23 per annum dispari

年間第23月
ルカ6・6-11

なぜこんなにまで安息日律法というものが厳格に守られるようになったのかといいますと、イスラエルの民がバビロンに捕囚されていた時からだったようであります。バビロンの捕囚としての生活、そこではもちろん自分たちの神を礼拝する神殿はないのです。そういうところで自分たちのいわばアイデンティティ、日本語に訳しますと、自己同一性とか訳される言葉ですが、つまり、自分が自分であることの自覚ということなのですが、自分たちがイスラエルの民であるということの自覚です、そのアイデンティティを保つためには、週の終わりの日の安息日を厳格に守るということで、自分たちが神に選ばれた民であるということを自覚しようと考えたわけです。しかしそれがだんだんエスカレートとしていって、イエスが活躍した時には、律法学者・パリサイ人たちがまるで秘密警察のようにして、人々が安息日律法をきちんと守っているかどうかを監視するようになっていったのです。

安息日のおきての起源というのは、申命記五章一二節の言葉にあるのです。そこにはこう記されております。「七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息を守ることを命じられたのである」。
 ここをみますと、安息日でまず一番しなければならないことは、自分たちが使っているしもべ、はしためを休ませることのようです。それはイスラエルの民みずからがあのエジプトで奴隷の民としてさんざん苦労し、そこから主の手によって解放されたのだから、その神の救いのみ手をいつも覚えるために、奴隷達を休ませなくてはならないということです。ですから、安息日は、奴隷の立場にいる人々、また虐げられている人々、弱い立場にいる人に休息を与える、そのことによって主の救いを思い起こす日として守るということです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke14.htm
人が生きる上で、法律、規則、ルールなどを守ることは必要なことです。しかし、何のためであるのか、その精神を忘れがちです。このイエスがもっとも嫌われた律法主義的な生き方は、身近な所に、自分の中にもよくある事ではないでしょうか。主よ、すべての事を神と隣人を愛するためという律法の大原則を忘れることなくあなたの掟を自由に喜んで生きることができるようお導きくたさい。sese07

年間第23火
ルカ6・12-19

パウロがいいますように、「兄弟たちよ、あなたがたが召された時のことを考えてみよ、。人間的には知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それはどんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである」とありますように、その人が優秀な人間だから、その人を選んだのではないのです。何か会社に役立つ者を選ぶのではないのです。あくまで福音の宣教のためです。
 福音とは、「この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことがあらわれるためである」という性質のものです。それは「弱い時にこそ強い」と告白できるような性質のものです。だから神は弱い者を選ばれるのです。ただ知者をはずかしめ、この世の強い人をはずかしめるのは、あくまで神がなさるのであって、選ばれた弱い人が強い人をはずかしめるのではないのです。強い人、優秀な人を選ばないで、弱い人を選ぶことによって、神がそうなさるのであって、選ばれた弱い人、愚かな人が何か見返すようにして知者を、強い人を辱めるのではないなのです。もしそれならば、大変人間的な恨みがこもることでしかないのです。ですから、選ばれた弱い人、愚かな人は、強い人に対して誇ることなんか何ひとつできないのです。ただ神を誇る以外にないのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke15.htm

年間第23水
ルカ6・20-26

これはご承知のように、マタイによる福音書では、いわゆる、「山上の垂訓」、今ではもうそういう言葉はあまり使われませんが、今では「山上の祝福」とか「山上の説教」とか、いわれている部分にあたります。マタイではこうなっております。「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子達がみもとに近寄ってきた。そこでイエスは口を開き、彼らに教えて言われた」
 マタイによる福音書では、山の上での説教になっているのに対して、ルカによる福音書では、山を下りてからの祝福、説教、になっていて、そこにマタイとルカの違いを見ることもできるかもしれません。マタイのほうでは、イエスが山の上で教えられると、人々はその教えにひどく驚いたというのです。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである、というのです。そこでのイエスは威厳に満ちておりました。だからと言ってマタイによる福音書によるイエスがいつも威厳に満ち、権威にみちていた、いわば威張っていたというわけではありませんが、少なくもこの教えに関しては、山の上で、山といいましても丘のような低い山でしょうが、それでも山の上から権威をもって教えられたのです。しかしそれに対してルカによる福音書では、山からおりて、平地に立たれ、われわれと同じ平面に立たれてわれわれを祝福し、われわれに教えられたと書くのです。それはルカによる福音書では、イエスの誕生の記事で、救い主であるイエスは飼い葉おけの中で誕生したという記事でもわかりますように、イエス・キリストはわれわれの低さの中に立ってくださる救い主と描かれているのです。
われわれの幸福観というのは、なにかをしたら、なにかを変えたら、幸福になるという考えかたになれすぎているのではないかと思います。ですから、マタイによる福音書にある「心の貧しい者はさいわいである」という言葉を聞くと、あわてて「心を貧しくしなくては幸福になれないのではないかと思って、心を貧しくしなくてはならないと思い始めるのではないかと思います。
ここでは、貧しくなったら幸福になるとか、飢えたら、泣いたら幸福になるという、われわれの心のありかたとか、生き方を要請しているのではなく、「今貧しいあなたがた、今現に飢えているあなたがた、今泣いている人々は幸いだ」ということであります。これはほかの人が言ったら、なんの力にもならない言葉ではないかと思います。目の前にいる貧しい人に対して、それどころか今飢えている人を前にして、こんなことをいったら、どやされるような言葉です。イエス・キリストだからこそ、この祝福には力があるのです。それはどういうことかといいますと、今おかれている現状を違った視点から見直してみたらどうかということではないかと思います。
われわれの人生には、自分の現状を変えたくても変えられない現状というのはいくらでもあります。自分はなにももっていない、自分は一タラントとしかあたえられていないという現状は、なかなかかえられないものであります。どんなに努力しても変えられないという現状というのがあります。重い病気におちいってしまうということもそうであるかもしれません。愛する人を亡くしたという現状はもう変えられません。イエスはそういう人々に向かって、「あなたがた貧しい人たちはさいわいだ。神の国はあなたがのものである」というのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke16.htm



年間第23木
ルカ6・27-38

愛というのは、報酬を求めないというのです。しかしその後、「何も当てにしないで貸してやれ、そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子になるであろう」とあります。「そうすれば受ける報いは大きく」というのです。それでは結局は報いを求めての愛かということになります。これはルカによる福音書だけにある言葉です。ルカによる福音書の教えはきわめて庶民的です。具体的という特徴があります。従って無報酬の愛などという高級な愛について語っても、やはり人に親切にすれば、また人から親切にされたいと望むことは当然なのだ、ということなのかもしれません。しかしそれにしても「何も当てにしないで貸してやれ、」といっておきながら、すぐそのあとで「そうすれば受ける報いは大きく」というのはどうしてなのでしょうか。この報いは、この場合神からの報いということではないかと思います。だからすぐ「そうすれば受ける報いは大きく」といった後、「あなたがたはいと高き者の子となる」言われるのであります。つまり「何も当てにしないで貸してやれば、神からの報いはある」だから、直接相手からの報いを当てにしないで、貸してあげなさいということです。その報いというのは、高利貸しが利息つきの返済を求めるような直接的な報いではないのです。しかしそうかと言って、愛というのは無償の愛だなどと高尚ぶることもないのです。報いを求める愛でいいのです。しかしそれは最後的には神からの報いをあてにする愛です。そのような無報酬の愛をしていれば、必ず神からの祝福があるということを確信し、またそれを期待してもいいのです。それを全く期待しないほうが、その愛は少し高ぶった愛になるのかもしれません。マタイによる福音書もまた、「施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事をみておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」と言われているのです。ここでも天の父からの報いを求めるということ、そして天の父からの祝福を当てにするということがもっとも信仰的な姿勢なのだと言われているのです。
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「人をさばくな。」この言葉は、「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」と、言われた後に、続けて言われたという形になっております。「慈悲深くなる」ということが、「人をさばかない」ということなのだということになって、考えさせられるのです。「人をさばかない」ということが、人に対して慈悲深くなるということなのだというのです。われわれは本当にすぐ人をさばきたがるものです。人をさばくということは楽しいのです。人の悪口をいうことは、われわれにとって最大のストレス解消になるくらいに楽しいものなのです。人を裁くと言うときには、なにか自分が相手よりも優位な立場に立っているような気がするからであります。自分に正義があるように思ってしまうからであります。ちょっと自分が人から悪口を言われたり、批判めいたことを言われただけで、一晩眠れない夜を過ごしたことはどなたも経験していると思います。それが相手が決してそれほど悪意がなくてもであります。その言われたことが的を得ているからであります。人からさばかれるということ、人から批判されるということがどんなにつらいことか、そしてまた人を批判することがどんなに楽しいことかということが関連づけられています。そういうわれわれが「人をさばかない」と心に決めるということは、それだけで慈悲深くなれるのです。
日本語のことわざに、「情けは人のためならず」ということわざがありますが、今日では、それは「情けは人のためにするのではない、自分のためにするのだ」という意味に誤解して使われているようですが、もちろんそうではなく、それは「情けというのは、人のためにしておけばやがていつかは自分に帰ってくるものだ、だから人に情けをかけておけば損はないのだ」という意味です。それはなんとかして、人に情けをかけることができるようにと促すことわざです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke18.htm


年間第23金
ルカ6・39-42

「弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう」と言われている。この言葉は、ここで使われますと、大変わかりにくい意味ですが、この文脈から言えば、「師」というのは、イエス・キリストのことでしょう。弟子というのは、イエスの弟子ということになります。つまり、イエス・キリストは人を裁かないかたである、そういう先生の弟子であるあなたがも人を裁いてはいけないということのようです。イエスの弟子だからと威張り腐って、人よりも上に立って、人を批判し、裁く、そういう人は盲人だというわけです。それは自分の目の中に丸太になっておりますが、要するに、自分には欠点や過ちをいくらでも犯す者であるのに、まるで自分はそんなことはないかのように思って人の目にある塵、「おがくず」になっておりますが、人の小さな欠点を重箱(じゅうばこ)の隅(すみ)をつつくようにして、ほじくり出し、批判する、それはまるで盲人が盲人を手引きするようなものだと関連付けられています。
その前に、「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、情け深い」とあり、そうして「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」という句があって、それに続いて「人をさばいてはならない。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう」と、続きますから、慈悲深い父なる神によってわれわれの罪がゆるされる、その現実のなかで、われわれは始めて人の罪をさばかないということができるようになるのではないかと思います。
主イエスは、「人をさばくな」といわれましたが、律法学者・パリサイ人たち、時の権力者を真っ向から裁いているのです。イエスほど厳しく人を裁いた人はいないかもしれません。そのイエスが「人をさばくな」というのは、何か矛盾しているのでなはいかと思うかもしれません。しかし、イエス・キリストは、人間の罪を最後にはご自分が担って、身代わりになってその罪に対する罰を引き受け、罰せられる覚悟があったからこそ、あれほど律法学者たちの罪を糾弾できたのではないかと思います。本当に慈悲深い者になれる時、またわれわれは人の目にあるちりを正しく取り除くことができるし、その罪を指摘し、ある時には激しく糾弾することもできるのです。親の子に対する怒り、訓練、教育は、愛があるからこそできることであるし、愛があったならば、当然それをしなければならないのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke18.htm

年間第23土
ルカ6・43-49

われわれには本当に「木はその実でわかる」のだろうか。もしそうであるならば、偽善者がこの世にはびこることはないはずです。最近、日本で繰り返し、いわゆるカルト的な宗教の詐欺行為が問題になっております。われわれからみれば、どうしてそんなつまらないことにやすやすと騙されてしまうのかと思いたくなるものです。われわれからみれば、その実がよい実かわるい実かはすぐわかると思うのにです。「その実でわかる」とイエスはいいますが、本当はわれわれにはなかなかその木がいい木であるかどうかは、ただその実をみただけではわからないのではないかと思うのです。イエスだからそう言えるのであって、われわれにはわからないのではないかと思います。
 それは偽預言者とか偽宗教の問題だけでなく、人の問題でも、その人が本当にいい人なのか悪い人なのかは、その人の言動からはわからないことが多いのではないかと思います。よほど鋭い洞察力とか、あるいは意地の悪い疑い深さをもっていないと、「木はそれぞれその実でわかる」というわけにはいかないのではないかと思います。
それではどうしたらよいか。本物と偽物を見分けるコツというようなものがあるのだろうか。
 宝石を鑑定する人の話を聞いたことがありますが、宝石を鑑定する技術をみがくためには、まず最初は本物の宝石だけを見ることに専念することが大切なのだということを聞いたことがあります。本物の宝石と偽物の宝石を前においてその違いを判別しようとしてもなかなかできるものではないというのです。そういうことをするのではなく、まず本物の宝石だけを二年なり三年なり、見続けること、それが本物と偽物を見分ける技術を身につけるコツだそうであります。
そのためにも、われわれはイエス・キリストという本物を十分見つめなければならないと思います。ただ口先だけで、「主よ、主よ」と呼ぶのではなく、本当にわかるまで見つめるのです。

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