il presentimento di Cristo nel mondo pagano

il presentimento di Cristo nel mondo pagano

月の影の模様が兎に見えることから、「月には兎がいる」というのは昔から語られている伝承だが、これにまつわる話として、以下の伝説が語られている。
猿、狐、兎の3匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出逢った。3匹は老人を助けようと考えた。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食料として与えた。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることができなかった。自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙句、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ。その姿を見た老人は、帝釈天としての正体を現し、兎の捨て身の慈悲行を後世まで伝えるため、兎を月へと昇らせた。月に見える兎の姿の周囲に煙状の影が見えるのは、兎が自らの身を焼いた際の煙だという。

この伝説は、仏教説話『ジャータカ』を発端とし、『今昔物語集』などを始めとして多く語られている。


良寛、月の兎 参照

Giuseppe Lazzati, il presentimento di Cristo nel mondo pagano

菩薩の化身である兎が、我が身を焼いて、旅のバラモンに食わせようとした話や、餓えた虎の母仔を救うために我が身を食わせた王子の話は有名です。

The Jatakas were originally amongst the earliest Buddhist literature, with metrical analysis methods dating their average contents to around the 4th century BCE

Buddha bramino si concesse in pasto ad una tigre affamata che si stava astenendo dal divorare i suoi tigrotti;


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知恵の書

今週は第一朗読として「知恵の書」が読まれます。この書物は、その記述に時代、言語、教義の点から旧約聖書のうちで新約聖書と最も密接な関係にあるものと思われる。本書は、いわば旧約聖書の横断面であるだけでなく、新約聖書の導入口のような働きをしている。すなわち、ヘブライ思想によるユダヤ的道徳律と旧約聖書の教訓とが、最終的に洗練されてギリシア思想による新しい部類に入れられたものであるから、ユダヤ人に託された旧約聖書の教えと、使徒たちによって世界の果てまで伝えられるべき新約聖書の福音とをつなぐ輪の役割を演じている。」(フランシスコ会訳聖書の解説)
律法と預言者と知恵文学。

 本書の原語はギリシア語である。本書にはヘブライ的色彩が強く表れているが、同時にギリシア哲学に関するかなりの知識が見られる。
「著述の場所として考えられる最もふさわしい場所は、エジプトのアレクサンドリアである。(様々な文化が交流する都会。古代に最大の図書館があった町)そこは離散のユダヤ人たちの強力な団体があり、七十人聖書が訳された地でもある。著述の年代は紀元前二世紀における七十人訳の完成の後であることは確実である。また、著者の精通していたギリシア哲学思想はキリストと同時代のアレクサンドリアのユダヤ人哲学者フィロンに先んずるものがあること、またアレクサンドリアのユダヤ人の歴史と本書に現れたユダヤ人の境遇や生活状態との比較研究によって時代を絞って、本書は前88年から前30年までの間に書かれたということができよう。」

「本書は典型的な教訓書の部類に属し、道徳生活に関する考察や金言(きんげん)からなっている。しかし、10-12章と16-19章は、教訓書ではあるが、「ミドラシュ」(正確には「ミドラシュ・アガダ」)という特殊な文学的部類に属する。そもそも、聖書の部分的説明を行って人を教化する目的をもった記述形式を「ミドラシュ」というが、「ミドラシュ・アガダ」は聖書中の歴史的記事を扱うが、文字どおりの意味を超え、その中に反映している深遠な神の摂理を説明しようとする。この様式は、バビロン捕囚後、特に祝祭日に会堂における聖書の説教に採用され、民衆に親しまれるようになっていた。」

ラツィンガーによると、知恵文学は"The Path to a Universal Religion, after the Exile"である(J. Ratzinger, Truth and Tolerance, Ignatius, 2003, p. 149) 。

第二ヴァティカン公会議後に「諸宗教の対話」とか、「異文化の対話」ということが盛んに言われるようになったが、それはすでに聖書の中に行われていることだった。

主の変容 Transfiguration

主の変容 B (2006/8/6 マルコ9・2-10)

これはわたしの愛する子。これに聞け (マルコ9・7より)

 主の変容
  イコン  フェオファン・グレク作
   モスクワ トレチャコーフ美術館 14世紀末

<今週の表紙絵から> 
  フェオファン・グレク (1330頃-1415)はビザンティン帝国で活躍し、後にロシアに移住。ノヴゴロドで活躍した。伝統的な形式に従いながらも、静寂(せいじゃく)主義と呼ばれる東方神秘主義の深い精神性をこめた多くの作品を残した画家である。
   この変容のイコンも基本型に従いつつ、とりわけ「光」の神秘に対する深い感覚を示している。一見して目を引くように、白色の微妙な濃淡を含む球形の光輪とその鋭角的な閃光の重なりがイエスの姿を包んでいる。この発光色と区別がつかない色合いでイエスの衣が描かれ、なおかつ衣のひだも細かく描き分けられている。「服が真っ白に輝き」の描写のもとに、これほどに繊細に神の栄光を表現した画家の目の深さと技の高さを思わずにはいられない。イエスの背後の光から三人の弟子に光線が向かっている。イエスを仰ぎ見ている弟子がペトロである。イエスの右側はモーセ(十戒の石板を抱えている)、左がエリヤ(洗礼者ヨハネの描き方と似ている)であろう。両人の上の雲の中には小さく天使が描かれている。二人が神から遣わされたことを強調するものと思われる。二人の立つ岩山の下にイエスが三人の弟子たちの山を上る場面(左)と降りる場面(右)が描き込まれていることも興味深い。http://www.oriens.or.jp/Fnext.htm

モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、イエスの受難と復活が聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとこの2人が話し合っていた内容は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9・31)であったことを伝え、この出来事とイエスの受難・死の結びつきを明確にしています。
 ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、この光景のあまりの素晴らしさが消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょう。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光のときではなく、受難に向かうときだからです。マルコ福音書は、ここで弟子の無理解を描こうとしているのでしょうか。

ペトロは感激と興奮のあまり、あわてふためいて、この3人のために仮小屋を三つ建てましょう、と言いました。わたしたちも、モーセやエリヤが自分の家に訪ねてきたら、驚き感激し、「とりあえずお上がり下さい」と言い、よければ「泊まっていってください」と言うでしょう。ペトロは正直な人ですね。そしていろいろ会話を交わしたいでしょう。
 ところがそのペトロの願いは空しく、たちまち光り輝く雲が3人を覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者、これに聞け」という声がしました。父なる神の声のようです。そして、気がつくと主イエスしかおられなかった。つまり、神は、ご自分の愛する子であるイエスさまに聞けばそれで足りる、とおっしゃったのです。
http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat112.html

  (4) 雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40・34-38参照)。雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子」という言葉は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マルコ1・11)。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエスは、ここからは受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。この受難の道も神の愛する子としての道であることが示されるのです。「これに聞け」の「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、聞き従うことを意味します(申命記18・15参照)。受難予告で「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8・34)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。

  (5) イエスの変容の姿は、受難をとおってイエスが受けることになる栄光の姿でした。それはイエスの受難と栄光を実際に経験する前の弟子たちには理解できないことだったでしょう。弟子たちがこの出来事の意味を理解できるようになったのは、復活後のことでした。ところで、今のわたしたちにとっては、イエスの受難も栄光も、もうすでに知っていることです。苦しみの先に栄光が待っていると知っているから、わたしたちは今の苦しみを耐えていくことができるのでしょうか。それだけでなくむしろ、どんな苦しみの中でも、神とのつながり・イエスとのつながりを感じることができる、だからこそ、イエスと共に「神の愛する子」としての道を歩むことができる、とも言えるでしょう。
 八月は、かつての戦争の悲惨な出来事を思い起こす時期になりました。そして今もこの世界の平和を脅かすさまざまな出来事があって、人々の心を不安にさせているかもしれません。そんな中でわたしたちは、「これ(イエス)に聞け」という言葉をどこまで深く受け取ることができるかが問われているのではないでしょうか。
http://tokyo.catholic.jp/cgi-bin/MT/archives/2006/08/index.html

(C.S. Lewis, Miracles, pp. 113-114.)

You have had a shock like that before, in connection with smaller matters – when the line pulls at your hand, when something breathes beside you in the darkness. So here; the shock comes at the precise moment when the thrill of life is communicated to us along the clue we have been following. It is always shocking to meet life where we thought we were alone. "Look out!" we cry, "It's alive!" And therefore this is the very point at which so many draw back – I would have done so myself if I could – and proceed no further with Christianity. An "impersonal God" – well and good. A subjective God of beauty, truth and goodness inside our own heads – better still. A formless life-force surging through us, a vast power that we can tap-best of all. But God Himself, alive, pulling at the other end of the cord, perhaps approaching at an infinite speed, the hunter, king, husband – that is quite another matter. There comes a moment when the children who have been playing at burglars hush suddenly: was that a real footstep in the hall? There comes a moment when people who have been dabbling in religion ("Man's search for God"!) suddenly draw back. Supposing we really found Him? We never meant it to come to that! (C.S. Lewis, Miracles pp. 113-114.)

あなたは、小さい事柄に関連して、前にそのような衝撃を受けた - ライン(釣り糸、つりいと)があなたの手で引っ張ると、何かが暗闇の中であなたのそばに呼吸するとき。だからここに、ショックは人生のスリルは、我々が従ってきた手がかりに沿って私たちに伝えられる正確な瞬間に来る。我々は一人で思っていたところ、それは人生を満たすために常に衝撃的である。 "チェックアウトを見て"我々は泣く! "それは生きている"そして、したがって、これはそう多くは引き戻すれる非常にポイントです - 私が行っているであろう自分自身ので私ができれば - とキリスト教とのこれ以上進められません。 "人間味のない神" - 順調と良い。より良いまだ - 私たち自身の頭の中の美しさ、真実と善良の主観的な神。混沌とした生命力は、私たちを通して、我々はすべての最高をタップすることができ、広大な電力の高騰。しかし、神ご自身、生きているのは、恐らく無限速度、ハンター、王、夫に近づいて、電源コードのもう一方の端を引っ張って - 全く別の問題です。ホールでは、その本当の足音だった:突然強盗の静けさで演奏されている子どもたちは瞬間が来るか?宗教に手を染めてきた人々は、( "神のために人の検索"!)突然引く瞬間が来る。我々は本当に彼を見つけたと仮定すると?我々は、に来てそれを意味したことはありません! (C.S.ルイス、奇跡の113から114頁)。

お化け屋敷



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Il Te Deum che innalziamo al Si- gnore questa sera. Benedetto xvi

Il Te Deum che innalziamo al Si- gnore questa sera, al termine di un anno solare, è un inno di ringrazia- mento che si apre con la lode — «Noi ti lodiamo, Dio, ti proclamia- mo Signore» — e termina con una professione di fiducia — «Tu sei la nostra speranza, non saremo confusi in eterno». Quale che sia stato l'an- damento dell'anno, facile o difficile, sterile o ricco di frutti, noi rendiamo grazie a Dio. Nel Te Deum, infatti, è contenuta una saggezza profonda, quella saggezza che ci fa dire che, nonostante tutto, c'è del bene nel mondo, e questo bene è destinato a vincere grazie a Dio, il Dio di Gesù Cristo, incarnato, morto e risorto. Certo, a volte è difficile cogliere questa profonda realtà, poiché il ma- le fa più rumore del bene; un omici- dio efferato, delle violenze diffuse, delle gravi ingiustizie fanno notizia; al contrario i gesti di amore e di ser- vizio, la fatica quotidiana sopportata con fedeltà e pazienza rimangono spesso in ombra, non emergono. An- che per questo motivo non possiamo fermarci solo alle notizie se vogliamo capire il mondo e la vita; dobbiamo essere capaci di sostare nel silenzio, nella meditazione, nella riflessione calma e prolungata; dobbiamo sa- perci fermare per pensare. In questo modo il nostro animo può trovare guarigione dalle inevitabili ferite del quotidiano, può scendere in profon- dità nei fatti che accadono nella no- stra vita e nel mondo, e giungere a
quella sapienza che permette di va- lutare le cose con occhi nuovi. So- prattutto nel raccoglimento della co- scienza, dove ci parla Dio, si impara a guardare con verità le proprie azio- ni, anche il male presente in noi e intorno a noi, per iniziare un cam- mino di conversione che renda più saggi e più buoni, più capaci di ge- nerare solidarietà e comunione, di vincere il male con il bene. Il cristia- no è un uomo di speranza, anche e soprattutto di fronte al buio che spesso c'è nel mondo e che non di- pende dal progetto di Dio ma dalle scelte sbagliate dell'uomo, perché sa che la forza della fede può spostare le montagne (cfr. Mt 17, 20): il Si- gnore può illuminare anche la tene- bra più profonda.
L'Anno della fede, che la Chiesa sta vivendo, vuole suscitare nel cuore di ciascun credente una maggiore con- sapevolezza che l'incontro con Cri- sto è la sorgente della vera vita e di una solida speranza. La fede in Ge- sù permette un costante rinnova- mento nel bene e la capacità di usci- re dalle sabbie mobili del peccato e di ricominciare di nuovo.

Osservatore 3 gennaio 2013


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