13 per annum

年間 第13月
マタイ8・18-22

イエスは「人の子には枕するところもない」と言います。ガリラヤのあちこちを宣教し、ときには野宿することもあったでしょう。私たちは、野宿してでも神の愛を人々に伝えたいという気持ちを持っているでしょうか。イエスのように、福音宣教することで、人から賞賛され、見返りを期待し、安定した生活に、「枕して」いないか振り返ってみたいものです。
主よ、あなたに従うための覚悟を私たちの心に注ぎ込んでください。sese07


年間 第13火
マタイ8, 23-27

別の問題で入院中の旦那さんが認知症と診断されました。奥さんは非常に困っています。確かに、これは準備できることではないし、これからどうなるのか、全く分からない世界、恐ろしい世界が開いてきます。まさに、「主よ、助けてください、おぼれそうです」。
何十年夫婦生活をしてきて、自分の力でできていると思い込んでいるなら、平凡に見える日常の中に、それほど神の助けを自覚していないなら、限界に直面しておびえるしかない。今日の弟子たちのように。イエスは眠っているというのは、実は眠っているのは弟子たちの信仰です。いつも共にいてくださるイエスは、「なぜ怖がるのか」と、たしなめながら、より深い交わりへと招かれる。人は困難に逢うと、必死に神の助けを求める。

「信仰の薄い者よ」‥‥なんというありがたいおことばでしょうか。イエスさまは、「信仰の薄い者よ」とおっしゃって、愛想を尽かして弟子たちを見捨てたのではないのです。信仰の薄い弟子たちのために、起きあがって、助けてくださったのです。すると「信仰の薄い者よ」という言葉は、叱られている言葉ではなく、信仰の薄い私たちをも見捨てないで、救ってくださる、あわれみの言葉となります。感謝ではないですか。
信仰の薄い私たちのために、十字架へと向かって下さる主の姿がここにあります。 (niban)主に委ね、信頼して、常にあなたに助けを求める謙虚さをお与えください。


年間 第13水
マタイ8, 28-34

このことは、その地方に豚の群れが飼われていたことに関連付けられます。豚の群れが飼われているとしたら、普通それは食用肉のためであると考えます。しかし、ユダヤ人はモーセの律法によって、豚を食べることが禁じられていました。このことからも、ユダヤ文化より、シリア系などの異邦人の文化が強い地方であることが理解できます。

強調点
ガダラ人の地方に、凶暴な悪霊つきの男が二人いたということ、また、誰も彼らの居る道を通れない程であったということが一つの強調点と言えます。そのような強力な霊を追い出せるということが、イエスの力や権威の強調になります。
 また、この悪霊の追い出しの奇跡では、悪霊が乗り移った豚の群れ全体が湖に駆け下りて溺れ死んだと記されています。たくさんの豚の群れという表現が使われていますが、マルコによる福音書の並行記事では、およそ二千匹という数字が示されています。そのようなたくさんの豚を動かせるということで、いかにその悪霊が強かったかということと、その強い悪霊を追い出したイエスがいかに権威と力有る存在かということが強調されます。
人々の言動でわかること
悪霊につかれていた男達がを使って、悪霊が「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」と言わせています。悪霊にはイエスがどのような存在であるかがわかっていたということです。また、イエスに彼らを苦しめるような力や権威が有るということがわかります。 
 どうしてイエスが悪霊に「行け」と言って許可を与えたかについて、Gillは飼い主がユダヤ人であったら、律法に反して豚を食用に育てていたことへの罰の可能性も有るという見解を示していますが、Barnesなどを読むと、律法は商用の飼育までは禁じおらず、ハスモン朝以前は食べなければ商売として豚を飼育することは許されていたということが書かれています。従って、豚の飼い主がユダヤ人であったか異邦人であったかに関係なく、いかに強い悪霊であったかということと、イエスがそれを追い出すことのできる権威と力の有る神の使者であることを示すためであったと考えるのが良さそうに思います。
町中の人たちが来て、イエスにどうかここから立ち去ってくださいと願ったと書いてあります。Barnesは、豚の損害について文句を言おうとして来たが、イエスを実際に見てその権威ある様子に恐れて、ただ去るように願うしかなかったのではないかというように説明しています。Gillは、その人たちには何かの良心の呵責が有ったので、豚の損害について文句を言わず、もっと酷い災いが来ないように、去るように願ったのではないかという見解を示しています。他の注解では、異教の理解では、奇跡や魔術を行う者が出現すると、その地方には災いが来るということだったので、ユダヤ人的な理解をしてイエスをメシアとして崇めることをせず、去るように願ったのだという見解を示しています。個人的にはこの三つ目の立場がより納得できるように思えます。
マタイは記録していませんが、ルカは、悪霊を追い出してもらった男が、イエスについて行きたいと願ったが許されず、自分の町で神がいかに大きな業をしてくださったかを言い伝えるように命じられたことを記録しています。イエスは異邦人の地方にも、効果的に神の国の到来のメッセージを広げるために、このような方法を用いられたのだと考えられると思います。
今回は、締め括りの言葉などは記録されていません。

この奇跡物語が伝えようとしていること
1)今までの奇跡物語は、病気の癒しの奇跡に中心が有りました。今回は、特に悪霊の事例を示すことによって、病気、疾病という肉体的な問題だけではなく、悪霊という霊的な問題についても力と権威が有ることを示し、イエスが神の使者、救い主であることを示す意図が有ると思われます。
2)また、ガダラ人の地方という、シリア系の人が多い地区での出来事を記録することにより、神の救いの計画は、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも向けられているということを読者に示す意図が有ったと思われます
------------
最近、報道される殺人事件と重ね合わせて考えて見ると、悪霊にとりつかれた人間は、昔のことではない、他人事でもないことがわかります。
悪霊つきは人間社会から追い出され、人の住まない場所、墓場(はかば)に住んでいます。自分ばかりでなく、人をも傷つけ、不幸に引きずり落とします。人から傷つけられまいとして、孤独のカプセルの中に閉じこもり、人とかかわりがないことを自由だと思ったりします。しかし、その孤独に耐え
られなくなると、人のことなどおかまいなく、自己主張の叫びをあげ、人を支配し、振り回します。悪からの解放は、自我の叫びをやめて、神の言葉に服すことによって始まります。
神の国では、すべての悪霊は裁かれ、無力にされます。そのことがすでにイエスによって始まりました。悪霊は必死の抵抗を試みます。「まだその時ではないのに、しかも、ここ、けがれた異邦人の地に来て、私たちを苦しめようとするのか」。けれども、悪霊は神の言葉によって滅ぼされます。(荒
)神の働きを見たい。しかし、それは、波風が立たない限りにおいて‥‥そのように人は思わないでしょうか。しかしイエスさまはどうでしょうか。イエスさまは、ご自分を求める群衆を湖のあちら側に置いたまま、嵐を超えて、やってきてくださるのです。イエスさまは犠牲を払い、弟子たちを巻き
込んで、嵐の海を乗り越えてやって来られた。それはいったい何のためであったかと言えば、この二人の哀れな男を救うためでした。そしてイエスさまから見たら、豚二千匹よりも、この二人の男のほうが尊かったのです。
これが私たちの主イエス・キリストです。主イエスはこの同じ愛を持って、私たちの一人一人の所に近づいてきてくださるのです。その愛は確かです。主イエスは、最後には十字架でご自分を犠牲にして、私たちを救ってくださったからです。ここに愛があります。この愛に支えられて、日々を歩む
のです。
--------------------
今日の福音は私たちを悩ます悪霊について語ります。ある時、自分の生活を振り返り新しい生活を始めようと思っても「あれをやめたら楽しみがなくなる」「あの人が間違っているのであって、自分は正しい」などという思いが私たちの心を混乱させることはないでしょうか。
悪霊たちが、水の中で死んだという表現は、出エジプトでのエジプト軍の全滅や、洗礼での罪のゆるしを思い起こさせます。
悪霊が「神の子、かまわないでくれ。」「ここに来て、我々を苦しめるのか」と叫んだのは、悪の力が、イエスの前では勢いがなくなることを示している。私たちは日々の生活の中で、イエスの存在をどれほど歓迎しているだろうか。祈るための時間はなくても、テレビを見たり遊ぶ時間は十分に(たっぷり)取るなど、もしかしてイエスより悪の力を歓迎しているのではないだろうか。いつも共にいてくださるイエスに、「えらい邪魔だな」と思われるときでも、心を向けることができますように。

年間 第13木
マタイ9・1-8

身体の病を治す医者は社会の中でかなり高い地位をもち、人の命を預かる権威をもっています。
体の病気よりも愛にそむいた罪、心の傷の方は深く、重くて、どこに行っても、いかに時間がたっても消えません。人々の罪を数えることで自分たちを権威付けていた一部の律法学者たちは、イエスが人々の罪を赦すのを見て神への冒涜だと感じます。もし律法に違反した罪が簡単に赦されるのならば、彼らの権威も簡単にゆらいでしまうと思ったのでしょう。律法学者たちは、自分たちこそ神の権威を持ったものであり、イエスではないと言いたかったのでしょう。イエスはその考えを見抜き、本当の権威が誰にあるのかを示されます。わたしたちの中にも、他人を罪に定めて自分を権威付けようとすることはないでしょうか。主よ、あなたは本当の力と赦しを持っておられます。あなたにすべてを差し出し、従うことができますように。
------------------
ダビデはこう祈りました。「詩篇51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。
わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。 51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。 51:10 喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。 51:11 わたしの罪に御顔を向けず/咎を
ことごとくぬぐってください。 51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」キリストは神の赦しを地上にもたらします。「人の子」イエスは神の栄光と力を示し、天地の創造主のいつくしみにたち戻るように人々を招きます。「天と地のすべての権能は私に与えられた」(マタイ29・18)。罪と病気から回復させる権能は、神にのみ属する権能ですが、復活さ
れた主イエスは、ご自分に与えられた権能を、さらに弟子たちに与えました(マタイ16・19、18・18)。
----------------
安息日に中風の人を癒したイエスをとがめた律法学者のように私たちはなかなか、良い行いをありのままに認めることができない。発言力の弱い人の立場に立つ人を、規則に沿わないとか効率が悪いという理由で社会から排除しがちではないだろうか。
イエスに倣って、真実を見つめる眼差しと、癒しあうことの出来る共同体を作る勇気を与えてください。
--------
Genesi 22

Il punto più emozionante del dialogo — a cui si aggiunge Dan, un amico giornalista ebreo e ateo — giunge con il disvelamento del sacrificio di Abramo. Al Dio (Elohim, nel testo ebraico) che sembra esibire un’arbitrarietà pu- ra, perché si presenta ad Abramo chiedendogli il sacrificio del fi- glio, si contrappone un altro Dio (Yhwh, nel testo ebraico) che gli trattiene la mano, segnando la fi- ne dei sacrifici cruenti. Tutto l’episodio viene di conseguenza interpretato come una sorta di vaccinazione spirituale, così de- scritta da Simon: «La Genesi racconta che si può arrivare al vero Dio credendo in quello fal- so, e che un po’ alla volta si può passare dal sacrificio assurdo all’alleanza di vita».

un libro della psicanalista francese Marie Bal- mary, uscito nel 2005 (Paris, Éditions Albin Michel) e nel 2008 pubblicato in Italia dalle Paoli ne: Il monaco e la psicanalista.

Osservatore romano 24 agosto 2013


wə·hā·’ĕ·lō·hîm, וְהָ֣אֱלֹהִ֔ים  God

mal·’aḵ מַלְאַ֤ךְ  the angel  Yah·weh יְהוָה֙ of the LORD


創世記 / 22章 1節

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

11:創世記 / 22章 11節

そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、12: 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」



年間 第13金
マタイ9・9-13

「キリスト教は普通の人間を罪びとに仕立てて、重い罪悪感を持たせて、行き着くは生きる喜びを奪い、奴隷根性を与える。自分は罪びとだと思う人は、死ぬまで教会(聖職者)に頼らなければならないからです(一生返せない仮を作ってしまう)」といったのは哲学者ニーチェです。彼は、罪のことなど考える必要はない、もっと自然に、自由に気の向くままに楽しく生きるべきです。キリスト教以前の価値観に戻るべきだと訴えました。ここに現代社会の一つの大きな流れを認めることが出来ます。キリストは「来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」という言葉には深い哲学が潜んでいます。本当の自由、本当の喜びは実は自分が罪びとだと考えることから始まります。
------------------
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とイエスは言われた。私たちの内には、嫌いな人を排斥し、格好よい人を尊敬する傾向があるようですが、イエスの生き方はこれとは正反対で、誰一人として差別することなく、どんな人をも歓迎します。イエスの生き方に倣い、いやな人を受け入れることができるよう導いてください。
-------------
人は誰でも、他人との比較の中で生きています。だから、劣等感は必ずつきまといます。優越感と劣等感は、表裏一体、時には表、時には裏と顔を変え形を変えてて心に現れます。そんな中で、何とかして、自分は自分という誇りと、立ち位置を見つけながら、人は生きているのです。
人は、他人と比べて、劣等感を抱いたり、優越感を抱いたり、他人を差別して自分の立ち位置を確かめたり、敵と味方に分かれて闘ったり、争ったり憎んだり、ドロドロした愛憎の世界を作り出すことように造られているのではありません。
優越感にしがみつくのは傲慢です。けれど、劣等感に閉じこもるのも傲慢です。いずれも、過剰に自我に執着しています。傲慢は病です。魂の病です。だから、私たちも医者を必要としています。


年間 第13土
マタイ9・14-17


イエスの時代には、信仰熱心な人は週に二度、月曜日と木曜日に断食をしていました(ルカ18・12)。その他に災難の時や、悲しみの日に人々は断食をしました。現代でも、災難で死者がでると、私たちは一分間の黙祷をすることがあります。けれども本当にその人たちの死を悼むのであれば、一分ではなく、一日でも、あらゆる娯楽を慎しんで、祈りと断食をしたらよいと思います。一分だけでは、ちょっと偽善者のように見えるかもしれない。
とにかく、キリストのもたらした福音はユダヤ教の手直しではなく、仏教の手直しでもなく、日本の伝統的な宗教への継ぎ当てでもなく、「虐げられている人々」の解放運動(解放の神学のLiberation、J.B. Metzの政治神学のEmancipation参照)という政治的プログラムへの付足しでもなく、全く新しいものなのです。
もしかすると、私たちにはその新しさは何なのか、ピンとこないかもしれない。あるいは、若いときにわかった、洗礼を受けた時に分かったが、今はそれを見失ったかもしれない。ですから、新しい生き方、キリストの考え方・感じ方・振る舞い方を選び取っていく、選びなおしていく生き方は、何なのかを知る恵みを願い求めましょう。

-----------
かつて、1970年頃の時代というのがありました。それまでの古い秩序に疑問が出され、学生は教授をつるし上げ、ゲバ棒を持って街頭に繰り出しました。古い価値観が否定され、既成の観念が破壊されることが新しいことだとされました。

そういうとき、キリスト教会もまた大いに揺れました。古い価値観を否定するといった風潮が教会にも流れ込み、それが「聖書を疑う」ということへとつながっていきました。そして、「イエスはキリストではない」とか、「イエスは弱いものと徹底的に連帯して生きた革命家である」というような、イエスさまを、毛沢東やチェ・ゲバラと並べるようなことまで起きました。聖書の中の奇跡を否定し、復活を弟子たちによる作り話だとし、唯物論の影響を受けたものもありました。そして、「復活だ奇跡だということよりも、社会的弱者と連帯して生きたイエスのように行動することがキリスト教だ」と叫ばれました。そういうことが、「新しいこと」とされたのです。そして、牧師という職務を否定したり、礼拝をやめてしまって、会堂でイスを丸く並べて、礼拝の代わりに討論会にしてしまったような教会もあったと聞きます。
こういうことは、「新しい」というものではなく、すべて破壊しただけで、何も生み出すことはできませんでした。その結果、教会は長い混乱の時代に入ってしまい、低迷していきました。宣教とはすべて神の奇跡です。人を主のもとに導くというのは最大の奇跡です。その奇跡を否定してしまった
のですから、宣教になるはずがありません。
ですから、破壊ということと新しくするということとは違うのです。変える必要のないもの、変えてはいけないもの、それは教会にとっては聖書であり、教会の信仰告白であり、イエス・キリストの福音です。
一方、変わっていくものがあるはずです。「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。」(詩編96:1)とありますし、コリントの信徒への第二の手紙5:17には、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」とあります。神様の恵みはいつも新しいからです。
時々私は、ヨハネの黙示録を引用して、「天国は暇ではない。天国に行っても、ずっと飲んだり食べたり昼寝しているのではない。天国では礼拝をしている」と語ります。確かに黙示録を読むと、神の国では、玉座にいます全能なる神と、その右に座しておられるイエス・キリストを賛美し、礼拝し
ている光景が、何度も繰り返しでてきます。神を賛美し、そして神と小羊なるイエス・キリストから、新しい御言葉が語られる。そこで新しい感動があるのです。だから神の国ではそれこそ、いつも「新しい歌」が歌われるのです。地上の礼拝は天国の礼拝を映し出すものなのです。  そうすると、中には、「天国の礼拝も退屈そうだ。いつも同じ神様が御言葉を語るのでは、飽きてしまうのではないか?」などと思う方もいるでしょう。けれども、そのようなことはないのではないかと思います。なぜなら、神様というのは永遠、無限の方です。いっぽう、わたしたちは宇宙から見たらまったくちっぽけなものです。チリのような存在です。宇宙のこと、また反対に、わたしたちの目の前にある物質がいったいどのようにして成り立っているのか、というミクロのこと、わたしたちはそれすらも分からないのです。ではどうしてそれらを造られた永遠・無限の神様のことを知り尽くすことができるでしょうか? わたしたちは、天国の礼拝においては、いつも神の新しいメッセージに心を新たにされ、新しい歌を歌い、永遠に成長していくのです。神の国においてはさらに変えられ、成長していくのです。退屈なのではない。新鮮な神のメッセージを常に聞くことができる。永遠に新しく変えられていくのです。 神は古くて新しい方である。古いというだけでダメになるのではない。神はもっとも古いお方である。そして神は同時に、もっとも新しいお方でもある。 nibanmati
------------------
福音の新しさ

2コリ 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
マルコ1:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
1コリ11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

福音はいつも新しいはずです。よそに新しさを探す必要はないはずです。
---------------
今日のみ言葉で、ぶどう酒は洗礼を通していただく恵み、皮袋は私たちの生き方と考えられます。洗礼を受けた後も、古い生き方にしがみついていると皮袋は破れ、いただいた恵みは無に帰し、神と共に生きるという最高の喜びを見失ってしまうのではないでしょうか。
新しい生き方、キリストの考え方・感じ方・振舞い方を選び取って生きて行くことができますように。

No comments:

Post a Comment