3 per annum

年間第3月
マルコ3・22-30

サタンとはどのようなものなのでしょうか?祈りのうちに過ごす日常生活においても私達の心は常に揺れ動きます。イエスはたとえ話の中で「内輪もめ」という言葉を繰り返されます。それは閉ざされたところで起こる、閉ざされた考え、他を受け入れようとしない頑固な態度、自分を守ろうとする心の狭さを感じさせます。それがサタンではないでしょうか。聖霊は御父から注がれるものであり、「内輪」ばかり見ていてはその存在に気づきません。
開かれた、柔軟な、広い心で聖霊を受け、聖霊に導かれて日々の生活を送ることができますように。sese07

ファリサイ派の人々はイエスをせめるための口実を一所懸命探していますが、それがなかなか見つかりません。そして最後に「おまえは悪魔たちの親分だから悪魔を追い出せるのだ」という、矛盾に満ちた理屈を言い出します。ここまで来ますと、彼らはイエスの人気を落とさせるために、手段を選びません。彼らはイエスに対して激しいうらみを持っているので、理性が効きません。
 イエスは目指しているのは、周囲の目を気にせずに、正しいことを正しいこととして受けとめることの出来る人の育成です。自分の心のわだかまりからも、周りの抑圧からも自由な人間の養成です。
ところがファリサイ派の人々は言われる通りにふるまうおとなしい人間を求める。疑問を持たない人間、疑問に思っていることでも、質問したり、問い掛けたりしない人間、世間の価値観をうのみしながら、行動する人間です。さて、私たちはどういうタイプの人間になりたいと望んでいるでしょうか。

 
年間第3火
マルコ3・31-35

イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われます。それまでイエスの周りに座りイエスだけを見ていた人達の信仰は「私と神」の間だけのものだったのではないでしょうか。それがイエスを通して、「私と人」「人と人」との間にも信仰が生まれます。「神の御心を行う心」すなわち「清らかで愛に満ちた心」は全ての人の心の奥にあるのではないでしょうか。今日出会う人達を私の兄弟、姉妹、また母として受け入れ、互いに支え合い分かち合いながら信仰の道を歩むことができますように。sese07

家族というのは、本来は、血のつながっている、一番の近親者のことです。ですから、それは血のつながっていないものから見たら、いくらその家の家族になりたいと思っても、なることは出来ない。そういうある意味で、閉鎖性を感じるものが家族です。何かのサークルだとか、組織だとかとは違って、開かれていないのです。 しかしイエスさまにあっては、血のつながりも何もない、幼なじみであるわけでもない、同じ出身地だというわけでもない。別々の家庭に育ち、それぞれ異なる人生を歩み、お互いなんのつながりもなかった人々が、イエスさまのもとに一つに集められている。この弟子
たちを指して、イエスさまは「わたしの母、わたしの兄弟」とおっしゃる、わたしの家族だというのです。
イエスさまのあとに従い、みことばに耳を傾けているならば、私たちもイエスさまの弟子なのであり、それゆえイエスさまから、「わたしの母、わたしの兄弟」と呼ばれるのです。わたしの家族、と言われるのです。
みことばを自分の中に受け入れることによって、イエス様が自分のなかに生まれるということだと思います。私たちは母マリアと同じようにイエス様を生んで、育て、世界にプレゼントすることができるというわけです。なにか照れくさいような、嬉しいような感じがするかもしれないが、それは教会という変わった家族のなかに毎日のように文字通り起こっていることなのである。
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『ヘブライ人への手紙』10章

みなさんもご経験があると思いますが、健康診断で再検査を言い渡されまして、お腹のCTとエコーの検査をいたしました。あるいは、レントゲンを考えてみてください。画像の写真を見ますと、白黒の陰影画像です。それを見せられて、「ほら、ここが○○ですよ」と、お医者さんのお話を聞いていましたが、白いものがみえたり、くろっぽいものがみえたりするだけなので、いったいお腹の中がどうなっているのか、私にはさっぱり分かりませんでした。わからなくても、「まあ、心配はないでしょう」と言われてホッとしたわけです。それにしましても、陰を見て実体を知るといいますか、お医者さんというのは、知識とか経験を駆使しまして、そういう陰影だけでできた写真からお腹の中のようすが手に取るように分かるようです。凄いことだなあと思いました。このように、実体そのものをみなくても、その影を見て、実体そのものを知ることができる人たちがいます。そういう影の話が、『ヘブライ人への手紙』10章1節に出て来ます。

いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。

律法は《影》に過ぎず、役に立たないと、律法否定みたいなことが書いてあるようにも読めますが、《影》を否定的な意味にとる必要はありません。律法は、十戒をはじめとして神様が与えてくださったお言葉です。しかし、神様の言葉と言いましても、神さまの言語で語られているわけではありません。神様の御心を、人間に分かる言語に置き換えて、語られているのです。ですから、それは神様の御心そのものではなく、《影》であると、『ヘブライ人への手紙』は注意をしているのです。
 その際、ただちに「だから、それは実体がないんだ」と結論に持っていくのは危険です。

年間第3水
マルコ4・1-20

イエスは私達のことをよくご存知です。このたとえ話の結論として「だから良い土地を持つ人になりなさい」とは言われません。私達の心の中には、道端、石だらけの所、茨の生えた所が常に存在することを承知しておられます。そのうえで全ての人の心の奥には神が創造された良い土地が存在する、という確信のもとにこのたとえを話されているのではないでしょうか。神の御言葉は私達への信頼、希望、愛なのです。たとえ今日実を結ばなかったとしても、この信、望、愛は決して途絶えません。
神の深い愛に満ちた御言葉を今日、誠実に受けとめることを通して、聖霊の助けによる実を結んでいくことができますように。sese07
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イエスは、群衆にたとえで言われる理由を話されています。彼らは、「見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟ら」なかったのですが、とても面白いですね。彼らは、みことばの裏に秘められた、暗された意味を解読できなかったのではありません。あまりにも明らかで、あまりにもはっきりしていることを理解できなかったのです。オウム真理教の事件が起こった後に、ある雑誌の編集長がハルマゲドンのことを知るために、ヨハネの黙示録を読みました。 しかし、彼は、何が何だかさっぱり分からなかった、ということをあるテレビ番組で話していました。しかし、本の内容というのは、たいてい初めのほうにその主題が書かれています。ヨハネは、「イエス・キリストの黙示」と書き始めています。黙示は現れることを意味しますから、イエス・キリストの現われがこの書物のテーマです。実際に19章には、ハルマゲドンの戦いのときに、イエスご自身が白い馬に乗って現れます。ですから、この事はキリストが現れることについて書かれているのです。こう説明して、わかる人はわかります。小学生でもわかるでしょう。なぜなら、あまりにも当たり前のことを話しているからです。

 しかし、多くの本を読んでいるはずのインテリが、そうした当たり前のことがわからないのです。見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟りません。なぜなら、「悔い改めて赦されることがない」からだ、とイエスは言われています。弟子たちのように、罪を悔い改めて福音を信じていないから、悟ることができません。真理を悟ることは、やはり、イエスとの関係なのです。イエスとともにいることなのです。これが、私たちが真理を悟るための鍵となります。

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『ヘブライ人への手紙』10章
イエス様は、唯一の救い主である。これはイエス様の他に、私たちの救いはないということです。私たちは日々、いろいろな問題に直面しています。仕事のこと、家庭のこと、人間関係のこと、健康のこと、お金のこと・・・・この世にある限り、そういう様々なこの世的な問題を免れることはできません。そういう問題を、ひとつひとつ担ったり、解決したりしていかなければなりません。そういう時におきましても、イエス様は唯一の救い主であるということを信じ、イエス様への信仰をもって生きていくのが、クリスチャンの生活、つまり信仰生活でありましょう。

 ところが、うっかりすると信仰生活が、「信仰と生活」に分離してしまうことがあります。信仰がなくなってしまうわけではないのですが、その信仰が、日々の生活に結びつかなくなってしまうのです。本来は、仕事においても、家庭においても、人間関係においても、健康上の問題でも、あらゆることにおいてイエス様が私たちの唯一の救い主でいらっしゃる。これが私たちの信仰です。しかし、心の問題、魂の問題は、イエス様に祈り求める。けれども、毎日の生活においてはこの世の富、知恵、力を頼みとし、この世的な評価を追い求めて生きている。言ってみれば、ダブルスタンダードです。こうなりますと、最初のうちは、あまり気づかないかもしれませんが、イエス様の御救いに対する喜び、感謝、讃美が、だんだんおろそかにされていき、ついには何の力もなくなってしまうのです。これについては4章1-2節に、こういうことが記されています。

だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。

年間第3木
マルコ4・21-25

ここで「持っている人は与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」ということが起こる。聞く耳を持っている者、すなわち信仰をもってイエスの言葉を聴く者、さらにイエスと同じ御霊による理解力をもって聴く者は、イエスの言葉を真剣に受け入れるので、神の国の奥義をいよいよ深く示し与えられて、霊の次元でますます豊かになるが、それに対して、聴く耳を持たない者、すなわち悟りのない者は、だんだん神から遠ざかり、本来与えられている神への感受性をも失い、霊の生命の枯渇に至る。
 マルコが、本来はイエスご自身のことを言われた「あかり」の譬を、この「秤」の譬と組合せてここに置いたのは、「種まき」の譬を御言葉を聴く態度の大切さを説く譬と解釈した結果、その主題をさらに拡大強調するために、「あかり」の譬も弟子たちが受けた御言葉の光を輝かすことの大切さを説く譬として、御言を真剣に聴くことの大切さを訴える「秤」の譬と一組にしたのであろうと考えられる。

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「持っている人」「持っていない人」――何を、持っていたり、持っていなかったりするのでしょうか?神の言葉、福音の「ともし火」を燭台の上に置き、神の前で、自分の持っているものを一つ一つ見直してみなさい、ということです。自分の持っているものを量って、その重みはどのぐらいのものか。そうすると、持っていないものも見えてくるかもしれません。
自分の持ち物、自分の力や考えにより頼むなら、限界にぶつかり、暗闇に迷い込んでしまいます。神の愛とゆるしを信じないことから、恐れ、不安、疑いなどが生じてきます。それは、持っていない状態で、人間の心に害と病いをもたらすでしょう。それは人間にとって滅びの状態そのものではないでしょうか。信仰はこのような限界を乗り越える恵みをもたらします。主よ、いつもあなたに心を向け、すべてを越えてあなたを信じる恵みをお与えください。神の望みを知り、行う者となり、真理の光のうちに歩むことができますように。sese06
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『ヘブライ人への手紙』10章
『ヘブライ人への手紙』は、第一部と第二部に分けることができます。第一部は、これまで読んできたところで、「イエス・キリストこそ唯一の、永遠の、完全なる救い主である」ということが語られていました。今日から、第二部に入ります。第二部の主題は何か。それが今日お読みしました19~25節に記されています。この部分は、新共同訳では七つの文章によってなっていますが、ギリシャ語の原点を当たりますと、長い一つの文章となっています。1955年訳の口語訳聖書は苦労しまして、それに少しでも近くなるように、これを二つの文章でまとめています。
 これが一つの文章であるということは、この文章全体の主語と動詞があるということです。主語は《わたしたちは》ということでありますけれども、動詞は何かといいますと、22節の《神に近づこう》(新共同訳)というのがそれにあたります。つまり、この文章のすべての言葉は、《神に近づこう》という一点に集中するのです。

 ちょっとくどい言い方になりますが、「イエスの血によって聖所に入れるという確信をもって、神に近づこう」、「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのだから、神に近づこう」、「わたしたちには神の家を支配する偉大な大祭司がおられるのですから、神に近づこう」、「心は清められ、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われているのだから、神に近づこう」、「約束してくださった方は真実なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようにしっかり保って、神に近づこう」、「ある人たちの習慣に倣って集会を起こったりせず、むしろ励まし合って、神に近づこう」、「かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合って、神に近づこう」、そのようにこの部分は語られているわけです。

そこで、先ほどの二つの側面が大事になってきます。一つは、イエス様の御業に注目することです。もう一つは、イエス様を心から信じて自分を委ねることです。『ヘブライ人への手紙』は、まず第一部でイエス様の御業に注目をしました。そして、これから第二部において、イエス様を心から信じて自分を委ねることについて語り始めるのです。


年間第3金
マルコ4・26-34

「種まき」の譬と同様、ここでも「神の国」が蒔かれた種と収穫を対比する譬で語られている。先の「種まき」の譬では、種がまかれる時の徒労に見えるような状況と豊かな収穫が対照されていたが、この譬では収穫に至る過程が人間の理解や努力を超えたものであることが焦点となっている。農夫は種をまいた後、作物が自然に成長して実を結ぶ時をひたすら待つ。農夫は作物が成長する仕組みを理解しているわけではない。土地に作物を成長させる力があることを信じて、夜昼寝起きして収穫の時が来るのをひたすら待つだけである。農夫は直接作物に働きかけて、芽を出させ、つぎに穂を出させ、実を実らせることができるわけではない。ただ「夜昼寝起きして」いるだけで、何をすることもできない。けれども種がまかれた以上、時が来ればかならず実は実り、刈り入れができるようになる。農夫は土の力を信じて、忍耐強く時を待っている。

 「神の国」も同じである。種はすでにまかれた。刈り入れの時は必ず到来する。神はすでに業を始めておられる。時が来れば神は審判の鎌を入れて、神の民を栄光の中に集められるであろう。イエスはご自身の中に「神の国」が到来していることを知っておられる。イエスの中に隠された形ではあるが、神の業はすでに始まっている。神においては隠された始まりは顕にされた終わりを含んでいる。どうして終わりが顕現するのか、その仕組みを理解したり、その過程を人間の工夫や努力で変えたり促進したりすることはできない。ただ神の力と神の信実に委ねて、時を待つだけである。こうして、ここでも「隠されているもので顕れないものはない」という「神の国」到来の原理が語られているのである。

からし種を見せていただいたことがあるが、それはゴマ粒をずっと薄くしたような大きさであった。わたしたちが「ゴマ粒のように小さい」とか「ケシ粒のように小さい」と言うように、イエスの時代の人々にとっては、「からし種」は小さいものを象徴するものであったのであろう。ところが、その目にもとまらない「からし種」が成長すると二メートル半から三メートルの高さになり、木のように枝を張って、人の目を驚かせる。この譬では小さな始まりと大きな終わりとの驚くべき対比が語られている。その小さい始まりの中にすでに大きな終わりが含まれて実在しているのである。


 軍隊を従えて王宮に座し、一国に命令している人物であれば、その支配は目の前に見ることができる。ところがイエスは漁師などの小さい弟子の群れを率いてガリラヤの町を巡回する一人のラビー(宗教教師)にすぎない。しかも宗教当局から神聖な律法の違反者としてにらまれて、ついに支配権力によって処刑される人物である。そのような人物が「神の支配はわたしの中に来ている。わたしこそその支配を体現する者である」と言っても、誰が信じることができようか。それは人の目には見えない現実である。「神の支配」はイエスの卑しい姿や弟子たちの貧しい群れの中に隠されている。しかしどのように隠されていても、それが「神の」現実である以上、必ず顕れる時が来る。

 たしかに、「神の支配」がすべての人の目の前に栄光をもって顕れる日はまだ来ていない。しかし「神の支配」の現実はすでに隠された形で来ている。そしてその目に見えないような小さい現実の中に、終わりの時に顕される大きな栄光が含まれている。「神の支配」はすでに始まっている。その中に含まれる終わりが圧倒的な力と栄光をもって顕れる時がすぐに来る。イエスはこのような終末の到来の「すでに」と「いまだ」との間の緊迫した関わりの場に生きておられるのである。

 ここにまとめられている「神の国」の三つの譬は、「神の国」という終末的現実の「すでに」と「いまだ」の緊迫した二つの面の関係を見事に指し示している。今わたしたちもこの譬を聴く時、いま自分が置かれている終末の場がどのようなものであるかを自覚させられる。わたしたちは聖霊を受け、すでに「神の支配」の現実の中にいる。しかしその現実は、神に敵対する生まれながらの人間本性の中に覆い隠されたり、世界の中であまりにも微弱な勢力であってこの世の権力に圧倒されているように思われ、旅路の途中で立ちすくむような思いをする。その時、これらの譬がわたしたちを励ます。どのように小さくて覆い隠されていても、またどのように悪い地に蒔かれていても、それが神の現実である以上、その全容が栄光の中に顕れる時がかならず来る。この滅びの世界、死の存在が栄光の天地、復活のからだに変えられる。それがいつ、どのようにしてであるかは知らない。しかしわたしたちの中にすでに始まっている現実の中にそれが含まれていることを確信し、その時を待ち望みつつ今を生きるのである。http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_027.htm#top
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イエスは私達の「聞く力」に応じて語られました。私達が聖書を読む時そのたとえ話から受け取るメッセージは一人一人違います。読む時期や心のありかたによっても神は違うメッセージを与えてくださいます。それは「神」と「私」との個人的な関わり、ふれあいです。長い間聖書を読んでいると、
「ああ、このたとえ話ね」とわかったような錯覚に陥ることがあります。天の父は、今日私にどんなメッセージを送ってくださるのでしょう。心を静め謙虚な態度でみ言葉を味わうことができますように。sese06
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『ヘブライ人への手紙』10章
明治時代のキリスト者で、多くの人に影響を与えた内村鑑三と言う人がいます。内村鑑三には、ルツ子という愛娘がおりました。ルツ子は、いろいろな意味で、内村鑑三の心を支える娘で、彼は、彼女に格別なる愛を注いでおりました。しかし、ルツ子は、実践女学校を卒業したばかりの、17歳という若さで病死してしまったのです。ルツ子の死は、内村鑑三にとって、人生にあってはならないことの一つでありました。
内村鑑三は、その打撃の大きさを、「神の手、余輩(よはい)に加はりて、余輩の腿(もも)のつがい挫(くじ)け、余輩はあゆむことを能はざるに至れり」と語っています。「腿のつがい挫け」とは、ヤボクは、神様と闘ったところ、ヤコブと自分を重ねているのでしょう。ヤコブは、、神と格闘したと、聖書に記されています(『創世記』32章23~27節)。その時、ヤコブは、腿のつがいを負傷したのです。内村鑑三も、愛娘の癒しを願い、ヤコブのように、神に挑む祈りを捧げてきたのでありましょう。しかし、あえなく死んでしまった。それを、「腿のつがい挫け」と表現しているのです。つまり、神様の愛を疑った。そして、イエス・キリストの十字架の意味は分かった。神様も大事なひとりごを失った、と。
今日お読みしました『ヘブライ人への手紙』10章26-39節は、少し長いところですし、その中にいろいろとハッとさせられる言葉があり内容豊かなところです。しかし、その中心は35節にあります。

自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。

 確信を捨てないとはどういうことか? 間違った確信は、試練の時に必ず打ち砕かれます。そういう確信をいつまでも持ち続けるのはよくありません。私たちに与えられている確信とは、十字架にかかられたキリストこそ、私たちの救いであり、そこにこそ神様の愛がこよなく現れているという確信です。どんな時にも、平和な時にも、戦いの日にも、この確信を捨ててはいけないというのです。それが私たちの持つべき信仰なのです。



年間第3土
マルコ4・35-41

このたとえ話のように私達の信仰の成長も「どうしてそうなるのか、その人は知らない」のだと思います。しかし御父は私達一人一人に対しその成長の道すじを用意しておられるのではないでしょうか。日常生活において辛く苦しいこと、また信仰の道からは遠ざかるような出来事も、それはもしかしたら「茎」であり、その出来事を通らなければ「葉」は出てこないのかもしれません。私達は自分が今、信仰の成長過程のどの段階にいるのか知ることはできません。しかし私達はイエスと共に舟に乗っています。突風が吹こうと舟が水浸しになろうと、また神から見捨てられたと思える時も、ただ信じること。イエスはそう私達に語っています。
主よ、私達に信じる力と、神の国へと成長していく希望をお与えください。sese07

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