5 per annum

年間 第五月曜日
「せめてその服のすそにでも触れさせてほしい」
マルコ6・53-56

ゲネサレトの人々は、イエスがこられたことを知ると、病人を担架に乗せて運んで来ます。しかしこのゲネサレトの人々は,イエスのことを悪霊を追い出し病気を治してくださる方としか考えていなかったようです。彼らは、イエスの告げる神の国の福音には関心がなく、病気の治癒にだけ異常な期待を持っていました。そこに民衆の正直な、しかしどちらかと言えばちょっと利己的な姿があります。
これはゲネサレトの民衆だけの問題ではなく、いつの時代、どの民族にも当てはまるところがあります。民衆がイエスに期待しているものと、イエスが民衆に与えようとしておられるものとの間には、本質的で決定的な違いがありました。しかしそのような食い違いにもかかわらず、イエスは民衆の要望にこたえて、多くの病人を癒されました。特に「せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った」(56節)ということばには、民衆のすさまじい期待が現れています(アイドルやタレントを追いかけるストーカーを思い出してしまいます)。民衆は霊的真理に対しては盲目であったが、病気や苦しみからの解放は真剣に求めていたのです。
イエスは民衆の苦しみをそこまで知っておられたのです。真実の宗教は、人々を霊的真理に導くものであり、また民衆の必要(ニード)に答えるものでなければならないことを今日のイエスの姿から学ぶことができると思います。(泉田)
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年間 第五火曜日
「ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守る」
マルコ7・1-13

昔こんな話を聞きました。ある二人が結婚して、次の週お嫁さんは主人のためにご馳走を作りました。大きなハムを焼きました。その時、お嫁さんは大きなハムの両端を切ってオープンに入れました。主人が「その両端をどうして切り取りましたか」と尋ねました。エー・・知りません。お母さんがいつもしていましたからそうしました。次の週お母さんに尋ねました。「どうしてハムの両端を切りましたか」知りません。お母さんがいつもしていたから。次の週おばあさんに尋ねました「どうして最後の部分を切りましたか」私の皿が小さすぎたから。全部のことが習慣でもはじめには目的がありました。目的がなくなってその習慣だけが残ったものはたくさんあるでしょう。法律にも役に立たないものがたくさんあるはずです。法律の目的は何でしょう。人を助けるためです。人を助けないものは捨てなければならない。けれども愛が、法律より重要だと考えないならファリサイ派と同じにように、愛することより、法律が私たちの神となります。一般社会において沢山の人にとっては世間の決まりは神さまになってしまっているでしょう。ですから人々を傷つけても世間の考えに従わなければならない。第一は愛です。法律が愛を傷つけるならそれに従わない。日曜日の御ミサは皆あずからなければならないが、両親が病気なら、残して教会に来ることはいいことではない。教会の法律よりも愛を大切にします。ですから、どちらがより愛することかは、自分で判断しなければなりません。ただ単に世間に従うというのは、人間の道とは違う。いつも愛の道を歩むことができるように祈りたいと思います。
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きよめとは何か、何からきよめられるかという本来の意味は失われているにもかかわらず、形式だけが当然のこととして守られ、守らない者には厳しい制裁が加えられました。
日本でも、お禊(みそぎ)、お祓い(はらい)、地鎮祭、初詣、葬式、法事、七五三の宮参りなどたくさんの習慣や儀式が、その背景にある信仰と意味は失われているのになお盛んに行われている。また、きよめとの関係で部落差別がはじまったと言われています。これは当時のユダヤ人も同じで、一般の民衆は、宗教的な言い伝えや儀式をあまり深く考えず、習慣として行っていました。それは昔も今も変わらないことです。
ファリサイ派の人達は、こうしたしきたりを絶対化して、守らない人を攻撃していました(5節)。彼らの誤りは、言い伝えの意味を深く考えずにそれを絶対だと思いこみ、また権威主義的に人をさばくところにありました。
私たちも、しばしばファリサイ派的になります。自分の考え方ややり方を無意識のうちに絶対化して他人に押し付けるのです。そうならないために私たちは、一人一人の人格と個性を尊重し、何が真実で人を生かすものであるかを絶えず考えなければならないでしょう。何が真実であるかを厳しく自分に問い、安易に人をさばくことのないようにしたいものです。(泉田)
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 そして、彼らがたよっていたのは、「昔の人たちの言い伝え」でした。言い伝えは、文字通り、ある人から他の人へ言い伝えられたしきたりです。たいてい、最初にそれを言い始めた人は、ある事情があって一つのきまりをつくります。しかし、時がたって、その事情が変わっているのにもかかわらず、過去に行われていたという理由で、それが守られていきます。それがしきたり、あるいは言い伝えであり、私たちの生活を強く支配するものです。
戒め、とか、おきてという言葉を聞くとき、私たちは一つの規則のように捉えてしまいます。法律を守るように、それはとにかく守らなければいけないもの、守らないと罰を受けるものであると考えます。しかし、それは間違いです。戒めといっても神の戒めなら、それは、私たちの心に関するものです。言い換えれば、それは、私たちが生きておられる神と人格的な交わりを可能にするための手段なのです。私たちが人と会話をするときに、それは言葉だけの会話ではなく、その背後にある考えや、気持ち、その人の意思などを意識して会話します。そして、知り合いになり、友だちになれるわけです。同じように、神の戒めを私たちが聞くときに、私たちはこの生きている神がどのような方であるかを、親しみをもって深く知っていくのです。それとは対照的に、人の言い伝えは、人格のない無味乾燥したものです。とにかく守ればよい、という類いのものです。そこには私たちの心、あるいは人格が入ってきません。だから、神を礼拝していると言っても、むだなことになってしまいます。

 私たちはどうでしょうか。賛美の歌を先ほど歌いましたが、神をほめ讃えていたでしょうか。聖書をこのように読んでいますが、神の御声を聞いているでしょうか。祈りますが、神に語りかけているでしょうか。私たちは人に対してはほめたり、その人の言うことを聞いたり、また語ったりしますが、同じように、神を生きた人格のある方として捉えているでしょうか。しかし、神の戒めは、私たちの心を神ご自身に近づけます。こうして、パリサイ人・律法学者は、言い伝えによって、神の戒めをないがしろにしました。

年間 第五水曜日
「人の中から出て来るものが、人を汚す」
マルコ7・14-23

世間には本音と建前があります。つまり責任を取らされないために、考えることと話すことの間に適当な違いを入れることです。人を傷つけるようなことも言ってはいけないと思う人は、ニコニコしたり、テレ笑いしたりして、無難な道を選びます。

ところが、イエスが問題にしているのは建前のところではなく、本音のところです。イエスはマナーが悪いとか、人を傷つけたか傷つけていないかを問わない。むしる本人が人に対してどういう気持ちでいるかといことを問題にしています。

人を憎んでいる時に傷つくのはまず自分の心ですから、心の中身は一番大事です。ファリサイ派の人々はけがれから身を守り、聖なる「残りの者」になろうとしていました。それに対してイエスは神がすべての人を救おうとしていることを述べ、神の慈しみによりたのむようにと説きます。私たちは何が良いマナーか、何が悪いマナーかと外側のことばかりに気を取られて、本質的な事柄を忘れてしまうことはないでしょうか。(ステファニ、荒)外から腹の中に入るもののうち、悪いものは外に出され、中に残らない。人が汚されるかどうかは、ただひたすら、その心の状態にかかってくる。主は私たちに、外面的なことよりも内面的なこと、もっと本質的なことに目を向けさせる。自分から出る様々な「くしゃくしゃした感情」に流され、支配されて生きるなら、極めて善いものとして創られた私は、隠れてしまう。
主よ、あなたの光によって、今の苦しみや悩みが私を支配し続け、取り返しのつかないままにならないことを私は知っています。あなたの光に信頼して歩み、悪い思いから解放される恵みをお与え下さい。sese07


年間 第五木曜日
「それほど言うなら、よろしい」
マルコ7・24-3


フェニキアの女はよほど困っていたことでしょう。イエスから断られてもあきらめないで、お願いし続けます。結果としてイエスも断り切れず、ついにその願いをかなえます。祈りをする時にどこまであきらめずにがんばれるかが問われているように思います。一回手を合わせただけで「やはりだめだ
った」とつぶやく人もいます。結局、断られてもよいという程度のお願いでしかありませんでした。もっと真剣に祈る姿勢が求められます。

祈りの真剣さは信仰の強さによるという前に、生活に対する態度に目を向けるべきです。生活に真剣に取り組んでいる人は、祈りも真剣であり神からかなえられるでしょう。

異邦人の女は恵みがまずイスラエルに与えられることを認めます。その上で、異邦人にもおすそ分けを願います。イエスのことばは、地獄に落ちる者のように思われていた異邦人、遠く離れていた者を娘として扱い彼女をいやします。(ステファニ、荒)
この女性のように、どんな困難な状況でもあきらめずにイエスを慕い求め、信じ続けることが出来るようにいのりましょう。
娘が悪霊にとりつかれ、何とかしたいと強く願う女性が、子犬に目を向ける。イスラエルの子供の立場にいないことを知りながら、子犬の立場に身を置いてでも願い続ける。イエスの「よろしい」には、「あなたには脱帽だ」という意味が含まれるという。イエスのこの態度の変化は、信じて求める者
に、資格がなくても、神は救いを拒むことが出来ないことを示している。娘の救いのためにどんなことでもしようと、一心に願うこの女性の姿をいつも心に留めていたい。
主よ、自分のことで一杯な私の心を大きく広げてください。最も大切なことを一心に求めていくことができますように。

年間 第五金曜日
「指をその両耳に差し入れ」
マルコ7・31-37

PAシステムで、音が入らないことがよくある。マイク、ミキサー、アンプあるいはケーブル。神様が設計者なので、癒すことができる。
ある心理学者が「耳は2つあり、口は1つある」と言った。
福音書は、現実に働きかけて現実を変える、神の子の力ある言葉として伝えています。
なかなか、子どもの話に耳を傾けることが難しい親がいました。子どもが学校でお母さんの顔を描いた。口ばかり大きくて、耳がなかった。営業時には、耳を傾け、丁寧な口調で話す。しかし、家族にはぶっきらぼうということがある。家庭では、なかなか、耳を傾け、丁寧な口調で話すことができない。
肉体的に耳の聞こえない人は、1%以下かもしれない。しかし、生まれつき霊的に耳が聞こえない人は100%である。また、私たちはまことの神に祈ったこともない、口のきけない者であった。だが、クリスチャンになると(回心すると)、霊的な耳が開かれ、神様の声がなんとなく分かるようになる。祈りも最初はもつれたような状態だが、だんだんとなめらかになる。
父なる神(聖霊)は、私たちに大切なことを語っているのかもしれない。しかし、私たちは神様の御声になかなか耳を傾けようとしない。いたずらに動き回り、この世の情報(テレビや携帯)に耳を貸している。Ⅰ列王記19:11,12「しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」。 おそらく、聖霊様の声は静かではないかと思う。ということは、私たちが神様の御声を聞くため、静まる時が必要である。

37節「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という群集の反応は、創世記1章31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」を思い出させるかもしれません。これは神の天地創造のわざの結びにある言葉です。
「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」は、イザヤ35章5-6節「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」が背景にあるようです。こちらは神の救いが実現する時のありさまを語る預言者の言葉です。マルコは群集の口をとおして、神の創造と救いのわざが、神の子であるイエスの上に実現しているということを伝えようとしているのでしょう。
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耳の不自由な子供は話もできない、因果関係がある。福音書もその順番に述べている。最初が耳は聞えない、それから口がきけなくなったと書いてあります。イエスはこの人をいやされるのに、話せることではなく、聞くことに力を入れられたのです。聞かれるようになれば話せるからです。私たちはいつも喜び、感謝を語りたい。あるいは自信をもって話したい。しかしそれはまず聞くことから始まります。自分がみことばに聞くとき、耳が開かれ、自然に舌のもつれがとけて、語ることができるようになるのです。司祭として、教師として、あるいはまた親として立場上適切な言葉を語りたい、福
音宣教をしたい。しかし、適切に話せない、効き目のある語り掛けができない理由は耳が聞えないことにあります。人前で話せない人がいますが、それを乗り越えさせるものが必要でしょう。神の言葉を聞き、深い感動を受けるなら、私たちは語らずにおられないのです。(榎本)
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第二ヴァティカン公会議以前の洗礼式では、司祭は受洗者の舌につばをかけて、「エッファタ」(開け)と述べて、悪霊からの解放を祈りました。病者の秘蹟では油を塗り、病者に心身の健康が与えられるように祈ります。つばや油を塗る行為は魔術の行為と似ていますが、教会の典礼行為は魔術と根本的に違います。魔術は神の名を利用し、神の力を奪おうとしていします。教会の祈りは神の絶対的支配を認め、神がお望みになるなら、いつくしみを注いでくださいと願います。 イエスは新しい天地創造のように、人を造りなおせます。耳の聞えない人が聞えるようになるなど、それはイザヤの予言が成就しているのです(イザヤ35・5-6)。又人々の賛美のことばのうちに、天地創造の神の業に対する賛美が反映しています(創世記1・31)。(荒)


年間 第五土曜日
「人々は食べて満腹した」
マルコ8・1-10


現代社会は消費社会と言われています。企業は必要に応じてものを作るというより、先に品物を作って、そして人に売り込むためにテレビのコマーシャル、宣伝、ポスターなどを使っています。これは、人のニードを満たすためではなくて、むしろ更にニードを広げて、より多くもうける策略でしょう。
 ところが、イエスが私たちに教えているのは、人々のニードを満たすためにはたくさんのものは要らないということです。わずかのもので結構です。少ないもので、ありあまるほど、皆が満足できるのです。問題は人々がその時、その場で何を必要としているのかをつきとめることです。消費社会に
おいては、たくさんの偽りのニードが生まれてきています。必至になってそれらに答えようとしても、後は残るのはむなしさだけです。本物のニードを見分け、それに本物の答えを提供するのは現代社会における教会の役割でしょう。人々は地上的な期待に縛られているため、イエスが本当の答え(メシア)であることに気づきません。(ステファニ)

「群集がかわいそう」と心動かされパンを増やされたイエスは、人々が満腹した後、あっけなく人々を解放し、自分は宣教に出る。本当にどうにもならない時、さっと手を差し伸べてくれる人がいる。
自分にとって軽くないものを渡すのに、何の気負いもないことが、こちらにも感じられる。お返しの話しをすると、さらりとかわされる。聖霊が働きかけるまま、自分さえ気付かないうちに、他者の必要に応えていくことのすごさ。
自分にこだわらずに、主に与えられた良さを使って、人々の必要とともに歩んでいくことができますように。sese07

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