7 per annum

年間 第七月曜日
マルコ9・14-29

病状からすると恐らく「テンカン」(epilepsy)の霊につかれた少年を中心にいろいろの事が書かれている。弟子たちはその病気の原因について論じてはいたが、力がなくて何もする事ができなかった。無力な弟子たちと、その弟子たちがどのようにして少年をいやすかを見物していた群集に対してイエスは非常に嘆いている。
イエスは悪霊を追い出すことを弟子たちの訓練の一つにしておられる。議論は、人間が考え、本を読み、研究すればできる。しかし霊の問題は、神から受けなければ解決する力をもつことはできない。聖霊を受けなくても議論はできるし、教会や修道会の仕事もできるだろう。しかし、人の中に巣くっている悪霊、それは人間の力や知恵の及ばないものであり、それを追い出す力を神からいただくという面が、今の時代には非常に少なく、軽んじられることさえある。「この種のものは、祈りによらなければ」とは、神から受けることなしにはということである。霊の世界は、肉の世界によってはどうすることもできないのである。
 神は真実な方であり、それに対して私たちが誠実にこたえていかなければ、契約は成立しない。そういう意味で、私たちが神に対して誠実に生きることが信仰生活である。誠実とは、完璧に生きるということではない。むしろ、自分は神によらず、十字架の贖いなしには生きていけないことを知り、神と対面して、憐れみを求めていくことである。(榎本)

年間 第七火曜日
マルコ9・30-37 


イエスは、再びご自分の死と、復活を弟子たちに話し始められました。ガリラヤにおける宣教は終わり、今は、弟子たちにご自分がこの世に来られた使命を教えておられます。
しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
彼らは理解できなかったのですが、それは、頭が悪かったからではありません。その事実を受け入れることは、あまりにも恐ろしいことだったからです。キリストが殺されるという事実は、とうてい受け付けることができませんでした。
2B 一番偉い者 33-37
 しかし、キリストの十字架と復活の事実がなければ、神の国について理解することはできないことを、先ほど学びました。その結果、弟子たちは、次の間違いを犯します。
カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。この家は、ペテロの家でしょう。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。」
だれが一番偉いか、という議論は、彼らの誤った神の国のイメージから来ています。キリストがローマ帝国を倒して、ユダヤ人による神の国を立てられる、というものです。そこでは、キリストが総理大臣なのですが、だれが右大臣(うだいじん)、左大臣(さだいじん)になるか、そうした高い地位をだれが得るか、ということを論じ合っていました。彼らは、本当は神の国を求めたのではありません。自分たちの国を求めたのです。神ではなく、自分たちに栄光を与えらて、神ではなく、自分たちに力が、権力が与えられることを求めました。
イエスは、おすわりになり、12弟子を呼んで、言われた。イエスは、ラビが人々を教えるときのように、おすわりになりました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者になりなさい。」
これを聞いているのは、そして、弟子でも、宣教の中心的な役割を担う12人です。人間的には、12人はみなの上に立ち、みなから仕えられるべき存在です。しかし、それは人間の国での出来事です。神の国では、人の先に立つものは、人々に仕えます。
それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕を抱き寄せて、彼らに言われた。
イエスは、人に仕えることの大切さを、ひとりの子どもを通して教えられます。
 「だれでも、このような幼子のひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
子どもは、目立たぬ存在です。特に、当時の文化では、子どもはつまらない者として考えられていました。人間の国では、見向きもされない存在ですが、イエスは、わたしの名のために、それを受け入れなさい、それに仕えなさい、と言われます。そして、大事なのは、その小さな者を受け入れることは、イエスご自身を受け入れることであり、イエスを受け入れることは、神ご自身を受け入れることなのです。つまり、神にとって、このような小さな者がとても大切なのです。私たちの奉仕や善行は、この真理に基づきます。
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「子供を受け入れなさい」ということは、子供が清くてかわいらしいからでしょうか。子供は確かにかわいらしい面をもっていますが、同時に憎たらしい面ももっています。子供が天使のようなものだったら、受け入れることは簡単です。しかし子供と言えども人間であって、天使ではないからこそ、大人がしつけなければなりませんし、教育しなければ、放っておけば野獣みたいふるまうでしょう。本当の人間になれません。ですから子供を受け入れるということは、かわいいところも憎らしいところも受け入れることでしょう。
 これは神の愛のやり方です。ですからイエス様は「私の名のために受け入れる人は」と言ったのでしょう。人間的には好きだからとか、人間的にゆるせるからとか、良い人たちだからといった(心理的)常識的な受け入れ方とは違うのです。純粋に信仰的なことでしょう。そのような受け入れ方は、人間には不可能に近いですから、ただ神の名によってだけ、できるというわけです。
 神は今の私を、ありのまま丸ごと受け入れて下さっている。互いが信仰的に、相手をそのまま受け入れ合うことができた時、互いが神の中に変え(変容)させられていくのです。受け入れる側も受け入れられる側も、ともに成長させていただくのです。子供を受け入れるということは、相手の成長を信じることであり、自分とあいての成長の可能性を受け入れることなのです。(静)
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弟子たちは、「途中で何を議論していたか」とのイエズスの質問に恥ずかしくて黙ってしまいます。
私たちもこのような恥ずかしさを感じることがよくあるのではないでしょうか。けれども、子供たちを見ると恥ずかしいという気持ちは持たないかのように、単純に反応します。
本当に恥ずかしいことは、中途半端な恥ずかしさにとらわれて、そこから前に踏み出せないことではないでしょうか。主よ、私たちに素直で単純な心と勇気を与えてください。sese07

年間 第七水曜日
マルコ9・38-40

ここにヨハネの心がよくあらわれているわけですね。自分たちは、イエス様に従ってきて、それこそ自分の十字架を背負って、伝道の訓練を受けて、いつもイエス様の薫陶(くんとう)を受けている弟子グループであるという自負。だから、どこか自分たちが老舗であって、本物であって、自分たちのように、熱心にイエス様についていく弟子でなければ、だめなんだよ、というような、そんなヨハネの上から見下ろすような思いが見え隠れしますし、
 そして、近親憎悪(きんしんぞうお)といいますか、もし、イエス様の名前で奇跡をしていなければ、ヨハネはなんの問題も感じなかったのでしょうけれども、ところが、自分たちの師匠であるイエス様の名前をつかって奇跡をしているから、我慢がならないわけです。
 やはりどの時代でも、同業者、ライバルに対しては、なかなか寛容になれないわけですね。ヨハネにしても、自分たちこそが本家本元(ほんけほんもと)であって、いったい誰に断ってそんな仕事をそこでしているのか、というような縄張り意識のようなものがですね、あって、やめさせたのではないか。そう思うわけです。

 そして、三つ目に、ヨハネはこのことをイエス様に報告するわけですね。つまり、これは、自分たちだけがそう思っているのではなくて、イエス様もそう思っているに違いないと、ヨハネは考えたわけです。だから、堂々とイエス様に、生意気なやつがいましたから、やめさせておきました、というようなことを報告したわけですね。
 だから、ヨハネは、きっとイエス様が、そうか、よくやったと言ってくれると期待して報告したと思うわけです。イエス様もきっと、自分たち弟子グループじゃない人間が、勝手に自分の名前を使って奇跡をするなんて、気分が悪いだろう。だから、きっとやめさせたことを、ほめてくれると期待して、報告した。
 ところが、このヨハネの心とイエス様の御心は大きくずれていたわけですね。


この答えをきいて、きっとヨハネは驚いただろうと思いますけれども、そもそも、ヨハネも弟子たちもイエス様の御心をつかむのが下手というか、イエス様もきっとそう思っているに違いないと思っていたことが、見事はずれるということがよくある。

たとえば、この少し先の箇所のですね、マルコの10章13節以下に

10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
 
 というできごとですね。弟子たちにしてみれば、子どもたちがやってくることは、きっとイエスさまにとっても邪魔だろう。自分たちがということではなく、一生懸命弟子訓練をしてくれているイエス様のことを思って、純粋に、こどもたちをイエス様のところにこさせてはならないと思ったのだと思います。だいたい、子どもたちも、その親たちも、イエス様にしたがっていく覚悟をもってやってきたわけじゃじゃないか。イエス様は今、真剣に弟子訓練をしているのだ。それなのに、よくわかりもしないで、ただ、祝福だけもらいにくるなんて虫がいい。そういう思いもあったのかもしれません。今日の箇所で、弟子にもならないで、勝手にイエス様の名前を使って奇跡をしていた人と同じで、くろうもしないで、ずいぶん虫がいいじゃないか。調子に乗るのもいい加減にしろというような思いが、弟子たちにあったでしょうし、それは、イエス様を含めた、わたしたちのみんなの思いだと思っていた。ところが、その「わたしたち」のなかに、イエス様はおられなかったわけです。「わたしたち」はみんなそう考えていると思っていたのに、イエス様は違っていた。イエス様は幼な子を抱き上げて祝福しましたし、イエス様の名前を勝手に使って奇跡を行うことを「やめさせてはならない」と言われた。
 一生懸命イエス様に熱心についていっているからといっても弟子たちの心とイエス様の御心は同じではなかったということです。

 そういうことは、今、私たちの教会ででも起こりえることですね。私たちも、イエス様のためにと一所懸命いろいろなことをしますけれども、そのわたしたちの中に、当のイエス様がいない、私たちの思いと、イエス様の思いが違っているということが起こりえるということです。しかもイエス様に熱心で、自分たちはイエス様にこんなに従っているのに、あの人もこの人もイエス様を利用するだけだと思うようなら、イエス様との心のギャップが広がっているようにおもうわけです。本当に神様のために働いていくときには、人が何をしているということはそれほど気にならないですね。最終的な評価は神様がするわけですから、それぞれにそれぞれの働きをすればいい。比べる必要はさらさらないわけです。実際、イエス様も、ヨハネに、こういうわけですね。別にいいではないか、私の名によって奇跡を行って、それで祝福を味わう人があるなら、それでいいではないか。私の名によって奇跡をしていて、私の悪口をいうこともないだろう。わたしに逆らわないなら、私たちのみかたなのだ、という。
 つまり、結局は神様の御心がなされればいいわけであって、何もほかの人をねたんで、その働きをやめさせることはない。イエス様はそういう視点でものを言っていますけれども、でも、ヨハネは、自分の頑張りや苦労、また、純粋な気持ちが大切だったわけですね。どうしても、いい加減にやっているように見える人を我慢できずに、やめさせてしまった。
 でも、神様は神様に逆らうということでなければ、どんな人でも神の栄光のために神雅が用いられる。そういう意味で、みんな味方、仲間なのだということなのです。
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小さな者を受け入れることは、イエスご自身を受け入れることであり、イエスを受け入れることは、神ご自身を受け入れることなのです。つまり、神にとって、このような小さな者がとても大切なのです。私たちの奉仕や善行は、この真理に基づきます。
3B 私たちの仲間 38-50
 ところが、ヨハネはそれに同意しませんでした。次を読みましょう。ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」
 見てください、また、「私たち」という言葉が出て来ています。自分たちは正統派で、他はみな異端である、という立場です。セクト主義、分派主義ですね。自分たちといっしょに行動しない者たちを無視したり、排除したりする立場です。それで、たとえ神の国を求めていると言っても、実は自分自身を求めているのです。
1C わたしの味方 38-41
 しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はいないのです。わたしに反対しない者は、わたしたちの味方です。」
 ものすごく、広く、寛容な考えですね。反対しない者は、みな味方である。そして、どこまでが味方なのかが
マタイとルカは同じ内容を否定文の形で伝えています。「私に見方しない者は、私に反対する者であり、私と一緒に集めない者は散らす者である」(マタイ12・30、ルカ11・23)。ここでは、エキュメニズムの問題、他の宗教との関係の問題が扱われていると思われます。私たちの仲間でない人たちが成功する、うまく行くと私たちは悲しんだり、ねたみとあせりに 襲 (おそ)われたりします。キリスト者の存在意義が根底から問われているのです。
反省すると、小さくならざるをえません。それは人々と比較することによってではありません。神の慈しみの前に、自分を置くことによってです。「人の為」と書いて、「偽り」と読みます。人のためにやろうとしていたことは、実は深く見ると自分の名誉のためにやっていたと。恵みをうけなければ、立っていることができない自分、神の恵みとの関係において小さな自分に気づきます。そこからどうすべきか、行動の原理も出てきます。小さなものとなって使えること、パウロの言うように、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(ピリピ2・3)ること、先入観と偏見を持たずに、何の差別をせずにすべての人と接することである。

年間 第七木曜日
マルコ9・41-50

イエスは、 私たちが人からつまずきを受けることは、特に問題にされていないようです。そうではなく、自分が人につまずきを与えることを、厳重に注意されています。なぜなら、兄弟の目にちりが入っているのを見ているとき、実は、自分自身の目に材木が入っているからです。
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パウロは第一コリントへの手紙(9:24-27)で、キリスト者をスポーツ選手にたとえています。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」
今日の福音書に通じるたとえ方です。オリンピックに出る選手は様々な犠牲を払い、自分と戦うようにキリスト者も自分と戦わなければならない、と。自分との闘いは霊的生活に欠かせない側面です。第二ヴァティカン公会議の後にしばらく流行った解放の神学の影響で、不正と戦う霊性が強調されることがあります。これは、自分との闘いではなく、「そと」との闘いです。けれども、自分との闘いを知らない人は、正義と平和のために戦っても、結局世の中は変わらない。やはり、世直しは自分からでしょう。

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火も塩も共に腐敗を防ぐ所から、聖霊と解することができるでしょう。「君達自身の中に塩を保ち、互いに平和を保ちなさい」50節。この言葉で「弟子の道」がしめくくられています。イエスの弟子たる者は、自ら小さい存在と成り、外側と内側から起こってくる躓きに対して、聖霊の火と塩を内に保って抵抗し、互いに愛し合って信仰の勝利を得よ、と励まされているのです。キリストが人を清め、一致させる地の塩でした。もしキリスト者がその塩を持たなければ、不和と分裂のもととなってしまいます。共同体の平和はキリストの塩があるかどうかにかかています。平和の祈りは、キリストの塩(愛)を求める祈りでもあります。

年間 第七金曜日
マルコ10・1-12

 イエスも、ファリサイ派の人も、モーセの言っていることについて話しています。ユダヤ人のあいだでは、モーセに与えられていた神の権威が認められていました。モーセは神の預言者であり、彼の語ったことは、神の語ったことだったのです。したがって、モーセの言っていることに反していることを言えば、それは、神のみことばに反していていることを意味します。ファリサイ派たちは、イエスがモーセの言ったことと矛盾したことを言わせて、群衆の間にあるイエスの信頼を崩そうとしていたのです。そして、モーセの言ったことは、離婚状を書いて離別することでした。
  イエスは、モーセの言ったことを否定することをせずに、むしろ、モーセがそんなことを言った理由を述べられています。あなたがたの心がかたくなだから、というものです。「かたくな」というのは、堅くなった、乾き切ったという意味です。土に水を注がなくなったら、土はしだいに堅くなり、そのまま注がないでいるとついには栽培できない状態になります。同じように、神の言われることを聞かないでいると、少しずつ私たちの心はかたくなり、いつのまにか、神の御声を聞くことができなくなります。

 罪を犯してもすぐに告白しないで、それでも、自分は赦されているから大丈夫だ。いつか悔い改めればいい、という誤った見方をしてると、生ける水である聖霊がもはや注がれなくなり、心がひからびてしまいます。離婚状を出さなければならないのは、夫婦の関係において心がかたくなになったからです。それでは、夫婦についての、神の御声は何でしょうか。イエスは、「しかし」という言葉で、人間の現状と神の理想を対照させておられます。

 イエスは、モーセに神の律法が与えられる前にさかのぼり、創造の初めの姿を話されています。
  一心同体とありますが、英語ですとone fleshつまり、一つの体となります。結婚は、男と女が心も体も深く結びついた状態であると同時に、子どもを宿すことによって実際にひとりになります。子どもは、父親から23の染色体を、母親から23の染色体を与えられ、一つのからだと人格を形成しているのです。したがって、子どもが与えられる見地から、結婚はふたりが一体となっている。イエスの答えは、離婚をしてはいけないというものですが、「神が結び合わせたもの」と言われて、神の権威を強調されています。
弟子たちにとっては、イエスの発言は驚くべきものでした。当時は、今と同じように、離婚は当然のものという考えが定着していました。とくに、男性にとって、離婚は男に与えられた権利として見なされていたのです。

 「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯かす。」 

 これは、強烈な言葉です。なぜなら、イエスは、ファリサイ派の人たちが、あんな質問をした背後にある動機をえぐり出したからです。今の妻はあきて、他の女に乗り移りたいという動機、つまり姦淫から離婚をするのです。それを、離婚状についての律法を引用してきて、実は、自分たちの悪い行ないを正当化していたに過ぎません。そして、イエスが指摘された姦淫の罪は、モーセの律法によれば、死刑に値することでした。したがって、彼らは、表向きは神のおきてに従っているのですが、本質は神のおきてを故意に破って、自分に死罪を招いているのです。
こうして、イエスは、結婚は生涯持続されるべきものであることを説かれました。ふたりはひとつになっており、特に子どもによってひとつになっています。したがって、離婚をすることは、子どもに破壊的な影響を与えます。離婚は、精神的に、霊的に、その子を真中から二つに引き裂くことに他なりません。ですから、神が結婚を生涯のものに定められたのは、神が子どもに高い価値を置かれている証拠です。
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江戸時代の離縁状は一般的に、僅か三行半(みくだりはん)で書くものとされていました。そこには①離縁すること、②妻の再婚の自由を認めることが記されています。
離婚するには離縁状が必要で、もし離縁状を出さず、あるいはもらわずに再婚すると重婚罪に問われました[註1]。高木侃氏(たかぎ ただし)が三行半1000通を調査した結果[註2]、離婚の理由第一位は無し(書かない)27%、第二位は「我等勝手二付き」「熟談・示談」8.6%です。
氏によると理由を書かないのは、書かない方がよいから。また「我等勝手二付き」は自由気ままにという意味ですが、実際には夫婦間で協議したうえでの離婚が一般的でした。よって「我等勝手二付き」は「当方の都合により」と解釈。妻の無責任性を表示することで、男子の面子を保ち、夫権優位(男尊女卑)の建て前を辛うじて保持しました[註3]。次ページでは当史料の解読方法について伝授します。

イエス様は一人間の決めた離婚条件のことではなく、もともとのおきてはどうであったかを問います。人は、本来法(ルール)が立てられた時の状況を忘れて、外面にこだわり、結局自分たちにつごうのよい解釈をしてしまいます。
モーセが、離婚する時は離縁状を渡せと言ったのは、なるべく離婚をさけさせるためでした。安易な離婚、一時的な感情にかられた離婚をさせないため、書面によると決められたのです。今のように紙が簡単に手に入るわけでもなく、だれにでも読み書きができる時代ではありませんでした。ですから離縁状を書くことで、ことが公になり、プライバシーを知られることとなり、めんどうくさいものでもあリました。しかしいつの間にか人間は、離縁状さえ渡せば、かんたんに離婚できると考えるほど結婚を軽んじてしまいました。しかし人間のために神が定めた特別な関係を紙きれ一枚で消すことはできません。そして人間は悲しいことに、一枚の離縁状を前にした時に(「三行半(みくだりはん)をつきつけられた」)、そのことを悟らされるのです。モーセは、その悲しい悟りを命じたのではないでしょうか。(静)

年間 第七土日
マルコ10・13-16
「子供たちが私のもとにこさせなさい。防 (ふせ)げてはならない」

子供たちのほうからイエス様に近づいています。イエス様は弟子たちに、来るままに放っておけ、じゃまをするな、と二つのことを命じておられます。無心に近づいてくる子供たちを見て、イエス様は心からうれしかったでしょう。だらこそ、それを止めようとした弟子たちをしかったのです。来たいのだから来させなさい、来る人を判断してはいけません、まだわかりっこないとか、来る価値がないなどと。むしろ大人たちよりも子供のほうがずっと素直にイエス様に近づくのです。
子供がおそらく、イエス様の話が理解できたわけではないでしよう。でもみ言葉そのものを、ずつと深く感じ取っていたのではないでしょうか。イエス様の人格からあふれ出る真実さ、誠実さ、神の子としての厳しさやさしさ、その魅力あふれるペルソナそのものを。子供に囲まれているイエス様、まるで子供になったようだったでしょう。私たちもイエス様に近づく人のじゃまだけはしたくないものです。

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