喜びを伝えることができますように。
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私たちは善きにつけ悪しきにつけ、両親の言葉によって育てられます、神も“ことば”によって私たちを育てます。しかしそれはいつも善です。わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。耳を傾けて聞き、魂に命を得よ。(イザヤ55・2-3)神のことばそのものであるイエスはその全てをもって父である神を示しました。
それは私たちを神の子とするほど、恵みと真理に満ちている方です。


1月 2日 主の降誕節 主の公現前

ヨハネ1・19-28


イスラエルの人々は、ヨハネのもとへ祭司やレビ人たちを送って、ヨハネがどういう人なのか尋ねさせた。わたしたちを救うメシアなのか?それとも、わたしたちの進むべき道を教えてくれる、預言者なのか?私たちはいろんなものに救いを求める。どう生きればいいか、失敗しない道はどの道なのか・・・。ヨハネははっきり言っている。「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる。その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない」。
私たちの中に隠れておられる、真の救い主に気づくことができますように。
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ヨハネは言う。「わたしはその履物の紐を解く資格もない」。人の履物の紐を解くのは、当時最下層の人たちの仕事だった。「その人」の前では、そうした最下層の人たちが持つ資格もないと、ヨハネは明言する。神の子の前で自分が何者なのか、神の子のために自分は何をするべきなのかを、ヨハネは知っていた。私はどうだろう。少しでも自分を偉く見せたい、人より優れていたいなどという思いによって、自分を見失っていないだろうか。
いつも神の子の前に立ち返りながら、自分の本当の姿を知り、使命を果たしていくことができますように。


1月 3日 主の降誕節 主の公現前

ヨハネ1・29-34

ヨハネはイエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証しします。人間的な関わりの中では、その方を知りませんでしたが、神が教えてくださり、自分に与えられた使命も、この方のためであったと確認します。私たちも今、出会う人々の中にイエスを観て、「見よ、神の小羊だ」と指し示すことができるのではないでしょうか。今私に与えられているすべての恵みを、この方のために差し出すことを通して。
主よ、日々の出会いの中で、あなたを証ししていくことができますように。


1月 4日  主の降誕節 主の公現前

ヨハネ1・35-42

イエスは弟子たちを振り返り、「何を求めているのか?」と問われた。私はなんてこたえるだろう。頭の中が真っ白になって、戸惑って、満足のいくこたえはできないんじゃないのかな。お金、健康、友情、家族愛、いろいろなことが頭をよぎる。すべてはこの目の前にいるイエスあってのこと。イエスは続けて私に言われる。「来なさい。そうすればわかる。」
そこにイエスがいるだけで、満たされることがわかる。どうかいつもイエスだけを求めていくことができますように。


1月 5日  主の降誕節 主の公現前

ヨハネ1・43-51

イエスは、ナタナエルとまだ一言も話をしていないのに「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われた。その根拠は、ナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見たから。イエスは、いちじくの木の下で、何をしているナタナエルを見たのだろう。
泣いているナタナエル、それとも必死で何かを祈っているナタナエル?分からないけど、イエスは、誰にも見られたくないこと、知られないこともちゃんと見ておられる。
「見られたくない」「知られたくない」というわたしのエゴを超えて注がれるイエスのまなざしに、少しでも一致していくことができるよう、祈りたい。



1月 6日 主の降誕節 主の公現前

マルコ1・7-11

その当時、人の履物のひもを解くのは奴隷の仕事だった。それなのに洗礼者ヨハネは、イエスの前ではその奴隷よりも自分は値打ちが無いと言った。謙遜な人だ。実際、神の前で人間は何者でもないのだ。しかし、イエスに向けられた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という天からの声は、今、イエスを通して私たちの内にも行き渡る。
神の前で塵にすぎない私が、神の子として愛されている恵みに気づき、感謝と喜びの内に生きることができますように。


1月 7日 主の降誕節 主の公現前 

ヨハネ2・1-11

カナでの婚礼で、イエスは水を上等のぶどう酒に変えられた。でも、もしわたしが召使だったら、どう振舞っただろう。「水瓶に水をいっぱい入れなさい」。「え、なぜ水なんか汲まなきゃいけないの?」。「それを宴会の世話役のところへ持っていきなさい」。「エー、お客に水を出すなんて。やめましょうそんなこと・・・」。実際のところ、イエスを世間の尺度で測ってしまい、奇跡の邪魔をたくさんしているかもしれない。信頼しなければ、奇跡は起こ
らない。イエスがその力を発揮できるのは、わたしの信頼があってのことだから。
自分の貧しさを知り、主に全面的に信頼して、従っていくことができますように。


主の公現後月曜日

マタイ4.12-17,23-25
 
「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
」今日で正月の三が日も終わります。明日から初仕事の方もあるでしょう。新たな歩みの中で、周りにいる人々の叫びに耳を傾け、その人にどのように寄り添い、具体的にどうすることが必要なのかを知る恵みを願います。
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主の公現後火

マルコ6.34-44
 
弟子たちは、大勢の群衆を前にして、こんなに多くの人に食べさせることはできない、と諦めます。
イエスは、群衆の姿に心を動かされ、何かをせずにはいられませんでした。
普段の生活の中で、他人の困難な状況に対して、いろいろな理由で自ら手を出さないことがあります。自分の判断基準ではなく、イエスのように他人の苦しみに心を向け、行うことができますように。
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全能の神、宇宙の作り主、時間と空間に縛られない神様は、小さな赤ん坊、弱い存在となったというクリスマスのパラドックスは、今日の福音書にも現れます。大勢の群衆の飢えに対して、神の子の力を発揮して、なんでもできるはずなのですが、イエスはむしろ人間の持っていいる不十分なもの(五つのパンと二匹の魚)を求めます。全能の神は一番弱い者になる。全能の神は足りないに決まっているものを求めます。でも、足りないものの背景に神の愛がある(今日の第一朗読、「神が[先に]私たちをしました」)ということを悟れば、足りないものの中に神の愛があると分かれば、そしてそれを惜しみなく差し出すと、大群衆の満足につながります。パウロのことばで言えば、私たちは神から慰めていただいた慰めで人々を慰めることができる、と。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」(コリントの信徒への手紙二 1章1節~11節)また、「何 よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(マタイ6:33)」、その他のものは与えられる」ということばにもつながると思います。



主の公現後水

マルコ6.45-52
 
イエスは、おびえる弟子たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、すぐに語りかけます。恐れていると、真実の姿が見えなくなります。
主よ、あなたが助けを求める人をすぐに力づけてくださることを、私は知っています。
いつも、あなたを信頼し、心の深いところで安心していることができますように。
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逆風や大波に飲み込まれそうになった弟子たちは、湖の上を歩いて来るイエスを見て、自分たちを滅ぼそうとする幽霊であると思い込み、恐れおののき大声で叫びました。しかしイエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言い弟子たちを安心させ、力づけます。第一朗読にヨハネは言います。
「神の愛に留まる人は恐れることはない。完全な愛は恐れを締め出します。」(一ヨハネ4・18)私たちも私たちに対するイエスの限りない愛とケアに信頼するならばどんな恐れも私たちを征服することはできないでしょう。
私たちも弟子たちのように振舞うとき、苦しいとき、問題とぶつかるとき、また、物事がうまくいかないとき、神がわたしを見捨てたと思い込み、希望と信仰を失うことがあります。
しかし、このようなときこそイエスはわたしたちのすぐそばにおり、私たちと共に歩んでいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」といつも言っているイエスの声に耳を傾けましょう。
主よ、どんなときにもあなたへの希望を失わないように、あなたへの信頼と愛を一層深めてください。
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海の上を歩くことは神のすることである。また、出エジプトのときに紅海を渡った出来事を思わせる言葉です。

ヨブ9:8 神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。
詩編77:20 あなたの道は海の中にあり/あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。
イザヤ43:16 主はこう言われる。海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方「わたしだ」(ego eimi)というのは、神が民を救いに来られるときを思わせる言い方です。(出3,14、申命記32,39、イザヤ41,4、43,10-13参照)

弟子たちはまだ神としてのイエスとそのミッションを受け入れる準備ができていない。


主の公現後木
ルカ4.14-22a
 
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」
「貧しい人」とは、迷ったり、うまくいかないことだらけだったりする私かもしれない。
苦しい時にイエスの語りかけを耳にした私には、実は、もうすでに、御言葉が実現しているのです。あとは、当面自分を惑わすものから自由になりますように。
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「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主の恵みの年を告げるためである。」
これは、イエスが朗読した聖書の箇所であり、また公生活においてイエス自身が実際に生きたことでもあります。私たちも、イエスのように洗礼によって神の子とされ、また堅信の秘跡によって、イエスのように神の国の福音を告げ知らせる恵みと任務を受けました。
イエス自身の福音宣教が、自分が育ったナザレで始まったように、私たちも、自分の最も近い者から福音宣教をするように招かれています。
神の子である私たちも、主の霊をいただくことによって捕らわれ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人に自由を告げるために主の道具として遣わされています。
主よ、まだあなたを知らない人々にあなたがもたらした救いを告げ知らせることができるようわたしたちに必要な恵みをお与えください。
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「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った信仰です。世に勝つものとは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ 5:4,5)


「いわしの頭も信心から」といいまして、魚でも何でも信じていればご利益が与えられる、といったような考えをします。「念じれば道が開ける」ともいわれます。そこには信仰の内容は問われません。何を信じていようが信じることが尊いという考えでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。信じるということは漠然としているというようなことではないと思います。何を信じているか、そのことが問われているのではないかと思うのです。それは、この箇所から言うと、「イエスのキリストであることを信じる」(1)信仰、「イエスを神の子と信じる」(5)信仰であるということができます。イエスを神の子、まことの神と信じる信仰のことです。あのナザレのイエスがわたしたちの救い主であるということなのです。神の救いが、わたしたちと同じ顔かたちをとられて、イエスという存在として現れた、ということなのです。

 私達が生きている「この世」を浮き世、また、憂き世と言いあらわす事があります。それは、浮いたようで、はかない世。定まらない世。辛いことの絶えない世の中、と言う意味が込められています。
 一生の間には、何をやっても調子よく事が運び、世の中、自分を中心に廻っているかのような上り調子の時もあれば、その反対に、どんなに真面目に努力しても、報われず、わが身の不運を呪いたくなるような時もあります。
 また、他人には到底わかってもらえないような悲しみに襲われ、悶々とした日々を過ごすこともあります。

 しかし、そのような世にあっても、勝利する秘訣があります。
 それは、イエス・キリスト(神)に対する「信仰」です。この「信仰」はギリシャ語で「ピスティス」と言いますが、その言葉はイエス・キリスト(神)に対して用いられる場合には「真実」と訳されます。ですから、イエスの真実に信頼して歩んで行くことが信仰であり、そこにこそ勝利の鍵があるのです。

 イエス・キリストの真実さは、私たちに対して、様々なかたちで現されます。 その一つは「助ける、守る」ということにおいてです。
 聖書に、「神はわれらの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け」(詩46:1)とあります。
 またその「真実」は時には、「慰め、励ます」と言うかたちで現されることもあります。ガンに冒され、あと数ヶ月と宣告された婦人が、私に言いました。「私は、イエス・キリストを信じてきて、今、本当によかったと思っています。何故なら、イエスさまは私に『私は、よみがえりです。いのちです。私を信じるものは、死んでも生きるのです。』と約束してくださったからです。それが私の大きな慰めです」と。

ヨハネがこの手紙を書いた頃は、「イエスは主である」という告白は、即当局者からの迫害の対象とされるという外からの戦いがありました。また、「イエスは人であって神ではない」という、いわゆる「異端」、教会内における戦いも熾烈を極めていた時代です。このような時代の只中にあって「イエスは主である」という告白は、並大抵のことではなかったであろうと思うのです。しかし、彼らは大胆にこの告白をしたのです。それは、その背後に聖霊がおられたからです。聖霊がその告白をさせたのです。背後に聖霊がおられる戦いは「勝利」以外の結果は生じないのです。人間の力、人間の告白、自分の‥、という「肉」の行いや告白は、しばしば「敗北」という結果を生じさせ、時には落胆し、時には高ぶり、時には破滅へと至るものです。しかし、「私たちの主であり救い主であるイエスを信じる信仰」は聖霊によってのみ生まれるものであり、そのもたらすところは勝利なのです。

ヨハネ文書及びパウロ書簡は「世」を神から離れた自立的悪しき存在と考えているようです。ヨハネ伝3章16節の「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。」と語られた「世」は、神から離れて、永遠の命を持たない存在と観ている事がわかりますし、パウロは復活への信仰を記す中で「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」と記した後「神はわたしたちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を賜ったのである」と宣言しております。それは、世(コスモス)というものがどれほど美しく秩序だっているとしても神から離れて、「運命と死」の力が支配しているのが「世」であると見ていたと考えることができるでしょう。

「死と運命」に打ち勝つ力は主イエス・キリストへの信仰であり、キリストの十字架と復活を信ずる者になったということは「死と運命」の思いに勝った事であるというのがここで言おうとしていることではないでしょうか。なぜなら、当時のギリシャそして今の日本において「死と運命」は100パーセントの力を持って人々を支配していると考えていましたし、そのように確信しているのが、私たちを取り囲んでいるこの世です。それに勝つのが「我らの信仰」であると言うのです。

 



主の公現後金

ルカ5.12-16
 
ヨハネ第一 5:6~13 
 ヨハネはイエス様の歴史的事実を、イエス様の御生涯のうちに極めて重要な二つの出来事に要約し、象徴して、「このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである」(6節)と書いています。ここで「水によって」という言葉が象徴しているのは、洗礼のことです。この時、神様は「これはわたしの愛する子」と宣言されました。こうしてイエス様が神の御子キリストと証されたのです。また「血によって」という言葉が象徴していることは、十字架の上での死のことです。イエス様は十字架にかかって死ぬことによって、購い主としての務めを成し遂げられ、ご自身がキリストであることを証されたのです。そしてこの二つの歴史的事実を私たちの心に絶えずあかし続け、わからせてくださるのは聖霊様なのです。(伊藤)
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この重い皮膚病の人は、どれほどの差別を受け生きてきたのか。どれほど自分の存在価値をないがしろにされてきたのか。人間としての尊厳を無視されたような悔しさ、全身が火照るほどに悔しい経験をしたことがあっただろう。今もその最中かもしれない。だから、イエスに頼む前に、自分はイエスによって病気を癒されるという確信を持つことができたのです。イエスに対するこの病人の信仰はわたしたち、信仰の薄い者にとって良い模範です。イエスは神の子キリストであると言うことを疑わずに信じることができるならば、私たちもこの病人のようにイエスに直接打ち明け、必要な恵みを頼み、祈ることができます。
イエスはわれわれの心の中を強引にこじあけるようにして、入ってこられるのではなく、場合によっては、そうする時もあるかも知れませんが、イエスは大変辛抱つよい深い愛のかたですから、われわれが心を開くまでじっと待っていてくださる、そのようにしてわれわれを招こうとしてくださっているのです。この重い皮膚病の人のように絶望感に包まれる時でさえ、イエスに駆け寄る勇気が与えられます。 大変希望に満ちた福音書です。
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主の公現後土

ヨハネ3.22-30

 三つの確信 ヨハネ第一  5:14~21 
 ここには神の子が持つべき三つの確信が書いてあります。第一の確信は、永遠のいのちを持っているという確信です。13節の「神の子の御名を信じる者」とは、クリスチャンのことです。著者の目的は、彼らに「永遠のいのちをもっていること」を悟らせることです。即ち、永遠のいのちを持っているという事実に確信を持ち、その上で「世に勝つ」(4節)歩みをしてもらいたいのです。第二の確信は、祈りの確信です。神様が私たちの祈りに耳を傾けて聞いてくださるという確信です。そしてただ自分のためにのみ祈るだけでなく、兄弟のためにとりなしの祈りを勧めているのです。第三の確信は、自分は神のものであるという確信です。自分が神によって生まれ、神から出たものであるという確信こそ、罪に対する勝利の原動力だからです。(伊藤)
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「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」ヨハネにとっては、自分が崇められることなどどうでもよいことで、それよりも「花婿」の到来に心から喜びを感じたのでした。
降誕節の終りを迎えながら、人として来られたイエスが私たちを支えてくださっていることに、喜びと感謝を味わうことができますように。
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7 opere di misericordia

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7 opere di misericordia

Le sette opere di misericordia corporale [modifica]
Dar da mangiare agli affamati.
Dar da bere agli assetati.
Vestire gli ignudi.
Alloggiare i pellegrini.
Visitare gli infermi.
Visitare i carcerati.
Seppellire i morti.
Le sette opere di misericordia spirituale [modifica]
Consigliare i dubbiosi.
Insegnare agli ignoranti.
Ammonire i peccatori.
Consolare gli afflitti.
Perdonare le offese.
Sopportare pazientemente le persone moleste.
Pregare Dio per i vivi e per i morti.

七つの慈善のわざ
「慈善のわざとは、身体的・精神的に困っている人々を助ける愛の行為です。教え、助言
し、慰め、励ますことなどは、ゆるし、耐え忍ぶことなどと同じように、精神的な慈悲のわ
ざです。とくに飢えている人に食べさせ、宿のない人に宿を提供し、着る物を持たない人に
衣服を与え、病人や受刑者を訪問し、死者を埋葬することなどは、身体的な慈善のわざです。」Catechismo 2447
「高山右近史話」によると、高山右近は、当時キリシタンが暗唱していた教理箇条にある「慈悲の所作」を実践し、その領地は福祉国家だったとされています。
この「慈悲の所作」は、当時の教理書「どちりいな・きりしたん」によると以下の七つの肉体的慈善業と七つの精神的慈善業に分かれていたようです。
色身にあたる七のこと
一には、飢えたる者に食を与ゆること、
二には、渇したる者に物を飲ますること、
三には、膚をかくしかぬる者に衣類を与ゆること、
四には、病人をいたはり見舞うこと、
五には、行脚の者に宿を貸すこと、
六には、とらはれ人の身を請くること、
七には、死骸を納むること、これなり。
スピリッツ(精神)にあたる七のこと
一には、人には異見を加ゆること、
二には、無知なる者に道を教ゆること、
三には、悲みある者をなだむること
四には、折檻(せっかん。厳しく諌める)すべきものを折檻すること
五には、恥辱を堪忍すること
六には、ポロシモ(隣人)の不足を赦すこと
七には、生死の人と、また我に仇をなす者のために、デウス(神)を頼み奉ること、これなり。

5 lent

四旬節 第五月曜日
ヨハネ8・1-11
ヨハネは光と闇のコントラストを用いて、イエスが光であり、まことの証しと正しい裁きを行うかたであることを述べます。そのために姦通の女とイエスとの出会いを描きました。彼女は光の中を胸を張って歩くことができません。彼女は神を裏切り続けてきたイスラエル、全人類、わたしたちの象徴です。イエスは女を罪に定めず、救います。それが神の裁きです。イエスの裁きが正しく、その証しが真実なのは、イエスが父なる神と一致しているからです。ヨハネはイエスと父との一致を、イエスの由来と終極目標の面から述べます。「わたしは自分がどこから来たか・どこへ行くかを知っている」。イエスは父から派遣され、父のもとにもどることを知っているのです。人々はその秘密をしりませんから、イエスと御父との一致もしりません。人々には御父は見えません。だから、イエスは自分のことを自分だけで証ししているうそつきにすぎません。イエス一人の証言は無効だという結論になります。この世がイエスを受け入れない以上、イエスの父を知ることはできません。イエスを知れば、父についてもわかるはずです。イエスと父とは一致しているからです(ヨハネー4・7-10)。(荒)
私達は今住んでいる社会は平和な社会、民主主義に基づいた社会だと思っている人が多いでしょう。ところが本当の姿は違います。弱い立場の者を踏みつける、管理教育によって子供の人権を無視する社会でもあります。表向きの顔しか見えていない人に、現実を見えるように、イエスは光になって下さいます。
イエスと姦通の女が大勢の民衆、律法学者たち、ファリサイ派の人々に取り囲まれています。しかし、イエスが女と言葉を交わすのは、その女と一対一になってからです。イエスと真の意味で出会うには一対一となる時が求められるようです。イエスの「罪を犯したことのない者が...石を投げなさい」
という言葉は私たちを原点に立ち返らせます。大義名分を振りかざして人を裁く時、自分の貧しさは見えなくなっています。この世で唯一人を裁く権利のある方の「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉は、なんと私たちの心を解放し、真の自由へと向かわせてくれるものでしょう。
主よ、あなたともっと親しく出会わせてください。そしてあなたの言葉を私の心の奥深くに響かせてください。
四旬節 第五火曜日
ヨハネ8・21-30
ヨハネは、イエスが十字架にあげられることを、栄光へ高かめられたこととして捉えなおしました。信仰をもって受難の出来事を振り返ると、十字架は父の愛、子の愛の現れとなります。と同時に、イエスを信じない人びとのかたくななさも、大きな悲劇としてクローズアップされてきます。パウロはすでに、ユタヤ民族の救いと滅びについて、辛い思いで書きました。「かれらの捨てられることが、世界と神との和解をもたらすのなら、かれらが受け入れられることは、死者の中からの復活でなくてなんでしょうか」(ローマ11・15)。
パウロの宣教から五十年後、ヨハネの教会は、ユダヤ人よりも異邦人の方が多くなって、ユダヤ教の伝統や律法は過去の問題になっていました。ユダヤ教から独立したキリスト教は、ユダヤ教との対立を激化させ、イエスをメシアとして信じるかどうかをめぐって戦っていました。
ヨハネはイエスを信じないかたい心を、光に敵対する闇、「この世」、「下からの者」として表現しました。「あなたがたは下からの者、この世の者、自分の罪のうちに死ぬ」。
イエスが上からの者、「わたしはある」、すなわち、神の現存であることを信じなければ、自分の罪のうちに死ぬでしょう。それは不信仰の罪であり、不幸でもあるのです。(荒)
イエスはご自分の行くところに人々が来ることができないと言われます。人々は、イエスがどこに行かれるかを知らず、また、イエスが
どこから来られたか、イエスが何者なのかをも知らないからです。その彼らからイエスは「あなたはどなたですか」という問いを引き出し
、最後には、「多くの人々がイエスを信じた」とあります。イエスの言葉に注意深く耳を澄ませ、その行いをよく見る時、イエスの背後に
おられる方が見えてきます。私の日々の生活の中に、このイエスがどのように息づいているでしょうか。今日、イエスを一層知り、イエス
に信頼して委ね、イエスの行くところに私も行くことができますように。

四旬節 第五水曜日
ヨハネ8・31-42
差別や偏見が自由を奪います。現代社会にも、差別や偏見によって自由を奪われた人びとがいます。難民、飢えた人びと、自分自身の衝動や欲にとらわれた人びと。
今日の第一朗読と福音書をつなげるキーワードは「自由」です。三人の青年はこの世の権力に対して自由を主張することが出来たのは、本当の神を信じたからです。ユダヤ人は神から選ばれた民族として、自由の子、アブラハムの子であることを誇りとしていました。そのプライドに妨げられて、真理に反対し、アブラハムが喜んで礼拝したであろうかた、イエスを殺そうとします。
イエスは父への愛のために自分をささげ尽くしました。それによってこの世の本当の姿が見えて、人は自己にとらわれている状態から解放されました。
イエスのことばに留まるなら(現代的に表現すれば、イエスと連帯する、イエスにつながることによって)真理はわたしたちを自由にし、解放します。イエスのいのちに結ばれることによって、自分のいのちを愛している孤立状態から、愛と奉仕によるいのちへと高められます。ヨハネは、「いけにえ」・「あがない」といった祭儀用語よりも、「自由」、「解放」という表現を用います。これはそのまま、現代的なことばとなって語りかけてきます。
イエスと連帯し、無知と不信仰から解放され、あらゆる偏見と束縛から自由になろう。真理そのものであるイエス、正義そのものであるイエス、自由を与えてください。信仰の自由を与えてください。(荒)
「真理は君たちを自由にする」とイエスは言っています。つまり私達はもともと自由ではありません。様々な偏見の奴隷になっています。
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イエスを信じて、従っているつもりでも、知らず知らずのうちに世の価値観に汚染され、奴隷になってしまうことがあります。今、わたしは何の奴隷になっているでしょうか。わたしの言動の源はどこからくるのでしょうか。神のみことばであるイエスを自分のうちに迎えて、耳を傾けているでしょうか。空しいことに心を向けず、さまざまな偶像に惑わされることなくみことばに宿る愛が、わたしたちの心を照らし、強め、清め、自由にしてくださいますように。sese07

四旬節 第五木曜日
「私はアブラハム以前からある」
ヨハネ8・51-59
イエスは自分自身については語らず、もっぱら神の自由について、神の働きの偉大さについて語りました。自分については神の沈黙に委ねました。それは、自分をメシアとして宣伝することよりも大いなることでした。
受難と復活を体験した弟子たちは、神の霊に満たされて、イエスのことばと生涯を振り返りました。かれは世の光だった。いのちのパンだった。かれは神のためにのみ生きた。自分の名誉を求めなかった。これらの考えはイエスの口に移され、イエスが自分の存在秘義を啓示する形で表現されました。「わたしは世の光である。わたしはいのちのパンである。道、真理、いのちである。わたしはアブラハム以前からある」。「わたしは自分の栄光を求めない。わたしの栄光を求めるかたがおられ、そのかたが裁いてくださる」。
アブラハムは神の子の栄光を待ち望んでいたのに、その子孫は、神の子がほんとうに来たとき、信じようとせず、石殺しにしようとします。神と人との和解の場、神殿からイエスは追放されます。イエスこそ神の現存の場、神殿そのものであったのに。罪の女を石殺しから救ったイエスは、ご自分の民から出て行かれました。(荒)ユダヤ人たちはアブラハムの子孫といいながら、実はアブラハムらしくない生き方をしているように、私たちもキリストの弟子と自称しながら、実はキリストらしくない生き方をしているではないか。キリストを教会から追い出そうとしているのではないか。このような反省を促す福音です。
イエスの考えている「死」と、ユダヤ人の考えている「死」の間には、隔たりがあるようです。
イエスが、「わたしの言葉を守るなら、決して死ぬことがない」と断言できるのは、歴史を超え、この世を超え、永遠に生きておられる天の父を知っておられ、その方から聞いたことを語っているからでしょう。私たちもユダヤ人のように、生きるとは何か、本当のいのちとは何かを知っていると思い込んでいる。実は知らない…。キリストは私たちが知らないことを知っている。
こうしてイエスは私たちを永遠の命に招いておられます。
主よ、アブラハムのように信仰のまなざしでイエスを見、喜び、イエスの招きに応えていくことを教えてください。
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ヨハネはユダヤ人であり、彼が指導する共同体の中核はユダヤ人であると見られますが、その共同体が生み出したこのヨハネ福音書は「ユダヤ人」と厳しく対立し、「ユダヤ人」を真理の敵として激しく非難しています。それは、マタイ福音書と同じく、ヨハネ共同体がユダヤ戦争以後のファリサイ派ユダヤ教会堂勢力から迫害される状況から出たものと考えられます。その中で今回取り上げた八章後半(三〇~五九節)の箇所は、「イエスを信じたユダヤ人」との論争として特異な内容になっています。すなわち、自分たちを迫害する外のユダヤ教会堂勢力ではなく、同じイエスを告白する陣営内でのユダヤ人との対立であり、彼らとの論争が外のユダヤ教会堂勢力との論争と重なって、きわめて複雑な様相を見せています。この論争は、用語や思想内容からして、ユダヤ教の枠に固執し続ける「ユダヤ主義者」と戦ったパウロを思い起こさせるものがあり、改めてパウロとヨハネの関わりを考えさせます。この論争は、福音における真理と自由の追求がいかに激しい戦いを必要とするかを思い起こさせます。
四旬節 第五金曜日
ヨハネ10・31-42
イエスは父に由来する善い業を行いました。その業によって、イエスを信じることができます。ところがユダヤ人(「ユダヤ人」のかわりに、「不信仰者」ということばを入れかえるとよくわかります)は、イエスの善い業よりも、イエスのことばを問題にします。善い業を認めることによって、それを行っている人物を受け入れ、またその人物を信じているので、言っていることも信じるというのが人間関係の基本です。ことばに振りまわされず、まず、その人の行為をよく見て判断しなければなりません。そのためには、じっくりと見ることが必要です。早急に、神の子かどうか、神からのものかどうか、いい人か、悪い人か、きめてしまおうとするところに、人間の浅はかな態度があります。(荒)
「わたしを信じなくても、わたしが行っている父の業を信じなさい。そうすれば、父なる神がわたしにおり、わたしが父なる神と一致していること、すなわち、神の子であることを悟るだろう」。
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エレミヤ預言者と同じようにイエスも大変せっぱ詰まった状況の中にいて、反対者から殺されそうです。けれども、神のささえを得て勝利をおさめる。イエスが誠意をつくし、どのように関わり続けてくださっても、頑なに、歯向かい続ける心がある。ヨハネ福音書が言いた
いのはこういうことだろう。
神を知りたいならイエスを見れば十分です。私達人間にとっては、神に出会う、神を知るチャンスは、イエス・キリストをおいてほかにありません。問題は、私達は神を本当に知りたいかどうかです。
イエスがなされた多くの力ある業は、悪霊を追い出し病人を癒すなど、人が人として生きることを助ける「良い業」でした。それは、人がなしえない業であり、父から賜る力でなされた働きでした。その中のどの業が、石打に相当するような行為になるのか、とイエスは反論されます。イエスの言葉はあまりにも人間の思いを超えているので、はじめはイエスが語られる言葉を信じることができなくても、イエスがなされる働きが人から出たものではなく、神から出たものであることを信じるならば、イエスの内に父(神)が働いておられ、イエスが父(神)の内におられる方であることが分かるようになるはずだと。ヨハネ福音書は、業(奇跡)を見なければ信じないことを非難しながらも(四・四八)、イエスがされる業を父がイエスを遣わされたことの「証し」と意義づけ(五・三六、一〇・二五)、業そのものを信じるように求めます(一四・一一)。それがイエスを信じることへの入り口になるとします。
私たちも、ユダヤ人のように、日常生活で示される多くの善い業を見ても、それに気づかず通り過ぎてしまうことが結構あるのではないでしょうか。例えば、教会制度のお陰(業)で毎年四旬節と復活際を祝うことができます。様々な修道会のお陰(業)で色々な活動がなされている。様々なサービスに与ることができる。それは、当たり前ではない。ユダヤ人たちのように、「~が当たり前」というのであれば、それは自分の考えや価値観からしか、物事を見ていないからではないでしょうか。イエスは、御自分の「善い業を信じなさい」と言われ、そうすれば「父なる神とイエスとが一つである」ことを悟るだろうと言っておられます。
主よ、日頃何気なく見過ごしているあなたの善い業に気づかせて下さい。今も働かれるあなたの業すべてを通して父なる神を讃えることができますように。

四旬節 第五土曜日
ヨハネ11・45-56
大祭司カヤファは・知らずに預言しました。「一人の人が民にかわって死に、それによって全国民が滅びない方がよい」。イエスの死は、人間的な政治判断の結果であっても、神の目から見れば・ユダヤ人ばかりでなく、すべての人のためのあがないの死、身代わりの死でした。
ヨハネは・パウロほどあがないの死を強調しませんが、散らされた神の子らが一つになるための死を強調します。
とうとう最高法院を招集させるほど、イエスの存在はやっかいなものになっていました。民衆や弟子もイエスのメッセージの意味をよく理解できませんでしたが、権力者側はその意味をいやになるほど理解しました。そのメッセージが民衆に理解されたら自分たちが握っている権力は問われる可能性があると彼らには分かっていました。
これは大変な歴史の皮肉(運命)かもしれない。メッセージを必要とする人々はその意味を理解できず、自分の利益を何より考える人々にはピンと来ました。民衆はファリサイ派の話になれていて、全く違った観点からの話をするイエスの言葉の意味をよく読み取れませんでした。もしかすると私達もイエスのものの考え方にまだなれていないのかもしれない。
やはり、イエスのメッセージはすべての人、すべてのものを一つにまとめるものですから、それを理解するために広い心、開かれた姿勢が必要です。
私たちは、一人ひとりのひとが大切なんだと十分に知っています。しかし、カイアファの言葉「ひとりの人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないですむほうが、あなた方に好都合だとは考えないのか」という言葉は、私たちの心深くにも巣くっているのではないでしょうか。このことに気づくとき、「主よ、多くのひとのためという大義名分によって、小さくされた人々の中にいるあなたを滅びヘと運ぶことが無いようにお守り下さい」と祈らずにはおられません。どうか、わたしたち小さな者のために十字架の道を歩まれたとてつもないあなたの恵みを悟らせて下さい。

Holy Week     聖週間

受難の月曜日
「マリアは香油をイエスの足に塗った」
ヨハネ12・1-11

やがて死んでいくイエスの姿を見抜いて、マリアは自分の最善のものをささげました。マリアのようにこたえていくことが私たちの信仰生活だと思います。こうしておけばこうなるというのではなく、こうなったからこうするという生活が生まれてこなければならない。そこには律法でない生活がある。私たちは自分自身をふり返ってみて、私のために死んでくださったイエスに対して、あまりにもふさわしくない歩みをしているのではなかろうか、とこの聖週間の間に深く反省したい。人は、そこまでしなくてもいいではないかと言うかもしれない。信仰は自分あっての信仰で、信仰のために自分が苦しんだり、損したり、貧しくなったりしていくのはおかしい、というのが、イスカリオテのユダの論理です。私たち信仰する者にとっては、イエスの命が注がれたのであるから、何をもってこたえたとしても、十分なこたえにはならない。そこには信仰のない人々の理解できない世界があります。(榎本)
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イエスはマリアが高価な香油でイエスの足を清めたことを、イエスご自身の「葬りの日」のためと言われます。そこにいた、よみがえったラザロとあわせて眺める時、この高価な香油を通してイエスの死と復活が響き合ってきます。
主よ、あなたの死への道行きが、わたしたち全ての人の復活へとつながることを悟る遠いまなざしを与えてください。

受難の火曜日
「あなたたちのうちの一人がわたしを裏切る」
ヨハネ13・21-33、36-38

新しい家を建てる前に古い家を壊す作業はよく見かけます。聞くところによると、解体作業をする業者と建設する会社は違うそうです。仕事のタイプも違うし、労働者のスキルも違う、と。建設する場合は大工さんのような職人カタギが求められる。十分注意しながら進めなければならないのです。解体作業の場合は基本的に力づくで壊せばいい。
裏切りは家の解体作業のようなものです。短時間で長年住んだ家を壊すように、裏切りは人間関係を壊します。この聖週間にあたって、私はどちらのタイプに属しているのかを自問することは、とてもいいと思います。私は人間関係を壊すタイプなのか、それとも建設するタイプなのか、と。
解体業者は、社会に役立っています。裏切りも神の計画の中で何らかの役割を果たしているかのようです。神様は裏切りからも、よい結果を導きます。だからと言って、裏切りを行った人はどうでもいいということではないのです。ユダとペトロは全く異なった結果をもたらしたことからも分かるように、放っておくようなものではないのが明らかです。
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第一朗読に、「あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝き[栄光]は現れる」(イザヤ)とあるように、福音書では、ユダの裏切りとペトロの否認は、神の栄光を表してる。大変なパラドックス(逆説)ですが、こういう出来事は単なる人間のはからい、企て、たくらみではなく、神の計画の実現である、と。
ユダとペトロはイエスの愛にそむく点では同じです。ペトロはやさしい愛情をもっていますが、困難に耐え抜く強さに欠けています。ユダは合理的に筋道を追求する完璧主義者です。そのため、横領(おうりょう) や裏切りを悪いとも思わない氷のような頑固さに陥ります。
「心をつくし、精神をつくし、力をつくして神を愛せよ」。愛のおきてで大切なのは、「つくす」ということではないでしょうか。それは自分を与えつくし、ゆだね、まかせ、信じきることです。たとえ愛にそむき、裏切ったとしても、イエスの愛を信じて、みじめな自分をそっくり、そのまま、まかせることです。そこにペトロの涙とユダの絶望の違いが生まれます。(荒)
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La messa a Santa Marta
Mai parlare male degli altri

Parlare male di qualcuno equivale a venderlo. Come fece Giuda, che vendette Gesù per trenta denari. E proprio prendendo spunto dal brano del vangelo di Matteo che preannuncia il tradimento dell’apostolo, nella breve omelia della messa celebrata la mattina di mercoledì 27 marzo nella cappella della Domus Sanctae Marthae, Papa Francesco ha messo in guardia dalla maldicenza. Con un invito esplicito e netto: «Mai parlare male di altre persone».

A loro il Papa ha voluto lasciare una riflessione sul gesto compiuto da Giuda, uno degli amici di Gesù, che non esita a venderlo ai capi dei sacerdoti. «Gesù è come una mercanzia: è venduto. È venduto in quel momento — ha sottolineato — e anche tante volte nel mercato della storia, nel mercato della vita, nel mercato della nostra vita. Quando noi facciamo una scelta per i trenta denari, lasciamo Gesù da parte».
Quando si va da un conoscente e il parlare diventa pettegolezzo, maldicenza, secondo il Papa «questa è una vendita» e la persona al centro del nostro chiacchiericcio «diviene una mercanzia. Non so perché — ha detto ancora il Pontefice — ma c’è una gioia oscura nella chiacchiera». Si inizia con parole buone, «ma poi viene la chiacchiera. E si incomincia quello “sp ellare”l’altro». Ed è allora che dovremmo pensare che ogni volta che ci comportiamo così, «facciamo la stessa cosa che ha fatto Giuda», che quando andò dai capi dei sacerdoti per vendere Gesù, aveva il cuore chiuso, non aveva comprensione, non aveva amore, non aveva amicizia.
E così Papa Francesco è tornato a uno dei temi a lui più cari, quello del perdono: «Pensiamo e chiediamo perdono», perché quello che facciamo all’altro, all’amico, «lo facciamo a Gesù. Perché Gesù è in questo amico». E se ci accorgiamo che il nostro parlare può fare del male a qualcuno, «preghiamo il Signore, parliamo col Signore di questo, per il bene dell’altro: Signore, aiutalo». Non devo essere io — ha quindi concluso — «a fare giustizia con la mia lingua. Chiediamo questa grazia al Signore».


誰かの悪口を言うことは、その人を売り込むことに等しい。イエスは商品のように売られる。歴史という市場、人生という市場、日常生活の市場でキリストは売られる。銀貨30枚の方がキリストよりも選ばれる。
ゴシップとか悪口は売却(ばいきゃく)である。ゴシップや悪口の対象となった人は商品となって、売られる。なんだか、おしゃべりには変な喜びがある。ユダもこのようにしていた。イエスに対して心を閉じていた。理解はなかった、愛まなかった。友情もなかった。(教皇フランシスコ、2013年3月26日)



受難の水曜日
マタイ26・14-25

使徒ユダの裏切りの理由について、マタイ、ヨハネ福音書とも、明確な答を述べていない。いろいろな理由が考えられるその一つに、ユダは、イエスの選んだ道が、“失敗”に向かっていると理解し、自分の描く“大成功のドリーム”と大きく違ったことに気づく。イエスを自分のドリームに従わせることができず、失望したことが、イエスを引き渡すことに繋がったと思われる。山上の説教を思い起こさせる。「弟子は師にまさるものではない。しかし誰でも修行を研鑽すればその師のようになれる。」
主の僕イザヤとともに祈ろう。「主なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてください。」(イザヤ50・4)sese07
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ユダの裏切りは選ばれた民、イスラエル人の不信の歴史を代表しています(縮図)。イスラエル人は荒れ野で肉を食べたいと不平を言い、奴隷状態を懐かしがりました。彼らは、そして私たちも、苦しみの中では、神のいつくしみを忘れます。
過去過ぎた日の未練にとらわれず、未来の苦しみに思い惑わず、きょう一日を神のいつくしみのうちに送らねばなりません。そのために新しい過ぎ越しの食事、聖体祭儀が行われます。(荒)
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「生まれてこなかった方が、その者のために良かった。」という言葉は重く心に沈みます。イエスから決定的に離れてしまうことは、救いにあずかれないこと、不幸そのものであることを、イエスは語っておられるのではないでしょうか。
「まさかわたしのことでは」と問いかけ「それはあなたの言ったことだ」とのイエスからの答えをかみしめながらも、あなたに従ってゆくことができますように。


「聖なる過越の三日間」

「過ぎ越し」

「ヘブライ語で《ペサハ》。すなわち《通り過ぎる》という動詞から来ている。エジプト脱出という神の救いのわざ全体うを表す重要なことばになった。」(『聖週間の典礼《会衆用》』、オリエンス宗教研究所、5頁)
過ぎ越しといえばエジプトからの脱出を思い出しますが、3500年前の昔話で正直言って他人ごとに聞こえる。キリストの過ぎ越しも2000年前の話でこれも昔話で身近に感じないでしょう。
過ぎ越しをもっと身近に感じるように考えてみたいと思います。

これはヘブライ語のことばからきていて、「変化」という意味もあります。
卵は鳥になる。これも過ぎ越し、変化、だから復活祭のシンボルです。神戸から梅田まで行くためには尼崎駅を過ぎ越さなければならない。人生も過ぎ越し、私たちは子供から、青年になって、大人になって、またおじいさん、おばあさんになる。けれども、おじいさん・おばあさんになっても、神様の目からみたら、みなまだ卵の状態です。今からどうなるのか、それは分かりません。言ってみれば、赤ちゃんに50歳になるのはどういうことかを説明してみるようなことです。小学生に親になることはどういうことか、教えてあげてみても分かる能力はないからね。人生において、私たちは様々な変化、過ぎ越しを体験してきました。どれもやさしいこととは限らない。子供は大人になっていく中で、思春期があったり、闘いがあったり、苦しいときがあったり、迷い、失敗もあります。けれども、振り返ってみて、色々あったけれども、それでも感謝できるなら、今からどうなるかを希望を持てると思います。
イエス・キリストは十字架という、最悪の過ぎ越しを引き受けて、新しい命のはじめりに変えてくださいましたから、とても大きな希望をもたらしてくださいました。
麦は変化してパンになります。ぶどうはつぶされてぶどう酒に変わります。キリストは残酷の死を受ける前の日に、自分の体を私たちのために、捧げもの、食べ物に変えてくさいました。キリストは仕方がないから、否応なしに死んだのではない。意識的に前の日にいやなことをとてもうれしいことに変えたのです。パンはキリストの体に過ぎ越す、変わることを可能にしました。昔のことばでいうと、「聖変化」です。
私たちは食事のときに、豚肉や野菜やケーキなどを食べます。その肉とか野菜は人間に必要なタンパク質になります。自然界には何百種類のタンパク質があるそうです。人間のタンパク質になれるのはたった16種類だそうです。これも不思議なことで、学者も完全に解明しているわけではない。どうやってパンはキリストの体になれるのか。これは赤ちゃんに新陳代謝(しんちんたいしゃ)のメカニズムを説明してみるようなことです。赤ちゃんは説明はいらないでしょう。素直に母乳を飲めば大きくなるだけです。不思議なことですが。私たちも素直にキリストの体をいただくと成長していくのです。卵の状態からきれいな鳥になっていくのです。
豚や鳥の肉は人間の肉となるといいましたが、キリストの肉の場合は、ちょっと違う側面があります。キリストの肉は人間の肉になるのではなく、逆なんです。キリストの肉を食べる人間は「キリストの体」と過ぎ越していくのです。そして、キリストのように人の足を洗うことのできる人間になるのです。





聖木曜日(主の晩餐の夕べ)    (園田教会、2004年)
「弟子たちの足を洗い」
ヨハネ13・1-15

イエスは弟子たちの足を洗われました。弟子たちの中には「だれが一番偉いのか」というような争い、 反目 (はんもく)がありました。自分が要職につきたいという野心もあっただろうし、人を押しのけて自分だけが前に出ていこう、人を踏み台にしてでも自分だけが高いところに上ろうという思いがみなぎっていました。そのような弟子たちを前にして、イエス様はみずから進んで上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それからたらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い始められた。それはたいてい奴隷のする仕事であった。さすが弟子たちも、そういうことをされたとき驚いたのです。
 ペトロは「私の足を決して洗わないで下さい」と言ったが、イエスは「私のしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
 私たちがキリスト信者である理由は、イエスが私たちのために十字架について死んでくださったということだけである。それより深いものも、浅いものもない。それが自分にとって真理であると受けとったときに、その人は信仰者である。キリスト信者は、イエス・キリストにおける神の愛の迫りというものを感じた者である。
 アメリカの田舎に年老いた母親と息子という家庭がありました。息子は親孝行で給料の中からいくらか必ず母親に渡していました。戦争が起こり、息子が兵隊に行ってからは、手紙はたびたび来るがお金を送ってこなくなった。軍隊に入って息子が悪い人間になったのかと、母親は寂しく悲しい思いをしていたが、あるとき、そのことをだれかに相談し、手紙を見せたところ、中から小切手が出てきた。母親は小切手を知らなかったので、単なる紙切れと思い、喜ぶことができなかったわけです。そのように、神の愛に感謝できないのは、神の愛がないからではなく、知らないからである。私たちクリスチャンの生活は、神から与えられる、神に足を洗ってもらっている、ことによって起きてくるものであって、神から受けたから他人に与えていくのは当然である。むしろ与えざるをえなくなるのです。パウロは「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいである」(1コリ9・16)と言っています。
 ある地方にはお米はたくさん取れる稲の種類があった。その名前はなんと「だまっとれ」でした。人に言うとそれを作るから「だまっとれ」という品種名がついたのです。自分だけがたくさん収穫したい。それはわざわいである。私たちも福音を聞きながら、それを伝えないならば、「黙っとれ」と同じことになる。本当にわざわいである。許されることのないような罪人である私たちに、イエス・キリストの十字架の死を通して、神の許しと愛が注がれたということを信じながら、そういうことを語ろうとせず、人に伝えようとしないなら、それはわざわいである。それがどんなに大きな愛であるかということがわかればwかるほど、それに対して答えていくし、答えていかずにはおれないのが信者の証しであり、使命なんです。そのためにはまず自分がどんなに神から愛されているか、足を洗ってもらっているか、ということを、教理としてではなく、自分にとって事実にならなければならない。
 何十年信仰生活をしているひとでも、敵のために祈ることが自然にできる人や、憎い人を愛する人はあまりいないかもしれない。イエスが私のために十字架について死んでくださったことを知り、そのために「感謝の祭儀」をくりかえし奉げていくことが私たちの信仰生活である。それができるかできないか、それが私たちの信仰の闘いである。天のパンを日ごとに求めていく以外に勝利はないと思う。
 イエス様は、「私が足を洗ったからあなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われた。足を洗いなさいというのは、その喜びをもって人々に仕えていきなさいということだと思う。イエスの愛を受け、そこに目をとめ、そこで生かされる、生き甲斐をうける。そしてそのことによって人の足を洗い、またイスカリオテのユダのような人にも、私たちが仕え、愛していくことができる新しい世界が生まれてくるのではないかと思う。(榎本)
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よく分かるようで分からない。分からないけれど、何か得体(えたい)の知れない深みがあって、その深みに誘い込まれていく。しかし、穴の奥に行けば行くほど暗くなり、自分が何処にいるのかも分からなくなる。でも、きっとそのもっと奥に光が輝いているのだろうと思って、どんどん深みに嵌る。ヨハネ福音書に記されている主イエスの業や言葉は、特にそういうものです。実に神秘的なのです。
 主イエスご自身が、今日の箇所でも「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われる。しかし、その直後には「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」とおっしゃるのです。「後で分かるようになる」とおっしゃった直後に、「分かるか」と言われたって困ります。そして、さらに、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」とおっしゃる。これは、将来のこととして言われているのではなく、現在のこととして言われているのです。主イエスの言葉を聴き、その業を見たその時現在のことです。「後で分かった時」ではありません。
 ヨハネの二重構造
しかし、そのことが分からないペトロが、「主であるあなたが、わたしの足を洗うなんて」と驚き、「決して洗わないで下さい」と言って拒否することは、罪の赦しと新しい命を拒否することなのであり、それは主イエスとの関りを拒否することでしかありません。
ここで言わずもがなのことを一つ言っておきますが、私たちは、聖書のことをよく知っている人のことを信仰深いと思い勝ちです。主イエスの業や言葉をたくさん知っていて、そらんじる事が出来るような人は信仰深いと思ってしまう。さらに原語を知っていたり歴史的背景を知っていたりすると、イエス様のことをよく知っていると思ってしまう。しかし、それとこれとは関係がないことです。もし、そうならいわゆる聖書学者が最も信仰深いということになりかねません。もちろん、学者の中にも信仰深い人、イエス様との関係が深い人はいます。しかし、聖書のあちこちをよく知らなくても、イエス様との関係の深い人はいくらでもいるのです。何が問題かと言うと、要するに、イエス様を罪の赦しを与えてくださる救い主として信じているかいないかなのです。私たちとイエス様との関係は、ただそこに関るのであって、それ以外のことでイエス様を幾ら知っていたとしても、それは何も知らないことと同じなのです。イエス様と三年間も寝食を共にして、そのすべての言葉と業を見てきたこの時のペトロは当時の誰よりもイエス様のことを知っていると言ってもよい人物ですけれど、でも、ここで主イエスに足を洗って頂かなければ、彼と主イエスは何の関わりもないのです。何を言った、何をしたと知っていることが、イエス様を知っていることではないし、まして信じていることではありません。そのことをよく踏まえた上で、やはり聖書をよく読むことは大事であることもまた言わずもがなのことです。
最後に、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」という言葉は何を語っているかに耳を澄ませたいと思います。この言葉を巡っては様々な解釈がありますし、考えれば考えるほど迷路に入るような気もしますけれど、興味深いことに、「体を洗った者」の「洗う」(luomai)は、「足を洗う」(niptw)の時に使われる言葉とは違います。そして、その「体を洗う」という言葉の用法を調べてみると、その一つは、ある人を祭司として任職する際に水で汚れを洗い清める場合に使われる言葉であることが分かりました。祭司の大事な仕事は、罪人に罪の赦しを与える犠牲を捧げる祭儀を司ることです。そういう聖なる仕事に就かせる為に聖別する。それが水で「体を洗う」ことなのです。
主イエスは、ユダを除くペトロを初めとする弟子たちに向かって「既に体を洗った者は、全身が清いのだから、足だけを洗えばよい」とお語りになりました。そこで洗い清められる汚れは、もちろん罪の汚れです。その汚れが既に清められている者。それは洗礼を受けた者を表すと私は思います。主イエスを信じる告白をして、水と霊による洗礼を受けた者は既に清められているのです。新たに生まれ、神の国に入れられているのです。そして、それは聖なる職務に就かせられることをも意味します。
毎週、罪の汚れを清められ、神様との平和を与えられた礼拝の最後にこの世へと派遣されることは、そのことを意味します。私たちは礼拝によって清められて、聖なる務めをするために派遣されるのです。他人の足を洗うために。

私たちキリスト者一人一人は、主イエスの十字架の死と復活の贖いの御業を信じる信仰において既に全身を清められています。しかし、私たちはこの世を肉体をもって歩く限り、絶えず悪の誘惑にさらされ、気付きつつも負け、気付くこともなく負けていることしばしばです。しかし、そういう私たちを主イエスは、この上なく愛し、愛し続けてくださっているのです。今日もこうして礼拝を与えられていること、御言が与えられ、聖霊が与えられ、主との交わりが与えられていることがその一つの証拠です。私たちは愛されています。赦されています。そして、今日も清められています。そして、今日も聖なる職務に就くように促され、そして祝福をもって派遣されるのです。その愛に応えて歩むことが出来ますように。祈ります。
 主イエスは過越祭の直前に、「ご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たち(ご自分の者たち)を愛して、この上なく愛し抜かれた」のです。その愛は、世にいるご自分の者たちのために過越の小羊として死ぬということです。そういう愛がここで言われている。
 そうなると、私は、いくらなんでも真似は出来ないと思う他ありません。このような愛は、主イエスだけが与えることが出来るものなのであって、その主イエスに「模範を示したのだ」と言われても、「はい、私もその模範に従います」と即座に応答など出来ません。しかし、主イエスは、それでも「このことが分かり、そのとおり実行するなら、幸いである」とおっしゃる。理解だけではなく、あくまでも実行することをお求めになるのです。それは一体どういうことなのか?
よく教会の内外で、「敬虔なクリスチャン」という言葉を聞きますし、「清く正しいクリスチャン」という言葉も聞きます。私たちも、信仰を持っていない人と自分たちを区別して、自分たちには罪がないかのように錯覚し、だから互いに愛し合えるかのように錯覚している場合もあると思います。私たちはえてしてそういう錯覚をしたいのです。しかし、錯覚は錯覚であって、現実ではありません。私たちは敬虔なクリスチャンであるかもしれません。でも、私たちはどうしようもない罪人です。それは教会生活を続けていれば分かることです。分かりたくないと目をつぶっていればいつまで経っても分かりません。でも、目を開けていれば分かる。御言によって目を開かれれば分かることです。私たちは誰もが罪人です。罪人だからこそ、主イエスによって罪を赦していただき、神の子として頂いたことを恵みとして受けることが出来るのです。信仰を与えられていない人と私たちの違いは、ただそこにあります。また、信仰を与えられていなかった当時の自分と、今の自分の違いもただそこにある。そして、恵みを恵みとして受ける道は、愛されたように愛し、赦されたように赦すということなのです。それ以外にはありません。恵みは応答することにおいて初めて実を結ぶのですから。




 
聖金曜日・主の受難の祭儀
ヨハネによる福音(18:1-19:42) 

ピラトの名が意味するもの
 
 まずピラトという人物です。この人は、これを読む限り、それ程悪い人間には思えません。一人の弱い人間です。何とかしてイエス・キリストを釈放しようとしたけれども、その努力も空しく、企てに失敗したのです。しかしいかがでありましょうか。私たちが、毎週、唱えています信仰告白(使徒信条)には、「(主は)おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け……」とあります。使徒信条で、イエス・キリスト以外に固有名詞が出てくるのは、母マリアとポンテオ・ピラトだけであります。これにより、ピラトの名前は永遠にキリスト教会に刻まれることになりました。果たして、これまで一体、何度、代々の教会において、この名前が口にされたでありましょうか。これは一体何を意味しているのでしょうか。なぜ使徒信条に、ポンテオ・ピラトの名前があるのでしょうか。使徒信条というのは、これ以上削ることはできない最小の形で、キリスト教の信仰を言い表したものです。その中には、マリアの夫ヨセフの名前も、一番弟子、初代教会の創始者ペトロの名前もありません。アブラハムの名前も、モーセもエリヤもない。
この時の黒幕で言えば、カイアファの方がもっと悪いのではないか。イスカリオテのユダも出てこない。省けるものは全部省いたのです。それでもポンテオ・ピラトの名前は残った。どうしてでしょうか。
 それは第一に、イエス・キリストの受難が、私たち人間の歴史の中にしっかりと組み込まれるためであります。ピラトという名前によって、私たちは、イエス・キリストの苦難と十字架が架空の話ではなく、歴史上の出来事であったことを確認するのです。ポンテオ・ピラトという名前は、歴史上、確認できる名前だからです。
 第二に、ピラトという名前は、イエス・キリストがリンチ(私的復讐)によって殺されたのではなく、しかるべき人物のもとで裁かれ、法のもとで死刑に処せられたことを示しています。そうしたことから、ある意味でたまたまその裁判を取り扱ったピラトが、その名前、汚名を残すことになってしまったとも言えるかも知れません。

(4)上に立つ者の責任
 しかしピラトの名前が残ったもう一つの理由は、上に立つ者の責任、決定権をもった人間の責任はそれだけ重いということではないでしょうか。誰かを助けられる地位にありながら、それを用いて、その人を助けることをしなかった場合、その責任まで、問われてくるということです。ピラトの場合がまさにそうでありました。この時ピラトはイエス・キリストを、釈放をする権限をもっていました。彼自身がそう言っているのです。しかも彼は、「この男には罪がない」ということを承知していたのです。イエス・キリストが無罪であることを知りながら、彼を釈放しなかった。その罪は、ピラトに課せられるのです。ピラトは自分の権限をふりかざす一方で、多くのものを恐れ、びくびくして生きている人間でありました。何かを決定する時にも、自分が正しいと思うことで判断することができない。力関係の中で、つまり、何が今の自分に有利であるかによって、それを決定する弱い人間でした。それでもピラトの罪が消えるわけではないのです。

http://www.km-church.or.jp/preach/

イエスをあれほど熱狂的に迎えていた人々が、全てイエスを離れてゆきます。そして、ペトロが「違う」「違う」「違う」と何度も否みます。私がイエスにかぶせた茨の冠とは何でしょうか、紫の衣とは何でしょうか、そして、わたしが十字架に掲げた罪状書きにはなんと書いたのでしょうか。

主よ、あなたを十字架にかけたわたしの罪をお許しください。あなたに従ってゆけますよう謙遜な心をお与えください。
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人はなぜ、苦しむのか。神はなぜ、人が苦しむのを許されるのか。苦しいとき、あるいは愛する人が苦しむとき、心に浮かぶ当然の問いです。
キリスト教はこう答える。「神と人が真の親子となり、真に愛し合うため」。
この世界は神の失敗作ではない。本来は苦しみのない世界を創ろうとして、できなかったというわけではない。神は苦しみも含めてこの世界を創造し、すべてをよしとされたのです。ならば、苦しみにも必ず意味があるはずだ。何か「良い」意味が。
事実、すべての苦しみを取り除いても、真の幸せは訪れない。空腹は苦しいが、満腹の連続が喜びになり得ようか。病も障害も、失意も痛みも、果ては死さえも取り除いた世界に、果たしていたわりの愛やあわれみの心、試練に耐える成長や苦難の中で輝く希望が生まれるだろうか。
そもそも、苦しみを創造したということは、創造主自ら苦しむことを引き受けられたということでもある。親は子を生むとき苦しむものだ。そして、わが子もまた苦しむことがあると知っている。それでも生むのは、それでもわが子に存在を与えて愛し、わが子の苦しみを全面的に共有する覚悟があるからだ。
神は苦しみのない冷たく閉ざされた世界ではなく、苦しみを親子兄弟で共有する、温かく開かれた世界をお創りになった。苦しみによってこそ人は真に出会い、親子は真に愛し合えるからです。
難病のわか子を抱きしめる親は、決して「生まれなければ良かった」とは言わない。代われるものなら代わってあげたい」というでしょう。それは自分の命すら惜しまないということであり、それこそが親心というものではないでしょうか。
全能の神はその親心をイエス・キリストにおいて現実のものとした。共に苦しむことですべてのわが子が親心に目覚め、その愛を信じて神と一つに結ばれ、新たに生まれて「永遠のいのちを得るためである。神は、なんととしてもわが子が「一人も滅びないで」栄光の世界へ生まれ出ることを望んでおられるのです。
神が創造主であるならば、世界の責任者は神である。苦しみを創造した以上、神はその責任をおとりになる。まさに十字架こそは、創造のわざの極みなんおです。人間は苦しみの中でなおも信じるとき、その創造のわざに与っている。今苦しんでいる人に、福音を宣言したい。あなたのその苦しみを神は共に苦しまれ、今あなたは神の国へ生まれようとしている。陣痛の苦しみと出産の喜びは、一つだ。神の愛の内にあっては、絶望と希望すら、ただ一つの恵みの裏表(うらおもて)なのです。(春佐久昌英、カトリック新聞、2009年3月22日)

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昨日は主の晩餐を祝い、今日は主の受難で二日目、聖なる過ぎ越しの三日間は続きます。クライマックスは明日の徹夜際。徹夜際は火を灯(とも)して、「新しい火」の祝福ではじまります。そして、その火をろうそくにつけて光を作ります。
キリストはかつて、「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(ルカ12.49-53参照)とおっしゃいました。
イエスの十字架の死と復活は、イエスがこの地上に火を投じようとしてのことだったのです。イエスの思いは平和をもたらすことでも、地上の不正、不信仰のため、対立、分裂をもたらすことになるのでしょう。


キリストは「地上に火を投ずるために来た」。火は一つのシンボル(象徴)である(復活徹夜祭の「新しい火」 参照)。シンボルはたいてい複雑な内容を含んでいる。例えば、家に火がつくと、瞬く間に破壊される、消防車が来ても間に合わないこともある。すごい破壊力です。毎日のように私たちが作っているゴミは焼却炉で火で焼かれる。キリストは罪の力を破壊する。人類のゴミである罪を焼かれる。
 また、火はものに変化をもたらす。例えば、食べ物を考えてみましょう。生の肉が火をとおしてビーフステキとなる。お米はご飯となる。小麦粉はパンとなる。火はものに本質的な変化をもたらす。さらに、金属を溶かしてさまざまのものを作る。我々は住んでいる家を支えている鉄筋は火を通っている。電車の車輌もレールも火でできている。ガソリンは石油からとられています。石油は何千年も前に焼かれた木から出来上がりました。
 火は清める役割をもっている。医者さんは注射するときに針を火で消毒し、殺菌する。家畜の伝染病が起こると、伝染を絶つために死んだ動物を焼くしかない。
 火はまた光をもたらす。今でも私たちは祭壇の上にロウソクを使っている。キリストは「世の光」であると表すシンボルである。
また、火は暖かさ、ぬくもりをつくります。寒い冬の夜に家族はいろりを囲んで食事を食べます。
 ギリシア神話には火を初めて見つけたプロメテウスという人物がいます。彼は火を神々の住まいから盗んで人々のところに運んだといわれます。そのために罰を受けた。やはり、火は使い方によっては危ないものでもあると教える神話です。けれども、人類は火の使い方を見つけて以来手放すことはないです。生活に欠かせないものです。
キリストは罪を破壊し、清め、光とぬくもりをもたらす。また、生の人間をおいしいものに変える。キリストは人類に欠かせないものである。キリストを受け入れるのも、受け入れないのも、全く自由ですが、どちらにするかで結果はずいぶん異なります。

十字架という火から光が生まれます。十字架の光、キリストの光は、繁華街のようなキラキラ輝く光と違う。目をくらますまぶしい光、分別を失わせる光とは違う。「暗闇の中」に光るものです。つまり、人間の現実を見抜いた上で、人間の姿をありのままに見せる光です。



聖土曜日 

大事な息子を殺されて、すべてが終わりかと見えるこの日をマリアはどのように過ごしたでしょうか。毎週の土曜日はマリアにささげられるのは、まさにこの聖土曜日がってのことです。今日、マリアの気持ちと心を合わせてすごしましょう。

祈りのヒント

イエスは葬られました。イエスは、私たちから取り去られたのです。明日は復活祭です。復活は当然なこととして起こることではありません。先の見えない絶望的な暗闇の中におかれても、イエスの愛の勝利を信じ、心から願い求める人々の心にだけ、ほんとうの復活が訪れるはずです。
イエスが取り去られたように見える闇の中でこそ、私たちの信仰の真実さが問われるのではないでしょうか。当然なことは信じる必要がなく、起こるかどうか、実現するかどうかも分からないことを希望し信じることこそ、信じるということでしょう。「イエスは死んだ。それでも、私は信じる」信仰を与え強めてください。 sese07

1 easter

毎日の福音
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復活の月曜日
マタイ28・8-15

救いの歴史において女性は中心的な役割を果たしています。イエスの復活のメッセージは婦人たちに託されています。神様は男女差別をしないことを意味します。当時の社会において女性は男性と同じような人間として扱われることはなく、むしろ人の目にふれないような所に生活する役割を与えられていました。

このようにして、復活はイエスの新しい生き方を表わすだけでなく、新しい人間関係、役割の見直しをもたらしているものです。差別意識、隔たりに支配された人間が、洗礼によって死に、平等、愛、正義に基づいた新しい人間に生まれ変わります。考えてみれば、洗礼を受けても古い生き方をし続けているならば、私たちにまだ復活のメッセージは届いていないということになります。そのメッセージを託された人々は、社会においてはあまり注目されないから、目を引かないから、権威をもつと思われていないから、私たちはそのメッセージを聴き損ねているかもしれない。(ステファニ)
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復活したイエスと出会った人たちには二つのタイプがあるようです。それは婦人たちと番兵たち、どちらもイエスの復活の知らせを受けました。婦人たちは何か手放しの喜びを持っている感じです。番兵たちは、そうではなく、世俗的にお金を得る機会にしました。復活したイエスに出会うのは大きな恵みですが、その時の私たちの態度はどうでしょうか。復活したイエスを心から迎え入れ、神の国の喜びと自由を生きることができますように。

復活の火曜日
ヨハネ20・11-18

電車や公共施設に置きっぱなしにされる品物はたくさんあるそうです。時には相当なお金を忘れる人もいるそうです。銀行の自動振込機の上に「お金を忘れないでください」と書いた一枚の紙があります。銀行員の話によると、人は忘れたものを探しに行かないらしいです。
ところがマリアは探していました。イエスが見つからなかったので「外に立って泣いていた」とあります。彼女は探し、ついにイエスに出会うことができました。もし彼女があきらめて帰ってしまったならば、多分イエスに会わなかったことでしょう。
小さな人を受け入れる人は私を受け入れるとイエスは教えていました。小さな人々、あまり注目されない人々、目を引かない人々を「探す」、注目するならば私たちもマリアと同じようにイエスに出会えます。(ステファニ)
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マリアは墓の中にイエスを探しましたが、イエスは墓の外でした。マリアが園丁だと思った人がイエスでした。キリストを信じる人々はイエスに出会いたいので教会に行ったり、巡礼をしたり、聖書を読んだり、黙想をしたりします。イエスは教会の中ではなくて教会の外、巡礼地の中ではなくて巡礼地の外、聖書や黙想の中よりも外の現実におられるかもしれない。そういう気持ちでもってこの復活節をすごしたい。私たちがそこには絶対いないと、思っているところにこそイエスがおられるかもしれない。
今、ここに、あなたを見出すことができますように。

復活の水曜日
ルカ24・13-35 

エマオに向かっていた弟子たちは聖書を知っていたでしょう。 しかし、聖書が分かると言っても、それは、たくさんの本を読み、勉強を重ねれば良いというものではありません。もちろん、知識は多いに越したことはありませんが、知識から理解へと進まなくてはなりません。知識は客観的なものですが、理解は、知ったこと、学んだことを自分のこととして当てはめることです。そこには主観的な作業が入ってきます。たとえば、小さいこどもでも暗唱聖句ができます。いや、こどものほうが、おとなよりたくさんの聖句を覚えることができるでしょう。詩篇23篇や、コリント第一13章などを全部暗記できるかもしれません。しかし、それを自分のものと理解しているかというと話は別です。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」という詩篇は、ある程度の人生の経験をしてはじめて理解できると思います。聖書のことばには、人生の体験を経ないとわからないものが数多くあります。私は神学校を卒業した時、聖書のことは何でも知っているように思っていました。しかし、毎週、毎週、ひとりびとりの現実の生活を考えながら説教しなければならなくなった時、私は、まだまだ聖書が分かっていないと思うようになりました。そして、様々な体験をして、聖書が分かるようになってきました。多くの人が「聖書は読むたびに別の意味を持って来る。」ということを感じています。聖書の「解釈」(interpretation)は一つかもしれませんが、その「適用」(application)はいくつもあって、ひとりひとりに、また、読むたびに違ってくるからです。聖書は、単に客観的に研究、分析するだけのものではありません。それは、神から「私」へのメッセージとして読むべきものなのです。

 そして、客観的な「知識」、主観的な「理解」へと進んだなら、次に、人格的な「信頼」へと進みましょう。聖書にある約束を信じて神に任せていく、聖書にある命令に聞き従う、聖書にある慰めによって心を満たす、聖書にある祈りのことばの通りに祈るというように、知識が理解に、理解が信頼に進んでこそ、「聖書が分かる」ようになるのです。そして、聖書が分かる時、私たちの目は開かれ、主イエス・キリストが分かるようになるのです。

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人生は与えられた道のりを歩むようなものだとよく例えられます。その中でさまざまな出会いがあります。先週大学の新入生に会いました。年齢と出身はいろいろですが、彼らの目の中に今の生活だけで満足しない、何かをつかみたいという気持ちが読めとれます。彼らは自分の人生の道で私とばったり会うことになりました。この出会いは私にとってどういう意味があるか今は分かりません。
エマオの二人が絶望感におそわれて歩いていました。何気なく近づいて来て聖書の話をしてくれたその人に何かあたたかいものを感じたでしょう。有難かったでしょう。そのために彼を誘って共にテーブルを囲んで食事をしたかったでしょう。一緒に食事した時にイエスだと気がつきました。道の途中、言葉を通じてのつながりでしたが、食事を通じてのつながりは心の中までふれました。私たちも毎日のミサにおいて生きたイエスにつながるのです。(ステファニ)
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イエスから直説に説き明かされている時には、自分たちの心が燃えていたとは気がつかなかつたようなのです。あとから思いだしてみると、心が燃えていたというのです。この感激の仕方というのも面白いと思います。

 信仰というものは、あとでじわじわとわかってくるというわかりかたではないか。もちろん、熱狂的に感激することもあるかもしれませんが、このふたりのように、あとになってそういえば、あの時、心が熱くなったね、と思いだすというわかりかた、感激の仕方というのも、なかなかいいものだと思います。

 イエスの語りかたというのは、人々にただ熱狂的に分からせようとするのではなく、人々が自分たちの心のなかで納得するまでじっと待ってくださる、そういう語りかたをするということではないかと思うのです。

 ある人が「人に話をする時に『説得』と『納得』という方法があると言っております。説得は相手に反論を許さない、説得されたからといって、納得したとは限らないということがある。納得していないのに、説得されたというのは、非常に不愉快なものだ。相手を説得するのではなく、相手に納得してもらうほうを自分は選びたい」といっております。

 イエスの語りかた、特に復活の主イエスがこのエマオ途上のふたりに語りかけるとき、復活という事実を彼らに分からせようとしたときに、主イエスは説得ではなく、納得してもらうまでじっと待っておられる、そういう納得という語りかけをなさったのだということではないかと思うのです。

復活の木曜日
ルカ24・35-48

毎年数百万人の子供が死んでいます。その死に対してテレビカメラが向けられることもなく、マスコミに注目されることなく、世界の人々にほとんど気づかれることもなく死んでいきます。これはユニセフ(国連児童基金)が毎年発表する「世界子供白書」に書いてあることです。
イエスは私たちと共に生きていることを示すのに手段として食事を使いました。世界の富は数ヶ国、そして少人数の手に収められて(牛耳られて)います。東京で一日に捨てられる食べ物によって、数十万人の腹を満たすことができます。神から造られた富が平等に分配されるということは数百万人の子供にいのちを与えることを意味します。
死ぬことが定められている子供たちに食べ物を与えることは、人間に実現できる復活です。人類が復活を信じていれば、抱えている問題を解決する知恵と力を見出すでしょう。(ステファニ)
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直接に体験した弟子たちにとっても、キリストの復活というものは決して分かりやすいことではなかったようです。
復活したイエスに食事はいらないと思われがちですが、魚を食べられたのは何故でしょうか。これは弟子たちに理解させるため、弟子たちの目線に合わせるためでしょうか。なぜわからないの!といわずに、叱らないで相手に合わせて共感するところに優しさが感じられます。弟子たちの心をほぐして悟らせるイエスの接し方に倣って、私たちも、福音を伝えていくことができますように。
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聖書には、作り話ときこえる部分がありますが、間違いなく歴史的事実と言えるで部分もあります。
  例えば、「イエス様が十字架にかけられて死に、墓に葬られたこと。その事実を目の当たりにしたとき、弟子たちが、自分も同じような目にあうのではと逮捕を恐れ、皆逃げ出してしまったこと。
そしてその同じ弟子たちが、その後、自分の命さえなげうって、自ら死ぬことになりながらも、イエス様の復活を第1朗読に見たように証しするものに変わったこと。その命がけの弟子たちの宣教によりましてキリスト教が成立し全世界に広まったこと」。これらのことです。
 しかしここには常識的には、どうしてもつながらない2つの事実があります。「イエス様の死とそれを見た弟子たちが皆、裏切り、逃げ出してしまった」こと。そして「その同じ弟子たちが命を捨ててまで宣教した」こと。この二つには大きな溝があります。そしてこの2つをつなぐものこそ、イエス様の復活の出来事ということになります。
 しかしこの復活という出来事こそ、躓きであり、正しく理解することの難しいところです。世間では幽霊の話は、結構聞きますので、イエス様の復活の出現を、この幽霊話と結び付けて理解するかもしれません。しかし今日の箇所は、復活の出来事が幽霊話とはまったく違うことを、証しする大切な箇所ということになります。
 弟子たちもイエス様が現れたとき、亡霊が現れたと思い、恐れ、びっくりしたのです。むしろ聖書に記される弟子たちの復活体験は喜びよりは驚きと恐れのほうが強調されています(マコ16:8)。それにはさらに裏切ってしまったイエス様に顔を向けられない、今会うのは恐ろしいという思いもあったかもしれません。
 しかしこうしておののく弟子たちにイエス様はこうおっしゃいました。「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、わたしにはそれがある」。そう言って手足を見せた。それでも不思議がっている弟子に、わざわざ焼いた魚を食べて見せた。ここにはイエス様のユーモアがある感じがします。
そこに「あんな人知らない」といって逃げてしまった弟子へのゆるしも含まれているように思えます。
 私たちも目の前で死んだ人間が、突然現れたらびっくりして逃げ出してしまうでしょう。しかし肉体があることをしっかりと見せただけでなく、物を食べ、本当に、そこにいるのが死に打ち勝ったイエス様がいるということを証してくださったのです。聖書はこのようにしてイエス様の復活の出来事、赦す神、神様の愛を伝えます。
 

 聖書はこう私たちに迫っています。「臆病者の私たち弟子が変わった。それはこのようにして実際に復活の出来事を体験したからだ。そして裏切り者をさえ赦す神様の愛を体験したからだ。この証言を聞いたあなたも、私たち弟子の証言を信じて、神様の深い愛を伝えるために、イエス様に、私たちに従いなさい」と。
 私たちがその命がけの弟子たちの証言を、そのまま受け止めていくことができるよう、恵みを願いましょう。
http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_046.htm

直接に体験した弟子たちにとっても、キリストの復活というものは決して分かりやすいことではなかったようです。
弟子たちの心をほぐして悟らせるイエスの接し方に倣って、私たちも、福音を伝えていくことができますように。

復活の金曜日
ヨハネ21・1-14 

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・弟子たちは、故郷であるガリラヤに戻って、そこで宣教を始めました。しかし、何も取れません(21:4)、何の成果も上がらなかった。弟子たちは失望し始めます。イエスの復活は、絶望した弟子たちを立ち上がらせる契機にはなりましたが、まだ彼らは半信半疑でした。自分たちが見たのは幻ではなかったのか、本当にイエスは復活されたのか、復活されて私たちに伝道の使命を与えられたのであれば、それなりの成果が出るはずではないか、そのような疑問が次から次に弟子たちの胸中に押し寄せました。「自分たちは何をすればよいのだろう」、彼らは元々ガリラヤの漁師でした。不安な心を静めるために、再び漁に出ることにしました。

復活に生かされた生活

・弟子たちはエルサレムで、復活のイエスに出会っています。そして、イエスの指示でこのガリラヤに来ました。それにもかかわらず、イエスの到着が予定よりも遅くなると、不安になり、自分たちが出会ったイエスは幻ではなかったのかと思い始めます。人間の信仰とはこの程度のものです。復活のイエスに出会って感激する。しかし、感激はすぐにさめ、やがて、不信に囚われてしまう。私たちの生活もそうです。神が私たちを養って下さると信じていても、実際に失業してみると、「これからどのように暮らしを立てれば良いのか」と悩み始めます。

・今コロナウィルス感染拡大による営業自粛や外出自粛で、飲食店やホテル・旅館等は売り上げが半分や三分の一になり、家賃や給与が払えなくなり、事業継続が難しい状況に追い込まれています。個人でも解雇されたり、給与が減ったりで、明日の生活の目途が立たない人も出ています。国や自治体も様々の支援制度を打ち出していますが、手続きに時間がかかり、今日・明日の資金繰りにも窮迫し、心が折れ始めている人も出ています。「主は本当に私たちを養ってくれるのか」、信仰者の中にも疑う人も出てくるでしょう。信仰がまだ私たちの生活を規定していない、これが私たちにとって最大の問題です。弟子たちもそうでした。イエスが復活されたことがまだ弟子たちの生存を変えるまでの出来事になっていなかった。だからイエスが再び来られたのです。
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イエス様の弟子達は、まさに「イエスという人」に自分自身の人生を託していました。
つまり、弟子達にとって、主イエス様は、彼らの希望の星でした。
この方にさえ付いておれば、きっと将来は安泰だ。
きっと将来はこの方の下で、権力を手にいれて、羽振りをきかせる事が出来るはずだ。
程度の差こそあれ、彼らは全員がそういった思いで、この数日前まで、イエス様に従ってきたのでした。
 
さて、あの十字架の時のことでした。
 あれほどまでに忠誠を誓った筈のイエス様を、自分たちは、あんなにもあっけなく見捨ててしまった、命からがら逃げ出してしまった、あの不甲斐(ふがい)なさ。
それは彼らには、最初の勢いが良かっただけに、一層情けない、
思い出したくもない自らの行為でした。
或いは「意気揚々と故郷を出てきたものの、一体どんな顔をして家族の所に帰ればいいのか?」
あるいは、言い訳がましく、
「心ならずも、あの時には逃げ出してしまい、無様な所を見せてしまったが、それはここにいる全員が同罪だから、まあいいや」
「それに、自分たちは逃げただけだが、みんなのリーダーを気取って、偉そうにしていたペテロさんなんかは、イエス様を裏切ってしまったのだから、あの人に較べれば自分はましだ」きっと、こんな事ばかり考えていたのではないでしょうか?
 
あまつさえ、みんなからそんなふうに思われていただろうペテロに至っては、きっとその場にいたたまれなかったのではないでしょうか?
きっと彼はね、その場の誰よりも深く傷ついていたのだ、と思うのです。
そんなふうに、その場にいた全員が、あれやこれやと考えながら、きっとですね、自分だけは人よりはましだと言えるような、言い訳や逃げ道を考えていたかも知れません。
そうしましたら、その部屋の中に、まるで壁をすり抜けるようにして、イエス様が入ってこられたのです。
それが、20章までの出来事でした。
そこでね、彼らは、イエス様が生き返られたのだ、という事を知ります。そして大喜びをしたのです。
そして21章になるのですが、
21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
とあります。
もう一度お姿を現された、と書いてあるのですね。
という事は、あの部屋の中で、弟子達にお姿を顕されたイエス様は、皆に顔をお見せにはなっただけで、またすぐに、いなくなられた、という事なのですね。
 
つまり、弟子達は、「イエス様は復活されたのだ、だったら、前と同じように、もう一度、この方に従って行けばいい」
きっとそう考えたのではないでしょうか?
まずは一安心した筈だったのですね。
会社がつぶれてしまって、どうしよう?と思っていたけど、大丈夫、再建されます、という事でみんな安心していた、すると又社長が雲隠れしてしまったぞ、というところではないでしょうか?
 
さて、みんなは、一体この時に、どう思ったのでしょうか?
 
聖書を読む、ということはね、こういう事を想像しながら読むのです。
すると、あれこれと考えが浮かんできて、とても楽しいのです。
 
さて、彼らはね、またまた、どうすればいいのか?と思い始めたのですよ。
そしてね、今回は、前の時とはちょっと事情が違います。
と言いますのは、彼らは、最初の時は、イエス様はもうおられない、死んでしまった、と思っていました。
だからそれなりに、自分の身の振り方さえ考えれば良かったのです。
はなはだ帰りにくいけれども、ほっかむりでもして知らん顔をして、親元にでも帰って、ほとぼりが冷めるまで待てばよかった。
ところが今回は、そうではなくて、イエス様は生きておられた。
じゃあ、プロジェクト復活だ、と思えば、またイエス様は見えなくなってしまいました
さあ、帰るに帰れない、と言ってこれから一体どうするの?
これは一体どういう事なんだ?
イエス様が蘇られたという事は分かったけれど、でもそれからが、わからんじゃないか?
イエス様は一体この私達に、なにをさせようというのだろうか?
そんな、ハテナマークがみんなの頭上にいくつも飛び回っていた、そんな数日を、彼らは過ごしていたのではないでしょうか?
 
彼らはね、見失っていたイエス様を見いだした、と思ったとたんに、又もや見失ってしまったのですね。
それで、「ガリラヤで会える、と言われたイエス様のお言葉だけを頼りに、このガリラヤ湖の畔まで来たのです。
しかし、それからどうすればいいのか分からない。
こういう時、というものを、私達も時折経験させられる時がありますね。
 
  (どうすればいいのか?みことばの約束を信じて待つのです)
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イエスは働くものの苦労をいやすために炭火を起こし、魚を焼いてパンも準備して待っていました。そして弟子たちを食事に招きます。弟子たちが取った魚、労働のみのり、いのちのかてになるために捧げます。湖のほとりの静けさを通して主のやさしさと弟子たちの感動が伝わってきます。
復活の物語は食事で終っていますが、それは、復活が天国における祝宴の始まりであることを暗示するためです。
ヨハネの好む七という数字が、七人の弟子で表わされ、多様性と一致、つまり完全さを象徴しています。153匹の魚と破れない網は、あらゆる時代の多種多様なキリスト者の、生き生きとした集まり、教会の一致と多様性を象徴しています。魚は初代教会では、イエスはキリスト、神の子と信じるキリスト者を表わす暗号に使われました。(荒)
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私たちはよくイエスと出会いたいと願って祈ります。しかしイエスは私たちの期待(希望)通りに現れません。復活したイエスはご自分が行きたい所に、行きたい時、ご自分のしたい方法で現れます。私たちがイエスと出会い、イエスに従うのは私たちの様式を捨ててイエスの様式を受け入れる時でしょう。主よ、あなたの導きに気づかせ、従わせてください。
復活の土曜日
マルコ16・9-15
弟子たちは、自分の故郷、社会的・経済的・精神的地盤から離れ、全く異なるメンタリティの人々の中に、異邦人のように入っていきます。「地のはてまで」、たよるものをなに一つ持たず、ただイエスが主であることだけを頼りにし、イエスだけを伝えるために、出かけていきます。
イエスが神の福音を宣教したように(マルコ1・14)、弟子たちも世界中どこでも福音を宣教します。福音宣教は、すでに神の力の介入の現れであり、全世界の救いを近づけます(引き寄せます)。「私は、あなたを国々の光として、地のはてまで、私の救いをもっていかせよう」(イザヤ49・6)とイザヤ書に書いてあります。イザヤは主の霊がダビデの子孫に注がれ、彼によってイスラエルが解放され、幼子が毒ヘビの穴に手を入れても害を受けない、平和な時代を予言していました。マルコは、そのような時代をもたらす者として、宣教する弟子たちを描きました。(荒)
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見た人が言うのを信じなかった。信じることの難しさです。死んだ人が復活して姿を現すということは、人間の理解をはるかに超えたこと、信じられなくて当然でしょう。それでも確実に、信仰は伝わってきています。それは確かに人間の業ではなく、神の業といえるでしょう。
主よ、信じる恵み、主の復活の喜び、希望、平和をもっと深く味わう恵みをお与えください。
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復活したキリストは、弟子たちの日常生活の中で、普段の仕事(魚を取る、朝の食事)の只中で現れる。しかし、それはキリストであると理解するのは、これは人間の能力をこえるのだ、と。普通の考え方、常識ではたりない。何も取れなかった夜を体験したあとに得られる認識である。深い祈り(瞑想)を通して得られる生命が必要である。

2 easter

復活節 第2月
ヨハネ3・1-8

キリストの復活を信じることによって、弟子たちは生まれ変わる体験をしました。イエスはかつてニコデモに語ったことが復活の後に、その意味が明らかになった。私たちは、キリストから聞いたことばはニコデモみたいに素直に受け止めるが、その意味は必ずしも分かると限らない。十字架で行き詰まって、復活する体験で初めて分かることがあります。弟子たちは、イエス様の十字架を見て、裏切り、復活したイエス様にゆるされ、イエス様のすごさを本当に体験したのでした。だからこそ命を捨て、証しすることができるようになったのでした。その伝えによって、キリスト教は成立したのです。
ファリサイ派の教師であるニコデモは、「神のもとから来られた教師」であると認めたイエスから、律法の理解や満たし方について新しい教えを期待していたのでしょう。ところが突然、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」というイエスの答えを聞いて、その意外さに驚きを見せます。ニコデモはイエスの言葉《アノーセン》を「新しく」と理解して、イエスは「もう一度」《デウテロン》(二度目を意味するギリシア語)肉体が生まれることを語っておられるのだと誤解するのです。
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「新たに生まれかわる」とは、肉からではなく霊から生まれた者にかわること、自分の力に頼るあり方から、神の力、神の働きに心を開くあり方へとかわること。神の霊にすべてを委ねる時、私たちは神の国を見ることができます。それは神の正義と憐れみの支配する所です。神の霊が私をどこへ導くのかわかりませんが、心配せずに神の息吹に信頼しましょう。その時、希望と平和、喜び、慈しみに満ちた神の国に導かれるのです。
主よ、復活の栄光に満ちたあなたを信じます。「自分」という思いを取り去ってください。み旨のままに新しく生まれかわることができますように。

復活節 第2火
ヨハネ3・7-15

私たち人間は生きながら天に上り、上からこの世を眺めることはできません。この世の価値観の中に生まれて生きる、地からの者です。しかしイエス様だけでは、天からの者だと言われています。その天からの者が、この世に下りてきたと言うのです。天が上、地が下という空間的な意味ではなく、これは神の子のへりくだりを示す言葉でしょう。つまりこの世の価値観の中に、神の価値観を持ち込んでこられたのです。じつは、この世をこの世たらしめているのは、神の価値観なのですが。
私たち人間は、この世の価値観ですべてを判断しがちです。自分の立場から語るのであって、神の側に立つことは難しい。しかしイエス様は、神の側から語られたみ言葉です。つねに神の側に立って考え、それをこの世の言葉で語るのです。神の側と人の側の両方に立てる方なのです。ですから、この世の言葉であって、この世の言葉ではないのです。だからこそこの世を救う言葉なのです。私たちはこの世の価値観を、神に押しつけてはならないのです。かえってこの世の価値観を、神の価値観で見直さなければならないのです。
この風の比喩で大切なことは、風は「欲するままに吹く」とか、「あなたは風がどこから来てどこへ行くのか知らない」と言われているように、人間は風をコントロールすることはできないという事実です。風があることは、「その音を聞く」ことで分かります。すなわち、御霊の働きがあることは、力ある業(奇跡)が現れたり、人間の在り方を変えるという事実によって知ることができます。しかし、その御霊の働きを人間の側からコンロールすることはできません。御霊は「欲するままに」働かれます。人間は、ひれ伏して、あるいは虚心に、その働きに身を委ねるだけです。
では、どうすれば御霊の働きを身に受けることができるのでしょうか。この問題はすぐ後に取り上げられることになりますが、ここでは御霊の働きが、まったく人間の側の計らいとか努力を超えた、神の側から一方的に与えられる事態であることが指し示されています。
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水のこころ
                   高田敏子

            水は つかめません
            水は すくうのです
            指をぴったりつけて
            そおっと 大切に──

            水は つかめません
            水は つつむのです
            二つの手の中に
            そおっと 大切に──

            水のこころ も
            人のこころ も



         作者(高田敏子 Takada Toshiko) 1914(大正3)~1989(平成1)。




復活節 第2水
ヨハネ3・16-21

闇を照らす光を、光であるがゆえに拒んでいる。そういうものになっていないでしょうか。光より闇を好む。そういう人間になっていないでしょうか。
 百聞は一見にしかずなどと言います。しかし目が見えれば、それで本当に正しいことが見えると断言できるでしょうか。物質的なものが見えること、それはもちろん大事ですが、しかし本当はそれよりはるかに大切なものがあるのです。
 「心の目が見えているのか」。それが神様から今問われています。バルティマイと同じように、私たちこそ「私は何も見えていない人間です。私を憐れんでください。私は目が見えるようになりたいのです」と、何度も何度も叫ぶべきなのです。そして眠りからさめ、光そのものである神に照らされて、立ち上がり、光の中を歩めるよう、回心の恵みを願っていきましょう。

神は肉眼の目で見ることはできません。イエスさまも、天国に行くまでは目でみることはできません。しかし神さまは、信仰によって見ることができます。
聖霊なる神さま。それは目で見ることはできません。しかし、風は目で見ることができなくても、風が吹いた結果を見ることはできます。風が吹いてカーテンが揺れるのを見て、風があることが分かるように、神さまもそのように見ることができるのです。そのように、神の恵みを見る喜び。‥‥神さまの世界が見えてきた、というのはそういうことです。

もちろん、今だって見えなくなることがあります。「自分は見える」「自分だけは見える」と、傲慢になった時に、何もかも見えなくなります。それゆえ、「罪人の私をあわれんでください」とへりくだりながら、主を礼拝する毎日を送りたいと思います。神の恵みを見て歩むためです。
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彼らは使徒たちを捕えましたが、天使が彼らを連れ出したので、使徒たちはいのちのみことばを神殿の中でことごとく語りました。天使の存在を信じないサドカイ派の人たちに対して、天使が登場していることは興味深いです。サドカイ派の人たちは、物理的な方法によって物事が解決できると思っていました。目に見えるものだけが実在しており、目に見える物質的な手段を用いて、使徒たちを捕まえたと思いました。
 しかし、実際は、目に見えない存在のほうが目に見えるものよりも力があり、目に見えないものが目に見えるものを支配しているのです。パウロは牢獄に入っているとき、「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。(Ⅱテモテ2:9)」と言いました。また、主イエスは、「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。(ルカ12:4)」とおっしゃられました。したがって、目に見えないみことばや私たちのたましいは、決して物理的な方法によって縛られることができません。

 ちょっと、どろぼうのことを考えてください。どろぼうは、真昼間にどろぼうをすることよりも、夜にしますね。それは、どろぼうという悪い行ないが明るみに出されるのを恐れるからです。イエスは、この光と暗やみの関係を用いられて、なぜ救われるという良い知らせを拒むのかを説明しておられます。つまり、悪い行ないを愛しているからです。自分が行なっている悪いことを続けたいからです。イエスを信じると、新たに生まれて、罪から離れて生きることを知っています。でも、罪から離れることは嫌なので、イエスのところに来ないのです。人はイエスを信じない理由をいくつも並べ立てますが、その理由はただ一つ、今の生活を変えたくないこと、自分が罪を犯しているのを認めたくないことにあります。

 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 イエス・キリストを信じるということは、真理を真理と認めることです。当たり前のことを当たり前のこととして受け入れることです。
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この御子を信じる者は永遠の命を与えられ、神との交わりに入っているのですから、もはや神からの断絶を意味する「裁き」はありません。それに対して、神との交わりに入るための唯一の道として神が世に遣わされた「ひとり子」を信じない者は、神との交わりに入ることを自分から拒否したのです
から、そのことがすでに神からの断絶、すなわち「裁き」なのです。
こうして、世の光として来られたイエスが、彼を信じるか拒否するかによって、地上の人々を光に属する者たちと闇に属する者たちに分けられるのです。これが裁きです。
「最後の審判」というように、神の裁きと言えば、未来にある、歴史の最後にあるというイメージがあります。 ヨハネ福音書では、神の裁きは将来のことではなく、現に今地上で始まっています。
この意味深いおことばを平べったく解釈すると、ウソに頼らないでいつも真実を求めて生きる人は、一時的にこまることがあっても、損しても、最終的に困ることはない、裁かれない、ということになる。逆に、隠れみのをしながら生きる人間、ネコババ(ねこじじ)しながら生きる人間、「家族のために」、「教会のために」と言いながら、実は自分のためにしか生きていない人は、一時的にうまくいっても、世間から認められても、最終的に裁きを受ける、困ってしまうようになる。神は心を見ていて、神の世界ではごまかしはきかないということでしょうか。
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神の愛はイエスの十字架と復活に示されています。人類のすべての罪を担うという愚かなまでの神の愛は、私たちが真に生き、永遠のいのちを得ることを願うものです。御子を信じる者は、もはや裁きを恐れることはありません。光と真理は神の愛とあわれみ、そのみ言葉のうちに、そして神と人間との喜びにあふれた生き生きした関係のうちにあります。光であり、真理である主と共に歩み、主に仕えるものになりましょう。そこに光が輝き、闇は光に照らされます。
主よ、自分に死に、キリストの光のうちに生きるものとなりますように。


復活節 第2木
ヨハネ3:31-36

「上から来られる方」となっていて、天からの来られたとはなっていないことに注目する必要があります。つまり今でも来られる。負けたように見えながら、その中でこそ神の愛の価値観が勝利したのです。この世の価値観の真ん中に、神の愛の価値観が十字架の形に打ち立てられています。私たちは神の価値観を十字架につけるべきではなく、私たちの不平不満をこそ、十字架につけるべきなのです。この世の価値観で十字架を見るのではなく、十字架の価値観によって、この世と私の人生を見るべきなのです。
地からの者は地に属し、地からのことを語る と言います。私たちのふだんのおしゃべりは、ほとんど地のことでしょう。天のことを語ろうとすると、何となく白けてしまうでしょう。修道院でさえ、いや修道院だからこそ、朝はサッカーの話で始まります。もちろん、地のことを話すことが悪いのではありません。地のことは大切です。また地のことも天のことにつながっており、厳密には地のことと天のことを分けられないのです。私たちは地に足をつけて生きているのですから、まず地のことが優先されても当たり前かもしれません。
  しかし、それでもなお、地のことだけを見ていたら、地のことは見えないことも確かなのです。地のことだけを見ていたら出口はなく、やがて地に失望するでしょう。地のことを本当に大切にしたかったら、天のことから見なければなりません。「天にまします、天におられる」と祈る時、天は上の天だけを意味するのではありませんが、また上の天をも意味します。やはり一日の始めに天を見上げ、それからしっかりと地を踏みしめて生きることが大切なのだと思います。永遠のいのちとは、死後の世界だけではなく、今から始まる。天を仰ぎながら、地上に生きる、これが永遠のいのちを得ることだとヨハネは言いたい。
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イエス以外の者は天から地に来た天界の啓示者ではない、「上から来られる方」、つまりキリストはイエス以外の者は地上で人間として体験した事柄の限度内で語るにすぎないと主張されていることになります。それに対して、「天から来る方(イエス)は、(天界で)見たこと、聞いたことを証ししておられる」のです。 イエスが神と一つなる方として直接神の言葉を語られるのは、神がイエスにご自身の霊を無制限に与えて、ご自身と完全な交わりの中に置いておられるからです。御霊による神とイエスの一体性は、次節で「御父と御子」の愛の交わりと表現され、神性における御父、御子、御霊の三位一体が、地上のイエスの姿に顕現しているとされることになります。
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「御子を信じる人は永遠の命を得」ます。御子を信じるとは、イエスを通してあらわされた神の愛を自分自身の内に満たしていただくことです。御子を受け入れることによって注がれる神の霊は私を神への憧れと一致へと導き、「自分」をむなしくして、ただキリストの命に与ることのみを渇望させます。そして喜びと希望のうちに御子に従う道が開かれます。キリストの十字架と復活を前にして、私たちは「あいまいな立場でいることはできません。懐疑的な知識人、ピラトは、出世のための順応主義ゆえに中立の立場をとろうと、部外者でいようとしましたが、まさにそのために正義とは反対の立場をとることになってしまいました。私たちは自分の立場を知らなくてはなりません。」(ベネディクト16世、聖金曜日:十字架の道行・ 説教 2006.4.14)。「神が”霊”を限りなくお与えに」(34節)なった、ぎりぎり間に合うようなものではないことを信じるかどうかに「永遠のいのち」はかかっています。

聖霊の七つの賜物…イザヤ書2章1~3節の記述に基づき、カトリック教会は聖霊が人間に与える七つの賜物を教えている。上智(知恵)sapientia・聡明(理解)intellectus・賢慮(判断)consilium・剛毅(勇気)fortitudo・知識scientia・孝愛(神さまを愛するこころ)pietas・敬畏(神さまを畏れるこころ)timor Dominiの七つである。
これらを求めると永遠の命を得る。

安定した生活、安全な生活、苦しみのない生活、トラブルのない生活、快適な生活。これを求めるとぎりぎりに間に合うことになる。


主よ、聖霊によって心の扉を開いてください。主の霊に導かれ、神の愛と御子イエスの証し人となれますようにお導きください。
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例えば私たちが聖地イスラエルに行きたいと思ったとします。しかし事情によって行くことができないとします。その時は、どうするでしょうか。イスラエルに行ったことのある人に話を聞くでしょう。そうすれば、行けなかったとしても何となくイスラエルの事情や、自然や気候はどうなっているかとか、食べ物は何がおいしいかとか、どういう暮らし方をしているとか‥‥イスラエルに行ったことのある人が話してくれれば分かるでしょう。 
 しかしもっとはっきり分かるのは、イスラエル人に聞けば一番良く分かるでしょう。そこに住んでいるのですから。そこから来たのですから。
 では「天国」のことはどうか。それはそこから来た方が一番良く知っているに違いありません。しかし「地から出る者」は地から出たのですから、天国のことは分かりません。また旧約聖書にも出てきますが、「預言者」という人たちがいました。預言者は、神の言葉を聞いて、そのまま伝えました。しかしこれも断片的なことしか分かりません。
 そうすると、天国のこと、神さまのことは、天から来られた方が一番良く分かるのです。ではそれは誰なのか、という話しなのです。‥‥それはもちろん、天から来られたただ一人の方、イエスさま、その方であるということです。
私たちは、イエスさまという方をどのように見ているのか。きょうの聖書を読んだ時に、そのことをあらためて、考えさせらるのです。


復活節 第2金
ヨハネ6:1-15

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大麦のパン5つと魚2匹というわずかな食べ物が癒しを求めて集まった大勢の人々のお腹と心を満たしました。イエスはわたしたちの必要のすべてをご存知です。わたしたちは、自分の持つわずかなものを主の前に差し出しているでしょうか。一人占めしていないでしょうか。自分の手の中にあるどんなに小さなものでも、イエスの前に差し出され、イエスによって祝福され、イエスのために用いられるとき、まわりの者と分ち合われ、それは何十倍にも何百倍にもなります。こうして、満ちたりた心と感謝の気持ちを味わうことができます。そこに平和がおとずれます。
いのちのパンである主よ、心の中にあるどんな思いも執着も手放して、あなたに委ねます。どうぞ一人一人の必要を満たしてください。
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私たちはキリストを信じて従っていくという時に、いろいろな心配があります。その心配の一つは、「キリストに従っていって、生活していけるのだろうか?食べていけるのだろうか?」ということがあるだろうと思います。きょうのイエスさまのなさる出来事は、イエスさまがちゃんと養って下さるという答えです。旧約聖書の出エジプト記で、神に従ってエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の放浪生活を体験しました。食べるものも飲み水もないのが荒れ野です。神さまに従って出て行ったのに、荒れ野の厳しい生活が待っていたのです。しかしその時、イスラエルの民は飢え死にしてしまったでしょうか? 飲み水が無くて死んでしまったでしょうか?‥‥そうではありませんでした。何もないはずの荒れ野に、神さまは毎朝地面の上に「マナ」という食べ物が現れるようにして下さいました。そして砂漠では、岩から真清水を流れ出させて下さり、人々の渇きを癒して下さいました。そのように、神さまに従って行った人々を、神さまは養って下さったのです。
 そしてそれと同じ事は、私も体験したところです。私が献身して、修道生活する時に生じる不安は、「蓄えもないのにどうやって暮らしていくことが出来るだろうか?」ということです。しかし神さまは御言葉を通して、献身するように導かれました。それに従っていきました。すると、不思議にもあちこちから助けが起こって、神学校生活を続けることが出来るようになったのです。主が養って下さったのです。

     
 フィリポは答えました。「みんなが少しずつ食べたとしても、200デナリオン分のパンでも足りないでしょう」と。200万円分パンを買っても足りない。フィリポの答えは「それは無理です」「あり得ない」という答えでした。フィリポは、常識的な答えをしたのです。フィリポが正常なのであって、この大群衆を食べさそうというイエスさまのほうがおかしいのです。
 
     御言葉に従う

 するとイエスさまは、弟子たちに群衆を座らせるように命じられました。‥‥座らせるというのは、食事のために座らせたのです。いったい5つのパンと2匹の魚で何をなさろうというのか?
 弟子たちは、イエスさまが命じられたとおり、群衆を地面に座らせました。イエスさまが何をなさるのか、何が起きるのかも分からないまま座らせました。これも大切なところです。弟子たちは何も分かっていなかった。イエスさまが奇跡をなさることも分かっていなかった。何が起きるのかも分からなかった。神の偉大な力にも目がふさがれていました。‥‥にもかかわらず、イエスさまがおっしゃったとおりに群衆を座らせたのです。そのように、分からなくても主の御言葉に従うということです。その結果、たった5つのパンと2匹の魚で大群衆を養うという、主の奇跡を経験することが出来たのです。
 私たちも聖書の御言葉について分からないことが多い。なぜそうなのか、分からないことがある。しかし分からなくても、主イエスを信頼して、その御言葉に従う時に、思わぬすばらしいことを体験するのです。

     感謝をなさる主

 イエスさまは、アンデレが連れてきた少年が持っていた、たった5つのパンと2匹の魚を受け取られると、「感謝の祈り」をなさいました。感謝の祈りをなさったのです。これっぽっちしかないのに、神さまに感謝をささげたのです。
 私たちはどうでしょうか。このような時に感謝をささげることが出来るでしょうか。「これっぽっちしかない」と文句を言わないでしょうか。
 5つのパンと2匹の魚は、人間の手に持っている限りは5つのパンと2匹の魚でしかありません。しかしそれがイエスさまの手に渡った時に、事情が変わるのです。大きく用いられるのです。結果的にその1万人もの人々が満腹するという奇跡が起きました。ここに私たちは、大きな希望を与えられるのです。私たちも小さく少なく、弱い者です。しかしこの私たちが、自らを主のみ手に委ねた時、御言葉に従って委ねた時、それは考えられもしない大きな祝福となるのです。
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車に乗っている人たちの中で、車はどのようにして動いているのか、どんな技術が使われているのかを知っている人は、どのぐらいいるのでしょうか。多分少ないでしょう。けれでも、車が動いていることを疑う人は一人もいないのです。
テレビのスイッチを入れてテレビ番組やニュースを見ている人は、なぜそこに画像が移されているのか、なぜ遠くにいる場所や出来事はこんなに近くに見えるのかを分かっている人は少ないでしょう。けれどもテレビはちゃんと働いていると皆思うわけです。
同じように、私たちはキリストに対する信仰はどのように働らいているのか、なぜこうなっているのかを分からないこともあるでしょう。けれども、キリストの復活を本当に(本気で)信じた人々(例えば、マザーテレサ、ヨハネ。パウロ二世、アルベリオーネ神父など、2000年前から現在に至るまで)の生き方は変わったことは疑えないでしょう。キリストの復活はどうして可能なのか、分かる人は少ないでしょう。しかし、キリストの復活にはすごい力があるということは疑う余地はないのです。
誰か言ったように、信仰はレーダーのアンテナのようものです。レーダー (Radar) は電波を対象物に向けて発信し、その反射波を測定することにより、対象物までの距離や方向を明らかにする装置である。レーダーを使えば、暗くても深い霧があっても、物事は見える。肉眼で見えないものでも、見えるのです。
"Faith is somewhat like a radar. It can see through a dense fog at a distance our eye cannot see" (Corrie ten Boom)

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コーリー・テン・ボーム(Cornelia Johanna Arnolda ten Boom、Corrie ten Boom、1892年4月15日 - 1983年4月15日)は、第二次世界大戦中に多くのユダヤ人をナチスから助けたオランダ人クリスチャン、ホロコースト生残者である。テン・ブームはその体験を、同名の映画にもなった自伝『わたしの隠れ場』の共著で著した。1967年12月に、イスラエルから諸国民の中の正義の人の栄誉を受けた。





復活節 第2土
ヨハネ6:16-21

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「わたしだ。恐れることはない。」この言葉は、湖の上を歩いているイエスを見て恐れている弟子たちを安心させました。夕闇の嵐が吹きすさぶ中で、彼らは、どれほど不安におののいていたでしょうか。しかし救いなどないと思われる闇の中にも神は存在するのです。そこにイエスはおられます。
つらく苦しく、恐怖に負けそうな時こそ、イエスに耳を澄ませましょう。イエスを心に迎え入れるなら、私たちは素晴らしい目的地に着くでしょう。
主よ、困難にあるとき、あなたが訪れてくださっていることに気づかせてください。不安を癒し、目的地に導いてください。