年間第15火

イザヤ書

7:2 ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。

 主がユダをお守りになったのに、アハズには神に対する信仰は全くありませんでした。そのため、心が大きく動揺させています。アハズはまことの神、主以外のものであれば、何でも頼ろうとする臆病な人間でした。シリヤにやられたら、その勝利を収めさせたのはダマスコの神々だということで、ダマスコの神々を寄せ集め、アッシリヤが力をふるうと、そこの神殿の祭壇の図面に基づいて、祭司にアッシリヤの宗教の祭壇を造らせました。

 主に願いを立てるということには、人格的な成熟が要求されます。単なる願い事ではなく、心と尽くして、思いを尽くして、力を尽くして主を愛するという、全人格的な付き合いが必要となるのです。一夜だけを共にする不倫関係と、何十年も一緒に暮らす夫婦関係と全然違うのと同じです。けれどもアハズは、生ける神との関係を避けて、コンビニでインスタント食品を買うように、よさそうな神々を手軽に入手して、それを拝んでいたのです。

 私たちも試練や苦しみがあると、他の安易な方法を取る誘惑が出てきますね、それです。

マタイ11・20-24

 イエスが比べておられるツロとシドンのとソドムの町は、いずれも神のさばきを受けましたが、神についてその多くを知りませんでした。けれども、コラジンとベツサイダとカペナウムは、見えない神の完全な現れであるキリストを目の当たりにしているのに、それでも悔い改めなかったのです、。これらすべての町を神はさばかれるのですが、少しだけ神のことを知らされた町と、多く知らされた町では、多く知らされた町の方が罰が重いのです。

 私たちはよく、「イエス.キリストの福音を聞いた事のない人は、死んだ後それでも地獄に行くのですか」という質問を聞きます。それに対する答えは、第一に、神は公正な方であり、神はえこひいきをなさいません。第二に、神について多くの知識を与えられたものはそのさばきは重く、少ない人はさばきは軽いと言う事です。神は私たちの知っていることのみに責任を問われるのです。ですから、そういう質問をする人には必ずこういいます。「あなたは、すでにイエス・キリストについての知識が与えられました。何も聞いたことのない人たちのことを心配するよりも、自分のことを心配されたらどうなのですか。」こうして、ご自分のことをはっきり知ったのに、それでも拒んだ町々をイエスは責められました。
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イザヤ10:5 ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。10:6 わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。
 イスラエルは、アッシリヤを通して神によって裁かれましたが、ではアッシリヤ自身はどうなるのでしょうか?そのような疑問が出てくるかと思います。主は、その答えを今、与えておられます。
 一つは、主は積極的に、アッシリヤを用いられたという事実を知らなければいけません。「わたしの怒りの杖」「わたしの憤り」「わたしは、送り、襲えと命じ、わたしが略奪を命じ、踏みにじることをさせた」と、神が介入されている様子が描かれています。
10:7 しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。
 アッシリヤ自身は、自分たちが神の怒りの器として用いられているとは考えませんでした。そして、ただ滅ぼすこと、断ち滅ぼすことしか考えなかった、とあります。歴史的にアッシリヤは非常に残酷な国民として知られています。遺跡として出てくるものの中には、彼らが引き連れる奴隷の体の一部がなくなっているものが多いです。耳を引きちぎったり、鼻をもぎとったりと残酷なことをして、人々を恐怖によって従わせていました。
 聖書の中で終始一貫、教えられている真理があります。それは神がすべてのことに主権をお持ちで、全てものを動かし、神の支配から漏れるものは何一つない、ということです。もちろん神は悪を行なうような方では絶対になく、悪は罪から、そして悪魔から出ているものですが、それらをも神は後にご自分の栄光のために用いられるのです。
 私がスーパーマーケットの魚部門で働いているとき、コスト削減ということで、魚のあらゆる部分を捨てないで、加工するなりして商品にしなさい、とマネージャーが言っていましたが、神はどのようなつまらないものでも、ご自分の栄光と目的のために用いられます。
 神が唯一、ご介入されない部分があります。それは人間の自由な意思です。北イスラエルがあれだけ神をないがしろにしていたのに、神はすぐに彼らを裁かれなかったのは、彼らに自由意志があることを尊重されたからです。そしてアッシリヤがイスラエルや他の諸国の民をことごとく滅ぼすようにされたのも、アッシリヤ人の自由意志を尊重されたからです。
 だから神はいつも、私たちが自分で選択して、神を認め、神をあがめることを待っておられます。自分が神を認めなくても何も変わらないではないか、と言って、神はいないと結論づけることに対して、神は怒りを発せられます。
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イザヤ26:8 主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。26:9 私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。
 主がこの地上に戻って来られて裁きを行われる時に、地上の住民は義を学びます。この日が来るまで私たちはあなたを待ち望みます、という告白です。特に「夜」、つまり世がさらに罪と不義の中で暗くなっているとき、ますます主の正義が現れることを願っている、ということです。
 「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)」と主は言われました。福音において、私たちは始めに自分の罪を示されます。それでへりくだり、その罪を悲しみます。それで罪の赦しを経験して、また信仰によって義と認められたことを経験した人は、今度は実際に義となる日を待ち望みます。主が戻って来られて、罪そのものを取り除いてくださり、キリストと似た者にしてくださる日を待ち望むのです。
 私たちは自分の罪を御霊に示されることを、始めは嫌がります。けれども成長するにしたがって、神様をもっと知りたいと願うにつれて、自ら自分の内に罪がないかを調べて、告白したいと願います。これが義に飢え渇くことであり、自ら自分を裁くことです。パウロは、「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(1コリント11:31)」と言いました。
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イザヤ38:7 これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたこのことを成就されます。38:8 見よ。わたしは、アハズの日時計におりた時計の影を、十度あとに戻す。」すると、日時計におりた日が十度戻った。
 興味深い記事です。この日時計はヒゼキヤの父アハズが作ったものですが、イザヤは同じようにアハズに「しるしを求めなさい」と言いました。アハズは拒みました。主が彼に関わろうとされるのを、彼自身が拒んだのです。
 けれども、ここではヒゼキヤが積極的にしるしを求めています。ここではそれがはっきり書かれていませんが、この章の最後、また列王記第二20章を読むと彼のほうから、自分が確実に癒されて、主の宮に上れるようになるしるしを求めています。
 そして日時計の影が十度あとに戻るというのも、ヒゼキヤが積極的に求めたものです。列王記第二20章には、イザヤは十度進むか、十度戻るかという選択を与えましたが、ヒゼキヤは十度戻るほうが難しいから、という理由で戻るほうを求めています。自分の人生に主が関わるのを強く願ったヒゼキヤと、それを拒んだアハズの対比を見ることができます。
 ところでこの日時計ですが、新改訳聖書の下の説明に、直訳が「度」または「階段」であるとあります。この日時計は階段になっていたようです。みなさんは、この出来事についてどう思われるでしょうか?かつて、ヨシュアが敵を追跡しているときも日がとどまりましたが、科学的な自然現象の説明をどのようにすればよいでしょうか?
 私にはその説明が要りません。天と地をお造りになられた方ですから、日を十度戻すことも容易におできになるでしょう。神は、時間をも創造された方です。何も、地球の自転を止められるような物理的なことを行なわれなくても、タイムマシーンのように時間そのものを戻すことも容易におできになるでしょう。
神にはできないことはない(お告げ)




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