11 per annum

年間 第11月曜日

マタイ5・38-42


論語 学而第一 1

01-01 子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。
子(し)曰(いわ)く、学(まな)びて時(とき)に之(これ)を習(なら)う。亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有(あり)、遠方(えんぽう)より来(き)たる。亦(また)楽(たの)しからずや。人(ひと)知(し)らずして慍(いきど)おらず、亦(また)君子(くんし)ならずや。

孔子は、学問に人生を捧げ、弟子を得て喜んだ。また、世間から理解されず、位を失ったこともあり、命の危険にさらされたこともあった。それでも、「慍(いきど)おらず」というのは、人間の最高の知恵です、と。キリストは、人間の最高の知恵への神様からの答えであった。


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きょうのイエスさまの御言葉は、ただ主なる神さまを信じるときだけに成り立つ言葉です。それゆえ、イエスさまのこの言葉もまた、格言や名言とは全く違うことが分かります。イエスさまのおっしゃった御言葉は、神を信じるとはどういうことなのかを教えているのです。
それは自分で復讐することをやめて、神様に復讐をお任せすることです。また、その理不尽な相手をさえも、神様は変えてくださることができる。いちいち復讐していたのでは相手は変わることがない、相手が神さまを信じることはないでしょう。また、自分自身も平安を失うでしょう。「いつか復讐してやる」という思いでいっぱいになり、悔しくて腹が立って、それでは神を信じないのと同じです。しかし神様にお任せすることができたとしたら平安です。自分自身は復讐心から解放されるし、また、「どうして私がこんな目にあわなければならないのか?」という怒りからも解放されるのです。(nibanmati)
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誰かが右の頬を打つなら、左の頬を向ける、下着を取ろうとする者には、上着をも取らせる、求める者には与える、この愚かと思えるような寛大さは、神の愛の特徴です。そこには、十字架の知恵があります。私の弱さを憐れみ、すべてを与え続けてくださる主に立ち返り、神の国を広げていくことができますように。(seseragi)


年間 第11火曜日

マタイ5・43-48


第一朗読(列王記)の「災いをくだす」神と、福音書の「悪人の上にも太陽を上らせる」神とは、自分の中でどのように重なって、折り合っているのか。この辺について、多分しばらく悩む必要があると思われます。悪と不正を見て見ぬふりできない神、正義を求める神とすべての人間を等しく愛する神、すべての人の救いを望んでおられる神はどのように、矛盾なく語らえるのかは、哲学的に神学的に難題であるが、一応「悪を憎み、悪人を憎まず」、または「罪を憎み、罪びとを憎まない」あたりに落ち着くかと思います。
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ある新興宗教の入門書の中でキリスト教の「愛」を批判しているところがありました。キリスト教の愛は、「愛さなければならない」という一つの規範として考えられている。愛は努力すべきものとしてとらえられている。人間は愛を説かれても、それは観念論であり、実行不可能なことを押しつけている。愛を説くキリスト教の世界で戦争が絶えなかったという事実に、この矛盾があらわれている。‥‥たしかに半分当たっているところがあるように聞こえます。
もしキリストのこの教えが、「愛さなければならない」というおきてを説いたものだとしたら、それはたしかに実行不可能な無理難題をイエスさまは押しつけているように思えます。つまり、「そんなことは無理です」と言うほかないのです。自分を迫害し、いじめ、苦痛を与え、滅ぼそうとする、そういう人を愛することはできないのです。

「敵」ではなく「隣人」なら愛せるのか?

そもそも、「敵」を愛するということはもちろんできないことですが、では、「隣人」なら愛することができるのでしょうか?私たちの身近な人なら愛することができるのでしょうか? これも考えてみると、また困ってしまいます。‥‥敵ではなくて隣人なら愛することができると問われれば、これも「はい」とは言えないのではないでしょうか?‥‥何十年も連れ添ってきた夫婦も離婚することがあります。お金がからむと、肉親の間でさえ、骨肉の争いを演じるのが私たち人間の姿です。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」などという言葉は、遠い遠い世界の夢物語のように聞こえくるかもしれないが、実は人間社会が成り立つための基本条件になっています。(nibanmati)
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「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」 太陽の恵み、雨の恵みがある。大自然の恵みはすべての人に等しく注がれています。悪人にも善人にも豊かに注がれている。大自然を見つめる時(きれいな日の出・日没)、否、自然に打たれる時に(台風)、私たちは自分の小ささ、自分の狭いこだわりなどに気づかされ、突然パーンと殼がはじけて割れるような、目からうろこが落ちるような体験をすることがあります。時々遠くに目を向けること(星空)。悪人にも善人にも等しく注がれる太陽の恵み、雨の恵みに思いを馳せてゆくこと。つまり自分を越えたものとつながって生きること、生かされていることを知ること。それが私たちを自分の苦しみや悲しみ、怒りや憎しみに囚われていたところ(私たちの「バビロン捕囚」)から解放してくれるのだ、そう思います。それは神の聖霊による捕囚からの新しい解放なのです。
こうして、今日の第一朗読(具数年)のことばがわかるような気がします。「主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです。」


年間 第11水曜日

マタイ6・1-6;16-18

現代は自己PRの時代です。あちらこちらに広告版があります。24時間CMに囲まれています。教会でも広告塔を造ります。イエスはそんな私たちに対して、最も大切な方に忠実に生きるようにと願っています。目を外に向けて神から離れるより、自分の奥深いところに入ってイエスに従うことが
出来ますように。(seseragi)
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イエスさまは何をおっしゃりたいのでしょうか? まず私たちが思いますことは、「施しなどの善行をするときは、仰々(ぎょうぎょう)しくやらないで、さりげなくやれ」ということではないかと思います。これは施しに限らない、とにかく人助けをするような場合、あるいは功徳となるようなことをする場合、恩着せがましくするな、あるいは、目立たないようにやれ。そのほうが立派である、というふうに考えるのではないでしょうか。
「俺はこんなに良いことをしたんだぞ」と言わんばかりの自慢げな態度というものは、鼻持ちならないものです。いわゆる「自慢話」ほど、イヤな気分にさせるものはありません。‥‥そうすると、せっかく良いことをしても、かえって評判を落とすことになるのです。だから、さりげなく良いことをしなさい、そすればかえってあなたの評判は高まることになる‥‥‥‥そのようにこのイエスさまの教えを受け取っているのではないでしょうか?
こういう捉え方は十分できると思いますが、もっと深い意味があります。さりげなく、あるいは隠れておこなった良いことについて、結局は、人からほめられたり、人から認められたりすることを期待しているのです。つまり、外見上の形はどうあれ、人からの報いを結局は期待することになるのです。きょうイエスさまが私たちに教えておられることは、そうではない。神を信じることとはどういうことかを教えるものです。‥‥すなわち、ただ神からの報いだけを期待するということです。これは、例えばこの世の誉れを捨てた修道者に励みのことばとなります。
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キリスト教の歴史を見て分かるのは、もめごとは多くて一致を造るのは難しい。修道会や教会の現場にも、競走やもめごとは結構多い。まぁ、人間関係はややこしいという現実は元々あります。しかし、教会独特な原因があります。今日の福音書はそれを示しています。祈りや奉仕というもの味を知り始めた者にサタンが放つ二つの矢は、高慢と偽善。教会関係の活動は常にこの毒に曝されている。「聖なることをする人はえらい」というこの世の価値観の教会版をサタンは注入する。「神父様えらい、シスターえらい」と言われて、それをばねに生きようとおもったらおしまい。いくらよいことをしてもそれは全部ウソになります。ですから、対策は、もし自分の内面に「鼻がうごめく」のを察知したら、イエスの勧めは「正反対のことをしなさい。」
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神の愛は、「見てもらおう」とする愛ではないので、ある意味「隠されて」います。「人からほめられよう」とする愛ではないので、「気づかれない」。逆に、人から軽んじられ、あざけられ、捨てられます。
 神の愛は、「えっ、こんな仕方で? こんなところに?」と、ふと気づかれるような、香るような愛です。垣間見て気づくような愛、「隠された愛」なのです。
 人間の愛というのは、それを受ける者には、時に重荷になることがあります。人を圧迫することもあります。しかし、「隠された愛」「垣間見られる愛」「ふと耳にして知る愛」は、決して押しつけになりませんし、重荷になりません。
 神の愛も、押しつけでも重荷でもありません。隠されているからです。御子イエス・キリストの十字架に現された愛、それを誰も理解しませんでした。人間の ために、神の御子が命を注ぎだしておられる時、御子は人から見捨てられ、あざけられ、罵られました。十字架の愛には、一種の「神の孤独」があります。父な る神は、それを引き受け、最愛の子を失う孤独を引き受けて、神ご自身が隠された者となられました。そのようにして、神は、どこまでも人間の傍らに立とうと されるのです。
 ローマの信徒への手紙で、パウロはこう言っています。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」。聖霊が、神の愛 を私たちの内に注いでくださいます。そして聖霊は、私たちのために、「言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」と言います。神の霊は、私たちを 圧倒し押し倒すようにでなく、私たち人間の思いの下で、うめきながら、耐えるように働いておられます。
 「隠れたところにおられる私たちの父」、その愛を「隠れたところで」発見する。それはいかに甘美な経験でしょうか。そこで私たちは、イエス様が「アッバ、父よ」と祈られた、あの交わりに入るのです。



年間 第11木曜日

マタイ6・7-15

父なる神は私たちに必要なことを私たちよりご存知です。神に信頼して祈る人は、自分に行なわれる全てが神の恵みだと信じるのです。主よ、あなたの愛に信頼します。(sese)
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父なる神は、祈ることを待っておられるのです。祈りとは会話です。私たちの神が生きておられる父であるから、会話になるのです。子供が親に、「ピアノを買ってくれ」と言う。理由を聞けば、「ピアニストになりたい」と言う。そこで親は考えます。そして「どうせ三日坊主なのではないか」と思
って、しばらく買わないでおく。すると、毎日のように、「買ってほしい」ということを言う。そしてまた考えます。「これは本気かもしれない。」そしてよく考えて買ってやるのではないでしょうか。そこには親と子のコミュニケーションがあります。
私たちの父である神もまた同じです。それは父なる神だからです。祈りはこの神との会話です。願い事があり、感謝があり、相談がある。私たちを愛しておられる父なる神と祈るというとき、それは、ただ自分の要求をかなえてもらうために、神を操ろうとする偶像礼拝とは全く違う、生きた交わり
となるのです。そういう神様を私たちは礼拝しているのです。感謝します。 (nibanmati)
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「み名のとうとまれことを」と祈るとき、私たちは、常に聖である神のみ名を人々も聖なるものとみなすように、すなわち、その名を侮ることのないように自分自身を諭します。神のみ名を聖なるとみなすことは、神にではなく人に益をもたらします。
また、神の国は望もうと望むまいと必ず来ますが、「み国の来たらんことを」と祈るとき、み国が訪れ、私たちがみ国に入って治めるのにふさわしい者となるように、み国に対するあこがれを駆り立てるのです。
「み旨の天に行わるるごとく、地にも行われんことを」と祈るとき、私たちを従順にしてくださるよう、神に願っているのです。それは、神の使いたちが天において神のみ旨を行っているのと同じように、私たちもそれを行うようになるためです。
「我らの日用のパンを今日我らに与えたまえ」と祈るとき、「今日」という言葉によって、この世にいる間ということを表します。この祈りによって、この世で生きるために十分な糧を願っていると考えられます。パンは主食ですから、パンという言葉は糧のすべてを表しています。あるいは、この嘆願によって、信者たちが受けている秘跡をいただくように願っていることも考えられます。この秘跡は、この世にいる間に必要ですが、現世的な幸福を得るためではなく、あの永遠の幸福を獲得するために必要なのです。
「我らが人にゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ」と祈るとき、何を神に願わなければならないか、そして、神からそれをを受けるに値する者となるために何をしなければならないかということを自分自身に思い起こさせます。
「我らを試みに引きたまわざれ」と祈るとき、神の助けが私たちから離れないように願います。それは、だまされて誘惑を承諾しないように、あるいは、疲れて誘惑に屈伏しないようにするためです。
「我らを悪より救いたまえ」と祈るとき、どんな悪にも苦しまない幸福な状態に私たちはまだ達していないことを考えるよう自分自身を諭します。主の祈りのこの最後の嘆願は、きわめて広い意味をもっています。したがって、キリスト者はどのような苦悩にあっても、この嘆願を述べて嘆き、涙を流し、祈りをここから始め、これを長く思いめぐらし、これで祈りを終らなければなりません。つまり、主の祈りのこれらの言葉によって表されていることがらが、私たちの心に思い起こされなければならないのです。
主の祈り以外のどのような言葉で祈るとしてもーー祈りに先立つ主への想いを表すために、主への想いからわき起こる言葉であれ、その想いを保ち続けることばであれーー正しく、ふさわしく祈っているなら、必ず主の祈りに含まれていることを祈ることになります。そこで、もしある人が福音書のこの祈りとは異なることを祈るなら、それは不正な祈りとは言わなくても、肉的に祈っていることになります。これをどうして不正な祈りと呼ばないのでしょうか。霊によって再び生まれた人は、霊的にだけ祈らなければならないからです。」

(アウグスティヌス、「プロバへの手紙」130.『毎日の読書』第8巻、カトリック中央協議会、29頁以下)

祈りには、終わりがあります。いつまでも何十時間も続けて祈っているというわけにはいきません。祈り終えて、立ち上がって、またもとの生活に戻っていくのです。そうすると、そこには現実の世界があります。現実の生活があるのです。私たちが、寝たり起きたりし、食べたり飲んだり、仕事をしたり、家事をしたり、人と会ったり‥‥というごく当たり前の生活があります。祈りを終えて、そこに戻っていくのである。それは、この礼拝を終えた後、またもとの現実の生活の中に戻っていくのと同じです。
いつまでも父なる神との祈りという霊的な交わりの中に浸っていたいと思うことがあります。しかし祈りは終わる時が来ます。そして、生活に戻ります。そうするとそこには現実があるのです。おもしろいことばかりではない。自分の思うとおりにいくことばかりではありません。つらいことが待っているかもしれません。イヤなことに出会うかもしれません。神を信じていない人たちと接していかなくてはなりません。
私にも経験があります。一人になって「密室の祈り」をする。そして時には、祈りの中で神さまからの素晴らしい感動を与えられ、喜びがあふれ、充実した祈りの時間となることがあります。まさに神さまがそこにいることが分かり、その神の衣の裾に触れるような思いがすることがある。ああ、すばらしかった、と思って祈り終わる。そして外に出ていきます。すると、そういうときに限って、人からおもしろくないことを言われたりするのです。それで、腹が立ってしまいます。怒りがこみ上げてきます。平安などいっぺんにどこかに飛んでいってしまうんです。そして、はっと気がつく。少し前に味わった、あの充実した祈り、感謝、喜びはいったいどこに行ってしまったのだろう?と。‥‥私たちはまことに弱いのです。
イエスさまはそういうことをご存じで、主の祈りを教えられたのです。私たちがつまづきやすく、せっかくの神の御言葉を聞きながら、なかなか立ちきることができない。そういう私たちをご覧になって、「だからあなたがたはダメなのだ」とは言われなかったのです。そういう弱い私たちが、なお神さまの道を歩むことができるために、この「主の祈り」をお教えになった。そして最後にこの祈りの言葉を教えられたのです。

私たちは、この礼拝のあと、またこの世の生活に戻ります。私たちを神様への信仰から引き離そうとするいろいろな誘惑や試練があります。しかしそのとき、主の祈りが私たちを支えてくれるのです。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈りつつ、イエスさまによって守られて歩むのです。


年間 第11金曜日

マタイ6・19-23

「虫が食ったり、さびが出たり、またはどろぼうに盗まれるような財産をいくら積んだからとて、それはしばらく、ある程度の用をするものに過ぎない。」‥‥昔1匹のキツネがいた。垣根の向こう側にはぶどう畑があって、キツネはそれを食べたいのだが、垣根の小さい穴を通り抜けることができない。そこでキツネは三日間断食をして腹を細くして、垣根を通り抜けることができた。キツネはぶどう畑のぶどうを腹一杯食べて、帰ろうとしたところ、今度は腹がふくれて外に出られなくなってしまった。それでまた三日間断食をして腹を細くしてようやく出てきた。‥‥そしてこう書いています。「今裸でこの世に入ってきて、また裸でこの世を出ていく人間の運命も、大いにこのキツネと似たところがあるではないか。それであるから私どもは目前の利欲に迷って、人間の大道を踏み迷うようなことがあってはならない。『欲深き人の心と降る雪は、つもるにつれて道を忘るる』。金銭は神からの預かりもものと思い、責任を持って扱い、都合のつく限りそれを用いて、神と人とに尽くさねばならない。」 nibanmati
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「体のともし火は目である」(22)

この花がどんな色をしているとか、ここには誰が来ているとか、あるいは教会に行くにはどこをどう通っていったらよいのかとか、そういうことは目を通して分かります。そしてこれは、なぜ目を通して分かるかと言えば、太陽や電器の光がその花だとか、人だとか、道とか建物にあたって、それが反射して私たちの目に入ってくるわけです。目が物にあたってはね返った光を感知して、物が見えたり色が分かったりするわけです。ですから、目が、光の窓となっているわけです。
つまり、目があったとしても光がないと、それはなにも見えないということになります。
そうするとイエスさまがおっしゃった、「体のともし火は目である」というのは、目という窓を通して、光を取り入れる、という意味になります。目をつむればなにも見えない。目を開けば、映像が飛び込んでくる。これは反射した光が飛び込んでくるのです。
イエスさまのおっしゃったことは、メガネをかけている者にとってはよく分かります。冬の寒い季節ですと、外から暖かい所に入ってくると、たちまちメガネが曇って、見えなくなってしまいます。あるいは、ラーメンを食べようとしてどんぶりに口を近づけると、すぐに湯気でメガネが曇って見えなくなってしまいます。‥‥するとこれは、目は開けているのだが、湯気で遮(さえぎ)られて見えなくなってしまうということになります。それで、どこに麺があり、どこに何ががあるのか、ということが分からなくなる。‥‥イエスさまの言葉で言えば、「濁っていれば全身が暗い」ということでしょう。
そしてそれが、肉体の目であれば、それは目のご不自由な方でも立派に生活をしていく手段があるわけですが、「心の目」が見えなかったり、「濁って」いたりすると、それはイエスさまの言葉で言えば23節の後半の言葉となります。=「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

光の方を向く

すると、では「光」とはなんのことなのか、そして心の「目」が澄んでいるということはどういうことなのでしょうか。「心の目が澄んでいる」などと言われますと、「ああー、自分はダメだ。自分の心は清くない」と思います。
「心が清いか、清くないか」ということで言えば、私の心も清くありません。‥‥不平不満を持つことがあるし、腹を立てることがある、何事も感謝したいがなかなかそうはできない‥‥という自分があるわけです。
しかしイエスさまはそんなことを言われたのでしょうか。ここでイエスさまが言われたことは、「心が澄んでいる」ということではありません。「目」が澄んでいる、ということです。そして目が光を自分の中に取り入れる窓なのですから、その光を見ているということです。光を見ている、光の方を向いているから、心の「目」という窓がそちらに向かって開いているから、光が飛び込んできて、自分の内側を照らすのです。
では光とはなんのことなのか。今日の答唱詩編(愚数年)にあるように、「主を仰ぎ見て、光を受けよう」(詩編34)、またヨハネによる福音書には‥‥(ヨハネ 1: 9)「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」、また、(ヨハネ 8: 12)「イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
聖書は、イエス・キリストが私たちを照らす光であると言っています。
光がなければ、ものを見ることが出来ません。そしてきょうの聖書は、私たちが、私たちの心を何に向けているかということを問うているのです。‥‥私たちの心が光である神さま・イエスさまの方を向いているのか。もしそうなら、そのキリストの光りが心の目を通して差し込んできて、私たちの内側を明るく照らすのです。
しかし神さま・イエスさまのほうを向いていないならば、その光りは差し込まなくなって、内側が暗くなるのです。

キリストが光である

光があってこそ、何があるかが分かります。光があってこそ、何をしたらよいかが分かります。私たち自身の心は澄んでいないかもしれない。しかしそれは問題ではありません。この罪にまみれた私たちであっても、光であるお方の方を向いているかどうかということなのです。光の方を向いていれば、そのキリストの光が射し込むのです。 nibanmati


年間 第11土曜日
マタイ6・24-34

「明日のことまで思い悩むな」とイエスは言われます 。何を食べるか、何を着るかなどは二次的なことです 。それらのことは神が、愛を込めて配慮して下さるのです 。私たちが悩まなければならないことは、どの位、そしてどのように 、神と関わっているのか、ではないでしょうか。
主よ、あなたからすべてを期待しすべてを委ねる子どものような信仰 と信頼を私たちの心に大きく育んでください。
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。「主人」という言葉は、日本では夫婦のうちの夫のことを妻が呼ぶ 言葉として使われます。もっともこれは昔の日本のなごりが生きてい る言葉であって、現代では、妻のほうが実際には主人のように主導権 を握っている場合もあるでしょう。それはともかく、この場合でも 、「二人の主人に仕える」ことはできません。そんなことをしようと したら、結婚が成り立たないのです。
サラリーマンであれば、例えば会社を午後5時に引けた後 、夜はどこかの飲み屋でアルバイトをする、というようなこともでき るわけですが、
このことは、どちらかを選ばなければならないときに 、はっきりするのです。昔ある友人が、同時に二人の女性に結婚を申 し込みました。「数を打てば当たる」ということでしょうか 。私はそれを聞いて、「あほか」と言いました。そんなことを知れば 、どちらの女性も去っていくでしょう。
つきつめて言えば、神が本当の主人であるのか、それともお金が本当 の主人であるのか、ということです。言葉を変えて言えば、 「私を食べさせてくれるのは、神さまなのか、それともお金なのか ?」、どちらなのか、という問いです。
私たちはなんと答えるでしょうか? 「背に腹は代えられない」と言うでしょうか? 「神さまというのは、単に精神的慰めを与えてくれるだけで 、食わしてくれたり現実に奇跡を起こして助けてくれるわけではない 」と言うのでしょうか? もしそうだとしたら、私たちの神さまというのは、信じていても仕方 がない神さまです。私たちは、そんな神さまのために 、貴重な時間を割いて礼拝したり献金をささげたりするのではありま せん。
しかし私たちが今ここにこのように来て、礼拝をし、献金をささげ 、また日々御言葉を読んで、主イエスの御心に生きるようになりたい と願うのは、私たちの神さまが聖書に記されているとおり今も生きて 働いていてくださる神さまだからではないでしょうか。主イエス ・キリストの父なる神さまこそ、真の神さまであり 、私たちの主人だと信じるからではないでしょうか。
キリストを信じるということは、キリストの奴隷となることです 。他の言葉で言えば、「キリストの僕」となることです 。キリストが主人であり、私たちがその僕です。

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