9 per annum

年間第9月
マルコ12:1-12

神の招きに気がつく

 この「ぶどう園」ですが、これはいろいろなものにたとえることができると思います。たとえば、このぶどう園を私たち自身の人生であるとたとえることもできると思います。そうすると、「私たちの人生なのだから、自分の好きなようにするのが当たり前だ」と思うのが普通でしょう。しかし、神様から見ると、私たちに命を与えたのが神様なのですから、私たちは神様のものであるわけです。そうすると私たちがその造り主である神様の御心に従って生きた時に、本当に幸福な人生を生きることができるはずです。しかしそのことがなかなか分からない。神様が招き続けてくださり、いろいろな人を遣わして、神に従うように導くのだけれども、このたとえ話の農夫のように、それを抹殺してしまう。
 しかし神様は、一人子であるイエスさまを十字架につけてまで私たちを見捨てずに愛してくださった。この愛に応えて行こうと、気がつくのを待っていてくださるのです。
-----------------
傷ついた葦を折ることなく,暗くなってゆく灯心を消すことがなかったように、捨て石を隅の親石にされたように…主はイエスを通して、私にも、そのようにしてくださった。弱く、貧しい存在である私を主は愛してくださる。主よ、あなたの愛に感謝する一日になりますように。

--------

トビト記は、旧約聖書の一部であり、トビトという名前の人物と彼の息子トビアスの物語が描かれています。この書は、ユダヤ人の教訓的な物語として知られています。
物語の背景は、アッシリアの支配下にあるイスラエル北部の地域です。トビトは病弱な状態にあり、失明してしまいます。彼は神に対して忠実で、自分の家族に善行をするように教えます。
トビトは息子のトビアスに重要な任務を与えます。トビアスは父親のためにアッシリアの首都ニネベに旅をし、トビトの旧友であるラグエルのもとに行き、トビトの財産を取り戻すための助けを求めます。
トビアスの旅は冒険的であり、天使ラファエルが人間の姿で彼に付き添います。彼はさまざまな困難や試練に遭遇しますが、信仰と勇気によって乗り越えます。
物語の終盤では、トビアスは婚約者であるサラと結婚し、彼女の呪いを解くことに成功します。トビトも視力を回復し、喜びに満ちた家族の再会が描かれます。
トビト記は、信仰、家族の絆、神の導きのテーマを探求しています。この物語は、困難な状況においても神への信頼と忠誠を保つことの重要性を強調しています。また、神の使者が人間の生活に介入し、神の奇跡や祝福が現れることも描かれています。
トビト記は、ユダヤ教の信仰と道徳的な教えを伝える重要な文書であり、またキリスト教の聖書でも使われています。この物語は、個人の信仰と家族の絆についての教訓を提供し、神への信頼と善行の実践の重要性を示しています。(ChatGPT)



年間第9火
マルコ12:13-17


神のものは神に

 私たち一人一人はいったい誰のものなのでしょうか? 聖書は、私たち一人一人は主のものだ、神様のものだと語りかけています。
 もしわたしという人間が、わたしという自分のものだとしたらどうでしょうか? 元気でうまくいっているうちはそれでも十分だと思うでしょう。しかし私たちにはいつか必ず死が訪れます。その時、もしこのわたしがわたしのものだとしたら、誰も救ってくれるものはありません。勝手に自分で救うしかないのです。しかしそんなことはできません。私たちは自分の髪の毛一本でも、白くも黒くもすることは出来ないのです。
 また私たちが、失敗をして挫折をしたり、あるいは人間関係でトラブルが起こったりしたような時、もしわたしがわたしのものであったとしたら、自分で責任をとるしかありません。時には負いきれない重荷を背負うしかありません。 しかし感謝すべきことには、聖書は、私たちは主のものであると書いているのです。私たちが神様を忘れて神様のもとを離れていった時にさえ、主はいてもいなくても良いようなこの私たち一人一人を、たった1ぴきの羊を捜して出かけてくださる方です。私たちが一人も滅びないようにするためです。
 そしてイエスさまは、神のもとを離れていった私たちを、また「神に返す」ために、十字架にかかられるのです。ご自分の命を引き替えにして、「神のものを神に返す」ために、すなわち、この私たちを神の元に返すためにです。
 それゆえ、こんなわたしでも、「神様のもの」なのだということができるのです。こんなどうしようもないわたしでも、主イエスの十字架を考えると、「わたしは神様のもの」なのです。そして主は、私たちを「憩いの水のほとり」に導いてくださるのです。
 私たちが毎日のようにミサをささげ、祈るのは、私たちが神のものであることのあかしです。そして神のものである私たちを、主は喜んで受け入れ、祝福を与えてくださるのです。
--------------

イエスの言葉は、信仰と政治の領域を明確に区別し、それぞれの範囲での責任を示しています。税金の支払いは、社会的な責務であり、政府の法律と規則に従うことが求められます。しかし、私たちが忠誠を示すべき最も重要なものは神であり、神への敬虔さと信仰が私たちの生活の中心にあるべきです。

この教訓は、私たちが信仰と政治の関係をバランス良く持つことの重要性を示しています。政治は重要ですが、信仰を犠牲にすることはありません。私たちは、社会的な責任を果たしつつも、神への忠誠を保ち、神の原則に基づいて行動する必要があります。

この教訓は、現代の私たちにも適用されます。私たちは社会的な関係や政治的な状況において責任を持つ一方で、神の教えに忠実であることを心がけなければなりません。私たちの信仰は、私たちの行動と選択に反映されるべきです。(ChatGPT)


ステンドグラスが美しく見えるのはそのものが美しいのではなく光があるから美しく見える私たちの姿も・・・。「神のものは神に」私たちがいただいたすべては神から受けたもの。この恵みに感謝しながら生きることができますように。たとえ痛みの中にあろうとも・・・。

年間第9水
マルコ12:18-27
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は、「ヤーウェ」という御名が啓示される前から用いられた神の名であって、イスラエルの民にとって最も古くて親しみ深い御名である。この御名の中にすでに、神が死者を復活させる方であることが示されているというのである。死者の復活の信仰はイスラエルの歴史の最後の時期になってようやく成立したものであるとされているが、イエスのような聖書理解によれば、その啓示はイスラエルの歴史の最初からすでに与えられていたことになる。それはイスラエルの盲目の故に隠されていただけで、いま神の命に直結して生きておられるイエスによって覆いが除かれ、聖書の全体が死者を復活させる神の啓示となる。


 神が燃える柴の中からモーセに語りかけた時、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに死んでいた。もし神が彼ら父祖たちを復活させないで死の中に放置する神であれば、その神は「死んだ者たちの神」となる。神が命の根源であり、生命そのものである以上、神は死んだ者たちの頭ではありえない。神は生きている者たちの生命の源泉、生きている者たちの頭である。その神が「アブラハムの神」と名のられる以上、アブラハムはその神に属する者として生きていなければならない。

神様は、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神だった」とおっしゃったのではなく、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」とおっしゃったのです。
 
 すでに死んだアブラハムが生きているというのは、彼の霊魂が存続しているという意味ではない。イスラエルにはギリシャ人のような霊魂不滅の考え方はない。生きるというのは、あくまで体をそなえた命の活動である。したがって、アブラハムが生きているということは、アブラハムの復活を前提とした表現である。神はモーセに「アブラハムの神」と名のられることによって、ご自身が死者を復活させる者であることを啓示しておられるのである。さらに、もし父祖たちが死の中に放置されるのであれば、彼らに与えると約束された神の約束は実現できない空約束になってしまう。約束に対する神の信実という観点からも、「アブラハムの神」という御名はアブラハムの復活を前提として含んでいることになる。
 
 このように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」という言葉は、伝承されたイエスの言葉(ロギオン)の中でも最も重要な言葉の一つである。このような根源的な神理解がイエスの聖書全体の理解を貫き、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という御名を復活の啓示と理解させるのである。このような理解は聖書の言葉の小手先の解釈技術から生まれるのではない。イエスが神の霊、神の力に満たされて生きておられた現実から流れ出るのである。たしかに当時の黙示文学には、復活にあずかる者たちは天使のようになり、結婚も飲食も必要でなくなるというような記述も見られる。しかし、ここに示されているような、最も古い神の名を、ひいては聖書全体を復活の啓示とするような理解はユダヤ教に類例がない。これはイエスだけが達しえた境地であろう。
 
 この段落は、死者の復活を宣べ伝える初代教団が、それを否定する者たちとの論争を、イエスとサドカイ派との論争という形で提示したものであるという解釈がよく見られる。しかし、ここには初代教団の復活理解や表現の痕跡がないことから、イエスご自身のものとする方が適切である(エレミアス)。一歩譲って、ここに初代教団とユダヤ教側との聖書解釈についての論争の形式が認められるとしても、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」というロギオンと、そこから出る聖書理解はイエスのような方だけにふさわしいものと考えられる。われわれもイエスのこの言葉に基づいて、「死者を復活させる神」を信じ、聖書全体をこの神の啓示として理解するのである。
---------------------------------------
あるアンケートによると、「来世も今の相手と結婚したい」と答えている男性が52%だそうです。しかし女性のほうは、「来世は今の相手とは結婚したくない」と答えている人が67.6%と、7割近くに上っています。こういう場合は、復活の時にはどうなるのか。
また、亡くなった方の棺桶(ひつぎ)の中に、家族が故人の愛用していたメガネや補聴器のイヤホンを入れたりします。故人があの世でも困らないように、という思いがあって入れるのでしょう。それはとても優しい心で、大切にしたいと思います。しかしこれもよく考えてみれば、復活の時には、やはり目は近視や老眼で、耳は遠いのか。天国でもそうなのか。
 私たちには分からないわけです。神と直接に顔と顔を合わせてお会いすると書いているだけで、それ以上のことは何も分からないのです。「天使のようになるのだ」と言われても、そもそもその天使というものがどういうものなのかよく分からないし、聖書にもそのようなことは書かれていません。
正直言って分からないのです。
主キリストが、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」とおっしゃるのです。それは私たちの想像を超えてすばらしいことになるに違いないのです。十字架にかかられて死んだイエスさまが、復活をなさるという、人間の想像を超えたすばらしい出来事が起こったように、です。 ですからわたしたちは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」というみことばを、希望のみことばとして受け止めることができます。私たちの神様の力は、私たちが想像する以上にすばらしいことをなさってくださるのであると。 「神よ、あなたは先に私たちを愛して下さいました。この愛に支えられる私たちが、いつも心から兄弟に仕えることができますように」(本日の集会祈願、年間週日16参照)。
--------------
人間的な思いに囚われる私たちに、主はこう呼びかけているのではないでしょうか。下と後は見るな。前にいる私だけ見てついて来なさい。どこまで来たのか思わずに、私だけを見ていれば良い。ゆっくり ゆっくりバランスをとって一歩一歩歩けば良い。私だけ見てついて来なさい。
過去に、未来に心を奪われることなく、今この瞬間私たちのために祈りながら待っている主に向かって一歩一歩進むことができますように。

年間第9木
マルコ12:28b-34

神を愛することなしに、本当に人を愛することはできるか

ヨハネ第一の手紙4:7にこのように書かれています。“愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。”
 愛は神から出るものだ、と書かれています。「神様を信じなくても、キリストを知らなくても隣人を愛することができる」と思う人がいます。しかし人間の感情というものほどうつろいやすく、また勝手なものはありません。最近、マスコミでよく取り上げられている問題の一つとして、「家庭内暴力」、つまり夫婦同士、あるいは親子同士で起こる暴力、がある。それを見ると、今ものすごく愛した人を、次の瞬間には殺してやりたいほど憎む、という
ことがあるのです。神様を愛して、キリストさまを愛して、愛をいただかなければ、隣人を愛することができないのです。
私たちに対してイヤなことを言ったりしたりする人、さらに私たちのことを憎んだり、悪口を言ったりする人を愛することは難しいのです。私たちは、私たちの悪口を言う人がいれば、その10倍の悪口を言いふらしたくなるものです。ですから、私たちに対して悪口を言ったり、イヤなことを言う人を
愛することはほんとうに難しいのです。
 だいたい、ふつうはそんな人を愛そうなどとは思いません。私たちの悪口を言ったりする人がいれば、逆に10倍の悪口を言いふらして、あとは関わらないようにするでしょう。だから、そんな人を愛そうなどとは決して思わないことでしょう。しかしなぜ、そんな人を愛そうとすることになるかと言えば、それはただ、神さまが、そしてイエスさまが、「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃっておられるからという他はありません。神さまが、イエスさまがそう命じておられるから、私たちは初めて、イヤな人でも愛する、ということを考えざるをえなくなるのです。そして、その難しさに頭を抱(かか)え、愛することのできない自分を発見するのです。


年間第9金
マルコ12:35-37

地上の生活の改善が「救い」ということか?

「この人が王になれば良くなる」「この人が総理大臣になれば、生活は楽になる」「この社会が変われば、幸福になれるはずだ」‥‥と、そのように人間が考えてきたのです。
しかし、ではそのことによって、「救い」ということが起きるのか、と言えば、そうではないと言えます。なるほど、現在の日本は、資本主義が発達し、ものが豊かになり、医療も進歩しました。長寿が当たり前のようになりました。
 しかし、だから「救われている」ということができるのでしょうか? たとえば、人は「死」を免れるようにはなっていません。人は必ず死にます。また、いくらものが豊かになっても、人間の不平や不満は無くなることがありません。ストレスから精神を病む人もむしろ増加しています。生きるこ
とに対する心配の種は尽きないのです。 イエスさまの問いは、そういう問いであるといえます。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。
」生活を改善してくれるのがメシア(救い主)なのか。独立を勝ち取ってくれる指導者がメシアなのか‥‥。メシアとは、この地上に生きている間だけ、私たちが毎日を生きることについて、物質的に改善してくれる人のことなのか、ということです。イエスさまの言葉は、旧約聖書の詩編110編の中の言葉です。ダビデ王が昔詠んだ詩です。
 この中で、最初の「主」は父なる神のことを指しています。次の「主」は、主人の主であり、メシア(キリスト)を指している、ということです。つまり、父なる神である主が、キリスト(メシア)である「わたしの主」におっしゃったと。
 ダビデはこの時から千年も前の人です。そのダビデが、すでにメシア(キリスト)を聖霊によって見ていたというのです。つまり、本当のメシアとは、ダビデ王の生きた時代にもおられた。神と共に、時空を超えた永遠に生きておられる方であるということが暗示されているのです。そのように、本
当のメシアとは、私たちに永遠の救いをもたらしてくれる方であるということが、暗示されているのです。
私たち教会は、そのメシア、すなわちキリストが、今から二千年前に十字架にかかられ、そして復活されたイエス、その方であると告白しているのです。このキリストが、聖霊によって、今も私たちと共におられ、私たちのことを愛してくださり、共に歩んでくださる。そこに、救いがあるということ
です。この世においては、キリストと共に歩んで、この私たちの生きる重荷を負って下さり、来たるべき世においては、永遠の命を与えて下さる方として存在されていると、告白しているのです。
 「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13:8)
-----------------
これは詩篇110篇からの引用で、この詩は元来、王の即位式に詠まれたものです。その場合、「主」は神を指し、「わが主」は新任の王を指しています。神によって立てられた王は、神の御業の代行者なのです。王の戦いは神の戦いであり、王の敵は神の敵でした。王は神より権威を賜ると共に、知恵や力をも賜るのです。

イエスの十字架と復活を見て、イエスこそ待望の救い主キリストであると信じた原始キリスト教団の人々は、この詩をメシア預言の詩として解釈し、イエスの出来事に当てはめました(使徒行伝2・34以下、コリント第一書15・25、ヘブル1・13、10・12、マタイ26・64、マルコ14・62、ルカ22・69) そしてこのように読み換えたのです。その詩の題は「ダビデの歌」であるから、ダビデが詠んだものである。それで、最初にくる「主」は、主なる神を指すが、次に来る「わが主」は、ダビデが霊感を受けて、到来するキリストなるイエスを予見して、イエスに対して「わが主」と言ったのである。それ故に、ダビデが「わが主」と呼びかけて尊敬したキリストが、どうしてダビデと同等の、「ダビデの子」であろうか、という論旨なのです。つまりマルコは、イエスはダビデ以上の存在であると言いたいのです。

「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死人の中からの復活をもって、力ある神の子と定められた。即ち、私たちの主なるイエス・キリストである」(ローマ書1章3~4節) これが使徒パウロのキリスト論であり、原始キリスト教団が一致を見た信仰告白でした。
 ガリラヤの田舎町ナザレに育ったイエスが、神の国の到来を宣べ伝えて権力と衝突し、三十数歳で十字架上に刑死した。その後、復活のイエスに出会ったと証言する弟子達が現われ、イエスはキリストであると信じてその福音を宣べ伝えていく過程において、ユダヤ教の律法学者達との「キリスト論」論争がありましたが、今日学んだテキストはその一断面を示しています。私達が今日受けている福音の恵みの陰に、先人たちの多くの苦労があったのです。

 

年間第9土
マルコ12:38-44

今日の朗読箇所には人間の二つの対極的な生き方が見られます。第一は、ここで出てくる律法学者のような“人々に見られるため”の生き方で、第二は、なけなしの金を献じた寡婦のような“神によって見られる”生き方です。
もう少し突っ込んでみると、第一の生き方は、人々に見られて、肯定的な反応を得るために懸命であって、謂わば人生を自分で握って、周りから褒められ満足することを求めています。それに対して、第二の生き方は、神によってのみ高められる生き方だと言えます。
この寡婦は人々から顧みられることがなかったばかりか、恐らく神によってその行動が肯定されたことさえ気づいていないでしょう。私たちはどちらの生き方でしょうか。
そればかりではなく、私は、どういう人に関心を持っているか自らに問うてみましょう。見かけか、それとも生き方を見据えているのかと。sese07

------------------
心を空に向けることができる力が命です。空を見てください。そして今自分が持っているものを見てください。何が永遠の命に係わるものか。
真に必要なもの、不必要なものを見分け、選んでいくことができますように。

No comments:

Post a Comment