21 per annum dispari

年間第21月  週日

マタイ23・13-22

ここでイエスは、弟子たちと対立し迫害する律法学者・ファリサイ派の誤りを暴露することで、彼らを反面教師として、彼らの誤りに陥らないように警告されるのです。彼らの誤りは「偽善」という語で要約されます。イエスは彼らの教えそのものを批判しているのではありません。彼らの誤りは「言うだけで、実行しない」点にあるというのです。
律法学者たちは、自分たちこそ民を神の道に導く「案内人」であるとしていました。それに対して、マタイは彼らの議論の愚かさを誓いに関する議論を取り上げて暴きます。マタイは律法学者たちの議論を二組取り上げて(神殿と神殿の黄金、祭壇とその上の供え物)、尊い方(尊さの源泉)にかけて誓った誓いは無効で、尊くない方(尊くされる方)にかけて誓った誓いが有効だとする彼らの議論の愚かさ(論理的矛盾)をつきます。しかし、だからイエスの弟子たる者は尊い方にかけて誓いをしなければならない、と言っているのではありません。ここのマタイの議論はあくまで律法学者たちの土俵での議論です。彼らの立場に立っても、その議論は矛盾し愚かなものだと批判しているのです。また、神殿にかけて誓う者はその中に住んでおられる方(神)にかけて誓っているのであり、天にかけて誓う者も神にかけて誓っているのだから、誓う者は自分が結局神にかけて誓っていることを自覚しなければならないと説教しているのでもありません。イエスはいっさいの誓いを否定されました(五・三三~三七)。その箇所の講解で詳しく見たように、イエスは完全な神の信実を見ておられたので、神の信実に支えられて生きる者の言葉も、無条件に信実でなければならない、誓いによって信実を保証する言葉とそうでない言葉を区別してはならない、とされたのです。マタイは、この神の信実の次元を見ることができない律法学者たちの誓いについて議論が、いかに愚かであるかを暴いて見せるのです。

http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/Mat_28.htm#top


年間第21火

マタイ23・23-26

いくらきれいな食器でも、その中に盛られている料理や飲み物が食べられない物では話になりません。だからイエスさまは、「まず杯の内側をきれいにせよ」とおっしゃるのです。つまり、あなたがたは自分の外側ばかりをきれいに見せかけているが、心の中は美しくないということです。
悪さばかりしている人のことを「偽善者」とは言いません。最初から悪いわけですから、偽善も何もない。「偽善者」というのは、外見は善さそうに見えるが、実は悪い人のことを言うわけですね。だから、悪そうに見える人は悪いことをしても「やっぱり」ということになるだけで、「偽善者」とは言いません。しかし言うことが立派で、品行方正そうに見える。しかし、実態はこんな人だった、という時にそれは「偽善者」と言われるわけです。
 しかしそうすると、クリスチャンというのは、ある意味で皆「偽善者」と呼ばれかねないところにいるわけです。たとえば、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というイエスさまの言葉を教会に行けばよく聞きます。しかし私たちは、イエスさまの後についていきたいから、「隣人を愛そう。自分のことを悪く言う人でも愛そう。受け入れよう」とする。しかしなかなかできません。自分のことについて悪口を言っている人をゆるそうとするのですが、むずかしい。できない。それで、ついつい人の悪口を言ったりする。腹を立てたりする。あるいは困っている人がいても知らん顔をする。自分のことを自慢したりする。‥‥そうすると「偽善者」だと言われているような気がしてくるのです。「クリスチャンは偽善者だ」などと言われたりする。それで落ち込んだりするのですね。
「じゃあ、どっちみち人を愛することができないのなら、最初から神なんか信じなければいいじゃあないか。教会なんか行かないほうがいいじゃないか」というのでしょうか。最初から自分の好きなようにして、気の向くまま、したい放題、悪いこともし放題、そのほうが自分に正直で、裏表がなくて、「偽善者だ」などと言われることもない。‥‥そういうことでしょうか。そういうことをイエスさまはおっしゃっているのでしょうか。
 しかし、そうではありません。人間にはできない。人間にはできないけれども、「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)のです。 そういう中身をしっかりと信念として持つことではないでしょうか。
http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat140.html


年間第21水

マタイ23・27-32

人間というものは、自分勝手な生きものです。生きている預言者の声は聞きたくもないし、目ざわりなのです。それは預言者が、つねに神の側に立って発言したので、耳が痛かったからです。でも殺されてしまえば、記念碑や墓を建て、その死を悼むのです。生きた神の言葉に聞き従うより、死んだ預言者を敬う方が楽なのです。そして図々しくも、自分たちだったら預言者に聞き従っただろう、などとしゃあしゃあ(sfacciato)として言うのです。しかしやることは、結局先祖たちと同じことをしてしまうのです。神のみ言葉のほうを抹殺してしまうのですから。殺すのが都合よければ、もっともらしい理屈をつけて殺します。墓を建てて顕彰(けんしょう)するのが都合よければ、美しい記念碑をつくって徳をたたえるのです。
 つまり人間は神をさえ、自分の都合のよいように扱うのです。自分の都合すべての行動の原理なのです。でもそこに救いはないのです。自分勝手だからこそ、人は救われなければならないのです。(静)
--------
律法学者とファリサイ派の人々は、自分たちが預言者の時代に生きていたなら、預言者たちを迫害する側にはつかなかっただろうと言いました。神さまに従っていただろう、と言うのです。自分たちは偽善者ではない。自分たちは完全に神さまに従っている、と。それをイエスさまは警告なさっているのです。悔い改めがないのです。自分には、神さまの憐れみや助けがなくても、ちゃんと正しく歩んでいけると思っているのです。しかしこのあと彼らは実際に、目の前のイエスさまという、神の御子を十字架につけていきました。
 ファリサイ派の言っていることは、私たちにとっては、たとえば、「もしわたしがイエスさまの時代に生きていたのなら、決してイエスさまを見捨てなかっただろう」ということです。いかがでしょうか?
 弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げました。弟子のうちユダはイエスさまを銀貨30枚で売りました。ペトロは、「死んでもイエスさまに従います」と誓いましたが、いざイエスさまが捕らえられた時、「おまえもイエスの仲間か?」と問われて、「そんな人は知りません」と3回もイエスさまのことを否認しました。しかしもし私たちがその時、イエスさまの弟子であったとしたら、イエスさまを見捨てなかったでしょうか? 否認しなかったでしょうか? 裏切らなかったでしょうか? 信仰を捨てなかったでしょうか?
 いっぽう、イエスさまを見捨ててしまい、イエスさまが十字架にかかってしなれ、墓に葬られたあと、自分たちの偽善に気づき、その弱さに気がついて、絶望していた弟子たちのところに、復活のイエスさまが現れてくださいました。自分の力では何も良いことができない、偽善にしかならない、自分も神の御子を十字架につけてしまった一人だと気がついた弟子たちに、復活のイエスさまが近づいてきてくださったのです。そしてそこからふたたび、全く新しい人生が始まったのです。それが復活の主と共に歩む人生です。
 わたしたちも、自分の力では、まともに歩んでいけない、偽善者である、ということに気がついた時に、山上の説教の最初のイエスさまの言葉が心に響いてくるのです。「心の貧しい人々は幸いである。天の国は、その人たちのものである」(5:3)という御言葉が。それは自分が偽善者であると気がついた者を見捨てるのではなく、招いて下さる主の言葉です。
 わたしもイエスさまを十字架にかけたうちの一人である。そのことに気がついた時に、神さまが新しく始めて下さるのです。それゆえ私たちは、自分の力でするのではなく、「神さまどうかわたしを変えて下さい」と祈る道があるのです。 http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat140.html
------------
 彼らの問題は、人に良く見られたいという虚栄心と、人を恐れる心でした。そのために、外側をきよくすることに専念していましたが、心の態度をきよめることには手を出していなかったのです。これは、私たちの肉が持っている根本的な問題です。私たちは過剰なまで(無意義のうちに)、他人が自分をどう思っているか、どう見ているかによって自分の行動を決めますが、その心の状態は非常に自己中心的です。けれども、多くの場合、そうしたものが文化の中で美徳と考えられています。白い墓のように見えます。私たちは世間体を気にしたり、義理で動いたり、多数派の意見に自分を合わせたりしますが、それが自己中心と受け止められずに、親切であるとか、協調性があるとかと言われるのです。

わをもってとうとしとなす
聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる言葉

 私はかつて、クリスチャンであることは両親に反抗しているのではないか、と思いました。いつも親に従う自分が理想の姿であると考えたからです。しかし、それは、親を大切にしているのではなく、自分が良い子に見られたいという肉の思いであることが後に分かりました。その思いから解放されるには、キリストの十字架を見つめることです。自分の肉がキリストとともに十字架につけられたことを信じなければなりません。それによって初めて、他人を気にする生活から他人を愛する生き方に変わっていくのです。つまり、内側をきよめれば、外側をきよめることになります。


年間第21木

マタイ24・42-51

「キリストの再臨」とか「世の終わり」ということがないと思う人でも、自分自身の命に終わりがあることは、みな知っているわけです。
 そうすると今日のイエスさまのお言葉を読むときに、たとえば、「たった今現在、キリストが再臨されたとしたらどうだろうか?」とか、あるいは、再臨ということが信じられないという人も「今、自分の人生が終わりを迎えたとしたらどうだろうか?」‥‥と考えて読むと良いのではないかと思います。
 「さあ、今この世のあなたの命は終わる」と言われたら、どうするでしょうか。「ちょっと待ってくれ」と言わないでしょうか? あるいは「どうぞ」と言うでしょうか? 自分自身はどうだろうか。そんなことを考えざるを得ません。「ちょっと待ってくれ。まだしたいことがある。やり残したことがある」と言いたいかもしれない。 あるいはキリストを信じている人でも、「今来られては困る」と言いたい方もいるかもしれません。「いまはちょうど、あの人に腹が立って腹が立って、とても赦せる状態ではない。だからイエスさまの言葉に逆らっている。だからイエスさま、もうしばらくして、あの人を赦せるようになってから、もう一度再臨してください」と言う人もいるかもしれません。「そうしたら天国に入れてもらえるから」と。あるいは、「ああ、イエスさま、昨日だったら良かったのに。きのうだったら、神さまに対する賛美と感謝があふれて、おまけに人助けもしたり、昨日だったら良かった。でもきょうは、悪いことをしたから今日では困ります」と言いたい人もいるかもしれない。「今から善行をたくさんしますから、それから迎えに来てください。そうして天国に入れてください」と言いたい人もいるかもしれません。‥‥
 要するに、今日のイエスさまのお話を聞いたとき、「わたしは今イエスさまが再臨され、自分のこの世の人生が終わったとしても良いだろうか?」ということになるだろうと思います。
そうすると、「目を覚ましている」ということは、「いつも立派な行いをしている」ということになるのでしょうか?(実際にキリスト教の歴史では。そのように考え、結婚もしないで禁欲生活をし断食と祈りをして、いつも熱心に礼拝していたグループもあったほどです。) わたしたちがおそれおののいて、ビクビクして緊張した信仰生活を送るためにそうおっしゃるのではない。むしろ、そんな弱い私たちさえも見捨てないで、むしろご自分が代わりに十字架へ行ってくださる、その愛をもっておっしゃるのです。私たちではなく、主イエスが裁きを受けられたのです。ですから私たちは、感謝を持って、喜びをもって、自発的に主イエスに従っていくのです。自らの力では、目を覚ましていることすらできない自分であることを知り、イエスさまにおすがりするのです。イエスさまにおすがりし続けるのです。nibanmati
--------
・終末、世の終わりと言う考え方は、東洋思想にはない。東洋思想にとって歴史は円環である。春が終われば夏が来て、やがて秋になり冬になり、そして再び春が来る。季節が巡るように歴史もめぐる。しかし、聖書は歴史には一つの到達点があり、目標があると主張する。それが終末だ。この終末を死に喩えてみると判りやすい。私たちは今日生きている、明日も生きるだろう、恐らくは明後日も。しかし、終わりの日は必ず来る。明日は今日の繰り返しではない。聖書が「目を覚まして待っていなさい」ということは、「私たちは死に向かって歩んでいるのに、今のような生き方を続けて良いのか」と問いかけている。私たちにとって終末を覚えるとは、私たち自身の死を覚えることだ。
・死は私たちの理解を超える出来事だ。死んだらどうなるのか、誰も知らない。知らないから怖い。怖いから、人は死を見つめようとしない。多くの人は将来の死を忘れて現在を楽しもうとするが、それは何の解決にもならない。
目を覚ましている=死を見つめる。死を見つめた時、私たちは大事だと思っていたものが、実は本当に大事なものではなかったことを見出す。お金があっても死の前には役立たないし、生涯をかけた仕事にしても死ねば意味がなくなる。死を見つめることによって、私たちはこの世の出来事が全て過ぎ去るもの、相対的なものにしか過ぎないことを知り、それらから自由になる。
死への準備教育(しのじゅんびきょういく、death education)とは、人間らしい死を迎えるにはどうすべきか、に関する教育をいう。
必ず訪れる「死」を見つめることによって、限り有る「生」を充実させることを目的とする内容が多い。
上智大学教授のアルフォンス・デーケンが、1982年頃から「死への準備教育」を提唱している。「死を見つめることは、生を最後までどう大切に生き抜くか、自分の生き方を問い直すことだ。」と、デーケンは唱えている。特に、余命を宣告された人の心のケアの重要性を訴えている。
デーケンの支持団体としては、「東京・生と死を考える会」(1999年5月創立)などが結成されている。



年間第21金

マタイ25・1-13

壺に入った油とは何でしょうか。賢い人がともし火と一緒に持っているもの。それなしに、とも火は消えてしまいます。壺の中には人に分けるほど油が入らないようです。それは私がみことばを味わい、喜びと希望を感じる心の奥の部分に似ています。その感動を人に伝えても相手にはうまく伝わりません。その喜びは私と神の間の出来事であり、人には分けられない神聖な出来事だからでしょう。
この油は、全ての人の心の内にあり、そのカリスマにおのおの違ったともし火を輝かせることができるものでしょう。今日もみことばを味わい私の油にともし火を灯すことができますように。sese07
----------------
わたしはおとめになってランプの油が切れた経験はありませんが、車のガソリンが切れてしまったという経験はあります。ガソリンがなくなってしまうと、これはもうどうしようもありません。いくらアクセルを踏んでもダメです。そこで思い出したのは、「そうか、自分はJAFに入っている」ということでした。それですぐに、それまで一度も使ったことのないJAFに電話をかけました。すると20分ぐらいしてJAFの人が、ガソリンを持ってきて入れてくれました。聖書では一般に「油」とは、神さまの下さる賜物のことをあらわしています。たとえばこう書かれています。「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」(第一ヨハネ2:20)。また、第二コリント1:21では、「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です」と言われています。
コロサイの信徒への手紙の2章6~7節にこう書かれています。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」
 なぜ私たちは感謝の生活をするのでしょうか。感謝できそうもないことばかりなのに、感謝することができるのでしょうか。それは、主イエスが十字架によって私たちの罪を代わりに負い、天の国に招き入れてくださるからです。聖霊の油を与えてくださるからです。だから感謝することができるのです。
 それ故きょうのたとえ話は、天の国に入れなかった人にポイントがあるのではなく、同じように眠りこんでしまって、天の国に入れていただく資格がないのに、キリストが下さる油によって天の国に入れていただいたおとめのほうにポイントがあります。主イエスにすがるのです。主イエスに油をいただくのです。私たちは油が無くなったとき、どうすればよいかを知っているはずです。キリストの名を呼ぶということです。 nibanmati
-------------
このたとえを読んで、「5人の賢いおとめと、5人の愚かなおとめ」ではなく、「油を人に分けてあげない5人の意地悪なおとめと、分けてもらえなかった5人の可哀想なおとめ」の話だと感じる人もいるようです。もちろん、イエスが油を用意していたほうのおとめたちを評価していることは確かです。「なぜ油を分けてあげないのか?」そこにこのたとえ話を理解するヒントがあるのかもしれません。この油は「人に分けてあげることのできないもの」を意味しているのではないでしょうか。たとえば「その人自身の生き方」。親は子どもに良いものをたくさん与えることはできますが、子どもの生き方は最終的にその子自身が選ぶしかありません。誰もその人の代わりにその人の人生を生きることはできない、そういう意味で人に分けてあげられないものが問われているのだとも言えるでしょう。
天国のこと、信仰のこと、そこでは他の人は、それが親であれ、夫であれ、妻であれ、どんな親しい人であっても、自分の助けにはならない。そこでは全く一人で、他人に依存することもなく、神の前で人生の決算をしなければならないということ。


年間第21土

マタイ25・14-30

人によっては、「5タラントンと、1タラントンではずいぶん違いがある。神さまは差別しているのではないか?」と、考える人もいるかもしれません。この主人が神さま(あるいはイエスさま)だとしたら、神さまは不公平ではないか?ということでしょうか?‥‥しかしそもそも1タラントンでも大きな額なのです。それに、聖書には「それぞれの力に応じて」と書かれています。何億円もご主人様のお金を預かって、そんなに大きな責任を負うことはできない、と思う人もいるでしょう。多くの額を預かるということは、大きな責任を負うことでもあります。ですから、かえって負担になる人もいるのです。ですからこの主人は、それぞれの人の力に応じて、つまり一人一人を差別しているのではなくて、その人のことを考え、その人に十分無理なく管理できる額を預けた、というべきでしょう。
主人は僕を深く信頼しているからこそ財産を預けることができました。また「それぞれの力に応じて」という深い愛からです。額の大小ではなく、用いたのかどうかが問題です。
「結果の平等」ではなく、「機会の平等」です。
このたとえ話の中で不思議なことは、使ったけれども損をした人が登場しないことです。使った人が必ずもうけている。主人から預かったものを用いた人が必ず増やしているのです。‥‥つまり神さまの与える賜物は、用いれば必ず増えるということです。どんどん増えていくのです。そしてまたそう信じることが期待されています。
 教会の活動もそうです。わたしたち自身は、無力です。しかし、わたしたちに与えてくださる神さまの賜物は、わたしたちの想像を超えて実を結ぶことのできるすばらしいものが与えられているのです。

No comments:

Post a Comment