24 per annum

 年間 第 24週間


 

年間 第 24月
ルカ7・1-10

どう信じるのか?

 私たちはイエスさまをどう信じるのでしょうか?
 「自分にはできない。だからイエス様にもできない」と信じるのでしょうか? そうすると、イエスさまがおっしゃった「信じたとおりになるように」という言葉は、祝福の言葉ではなく、呪いの言葉となってしまいます。そんなことなら、最初からイエスさまを信じないほうがよかったのです。
 「自分にはどうすることもできない。」これは正しいのです。しかし、ここで終わってはならないのです。「自分にはどうすることもできないけれども、イエス様には解決できる」というところに行くべきです。
 ここで注意して申し上げておかなくてはならないことは、百人隊長が、イエスさまの前に愛をもって、へりくだったことです。愛がなく、神の前にへりくだることもなく、ただ神さまを自分の意のままに操ろうとして、形だけへりくだり、「信じ」ても、意味がないということです。イエスさまが主人であり、わたしたちが僕です。この関係をひっくり返してはなりません。また、自分の欲のために神を利用しようとしてはなりません。
 聖書を読み、祈り、礼拝することなしに、神を信じるようになることはできません。まず主の僕となって、心から主を礼拝しましょう。 nibanmati


年間 第24火
ルカ7・11-17

「若者よ、私はあなたに言います。起きなさい」


私たちは、深き悲しみや罪の中で、また死を前にし、人に支えられて歩んでおります。「町の人たち(v12)」の存在は、母親にとってどれほどの支えであったことでしょう。自分の苦しみを、信頼のおける人に聴いてもらい、どれほど慰められ、勇気づけられることでしょうか。しかし、同時に、人には届かない悲しみがあることも真実なことです。本当の意味での完全な癒しと慰めは、人によるのではなく、神によることを、聖書は告げます。「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた。(v13)」「かわいそうに思い(v13)」との言葉は、人の存在の深みを動かす感情を意味し、新約聖書において、主イエスだけに用いられています。人には用いられていません。「泣かなくてもよい。(v13)」いのちを与える力ある言葉でした。(v14、v15)「かついでいた人たちが立ち止まった(v14)」主イエスは、棺に手をかけ、墓に向かっていた息子と悲嘆に暮れていた母親の道を留められました。そして「起きなさい。」と告げられ、死んでいた息子が生き返り、同じく絶望に死んでいたとも言える母親のところに息子を返し、母親をも生き返らせたのです。


息子が生き返ったことは、旧約聖書に約束された救い主の徴でした。(7:22~23参照、v16→1:68、79参照)v13で「主(v13)」と記しています。主イエスは、人間の罪の悲しみを深く悲しみ、その罪を背負い、身代わりに十字架に架かり、神の裁きを受け、私たちに罪の赦しと新しいいのちを与えて下さる「いのちの主」です。主イエスは、人生の不条理で悲嘆に暮れている私たちを真に慰め生き返らせて下さいます。また、私たちの家族、共同体の関係を回復へ導いて下さいます。主イエスは、失った息子を母親に返されました。(①前の箇所、ローマの百人隊長とその僕の関係が元に戻ったことを記す②「救いがこの家に(ルカ19:9)」③「あなたもあなたの家族も(使徒16:31)」)主イエスは、その人を罪から救うだけではなく、その人の属する共同体に回復を与えられます。神なしでは、私たちの崩れた関係は、崩れていく一方ではないでしょうか。墓に向かっていく道に進んでいくだけではないでしょうか。しかし、そこに神の救いの働きがなされるとき、立ち止まり(v14)、癒されていくのです。そして、私たちはやがて肉体の死を迎えますが、死は決して絶望ではなく、主イエスが死に打ち勝ち、復活されたように、私たちを、神のもとへ、完全な慰めの場である天の御国へと導き入れて下さるのです。

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私たちの信仰、愛、希望、感謝の心、暖かい思いやりなどは、時々新鮮さを失い、古くなったり眠ったり、あるいはまったく死んでしまうときがあります。「若者よ、起きなさい」ということは、若々しい姿で再び立ち上がりなさい、ということでしょう。病気になり、死に、もう冷たくなっていても、イエス様のみ言葉は、いつも私たちの心に呼びかけているのです。もう一度暖かい心、みずみずしい心、新鮮ではつらつとした信仰、愛を取り戻しなさい、と命じてくださるのです。
 そしてその命令は、たんなる言葉だけでなく、実際に私の内に力を与えて、立ち上がる勇気を湧き出させてくださるのです。私たちが立ち上がろうとさえすれば、冷たくなっていた体に温かい血が流れ始め、起き上がって愛を語れるようになります。神と人、人と人との間に、血の通った関係を取り戻すことができるのです。
 いつも古びない信仰、希望、愛を持つために、まずイエス様の呼びかけに耳を傾けましょう。

一時期死を延ばされた人は、私たちへのしるしとなります。実は私たちも毎日毎日死んで、毎日毎日神によって延命されている身であることを、わからせるためです。
 命はもともと私のものではなく、神からの預かりものであることを悟らせるためでしょう。それは毎日の命が、けっしてあたりまえの命ではなく、毎日毎日失われていく、かけがえのない大切なものなのだ、ということを教えるためでしょう。死ぬことがなければ人間はけっして命の大切さなどに気づかないでしょうから。

人は確かに死を恐れます。死を恐れない人はいないでしょう。しかしまた、あくまでも死が確実であるからこそ、残された生を大切にできるのです。もし死ななくなれば、生の意味も失われてしまいます。死刑判決を受けた人にとって、残された生涯がいとおしく、輝いて見えるように、死で終わるものであるからこそ、今の生がはかなくとも美しいものなのでしょう。ダラダラと続く終わりのない生は、刑罰ではあっても、けっして生き生きとしたものになりません。失われるものであるからこそ、価値があるのです。

実は私たち人間がすべて、このもろい生と命を大切にするようにと、呼びかけられている死刑囚なのです。
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人は人生で三回泣く。一回目は母の胎内を出る時、二回目は愛する人を失った時、最後はこの世と別れる時だ』と言われます。また人生には三度と言わず、涙の谷とも呼ぶべきだとも言われます。詩編42編には「昼も夜もわたしの糧は涙ばかり」(4節)という言葉がありますが、涙ばかりを糧とす
るような、身を切られるような痛みを伴う悲しい別れが人生には確かにあるのです。
そのような中で、キリストの言葉が響いてくる。「もう泣かなくともよいのだ」と。ここに「もう泣かなくともよい」と言って、涙をぬぐい取ってくださるお方がいる。このお方ご自身、十字架という涙の谷を味わい尽くしたお方です。人々の苦しみや悲しみを深い憐れみをもってご自身のはらわたで受け止めてくださるお方です。そして、実はこのキリストの奇跡は、2000年前のあの時だけではなく、2000年の歴史を越えて、ずっと実現し続けてきたと教会は告白してきたのだと思います。「キリストのからだ」である教会を通して、キリストは今もこの地上で生きて働いておられるのです。キリストのあわれみのみ業を実現することは、キリストに従う者の使命でもあります。キリストは、このような小さき者をも用いるほど憐れみに充ちておられるということです。
 キリストの愛と憐れみが私たちを捉える時、そこに不思議な出来事が起こる。死の力によっても打ち砕かれることのないキリストのいのちに生きることが可能となるのです。  「もう泣かなくともよい」と言ってくださるお方が私たち一人ひとりの新しい一一日の歩みを守られるようお祈りいたします。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/59.htm
日々、命を与えてくださる主に、感謝と賛美を捧げることができますように。

年間 第24水
ルカ7・31-35

今日の福音書は見事に現代をも捉えています。現代の人々は、感動を失っている、なにごとにも感動しようとしない、白けているのです。
 しかし一方で、何事にも感動しない人生、何事も醒めていて、ある一定の距離をおいて生きていく生き方というものがどんなにつまらないものかとも思います。それよりは、一生のうち一度も騙されない人生を歩んで、白けた人生を歩むよりは、それよりは、一度くらい騙(だま)されてもいい、何ものかに心をゆさぶられて、自分の全存在をそれに賭けるくらいの人生のほうが楽しいではないか、豊かではないかという気もするのです。
イエス・キリストを本当の救い主として、今われわれは自分の全存在を賭けてイエスに従っている、従っていこうとしている、その用意と覚悟をしている、そういうわれわれによって、イエス・キリストの笛によって踊ったことが本当によかったのだと今われわれはこの世に証しをしなくてはならないのです。 http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke22.htm



年間 第24木
「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」
ルカ7・36-50

「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」といわれると、私たちは人を愛するためには、できるだけ沢山の罪を犯したほうが、愛がわかるんだとイエスは言っているのではないかと思わないでしょうか。みなこの罪ある女のように悪いことをたくさんしないとイエスを愛せないし、あるいは神の愛も受けられないということなのでしょうか。
沢山の罪を積み重ねたからといって、神の愛がわかるわけではないのです。罪をたくさん犯せば犯すほど、罪に対しては鈍感になるだけではないでしょうか。従ってどんなに罪が赦されてもひとつもそれについて感動もしなければ、感謝もせず、ただ(うまくいったぞ)しめたもうけものをしたという程度にしか思わないのです。沢山の罪をおかせば、罪に対して鈍感になるだけです。従って罪が無条件に赦されれば赦されるほど、しめたもうけものをしたと、罪の赦しに対しても鈍感になるだけです。問題は罪の量の多さではないのです。罪の自覚の深さの問題です。
「このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」と、愛という言葉をイエスは使っているのです。ここはむしろ感謝という言葉のほうがふさわしい気がするのです。しかしイエスは愛という言葉を使っているのです。イエスがお考えになっている愛、そして聖書の示す愛というのは、罪が赦されたということから始まるものだということなのです。愛は単なる親切ではない。単なるボランティア活動ではない。ましてファリサイ派の人々や律法学
者たちが示すような律法を満たすような意味での愛ではない。自分の罪を深く自覚し、その罪がイエス・キリストによって赦され、神によって赦された、そのことから出てくる生き方、それが愛なのだということです。それ以外の愛は愛ではないのだと言うぐらいです。それはパウロが語るように、どんなに自分の全財産を人にほどこし、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である、と言われている愛、つまり罪赦されたということから出る愛でなければ、どんなに全財産を人に施し、自分を犠牲にしても、信仰があったとしても、それは愛にはならないということです。罪赦された者の愛、それ以外の愛は、パウロがいう「愛は寛容であり、情け深い、ねたむことをしない、高ぶらない、誇らない」という愛にはならないということです。
愛は自分の罪に対する深い自覚と、その罪が神によって赦されたということから始まるのです。今日はこのことについて黙想しましょう。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke23.htm
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親鸞は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をば」と言っている。また、マルチン・ルターは、「大胆に罪を犯せ、しかし、それ以上に大胆に信じ、キリストにおいて喜びなさい(pecca fortiter sed fortius fide et gaude in Christo)」と言いました。パウロは、「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」と書いています。人は、神のあわれみが及ばないほどに不従順であること
はできない。だから、やってごらん。恐れる必要はない。臆病であってはならない。ルターが言ったように、「大胆に罪を犯してみよ」----そしてどれほど大きなあわれみを神から求められるか見るがいい。しかしもし神の慈悲のゆえに、罪を肯定するのであれば、神の慈悲を悪用することですから、誤解を招きやすい、危険になります。



年間 第24金
ルカ8・1-3

私たちは現代に生きていますし、それも現代の教会に生きていますから、こういう記述にさほど違和感を感じずに読んでしまうかもしれません。しかし、少し前までは、男女の席が決まっていることはよくありました。私の子供の頃育った教会も、礼拝堂の右側に男性が座り、左側に女性が座っていました。日本でもそうだったという話を聞いたことがあります。それは教会の信仰に基づく決まりではなく、かつての日本の儒教的な教育の影響でしょう。今は、男女が渾然一体となっています。この方がキリストの教会らしいことは言うまでもありません。
イエス様の時代のユダヤ人社会においては、成人男子と女や子どもとでは画然とした違いがありました。神殿の造りも、成人男子の庭には女や子どもは入れませんでした。律法学者、民の長老、祭司長という社会の上層にいる人々は皆男です。そして、ラビと呼ばれる律法学者の弟子たちも皆男です。女はいません。
 そういう男中心のユダヤ人社会、あるいは「この世」の中に、イエス様は「神の国が到来した」ことを告げるのです。それは、非常に過激というか、激烈なことです。まさに古い革袋の中に、新しいぶどう酒が注ぎ込まれてくるようなことだからです。権力を持った男たちが、そんなことを許すはずもありません。拒絶するのは当然のことです。
イエス様と「一緒に」いたのはあの「十二人」だけではなく多くの「婦人たち」もいたという、ことが当時の社会の中でどれほど常識外れのことであるかは、お分かりいただけると思います。婦人たちがいる。彼女らはそれぞれの持ち物を提供しあって、主イエスと弟子たちの一行に奉仕をしていました。この現実の中に既に、神の国とは何であるかが明らかにされているのです。
七」は完全数ですから、手の施しようがないほど心身の障碍(しょうがい)、あるいは病魔に襲われていたのだと思います。「悪霊」とは神様に敵対する力です。だから、マリアはその力に完全に支配されている罪深い女、ということにもなります。祭司だとか律法学者たちは、尚更彼女をそういう罪人として見たはずです。そして、救いようがないと見たのです。しかし、イエス様は断固として彼女をかばい、弟子の一人として接します。
このマリアに対して、ヨハナは、全く対極にある女性だと思います。彼女はガリラヤの領主ヘロデの家令の妻です。高級官僚の妻です。
 マリアとは生涯顔を合わせるはずもない女性です。仕を捧げているのです。スサンナはここにしか出てきませんし、どういう女性かは分かりません。マグダラのマリアとヨハナ、この二人はイエス様と一緒にいる女性たちの代表でしょう。しかし、その二人はこの世ではとても一緒にいるような人たちではありません。ただ、主イエスにおいてのみ一緒におり、共に奉仕を捧げることが出来る女性たちなのです。
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昔からマグダラのマリアは、売春婦であったと言われてきました。べつに根拠があったわけではありませんが、七つの悪霊を持っていたということからには、きっと売春をしていたにちがいないと考えられたからです。
 七つという数は、完全さを表しています。(「七福神」参照)。ですから、完全に悪霊に取りつかれていたか、あるいは本当に七つの悪霊にとらえられていたのでしょうか。つまり神と人間のかかわりを、あらゆる方法で壊そうとする悪の勢力のことです。
 もちろんその中に売春が入っていなかったとは言えませんが、もっと精神的な罪だった可能性もあります。本物の神を差し置いて迷信に走ったとか、偶像崇拝に走ったこと(旧約聖書では、偶像崇拝を姦淫と呼んでいます)とも考えられます。もしかしたら神に向かうべき情熱が七つの迷信、七つの偶像に向けられたのかもしれません。多神教は、それぞれ神が分業していて、商売繁盛は○○の神、縁結びは○○の神、というふうにたくさんの神仏を拝まないと、罰が当たってしまうのです。
 しかしマリアはイエス様に出会い、それを通して天の御父への愛に目覚め、七つの迷信から解放されたのです。売春婦だったというのは、長年のぬれぎぬかもしれないのです。しかしたとえ売春婦であったとしても、七つの悪霊にとりつかれていたマリアが、初代婦人会会長(!?)になれたのは、周りの人々が寛大だった「からでしょう。
 もちろん悪にたけた人が回心した場合、善に向かう力も強いものです。しかし下手すると、人にもそれを要求し、つまり自分の体験をふりかざして、超善人になってしまう危険性もあります。自分の過去に悪におしつぶされることもなく、それをひそかに誇ることもなく、また回心したことを見せびらかして、回心していない人々を裁くこともなく、つねに謙虚に会長の務めを果たすことこそ、マリアの回心の最も美しい実りであり、またもっともむずかしい課題だったのでしょう。
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イエスさまは、その宣教活動の多くを旅の生活として過ごされました。それは「放浪(ほうろう)の旅」と言ってよいもので、その厳しさを「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)と述懐されたこともありました。ここからは、旅の道すがら、あるいは野宿の朝、野原の狐や空の鳥を眺めながら、ご自分の旅の厳しさを思い巡らしたイエスさまの姿がしのばれます。ところで、イエスさま一行はどのようにして収入を得ていたのでしょう? 旅を続けうる経済的後ろ盾は何だったのでしょう? それは、ただ人々の施しにだけ支えられる旅でした。」。「七つの悪霊」とはさまざまな病気を抱えていた状態を表しているのでしょう。病気をいやされイエスの一行に加わった女性たちは「奉仕していた」と言われますが、単なる身辺(しんぺん)の世話係というよりも、女性の弟子たちと言ったら良さそうです。どの福音書もイエスの十字架上での死と埋葬を見届け、3日目の朝、空(から)の墓を見つけた女性たちのことを伝えています。彼女たちの多くは、農夫や漁師のおかみさんたちでした。

 一方、農家のおかみさんたちには、こう呼びかけられます。「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」(28~30節)

 当時の農家のおかみさんは一体何枚服を持っていたでしょう? 着飾ったり化粧をしたりすることは、一生のうち何回あったでしょう? 「衣服のことで思い悩む。」これはデートのときに何を着ようか、といった現代の「悩み」とは対極にあるものです。
 さて、イエスさまは、こうしたおかみさんに、ひたすら我慢せよ。今与えられているもので充分ではないか、と教えておられるのでしょうか? 私にはそのようには思えません。そうではなく、イエスさまは、ご自身、農夫やおかみさんと同じ生活をしながら、いやそれよりも厳しい放浪の旅をしながら、人間として貧しいながらも生きる上でもっとも大切なこと、すなわち神さまを信頼することを呼びかけられたのです。
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七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリアを筆頭に、婦人たちは、イエスに癒していただいた感謝と喜びの心から、イエスの福音宣教の旅に付き従い、一行に奉仕していました。
第一朗読でパウロは力強くキリストの復活をといています。復活信仰こそ私たちの根本的な恐れを癒します。このように、イエスが私にしてくださったことをより深く悟るなら、イエスに従う旅の辛さも乗り越えることができるでしょう。
主よ、私を罪の闇から救われた、あなたの慈しみをより深く悟らせてください。その感謝と喜びを、
日々の奉仕の中で生きることができますように。 sese


年間 第24土
ルカ8・4-15

種を蒔く人は始めから道ばたに種を蒔く人はいないでしょう。岩にいばらに蒔く人はいないでしょう。蒔く人はもちろん良い地に蒔こうとして蒔くのです。しかし蒔いているうちに風に吹かれてほかの地に行ってしまったということでしょう。
イエスが伝えようとした福音が決してすぐさま人に受け入れられるものではないというイエスの予測というか覚悟とい
うか、警告というものなのかも知れません。それはなぜか、イエス・キリストのなさった福音宣教のやりかたが基本的には言葉による宣教だからです。
言葉による宣教・告知というのは、それを聞く人の態度によって大きく左右されるということなのです。言葉は言葉自体のもつ力というものがありますが、しかしこちらがどんなに言葉を発しても、聞く相手が聞く耳をもっていないならば、それは有効に働かないということです。
言葉というものは、力づくで相手に何かを押し付けることは簡単にできるものではない。こればかりは大事だ、良い心でしっかりと聞き、守らないと聞き手のものにならないというところがあります。ですから、イエスのとられた宣教方式、それは今日われわれの教会が受け継いでいる、宣教のやりかた、説教を中心とした宣教のやりかたは、聞き手の対応に、聞き手の自由に左右されるということです。つまりそれは心の暴力というべき洗脳というようなやりかたではなく、これは極めて人格的なやりかたであるということです。人格的であるということは、相手の立場を無視してむりやりに押しつけるものではないからです。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(1コリ1:18-21 )
 
 

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