20 per annum

年間第20月

マタイ19・16-22

金持ちに対するイエスさまの言葉を聞いて、わたしたちは、「ああ、自分は金持ちでなくて良かった」と言うのでしょうか?
 しかしわたしたちもまた、この青年ほどではないにしても、持ち物を有し、そしてそれを売り払って貧しい人に施すことにできない自分を発見するでしょう。ですからわたしたちもまたこの主イエスの言葉を聞いて、悲しい顔をしなくてはならないでしょう。もしこのイエスさまの言葉を聞いて、何も感じないとしたら、わたしたちはまじめに主イエスの言葉を聞いていないのです。中途半端にしか聞いていないのです。もしそうだとしたら、わたしたちよりも、悲しみながらイエスさまの前を去って行ったこのお金持ちの青年の方が、ずっと良いということになるでしょう。
 わたしたちもまたこの主イエスの言葉を聞いたときに、驚き、悲しみ、嘆いて立ち去る思いになるのが、本当に主イエスの言葉を聞いているということになるでしょう。
 あるいは、全財産を施して、主イエスに従った人がいるかも知れません。実際にそういう人もいるのです(例えば、修道者)。しかしもしそうしたとしても、わたしたちの目の前にはコリントの信徒への第一の手紙の13章3節の聖書の言葉が立ちふさがります。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」‥‥たとえ全財産を貧しい人のために施したとしても、「愛がなければ」何の益もないと言うのです。言い換えれば、何のために貧しい人の全財産を施すのか、ということです。もしそれが、「自分が天国に行って永遠の命を得るために、全財産を貧しい人に施す」というのであれば、それはその貧しい人を愛するという心から出ているのではなくて、自分が救われるために貧しい人を利用するということになってしまうのです。だとしたらそれは完全でもないと。
完全になるということはなんとむずかしいことでしょう。完全になるということは、まさに「ラクダが針の穴をとおる方がまだやさしい」と言えるでしょう。そのように考えていったとき、わたしたちは弟子たちと同じように、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言わざるを得なくなるでしょう。完全な人などいないのです。「私は神の御心に従って、完全に神さまの御心を行ってきました。だから天国に入れてください。永遠の命を与えてください」‥‥そのように言える人などいないのです。「わたしは、善いことをしてきました。だから天国に入れてください」などと言える人はいないのです。私たちが言うことができるとすれば、「主よ、罪人の私をあわれんでください」という言葉だけです。 この金持ちの青年のもったいなかったことは、自分が完全ではないことを知って悲しむまでは良かったのですが、そのあとイエスさまの前を立ち去ってしまったことです。しかしもしこの青年が、今自分の目の前にいる方が、「人間にはできることではないが、神は何でもできる」とおっしゃる方であることを知ったならば、違ったことでしょう。目の前にいるイエスというお方が、不完全で罪人であるこの私たちのために、十字架にかかってくださる方であることを知ったならば、立ち去ることはなかったでしょう。むしろこう言ったことでしょう。「主よ、罪人の私をあわれんでください」と。
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私たちはたれでも弱点を持っています。しかしその弱い部分を人に見せたくない、自分も見たくないのです。たいてい弱点は奥深くに隠しているので簡単に触れることはできません。自分の弱点を認めなければ完全になるのは不可能です。
触れられたくない、手放したくない私の密かなこだわりを主に従うために開け放していくことができますように。
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人は誰でも弱さ、欠点、欠けているものがあります。難しいのは、事実、本人自身がそれに気づいていないあるいは認めたくないことが多いのです。聖人といえども完全、完璧な人ではありません。
聖なる人とはそれを自覚し、認め、神の助けを求める人ではないでしょうか。今日は、神のみ前に
謙虚にこのことを悟り、ありのままの自分を差し出す恵みを願いましょう。





年間第20火

マタイ19・23-30

イエスは弟子たちに「金持ちが天の国に入るのは難しい」ことを語ります(一九・二三~二六)。そして、その難しさを、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエスらしい比喩で重ねて強調されます。この比喩は、金持ちが天の国に入る難しさを誇張したユーモラスな表現です。「針の穴」はエルサレムの城壁にあったごく小さいくぐり穴を指しているという解釈は必要ないでしょう。
この「難しさ」は、人間が最高の能力を発揮しても達成できないという種類の難しさではありません。自分を無とすることの難しさです。イエスが金持ちの青年に財産を放棄することを求められたのは、今まで掟を守って行った善行にさらにもう一つの高度の善行を加えるように求められたのではなく、自分の善行や価値に頼る立場を放棄することを求められたのです。自分を放棄することは、資産や地位や教養などを多く持っている者ほど難しくなります。そういうものを持たない者、自分に頼るものを何も持たない「貧しい者」が神の国に入るのです。イエスの神の国の告知は、「貧しい者は幸いである。神の国はあなたがたのものである」で始まっています。
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人は皆、自分の家族の絆を大事にしています。しかし、イエスのために父、母、兄弟、姉妹を捨てるということば通り単純にとるとしたら、皆が一人暮らしになるかもしれません!しかし、イエスのたとえ話しは、世の考えや常識では計られません。イエスが何を云わんとしておられるのでしょうか。
神の国は捨てたものが百倍の報いを、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になるのです。その真意を汲み取る恵みを願いましょう。sese07
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今日のイエスの言葉は、救いの難しさを感じさせます。信仰というのは難しいことをあきらめることではなくて、そこに希望をもつことです。限界に直面する時こそ、強くなれるのが信仰の神秘でしょう。
自分の貧しさを認め、主により頼んで従っていく恵みを与えてください。



年間第20水

マタイ20・1-16

神の思いと人の思い神の正義と人の正義は如何に違うことでしょう。その間には推し量ることのできない開きがあるようです。それでも神は人からの応答を必要とされます。その応答なしに神の国には入ることが出来ません。われわれの応答とは出会うために自分から出て行くことです。主よ、自分から出てあなたの思い、あなたの正義に出会わせてください。sese07
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農業にとって、収穫の時期というのはとても大切な時期であることは言うまでもないことでしょう。特にブドウなどの果物の収穫というのは、その収穫するタイミングというのが、1日遅くても早くても上質のものが取れないというほどのものだそうです。昼の12時に雇った労働者は夕方6時まで6時間、そして午後3時に雇った労働者は、3時間しか働く時間がありません。しかしこの主人は、そのように何度も広場へ足を運んで、人を雇うのです。
 しかもそれで終わりではありません。全く驚いたことに、この主人は、なんともう夕方になってしまった午後5時にも、広場へ出かけていって、労働者を雇おうとするのです! 午後5時に雇ったとすると、日没まで1時間しかありません。これは、いくらぶどう園が忙しいと言っても、全く割に合わないことではないでしょうか。1時間しか働けないのに、わざわざ広場へ行って労働者を雇おうとするなど、この主人はまったくどうかしています。まるで、ひとりでも雇われないまま家に帰るものがいないように、わざわざ人を捜し回っているとしか思えない。おかしな主人です。
多く働いた者の不満が爆発!
みなさんは、どう思われますか? みなさんは、このたとえ話を読んで、どのように思われましたか。朝から働いた者と一緒になって、口をとがらせて、この主人を非難しますか?
 このたとえ話を読む時に、大切なことは、「ではわたしはこの登場人物の中の、だれに該当するだろうか?」ということです。朝一番に雇われた人ですか? 午前9時に雇われた人ですか? あるいはせめて昼の12時に雇われた人ですか? それとも、夕方5時になって雇われて、1時間しか働かなかった者ですか? ‥‥あなたは自分が、このうちのどの人にあたると思いますか?
そして実は、わたしたちは、本当は、みんな、この最後に雇われた者なのです。
わたしたちはみな、実は夕方5時に雇われ、1時間しか働かなかったものです。1日分の正当な支払いを受ける資格のない者なのです。罪人なのです。不十分な者なのです。神の子とされる資格のない者なのです。神様のすばらしい祝福を受ける資格のないものなのです。にもかかわらず、わたしたちが主イエスのみもとに行く時、主イエスはわたしたちについておっしゃるのです。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と。すばらしい神の恵みです。nibanmati
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人の寿命は様々です。こればかりは人間には決められません。人の目には、長く働いた方が良いことのように思われます。しかし神から見ると、私たちの価値は働いた時間で決められるのではなく、どのような心で生きたかにかかってくるようです。主の完全な愛の内に留まり、いつも喜び、感謝して生きることができますように。



年間第20木

マタイ22・1-14

大通りを歩いている人を誰でも連れてきたのだけれども、礼服を着ていない人が一人いたというのです。そしてその人を外に放り出したというのです。そうすると、先ほどまでの喜びに、冷や水を浴びせられたような気分になります。「本当にわたしも天国の婚宴の席に招かれているのだろうか?」と。「わたしは結局この人のように外に放り出されてしまうのではないか?」と。
 だいたい、通りを歩いていたら連れてこられたのです。「礼服なんか用意しているはずがない」と思われることでしょう。しかし、当時は、ちゃんと王様の宮殿に礼服が用意されていたのです。ですから、通りを歩いていただけで、普段着を着たままの人でも、宮殿の中で宮内庁の職員が礼服に着替えさせてくれたのです。
 ということは、この礼服を着ていない人は、宮内庁の職員が礼服に着替えさせてくれるというのに、それを断った人、ということになります。
 ではこの「礼服」(ギリシア語:endymia)というのはいったい何のことを言っているのでしょうか?
ヨハネの黙示録(19,8)によれば、「正しい行い」である。しかし、7章では、天国の神の前での礼拝の光景が描かれています。万民の民が天国で神を礼拝している。そしてその人たちはみな「白い衣」(stole)を着ていると書かれています。それが天国の礼服です。そしてその白い衣とは、「小羊の血で洗って白くした衣」であると言われています。「小羊の血」とは、十字架でイエスさまが流された血です。その血によって、罪にまみれていた私たちの衣が白くされた。清い者とされたのです。それが神様の礼服です。
 ですから、このたとえ話の中で、礼服を着なかった人というのは、十字架のイエスさまを拒否した人と言うことになるでしょう。イエスさまを受け入れなかった人です。
天国では、小羊なるイエス・キリストの婚宴が開かれるということが黙示録にも書かれています(黙示録19:9)。
 こうしてきょうのたとえ話は、天国の婚宴の晩餐会の席をとにかく大勢の人で埋めたい神様の強い意志と願いがあらわれています。神様は多くの人で天の国を埋めたいのです。道を歩いている人を誰でも連れてきてでも、多くの人と祝いたい。それが神様の御心です。それがはっきりとあらわれています。そして誰でも天の国にはいることができるようにするために、イエスさまを十字架にかけて、礼服を用意した。その礼服を着ればよいのです。主イエスを信じるのです。
 この後のミサは、その天の国の婚宴の祝宴を指し示しているものです。洗礼を受けている人は、まだそこに導かれていない多くの人が、この祝宴に預かることができるようにとりなしの祈りをしつつ、聖餐を受けましょう。
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現代は、イエスの時代よりもイエスについてよく知っており、イエスについて説明する人も多く、
イエスについて教える人も増加し、イエスの道を歩む方法も知っているようです。しかし実際に行う人は少ないのです。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」とはこのことを言っているのではないでしょうか。主よ、知っても行なわないものではなく、実行するものにならせてください。
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「子供が人見知りをする」という言い方があります。つまり、見馴れない人を見て泣いたり、はにかんだり、または嫌ったりすることです。せっかく楽しい場であっても子供はまったく楽しめない。地獄は、天国に行ったときに神に対して「人見知りをする」ようなことだと言われています。天国で天使たちと聖人たちは神の栄光をたたえ、賛美し、感謝するわけです。この世で神の栄光、神の賛美、感謝と馴染みのない人は、天国に行ったときに困ってしまう。
まるで、言葉の分からない、習慣を知らない外国で結婚式に参加するようなことです。最高に楽しい時、場所なのに、全く楽しめない、むしろ大嫌いな状態になります。それは、地獄です。私たちは、この世でどの程度神様に馴染んだか、神に感謝したか、その栄光を賛美したか、その分だけ楽しめるというわけです。
さて、神の国を外国と感じるか、それともなじみ深い自分の祖国と感じるかは、私しだいです。



年間第20金

マタイ22・34-40

自分が愛されていることを感じる人は大きな力を持っています。困難に囲まれても必ず立ち上がります。勿論、その愛は神からの愛ですが、人を通して感じます。また、いろいろな出来事を通してわかります。私たちが神の愛を信じ、その愛を分ち合っていくことは、私たちを愛して創られた神にとって最も大きな喜びでしょう。
神を愛し、人を愛することを通して、神の国を広げていくことができますように。sese06
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自分が愛されていることを感じる人は大きな力を持っています。困難に囲まれても必ず立ち上がります。勿論、その愛は神からの愛ですが、人を通して感じます。また、いろいろな出来事を通してわかります。私たちが神の愛を信じ、その愛を分ち合っていくことは、私たちを愛して創られた神にとって最も大きな喜びでしょう。神を愛し、人を愛することを通して、神の国を広げていくことができますように。
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私たちは「世界人類」を愛することは、ある意味では簡単にできるのです。あるいは、普段あまり顔を合わさずに、時々出会う程度の人を愛することは簡単なのです。ニコニコした笑顔を作って、「こんにちは」といえばもうそれで良いのですから。しかしイエスさまは「世界人類を愛しなさい」とはおっしゃいませんでした。それは簡単にできるからです。しかし「隣人」を愛することは難しいのです。毎日のように顔を合わせ、イヤでもその人の顔を見ないといけない‥‥。そういう人を愛することは難しいのです。裁判でも、泥沼の争いになるのは、たいてい夫婦や肉親や利害関係がからむ人です。
 私たちに対してイヤなことを言ったりしたりする人、さらに私たちのことを憎んだり、悪口を言ったりする人を愛することは難しいのです。私たちは、私たちの悪口を言う人がいれば、その10倍の悪口を言いふらしたくなるものです。ですから、私たちに対して悪口を言ったり、イヤなことを言う人を愛することはほんとうに難しいのです。
 だいたい、ふつうはそんな人を愛そうなどとは思いません。私たちの悪口を言ったりする人がいれば、逆に10倍の悪口を言いふらして、あとは関わらないようにするでしょう。だから、そんな人を愛そうなどとは決して思わないことでしょう。しかしなぜ、そんな人を愛そうとすることになるかと言えば、それはただ、神さまが、そしてイエスさまが、「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃっておられるからという他はありません。神さまが、イエスさまがそう命じておられるから、私たちは初めて、イヤな人でも愛する、ということを考えざるをえなくなるのです。そして、その難しさに頭を抱え、愛することのできない自分を発見するのです。
     キリストの愛
 そうすると、聖書は私たちに向かって、できもしないことを命じているのでしょうか。自分を愛してくれる人、あるいは自分が好きな人を愛することは簡単なことです。しかし、自分のイヤな人を愛するのは、今見てきたように、とても難しいことであり、そんなことはしたくないのです。だから、不可能です。聖書は、無理難題を私たちに押しつけて、「ホラ、できないだろう。だからお前はダメなのだ」と言うのでしょうか。
 しかし、わたしたちは、そのようにありえない愛を注いでくださった方がおられることを思い出す必要があります。それは主イエス・キリストです。イエスさまは、神さまが命じても、言うことをきかない私たち、自己中心で、隣人を愛することもできない私たちを、「だからダメだ、だから地獄行きだ」とはおっしゃらなかったのです。そういう愛のない私たちを愛してくださったのです。そして十字架にかかられたのです。
 すなわち、イエスさまは、神を憎み、神の悪口を言う者、あるいは神に従おうとしない者をも愛されたのです。そのしるしが十字架なのです。神の敵であった者、神の敵であった私たちを愛されているのです。そこに隣人を愛するキリストの姿があります。
 私たちはそのようなキリスト・イエスさまの愛によって神に受け入れられているのです。だから、私たちは、なかなか神を愛し、隣人を愛するということが難しいのですが、私たちを愛する方のおっしゃることに、従っていこうと歩み始めるのです。キリストによって励まされながら。そういう歩みを、キリストは、祝福してくださるということです。


年間第20土

マタイ23・1-12

人には、見せびらかしたいもの、隠したいものもあります。見せびらかしは虚勢であり、偽りを露出することです。真実を生きる人は、慎ましく控え目なのが特徴です。高ぶるものは低くされ、自分を低くするものは、高くされるこの福音のパラドックスは真実なのです。
真実を生きる恵みを願いましょう。sese07
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福音書では律法学者、ファリサイ派の人々に真の権威について諭される言葉には考えさせられるものがあります。競争社会の中で生活している私たちにとって地位、名誉はとても魅力的にみえます。もう随分前になりますが、HIV(エイズに至るウイルスに感染する)裁判である。大学教授第一人者と呼ばれていたが、自分の権威を利用し禁止されているにもかかわらず非加熱製剤(加熱処理しなければならないのにしない)を患者に輸血しエイズに感染させたという記事やテレビ放映を思い起こします。会議に出席した他の人は意見は無視され再び発言出来なくなったと苦しい発言していました。この記事で私は人間地位が上になればなるほど名誉と力があればあるほどおごり高ぶる弱さをもっているように思い、自分の心の中にも社会的地位、名誉がない者であっても人に認められたい、手柄をたてたい、誉められたい、多くの事を望む思いが心の底にあります。
キリストがいわれるファリサイ派、律法学者に「人に見せるための行い」と批判される時、私自身に対してもその通りですといわざるを得ません。自分の生活の指針としてキリストが仕えられるためではなく、仕えるためしかもいのちを奉げるまで人に仕えるためである」とキリストが仕える者であるならば神によって創られた私自身がキリストの心を心として僕にふさわしい生活を送る一回でも多く小さな行いの中に真心をこめて人だけに喜んでもらうためではなく、神に喜んでいただくため、仕える心を抱く勇気を祈り求めながら毎日をキリストの道を歩んで行きたいと想います。(堺)

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