10 per annum

年間 第十月曜日
「心の貧しい人は幸い」
マタイ5・1-12

「心の貧しさ」は精神的な貧困を指しているのではない。「貧しい」と訳されたことばは、物乞いをするという意味の語からきています。だからこのことばは、「心のこじきは幸いである」と言い換えることもできます。常識で言えば、富んでいるものの方が貧しい者よりはるかに幸せなはずである。それなのに「こじきが幸せ」だとは、一体どう言う意味になるだろうか。誰に何を物乞いをするのだろう。これは心の問題であるから、ローマ政府やユダヤの為政者にたいしてではない。富んでいる人に対してでもない。神に対してである。私達は皆自尊心を持っている。「いまさら神に頼らなくても、自分は自力で生きていける」と考えている。「神を信じるのは弱い人のすることだ。努力さえすれば神など必要ではない」という人もいる。だがイエスは、「人間の力には限界がある。それを認めて、全能の神に頼るのが、心のこじきなのだ」、その人こそ幸いだと教えます。これは一見して、自分の主体性を捨てて弱者になってしまうようであるが、決してそうではない。自分には罪があり、限界のある存在だということを認め、人間の本来の姿に立ち返ることである。そうすれば、神は私達に真の生き方といのちを与えてくださる。(山口)
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「悲しむ人は幸いである」
なぜ嘆き悲しんでいる人々が幸いなのでしょう。嘆き悲しみを知る人は、慰めというものを知るからなのでしょうか。でもそうであったら、たんなる人生訓です。もちろんイエス様の言葉が人生訓でないとは思いません。でもそれだけでなく、つねに宗教的な意味を持っているからです。ですから慰めというのは、人からのものでもあるでしょテが、それ以上に神からのものと考えられます。なぜなら、神から受ける慰めこそ絶対的なものであり、けっして失われることのないものですから。だとするならば、嘆き悲しみというものも、神のための嘆き悲しみでしょう。私の理由で悲しいのではなく、神の悲しみを私の悲しみとして嘆く、ということではないでしようか。
神は人が不幸になると悲しみます。人が幸せになると慰められます。神の悲しみを私の悲しみとする時、私は私の本当の幸せを望んでいることになり、神の慰めを味わうのです。私の罪を、私のためでなく、神のために嘆く時、神のゆるしと慰めを受けるのです。(静)

年間 第十火曜日
「地の塩」
マタイ5・ 13-16

塩は料理に入れると溶けてしまって塩としての形は完全に消えてしまいます。消えますが、塩がもたらす味は全体を包んでおいしくします。料理全体から考えると、塩はとてもわずかですが大きな影響を与えます。キリスト者はそのような存在だとイエスは言います。全体の中ではわずかですが、社会全体に大きな存在の意義を持っています。社会を人間のための社会に変える力を持っています。大きな力、圧倒するような力によって社会に影響を与えるのとは意味が全く違います。大きさでもって影響を与えるのではなくて、その社会のなかに溶け込んで、たとえば市場経済の社会、お金のための社会を人間のための社会に変えます。(ステ)キリストの受肉の原理にもとづいて、キリスト者も目立たないような形で、皆から喝采(かっさい)してもらわない、業績が見られないような形で、社会を中から変えて来たし、これからも世界を変えるために十分な力をいただいています。もし私達には無力感があるならば、今の社会とはタチウチ出来ないと思うことがあるならば、おそらく私達は、深く反省すべきであろう、塩気を失ったかどうかと。
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ともし火は昼の明るさの中では不要のもの。しかし、そのかすかなともし火も、夜の闇の中では辺りのものを照らし出す。イエスは、弱さや貧しさがたくさんあるわたしの中に、塩味や闇を照らす光を見て、呼びかけてくださっているようです。
主よ、わたしの中にある塩味、光に気付かせて下さい。あなたの愛の道具となれますように。

年間 第十水曜日
「律法の完成」
マタイ5・17-19

「他力本願」という言葉があります。たいてい、マイナス的な意味で使われることが多いかもしれません。他人任せ、他人依存、成り行き任せ。 それに対して、「自力本願 」という言葉もあります。これは、もっぱら自分の力に頼っていきることでしょう。 律法を守るということに関しては、自力はだめでしょう。今日の第一朗読にもありましたように、民は預言者の働きにもかかわらず、神から逃げる。人間は自力で正しく生きることはできない、これは旧約聖書の長い経験が教えることでしょう。 キリストが必要であった。キリストだけが、キリストお一人、律法を成就させました。キリストは、できない人間の「身代わり」になって、道を示しました。私たちは、このキリストに結ばれてこそ、正しく生きることができるのです。 やはり、他力です。マイナス的な意味ではなくて、プラス的な意味で。他人任せの代わりに、キリストに任せ、他人依存ならぬ神依存、成り行き任せではなく、神のみ旨のままに、と。ところが、他人任せという時に、他人ということには、強い実在感があります。キリスト任せという場合は、どれだけの実在感があるでしょうか。また、自分はどのような傾向でしょうか。他力傾向なのか、それとも、自力傾向なのか、今日、これについて考えてみましょう。
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と預言者は、「神と隣人を愛せよ」というただ一つの命令を実践することによって成就します。「小さなことにも忠実であれ」(ルカ16・10-12)というイエスのことばを、ユダヤ人キリスト者の指導者たちに適用すると、愛について教えるだけでなく、実行しなければならない、小さな掟を実行する者こそ偉大なものだということになります。
律法を守るというのは大変難しいですので、外面的なものになってしまいがちです。「そうしなさい」と言われても、それを聞いているだけでよいはずがない。ところがユダヤ人はそうなっていた。これは律法のワナだと言えます。どの時代でもそういう問題があると思う。献金さえしていればそれでいいとか、日曜日のミサにだけ出ておればそれでいいとか、、、、。信者の義務は、これとこれです、これだけしておれば、「それでいい」ということを言い出すと、信仰はおしまいです。たとえば、親子の間でも、親の義務はこれとこれですというようなことになると、親子の関係はこわれてしまいます。信仰というものは、そのように何かこれを持っているとかこんなことをしているとかいうことでうすっぺらになってしまったのでは、心からのものは死んでしまう。キリストはただ一人律法を全部守り、完成されました。私達は自力で律法を部分的にでも守ることができない、ですからキリストに頼るしかないのです。
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推理小説は、最初に犯罪が起き、それを刑事や探偵が犯人を突き止めていきます。わずかに残された物的証拠、目撃者の証言、アリバイの裏付け‥‥。そういったものを丹念に集めて、犯人へとたどり着いていきます。
しかし旧約聖書はいわば小説の前編(第一巻)です。ですからまだ犯人は捕まっていないのです。未完成です。未完成ではありますが、その前編がなければ、新約聖書という後編(第二巻)もまた、ないのです。旧約聖書という前編は、少しも間違っていない、「一点一画」に至るまで、失われてはならないのです。証拠や証言が一つも失われてはならないのです。
わかりやすく「推理小説」と言ったので、これは「純愛小説」でも構わないし、「歴史小説」でもかまわない。ただ違うのは、ふつうの小説と違うのは、推理小説や純愛小説などは、他人事であるということですが、これは私たち自身の運命に関わる物語だということです。そしてそれは事実である、私たちの運命に関わるノンフィクションの物語だということです。
旧約聖書だけで終わっていたとしたら、それは失敗と挫折の歴史です。未完成です。しかしそこに究極の「神の義」があらわされた。それが新約聖書です。イエス・キリストの出来事です。こうして私たちの命運を握る物語が完成していくのです。救いが完成していくのです。(nibanmati)

年間 第十木曜日
「律法学者やパリサイ派の人以上の義」
マタイ5・20-26

アウグスティヌス。ここで言われていることは文字通りとるなら、兄弟は立ち会っているときにこうすべきであると、誰かが思うかもしれない。というのは、「祭壇の前に置きなさい」と命令されているからには、長く先にのばすことできない。もし兄弟は不在なら、それは海の彼方にいるかもしれないので、祭壇の前で置いた後に、海を渡って大陸を渡ってから神に捧げものをすると思うのは不条理である。この不条理をさけて理解するために、霊的意味に訴えるべきである。従って、祭壇の意味を霊的にとって、信仰であると考えることができる。神へのいかなる捧げもの、学問、祈り、その他何であれ、信仰なしには神に喜ばれることはない。従って、もし兄弟を傷つけたなら、和解に向かうべきである。それは、体の足でではなく、魂の運動で、捧げものを捧げるべき方の御前で、謙虚で心を込めて兄弟の前でひざまずく。こうして、兄弟が立ち会っているかのように、見せかけではないように傷を宥めることができる。そして、「戻ってきて」つまり、し始めたことに注意を向き直し、捧げものを捧げることができる。(トマス・アクィナス著、Catena aurea: glossa continua super Evangelia, 第 1 巻、caput 5, lectio 14)
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律法学者やファリサイ派の人以上に義しくなければならないとは、大変厳しいお言葉です。彼らほど義しさを追求した人々はいないのですから。ただイエス様は「天の国へ入れない」と言います。これは宗教の分野のことを指し、当然のように「宗教的義しさ」を言っていることがわかります。律法学者やファリサイ派の人が追求した義しさは、むしろ道徳的義しさと言ってよいでしょう。道徳的に正しい人は人間の国で受け入れられ、賞賛されるのです。人をだまさず、うそをつかず、不正をせず、宗教の定めをきちんと守っていれば立派な人と見なされ、人々の尊敬を集めるのです。しかし宗教的義しさは、人の目に義しくあることではなく、神の目に義しくあることです。外的な行為の義しさではなく、内的な思いの義しさです。いくら外の行動が美しくても、心の中に美しさがなければ、宗教的美しさはないのです。逆もそうで、外的に美しくないように見える行為も、心のあり方によって、宗教的に美しいこともあるのです。(静)
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律法学者やファリサイ派の義(正しさ)が外面的なものです。キリストが求めているのは、内面的な正しさ、心が正しいこと、です。例えば、誰かに腹を立てていてどうしても腹の虫が収まらないとき、私の心は穏やかではありません。その一点を深く見つめてみると、腹を立てていることで私自身が裁きを受けているのだということに気づかされます。
主よ、兄弟と和解するために、私に落ち着きと勇気を与えてください。(seseragi06)
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今日の福音書は、近くにいる隣人を愛しなさいと教えています。兄弟に対するののしりや怒りは隣人にまで燃え広がることになることもあるのですと。心に灯(とも)された愛の火は平和を、人々の幸せを、そして和解をもたらします。これは神の喜ぶささげものです。会神へのささげもの、神への礼拝と同等に紹介されています。兄弟との和解と神を礼拝することは同一のことなのですと。
主よ、あなたがお喜びになる供え物をささげることができるよう、人を心から愛する恵みをお与えください。

年間 第十金曜日
「しかし、私は言っておく」
マタイ5・27-32

イエスは外見的に悪い事していなければそれで十分なのだという安易な考え方に挑戦します。殺人、姦淫、偽りなどという行為は、突然現われるものではないはずです。衝動的と思われるものでも本をたどってみれば、形となって外に現われるまでには、心の中でのつみかさねがあったはっずです。大きくはっきりとだれにでもつかめるあやまちとなる以前に、隣人を傷つけたり、おとしめたり、自分のわがままのために他人を押しのけたり、人を人とも思わず、傲慢に人を批判したり、軽蔑したりする心のうちなる動きがあったはずです。私達の周囲にくり返し、たえず現われる、戦争、殺人、強盗、わいろ、さぎ、レイプ、暴力などは、そうした根っ子からふきでてくるのです。私達のうちには、自分でも計ることのできない暗い欲望の淵が生きています。それは自分で見定めることもできず、ときには自分で抑えることもできないほど、あらしのように荒れ狂うときもあります。「しかし、私は言っておく」とイエスがいうとき、イエスは殺人や姦淫という外面よりも、むしろ、そうした行為の根っ子である人間の欲望を指摘しようとするのです。私達が、自分のうちにある醜い不条理な欲望に対決していくことを求めているのです。それが、いつまた外に形をとって現われるか、わからないのです。(森)
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手を切り捨て目をえぐり出せ、教会は(どの時代でも)この言葉を文字通り実行すべきだと受け取っていない。もしそうしたのであれば、教会は片目片手のない男で溢れたことでしょう。また、片目片手を捨てたからといって、残った目で心の中の姦淫を犯さなくなる保証はありません。当然、この言葉は象徴的に理解されてきました。すなわち、心の中で姦淫の罪を犯さないために、イエスの弟子は自分にとってもっとも価値あるものも放棄する覚悟が必要である、という理解です。
この理解は、目や手に「右の」という形容詞がついていることからも補強されます。すなわち最も価値のあるものを意味します。それをも切り捨てる覚悟が、ここで求められているのです。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/MAT_11.htm#top
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。(ルカ14、26)
キリストの弟子となることは、個人の内面、生活の最もプライベートな領域にまで食い込むことであると。外面的なものではない。

年間 第十土曜日
「誓ってはいけない」
マタイ5・33-37

誓うということは、何を表すのでしょうか。人はなぜ誓いを立てるのでしょうか。天に誓って、地に誓って、この白髪頭(しらがあたま) などに誓って、おおげさに誓ってみせて、結局おのれの正しさを主張することなのです。自分の言っていることは本当だと、自分の絶対の正しさを人に認めさせようとするのです。
しかし、天は神の玉座(神のもの)、地は神の足台だとイエスは言います。あなた達は髪の毛一本も、白くも黒くもできないのだ、と言います。これは白髪染(しらがぞ)めのことを言っているのではありません。それはしょせん見せかけですから。ただ自分の正しさを証明する道具として神を引き合いに出すな、ということでしょう。
天の父は、髪の毛一本一本を数えておられる、つまり神は天地を統(す)べ治めておられる、というのです。私達は神を統べ治めて、私の正しさのために神を利用してはいけないというのです。神の正しさを証明するために、私を誓いとしてささげるのです。神の愛を証しするために私自身を利用していただき、そのためにこの身をささげつくすことを誓うのです。(静)
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本日の主イエスの教えは、「誓ってはならない」ということです。『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』というのは、旧約聖書の中に出てくる教えです。
たしかにその通りです。真実を誓って言った言葉にウソ偽りがあったのではどうしようもありません。何を信用してよいやら分からなくなってしまいます。ですから、誓った以上はそれが果たされなくてはならないでしょう。
しかし同時に私たちは、そういう誓いの言葉というものを守るということが難しいことを知っております。すぐに私が思い浮かべたのは、国会で政治家が証人喚問などをするときです。これは真実だけを述べることを誓い、約束するわけです。しかしそれがいかにいい加減なものであったかということを、国民はイヤと言うほど見せつけられました。選挙の公約もそうでしょう。私はいい気になって政治を批判しようというのではありません。私たち自身にも同じことが言えるのです。


イエスさまは「誓ってはならない」と言ったが、教会では誓っているではないか、と思われる方もあるでしょう。
例えば、教会の結婚式でも誓います。

しかし、この教会の結婚式での誓約=誓いは、このあと司祭が2人のために祈るのです。そこを忘れてはならないのです。

つまり、神さまがその2人の気持ち、約束を祝福し、守るように支えて下さい、ということです。神さまが支えて下さらなければ、誓い、約束すらあやふやとなって行くであろうことを前提にしているのです.

結婚式だけではありません。私たちが、クリスチャンとなるとき、キリストについていこうと決心するとき、つまり洗礼式の時も、誓約をいたします。これも、クリスチャンとなった最初のころは、新しく生まれ変わった喜びに満たされ、誓いの言葉も心から告白できるとしても、やがてマンネリ化する、あるいはつらいことに出会う、時には試練にさえ出会うことがある‥‥その時、同じ言葉を持って告白できるか、ということです。「やはり神などいない!」‥‥そう叫びたくなるような時に、はたして「私は主を信じる」と言い続けることができるでしょうか?


洗礼式の誓約の時にも、祈りがそのあとにあるのです。祈りをもって洗礼が成り立つのです。洗礼を受けた兄弟姉妹が、神の支えによってはじめてその後を歩んでいくことができるのです。神がその告白を支え、あらゆる危害から守ってくださり、導いていって下さるように祈る‥‥その時初めて洗礼が成り立つのです。クリスチャンの新しい歩みができるのです。
祈りなくして誓いというものは成り立ちません。これは、聖霊の支えなくして私たちは進んでいけないということです。

大学の先生は英語でProfessorといいます。これも、ラテン語語の語源profiteorをたどって行くと、誓いというようなものです。公にみなの前でPRO、真理をのべることを職業としているという意味です。

私たちの誓いは、政治家のようなものではなく、せめて結婚式、あるいは洗礼式のような誓いになるように今日祈りたいと思います。

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