2 per annum

年間 第二月曜日
「婚礼の客は断食できるだろうか」
マルコ2・18-22

信仰生活には目的と手段があるとすれば、断食は手段の方に入るでしょう。目的は神との生きた関係をつくることです。神と親しくなるためにさまざまな手段がある。悔い改めて、失った関係を回復するために断食するのも、よいことです。が、今は結婚式場に招かれているのに、喜ぶべきときに、悲しみの断食をするわけにはいかない。
信仰生活には目的意識が必要である。さらに動機も大切です。キリスト信者は断食をするのは、律法を守るためではなく、キリストの十字架を担うためです。神とつき合うためにこちらが手段を選ぶのではなくて、神から与えられた目的があるから、それにそって選ぶべきである。今は喜ぶときなのか、それとも悲しむときなのか、自分の動機はどうなっているのか。キリストと共に喜び、あるいは悲しむ。キリストに合わせる自由(覚悟)があるのか。新しい関係が生まれようとしているのに、態度を根本的にかえず、ただ習慣に固執するなら、よいことでもその価値を失ってしまいます。

年間 第二火曜日
「人の子は安息日の主である」
マルコ2・23-28

神は、戒めを設けられたとき、人間の益になるように設けられました。しかし、人間の側でそれを曲解し、おきてで人間をがんじがらめにしてしまいます。そのような掟と福音は、根本から対立するのです。不思議なことに、人間は、自分に益を与える福音よりも奴隷にするおきてを選ぶことが多いのです。

 「人の子は安息日にも主です。」

 イエスはここで、「あなたがたは、選ばなければなりませんよ。あなたが絶対に譲れない安息日にまさって、わたしを一番にすることができますか。」と言われています。絶対視しているものをイエスのために捨てるかそれともそれにしがみ続けるのか、どちらかを私たちは選ばなければなりません。
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私たちは御言葉に従って生きて行こうとするとき、どこかでこの世の道理とぶつかることがある。しかし、従って生きることは神の御旨であるならば、神が荒れ野でマナを降らせたように、この世の道理を超えて、私たちに必要なものを備えて道を開いて下さるのである。イスラエル人は安息日を守ることができるために、神は必ず備えをして下さると信じていました。そこから考えると、キリストは「安息日の主」だということは、安息日(日曜日、「主日」)はキリストに従って生きるための備えであるということになる。
信仰生活のために休むことは大事であって、そのために安息日(主日)を守ることが大切である。やはりこれは信仰生活の一つの知恵だと思う。
ところが、安息日には、仕事をしないということ自体が目的となってしまった。神は安息日に仕事をするなと言われたのではなくて、神を礼拝するために仕事をしばらく止めることであった。けっしてそれは目的ではなく、一つの手段である。手段の目的化ということは、信仰生活において起こる誘惑である。やはり、健全な信仰生活には、目的と手段をしっかり見分ける勉強は必要である。(榎本)
科学技術の発展と共に人間の生活も便利になり、人間についての研究も進歩しましたが、人間自体は軽視されているのが現状です。人間のための技術なのか、人間のための経済なのか、それとも経済成長そのもの自体が目的なのか、わからなくなるときがある。神は人を愛して創りましたが、人は自分に都合のよいものを作り、これに愛着するようになりました。私たちが作ったものを神が創ったものより尊ぶことのないよう、いつも主に心を向け、御心を行なうことができますように。
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ヘブライ人
《わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす》、文語訳で申しますと、「われ必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」と、
『ヘブライ人への手紙』が、ここで私たちに言いたいのは、今から4000年も前に、アブラハムに与えられた神の約束と誓い、「われ必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」との祝福の御言葉は、今も私たちに語り続けられているのだ、ということです。それどころか、イエス・キリストを通して、この祝福の御言葉はますます力強く、私たちに語りかけているのです。
クリスチャンは、この世に絶望した人間です。ひとりひとりがさまざまな人生経験を通して、たとえ学問を積んでも、財産があっても、健康でいられても、人生の空しさから逃れることができない、と知りました。しかし、同時に、そのようなこの世の暗闇の中に届く、一筋の光を見たのです。それはこの世のものではなく、天の神様のもとから、人間を照らす真の光として来てくださったイエス・キリストです。
 イエス様は、神様がアブラハムの人生に語られたように、私たちの人生にも「われは必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖さん」との神様の約束を、誓いを、語りかけてくださいました。アブラハムの場合、不妊の妻サラが年老いて月のものもなくなり、まったく子を産む能力がないにもかかわらず、神様の御業によって子が与えられたという奇跡をもって、神様がいかに無から有を生み出すお方であるか、絶望をも希望に変え給うお方であるかということが示されました。これも本当に大きな希望でありますが、イエス様は、私たちにそれ以上のことを示してくださいました。罪深い私たちの罪を清めて神の子にしてくださり、死ぬべき滅ぶべき私たちに復活の新しい命をあたえてくださったのです。そして、肉なる者としての絶望、罪人としての絶望に沈む私たちに、「我は必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」との神の祝福の言葉を与えてくださったのです。


年間 第二水曜日
「安息日に許されているのは、命を救うことか、殺すことか」
マルコ3・1-6

この人の手は、前からなえていたので、安息日にいやす必要はない、しばらく待っていただければ、と人々は考えていただろう。しかし、イエスは、安息日にその手をいやされた。今まで手がなえていたから、いつか直ればよいというのは、他人の考えで、本人は一刻も早くその不自由さから解放されたいと願っていたであろう。本人の立場に立てば、今その手をいやしてもらうことが大切なことであった。イエスは官僚主義的な考え(ちゃんとした手続をふまえてからという)にとらわれず、事柄の本質を問います。安息日はそもそも何のためにあるか。それによって弟子たちは、安息日をどのような心構えで祝うべきかを理解しました。ただ単に仕事しないことによってではなく、善をなすことによって、神の栄光を証しすべきだと。
なえた手を伸ばしなさいとイエスが言われたとき、この人は自分の手は今まで伸びなかったという慣れきった現実に左右されないで、神の言葉には無から新しい現実を生じさせる力があり、神には可能であると信じ、自分の立場を神に委ねた。そのとき、彼の手は直った。慣れた現実に捕われない(こだわらない)で、神の可能性を認める、これは信仰である。
会堂の中には手の萎えた人が一人いました。しかし、心が萎えた人はたくさんいました。かたくなな心は外には見えません。善を行なうために、命を救うために、かたくなな心を治すことが何よりも大切でしょう。私たちも心の中の萎えたものを探し、癒していただくよう、イエスに差し出しましょう。sese07
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 「動物はその飼い主に似る」と言われています。先日、類人猿の優劣を比較して論じているテレビ番組がありました。ゴリラの研究者、チンパンジーの研究者、オランウータンの研究者が出ていましたが、面白いことに、永年つき合って心を通わせている動物に、それぞれの研究者が似ているのです。 夫婦は、性格は相当に違いますが、暗黙の了解ができています。テレビ番組も好んで見るもの、どうでもよいもの、絶対に見ないもの、の分類はほぼ一致しています。
 仏教徒は釈迦に似るはずですが、日本では釈迦は遠い存在ですので、各宗派の始祖、最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、道元などの教えを学び、生き方に感化されて、それらの人格に似る者になります。キリスト教徒はイエスの愛に学んで、それをお互いの間で実行することによって、イエスに似る者になります(ヨハネ13・34他)。その場合、いかなるイエス、どのようなイエス像がその教会に伝承されているかということによって、教会の性格が形成されます。

マタイとルカは、「彼は怒りに満ち…深く悲しんで…」のマルコの記事を省きました。マタイとルカは一貫して、マルコの記事にある、イエスの人間的な感情の表現を省きました。きっと時代が下ってマタイやルカの頃になると、神の子イエスを崇敬する念が高まり、神の子が怒ったり、憤慨したり、悲しんだり、驚いたり、恐れおののいたりするのは相応しくないと考えてのことでしょう。その結果、カトリック教会の聖像や、ギリシャ正教会の聖画(イコン)のような、人間的な感情を表わさないイエス像になってしまいました。彼ら以前のマルコのイエスは、人の子イエスです。マルコは神の子イエスを信じていましたが、それは隠れた姿にしておいて、不義不正を見ては憤り、偽善を見ては腹を立て、世の罪を見ては深く悲しみ、十字架を前にしては恐れおののく人の子イエスを描きました。
 このように福音書を学んで私たちは、人間的な感情を殺して信仰生活をする必要はなく、人間的な感情を豊かにもちながら、イエスに徒うことが許されていることを知るのです。
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自動体外式除細動器(じどうたいがいしきじょさいどうき、Automated External Defibrillator, AED)というものは最近いろいろなところでよく見かけます。十万円前後もするそうですが、教会でも備えておこうかと検討されています。心臓がとまった場合、こういう機械をあてると心臓の働きは戻ります。
とことが、今日の福音書を読むと、安息日に人を助けてはいけない、救急車を呼んではいけない、医者は働いてはいけないみたいな印象を受けます。けれども、それは正しい捉え方ではないのです。マタイ12、11やルカ14、5を見ると、牛や羊が穴に落ちた場合、安息日でも助け出すことはできると書かれています。安息日という制度にはちゃんと例外が認められたのです。問題は、どちらかというと縄張り争いです。イエス・キリストは「メルキゼデクのような司祭」であった、つまり人間によって造られた制度での司祭ではなかった。安息日を守る祭司階級は人間によって決められていたもので、そこにキリストが入り込むと縄張り争いが起こるわけです。
現代教会にも縄張り意識は結構あります。そこにキリストが入り込むときは、縄張り争いが起こりうるのです。キリストの働き、癒しに抵抗するのです。キリストを追い出そうとして現状維持を図るのです。その場合、私はどうでしょうか、キリストの働き、癒しを受け入れるのか、それと既成の縄張りにこだわるのか、どちらにつくかを問いかける福音書です。
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メルキゼデクは、旧約聖書においてもたったの二回しかその名が記されていません。一つは創世記14章17-20節です。アブラハムは彼に戦利品の10分の1を贈ったとあります。この短い記述があってから1000年後、ダビデの記した詩編の中に再びメルキゼデクの名が登場します。詩編110編4節です。
主は誓い、思い返されることはない。
『わたしの言葉に従って
 あなたはとこしえの祭司
 メルキゼデク(わたしの正しい王)。』
この言葉は、神様によって、ダビデがメルキゼデクの後継者に任じられたということを意味しています。そして、さらに1000年後、イエス・キリストが誕生し、この『ヘブライ人への手紙』の著者が、もう一度メルキゼデクに光を当てます。新約聖書の中には、この手紙を除いて、この名を見ることはできません。しかし、この手紙は、旧約聖書における上記のたった二回の記述をもとに、イエス・キリストこそはメルキゼデクに等しい大祭司であると、大胆かつ緻密に論じるのです。
メルキゼデクは王であり、祭司でした。王とは、人間と人間の間を結ぶ、社会を治める者です。祭司は、神と人間の間を結ぶ宗教を治める者です。今日では、政教分離こそが、先進国の印のようになっていますが、それは無用な争いを避けようとする方便にすぎません。
このようなことから、『ヘブライ人への手紙』は、メルキゼデクが、アブラハムに優るものであるということ、4-10節で語ります。そして、アブラハムに優るということは、その子孫であるレビ族にも優るということだとも言われています。さらに、先ほど丁寧にお読みしたところですが、11-19節では、イスラエルに与えられている神の掟、つまり律法にも優るのだということが言われているのです。もう一度、16節を見ていましょう。
メルキゼデクが、律法による祭司ではなかったように、そしてアブラハムを祝福したということからも分かるように、律法による祭司よりも優れた者でした。イエス様もまた、律法による祭司ではなく、アブラハムや、アロンや、レビ族や、律法すらも超越した祭司なのです。



年間 第二木曜日
「イエスは群集が自分に押し迫るのを避けた」
マルコ3・7-12

愛の人であり、救い主であるイエスが多くの群集がきたのに、その人たちを避けて、のがれるために「小船を用意しておけ」と命じられた。それは「多くの人をいやされたので、押し寄せてきたから」である、とある。この個所は、救いを熱心に求めていればよいものではない、ということを示していると思う。群集は非常に熱心にイエスを求めたが、その熱心さの動機は、自分たちの苦しみ、病気をいやしてもらおうという、自分の都合ないし欲望であった。そういう求め方をするとき、イエスは避けていかれる。(榎本)
 人々が病気や悩みから解放される状態は、神の国が実現しつつある状態なのである。あらゆる悪が追い出されていることは、神の国においては悪には用がないことを示している。ところが、人々の心の中に分裂を起こすために、一所懸命活動している悪霊がいることも事実である。神の国は何であるかを見えなくして、自分の悩みや苦しみばかりが見える、そんな目を作っている。(ステ)
イエスに従おうとする私たちは、ともすると、自分勝手な望みでいっぱいになって、イエスを押しやってしまいます。そんな時、イエスは少し私たちから離れるようですが、イエスの心が離れるわけではありません。イエスこそ、私たち一人一人の必要を最もよく知っています。私たちにとって大切な
ことはイエスと共に、イエスを中心に歩むことです。人間関係でも同じことが言えるでしょう。
自分を押し付けて近づくより、ある程度の距離を取りながら相手の内におられるイエスを尊重する中で、信頼関係を深めていくことができますように。sese07
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『ヘブライ人への手紙』は、ヘブライ人つまりユダヤ人に向けて書かれたものです。したがって、ユダヤ人ならではの問題が、この書の中に含まれています。もちろん、私たちに関係ないということではありませんが、一義的には、ユダヤ人の抱えている問題ということがあるのです。祭司制度の問題も、その一つであります。これを読む場合、まずユダヤ人の知っている祭司制度とは、どういうものかを知ることから始めないと、わかりにくいのです。できるだけ分かりやすく、お話ししたいと思います。
 祭司とは、神殿に奉仕して、礼拝や祭儀を司る人たちのことです。「祭司」を逆さに読みますと、「司祭」になります。「司祭」は、カトリック教会で、礼拝や典礼を司る聖職者のことです。礼拝や礼典を司るという意味では、ユダヤ人の「祭司」も、カトリック教会の「司祭」も、そしてプロテスタント教会での「牧師」も、同じ働きをすると言ってもよいのです。司祭は、神父とも呼ばれ、信者たちの魂への父親的な配慮の働きもいたします。牧師は、信者たちを神の羊たちとして牧するという働きもします。それにたいして、イスラエルの祭司は、もっぱら神殿礼拝を司る働きをしていたのでした。

ヘブライ人への手紙とマルコ福音書のイエス・キリストの描き方は非常に対照的です。「聖であり、罪なく、汚れなく、罪びとから離され、もろもろの天より高」いとしている手紙。一方福音では、あらゆる病気を患った大勢の人々、汚れた霊どもに囲まれ、触れられ、「押しつぶされ」そうというほどであった。大変大きなギャップが描かれています。このギャップを埋めるには、「執り成し」、「仲介者」、「大祭司」というような言葉があります。イエスは、人間は手のどこかない世界、創造主の世界とつながっているからこそ、この世にいた間は、人々を癒す力、悪を追い出す力をもったのです。
今も、キリストの体である教会を通してキリストはあらゆる民族の人々から触れられる。と同時にキリストは父なる神の世界におられる。そのギャップの間に生きている私たちはどうすればかと言いますと。今日の答唱詩編に答えがあります。「神のみ旨を行うことは、私の心の喜び」。キリストのようにへりくだって、謙虚に人々に奉仕することではないでしょうか。



年間 第二金曜日
「十二人を任命した」
マルコ3・13-19

弟子たちは、来たのではなく、「呼び寄せられた」とある。信仰とは自分から進んでいくというのではなく、イエスによって呼び寄せられたことである。それは、「従う」ということにつながる。イエスに従うのと、イエスを従えるのとは大きな違いがある。私たちはともすると、イエスを従えようとしている。しかしイエスは私に従ってきなさいと言われたのであるから、いつもイエスのあとに従う存在であることを覚えたいと思う。
「そこで十二人を任命した」とある。弟子たちから言えば、任命されたのであり、受け身の立場である。さらに、「彼らを自分のそばに置くため」である。私たちは常にイエスのそばで養いを受ける必要がある。全く平凡な十二人が、ニ、三年後には、偉大な宗教家として働くようになった。彼らはそれを神から授かったことである。(榎本)
現代に生きる私たちにも、救いの歴史を担う役割が与えられている。
イエスに選ばれた十二人を見てみましょう。家族の名を取り上げたのは三人。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、アルファイの子ヤコブ。仕事と行動の説明があるのが二人、熱心党のシモンとイスカリオテのユダです。その他は名前しかない平凡な七人です。イエスの時代にも、優秀な学者、金持ち、力ある官僚はいましたがイエスは彼らを選ばれなかったのです。その意味をじっくり味わいましょう。イエスの力が私の弱さの中に働き、神の栄光が現されますように。sese07

年間 第二土曜日
「あの男は気が変になっている」
マルコ3・20-21

一般常識に反する行動をする人がいれば、気違いと言われる。これは昔も今も同じである。イエスの時代から今日に至るまで、一般常識と言われるものがそれほど変わっていないと思われる。福音書ではイエスが気違いと言われている理由は、民衆が抱えている問題に真剣に取り組もうとしているだけのことである。考えてみれば他人のことを気にするだけのことである。ごく普通の当たり前のことであるが、我を忘れるまで、食事の時間を惜しんでまでも、人のことを心配することが、常識的には許されない。当然イエスはそのような常識を無視して自分なりの常識、つまり愛の常識(論理)、に従って行動する。
一般常識のもう一つの原則は、皆がやらないことは自分もやらないことである。この原則を守らないと、自分の行動は、何もしない人への批判と受け取られる可能性がある。
私たちは普段どういう常識に従っているのであろうかと、反省させられる。(ステ)
イエスに従っていた人は食事をする暇もないほどでしたが、私はどうでしょう?イエスは気が変になっていると噂され、家族の者が恥ずかしくて取り押さえに来るほどでしたが、私はどうでしょう?
イエスに従うとはどういうことか、よりよく悟り、イエスと共に様々な苦難を受け入れていくことができますように。sese07

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