19 per annum dispari

年間第19月
「魚の口から銀貨一枚」
マタイ17・22-27

魚の口から銀貨が一枚とりだされるというようなことが、あまりにも不思議なことです。それは奇跡と言うよりは、なにかミスター・マリックの手品を見ているような気がします。まじめだと思っていた聖書が、なにか急に「むかし話」(桃太郎)のように感じられるような、そういう思いがした人もいるかもしれません。「そもそも、結局『神殿税』を払うのなら、いさぎよく財布から払えばよさそうなものを、なぜ湖に行って魚を釣ってその口から銀貨を取り出して支払うというような、そんな手の込んだことをされたのか?」と、そんなふうにも思えるのです。
当時のユダヤ教では、成人男子は神殿維持費として年に2ドラクマの神殿税を納めなければなりませんでした。賃金の二日分です。
この税金を集める者がペトロに、「あなたたちの先生は(神殿税の)2ドラクマを納めないのか」と質問します。これはイエスがユダヤ教律法を順守していないという詰問です。ペトロは、イエスの返答を確認しないで、その場をとりつくろい、「納めます」と答えます。

この税金の比喩の語録は、イエスの子としての自覚を示す重要な語録ですが、同時にこの語録は、「神殿より偉大な者がここにある」(一二・六)という語録と共に、イエスが子としてユダヤ教の神殿祭儀を超えておられたことをも指し示しています。それにもかかわらず、イエスが(そしてイエスに従い、イエスを信じるユダヤ人の共同体が)神殿税を納め、神殿祭儀を守るのは、あくまで「彼ら(ユダヤ人たち)をつまずかせないため」であるという言葉が続きます。イエスは言われます、「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」。
 
 「銀貨」《スタテール》は4ドラクマ相当の銀貨で、ちょうどイエスとペトロの二人分の神殿税に相当します。この段落は、そうしなさいというイエスの言葉で終わっており、釣った魚の口に銀貨が見つかり、それでペトロが二人分の神殿税を納めたという事実は報告されていません。魚の口の中に見つかる銀貨で税を納めるという象徴的な説話で、神から賜る収入の中から(ペトロは漁師でした)律法の規定に従い神殿税を納めるように勧めていると見られます。
 
 この段落は、神殿崩壊前のユダヤ人信徒の状況を反映しており、イエスを信じるユダヤ人信徒は、イエスと共に神の子供として神殿税や祭儀規定から自由であるが、ユダヤ教徒としての立場から、周囲のユダヤ人をつまずかせないために、神殿税を納め祭儀を守っているのだと主張しています。このユダヤ人信徒の伝承をマタイが継承してここに置いたと見られます。そうであれば、イエスを信じる者は律法から自由であるという理解は、パウロやヘレニズム異邦人キリスト教だけでなく、ユダヤ人キリスト教の中にもあったことになります。

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年間第19火

マタイ18・1-5,10,12-14

大人の価値観は、誰にも頼ることなく、自分の足で立つ独立した人になることです。いつまでも、周りの人や親に寄りかかっていてはいけないのです。一人前になって一人立ちしなければ、笑われてしまいます。子供はまったく違います。親や周りの人なしに、自分一人では生きられません。親を頼り、周囲の人々の支えで生きています。自分の存在を在らせ支えてくれる両親の存在は、大前提となって、否定することなど不可能です。たとえその親が人間的に考えれば、欠点だらけの不完全な存在だとしても、子供にとっては唯一絶対の存在なのです。大人になるということは、自立することです。頼ることは子供っぽいことと考え、もう誰にも頼らずにやっていける、ということでしょう。
しかし、うっかりすると、大人になるということは、神にさえたよる必要はない、何とか自分の力でやっていける、困った時にだけたよればいい、ということにもなってしまうのです。しかし、本当の大人は、人間の親子関係を相対化した上で、神との関係を絶対化出来る人でしょう。つまり不完全な親ではなく、完全な親である父として神を再認識することではないでしょうか。私が困った時たよることは大切なことですが、それだけの神ではなく、百パーセント完全な親としての父なる神の、子供であったのだという喜びと誇りを持つことが、真の成熟した信仰に生きる、真の大人の条件ではないでしょうか。完全な自立と完全な依存が大人の信仰なのです。
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ここで用いられている「子供」は無邪気さとか純粋さの象徴ではなく(ユダヤ人社会ではそのような意味はありませんでした)、自分では何もできない完全な依存の象徴です。「子供のようになる」とは、自己を根拠にして存在するのではなく、自分を無にして完全に父の恩恵に身を委ねる在り方指しています。これは「信仰」の姿に他なりません。神の支配とは恩恵の支配のことですから、神の支配の現実に入るのは、恩恵を恩恵として無条件に受け取り、恩恵に全存在を委ねること、すなわち信仰以外にはありえません。そのように、恩恵の場で自分を無にしている者が、天の国でいちばん偉大な者になるのです。自分を無とする者に、天来の御霊の力が満ちるからです。イエスご自身がそのような「無者」の典型です。
「子供」、すなわち「小さい者」を受け入れる者こそ、イエスの望むところを行っている(五節)のだと述べた後、それと対照して、「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」(六節)と、小さい者をつまずかせる罪の大きさが取り上げられます。ここでは、マタイはほぼマルコの文章と順序に従っています。
 
 ここの「小さい者」には「わたしを信じる」という説明がついています。マタイは、主イエスを信じる者たちの共同体の中では、取るに足りないとされているメンバーの一人ひとりを大切にして、「小さい者」の一人が「つまずかないように」、すなわち、信仰を失って共同体から脱落しないように配慮することを求めているのです。
どの国でも王に直接謁見できるのは身分の高い重臣に限られます。ユダヤ教でも(とくに当時の黙示思想において)、神の御顔を見ることができるのは、もっとも位の高い天使だけと考えられていました。また、義人には守護天使がついているという思想もあり、イエスはこのユダヤ教における天使の思想を用いて、「小さい者」の一人ひとりが神の前にいかに重要な存在であるかを語られるのです。人間の世界では軽蔑され、見過ごされ、存在する価値もないかのように扱われている「小さい者」たちの一人ひとりに天使がついていて、直接「わたしの天の父の御顔を仰いで」、その「小さい者」のことを父に訴えているのです。「わたしの天の父」は小さい者の一人ひとりに深い関心を寄せて見守っておられるのです。そうであれば、どうしてその「小さい者」を無視することができるでしょうか。
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年間第19水

マタイ18・15-20

まず不法を受けた者が相手に、それが不法であり神の御旨に反することを説いて、一対一で諫めるように求められます。その説得で相手が反省して改めれば、兄弟の交わりは続くことになり、「兄弟を得た」ことになります(一五節)。その場合、相手を赦すことが前提になっています。
続いてマタイは、その説得が「聞き入れられない場合」について規定します。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」(一六節)という規定には、申命記一九章六節のような規定が反映しています。このような「二人または三人の証人の口によって確定される」という考え方は、旧約聖書を自分たちの聖書として継承した初期の《エクレーシア》に共通であったようです(たとえばコリントⅡ一三・一)。このような規定は、説得する側の兄弟が間違っている場合もありうるのですから、「聞き入れない兄弟」が罪を犯しているのかどうかを確定するために必要な手続きでしょう。それで聞き入れられれば、「兄弟を得た」ことになります。
この段落では、「兄弟」と「教会」という語が目立ちます。マタイの時代においては、信徒の集会は《エクレーシア》(教会)と呼ばれ、その成員は《アデルフォス》(兄弟)と呼ばれていました。用語だけでなく内容から見ても、マタイがここで信徒の共同体、具体的には自分の目の前にある具体的な集会を念頭に置いて、この段落を書いていることがうかがわれます。マタイはそこで起こる問題にどのように対処すべきか、主イエスの言葉を聞き取ろうとしているのです。
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必ずかなえてくださると保証してくださっていることは、自己中心的な欲望や願いではあり得ないでしょう。なぜなら、わたしたちが心を一つにするためには、自分中心ではなく、相手を大切にする心が必要だからです。心を一つにして集うところに、キリストもまた居てくださるというのは何と心強いことでしょうか。
主よ、どんなときにも、あなたが共にいてくださることを心に留めながら、あなたに心を合わせて仲間たちと働くことが出来ますように。sese06
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ひどいことをされた。そういう場合、世間ではどうするでしょうか。けんかをしたり、あるいはその人の悪口を言いふらす、ということをするのではないでしょうか。しかし主イエスがおっしゃった方法はそういうこの世の方法とはまったく違っています。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」とおっしゃる。世間ではふつうはそんなことをしません。しかし主はそのようにおっしゃる。いったいなぜでしょうか?何のためにでしょうか?イエスさまが続けておっしゃるのは、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と。‥‥「兄弟を得る」、ここを原文に即して直訳すると、「あなたの兄弟を得た」となります。すなわち、私たちが本当の兄弟姉妹となるということになります。ある人が自分に対して罪を犯す。それで行って、ふたりだけのところでそれが罪であること、間違っていることを忠告する。そしてそれを聞き入れたなら、あなたは本当の兄弟を得たことになるのだ、と主はおっしゃるのです。
 そのように、世間では、あるいはキリストを信じる前は、自分に対して過ちを犯す人を突き放し、切り捨てる。陰でボロクソに悪口を言って溜飲(リュウイン)を下げる、そういう対応をすると。ところが教会では、まさに罪を犯した当の本人であるその人の所に行って、それが神さまに対する罪であることを忠告しなさいというのです。それはなんのためか。兄弟を得るためであるというのです。切り捨てるのではなく、教会の枝として主イエスのもとにつなぎとめるためであるということです。
(Ⅰコリント 12:26)「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」‥‥という御言葉があります。教会はキリストの体であって、わたしたちはそのキリストの体の一部分である。それぞれ1人1人が、ある人は手であり、ある人は足であり、ある人は目であり、ある人は髪の毛であり‥‥という具合に、教会というキリストの体のそれぞれが一部分であると使徒パウロは教えています。ですからそれぞれ1人1人が大切な存在なのですね。その一つが罪を犯したとき、それを切って捨てるのではなく、何とかそれがキリストの体の一部として悔い改めるように導くのは、そう考えてみると当然なことに思われます。 「二人だけのところで」というのはポイントだと思います。国会中継の党首討論などを見ていると、あれは絶対にお互いにゆずりませんね。それぞれ自分を弁護し、絶対に相手が間違っているということを主張し続ける。わたしなどは、たとえば小泉さんが「ああ、なるほど。菅さんの言う通りかもしれませんね。ごめんなさい」というふうに言ったらどうかな、と思うのですが絶対にそんなことはしない。なぜかと言えば国会議員ががみんな見ているわけですし、テレビでも中継されている。そうすると見栄や体裁というものが大事になってくるわけです。しかも自分の立場というものがある。そうすると、どんなに自分が間違っていると思っても、そういう見栄や体裁のために謝らない。そういうことになるのです。みんなの前でいきなり罪を指摘されたら、だれだって意固地になるでしょう。
 主イエスはそういうことをご存じで、「行って二人だけの所で忠告しなさい」と教えられる。教会員みんなの前で忠告しなさいとはおっしゃらなかった。二人だけのところで、です。相手を切り捨てるのではなく得るためです。相手の心を開き、何とかして過ちに気がつくようにさせるためです。
nibanmati


年間第19木

マタイ18・21~19・1

日本には、「仏の顔も3度まで」ということわざがあります。講談社発行の『日本語大辞典』によると、その意味は、「どんなにおだやかな人でも、何度もひどいことをされれば腹を立てるたとえ」とありました。常識では「3度まで」のところを「7回まで」と言ったのですから、イエスさまも「そうだね。それぐらい忍耐すれば良いよ」とお答えになると思ったことでしょう。
 ところがイエスさまの答えは、予想外の驚くべき答えでした。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
 「七の七十倍」は単純に言えば、490回です。しかしもちろんここで主イエスは、「490回まで赦しなさい」という回数のことをおっしゃったのではありません。これはいわば、「無限に」赦すということです。驚くべきことです。人間の常識を越えています。それはもう、人間が何かがんばって、赦しがたい人を赦す、ということではありません。そんなことはできそうもありません。
これがきょうのたとえ話です。主イエスは、このようにして、なぜ赦すべきかを教えられました。それは、わたしたちが神によって赦されているということなのです。しかしこのたとえ話を聞いた人は思うでしょう。「わたしはそんな多くの罪を犯していない」と。しかしそれは人間から見た理屈です。神さまから見たら、わたしたち一人一人がこの話に出てくる家来のようだというのです。金額にたとえれば3千億円というような、途方もない、とても一生かかっても返済できないような罪、過ちを赦してもらっているのだと。それはただ神のあわれみだと。
 キリストは何のために十字架にかかられたのでしょうか。それはわたしたちひとりひとりの罪を赦すためです。言い換えれば負債を免除するためです。わたしたちは、そんなにも大きな負債があり、しかもそれが十字架によってゆるされていると知ったときに、神の愛を知るでしょう。 
nibanmati


年間第19金

マタイ19・3-12

本日の聖書の個所を聞いて、おそらく単なる離婚禁止の話に聞こえるのではないでしょうか? 離婚をすることがよいのか悪いのか、あるいは、どういう場合ならば離婚をすることができるのか、神さまはどういう状況ならば離婚をゆるしてくれるのだろうか‥‥そのように、どのような離婚なら神の御心に背かないのかとか、神の戒めに違反しないのか、とかそういう話として聞こえてしまうのではないかということです。 特に離婚については、カトリック教会が離婚を認めていない。そういうことが頭にあるものだから、結局きょうの聖書の話を、離婚を認めるか認めないかという法律論議として聞いてしまいやすいのです。
3節を見ると、「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして」と書かれています。純粋にイエスさまに教えを乞う気持ちでイエスさまに近づいてきたのではない。イエスさまを試そうという、非常に高慢な気持ちで近づいてきたのです。試す、試験をするというのは、先生が生徒を試験するわけで、ファリサイ派の人々はイエスさまよりも高い所に立って、イエスさまを試そうというのです。純粋に分からなくて質問しているのではない。自分たちの答があるのに、イエスさまを罠にかけるためにこのように質問している。つまり、「イエスが何か変なことを言ったら、捕らえて死刑台に送ってやる」というような、たいへんひどい目的でこのような質問をしているのです。
きょうの聖書では、誰ひとりとしてイエスさまの言葉につまずかない者はいなかったのです。


そうするとわたしたちは、実は、自分の欠けたところに気がつかざるを得ない。主イエスの言葉はそういう御言葉です。律法を教えておられるのではない。あの金持ちの議員が悲しみに沈まざるを得なかったように、わたしたちも「主よ、罪人のわたしをあわれんでください」と胸を打って嘆くということに導かれるのです。
 これは何も夫婦関係だけではない。この世の人間関係もそうです。神さまは、お互いに信頼し合うものをしてわたしたちを造られたはずです。しかし人間関係に破れが生じる。傷つけ合うということが起こってくる。わたしたち人間に罪があるからです。そこで相手を責めるばかりではなく、自分の欠け、罪に気がつくように主は導かれるのです。
 そのようにきょうの聖書の個所は、わたしたちを主のもとへと導くのです。2節に主イエスが多くの人々の病気を癒された、ということがちょっと出てきます。癒し主なる主、わたしたちの人間の間をいやしてくださる主のもとにいくしかありません。しかしそこに希望があるのです。主のもとに行ったとき、救いが与えられるからです。
nibamati


年間第19土
「子どもと天の国」
マタイ19・13-15

きょうの聖書を読むと、「そのとき」という言葉で始まっています。「そのとき」というのはどのときかと言うと、その直前まで、主イエスとファリサイ派の人々とのやりとりがありました。そのとき、ということになるでしょう。今までの経緯からして、ファリサイ派の人々は、イエスさまを訴える口実を見つけるために、イエスさまのところに近づいたと思われます。ですから、ある意味ではたいへん緊迫したやりとりがあったということになります。言葉を換えて言えば、「真剣なおとなの話」ということになるでしょう。
 そんなことがあった直後ということになります。イエスさまのところに、そのような子供たちが手を置いて祈ってもらうために連れられてきたのです。
 ところが弟子たちがそれを叱りました。弟子たちはなぜ叱ったのでしょうか? 「今はそんな時ではない。後で来なさい」ということでしょうか。それとも、子供がうるさいから、「あっちに行け」ということなのでしょうか。‥‥いずれにしても、弟子たちはここに子供を連れて来るのはふさわしくないと思ったのです。そして親たちを叱った。
 この弟子たちの行動を見て、おそらく多くの人たちは「当然だ」とか「しかたがない」と思うでしょう。特にイエスさまの時代というのは、子供というのは数に入らなかった時代です。弟子たちが子供を連れてきた親たちを叱ったのも当然と言えるでしょう。 ところが主イエスは、親たちを叱った弟子たちを叱ったのです。そして言われました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
マルコはそのお言葉を「アーメン、わたしは言う」という句で始めており、この語録の重要性を示しています。マルコ(一〇・一五)では「子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」となっています。「子供のように」、すなわち自分からは何もできない、何も提供するものがないという無の立場で、神が差し出してくださっている恩恵を受け入れるのでなければ、神の国に入ることはできないというのです。この自分を無として恩恵を受け入れることが信仰です。イエスはここで、「信仰によって神の国に入る(救われる)」という福音の根本を語っておられるのです。

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