6 per annum

年間 第六月曜日
今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。
マルコ8・11-13

しるしを求めるその奥に何があるのでしょう。イエスを試そう(従う)とするその奥にも何があるのでしょう。
イエスとの出会いは、その奥にあるものを自分自身が見て、それをイエスに差し出すことでしょう。
「しるし」というのは、本来コミュニケーション、意思疎通をはかるためのものです。ところが、ファリサイ派の人々は、「イエスを試そうとして」しるしを求めているとかいてあります。つまり、キリストを理解するためではなくて、キリストと競走するためです。しるしを理解するために、まずそれを受け止めて解釈する、つまり聴く姿勢が求められます。例えば、外国の人は日本に来て漢字というしるしを理解するためにまず開かれた姿勢、聴く姿勢が求められます。日本に来てすぐ自分の国に帰るなら、漢字を勉強する努力をしないかもしれない。そしたら、その人にとってはしるしは与えられていないということになります。同じように、キリストが絶えず与えているしるしを受け入れる姿勢がなければ、今の時代の私たちにも、「しるしは与えられない」のです。

年間 第六火曜日
ファリサイ派のパン種に気をつけよ。
マルコ8・14-21


「神は私たちに成功するように求めていない、忠実であるように求めておられる」(マザー・テレサ)

 "神の国を建設のために"という言葉をよく聞きます。そのために二つの「M」が必要と言われます。ヒト・モノ・カネー「Man power」と「Money」です。この世での動きのためにはそうでしょう。しかしイエスが言われるのもそうでしょうか。弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、船の中には一つのパンしかがありませでした。お金と人がいないとできないというのはファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種。この世の時の流れを遡らなければ神の国の建設はできないでしょう。
「わずかなパン種が練り粉全体をふくらませる」というコトワザ(格言)がありました(ーゴリント5.6、ガラテヤ5・9)。イエスのことばに対するわずかな悪意でも、イエスの真実の姿を見えなくさせます。弟子たちの無理解はファリサイ派と同じ立場へつながっていきます。舟の中におられる唯一のパン、イエスに対する信頼がなければ、パンの奇跡も恵みのしるしにはなりません。水の上を歩かれても、心の頑なさのためにイエスを認めることができません(マルコ6・52)。
この物語の背景には、イエスに対する信仰の欠如が、キリスト教の宣教の失敗になった、その苦い挫折の体験が感じられます。神の恵みがいかに豊かに注がれても、人間の自由な応答が必要なのです。


年間 第六水曜日
すべてがはっきり見えるようになった。
マルコ8・22-26

ベトサイダの盲人の癒しの直前にこういうことがありました。8章18節をごらんいただきたいのですが、イエス様の言葉を聞いても理解せず、見当違いな心配をしている弟子たちに向かって、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」と、イエス様がお叱りになるという話です。
 確かに、私たちには弟子たちのように「目があっても見えない」ということがあるのです。逆に言うと、物事をはっきりと見るためには目で見ているだけでは駄目だということではないでしょうか。「百聞(ひゃくぶん)は一見にしかず」という言葉もありますが、「見る」ということは意外と心の状態によって影響されるのです。
ガラスを見て、不満げに半分しかないという人もいれば、喜んで半分もある、という人もいるでしょう。
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人を人たらしめるのは何でしょうか。時々、人と出会って、形は人でも中身は人ではないと感じる時があります。今日の福音の盲人は何でもはっきり見えるようになりました。というのは外も中もよく見ることができたのでしょう。自分は、歩いている木のようなものではないかと想像して見て見ましょう。
人を見ても、木のように平面的で無表情に見えることがあります。心が沈み、すべてが灰色なのです。そのような状態から、ある日、突然、生きかえるような体験をすることはないでしょうか。イエスと出会いによって世界が新しく見える、より希望的に見える。

草も木もすべてが生き生きと語りかけてきます。自分の顔にも喜びの表情がもどっています。一人ひとりが精一杯生きているのを実感します。花が咲き、魚は泳ぎ、鳥が飛んでいる自然を、ありがたいこととして、恵みとして感じるようになります。すべてがはっきり見えるのです。
マルコはわたしたちが日々の生活において体験する恵みを、盲人の奇跡物語を通して語ったのではないでしょうか。
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第二ヴァティカン公会議以前の洗礼式では、司祭は受洗者の舌につばをかけて、「エッファタ」(開け)と述べて、悪霊からの解放を祈りました。病者の秘蹟では油を塗り、病者に心身の健康が与えられるように祈ります。つばや油を塗る行為は魔術の行為と似ていますが、教会の典礼行為は魔術と根本的に違います。魔術は神の名を利用し、神の力を奪おうとしていします。教会の祈りは神の絶対的支配を認め、神がお望みなるなら、いつくしみを注いでくださいと願います。 イエスは新しい天地創造のように、人を造りなおせます。耳の聞えない人が聞えるようになるなど、それはイザヤの予言が成就しているのです(イザヤ35・5-6)。又人々の賛美のことばのうちに、天地創造の神の業に対する賛美が反映しています(創世記1・31)。(荒)


年間 第六木曜日
あなたメシアです
マルコ8・27-33

どうしてイエスの死が、わたしたちの救いになるのでしょうか。イエスがメシアだと認めましょう。しかし、そのメシアがなぜわたしたちを救うために死ななければならないのでしょうか。メシアは人を救うからメシアといえるのであって、殺されてしまうならメシアといえないではありませんか。このような疑問を持つわたしたちにイエスは言われます。「サタン、退け。あなたの思いは神のものではなく、人間のものである」。
では、神の思いとは何でしょうか。十字架の死という形においてしか、わたしたちの心に愛をよみがえらせることができませんでした。それが十字架の秘義であり、世の救いの根本問題です。「人の子は仕えるため、多くの人のあがないとして、自分のいのちを与えるために来た」(マルコ1O・45)。
「あなたはメシアです。」と素晴らしい信仰宣言をしたペトロは、その直後にイエスから「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている。」と厳しくとがめられます。
苦み、影、暗闇を拒否し、栄光、光り、幸せ、だけを求めるならばペトロのように言われるかもしれません。私たちもみんな影と光を持っています。自分の弱さ、影、辛い部分を育てて光の方に向けるのが神様の望みでしょう。



年間 第六金曜日
十字架をになって、わたしに従え。
マルコ8・34ー9・1

私たちは十字架を身につけたり、壁に掛けたりします。それらは見せる十字架です。私たちは、自分なりの荷を背負いながら、それを軽くする方法を探しています。しかし誰にも見せたくない荷もあります。それが私たちの本当の十字架ではないでしょうか。イエスは自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいといわれました。自分と神だけが知っている私の荷を背負ってイエスに向かいましょう。
「群集を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」とありますから、この教えは、特別な人に向けたものではなく、すべての人に向けられていることは分かります。
永遠のいのちを受けるかどうかは、この地上でイエスのことばを恥じず、イエスに従い、十字架の道を歩くかどうかによります。未来の裁きが、いま、ここで行われます。「わたしのためにいのちを失う者は、それを得る」(マタイ16・25)ということばに、マルコは「福音のために」ということばを加えています(マルコ1O・29も参照)。
キリストの愛の裁きは、すでに十字架の死と復活によって始まりましたが、最終的に明らかになるのは世の終わりの完成においてです。そのとき、主・キリストは霊魂と体を持つ人間すべてを愛のうちに受け入れます。
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頭で分ってはいても、自分だけはこの世の終わりまで生きていけると根拠の無に錯覚に陥っていないでしょうか。
主よ、悟らせてください。命は流れて留まることなく、すべてを運んでゆくことを。虚無という死に向かうのではなく、人生が満ちる時に向かっているのだと、いのちはしがみつくものではなく、人生の一瞬一瞬が生き生きと目の前に現れ今を生きるものであることを。

年間 第六土
エリヤはすでに来たのだ
マルコ9・2-13
イエスの時代の高い山と言っても、実際の高さではなく祈りにおける高さではないでしょうか。祈りの中では、誰でも高い山に登れます。そして、肝心なことは、祈りの中で体験したことを自分の現実の生活に生かし、実現させること、それが祈りの実りと言えるでしょう。
エリヤについては、権力者から命を狙われたことが書かれている(列王記上一九・二、一〇)。そのように、名前はあげられていないが、ヘロデによって処刑された洗礼者ヨハネが再来のエリヤであり、彼の苦難は「人の子」の受難の先駆であるとされている。

山上での変容は、山を下りる時の対話が示唆しているように、「人の子」としてのイエスの栄光の啓示であった。すでに明白な言葉で語り出された「地上で苦しみを受ける人の子」が、じつに終末的な神の支配をもたらす天上の栄光の主であるという秘密が、特別に選ばれた三人の弟子たちに直接神から啓示される出来事であった。その秘密はイエスの復活の宣教によって世界に公示されるようになる。けれども、「人の子」という表現は本来神の終末的支配の体現者を指すものであるから、変容はイエスが栄光の中に世界に来臨される主、再臨のキリストであることを予告する出来事という意義を持つことになる。マルコは先に彼の福音の中心的使信として「苦しみを受け復活する人の子」のことを語り(八・二七~三三)、その後この人の子イエスに従う弟子たちのことを置き(八・三四~九・一)、続いてここで「六日後」の栄光の人の子の来臨を語る。これはマルコが、十字架・復活のキリストの出来事の後、世界史の中で十字架を担うエクレシアの時代を経て、「六日後」に栄光のキリストの来臨を迎えることになるという救済史を提示しているのではなかろうか。このような救済史の構造は、(学界で主張されているようにルカに特有の思想ではなく)パウロを含めて使徒時代の福音に共通の構造であったように思われる。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_046.htm#top

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