22 per annum dispari

年間第22月

ルカ4・16-30

ルカによる福音書によれば、イエスの宣教の開始の言葉がこのヨベルの年、主の恵みの年がわたしが来たことによって、「この日に成就した」ということです。このヨベルの年が単に理想で終わるのではなく、わたしが来たことによっていよいよ実現するのだというのです。これはあの洗礼者ヨハネの宣教の開始の内容とは随分違います。ヨハネは人々に「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから逃れられるとお前達は思っているのか」といって悔い改めを迫ったのです。それに対してイエスは人々に無条件でまず神のめぐみの年が来たことを告げ知らせて、人々に悔い改めをせまったのです。イエスはもう神の報復については告げないのです。

 これはイソップの物語に出てくる「北風と太陽」の話しに似ております。北風は激しい冷たい風で旅人の着ている外套をはがそうとして失敗いたします。しかし太陽は旅人の着ている外套を脱がすことに成功するという話しです。激しい風が吹けば吹くほどわれわれは自分の身をちぢこませ、自分の着ている外套で自分を防御するのです。しかし太陽の暖かい熱を受けるとき、われわれのかたくなな心はやわらぎ自分の外套をぬいで、自分から解放されていくのです。
 
 イザヤ書で預言されている「主のめぐみの年」には、まず「貧しい者に福音が宣べ伝えられる」ということだと宣言されます。貧しい人がただちに金持ちになることではないのです。福音が宣べ伝える、福音とはなによりも、貧しい者が抱えている借金がもう棒引きにされる、もう借金を返さなくてもいいということです。いきなり貧しい者が金持ちになるのではないのです。なによりも借金が取り消されること、赦されることなのです。
 
 ゼロから出発することが許される、こんなうれしいことはないのです。それはいきなり金持ちになることよりももっと喜ばしいことなのではないか。もっと張り切れること、生き甲斐が与えられることではないか。ここで言われている「貧しい者」とはただ経済的な意味のことだけではないでしょう。ここで言われていることは、やはりわれわれの罪が何よりも言われていることです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke9.htm


年間第22火

ルカ4・31-37

悪霊にとりつかれるとは、どのようなことなのでしょうか?……自己中心の思い、人に対する悪い思い、嫉妬、人を傷付けるあり方、また、自分の心に傷を抱えている、また、私達の弱さ、愚かさ、鈍さ…私達は、そういうもの全てから解放される必要があります。しかし、自分の力では解放されないのです。イエス・キリストの御言葉が、私達を解放する神の力を持っていると、聖書は言うわけです。

 あるいは外から、逆境が、苦難が、圧迫的な状況が、私達を抑え付けています。色々なものが私達を捕らえていますから、私達は多くのストレスを抱えています。気付いているストレスも、気付いてすらいないストレスもあるでしょう。…何がそこから私達を解放してくれるのでしょうか。

 イエス・キリストの御言葉が、私達を解放する力を持っています。真理の御言葉の光に照らされて、私達は目を開かれて、初めて自分のありのままの姿が見えるようになります。自分を取り巻く状況の本当の姿が見えるようになります。そして何よりも大切なことは、神様……全ての支配者であり、解決者、解放者である神様……が、見えるようになるのです。

 自分には出来ない解放、他人に頼っても駄目なことが、神の御言葉の力によってもたらされて来るのです。それが、イエス様が宣言したことであり、聖書が教えていることだと思います。


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私たちは毎日のように、「権威のある」キリストの言葉を聞いて、キリストによって悪霊から開放され、癒される体験をしています。不安な気持ち、苛立ち、妬(ねた)み、傲慢、無関心、抑えがたい欲望、再び悪霊に拘束されないようにみ言葉とともに私たちは生きることができます。
この汚れた悪霊は、いわゆる悪魔、サタンとは違って、人間に対して独立した存在としてではなく、人間の心に住みつく、何かに依存してすみつかないと存在できないものとして描かれているのが特徴です。そしてその悪霊が住み着く人間は、その人間その人が実はなにものかに依存しないと生きていけない人間なのではないか。そういう病に陥っている人なのではないか、その心の隙につけ込まれて悪霊を自分の中に住まわせてしまっているのではないか。つまり悪霊に住み着かれてしまっている人は、どこか大変依存心の強い人、自立していない人、なにものかに支配されないと生きていけない人なのではないか。

私たちを自由にするため来たイエスに、悪霊は、「我々を滅ぼしに来たのか」と敵意を表します。イエスは、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると悪霊は出て行きます。しかし悪霊は自分の外にあるのでしょうか。自分の中にもあるのではないでしょうか。自分の弱さ、完璧ではないことを恐れ、また認めたくないのはその一つでしょう。しかし、私たちの弱さを通して、イエスの力が現われてくるのにそれを信じようとしません。聖パウロのように、自分の弱いところを感謝すること、そこに神が働いて下さるでしょう。私たちの恐れより、イエスの権威ある一言だけで私たちの弱さを神の栄光に変容することが出来るのです。恐れるな!あなたに信頼します。

その汚れた悪霊につかれた人は安息日に会堂にいたのです。会堂にいて、聖書の話しを聞いていたのです。静かに聖書の話しを聞くのが好きだったのです。そこは大変居心地のよい場所だったのです。ある意味では、この人は宗教が好きだったのです。信仰が好きだった。しかしそこにイエスが来た。そしてそのイエスの言葉には権威があった。人をただ安住させるというような甘い言葉ではなかった。人の魂を揺さぶるような権威ある言葉を語った。それで彼はそれまでおとなしく聖書の話しを聞いていたのですが、突然「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか」と叫びだしたのです。
これは、子供の反抗期ににています。思春期の子供は、親や先生など、権威のある人に反発するような行動。子供が自立するために必要だと言われます。
自立するということは、もういっさい人に依存しないということではない、人との交わりを断つということでもないし、人を信頼しないということではないのです。子供を自立させようとして親はその点で誤解して、ただ子供を突き放すことが子供を自立させるということだと考えがちだけどそうではないと言っております。自立するということと、人と連帯することとは結びついてることなのです。親の愛をしっかりと感じ取っている子供がはじめて自立して、生き生きと遊び回ることができるのです。もし親の愛が不安定であるならば、子供はなかなか自立できないのです。自立したとしても変にがんばって自立する、ゆがんだ形で、つまりいっさい人を信じないというかたちで自立してしまうのではないかと思います。http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/


年間第22水

ルカ4・38-44

イエスは「シモン(ペトロ)の家」に入った、つまり「教会共同体」に入った。それは助けるため、癒すためです。シモンの姑は病気だとは、驚くべきことではない。人間が病んでいる、人類は病んでいるのは普通の状態です。健康な人のためではなく、病人のために来た、正しい人のためではなく罪人のために来たとおっしゃる方を人間が、人類が、必要としています。病気が、悪が残っている間は主に仕えることができません。私たちも「枕(まくら)もとに立って」いただく必要がある、熱を「叱って」いただいて心身ともに元気にさせていただく必要がある。イエスは教会の中で癒す力を働かせておられる。外にもさまざまの病気を抱える沢山の人々が待っているからです。私たちはイエスの癒す力を感じなければならない。悪霊はキリストの手によって追い出されます。自分で仕事はできない時は、人の手を借りることがある。同じように私たちも「手を置いて」もらう必要がある。時々、私たちは手で心に秘められたいろいろなことを表します。今日このように考えてみましょう。私たちの手は愛を表しているでしょうか。人を助ける姿勢を表しているでしょうか。
イエスが汚れた霊を追い出したり、病をいやしたといううわさが広がると、いろいろな病気になやむ者をイエスがひとりびとりに手をおいていやされたというのであります。そして悪霊も「あなたこそ神の子です」と叫びながら人々から出ていった。しかしイエスは彼らを戒めて、物をいうことをお許しにならなかった、なぜかというと、彼らがイエスがキリスト、つまりメシア、救い主だということを知っていたからであると記されております。その前の記事でも汚れた霊が「あなたがどなたであるかわかっています。神の聖者です」といいますと、イエスは「黙れ」と、言われております。悪霊によって「イエスはキリストである」と信仰の告白されることをイエスはお許しにならなかったということであります。なぜなら、悪霊によってイエスはキリストであると告白されたり、叫ばれても、それは本当の意味で信仰の告白にはならないからです。キリストを信じるために、違う証しが必要です。それは、十字架と復活を見た人々の証しです。



年間第22木

ルカ5・1-11

自分達は魚を取るということに関しては専門家なのです。イエスは大工の子なのです。「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何もとれませんでした」というシモンの答えはそういう思いがあったと思います。それでもシモンは「しかしお言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言った。漁が不作であるなんてことは、漁師にとってはあるいは日常茶飯事のことではないかと思います。しかしこの時はやはりそういうことが何日も続いたのかもしれません。彼らは疲れ切っていたのかもしれません。それでイエスの言葉に従う気持ちが動いたかのかもしれません。自分達の知識に行き詰まりを感じ始めていたのかもしれません。少し大げさに言うと、人間の限界を感じ始めていたのかも知れません。そういう時に、自分達の外部の人の声が新鮮に思えた。漁というものは、夜しかできないものだ、漁というのは、この場所でしかできないものだという自分たちの長い間積み上げてきた経験というものがあった。しかしそれがいつのまにか固定観念になってしまっていた。
専門馬鹿という言葉がありますけれど、専門家というのは、やはり自分たちの経験を絶対化しがちであります。しかし自分達の経験、知識というものがそれほど絶対的なものかということです。
シモン・ペテロは「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言って、沖へこぎ出して網をおろしてみたのです。信仰にとって大事なことは、この「しかし」という接続詞だとある人がいっております。「しかし」「にも拘わらず」という接続詞が大切なのだと言い聞かされました。信仰というのは、神を信じるということですから、ある時には自分を信じることをけ飛ばして、あるいは人間の経験とか知識とか常識とか蹴飛ばして、飛躍して、「しかし、にも拘わらず」一歩沖へこぎ出す、そういう冒険をしてみる、「しかし」と言って飛び込んでみる、そうしないと信仰にはならないのだとよく言われたものです。もちろん、なにも闇雲に飛び込むわけではないのです。「しかし、お言葉ですから」という、イエスの言葉、神の言葉、聖書の言葉に対する信頼があって、始めてこの「しかし」という言葉が生み出されるのです。
http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke11.htm


年間第22金
ルカ5・33-39

新しい葡萄は新しい革袋が必要だとイエスが今日教えてくださった。私たちは「新しく出発しよう」
と何度も思いながら、新しい出発というよりも同じことの繰り返しだけになってしまう場合が多いようです。古い習慣、気持ちのいい習慣も失いたくない、守りたいのです。しかしイエスの愛は新しい人生をもたらす愛であり、私たちが理解する愛とは異なっています。私たちが持っている古い“革袋”は捨てなければならないのです。
パソコンでも、Windows XPで出来るソフトはWindows Vistaに出来るわけはないのです!新しい葡萄は神からいただきますが、新しい革袋は私たちが創らなければならないのです。
主よ、あなたからいただく新しいぶどう酒を受け入れる新しい革袋をととのえることの真の意味を悟らせて下さい。sese07
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固定観念は、心理学の用語で、人が何かの考え・観念を持つとき、明らかに過ちであるか、おかしいと思える場合、他の人が説明や説得を行っても、あるいは状況が変わって、おかしさが明らかになっても、その考えを訂正することがないような観念を指す。



年間第22土

ルカ6・1-5

神から与えられた掟は、神と人、人と人との正しい関わりを保つ神の恵み。命を優先させ、人を生かすために働くイエスこそ、安息日の主です。イエスは私たちのうちに何が最も大切なのかを示し、神の恵みと祝福に招いてくださいます。
主よ、あなたの安息に与らせてください。日々の生活の中で、神の御心を見極める眼をお与えください。sese06

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