常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の話


常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の話

常不軽菩薩は法華経常不軽品に登場する菩薩の名前。一切衆生は皆やがて成仏するであろうことを尊び、軽蔑や迫害にもめげずに「我、あえて汝等を軽しめず、汝らは皆まさに仏となるべきが故に」と言って「四衆」(僧俗男女)を礼拝しました。彼は釈尊の「過去世」(前世)の姿であると言われる。「常不軽」のサンスクリット原語 Sadaparibhuta は、竺法護訳『正法華経』では「常被軽慢」となっていて「常に軽んぜられた」という意味である。(岩波 仏教辞典)

常不軽菩薩は自身が誹謗され迫害されても、他人を迫害するどころか、仏法に対する怨敵などと誹謗し返さなかった。この精神や言動は、宗派を問わず教理を越えて、仏教徒としての原理的な行動・言動の規範としてよく紹介引用される。


Sadāparibhūta Bodhisattva, Never Disparaging Bodhisattva, Sanskrit word sadā: always; aparibhūta: not scornful, (Ch: 常不輕菩薩 cháng bù qīng púsà; Jp: Jofukyo Bosatsu) appeared in Lotus Sutra Chapter 20 "Never Disparaging" which describes the practices of Bodhisattva Never Disparaging, who lived in the Middle Period of the Law (Ch: 像法 xiàng fă) of the Buddha Awesome Sound King (Ch: 威音王如來 Wēi yīn wáng rúlái), persevered in the face of persecution for the sake of the correct teaching, and finally attained Buddhahood. Bodhisattva Never Disparaging was Shakyamuni Buddha in one of his past lifetimes.
Sadāparibhūta Bodhisattva (Never Disparaging Bodhisattva) was for many years cursed and humiliated, beaten with sticks and staves, and pelted with tiles and stones by countless monks, nuns, laymen, and laywomen because he venerated them by uttering the twenty-four characters that read: "I have profound reverence for you, I would never dare treat you with disparagement or arrogance. Why? Because you are all practicing the bodhisattva way and are certain to attain Buddhahood."


「信仰年」にぴったりの書物


十字を切る

晴佐久昌英/著

女子パウロ会

発行年月
2012年10月

販売価格
1,365円

本の内容

クリスチャンが、「父と子と聖霊の御名によって、アーメン」と、わが身に刻む十字のしるし。この短い祈りのすべてを解き明かす。

目次

十字の祈りとは
十字の切り方
十字を切るのはこんなとき
「父と」—親の愛によって子を生む天の父
「子と」—親の愛によって生まれた神の子
「聖霊の」—親子を結ぶ親心
「み名によって」—父と子と聖霊の交わりに入る
「アーメン」—まことの親への全面的な同意
十字架と復活
今ここを天国に
ISBN
978-4-7896-0716-2


ここで、一節を書き写します。


「十字の祈りがもたらす救いは、あらゆる人を救う本物の救いです。すぐに消えてしまうような、この世の救いではありません。『病気が治ってうれしい』というのはこの世の救いのことですが、十字の祈りを信じて救われた人はこう言います。
『病気が治っても治らなくても、神に愛されていることに感謝し、試練を神のみ心として受け入れ、永遠の命を信じて、希望のうちに今このときを生きる』。
この不安な時代、困難な現実の中で、だれもが救いを求めています。しかし、この世の救いは物質的、相対的、一時的なもので、決して真の幸いをもたらさないことをだれもが知っています。今、求められているのは、もっと霊的で、普遍的で、永遠なる救いなのではないでしょうか。」(6頁)