27 per annum

年間第27月 第2周年 (遇数年)

ルカ10・25-37

「隣人を自分のように愛しなさい」という律法についてイエスは、隣人は誰か、と問うよりも、あなたが隣人になりなさい、と勧めます。いつ、どんな時でも、私たちは誰かの隣人になることができるでしょう。その人をよく見て、近づき、その人の痛み、傷、悲しみ、あるいは喜びを共にするのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」と、イエスは、今日、自分から出て行くように、安住から抜け出すようにと呼びかけられます。
主よ、あなたが大切にしている一人ひとりに心を開かせてください。その人に寄り添う勇気を与えてください。sese

年間第27火
ルカ10・38-42


教会で奉仕をする。余裕がある時は喜んで、楽しくできる。自分独りでもやろう、という意気込みがある。けれども、余裕がなくなってくると、“他の人はやっていない。どうして自分だけがこんなにやらなければならないのか”と不満が積り、奉仕することがむなしくなって来ます。だれも自分の奉仕を認めてくれていない、分かってくれない、そんな気持になります。マルタもそんな気持になったのに違いありません。
けれども、マリアの不満を聞いて、主イエスは、“マルタ、その通りだね。マリアにも手伝うように命じよう”とは言わないのです。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」
(41~42節)
 なかなか厳しい言葉です。言われた方は、やっぱり分かってもらえないと不満と悲しみを感じ、すねてしまうかも知れません。それでも主イエスははっきりと語ります。
主イエスの御言葉を聞かないマルタに何が起こっているのでしょうか。ずばり自己中心になっています。神中心になっていません。そして、自己正当化を起こしています。私はイエスさまをもてなしている。イエスさまのために奉仕している。だから、私は正しいのだ。何もしないマリアが、周りの人が間違っているのだ。それを認めようとしないイエスさまも間違っているのだ。そういう正当化が起こっています。直前の箇所で、律法の専門家が自分を正当化しようとした(29節)のと同じことです。
 けれども、それはマルタ自身の考えです。自分の思いです。主イエスの思いを汲み取ろうとはしていません。相手の気持や立場を考えて行動しようとはしていないのです。それは、聞こうとしないからです。聞こうとしないから、自己中心になるのです。
 マルタという名前、どんな意味を持っているかご存知ですか?いみじくも“女主人”という意味の名前です。まさに自分が主人になっています。自分が中心になっています。主イエスが人生の主人になっていない。そういう自分を切り替えて、主イエスを主人とする生き方をする。主イエスの言葉、神の御言葉に聞き従う生き方を選ぶ。それが、神を愛するということです。私たちの信仰生活にいちばん求められていることです。

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人は、話を聞いているだけでは生きてゆけないし、忙しく立ち働いているだけでは、生きている意味がわからない。マリアは、イエスの語られることに、我を忘れて聴き入っていた。
人は、何かに聴き入るとき、もう一つの世界を垣間見る。自分の住む世界を、別の光のうちに見る体験をする。自分から出て、話されることがらをそのままに、「それはそうだな」と思う。何かに耳を澄ます経験は、きっと神からの語りかけを含んでいる。sese04
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マルタのように「忙しさ」に奮闘(ふんとう)している姿は、現代社会に生きる多くの人たちの姿と重なります。たくさんの仕事に追われていれば、つい愚痴を言いたくなるのも分かります。しかし、「忙」という漢字が“心を亡くす”ことを表すように、「多くのことに思い悩み、心を乱す」ことを決して神は
望んでおられないでしょう。
どんな時でも一番大切なことを私たちの心を向けることができますように。sese05
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いつもわたしたちは何と多くのことを思い悩み、心を乱していることでしょうか。しかし、必要なことはただ一つ、イエスに聴き従うことです。
主よ、わたしの心をあなたの言葉に向けさせてください。わたしの思いではなく、あなたにより頼んで生活できるよう、導いてください。sese06

年間第27水
ルカ11・1-4


この祈りを唱えるとき、「わたしたち」という言葉に深い意味を感じる。この祈りを心から唱えられるとき、そこには「御国」がもう来ている。小さな者たちの一人である自分にとって、必要な物がなければ、本当に困窮してしまうと分かって、なお他者を思いやり、「わたしたち」のために願うことができるなら、その人は、「御国」の中にいる。自分が過ちを犯す者であり、もし罪を問われるなら弁護できないことを悟って、同じように他者にも感じ、「わたしたち」が赦し合えるように願えるなら、そこに、「御国」は来ている。sese04
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神に「父よ!」と呼びかけることができる…。なんと幸福なことでしょうか!イエスはこの最も幸いなことを私たちに示されました。しかもイエスは放蕩息子のたとえの中で、私たちの父が、「まだ遠く離れていたのに、息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻」(ルカ15・20)するような父であることを示されたのです。
父よ、あなたの子である幸いをもっと深く悟らせてください。私たちの内に愛の喜びがあふれますよ
うに! sese05
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「父よ」という呼びかけは、イエスと御父のかかわりの中に私たちを導きます。神がいかに私たちの近くに親しくおられるか、この信頼感を味わう中で、祈りが始まります。
父の慈しみ深い息吹を受けながら、明日のことを思い煩うことなく、今日一日を精一杯生きて行けますように。sese06


年間 第27木曜日
ルカ11・5-13

? このたとえ話は、祈りの福音書とも言われ、祈りについてもっとも多く語っているルカだけのものです。祈りについて大切な二点が述べられています。第一は、「根気よく」、第二に、「心の触れ合いのもとに」、「親しさのもとに」、祈るということです。それによって祈りは必ず聞き入れられます。ごく親しい友人同士でなければ、真夜中行ってパンを貸してくれと言ったりはしないでしょう。
神に向ける祈りの条件は、ただ長い時間をかけて願うということではなく、なによりも日頃から深い心の触れ合いのある友人同士なので、迷惑をかけても承知の上で、大胆にしつこいほど頼んでもいいということです。イエスの祈りはどうだったでしょうか。オリーブの山で、「父よ、み旨なら、この
杯を私から取り去って下さい。しかし、私の思いではなく、み心が行われますように」といのりました。イエスの祈りは聞き入れられました。しかし、その場ですぐに苦しみが取り除かれたのではなく、その苦しみを通して、イエスが本当に望んでおられたことが実現したのです。
私たちが人間の小さな頭で考えて望んだことよりも、もっとすばらしい方法で、私たちの望みが実現すると保証されています。(ネメシュ)
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難しい現実に立ち向かおうとする時、私たちは、キリストの視点に立つことが大切です。どんなに時間がかかっても、無駄に思えてもキリストの生き方に従う力を、願い求める人々に聖霊を約束してくださった神から頂くよう祈りたい。?
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「求めるものには」、「探すものには」、「門をたたく者には」ということばを、条件と受け取ってはいないでしょうか。父である神は、無条件にわたしたちを大切にして下っています。
与えられないのは、見つからないのは、開かれないのはヒョッとしたら与えられているのに気付かず、目の前にあるのに見ようとせず、開いているのに別のところをたたいているのかもしれません。
主よ、わたしの思いではなく、あなたの思いを悟らせてください。sese

年間第27金
ルカ11・15-26

イエスと悪魔(ベルゼブル(フェニキアのことば)・サタン・悪霊・現実のすべての暗い部分、否定的な部分)との戦いにおいて、人間には中立的な立場はありえない。「集めない者は散ら」すという言葉は、羊など家畜の群れについての言葉である。活発に動き回る羊の群れを積極的に集めなければ
、ばらばらに散り迷うであろう。それは人間にも当てはまる。神のことば、神の愛を受け入れるのにためらったり、言い訳をたてたり、屁理屈をいったりすると、それは悪魔に有利な状態を作り出すことになりかけない。神に対して自分をまもろうとするのは、悪魔の方についていってしまう危険を冒
すだけではなくて、結局自分自身は損することになる。
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神の働きはどうしたらわかるのでしょうか。神の働きはどこに見られるのでしょうか。もしかしたら、神の働きをベルゼブルの力と勘違いしてはいないでしょうか。わたしたちは得てして強いもの、富んでいるもの、勢いのあるものに引かれてしまい勝ちですが、小さく貧しい人々の間にこそ神の指が働いているのでしょう。
主よ、あなたの指の働きを見極め、それに従ってゆく知恵と勇気をお与えください。sese06

年間第27土
ルカ11・27-28

今日の福音では、母マリアは二回幸いと言われています。一回目は自然に群集から湧き上がっています。これは、「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」(ルカ1・42)という、エリザベトの祝福を思わせるのですが、人間的な幸せを指しています。だれでも
分かるような幸せです。 二回目は、「むしろ」という訂正のもとで、一回目を否定せずに、それ以上の幸せを知らせるのです。あたかも、秘密を 漏 ( も ) らすかのように。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(ルカ2・19、51)から幸せです。これは、すべての信仰者に希望を与えるのです。 すべての母親のために祈りたいと思います。子供に信仰を証しし、伝達することにおいて本当の幸せを体験できるように。
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身内に立派な人がいると鼻高々になります。同郷に有名人がいると自分自身が有名であるかのように感じます。同国のひとが世界選手権で惨めな負け方をすると自分が惨めな感じにおちいることがあります。しかし、イエスはそのような世間的なつながりや価値観は幸いとは関係がないと言われているようです。
世間的なつながりに惑わされることなく、あなたの言葉を守り従って行けますように。sese06
 

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