26 per annum pari

年間第26月

ルカ9・46-50

遊び疲れたのだろうか、親の腕の中でぐっすりと眠っている子どもを見かけることがある。
全てを親に委ねきった子どもの姿がある。自分の能力や努力に重きを置くと、
そこには絶えず人との比較がつきまとう。我意ではなく、神の思いに重心を移してみよう。
腕を広げて待っている、慈しみ深い父である神の姿が見えてくる。

年間 26火
ルカ9・51-56

キリストの弟子はキリストに従う歩みの中で反対、無理解、あるいは無関心に出会うことがあります。そのとき、キリストのように迫害者をゆるすように戒めています。神様を信じないと、キリスト教を信じないと呪われるぞと脅して福音を宣べ伝えるのではないということです。
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イエスを歓迎しなかった村を、弟子たちは罰しようともちかけます。しかし、イエスはそのような弟子たちを戒められました。なぜでしょうか。イエスは、人々が自由にイエスを選ぶことを望まれたのではないでしょうか。サマリアの人々がイエスを迎えなかったのは、イエスを選び、信じるための時が熟していなかったからではないでしょうか。その時を決めることができるのは、神だけです。
イエスはそのことを弟子たちに諭したのではないでしょうか。わたしたちは、自分と違う意見を持った人に対して、相手の意見を変えようとあせることがないでしょうか。人の心を変えられるのは神だけです。誰かを説得しようとするよりも、その人のために祈り、神の時に委ねることができますように。sese
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弟子のヤコブとヨハネはとんでもないことをいったのです。これもまた党派性、自分たちの仲
間だけが偉いんだという党派性むきだしの思いであります。現代風に言えば「原理主義」といったところであろうか。
ヤコブもヨハネもあの山の上での神秘的な出来事を経験した者たちであります(主の変容)。宗教的神秘的な体験しても俗っぽい人間のままです。
 それに対してイエスは、「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方である」といい、またサマリヤの村を焼き払いましょうかというヨハネとヤコブを叱ったのです。イエスはますます「不信仰で曲がった時代にいつまで我慢できようか」という嘆きを強くもったのではないかと思います。 
 そうした中でイエスは天にあげられる日が近づいたので、エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔を向けられたというのであります。イエスがどんな思いで十字架の道を歩もうとされたかがわかるのです。 http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke32.htm



年間26水
ルカ9・57-62


 “弟子”と言うと、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか? 私は真っ先に、“職人の世界”を思い浮かべました。大工であったり、伝統工芸であったり、いたまえ、何かを作る職人の世界では、それを始めようと思ったら、まずその道の棟梁(とうりょう)や師匠に弟子入りすることが多いと思います。そこで棟梁や師匠に、その道の技術と心を厳しくたたき込まれる。習い覚える。そうやって段々と成長し、一人前になって行く。そして、独り立ちしても、棟梁、師匠を仰ぎながら、その教えを心に刻(きざ)んで、その道を歩き続けていくのだと思います。そう言えば、茶道(さどう)や華道(かどう)でも、お弟子さんと言いますね。料理の世界で、どこかの店で修業することも“弟子”だと言って良いでしょう。

だから、自分はこの職場に、この家庭に、この学校に、この修道院に、この教会に “ここに”置かれた。神さまのご計画によって、この人生に召されたと信じて、自分の生活を引き受ける。自分の問題や悩みも引き受ける。目をそらさない。逃げない。投げ出さない。人のせいにしない。神さまが共にいて、私を支え、導いてくださると信じて生きる。それが、イエスさまに従う弟子の道だと思います。
 「わたしに従いなさい」。イエスさまは、私たちを弟子に招かれます。既に洗礼を受けている者も、繰り返し御言葉を通して招かれます。その声を心に受け止めて、“私はイエスさまの弟子だ”という感謝と誇りを持って、この道を歩いて行きましょう。
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私たちは「イエスに従います」と祈りつつ生活しています。しかし、都合が悪くなると自分の穴に入ってしまいます。イエスの呼びかけが解かっていても、「これがすんでから」「このことが納得できたら」と、その呼びかけの瞬間を大切に扱いません。この世の思い煩いや過去へのこだわりは、神の国を遠ざけてしまいます。
主よ、常に私たちに使命を示し、呼びかけておられるイエスの声に敏感になるようにしてください。「今」を大切に生きる真の知恵と恵みをお与えください。sese
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イエスは「私に従いなさい」と呼びかけています。今日の福音ではこの呼びかけに対して、様々な人が違う形で答えています。私の答えはどうでしょう。私はイエスにどのように従いたいのでしょうか。
イエスに従うことを後にしているのでしょうか。それとも、イエスの招きにすぐ応えているのでしょうか。イエスに従うということは、ある特別な時のことではなく、日常生活の中での人との関わりや一瞬一瞬の自分の決断において行うべきことでしょう。そのためにも常に祈りを通して、イエスとつながっていることが必要でしょう。
神の国にふさわしい人になるために、いつもイエスの呼びかけを優先し、忠実に従うことができる恵みを願いましょう。sese

年間26木
ルカ10・1-12

「途中でだれにも挨拶するな」と命じておられる。一見奇妙なこの命令は、当時のベドウィン的な環境での挨拶の慣行から、たとえばキャラバンに挨拶して一行に加えてもらうよなことを含んでいたと考えると理解しやすい。この命令は身の安全のために使命の緊急性を忘れるなという意味になる。これは目的地につくことに専念しなさいということだそうです。当時の社会ではあいさつするには一定の流儀というものがあったらしくて、そこでいたずらに時間をとるなということのようであります。あるいはあまり八方美人的になるなということかもしれません。
イエスが私に言われる、「行きなさい」と。私の背中をプッシュして。神の国のメッセージを伝えなさい、と。何を伝えるか、イエスが決めておられるようだ。私は、導かれるままに、導かれるところで、人に出会い、平和を願って語ろう。
あなたの望まれるところに私を遣わし、いつも共にいてください。sese
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イエスは今日の福音箇所で72人の弟子を派遣します。同じように私たちキリスト者も皆、福音を告げ知らせるためにキリストによって派遣されています。特に現代では、信徒が派遣の使命を果たすことに大きな期待がかけられています。福音宣教のために第一に必要なのは、すべての人に対する御父の愛を伝えたいという望みでしょう。そのために私たち自身が御父の愛に信頼している心の平和を保っていることが必要です。
今日、召し出しのために祈り、キリスト者皆がイエスから受けた福音宣教のミッションを喜んで生きる恵みを願いましょう。sese

年間26金
ルカ10・13-16
今日のイエスの言葉はいつになく厳しい。神の愛を受け入れない頑なさを戒める言葉である。
一体何を、なぜそれほどに、イエスは執拗に伝えようとしたのだろうか想像してみよう。
「お前は不幸だ」と言って嘆かれる主イエスの前に立つ。神の恵みに気づかないのは不幸だ、と聞こえてくる。呼びかけに応えて生きているかどうか、今歩んでいる道を、もう一度振り返ってみたい。
主よ、あなたの喜びが私の喜びとなるように、私の歩みを導いてください。
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今日の福音ではイエスの厳しい言葉が語られ、イエスのいらだちとも言える感覚が伝わってきます。
それは人々がなかなか彼のメッセージに「耳を傾けず」「拒む」からですが、逆にそれほどまでのイエスの神と福音にかける熱情を感じさせます。イエスに従おうとする私たちはそれほどまでの情熱を持ってイエスに耳を傾け、そのメッセージを周りの人々に伝えようとしているのでしょうか。
イエスのように私たちの心を燃え立たせていただけるように祈りましょう。sese
私たちがイエス様のその強いお心に気づかずに、背を向けて生きるならば、そこにはイエス様の激しい悲しみ、嘆きがある。私一人がどうなったからといって大したことではない、そういうことではないのです。その時にイエス様は、胸がつぶれるような思いで嘆かれる。それほどの強い思いをもって私たち一人ひとりを見ておられるのです。そしてこの箇所のようにイエス様は嘆いていらっしゃるのです。
キリストの弟子も、キリストと同じように、無視され、あるいは拒まれることがあります。けれども、私たちに対する無関心、侮辱などはキリストへの無関心、侮辱(十字架)とされ、キリストはそれを新たな力、希望に変えてくださるのです。

年間26土
ルカ10・17-24

今日の福音ではイエスが喜びに溢れて語られます。その喜びは派遣された弟子たちによって福音が伝えられたことによるものです。その弟子の多くは無学で貧しく「小さな人々」だったでしょう。そういう人たちだからこそ神さまの力は無限に働きます。人間の能力によって妨げられないからです。
イエスを通して、そして小さな人々を通して神の国が訪れます。私が神に頼るときにも同じことが起こります。
今日、幼子のようにイエスに信頼し、みことばに従い、神が私を通して働かれますように。
 

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