30 per annum

年間第30月
ルカ13・10-17

  安息日は一日に何歩以上歩いてはいけない日になっていった。いっさい火をつかって料理をしてはいけなと日になっていったのです。その日はお偉方が、今日でいえば警察がみんなが安息日を守っているかどうか、遵守してるかどうかを監視する日になっていった。それは民衆にとっては、休まる日どころではなく、安息日律法に違反していないかどうか、びくびくする日になってしまったのです。
われわれ人間のわざの中でももっとも人間的なわざというのは、いわば人をさばくということではないかと思います。ある人の言葉に、人が誰からも教えられないで生まれつきもっている技術がある、それは人をさばく技術だ、という言葉がありますけれど、そのわれわれ人間が生まれつきしみついている技術、わざ、人をさばくというわざがまさにこの安息日に横行し始めたのです。つまり安息日は人間のわざを中断しなくてはならない日なのに、その日こそもっとも人間的なわざ、しかももっとも悪しきわざが横行する日になっていってしまったのです。

安息日こそ、すべての束縛から人々を解放する日にするとイエスは宣言したのです。「安息日であっても」というところを、むしろ「安息日だからこそ」とも訳すことができるのです。
この女の人は「かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女」と記されていて、別に汚れた霊、悪霊にとりつかれたというようなことではないようです。肉体の病です。それなのにイエスは「十八年間もサタンに縛られていた」というのです。病気はサタンに縛られることなのだというのです。

現代では、もうそのように病気について考えることはないと思います。精神的な病ですら、あるいはアルツハイマーという痴呆症の病気でも、心の病というよりは、脳の欠陥から起こる病気と考えられているでしょう。われわれのかかる病気はすべてもう生まれた時から持っているDNAというもので決定されているのだといわれているくらいです。もうそこにはサタンとか入り込む余地はないです。しかしそのように病気について考えるようになって、われわれは果たして病気から解放されたか、幸福になったということです。DNAなどといわれたら、われわれはもうかえって何の望みもなくなってしまうのではないかと思います。かえって、絶望するだけです。人間のからだというものをすべてそのような物質的なものだけでなにもかも考えようとすることによって、われわれは病気からひとつも解放されないのではないかと思います。 
人間を造られたのは神です。従って、神はその人間の心だけでなく、からだにもかかわっておられる。支配しておられる。それならば、われわれの病にも神は関与しておられる。そういう考えのほうが、われわれは病気に対処する力を与えられるのではないかと思います。

しかしこの十八年間も病で苦しんでいた女は、いっさいの束縛から解放されるべき安息日に、からだも魂もイエス・キリストによって解放されたのです。われわれのからだも魂も、究極のところ決してDNAが支配しているのではなく、神が支配しておられることを信じたいと思います。
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主キリストは安息日にたくさんの病人を癒しました。私たちも日曜日や休みの日に苦しんでいる人々と時間を分かち合うことができるように祈りたいと思います。また、主は神殿に通うが苦しんでいる人々をさけることを非難し、偽善だと言われました。教会に通う人々は偽善者にならないで、惜しまずに他人を愛する力と喜びを見出すことができますように祈りたいと思います。キリストが、第一のおきては「隣人を愛する」ことであると教えてくださいました。日常生活の中で、あるいは人生の中で他人を助ける機会が訪れた場合、逃げないように深く反省し、キリストの支えと守りを願いたい。キリストは神に対するをさけるように教えました。神に対する愛と隣人に対する愛を対立させないように気を付けたいと思います。日曜日は自己中心的に過ごしてしまうことがあれば、キリストにならって人々を愛することを学ぶチャンスにしたいと思います。
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「安息日はいけない」という会堂長の言葉には、人間がつくりあげた権力、威圧感、冷たさを感じます。この権力は弱い人、貧しい人を軽んじたり無視します。一方イエスは、群衆の中の病の婦人を「見て呼び寄せ」「病気は治った」と言い「その上に手を置かれ」ました。
イエスが持つ権威は人間のそれとは次元の違うものであり、死から命へと導く愛そのものです。
天の御父は、復活されたイエスを通してこの真の権威、愛を今も私達に注がれています。
私達は神の愛を実現するために生きたいと心の奥深くで望んでいます。御父の助けを求め聖霊の導きに耳を傾けながら丁寧に生きていくことができますように。 sese06
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主は長い病に苦しむ女を呼ばれ、声をかけ、手を触れて癒されます。神の愛は人の思いをはるかに超えて広く、深いことを示すために。癒された女はまっすぐに立ち、神を賛美します。
主よ、私の心にも触れてください。そして解放してください。他人の目や批判、自分の考えを正当化する誘惑や束縛から。私にも与えてください。本当の愛に動かされて毅然として行動する勇気を。
そして歌わせてください。賛美の歌を。主がもたらされた救いを、今日出会う人々と共に喜ぶことが出来ますように。sese05


年間第30火

ルカ13・18-21

① 目に見えない
からし種とパン種がどのようにして広がり成長するかという共通点のひとつは、どちらも成長は目に見えないという事です。
神様の支配の広がりも、私たちの目にはなかなか見えません。最初にイエス様を救い主として受け入れて、信仰を持った後も、自分にはなかなか変化を見る事ができなかったりします。何年も経った後にも、変わり映えしない自分にがっかりしてしまう事も少なくはありません。しかし、神の国は私たちの内に根付くと、確かに影響を与え、広がっています。
世界への広がりも、決して目に見える形で広がっていったわけではありません。クリスチャンは大きな迫害の中にいましたから、世間には目に触れないところで密かに広がっていき、力を増やしていきました。現代でも、中国でのクリスチャンの広がりは、最近まで表面的には見えませんでした。今でも、中国にクリスチャンがどれだけいるのか、完全に把握している人はいません。しかし、気が付けば日本の人口くらいのクリスチャンが中国にはいると言われるようになりました。
日本での福音の広がりは、やはりあまり見えてきません。しかし、見えないところで必ず人の心を動かし、潜在的に広がっていると僕は思います。この広がりがはっきりと見えるようになった時、日本の大半の人たちが福音に変えられていくような状態になっているといいですね。

② 力は内側から起こる
さて、からし種とパン種の2つめの共通点は、広がり成長する力は、表面的なものではなく、内側から起こる力によるのだということです。力は内側から起こっているのだから、見えないはずですね。
私たちは、表面的な成長ばかりを求めてしまいがちです。身長、体重、テストの点、営業成績など、目に見える形での成長は確かにわかりやすいですが、それが全てではありません。顧客対応はマニュアル化し、せいぜい研修を受けさせて外側だけを教育します。
それは教会でもあまり変わりません。どのようにふるまい、どのような言葉遣いをするかという事に一生懸命になってしまう傾向があります。しかしそれで表面の行いが変わっても、中身が変わっていないなら、いざという時にはやっぱり元の行動に戻ってしまうのです。
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からし種、パン種はとても小さいものですが、成長すると大木、大きなパンになります。どちらも小さな目立たないものですが、どんなに大きな影響を及ぼすものであるかをイエスは語っておられます。神の国は派手なものではないと。私達一人一人がからしの木、大きなパンになるように神はそれぞれに必要な恵みを常に注がれています。私達の内にある小さな種に気づいているでしょうか。
今いただいている恵みに感謝し神の国の実現のために今日を生きることができますように。
また、私たちは目立ちたがり屋のような生き方を捨て、小さなことでも、隠れているところでも、心の中に蒔かれた愛の一粒の種を芽生えさせ、パン種の役目を携えて、冷たい社会を内側からあたため、生かす力となれますように。
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「からし種」と「パン種」。どちらも小さな目立たないものですが、どんなに大きな影響を及ぼすものであるかをイエスは語っておられます。神の国は派手なものではない。ご自分の生命の深い神秘。
復活へとつながる死の神秘。
限りない愛の神秘を暗示するものとして・・・。
主よ、私たちも自分中心の生き方を捨て(目立ちたがり屋の生き方を捨て)、心の中に蒔かれた愛の一粒の種を芽生えさせ、パン種の役目を携えて、小さなことでも、隠れているところでも、冷たい社会を内側からあたため、生かす力となれますように。sese05


  年間第30水
ルカ13・22-30

「主よ、救われる人は少ないのですか」というこの問いにはどういう意味があるでしょうか。それは救いの問題を自分の救いの問題として受け止めるのではなく、他人が救われるかどうかなどと問うということがおかしいということです。あの人は救われるのかどうか、などと問うべきではないということです。
 救いの問題はまず自分自身の救いの問題を問い続けなさいというのです。自分はもう救われてしまったということにあぐらをかいて、あの人は救われるのか救われないのかと、まるで相撲の点取り表を作って、まるばつをつけるようなことはするなということです。
それでは、自分の愛する家族とか、友人知人の救いの問題は考えなくていいのかと言われるかもしれません。それは決してどうでもいい問題ではなく、切実な問題ではないでしょうか。確かに、パウロも自分はキリストによって救われたけれど、自分の同胞、イスラエル民族はキリストを拒み続けて、神に見捨てられてしまうのかということを真剣に問うているところがあります。そこではパウロはこういうのです。「わたしはキリストにあって真実を語る。偽りはいわない。わたしの良心も聖霊によってわたしにこうあかしをしている。わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身が呪われて、キリストから離されてもいとわない」と、述べて自分の同族の民、イスラエルの救いの問題について論じるのです。
この人が救われないないならば、この人と一緒に地獄に堕ちてもいいというくらいの切実さをもってその人の救いの問題を考えるならば、もうその人の救いの問題は他人事ではなくなっているのです。この人が救われなければ、「わたしの身がのろわれて、キリストから離されてもいい」というほどに、他の人の救いの問題を切実にかかえて生きるということはすばらしいことであり、福音宣教へ駆り立てる動機にもなると思います。Ekyamada
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生(なま)のものを美味しくいただくためには、賞味期限というものがあります。どんなに冷蔵庫にいれても、保存しても、それは新鮮な味は失われてしまうものであればしようがありません。愛も生きたものであるならば、それに応答するのに、遅すぎてしまうということがあるのです。親孝行をしようと思ったら、もう親はいないということがあるのです。
この「狭い戸口」という狭さは、場所的な意味での狭さ、他人をけおとして、自分ひとりだけしか入れないという狭さではなく、時間的な切迫さ、時間的な狭さのことのようです。二五節をみますと、「家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人さま、どうぞあけてください』といっても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこから来た人なのか、わたしは知らない』と言うであろう」と言われてしまうというのです。この狭さは時間的な狭さです。
神と私達との間に、もう遅すぎるということがあるのだ。そのことをここでよく知っておかなくてはならない。もう遅すぎるということがあるのは、まさに愛の世界においてである。眠っているような愛、どうでもよいような愛、機械的にしか反応しない愛、マンネリ化してしまった愛は煮ても焼いても食えないものです。知らん顔をしている神になってしまう。われわれは眠るわけにはいかない。神の愛が呼んでいる。神の愛が呼び覚まそうとしている。眠るわけにはいかない。今、目を覚ませと、主イエスは声をかけておられる」と、言っております。
愛に応えるためには、遅すぎてはならないというのです。愛には遅すぎるということがある。遅すぎてしまったら、もう取り返しのつかないことになってしまうのです。生きた愛というのは、機械のようなものではないのです。タイミングというものがある、それに応えるという切迫さというものがあるということです。
Ekyamada
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「狭い門から入りなさい」と言われている。これはなぜか?
 それは、門を狭くしてしまっているのは、イエスさまではなく、私たちなのです。イエスさまは、大きく門を開けて、手を広げて入るのを待っておられる。ところが、その前を素通りしてしまうのです。
 この園田教会は、たくさんの人々は通る幹線道路に面して建っています。朝は、多くの人はこの前を素通りして、学校や職場に行くのです。そちらのほうが興味は引かれるのです。
 ある神学者が、「教会は天国の出張所だ」と言われた。しかしこの小さな教会が天国の出張所のようには見えないのです。そんな感じがしないのです。それでみんな違う方へ行くのです。そのように、それらしきところ、多くの人が行くところ、そういうところに行けば無難だろうと思う。まさに、イエスさまは大きく手を開き、門を開けているのに、まさかそんなところに天国の出張所があるとは思わないで通り過ぎていくのです。
 そのように、実は誰でも通ることのできる広い門であるのに、「狭い門」にしてしまっているのは、私たち人間のほうであると言うことができます。 nibanmati


年間第30木
ルカ13・31-35

イエス様の答えに注目する。イエス様はヘロデを指して 「行って、あの狐にこう言いなさい。」と言われます。3233節:「よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、 悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三 日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」 まずイエス様はここで、ご自分の行動の基準について述べておられます。イエス様は、ヘロデがあなたを殺そうとしていると聞いて、それじゃ 大変だ!と、ご自分の生き方を変えてはおら れません。イエス様はそれとは関係なく、ご自身の道を歩み続けられます。すなわちこれまでと同じように神の国を 宣べ伝える働きをして、ご自身の使命を全う して行かれる。33節では「だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。」と言って います。ここに出て来る「~しなければなら ない」という表現は、神のご計画を指す表現です。イエス様はご自分の思いで歩んでいるのではなく、神の御心に 従って歩んでおられたのです。
そして、このイエス様の姿勢とセットになっているのが、父なる神の摂理に対する全き信頼です。なぜイエス様は、 ヘロデがあなたを殺そうとしていると言われ たのに、慌てず、心騒がせず、これまでと同じ歩みに専心没頭できたのでしょうか。それは神こそが主権者であり、 神がわたしに定めた地上の人生は最後まで必 ず成し遂げられると信頼していたからです。だから今日と明日とは悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全 うされると告白された。ここに私たちも様々 な恐れに振り回されず、なすべき歩みに没頭するための秘訣があります。
1223節で「いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。」というイエス様の 言葉を見ました。私たちにいのちと体を与え た神は、私たち一人一人の人生に明確な目的と計画を持っておられ、それが成し遂げられる前に食べ物がなくなった り、着物がなくなることはないし、命が失わ れることもない。私に対する神の計画が全うされた時のみ、神は私をご自身のみもとへと引き寄せられる。もし私た ちがこの真理をしっかり心に留めるなら、多 くの恐れから解放されるのではないでしょうか。私は前にこの真理が分かってからは、ロシアで乗りたくない飛行機にも乗れ るようになった。あるいは何らかの病気の兆候が現れた時もそうです。病院で見てもらうことは大切ですが、ともすると私たちは心配だけで日々を過ごしてしまいやすい。しかし神が私に定めた一生の計画がみな成し遂げられるまでは、私が天に召されるということはない。もし私たちが今日の箇所のイエス様の立場にあって、ヘロデがあなたを殺そう としていると聞いたらどうでしょう。心配で浮足(うきあし)立つでしょうか。しかしイエス様はそうなりませんでした。その恐れを乗り越えさせたのは、父なる神への全き信頼です。詩篇1127節:「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心は揺るがない。」 すべてを支配し、私たちの人生に主権を持って全うさ せて下さる神を真に仰ぐ時、私たちは静かな心で、自分のなすべきことへと集中できるのです。そして私たちもイエス様と同じように言うことができます。「私 は今日も明日も進んで行く。そして神の目的がみな成し遂げられた時に、神によって全うされる。」と。
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この時主イエスは、エルサレムに上ろうとしている旅の途中でした。その時にあるファリサイ派の人が親切に、「ここから出ていったほうがいいですよ、ヘロデがあなたを殺そうとしている」と忠告したが、イエスは旅を続けられたのです。

それは十字架への道です。イエスは今日も明日も、そしてその次の日もゲッセマニからカルワリオへ、そして復活へと自分の道を歩み続けます。
私達は、「もうダメです」と言いたい時がある。相手を攻めたい時がある。心優しく人に接することは出来ないと感じるときがある。でも、キリストのように、今日も明日もその次の日も、委ねられた私の小さな十字架を手放すことなくキリストに従って生きていきたいのです。主よ、あなたが目指された十字架から復活への道をあなたと共に歩ませてください。
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かけた愛と期待が大きければ大きい程、裏切られた時の心は痛みます。エルサレムを前にして主は嘆いておられます。幾度も幾度も繰り返された回心への呼びかけに応えなかった民に対する神の痛みの深さ切なさを。最後には、神の御子さえかたくなに拒み続ける人々への主ご自身の切ない思いを重ねて。
主よ、今日、私にわからせてください。あなたのみ心の深い思いを。与えてください。立ち帰りの恵みを。神を拒む世にあって、たとえ人々から拒まれても神の愛の真実を証する者としてください。
復活された主への希望に生かされますように。sese05
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「負けるが勝ち」という諺があります。これに、二つの解釈(捉え方)があります
 
まず第一は、いまここで負けるのは、長い目で見た勝負や、他の視点から見た勝負で勝つことにつながるという意味で、「この敗戦で落胆せず、次の勝利につなげなさい」という、敗者を勇気づけることわざである。しかし、いまこの勝負で負けてしまった敗者から、「この負けが勝ちにつながるという具体的な根拠を述べよ」と問われたとき、それをわかりやすく説明するのは難しく、結局のところ、敗者を元気づけるにはあまりに説得力のない、どちらかというと「負け惜しみ」とか「負け犬の遠吠(とおぼ)え」に近い言葉であるというとらえかた。(JPZB)http://www.fleapedia.com/

今日の第一朗読(ローマ書)にある、「艱難、苦しみ、迫害、飢え」などは全部負けることであるが、「輝かしい勝利」に導くと言います。キリストもやがて自分が殺される(敗ける)エルサレムに向かっていきます。けれども、パウロもキリストも決して負け惜しみ、負け犬でなないのです。


第二の解釈。 対人関係でトラブルが生じたとき、私たちはつい、「どちらが間違っているか」で決着をつけようとしてしまいます。
恋人が私の気持ちを判ってくれない、友人に冷たい態度をとられた、同僚と仕事のやり方が合わない……。相手の間違いをただし、説き伏せることができれば、一時的に気は晴れます。

しかし、まわりのすべての人と正当性を争って対決し、勝利をおさめたとしても、いったい何が残るでしょうか。敗れた側には恨みが残ります。他人から恨まれることは、自分にとっても損なことです。
まわりのすべての人を打ち負かせば、すべての人から恨みをかいます。それが果たして幸せといえるでしょうか。豊かな人生を送るためには、「正しいこと」よりも大切なものがあるのです。

人間同士のトラブルは、片方だけの問題によって起こるのではありません。双方ともが勝ち負けにこだわっている場合にのみ起こります。
片方に問題があっても、もう片方がその問題に頓着せず、おおらかに譲ることができれば、トラブルとはなりません。

「私は他人に迷惑をかけられてばかりいる」と腹を立てている人も、「負けたくない、損をしたくない」と張り合っているという点では相手と同じです。相手のほうがうわ手だったから悔しいだけなのです。
自分への不満が多い人ほど、他人を見る目も厳しくなります。「私はこんなにつらい思いをしているのだから、あなたも少しは苦労しなさい」というわけです。

「どちらが間違っているか」を明らかにしても、人間同士のトラブルは解決しません。
どちらが間違っているかという問題ではなく、互いの関わり方が間違っているのです。
自分と他人の考え方がぴたりと一致することはありえません。
自分がある行動を「そうしたいからしている」のと同様に、他人もまた「そうしたいからしている」のです。

仕事とはこうあるべき、恋愛とはこうあるべきという考え方は、人それぞれに違います。
自分が相手を気にかけている度合いと、相手が自分を気にかけている度合いも同じではありません。
友人とは何でも腹を割って話し合いたいという人もいますし、ある程度の距離を置いてこそ尊重し合えると考える人もいます。
置かれている環境も、好き嫌いも、知能のレベルも、その日の体調も、みな違うのです。
自分のものさしで他人を測ろうとすれば、必ずゆがみが生じます。
(↓つづく)

暑がりの人と寒がりの人が同じ部屋にいて、エアコンの温度を上げるか下げるか、どちらの主張が正しいかで争っても、らちがあきません。
暑がりの人が自分の要求を押し通して、強引に温度を下げたとしたなら、寒がりの人は我慢できずに出て行くでしょう。
互いが気持ちよく一緒に過ごすためには、双方が望む中間の温度でけりをつけるしかないのです。


つまり、勝ち負けにこだわらない。キリストのために負けてもいいというのは勝ちにつながります。

年間第30金
ルカ14・1-6

「人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。人々はイエスの行いを見て、何を感じたのでしょうか。安息日の律法を犯す罪人なのか。律法よりも今ここで苦しんでいる人を大切にする憐れみ深い方と見ているのか。人々は沈黙の内にイエスを見守りながら、自分自身は何を選ぶのかを決断し、表明することができません。しかし、安息日でも自分の息子なら助けると思い、自分の自己中心的考えに気づいた人、人を自由にしない律法に気づいた人、神への恐れが喜びに変わっていくのを感じた人などがいたのではないでしょうか。
私達も今日出会うイエスの様子を沈黙のうちに心にとめ、新たな気づきと回心への助けとしたいと願います。sese06
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習慣や規則は、知らず知らずのうちに生活に定着し、落ち着かせ暮らしやすくさせる。
人が生きるため、より自由になるための規則や掟は、それ自体が主体、目的となり、やがて人がそれに仕える者になっていく。今も変わらない、陥りやすい罠。真実は人を黙させ、また隔てさせる。イエスは真実を語る。
主よ、あなたに、真実に耳を開かせ、聴き従うものとならせてください。


年間第30土
ルカ14・1,7-11

「上席を選ぶ様子」とはどういう様子でしょうか。この世で価値があるとされているもの、他よりも良いもの、優れたもの、美しいもの、あるいは多くあるものを選ぶことではないでしょうか。
そして自分自身を選んだ上席と同じように価値ある者と思い込み、その結果、人を見下し、けおとしてしまう様子ではないでしょうか。天の御父の前にすべての人は塵に等しく、誇れるものはありません。すべてはいただいているものです。その恵みに気づいているでしょうか。
「自分の力だけで生きている」と高ぶる者になっていないでしょうか。
罪深い私達にあふれる恵みを注いでくださる御父の前でへりくだって感謝しながら毎日を生きることができますように。sese06
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「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい」と主は言われます。末席とは、自分のありのままの姿を知って高ぶることなく神と人々の前に謙虚に生きる心の置き処ではないでしょうか。
また自分に何か優れたものがあれば、それは神の恵みによることを認め、マリアのように「力ある方が、私に大きなことをしてくださった」と神をたたえて生きることではないでしょうか。
主よ、人間としての弱さ、いたらなさを認めながら、自分の中に働いている神の力を知り、「全ては恵み」と感謝する心をお与えください。「ご自分を低くして仕えるために来られた」主に倣い、隣人に奉仕することの中に本物の喜びを見出すことができますように。sese05

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