Aisatsu

祈りへの招き

1.神はみことばを通して、慰め、希望、戒め、計画などを私達に語って下さいます。ですからこの日に神が語られる言葉を聴くために心の耳を傾けましょう。

2.週のはじめにあたって、新たな気持ちで、主を賛美し感謝しながら、主のイケニエに合わせて、私達の喜び、苦しみ、悲しみをささげることといたしましょう。

3.私たちは今、主のみ前にあることを覚え、ひたすら心を主のみ前に至らせましょう。

4.「心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます」(詩編119.10)。 私たちも、神を切に尋ね求めます。

5.キリストと相談して、今日この一日の行動を決める

主よ、日々の出会いの中で、あなたを証ししていくことができますように。

主よ、神から離れて倒れている私を癒してください。あなたからいただく使命を生きる喜びに立ち返らせてください。

主よ、あなたの憐れみの心に生かされる者としてください。

主よ、罪人の私を招いてくださったあなたの憐れみの心を一層深く味わわせてください。
その心を人々と分かち合っていくことができますように。

主よ、あなたを感じることができない時こそ、信じ続ける恵みをお与えください。

主よ、今、ここで一番大切なことを選び取っていく心の眼をお与えください。

主よ、今日も私の心を訪れてください。汚れた霊を制し、あなたの御心だけを行うことができますように。

主よ、いつもあなたに立ち返り、自分によらずあなたから力をいただいて、与えられた使命を果たすことができますように。

主よ、この世のものに頼るより、イエスに従っていく勇気をお与えください。

きょうも誠実に神の御心を行うことができますように。

主よ、いつもあなたに心を向け、すべてを越えてあなたを信じる恵みをお与えください。

心を静め謙虚な態度でみ言葉を味わうことができますように。
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人はいつでも、大まかな流れには流されつつ、ほんの小さな部分では、少し意図的に目的を持って生きるのです。けれども、ちょっとしたことで、完全に流されやすいものです。「失われた羊」になりやすい。

References

「毎日のミサの福音」の参考文献



荒木関巧著、『毎日の福音』、オリエンス宗教研究所、一九八六年 (省略号、荒)



泉田昭著、『マルコの福音書』(新聖書講解シリーズ)、いのちのことば社、一九八六年

(省略号、泉田)。



榎本保郎著、『新約聖書・一日一章』、主婦の友社、一九九六年、(省略号、榎本)



静一志著、『畑に隠された宝』、女子パウロ会、一九八八年、(省略号、静)



新名忠臣著、『暮らしの中のキリスト教』、新教出版社、一九九三年 (省略、新名)



鈴木英昭著、『ルカの福音書』(新聖書講解シリーズ)、いのちのことば社、一九九〇年 (省略、鈴木)



ステファニ・レナト、「毎日のミサの福音」、《福音宣教》(十回連載)一九八七年 (省略号、ステファニ)



村上久著、『ヨハネ福音書』(新聖書講解シリーズ)、いのちのことば社、一九九〇年 (省略、村上)



山中雄一郎著、『ルカ福音書瞑想』、聖恵授産所出版部、一九八八年  (省略。山中)



Messale dell’assemblea cristiana (feriale), LDC, Torino, 1980. (省略 messale)

1 Lent

毎日の福音
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四旬節 第一月曜日
「私にしてくれたことである」
マタイ25・31-46


羊と山羊はよく似ているので、普通、同じ群の中に混じり合っていた。しかし、羊は山羊よりも価値があり、必要な場合には、羊飼いは両者をより分けるのである。右の方は左よりも貴い場所と考えられていた。羊と山羊をより分ける基準となったのは、イエスに対して行ったわざである。つまり、この世の日常生活において、どんな小さなことえも、イエスに対してするのと同じ気持ちでせよと言うのである。(参照コロサイ3・23、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」)。創世記十八章においてアブラハムが知らずにもてなした三人の旅人が、実は主と、主の使いであったということ、非常に似ている。
 ここには愛のわざばかりが強調されていて、信仰のことが一言も出てこないではないかと、不思議に思う人がいるかもしれない。最後のさばきの時に重要なのは、イエスを救い主として信じる信仰である。しかし、イエスがここで言おうとしたのは、その信仰が日常生活において実践されることである。しかもその愛のわざを、主に対してするように、人に対してするのだから、そこには当然信仰が必要なのである。信仰と愛とは決して別なものではない。(山口)従って、ボランティア的な活動をすれば、誰でも救われるという意味ではないであろう。


四旬節 第一火曜日
「こう祈りなさい」
マタイ6・7-15


 
 祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 だから、彼らのまねをしてはいけません。
 異邦人の祈りは、同じ言葉をただ繰り返すものであり、言葉数が多ければ聞かれると思う類のものです。私たちも異教的な国にいますからすぐに想像できるでしょう。一万回お経を唱えたら、祈りがかなえられるという教えです。神社仏閣には百度石があって、百度参りをする。けれども教会にも同じような祈りを見ます。「ハレルヤ、ハレルヤ」とか、「イエス、イエス」と何回もくり返して祈りをします。あるいはロザリオでは、アヴェマリアを何回も切り返されるわけです。
あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
 私たちの祈りの対象は、父という人格のあるお方です。誰かが私のところに来て、「きよきよ、きよきよ。」と何回も繰り返したら、私はこの人、変だ、と思います。人に対して話す時は、知性や感情を持って話します。同じように、神に対しても、知性と感情を持って祈らなければなりません。また、イエスは、父が私たちの必要を、私たちが願う前にすでに知っておられる、と話されています。ここに、祈りについての根本的な教えがあります。祈りは単に、私たちの願いが実現されるための手段ではありません。神はもうすでに、私たちの必要はご存じなのです。それでは一体なんのために祈るのでしょうか。
最近「リップサービス」ということばをよく新聞などで見かけます。もともと、英語で「口先だけのお世辞を言う」という意味ですが、たとえば政治家は「国民の生活は一番」と言ったりするが、実は全然違うことを考えているわけで、国民にリップサービスしているのです。リップつまり唇でサービスしているというわけです。
私たちは、毎日のように日課やミサなどで唱えている様々な祈りは、神様に対するリップサービスなのではないかと、祈りの理想である主の祈りに照らして、四旬節の間、自分の祈りのあり方について反省するように勧められます。
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「アラジンのランプ」のようにおとぎばなし(童話)の中には、魔法の使いが三つだけ願いを聞いてくれるという場面が時々ある。もし神が三つだけ願いを聞いてくださるとしたら、私達はいったい何を祈るだろうか。神に喜ばれる祈りができるだろうか。そう考えて、自分の祈りの姿勢を反省する必要があるかもしれない。「主の祈り」には七つの願いが並べられているが、私達はそのうちどれを自分の心からの要望にできるだろうか。「御名があがめられる」こと、ただ父なる神のみを神とすること。「御国」、神の支配がこの地上に、この私の中に実現すること。「御心」、「私の願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」(マタイ26・39)というように、無条件で神に服従すること。「必要な糧」、私達は、自分の生活は自分で働いて支えているように思いがちであるが、神の支えなしには働くことさえできない。私達が常に神の前に赦されなければならい存在であることを思い起こすと、人のまえで威張れるはずがないこと。人生に試練は、この世に悪いことがたくさんある。自分の力を過信せず、神に信頼し、悪の力から救い出される必要がある。ものすごく豊かな内容があるのに、私達は機械的にそれらを繰り返している。やはり、時々立ち止まって、何を願っているかをちゃんと考えるべきである。

四旬節 第一水曜日

ルカ11・29-32



「ヨナのしるし」とは何でしょうか。預言者ヨナは大魚の腹の中に三日三晩いたように、イエスも地の中(墓)にいて三日目に復活することを、救い主のしるしとされるのです。ヨナがニネベに派遣されたように、キリストもこの世に派遣された。ヨナが嵐にまきこまれたように、キリストもこの世の様々な問題にまきこまれたのです。救われる道は他にないというわけです。これは最高の知恵というのです。四旬節には私たちは傍観者ではいられない。ましてや人生にも傍観者ではすませることはできないでしょう。野球の試合を見ているように上手な選手はだれなのか。あるいはテレビのドラマを見ているように、視聴者で終わるのではなくて、試合に、ドラマにまきこまれる必要があります。種が地に落ちて死ななければ新しい命が生まれないように、自分の何かが死ななければ復活の恵に預かれない。
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ヨナが説教した時には、ニネベの人々は、その神の声を認め、それに答えた。最後の審判の日には、ニネベの人々は立ち上がって、イエスの時代の人々を訴える、と書いてあります。イエスと同時代のユダヤ人たちは、かつてないほどの特権に恵まれたにも関わらず、キリストを受け入れるのを拒んだのです。このユダヤ人達の罪は、その特権があまりにも大きいだけに、いっそう徹底して訴えられるだろう。
特権と責任は同じものの「おもて」と「うら」なのです。特権のもっているこの二面性に心を留めて、それをどのように使うかを考える必要があります。
 例えば、私たちはみことばにふれる機会はたくさんもっています。そうでない人々もたくさんいます。みことばにふれる機会、祈る時間、共同体の支えなど、非常に恵まれた立場にいる。聖書ほど高価な書物はない。ところがそれはともすれば、「誰でもがその名を耳にするが、誰も読むことのない書物」という、ある人の皮肉な定義にあてはまりかねないありさまです。私たちは聖書にいつでもふれることのできる特権が与えられています。そして、その特権は、それに対して答えるという責任を伴っています。
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信仰とは、自分勝手な基準を作って、救い主を試そうとする態度から生まれないのです。むしろ、へり下って神を求める者に神は信仰を与えて下さるのです。
死人の世界から誰かをおくってと願う金持ちに対してアブラハムは言いました。「もし彼らがモーセと預言者に耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても彼らはその勧めを聞き入れはしないだろう」(ルカ16・31)。しるしを求める人間ではなく「神の言葉を聞いてそれを守る人たち」が「めぐまれている」(28)のです。
それでも、神は救い主を信じ得るために豊かなしるしを与えて下さいます。それは「ヨナのしるし」です。預言者ヨナは大魚の腹の中に三日三晩いたように、イエスも地の中(墓)にいて三日目に復活することを、救い主のしるしとされるのです。
イエスの十字架と復活こそ、天からのしるしに匹敵する意味で、救い主のしるしです。現代人にとって、処女降誕や復活は、特別につまづきとなっているようです。「そういう非科学的なことをいうからキリスト教は信じられない」というのです。イエスの時代、悪霊の追い出しを見た人々は、そんな小さな奇跡では、イエスを信じられない、と言いました。現代、復活を聞く人々は、そんな大きな奇跡では信じられない、というのです。不信仰は証拠の問題ではなく、心の「邪悪」(29)のためであることを思わされます。(山中)

「しるしを求める心」に相対する心は、「信じる心」でしょう。信じる心は愛の注入口のようなものです。信じることによって、もともとそこにあるけれども、十分気づいていなかった愛が心に入り、その愛の「しるし」が見えてきます。私たちが心から神を信じ、心に注ぎ入れられる神の愛をしっかり受けとめて、日々の生活の中でその愛の「しるし」となっていくことができますように。sese07


四旬節 第一木曜日
「あなた達は子供に良いものを与えることを知っている」
マタイ7・7-12



今日のテーマは願い求める祈りです。ドイツの有名な神秘家、マイスター・エックハルト(Meister Eckhart, 1260 - 1328)には、こういう言葉があります。「人々は、神様のことを自分の牛のように大事にしている。」牛は毎日牛乳をくれるから、毎日えさをやると。私たちの毎日の祈りはこの程度のものなのでしょうか。現代風に言えば、自動販売機に100円を入れるとジュースが出てくる。神様はこの程度のものなのか。もし、この程度の信仰しかなければ、この四旬節に知的回心をする必要があるでしょう。
確かに、第一朗読でエステルは非常に困った時に神にお願いする祈りがありました。けれども、そこに先祖の語った神、先祖に対する神の約束という文脈があります。つまり、人格と人格の付き合いです。神を牛とか自動販売機と見なしているわけではない。福音書となると、そこではっきりと神は父親として語られています。親は子供の必要なものを子供以上に知っていて、子供の未来を気にかけています。なるほど、子供のわがままでも聞き入れる無責任な親もいます。しかし、本来は親は今すぐ子供が喜ばなくても、子供の成長に必要なものを与えます。父親との関係は、飼っている牛や自動販売機との関係とは違うでしょう。私たちは目指すべきは父親のように神と付き合うことでしょう。


“Some people want to see God with their eyes as they see a cow, and to love Him as they love their cow – for the milk and cheese and profit it brings them. This is how it is with people who love God for the sake of outward wealth or inward comfort. They do not rightly love God, when they love Him for their own advantage. Indeed, I tell you the truth, any object you have in your mind, however good, will be a barrier between you and the inmost Truth.”
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今日の福音の中で気になることばは「あなた達は悪いものでありながら子供に良いものを与えることを知っている」という個所である。今時の子供たちは昔の子供の生活と比べるとはるかに恵まれていると思う人が多いと思います。ところがこの個所を読んで疑問を感じました。子供に教育の場を与えたり、たくさんの菓子を食べさせたり、テレビ・ゲームを買ってあげたりすることが、子供にとってよいものになるのだと果たして言えるだろうか。体をこわすような添加物をたくさん含んでいるお菓子を与えること、能力の一面しか育たないテレビ・ゲームを与えることも、いったいどういう意味があるだろうか。もしかすると子供に邪魔されたくないだけのことかもしれない。子供によいことを与えることは簡単なことではないと思う。(ステファニ)
 さて、悪い親でも、自分の子供には幸せを願うという矛盾と、善そのものである天の父が、人々に幸せだけを与えるという面を対比させて、信頼をもって祈るようにイエスは進める。子供の心を失い、父を捜し求めようとしない、心の扉を閉ざしている私達に、イエスはなんとやさしく語り掛けていることでしょう。
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「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
 このイエスさまの御言葉は、一般に「黄金律(おおごんりつ)」と呼ばれています。つまり、聖書の中でももっとも重要な戒めであるということです。この言葉を聞きますと、何か他でも聞いたことがある教えのように感じるのではないでしょうか。しかしそれは似ているようでちょっと違うものだと思うのです。つまりそれは「人様に迷惑をかけてはいけない」という言葉ではないかと思うのです。「他人に迷惑をかけてはいけない」ということが、私たちの社会では小さい頃からいちばん大切な教えとして教えられて来たのではないでしょうか。
 そのような言葉は古代 ローマ の 思想家 セネカや論語にもあります。「あなた自身が願わぬことを、他人に行ってはならぬ」(論語、15:23)。そしてこれはやはり世の中で生きていく上では、たしかに大切な教えであると思われます。
 けれども福音書の場合は、「神」抜きには成り立たない。神様が私たちに「良い物」をくださる。だから、その神様の愛の御心を信じて、また、私たちも神様の御心にならって生きようとする。隣人に「良い物」を与えようとする。神様の心を自分の心として生きる。隣人に「良い物」を与えようと志す。その生き方の中で、私たちは、私たちに「良い物」を与えて下さる神様の御心を、より深く味わうことができるでしょう。

私たちは今与えられている恵みに秘められた神よりのご期待に気づいているのか。健康、能力、財産、一つとして神から与えられなかったものがあるのか。もし、今私たちが、現在の恵みに感謝せず、いたずらにそれを誇り、わが身の安全に心安しとして過ごしているなら、私たちの道は滅びの道になる。私たちのすべては神の賜物であり、神から預けられたものです。もし神の栄光のためならば、それを投げ出す覚悟なしには、私たちは神のものを盗んでいることになりかねません。


四旬節 第一金曜日
「兄弟と仲直りをしなさい」
マタイ5・20-26


「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」(マザー・テレサ)
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兄弟姉妹に対して腹を立てることなど、日常茶飯事として片付けてしまい、取りたててとやかく言う人などいない。しかしイエスは腹を立てることも本質的には殺人と変わらないと言う。これは実に驚くべきことである。常識から言って、イエスの論理は飛躍しすぎだと思うだろう。だが、イエスは人間の心の奥底まで読んでおられる。殺人はそう簡単におこるものではない。そこに至る原因が必ずあるはずである。殺人の三大原因は、「恨み」「物とり」「痴情(ちじょう) 」(狂った感情)だと言われる。他人に対する怒りが高ぶって恨みとなり、やがては殺人となる。殺人というような恐るべき罪の発端も、もとをただせば腹を立てることである。このような原因から解決しなければ真の解決はないとイエスは言うのである。
物事は表面だけを見ていては解決できない。その根源を見抜いて、抜本的な解決をはかることが大切である。律法学者は、自分は人を殺したことがないから正しいのだと自認していた。これは自己正統化である。しかし、神の前にはこのよう自己義認は通らない。私達も、自分の心の状態を根源にさかのぼって考えてみなければならない。(山口)
イエスにも腹を立てるような反対者(敵)がいました。そしてイエスは彼らの気持ちを考えて、活動を控えたり場所を変えたりしましたが、結局何の役にも立ちませんでした。私達の場合、相手の気持ちを考えずに行動して、そして「相手が悪い」と決め付けてしまうことがないでしょうか。(ステ)今日は、人を裁くことから自由になる恵み、また、間違った時には、それを悟って軌道修正することができる勇気と謙遜さを、祈り求めたいと思います。
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腹を立てることは、人間の攻撃性からくるもので、はけ口として暴力になりやすいと言われています。ところが、人間社会では、ほんの僅かな暴力でも,大動乱をひきおこす可能性を持っています。エスカレーションの源になり得る.断じて古びることのないこの真理が,たとえ今では,すくなくともわれわれの日常生活においてほとんど見えにくくなっているとはいえ,われわれは誰でも,暴力を目の前にした時,何か《伝染する》(伝染病のように)ものがあることを知っている.実際,時には,そうした感染からほとんど身をかわす(守る)ことができないのである.暴力に対する非許容も,結局のところ,暴力を許容することと同様,持って生まれた運命的なものであることがわかる.暴力がはっきりとした姿をあらわした時,進んで,むしろ嬉々(きき)として身をまかせる人々がいる.逆に暴力の展開に抗する他の人々がいる.だが,暴力が席捲(せっけん)することを可能にするのは,しばしば彼らである.そして暴力はしばしば、「本来」ふるわれるべきであった相手の代わりに、単に暴力をふるい易いというだけに過ぎない手近な対象に矛先を変えることがある。そうして集団・共同体全体が感染して暴力がたまって、スケープゴート(身代わりの山羊)を探します。キリスト自身もこうしたメカニズムに巻き込まれて十字架に付けられたのです。(ルネ・ジラールの「スケープゴート・メカニズム」を参照)。

四旬節 第一土曜日
「完全な者となりなさい」
マタイ5・43-4


他人のいのち、財産を尊重する義務は社会生活の基本だと言って、それを子供たちに教えます。ところがその基本は覆(くつがえ)されるときがあります。裏切り、欺瞞、殺人や掠奪(りゃくだつ)でさえも(当たり前)合法とされるばかりでなく、何と手柄になります。これは戦争の状態なのだが、経済においても競争に勝つために同じようなことが見られます(やはり、経済は「きれいごとだけではうまく行かない」)。例えば、日本の森林を伐採すればものすごく非難されますが、東南アジアの森を倒しても文句を言う人は少ないでしょう。これは「閉じられた宗教」の働きなのです。キリストは、開かれた宗教、全人類への愛を教えたのです。自分の仲間を愛するのは割りと簡単にできるけれども、自分の(仲間の)ことばかり考えると様々な社会問題がおこります。正義と平和の問題はこれに尽きるといってよいと思います。(ベルグソン)
 キリストは問題解決への手掛かりである。教会として社会問題に取り組んでいろいろな貢献ができると思いますが、一番肝心なところ、それなしには解決への道は見えないことを伏せてかかるのはどうかと思います。これから、グロバリゼーションということで経済の面でもさらに発展していくでしょうが、問題も増えるかもしれません。そのとき「閉じられた道徳、宗教」だけでは間に合うでしょうか。
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敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることが出来るほどに、こだわりのない広い心、私たちが招かれているのは、そこまでの自由な境地なのです。神の似姿である私たちの心には、例外なく、神の性質が「遺伝」しています。聖書を読むこと、祈ること、思い巡らすこと、そして、そこから理解した神の御旨を行うことによって、神の広い心と交わり、受け継いだ遺伝子をONにしましょう。今日も天の父は、完全な自由へと私たちを招いておられます。sese07

2 Lent

四旬節 第二月曜日

ルカ6・36-38


人間の歴史は、復讐と憎悪の歴史でもあり、怨念がいつまでも残って、民族の間で戦争が繰り返される。それも事実です。
敵を愛する。それは自分という枠の中に留まっている限りは不可能なことです。私にとって敵である者をも神が愛しておられ、その人のためにキリストは十字架につけられたという事実を思うとき、私たちははじめて敵を愛することができるようになります。どうしても赦せない、押さえ切れない憎しみがあったとしても、それは無理に押さえつけるのでなく、すべて神に委ねてみたらどうでしょう。神はきっと私に代わって、罰を与え、あるいは回心させてくれるに違いない。その神にすべてを委ねたらと思います。神の目で人を見、その人も神のもとにあり、神から愛された人間、神から救われるべき人間に過ぎないと確認する。神は私に代わってすべてご存じである方と確認する。そうするともしかしたら人を見る視点が変わってくるかもしれません。


四旬節 第二火曜日
マタイ23・1-1



律法学者やファリサイ派の人々が厳しく批判されます。その理由は、「言うだけで、実行しない」からです。言うことと行動のギャップは、普段他の箇所で「偽善」とよばれるが、ここはちょっと違うかもしれません。彼らが言うことは否定されるわけではなく、むしろ「すべて行い、また守りなさい」と言われるぐらいです。ここで、偽善性というより、表面性が問題となっているようです。言っていることが、人の肩に載せる重荷になったり、人に見せるためで、自分たちの生き方、生活を変えるに至っていない。軽い、浅いことば(認識)となっています。知っているつもりで、いわゆる知ったかぶりしているにすぎない、と。私たちも、様々な祈りのことば、たとえば主の祈りを唱えます。「み名が聖とされますように」、「み心が行われますように」とか言いながら、その意味を深くとらえていないかもしれません。四旬節には黙想会が行われたりします。それも、お話を聞くだけで、たいてい面白かったか面白くなかったかで終わることは多いわけで、生活・生き方を変えるに至らない。新しい情報を得たとしても、新しい命を得たことにならないのです。新しいイデアにすごく興味をもち、深く理解し生きることは少ない。
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福音書では律法学者、ファリサイ派の人々に真の権威について諭される言葉には考えさせられるものがあります。競争社会の中で生活している私たちにとって地位、名誉はとても魅力的にみえます。大分前のことになりますが、HIV(エイズに至るウイルスに感染する)裁判を思い出します。全国第一人者とされていた大学教授が、自分の権威を利用して、非加熱製剤(加熱処理しなければならないのにしない)を患者に輸血し、エイズに感染させたという事件が大きく新聞やテレビ放映で取り上げられた。そういう決定に至った会議には違う意見も出されたが、出席した他の人は意見は無視され、会議自体は「見せ掛け」にすぎなかったことが判明されました。この事件で私は人間の地位が上になればなるほど名誉と力があればあるほどおごり高ぶる弱さをもっているように思いました。社会の最前線で活動していない者でも人に認められたい、手柄をたてたい、誉められたい、多くの事を望む思いが心の底にあります。
キリストがいわれるファリサイ派、律法学者に「人に見せるための行い」と批判される時、私自身に対してもその通りですといわざるを得ません。自分の生活の指針としてキリストが「仕えられるためではなく、仕えるためしかもいのちを奉げるまで人に仕えるためである」という生き方をモデルにし
ているだろうか。キリストが仕える者であるならば神によって創られた私自身がキリストの心を心として僕にふさわしい生活を送るべきであろう。
一回でも多く小さな行いの中に真心をこめて人だけに喜んでもらうためではなく、神に喜んでいただくため、仕える心を抱く勇気を祈り求めながら毎日をキリストの道を歩んで行きたいと想います。(堺)
今日の福音で、イエスは、律法学士やファリザイ派の人々を批判しています。彼らは言うだけで実行しないからです。この批判は、そのまま私にもあてはまりそうです。私たちの行いの動機も問われています。どこかに不純な動機が潜んでいないでしょうか。ファリサイ派の人々と律法学者が、イエスの語られることを受け入れることができないのはなぜでしょうか。私は、唯一の師であるイエスの言葉を聴く耳をもっているでしょうか。唯一の主であるイエス、あなたのみ言葉を聴くことを教えてください。sese07

 
四旬節 第二水曜日
マタイ20・17-28


近代社会を支える大きな柱には平等と自由があります(日本国憲法参照)。けれども、この二つの間には大きな矛盾が働いています。自由な人間はよく働いて金持ちになり、別の人は政治家になって権力を握るようになります。こうやって、競争原理が働き、不平等に導きます。
今日の福音書はこうした現実、問題を描いています。最近のマスコミには、教皇の辞任をめぐって、ヴァチカンには権力争いがあるのではないかと疑っています。それは、当たり前でしょう。今日の福音書が明らかにしているように、弟子たちの間で権力争い、競争がありました。現在でも神学者の間で競争があります(ConciliumとCommunio)。修道会にも、一般の小教区にもあります。教会は近代社会に生きている限り、競争の原理が働くでしょう。
それでは、どうしたらよいのでしょうか。これは、理論の面でも実践の面でも大変難しい問題です。平等を強調すると共産主義社会になります。自由をなくす傾向になります。自由を強調すると、自由主義経済、資本主義経済のよう社会になります。平等をなくす傾向です。
解決へのヒントは「違いを認める」という言葉と、奉仕精神にあります。たとえば、男女平等というときに、男女はお互いの違いを認めながら共存します。そこに多少競争が生まれるかもしれないが、その分だけ助け合い、連帯が無ければならない。学校には学長と生徒があり、一般社会にはお巡りさんと一般市民があり、ある意味では不平等な立場ですが、学長とお巡りさんは、学校のために市民のために奉仕しなけらば絶対うまくいかないでしょう。やはり、福音書の言う奉仕がなければ、近代社会はうまくいかないでしょう。
さて、教会(ヴァチカでも、修道会、小教区でも)を外から見た場合、そこに競争が大きく感じられ、奉仕はあまり感じられないとなると、それは教会が福音を証ししていないということを意味することです。そであれば、この四旬節に回心する必要があるというメッセージになります。
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 「人間、最後まで残るのは“名誉欲”である」と誰かが言っておりました。偉くなりたい、認められたい、人々から賞賛されたい、ほめたたえられたい、人々を自分の思い通りに動かしてみたい‥‥そういう思いは、弟子たちのうちにもあったのです。だから、ヤコブとヨハネの母がそのようにイエスさまに頼んだことを知って、他の弟子たちは腹を立てました。「抜け駆け(ぬけがけ)はゆるさん」といったところでしょうか。  偉くなりたい者は、仕える者になりなさい、と。‥‥これは、「偉くなりたいのなら、しばらく辛抱して、人々に仕えなさい。そうすれば偉くなれる」ということではありません。それでは昔のテレビの「おしん」のようになってしまいます。そうではなく、そもそも「仕える」ということが主イエスに従う者のあり方であるということです。ですから、「偉くなりたい者は、そのような思いを捨てて、仕える者になりなさい」ということになります。


四旬節 第二木曜日
ルカ16・19ー31


富を自分のものだけにして、貧しい者への施しを怠るなら、必ず天の裁きがある。だから先延ばしせず、今すぐ回心し、富を良い目的のため用いなさい。惜しみなく施しなさいと言う意味です。
 さらに、回心するものとしないものの間には、大きな溝があって、お互いどうしても越えることができない。それが現実です。この大きな淵の原因は、神様の罰でも、神様の冷酷さにあるのでもありません。人間の頑なさが原因です。
 だから目を見張るような奇跡がないから、あっと驚くような神の力を見ることがないから、神様を信じられない。こうした心情には注意が必要です。
キラキラ輝いても過ぎ去る富と本当の富、価値あるものの区別、さらに日常生活は永遠のいのちにつながっていること、そして毎日のように私たちの読んでいる「モーセと預言者」(みことば)から来る光(キラキラ輝くこの世の富に目を取られて)を見分けることができなかったら、たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることにつながらない。かえって溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
イエス様を賛美して迎えた人が、数日後には、十字架の道を歩み始めたと言って、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせたのです。「自分も救えないでどうして神の子か。神の子なら自分を救ってみろ。そうしたら信じる」。たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることにはつながらない。かえって溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
生きることは、すなわち旅することです。旅路には山あり谷あり、深い海、暗い森もあり、複雑怪奇(かいき、あやしかく不思議)、危険に満ちた交差点も通ります。ある人は、リネン多彩で高価な衣服を纏い、他方、贅沢三昧な生活に明け暮れ、あたかも何の苦労も心配もない生活をしているかのように見える人たちもいます。
一方ラザロのように生活しているホームレスのような人々もいます。
私達は、このような中で旅をしています。その中で主は、私に何を呼びかけておられるのでしょう。
どんな挑戦を受けているのでしょう。主よ、あなたの言葉を聴き、悟り、生きることができますように。sese07
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なぜラザロの行ったところではいるのが神様ではなく、イエス様でもなく、アブラハムなのかということなのです。イエス様の譬え話には、父親であるとか、主人であるとか、王であるとか、羊飼いであるとか、明らかに天の神様やイエス様のことを指し示していると思われる登場人物が出てくることが多いのです。しかし、この譬え話にはアブラハムはいるけれども、天の神様やイエス様がいないのです。どうしてなのでしょうか。ここにこの譬え話を読み解く大切な鍵があるように思えて成りません。
  アブラハムというのは、神様から救いの約束を受け取った最初の人間で、それを信じて生涯を歩んだゆえに神の友、信仰の父と言われるようになった人物です。このアブラハムへの約束は、アブラハム個人に留まるものではなく、アブラハムの子々孫々に及ぶものでありました。それゆえ、アブラハムの子孫であるユダヤ人は、自分たちこそ救われる民であるという選民意識をもっていたのです。
  しかし、イエス様のこの「金持ちとラザロ」の譬え話は、そのようなユダヤ人の選民思想をうち砕くものではないでしょうか。つまり、同じアブラハムの子孫であっても、ラザロは慰めの場所に行き、金持ちは苦しみの場所に行きます。しかも、その間にはアブラハムですらどうすることもできない大きな淵が横たわっているというのです。アブラハムは確かに神の友であり、信仰の父であり、ユダヤ民族の父祖であるかもしれませんが、決して救い主ではないのです。イエス様は、あえてここに神様でもなく、イエス様でもなく、アブラハムを登場させることによって、救いはアブラハムによってではなく、イエス様によって与えられるのだということを語ろうとしているように思えるのです。

このイエスの話はファリサイ派の人々にとっては大変な皮肉であり、挑戦でもある。彼らこそ、実は聖書の専門家として自他共に認められていたのである。ところが聖書の専門家であるはずの彼らが「あの世」での価値の転換を否定し、この世での価値観がそのままあの世でも通じるかのように説教し、金持ちたちを喜ばせている。彼らはそのために聖書を利用している。ここが重要なポイントである。彼らも聖書の専門家として聖書を解釈し、聖書の教えを説く。しかし、貧乏人にいくらいい説教をしても金にならないが、金持ちが喜ぶ説教をすれば金になる。しかしイエスの視点は異なる。イエスは貧乏人の立場に立って聖書を読み、聖書を語る。
ドイツの教会の人たちは、この聖書の御言葉を読むと、自分たちは金持ちだ、豊かな人間だと理解する。一方、貧しい人はアジアやアフリカの人々だと考える。そして、自分たちはぜいたくに暮らしているから、このままでは陰府に落ちてしまう。だから、貧しいアジアやアフリカの人々のために献金しよう、という発想になるのだそうです。
 その考えに対し、ある牧師は問いかけた。あなたがたは金持ちで、アジアやアフリカの人は貧しいと思い込んでいるが、その通りですか?あなた方の近くにも貧しいひとはいないのか。あなたがたが本気で、自分たちは金持ちだから地獄に落ちると思っているなら、金持ちであることをやめられますか?自分の生活には少しも変化が起こらないような献金だけをして、ことが変わると思いますか?ただ憐れみの施しをするだけで、あなたがたは天国に行ける権利を得られると思っているのですか?

金持ちだろうと、権力があろうと、地位があろうと、学力が優秀であろうと、色々なことができようと、また人格的に非の打ちどころがなかろうと、神さまに命を与えられ、生かされ、やがて召されていく者として、自分の力ではなく神さまを信じて依り頼み、ゆだねて生きることこそアブラハムの宴席へとつながる道だと、聖書は語っているのです。


四旬節第2金
マタイ21・33-43,45-46


ヨセフの物語(第一朗読参照)は歴史の中で何回も繰り返される。善と悪! その戦いは世紀に渡り継続しています。イエスは的をついた譬え話を使って真実を語るので、人々は反発し、傷付き、ついには抹殺しようとします。真理を語り、闇を照らす光は、闇に住む者にとっては邪魔だからです。イエスが、今日語られる言葉は、現代社会、そして私のどのような闇にどんな光を与えられるのだろうか。光を受け入れる準備はできているのだろうか。
主よ、あなたが語られる真理の言葉に心を開かせてください。sese07
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人間の強欲、力への渇望がこのような恐ろしい殺害にいたる。

 しかしこれは別に2000年前のユダヤ人のことだけを言っていると言うわけでもありません。人間はなんだかんだと言っても、自分の力・地位と言うものをより上に保とうとするものです。この世、社会の仕組みは、明らかに権力・力関係に支配されています。それは愛の場であるはずの家庭においてもまったく同じでしょう。夫婦の間でも、兄弟の間でも、また親子の間でも、いつもそのようなものが支配しています。たとえば夫が妻を虐待し、そのはけ口に妻が自分の子どもを虐待し、そしてその子どもは弟・妹を虐待する。そのようなことはとてもよくあることです。夫婦や子どもを自分の当たり前の持ち物と思い、感謝することがなくなるからです。
 しかし絶対的な権威者は神しかありません。そして配偶者や子どもは、親は、神様からこの世の生活の助けとなるため、愛の学びの助けになるために、一時的に神様から委ねられた、尊い預かりものです。けっして自分のものではないし、当たり前のものではない。自分の思い通りにならないから、虐待したり、無視したりしていい。そのようなものでは決してない。そのようなことをしたものは、神から預かったものを大切にしないために、神殺しに並ぶほどの大きな罪を犯すことになりかねません。
 神様は不信仰な人間を救いたいほどの愛そのものの方です。だから私たちが神の子イエス殺しをしたとしても、そのような私たちに対して、「この人たちは何をしているのか分からないから赦してください」と必死で祈ってくださるイエス様がいるのも事実です。だからこそ、私たちはそれほどまでの愛の方である神の独り子を殺してはならない。神様から託されたものを、本当に尊重し、大切にすることが必要です。この世はキリスト教にとっては、あまりに「現実的な世」なのですが、神様から借りていると言う意味では「借りの世」だからです。 
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見立て違い
 「隅の親石」というのは、家の土台に据えられる石のことではなくて、石を積んでアーチが造られる、その一番上の真ん中に据えられる石のことです。その石がしっかりとはまることによってアーチ全体が堅固な構造物となり、その石がはずされてしまうと、アーチ全体が崩れてしまう、という石です。最初は役に立たないと思われていた石が、そこに丁度はまる最も大事な石となる、それはそのことを見抜けなかった家を建てる者たちの見立て違いなのです。そのことが、ぶどう園の農夫のたとえと結びつきます。僕たちを侮辱し、息子を殺した彼らは決定的な見立て違いをしています。僕を追い返せば利益を独り占めできる、さらには、跡取り息子を殺せば相続財産であるこのぶどう園が自分たちのものになる、それは決定的な見立て違い、判断ミスです。世の中そんなに甘くない、そうは問屋が卸さない、誰でもそれが分かるような話として主イエスはこのたとえを語られたのです。それは、そういう見立て違いをしている者たちがいる、ということを示すためです。それは誰か。19節に、「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので」とあります。このたとえを民衆に語っておられる主イエスは、実はその周りで敵意ある目で見つめている律法学者や祭司長たちに向けてこれを語っておられたのです。彼らは、ユダヤ人の宗教指導者です。神様を信じ、礼拝し、信仰に生きることにおいての指導者、専門家と目されている人々です。その彼らは、神の国の到来を宣べ伝えつつエルサレムに来られた主イエスを全く受け入れようとしていません。むしろ何とかして殺そうと思っているのです。家を建てる者が、本当は隅の親石となる石を、この石はいらない、役に立たないと言って捨ててしまうのと同じ大いなる見立て違いを彼らはしているのです。しかもその見立て違いは今に始まったことではありません。息子の前に遣わされた僕たちは、昔の預言者たちのこと、さらには洗礼者ヨハネのことを指しています。神様がその人々を遣わして語りかけても、彼らはそれに耳を傾けることなく、拒み、侮辱したり殺したりしたのです。そして今、神様が愛する息子、独り子である主イエスを遣わして下さったのに、彼らはその独り子を殺そうとしているのです。



四旬節第2土
ルカ15・1-3,11-32


放蕩息子の譬え話は、有名な聖書の箇所で、登場人物は三人。一人は放蕩の末に父のもとに帰った息子、もう一人は、常に父のもとで真面目に忠実に仕えてきた息子。二人は対照的であっても、それぞれかけがえのない父の子です。そして三人目は、この物語の中心であり、大切な役割を演じる父です

この物語をもって、神の心、神の愛とはどんなものであるかが啓示されました。まさに福音です。
私たちは、おそらく自分のなかに、この三人のそれぞれの部分をいくらか持ち合わせているのではないでしょうか。時によって、場合によって、割合は異なっているでしょう。大切なのは、いつもどんな時にも、神は無条件、無償の愛で愛し続けていてくださることを信じることではないでしょうか。それこそ父を最も喜ばせる子の生き方に他なりません。
主よ、あなたの無条件、無償の愛に感謝します。信頼をこめて委ねることを教えてください。sese07

3 Lent

四旬節 第3月曜日
ルカ4・24-30


“よく知っている”という思いは、人を盲目にさせる。先入観、決め付け、思い込み、勝手な判断という眼鏡を通してしか見えないため真実を見極めることができない。すべてのことに自分の知識を遥かに超える神の働きがあることに気付くことはできない。そのような者の目の前をイエスは通り抜けて行かれる。
主よ、“知っている”というわたしの思いを取り除き、あなたの存在、あなたの働きに気づく、澄んだ目を与えてください。sese07


四旬節 第3火曜日
マタイ18・21-35


一デナリオンは一日の賃金です。かりに一日の給料は五千円とすると、百デナリオンは50万円となります。一タラントは6千デナリオンなので3千万円で、一万タラントは3千億円になります。
イエスのたとえ話は、次のようになります。超一流の有名な銀行で監査があり、支店長が三千億円の損をさせたことが明るみに出ました。妻も子供もマンションも全部売って負債を返すように命じられました。どんなにしても、生命保険にいのちをいくらかけても、払うことは不可能です。理事会はあわれに思い、負債の支払いの無期延期を決議してくれました。ところが、支店長が会議が終って外に出ると50万円貸している同僚に出会います。かれののどもとを締め付け、「借金を返せ」と迫る。そして返せないとみて、サラ金地獄に閉じ込めます。あとは同僚たちの告げ口、支店長の逮捕で話は終ります。
神から借りた恵みを返済する唯一の方法は、兄弟の小さな負い目を見のがすことです。(荒)
さて、一万タラントンものわたしの借金とは何だろう。わたしの兄弟を赦さないでいるというのは、どのことなのだろう。わたしの過去を遠く振り返って見と、わたしのDNAには、遠い祖先の血塗られた歴史が刻まれている。わたしの負債は、一生かかっても償いきれないものかも知れない。天の父は、
その負債を帳消しにするばかりではなく、そのわたしを慈しんでくださる。
それに引き換えわたしは、友、隣人に対してどんな態度をとっているだろうか。正直に、戦慄せざるを得ない。主よ、あなたは、善人にも悪人にも太陽を照らし、雨を降らせ、食べ物で養って下さいます。あなたの愛で、七の七十倍、きょうだいを赦すことがますように。sese07
また、「自分に厳しい、人にやさしい」という生き方はなにかと考えさせられます。
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誰かが私たちに赦しがたい罪を犯した。そんなことは私たち生きている限りどうしてもつきまとうことです。私たちが本当に大切にしているものが、無神経に踏みにじられることがあります。そして、その相手は何も気づかず、あるいは、気づいていても決して反省しないのです。そんなとき、果たして、私たちはその相手を赦せるでしょうか。
「赦す、でも忘れない」という言葉があります。この言葉は、「赦し」の本質を突いています。端的に言えば、罪を犯した誰かを「赦す」ということは、その人が犯した罪をすべて水に流す、何もなかったことにして全部、忘れてしまうということではないのです。「赦すこと」と「覚えていること」は本質的に結びついています。それゆえ、過去、多くの人々がこの言葉を語りました。名の有る人も、名の無い人も、「赦し」という真理に誠実に向き合おうとする多くの者が、「赦し」と「記憶」の関係について、そして、「赦し」と「正義」の関係について、真剣に考えざるを得なかったのです。
例えば、ネルソン・マンデラという人がいます。南アフリカの政治家ですね。反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され27年間に渡り刑務所に収容されましたが、釈放後、アフリカ民族会議(ANC)の議長に就任し、アパルトヘイトを撤廃する方向へと南アフリカを導きました。1994年には、とうとう大統領になりました。「真実和解委員会」を作り民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画(RDP)を実施したのです。そのマンデラが語るのです。「赦す、でも忘れない」と。
しかし、今日の聖書箇所は私たちに「赦しとは、本来的に無条件なものであり、赦しとは、突き詰めると、罪を犯された被害者の決断の自由にまで行き着く」と、語りかけます。もちろん、一方で、私たちは、赦しには正義が必要だということも知っています。つまり、赦しは無条件な赦しでなければならず、しかし一方で、赦しには正義が必要なのです。これは矛盾です。解消できない矛盾です。
この矛盾を前に、神を求めて生きていきたいと願う者の一人として、私はこう考えます。私が誰かを赦すとは、その人が犯した罪を忘れることではない。私も決して忘れない。でも、できれば、私は、その罪を犯した人のことを憎み続けて、残りの一生を過ごしたくない。私は相手を誰かを憎む気持ちから自由になりたい。もちろん、それは簡単なことではないし、人間の力を超えたことのように思える。だから、私は祈りたいと思うのです。「私はたとえ怒りを覚え続けたとしても、他の人を憎まずに生きていきたい」と。そして、「私自身も赦されたい」と。
[名]殺鼠(さっそ)剤 “In fact, not forgiving is like drinking rat poison and then waiting for the rat to die.” Anne Lamott, Traveling Mercies: Some Thoughts on Faith (1999)


四旬節 第3水曜日
マタイ5・17-19


ヤコブの手紙には次のように書いてあります。「2:10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。2:11 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」
パウロはローマ人への手紙の中でつぎのように言っています。「13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。13:10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」
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ヨハネ福音書の受難物語に、例えば「イエスの衣服のことでくじをひいた」とか、「イエスの脇腹は槍でつらぬかれた」という大変細かい記述がありますが、ヨハネは一々それぞれの箇所で、「それは聖書のことば実現するためであった」と記しています。聖書のことばは人間の言葉を通して私たちに伝わりますが、単なる人間のことばと違って、時代によって文化によって変わったりするようなものではなく、永遠に残るものであり、必ず実現するのです。
私たちは聖書の言葉を大事だとは思うのですが、それは現実から遠いことと感じられ、神様のお言葉をまともに聞くことに妥協するわけですね。そういう姿に対してイエス様は「律法の文字から一点一画も消え去ることはない。神様の律法は人間がその中から勝手に選んでそれを生きるもんじゃありません。むしろ人間が神様の救いから、どんな小さなすき間からもこぼれていくことがないように守るものとして与えられたのです。
イエス様は決して私たちに「あなた方が律法の一点一画もおろそかにすることなく、完成するように努めなさい」とおっしゃったのではありません。「わたしがそれを完成するために来た」とおっしゃっています。神様が律法の一点一画を完成するためにイエス様を送ってくださったということですね。
神様は私たちの生活の一つ一つを、それがどんなに小さなことであっても、その目でご覧になり、そこで私たちが救いから漏れ落ちることなく、救いに与って生きることを願っておられるということなんです。


四旬節 第3木曜日
ルカ11・14-23




四旬節の典礼の間では、「聞く」、「聞き従う」という言葉がよく出てきます。今日の第一朗読もまさにそうです。信仰は「聞くこと」からとパウロは言います。また、四旬節の目的である回心も聞くことから始まります。聞くだけで救われるのか?簡単じゃないか。簡単そうで、実は難しいことです。聞くことのむずかしさどこにあるのか。
まず、聞くために自分の殻から出なければならない。自己中心から相手中心にならなければならない。自分のことを忘れる、脇に置いておく。相手のことを真剣に受け止める。「あなたは私にとって大事だ、というような心構え。心を開く。聞きたくないこと、耳に痛いこと、都合の悪いことを聞く覚悟がなければならない。また、偏見と先入観を無くす必要がある(福音書では、イエスに対する偏見が邪魔になると述べられています)。
聞かないものはどうなるかと言いますと、「うなじが固く」なる。「真実が失われ」る、とあります。人間同士ですと、これだけのむずかしさがある。相手は神となると、もっと難しくなるだろう。神の「声に聴き従う」とはどういうことか、やはり深く考えるべきでしょう。
私たちは、親の声を聴きながら成長してきた。親のことばの中に、親が生きてきた人生、経験、知恵、力、人格などすべて込められています。親(または先生)のことばをきくことによって、親のいのち、力、知恵を受けるように、神の声に聴き従うことによって、神の命、力、恵みをいただけるのです。

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「彼ら(わたしたち)のかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み」、「先祖よりも悪いものとなった」というエレミヤの預言(第一朗読)はイエスの時代にも私たちの時代にも実現されます。「その口から真実が失われ、断たれている民」に対してイエスは「口を利けなくする悪霊」を追い出します。けれども、悪魔呼ばわりにされる。

一般に「悪魔」ということばは、しっぽのある黒い動物を想像させます。そこでは「悪魔」はマンガ化されています。「悪魔」のような奴だ」という表現は、人間の 悪気 ( わるぎ ) 、冷たさを示そうとしています。イエス様も「悪魔のような奴だ、悪魔のかしらだ」と非難されました。わざわいをもたらしたからではなく、人々を病気や不幸から解放したからです。
イエスはユーモア(皮肉)を込めて反論します。内部で分裂していたり、仲間割れしていても、外部の敵に対しては結束して戦うのが人間の集団の特色ではないか。悪魔の集団でも、悪いことをするためには一致協力しているのではないか。悪魔が人の病気を治したり、ほかの悪魔を追い出したりしたら、善いことをしていることになり、悪魔としては失格ではないか。
イエスはこのようにからかったあと、一転して神の国の到来を告げます。神の力、神の指によって悪魔が追い出されているのであれば、神の支配がすでに来ているのではないか。神の力を認めようとしない人々の頑固さに対するイエスさまの悲しさ、怒りが感じられます。(荒)


四旬節 第3金曜日
マルコ12・28b-34



人間的な愛には、甘えや駆け引き、煩わしさ、誤解がつきまといます。相手の幸せを願っていても、その通りにならず、よかろうと思ってしたことが逆効果になることがあります。ですから、うまくやる必要がある。人間的な愛にはテクニックが要ります。
しかし、「神を愛する」というときの愛には、そのようなテクニックは不要です。神は心を見るからです。さらに創造主と被造物の区別があるからです。すべてをさしおいて神を礼拝し、賛美し、感謝し、ゆるしを願い、恵みを祈り求めます。それが人間にとっての第一の掟です。「神を愛せよ」という第一の掟から、「兄弟を愛せよ」という第二の掟が当然でてきます。兄弟を愛することによって、父への愛が深められ、確かめられます。(荒)
「あなたは神の国から遠くない」というのは、神の国はだんだん近づいて、もう少しで来るというようなものではなく、悔い改めたらそこは天国であるということだと思う。律法学者に対して神の国は遠くないと言われたのは、知識として納得するのと、神の国に入るということとは次元は違うと示すためでしょう。L・ダビンチの有名なモナ・リザの絵が大阪に来ても、見に行かなければフランスにあるのと同じで遠い存在である。神の国は知識の問題ではなくて、そこに入らなければならない。イエスが一つの決断を促した言葉でしょう。(榎本) キリストは私たちから遠くない、十字架と復活は遠くない。私たちはそれに与りたいか否かです。


四旬節 第3土曜日
ルカ18・9-1



私たちは、ファリサイ派と罪人の二つの傾向をもっています。現代のファリサイ派は、罪人のふりをして祈ります。「主よ、私は罪人です。しかし、あの傲慢なファリサイ派ではないことを感謝します。
真面目に働いているときは、仕事の遅い人や病人に対して厳しく、自分を正義の尺度のように思い込みます。律法を守っていながら、その根本精神である愛にそむいています。
仕事うまくいかず、ストレスがたまると、本来、善意で小心で真面目な性格のため、自分だけ苦労が多く、理解されていないといった被害者意識にとらわれ、殉教者のように自分を美化し、そのゆとりもなくなると、謙虚を通り越して卑屈になり幸せな人をねたみはじめます。
何か変化が起こって自分がついていけないと、急にいらいらしたり、当たり散らし、コントロールの能力もなくなって、落ち込んでしまいます。
ファリサイ派と罪人の二つの傾向は、自分を神の立場、裁く立場に置くことをやめ、神の裁き、神の恵み、神の自由にまかせることによって乗り越えられます。(荒)

4 Lent

四旬節 第四月曜日
ヨハネ4・43-54


 イエスさまは「預言者は自分の故郷では敬われない」とおっしゃった。その故郷のガリラヤに再び戻られたのです。「敬われない」その故郷に行かれた。すなわちイエスさまにとって、ご自分が敬われるかどうかは関係ないということになります。ところが続きを読むと、45節に「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」と書かれてあります。これは一体どういうことでしょうか?‥‥「敬われない」はずが「歓迎された」のです。これは、「ガリラヤでは敬われないと思われたが、しかし予想に反して実際はそうではなかった」ということでしょうか?
「預言者」というのは神の言葉を語る人です。ですから「預言者を敬う」というのは、神の言葉を敬うこということなのです。しかしガリラヤの人々は、イエスさまのなさる不思議な業、奇跡は歓迎するのだけれども、神の言葉を敬い、耳を傾けて聞いて受け入れるということをしなかった、ということになります。こういうことは私たちにもあることです。すなわち、「イエスさまの奇跡は期待するけれども、その御言葉を第一に受け入れて従うのではない」‥‥ということが。
父親は「お出で下さい」とイエスさまに頼んだのに、イエスさまは一緒に行かない。そして父親に、一人で帰れと答えたのです。それは父親の願いに反していました。しかしただ帰れとおっしゃっただけではない。「あなたの息子は生きる」とおっしゃったのです。御言葉を下さったのです。「帰りなさい。もうあきらめなさい」ではない。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と約束の言葉をおっしゃったのです。イエスさまは行かないけれども、御言葉を下さった。
 父親は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」とあります。父親が願ったこととは違うけれども、今イエスさまを「主」と呼んで、イエスさまを信じた父親は、イエスさまのおっしゃった御言葉を信じたのです。すなわち、イエスさまを信じるということは、イエスさまの御言葉を信じることだと、聖書は語っているのです。
父親は、イエスさまの御言葉を信じて帰っていきました。死につつある我が子を助けていただくために、30キロの道のりを駆けつけて来た父親。床に寝ている我が子の苦しそうな顔が脳裏に焼き付いたまま駆けつけたことでしょう。一縷の望みを持って。イエスさまに来ていただこうと。しかし今、イエスさまは一緒には来られない。ただ御言葉を下さった。「あなたの息子は生きる」という御言葉を。今はただそれを信じるしかありません。我が子の命は、そのイエスさまの御言葉が真実であるかどうかにかかっているのです。父親は、本当にイエスさまのその御言葉にすがる思いで帰って行ったことでしょう。「本当ですね。イエスさま、本当ですよね」と、不安を打ち消すように心の中で繰り返し問うようにしながら帰って行ったことでしょう。
御言葉を体験するというのは、何か「ことわざ」や「名言」に感銘を受ける、ということとは違います。そういう第3者的なことではありません。イエスさまの御言葉を聞いて、実際にそれに従ってみる。信じるのです。そうしてその通りになる。イエスさまのおっしゃった通りになる。そうしてイエスさまがまことの救い主であることが分かる。‥‥それが御言葉を体験する、ということです。この父親は、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という御言葉を信じて帰ったのです。そしてその御言葉が本当であることを知ったのです。


能楽や歌舞伎などの古典芸能にとって「型」は大事な所作である。日々の練習を積み重ねて体得していく。神に信頼して生きていく「信仰」も同じような要素を持っているのではないだろうか。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とイエスは言われた。群集は「しるしや不思議な業」を見て信じたが、熱し易く、冷め易かった。日常に働かれる神の業を見るには、祈りによってイエスから手ほどきを受ける必要がある。
「委ねて生きていくこと」も小さな学びの積み重ねなのだろう。主よ、忍耐の少ない私たちですが、あなたに向かって精進していくことができますように。        
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 田中角栄さんは生まれ故郷の発展のために多くの国費を使ったので、新潟県の人々から神様のように崇(あが)められています。しかし、それは新潟県にとってプラスになっても、全国にとってはむしろ大変な迷惑になったかもしれません。昔も現代も、この点にでは世の中はあまり変わっていません。政治家は人気取りのために一部の人を特別扱いをしますが、イエスはそうしたくありませんでした。政治家は人が聞きたいことしか言わないで、本当のことを隠すことがあります。マスコミも人が知るべきことを伝えずに、聞こえのいいことだけ伝えています。現代においてイエスは信仰者の口を通じて本当のことを伝えたいし、隠されていることを知らせたいのです。(ステファニ)


四旬節 第四火曜日


エゼキエル47・1-9、12

神殿から湧き出る水が、やがて川となり、大きな流れとなっていく。その川は四方を清めるものであり、その水のほとりに大きな木が繁茂する。その葉は枯れず、その実は常に新しく実り、食用に使われ、薬にもなる。神殿から川が流れ四方の人々を喜ばせる、こういう風に預言される。
雨の少ない所であり、水の流れている所にだけ植物がある。川の流れる所に木々が育ち、人が住み、そこだけ豊かな地となる。すこし離れるとカサカサの砂漠であり、人も住まない土地柄である。水は命の水であり、人に命を与えるような働きをする。水が湧き出て川となり、大きな川となって、ということは、神の恵み、神の命が神殿から四方に及んでいくことが示されている。神殿の敷居の下から水が湧き出てくるというのは、砂漠のような所から湧いて、四方の人に豊かさをもたらす、という意味である。
エゼキエルの時代(紀元前600ー587年)には、エルサレム神殿は14年間荒らされ、民はバビロンに連れていかれて25年間も苦労し、貧しい生活を送っていた。世界の人々に対して、あるいは諸国に対して影響を与え、施していく力などまったくなかった。そのイスラエルに、昔栄えたソロモンの神殿を立て直せと神は言われるのである。神がともにいてくださるとき、貧乏人も金持ちもない。プラス無限大の世界がある。信仰の世界のすばらしさがある。すなわち神の国の世界である。現実のことを見ても、自分が生きていくのに精いっぱいという人が、人を信仰に導いていったりするようなもの。必ずしもこの世の力がものをいうのではなく、神がともにいてくださるかどうか、というのは肝心なところである。
 ユダは奴隷であり、敗戦国であり、当時の世界に影響を与えていく力などなかった。しかし、エゼキエルは預言する。神がユダを用いられるとき、世界の人に貢献し、豊かにしていく基(もとい)になるのだと。エルサレムが世界を富(と)ませていく基になるのだと。本当に神に仕え、神に聞き、礼拝を守るなら、必ず世界に影響を与え、遺産を残していくことができるのだ、と。
 この預言(神の啓示)は、今聖書となって、世界の果てまでも神を伝えることとなっているのである。神殿から流れ出る信仰の遺産の川は枯れることなく、人を潤し、木々を茂らせ、その葉は枯れず、その実は絶えず、いつも新たに実る。食用となり、薬となって人を豊かにし、絶えることがないのである。


ヨハネ5・1-16


八十歳のおじいちゃんのお見舞いに行ったことがあります。彼は五年間の寝たきりの方です。寝たきりで毎日を過ごすことは大変な苦痛だろうと思いました。イエスが出会った人も病気になってから三十八年間と書き記されています。気の遠くなるような年月です。 
彼を治したイエスを、イスラエル人の指導者はどうして批判しているのか、どうして治った病人と共に喜べないのかとつくづく思います。(ステファニ)
イエスが奇跡を行っても、それが必ずしも信仰をもたらさず、つまづきのしるしとなることがあります。治された病人にとっても、奇跡は信仰ではなく、もっと悪いこと、罪を犯すきっかけになりました。二度目にイエスに会った時、ユダヤ人にイエスを訴えた(5・15)と書いてあります。
いやされるのは当然だなどと思わないかぎり、訴えたりするでしょうか。この人の行動のうちに、イスラエルの民と私達の忘恩の歴史が描かれています。本当の奇跡は、受けた恵みを悟り、感謝することにあります。(荒)
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三十八年間の長い間毎日同じところ(ベテスダの池)に来ていても、それほど驚くこともなかったから、今日もまたそうであろうというふうに、いつまでも自分の過去にとらわれて、神の力を見ていこうとせず、また神に深い期待をかけていこうとしない信仰態度というものが、私たちを強く支配しているのではないかと思う。私たちはせっかく「恵みの家」(ベテスダの意味ですが)に来ておりながら(毎日)そこで自分は恵みにあずかりたい、恵みにあずかるのだという思いを持たないで、気休めにただそこにすわっているにすぎない信仰生活をしているのではないだろうか。(榎本)
三十八年間病に苦しんだ人が自由になった姿を見ても律法のことしか考えられないユダヤ人。「あなたは良くなったのだ」とイエスに言われてもその偉大な業、神の愛に気がつかない人。それら姿は時に、今を生きる私達とだぶります。神からの「いやし」は私達のすぐそばにあるのかもしれません。それが自分の律法で見えなくなったり、鈍感な心で感じられないのかもしれません。主よ、私に何ものにも縛られない自由な心、あなたの愛を感じることのできる素直な心をお与えください。


四旬節 第四水曜日
ヨハネ5・17-30 

私は、子どものころ、父親から用事を言いつけられたことが良くあります。私のこどものころ、私の町では、まだまだ電話が普及していませんでしたから、たとえば親戚の家などに届け物がある時などは、その家に行ったら、こう言って、これを渡すように。風呂敷は持って帰ってくるようになどと、言い含められたものです。たいてい、風呂敷を返してもらう時にはお駄賃(だちん)をもらったりしましたので、こういう用事は喜んでしました。時には、行ったきり、その家にあがりこんで、将棋で遊んで、なかなか家に帰らなかったので、兄が迎えに来るというようなこともありました。時には、父は私にお金を扱う仕事も任せてくれたことがあります。もっとも、わが家には使用人などいないので、家族の中で一番暇な私が使い走りをしたのでしょうが、父は、自分の子だから、安心して任せることもできたのでしょう。また、親戚や近所の人々も、私が父の子であるから、私の言うことを信用してくれたのだと思います。たとえ小さい子どもであっても、私が父の子であるというのは、大きな意味を持っていて、その時の私は、父を代表しており、人々は、私のことばではなく、私の口を通して、私から父のことばを聞いて、その言葉どおりにしてくれたのです。
 神は、さまざまな人をご自分のしもべとしてお用いになりましたが、イエスは、そのような人々のひとりではありません。子が父を表わすように、イエスは神の存在とご性質をそのまま反映しておられます。父と子がひとつであるように、神とイエスはひとつです。イエスの語られることは神が語っておられることであり、イエスのなさっておられることは、神がしておられることなのです。
 ユダヤの指導者たちは、このイエスの言葉に、激しい怒りを覚え、イエスを迫害しました。それは、彼らが「神はただおひとりである。神以外の何ものも神としてはならない。」という教えに忠実であったから、イエスがご自分を神と等しくすることを許せなかったからだけではありません。彼らがイエスを斥けたのは、実は、彼らがほんとうには神も、神のことばをも敬っていなかったからです。彼らにとっては、神よりも自分たちの名誉が大切であり、神のことばよりも自分たちの作った規則が大切だったのです。イエスは「子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」と言われました。彼らがイエスを斥けたのは、本当には神を敬い、神に従っていなかったからです。人が神になることは出来ませんが、神が人になることは不可能ではなく、それは旧約聖書にも預言されていました。彼らが、もし本当に神に聞いていたなら、神がイエスを通して語っておられることに耳を傾けることができたでしょう。
 私たちは、二千年前のユダヤの指導者たちと同じ失敗を繰り返さないように。

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旅に目的地がるように、人生にも目的地がある。それは神の裁きですが、四旬節には、自分は堂々巡りしているか、それとも迷子なっているか、チェックする時なのです。「未来が積極的な現実として確実に存在するとき、初めて現在を生きることも可能になります。」(『希望による救い』 2)

イエスが説明している裁きと、一般的に考えられている裁きと大分違います。つまり、イエスは裁判官のように裁判所で前に並んでいる人達に判決を言い渡すといったようなものではありません。裁きは自分の信仰によって決まるのです。一生涯神を無視した生き方をした人間は死ぬときに、神を無視し続けます。そして神を無視することは自分にとって一番不幸なことだったと悟ります。これは地獄です。一生を無駄にしたという思いは地獄です。地獄は、場所というよりも、こうした状態なのです。逆に、神を求める生き方をした人は、たとえ多くの失敗があったにしても、死ぬときに自然に一生を通じて求めたものの方へ行きます。これは天国です。死ぬ前にどういう方向に向かっていたかが永遠を決めるのです。イエスの判断が問題ではなくて、自分の生き方が問題です。人生の最期というのは、人生の中で最も大事な時期であり、そこで一番大事な仕事をしなければなりません。
イエスは「わたしの父は今もなお働いておられる」と言われ、父とはどういう方か話されます。そして「わたしの意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」と結ばれます。そこには御父の真の権威に裏打ちされた 御子の謙虚さと権威が感じとれます。今この時に働いておられる御父に、私達はどれほどの信頼をおいているでしょうか。誰も裁くことなく、命を与えてくださる御父の愛に支えられ生かされている私達。イエスのように御父への強い信頼を持ちながら,今日を生きることができますように。 
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たしかに、地上の一人の人間にすぎない者が、「自分の望む者たちに命を与える(復活させる)」というようなことを言ったら、それは狂気かサタン的な涜神でしょう。しかし、ヨハネ福音書のイエスには、復活されたイエスが重なっています。この福音書は復活されたイエスを父と一つである子として告知し、その方を神として拝むのです。ここで「自分の望む者たちに命を与える(復活させる)」と語っておられるのは、復活者イエス・キリストです。死者の中から復活された方として、イエス・キリストは「命を与える霊」(《ゾーオポイエイン》する霊)となっておられます(コリントI一五・四五)。パウロが告白したこの現実を、ヨハネは「子が命を与える(復活させる)」と表現するのです。

ユダヤ教では、律法を順守するユダヤ人はみな終わりの日の死者たちの復活にあずかるとされていました。それに対して、子であるイエスは「自分の望む者たちに」命を与える、すなわち復活させます。もはやユダヤ人である(ユダヤ教徒である)から復活にあずかるのではなく、子であるイエスが復活させるかさせないかを決めるのです。もはやモーセ律法を順守することは復活にあずかることの根拠ではなく、復活者イエス・キリストに属するかどうかがその根拠になります。その復活させるかどうかの決定が「裁き」という用語で次節に取り上げられます。

人はすべてやがて世界に臨む神の終末審判を受けて、永遠の死か永遠の命に定められると考えられていましたが、それに対してこの福音書は、そのような終末の審判を待つまでもなく、神から遣わされたイエスを信じてイエスの言葉を聞く者は、現在すでに死から命に移っているのだと宣言します。 そうすると、この死は人生を終わらせる死ではなく、現在人間が陥っている霊的状況としての死であることが分かります。この死と対立する命も、死後の命ではなく、現在生きている生まれながらの命とは別種の命を指すことになります。三章で「新しく生まれる」とか「上から生まれる」と言われていたことが、ここでは「死から命に移る」と表現されます。

ヨハネ福音書は、神の子であるイエスの言葉を聴いている者はすでに永遠の命を持っているという現在終末論の立場を基本にしながら、この箇所(二七~二九節)のような黙示思想的な終末待望を語る言葉も含んでいます。現形の福音書を生み出したヨハネ共同体の信仰の質を理解することです。この福音書は、なお黙示思想的終末待望を強く残している原始キリスト教の諸文書の中で、その終末待望をもっとも徹底的に現在化している特異な文書ですが、それでもなおユダヤ教会堂との論争の場にあって、ユダヤ教黙示思想独特のイメージと概念を用いて論争せざるをえなかったのだと理解できます。ヨハネ共同体は、このような黙示思想的用語も駆使してユダヤ教会堂と論争しつつ、自分たちは現在すでに復活者イエスにあって終末的な命を生きているのだという独自の現在終末論を、内外に証言するのです。

四旬節 第四木曜日
「私は父の名によって来ました」
ヨハネ5・31-47




聖書は、はっきりと、イエス聖書は、はっきりと、イエスを神の子、神としています。しかし、イエスを神の子と信じる信仰は、聖書の証拠を研究するだけで持つことができるものではありません。聖書を研究すると共に、自分の心をも研究しなければなりません。自分の中に、神に対する冷たい思いや高慢な思いがないだろうか、それが、神の真理を見ることを妨げていないだろうかと、反省し、素直に悔い改めることによって、イエスを神の子と信じる信仰が与えられるのです。もし、私たちが、自分勝手な生き方をしようとしているなら、イエスが神の子であり、私たちの人生の主であるということは、まことに都合の悪いことになってしまいます。私たちは、たいていの場合、それが、真理かどうかというよりも、それが自分にとって都合が良いか悪いかで、ものごとを信じたり、信じなかったりするものです。しかし、イエスが神の子であり、救い主であることが、私たちの人生のどんなに大きな祝福になるかを知って、その祝福を求めるなら、イエスが神の子であるというこれらの証しを心から受け入れ、それに応答することができるのです。
 (祈り)
 父なる神さま、私たちは、たとえ自分たちが十分に理解できないことでも、権威ある人々や専門家たちがそのことについて証言をすれば、簡単にそれを受け入れますのに、最も権威あるあなたの証言を、すべての知恵と知識を持っておられ、真実なあなたのあかしを受け入れようとはしません。私たちをそのような頑固なこころから解放し、あなたの証しに耳を傾けるものとしてください。イエスを神の子と信じることの喜びと感謝で満たしてください。神の御子イエスの御名で祈ります。
The flower does not bear the root,
but the root the flower.
The rose is merely the evidence
of the vitality of the root.
Woodrow Wilson ウッドロウ・ウィルソン  (1902-1910 US President) 
花は根っ子に証ししている。ねっこなしには花もない。この論理で考えると、今日の第一朗読で民は花だけ求めていた。モーセは一所懸命根っ子こそ大事だと民に悟らせます。
福音書ではイエス様はイスラエル人に根っ子について証ししています。荒れ野の先祖は大変苦労して信じるようになった。自分が先祖が信じていた根っ子から来たのにあなた達は認めないのはどういうわけか。やはり、あなた達も頭のかたい先祖のように花ばかり求めて根っ子を認めようとはしない。
私達ももしかすると表面的にしか考えていないかもしれません。私たちは読んでいる聖書、与っている典礼の根っ子を認めていないかもしれない。聖書は、典礼は証ししている現実を受け入れていないかもしれないというふうに考えさせられます。
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自分で自分がキリストである、神の御子である、あるいは神であることを証言しても、それは証拠にならないということです。それはその通りです。本当ならば、神さまがご自分のことを証拠を挙げて説明するというのは、おかしなことです。神さまは神さまであって、なにもへりくだって人間にそのように証拠を示す必要などないはずです。信じないならば滅ぼしてしまう、ということもおできになるはずです。しかし私たち人間を、あくまでも救うため残られたイエスさまは、へりくだって丁寧に説明なさるのです。
イエスさまは4つの証拠をあげて説明されます。
1.まず最初は、「洗礼者ヨハネ」を証人としてあげられるのです。
2.次にイエスさまの行っている業が証ししている。
 イエスさまがなさっておられる業、働き。それは、このお話のきっかけとなったベトザダの池での癒しの奇跡を見ても分かることです。そして4つの福音書に記されているすべての業が、イエスさまが神の御子であることを証言しているということです。そこには奇跡が現れ、またそれが単なる奇跡というだけではなく、一人一人の弱い者を顧みる神の愛が現れているのです。
3.第3番目に、「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」ということです。すなわち天の父なる神さまが、イエスさまが御子であることを証しして下さるというのです。
4.そして第4番目に、「聖書」がイエスさまのことを証言しているということです。
人間は、他のことは証拠をあげれば信じても、神さまについてはなかなか信じようとしない傾向があります。その原因は、聖書によれば、旧約聖書の創世記の失楽園の物語があらわしているように、人間の罪、人間の高慢に由来するものです。
 私たちは神さまの造られた世界の中に生きています。にもかかわらず、なかなかそれを認めない。神さまなどいない、と思っている人が多い。「神さまが存在する証拠はあるのか?」と言うことでしょう。
この世の人々が神さまを認めるように、聖霊の働きを求めて祈り続けましょう。
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イエスさまは、人間からの誉れを受けようとおもって働きをなさっているのではなく、ただ天の父なる神さまからの誉れを求めて働いておられるのです。そして「あなたがた」と言われているユダヤ教の宗教家たちは、反対に、神からの誉れを求めないで人間からの誉れを受けようと思って信仰している。‥‥そういうことをおっしゃっているのです。

 自分自身の名によって来る人は、この世に受け入れられやすいのです。自分の名誉、栄光を求める人をコントロールしやすいのは、この世の誉れで釣ることができるからです。しかもこの世の栄光は、持ちつ持たれつの関係にあるものです。お互いが「先生」「先生」と呼び合って、栄光を与え合い、受け合っているのです。ですから有名な人のところに人が集まるのは、集まった人々も、有名な人を知っているということで、誉れを受けるからです。
 しかし神の名によって来る人は、この世では受け入れられません。この世の価値の規準に従うのではなく、永遠の価値規準で行動するからです。この世の人からしたらコントロールしにくい、あつかいにくい相手なのです。この世の栄光を与えて、自分の味方に取りこむこともできません。むしろ世の誉れに、永遠の栄誉をつきつけて、私たちをこそ、ご自分のほうに取りこもうとするからです。私たちの立場をゆるがし、私たちにこそ改心を迫るからです。(静)
モーセが神をなだめてイスラエル人のためにとりなした(第一朗読)ように、キリストも全人類のために御父にとりなしておられる。私達は常に働いておられる神、今も注がれている神の愛を感じているでしょうか。どの程度信じているでしょうか。今私が頼りにしている「若い雄牛」の偶像、ないしは律法は、真の命を生きるためのものでしょうか。御父の大きな愛、ご自分を無にし私達のために働いてくださる御子の愛、そして聖霊の力によって生かされていることを心にとめ、今日を生きることができますように。

四旬節 第四金曜日
「あなたがたはその方を知らない」
ョハネ7・40-53


 
 「弱い者いじめ」とか、「弱肉強食」ということばがあります。強いものは弱い者をいじめ、食い物にするという現実をかたっています。この世の論理。今日の第一朗読は、神を信じる者は弱い立場に置かれ、いじめられやすい存在となると語っています
信仰者は試される、今日のテーマはこれですね。キリストでさえ、神のひとり子でありながら試された、いじめられました、馬鹿にされた。誘惑を受けた。四旬節の第一日曜日の福音書テーマですね。信仰者も、信仰者であるが故に侮辱されたり、いじめをうけたり、冷たい目でみられたり、誤解されたり、指さされる。キリストの弟子となるために、キリストの力を受けるために、試練を恐れない必要がある。むしろ、立ち向かう姿勢が必要。
「主により頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。とパウロはいっています。邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身につけなさい。」霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい、どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よくお乗り続けなさい。」(エフェソ6、10ー18)
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何と鋭い、何ときつい言葉でしょう。それでも、聖書の専門家(神の専門家)、いっしょにいたユダヤ人の民衆に、投げつけられた言葉です。世界中の民族の中で、自分たちユダヤ人こそ本物の、真実な神を知っていると思っていたのですから、そのショックの大きさは想像できるでしょう。この言葉に反発するか、あるいは胸を打ってへりくだるか、または無視するかによって、人は自分自身を裁くのです。
 そういう意味では、聖書学者も神学者む、まだ一度も学んだことのない人も、すべての人が皆平等な生徒になって、神のことを学ぶ必要があるのでしょう。(静)
イエスについての話しは一般論から個人的なレベルにおりてきたとき、面白いことに皆同じイエスの話を聞いたのに、それに対しての判断はそれぞれ違います。個人の生活レベルによって、今までの体験、受けた教育、生活する環境によって、判断が大きく変わります。
信仰者は皆同じキリストを信じていると思っているが、中身を掘り下げてみると、案外かなりの違いがあることに気が付きます。たとえば、ある者は心の平和を得るための信仰だと思ったり、ある者は社会問題に取り組むための信仰と理解したりします。信仰理解についてもっと一緒に考えてみる必要があるかもしれない。(ステファニ)

四旬節 第四土曜日
「今まで、あの人のように話した人はいません」
ヨハネ7・40-5


 「今まで、あの人のように話した人はいません」とは、何という立派な信仰告白なのです。 たちは、イエス様をつかまえるために遣わされたのに、その話にすっかり感心して帰ってきたのです。このような人は、今まで見たことはない、と宣言しているのです。ここに神様の皮肉、ユーモアを見ることが出来ます。
 同時にこの言葉は、彼らを遣わした祭司長たちやパリサイ派の人に対する、痛烈な批判を含んでいます。下役たちは今まで、宗教家たちに仕えてきた人間です。たくさんの立派な説教を聞いたでしょう。耳にたこができるくらいありがたい話を聞いてきたはずです。もう、あきあきしていたのかもしれないのです。いやだからこそ、今まで自分たちが会ったどんな「先生」よりも、すばらしい語り手であるイエス様を知ったのでしょう。
 パリサイ派の人たちは、自分たちの話が下手くそだと言われて腹を立て、「お前たちも、まどわされたのか」とバカにし、有力な人はだれも信じていないぞ、と集団の力の論理をおしつけて、下役たち個人の素直な判断を殺そうとするのです。
 しかし彼らが軽蔑していた群衆のほうが、イエス様のことを「預言者」とか「キリスト」とかとらえていたのです。祭司長たちもパリサイ派の人たちも、自らを心から恥じる必要があります。自分の愚かさを恥じるところから、救いが始まるからです。(静)

5 Lent

四旬節 第五月曜日
ヨハネ8・1-11


ヨハネは光と闇のコントラストを用いて、イエスが光であり、まことの証しと正しい裁きを行うかたであることを述べます。そのために姦通の女とイエスとの出会いを描きました。彼女は光の中を胸を張って歩くことができません。彼女は神を裏切り続けてきたイスラエル、全人類、わたしたちの象徴です。イエスは女を罪に定めず、救います。それが神の裁きです。イエスの裁きが正しく、その証しが真実なのは、イエスが父なる神と一致しているからです。ヨハネはイエスと父との一致を、イエスの由来と終極目標の面から述べます。「わたしは自分がどこから来たか・どこへ行くかを知っている」。イエスは父から派遣され、父のもとにもどることを知っているのです。人々はその秘密をしりませんから、イエスと御父との一致もしりません。人々には御父は見えません。だから、イエスは自分のことを自分だけで証ししているうそつきにすぎません。イエス一人の証言は無効だという結論になります。この世がイエスを受け入れない以上、イエスの父を知ることはできません。イエスを知れば、父についてもわかるはずです。イエスと父とは一致しているからです(ヨハネー4・7-10)。(荒)
私達は今住んでいる社会は平和な社会、民主主義に基づいた社会だと思っている人が多いでしょう。ところが本当の姿は違います。弱い立場の者を踏みつける、管理教育によって子供の人権を無視する社会でもあります。表向きの顔しか見えていない人に、現実を見えるように、イエスは光になって下さいます。
イエスと姦通の女が大勢の民衆、律法学者たち、ファリサイ派の人々に取り囲まれています。しかし、イエスが女と言葉を交わすのは、その女と一対一になってからです。イエスと真の意味で出会うには一対一となる時が求められるようです。イエスの「罪を犯したことのない者が...石を投げなさい」
という言葉は私たちを原点に立ち返らせます。大義名分を振りかざして人を裁く時、自分の貧しさは見えなくなっています。この世で唯一人を裁く権利のある方の「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉は、なんと私たちの心を解放し、真の自由へと向かわせてくれるものでしょう。
主よ、あなたともっと親しく出会わせてください。そしてあなたの言葉を私の心の奥深くに響かせてください。

四旬節 第五火曜日
ヨハネ8・21-30


イエスが上げ られることが、「モーセが荒れ野で蛇を上げた」ことと重ね合わされています。それは主イエスの十字架を意識した言葉です。つまりここ で主イエスは、「私はまもなく十字架につけられ、竿の先に上げられ た蛇のように地上高く上げられる、そのことを通して、父なる神のも とに、天に上げられるのだ」と言っておられるのです。そしてそれは 同時に、この主イエスの十字架が、モーセが掲げた青銅の蛇と同じ く、罪に陥った民に赦しを与えるものだということです。青銅の蛇を 見上げた者が救われたように、上げられた人の子を見上げて信じる者 が皆、永遠の命を得るのです。天から降って来た神の独り子であられ る主イエスが十字架にかかって死んで下さることによって、神様に背 き逆らい、神様からの恵みのボールを受け止めようとせず、交わりを 求めておられる神様のみ心を無にしてしまう罪の赦しが与えられ、神 様との新しい関係、交わりが与えられるのです。このようにモーセが 掲げた青銅の蛇は、主イエス・キリストの十字架の死を予告し、指し 示すものでした。神様は主イエスの十字架の死によって、罪に陥って いる私たちに向けて新たに、恵みのボールを投げかけて下さっている のです。このボールをしっかり受け止め、神様に向かってそれを投げ 返していくことが私たちの信仰なのです。 

私たちの荒れ野の旅を支えるもの 
信仰をもってこの世を生きていくことは、神様の恵みの約束を信じ て荒れ野を旅していくようなものです。そこには様々な妨げや苦しみ があり、気力をそがれてしまうような出来事が起ります。けれどもそ れは、神様の恵みがそこにない、ということではありません。神様は この荒れ野の旅の中で、私たちとの間に真実な交わりを造り出そうと しておられるのです。そのために、いつも神様の方から、恵みのボ ールを投げかけて下さっているのです。独り子イエス・キリストをこ の世に遣わし、その十字架の死と復活によって罪の赦しと永遠の命の 約束を与えて下さっていることが、神様が私たちに与えて下さってい る最大の恵みです。私たちの周りには蛇がいます。蛇は聖書では、人 間を神様の恵みから引き離し、罪に陥れようとする悪魔、サタンの象 徴です。私たちはいつもこの蛇の攻撃、誘惑にさらされているので す。そして私たちはまことに無力な者であって、この蛇の攻撃や誘惑 によってすぐに神様の恵みを見失い、信頼を失い、神様との交わりに 生きることができなくなってしまいます。しかしそのような私たちの ために神様は救い主イエス・キリストを与えて下さいました。私たち の罪を背負って十字架にかかって下さった主イエスを見上げるだけ で、蛇の毒はその力を失うのです。なぜなら主イエスの十字架と復活 とにおいて、神様は罪の力、サタンの力を打ち破り、私たちに救い を、新しい命を与えて下さっているからです。十字架と復活の主イエ スを仰ぎ見る信仰こそが、荒れ野の旅を続けていく私たちを支え、約 束の地へと導いていくのです。 
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 四旬節は、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、苦しみを受け、死なれたことを覚える季節です。それゆえ、私たちが自分の罪を深く覚え、悔い改める季節ですし、同時にイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちが救いに入れられた恵みを感謝する季節でもあります。
 ヨハネ福音書はやや難解に見える言葉かも知れませんが、この季節にふさわしい、味わい深い御言葉だと思います。
 今日の箇所で、まず私の目に飛び込んできたのは、21節の「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉でしょう。この言葉は、24節で、更に2回繰り返されています。
 何か私たちを不安にさせる言葉ではないでしょうか。
 しかし私たちは、このことは聖書が私たちに突きつけている厳しい現実であるということを、心に留めなければならないでしょう。このことがわからないでは、四旬節の恵みも、本当には一体何が恵みであるのかがわからないのです。パウロも、ヨハネがこのように言ったのと同じことをローマの信徒への手紙の中で言っております。それは「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)という言葉です。
(2)聖書が言う「死」と「いのち」
 聖書が言う「死」というのは、必ずしも肉体的な死ということではありません。もちろんそれと無関係であるわけでもありませんが、聖書が「死」と呼ぶのは、肉体的な「死」よりももっと根源的な死であります。一体それがどういう状態であるのかは、それと反対の「いのち」について考えるのがいいでしょう。聖書が「いのち」と呼ぶのは、あるいは「生きている」というのは、神様とつながっている状態のことです。そこからすると、「死」というのは、神様から切り離された状態であるということがわかります。私たちが恐れるべき「死」とは、まさにこの状態のことであって、この神様から切り離された状態、その「死」の状態から救いの道をつけるために、イエス・キリストは十字架におかかりになったのです。
「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25)
 という有名な言葉も、「生きる」とは神様とつながっていること、「死ぬ」とは神様から切り離されていることと理解すれば、よくわかるのではないでしょうか。
 「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」(21節、24節)という言葉は、私たちを不安にさせますが、注意深く24節の前後を読めば、どうすればそうならないかということも、わかります。
 (4)天の国籍  下に属するもの 上に属するもの
 パウロはそのことを別の言葉で、「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)と言いました。口語訳聖書では、「わたしたちの国籍は天にある」となっておりました。この方がわかりやすいかも知れません。わたしたちは、今は、この世、この地上を生きていますけれども、それは言わば外国人として寄留しているようなものだ。本当の国籍は別の国、天の国にある。だからあちらの国籍をもっている。天国のシチズンシップをもっている。天国の市民権をもっている。天国のパスポートを持っているということです。
 私たちはこの世で生きている限り、ある意味でこの世に束縛されて、この世の法則(科学など)の中で、あるいはこの世のしがらみの中で生きています。またこの世で生きている限り、当然、この世のルールを守って生きなければなりません。しかしそのような中で、寄留者のように、外国人のようにして生きているのです。
 それは二重国籍というのとも、ちょっと違うと思います。二重国籍というのは便利ですね。私の知り合いも二重国籍をもっていますが、あっちの国に入る時はあっちのパスポートを見せて、こっちの国に入る時はこっちのパスポートを見せる。ただし天国とこの世では必ずしもそううまくはいきません。そういう風にうまく使い分けているかのように見えるクリスチャンもありますが……。ある時はクリスチャンとして、ある時はクリスチャンでないかのようにして生きている人もあります。もちろんクリスチャンに対する偏見のあるところで、「そうじゃないクリスチャンもいるんだよ」と証しをするのはいいかも知れません。しかしクリスチャンであることを隠すことによって、この世を生き延びるような生き方は、それはどこかで自己分裂してしまうのではないでしょうか。あるいはそのようなダブルスタンダードに自分で気づかないこともあるかも知れません。そうした生き方は、本質的にはこの世に属しているのではないかという気がします。これは微妙なところです。確かにどちらでもいいところでは蛇のように賢く生き抜きながら、肝心のところでは鳩のような素直さ(率直さ、真っ直ぐさ)が求められるのであろうと思います(マタイ10:16参照)。私自身、自戒の念を込めて、そう思うのです。
 しかしそのように命の根源であるイエス・キリストに連なる時に、私たちも上に属する者とされる。天の国籍が保証される。上のものへの道が開かれるのです。これが一つ目であります。

ーーーーーー
ヨハネは、イエスが十字架にあげられることを、栄光へ高かめられたこととして捉えなおしました。信仰をもって受難の出来事を振り返ると、十字架は父の愛、子の愛の現れとなります。と同時に、イエスを信じない人びとのかたくななさも、大きな悲劇としてクローズアップされてきます。パウロはすでに、ユタヤ民族の救いと滅びについて、辛い思いで書きました。「かれらの捨てられることが、世界と神との和解をもたらすのなら、かれらが受け入れられることは、死者の中からの復活でなくてなんでしょうか」(ローマ11・15)。
パウロの宣教から五十年後、ヨハネの教会は、ユダヤ人よりも異邦人の方が多くなって、ユダヤ教の伝統や律法は過去の問題になっていました。ユダヤ教から独立したキリスト教は、ユダヤ教との対立を激化させ、イエスをメシアとして信じるかどうかをめぐって戦っていました。
ヨハネはイエスを信じないかたい心を、光に敵対する闇、「この世」、「下からの者」として表現しました。「あなたがたは下からの者、この世の者、自分の罪のうちに死ぬ」。
イエスが上からの者、「わたしはある」、すなわち、神の現存であることを信じなければ、自分の罪のうちに死ぬでしょう。それは不信仰の罪であり、不幸でもあるのです。(荒)
イエスはご自分の行くところに人々が来ることができないと言われます。人々は、イエスがどこに行かれるかを知らず、また、イエスがどこから来られたか、イエスが何者なのかをも知らないからです。その彼らからイエスは「あなたはどなたですか」という問いを引き出し、最後には、「多くの人々がイエスを信じた」とあります。イエスの言葉に注意深く耳を澄ませ、その行いをよく見る時、イエスの背後におられる方が見えてきます。私の日々の生活の中に、このイエスがどのように息づいているでしょうか。今日、イエスを一層知り、イエスに信頼して委ね、イエスの行くところに私も行くことができますように。


四旬節 第五水曜日
ヨハネ8・31-42


差別や偏見が自由を奪います。現代社会にも、差別や偏見によって自由を奪われた人びとがいます。難民、飢えた人びと、自分自身の衝動や欲にとらわれた人びと。
今日の第一朗読と福音書をつなげるキーワードは「自由」です。三人の青年はこの世の権力に対して自由を主張することが出来たのは、本当の神を信じたからです。ユダヤ人は神から選ばれた民族として、自由の子、アブラハムの子であることを誇りとしていました。そのプライドに妨げられて、真理に反対し、アブラハムが喜んで礼拝したであろうかた、イエスを殺そうとします。
イエスは父への愛のために自分をささげ尽くしました。それによってこの世の本当の姿が見えて、人は自己にとらわれている状態から解放されました。
イエスのことばに留まるなら(現代的に表現すれば、イエスと連帯する、イエスにつながることによって)真理はわたしたちを自由にし、解放します。イエスのいのちに結ばれることによって、自分のいのちを愛している孤立状態から、愛と奉仕によるいのちへと高められます。ヨハネは、「いけにえ」・「あがない」といった祭儀用語よりも、「自由」、「解放」という表現を用います。これはそのまま、現代的なことばとなって語りかけてきます。
イエスと連帯し、無知と不信仰から解放され、あらゆる偏見と束縛から自由になろう。真理そのものであるイエス、正義そのものであるイエス、自由を与えてください。信仰の自由を与えてください。(荒)
「真理は君たちを自由にする」とイエスは言っています。つまり私達はもともと自由ではありません。様々な偏見の奴隷になっています。
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イエスを信じて、従っているつもりでも、知らず知らずのうちに世の価値観に汚染され、奴隷になってしまうことがあります。今、わたしは何の奴隷になっているでしょうか。わたしの言動の源はどこからくるのでしょうか。神のみことばであるイエスを自分のうちに迎えて、耳を傾けているでしょうか。空しいことに心を向けず、さまざまな偶像に惑わされることなくみことばに宿る愛が、わたしたちの心を照らし、強め、清め、自由にしてくださいますように。sese07


四旬節 第五木曜日
「私はアブラハム以前からある」
ヨハネ8・51-59


イエスは自分自身については語らず、もっぱら神の自由について、神の働きの偉大さについて語りました。自分については神の沈黙に委ねました。それは、自分をメシアとして宣伝することよりも大いなることでした。
受難と復活を体験した弟子たちは、神の霊に満たされて、イエスのことばと生涯を振り返りました。かれは世の光だった。いのちのパンだった。かれは神のためにのみ生きた。自分の名誉を求めなかった。これらの考えはイエスの口に移され、イエスが自分の存在秘義を啓示する形で表現されました。「わたしは世の光である。わたしはいのちのパンである。道、真理、いのちである。わたしはアブラハム以前からある」。「わたしは自分の栄光を求めない。わたしの栄光を求めるかたがおられ、そのかたが裁いてくださる」。
アブラハムは神の子の栄光を待ち望んでいたのに、その子孫は、神の子がほんとうに来たとき、信じようとせず、石殺しにしようとします。神と人との和解の場、神殿からイエスは追放されます。イエスこそ神の現存の場、神殿そのものであったのに。罪の女を石殺しから救ったイエスは、ご自分の民から出て行かれました。(荒)ユダヤ人たちはアブラハムの子孫といいながら、実はアブラハムらしくない生き方をしているように、私たちもキリストの弟子と自称しながら、実はキリストらしくない生き方をしているではないか。キリストを教会から追い出そうとしているのではないか。このような反省を促す福音です。
イエスの考えている「死」と、ユダヤ人の考えている「死」の間には、隔たりがあるようです。
イエスが、「わたしの言葉を守るなら、決して死ぬことがない」と断言できるのは、歴史を超え、この世を超え、永遠に生きておられる天の父を知っておられ、その方から聞いたことを語っているからでしょう。私たちもユダヤ人のように、生きるとは何か、本当のいのちとは何かを知っていると思い込んでいる。実は知らない…。キリストは私たちが知らないことを知っている。
こうしてイエスは私たちを永遠の命に招いておられます。
主よ、アブラハムのように信仰のまなざしでイエスを見、喜び、イエスの招きに応えていくことを教えてください。
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ヨハネはユダヤ人であり、彼が指導する共同体の中核はユダヤ人であると見られますが、その共同体が生み出したこのヨハネ福音書は「ユダヤ人」と厳しく対立し、「ユダヤ人」を真理の敵として激しく非難しています。それは、マタイ福音書と同じく、ヨハネ共同体がユダヤ戦争以後のファリサイ派ユダヤ教会堂勢力から迫害される状況から出たものと考えられます。その中で今回取り上げた八章後半(三〇~五九節)の箇所は、「イエスを信じたユダヤ人」との論争として特異な内容になっています。すなわち、自分たちを迫害する外のユダヤ教会堂勢力ではなく、同じイエスを告白する陣営内でのユダヤ人との対立であり、彼らとの論争が外のユダヤ教会堂勢力との論争と重なって、きわめて複雑な様相を見せています。この論争は、用語や思想内容からして、ユダヤ教の枠に固執し続ける「ユダヤ主義者」と戦ったパウロを思い起こさせるものがあり、改めてパウロとヨハネの関わりを考えさせます。この論争は、福音における真理と自由の追求がいかに激しい戦いを必要とするかを思い起こさせます。


四旬節 第五金曜日
ヨハネ10・31-42


イエスは父に由来する善い業を行いました。その業によって、イエスを信じることができます。ところがユダヤ人(「ユダヤ人」のかわりに、「不信仰者」ということばを入れかえるとよくわかります)は、イエスの善い業よりも、イエスのことばを問題にします。善い業を認めることによって、それを行っている人物を受け入れ、またその人物を信じているので、言っていることも信じるというのが人間関係の基本です。ことばに振りまわされず、まず、その人の行為をよく見て判断しなければなりません。そのためには、じっくりと見ることが必要です。早急に、神の子かどうか、神からのものかどうか、いい人か、悪い人か、きめてしまおうとするところに、人間の浅はかな態度があります。(荒)
「わたしを信じなくても、わたしが行っている父の業を信じなさい。そうすれば、父なる神がわたしにおり、わたしが父なる神と一致していること、すなわち、神の子であることを悟るだろう」。
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エレミヤ預言者と同じようにイエスも大変せっぱ詰まった状況の中にいて、反対者から殺されそうです。けれども、神のささえを得て勝利をおさめる。イエスが誠意をつくし、どのように関わり続けてくださっても、頑なに、歯向かい続ける心がある。ヨハネ福音書が言いた
いのはこういうことだろう。
神を知りたいならイエスを見れば十分です。私達人間にとっては、神に出会う、神を知るチャンスは、イエス・キリストをおいてほかにありません。問題は、私達は神を本当に知りたいかどうかです。
イエスがなされた多くの力ある業は、悪霊を追い出し病人を癒すなど、人が人として生きることを助ける「良い業」でした。それは、人がなしえない業であり、父から賜る力でなされた働きでした。その中のどの業が、石打に相当するような行為になるのか、とイエスは反論されます。イエスの言葉はあまりにも人間の思いを超えているので、はじめはイエスが語られる言葉を信じることができなくても、イエスがなされる働きが人から出たものではなく、神から出たものであることを信じるならば、イエスの内に父(神)が働いておられ、イエスが父(神)の内におられる方であることが分かるようになるはずだと。ヨハネ福音書は、業(奇跡)を見なければ信じないことを非難しながらも(四・四八)、イエスがされる業を父がイエスを遣わされたことの「証し」と意義づけ(五・三六、一〇・二五)、業そのものを信じるように求めます(一四・一一)。それがイエスを信じることへの入り口になるとします。
私たちも、ユダヤ人のように、日常生活で示される多くの善い業を見ても、それに気づかず通り過ぎてしまうことが結構あるのではないでしょうか。例えば、教会制度のお陰(業)で毎年四旬節と復活際を祝うことができます。様々な修道会のお陰(業)で色々な活動がなされている。様々なサービスに与ることができる。それは、当たり前ではない。ユダヤ人たちのように、「~が当たり前」というのであれば、それは自分の考えや価値観からしか、物事を見ていないからではないでしょうか。イエスは、御自分の「善い業を信じなさい」と言われ、そうすれば「父なる神とイエスとが一つである」ことを悟るだろうと言っておられます。
主よ、日頃何気なく見過ごしているあなたの善い業に気づかせて下さい。今も働かれるあなたの業すべてを通して父なる神を讃えることができますように。


四旬節 第五土曜日
ヨハネ11・45-56


大祭司カヤファは・知らずに預言しました。「一人の人が民にかわって死に、それによって全国民が滅びない方がよい」。イエスの死は、人間的な政治判断の結果であっても、神の目から見れば・ユダヤ人ばかりでなく、すべての人のためのあがないの死、身代わりの死でした。
ヨハネは・パウロほどあがないの死を強調しませんが、散らされた神の子らが一つになるための死を強調します。
とうとう最高法院を招集させるほど、イエスの存在はやっかいなものになっていました。民衆や弟子もイエスのメッセージの意味をよく理解できませんでしたが、権力者側はその意味をいやになるほど理解しました。そのメッセージが民衆に理解されたら自分たちが握っている権力は問われる可能性があると彼らには分かっていました。
これは大変な歴史の皮肉(運命)かもしれない。メッセージを必要とする人々はその意味を理解できず、自分の利益を何より考える人々にはピンと来ました。民衆はファリサイ派の話になれていて、全く違った観点からの話をするイエスの言葉の意味をよく読み取れませんでした。もしかすると私達もイエスのものの考え方にまだなれていないのかもしれない。
やはり、イエスのメッセージはすべての人、すべてのものを一つにまとめるものですから、それを理解するために広い心、開かれた姿勢が必要です。
私たちは、一人ひとりのひとが大切なんだと十分に知っています。しかし、カイアファの言葉「ひとりの人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないですむほうが、あなた方に好都合だとは考えないのか」という言葉は、私たちの心深くにも巣くっているのではないでしょうか。このことに気づくとき、「主よ、多くのひとのためという大義名分によって、小さくされた人々の中にいるあなたを滅びヘと運ぶことが無いようにお守り下さい」と祈らずにはおられません。どうか、わたしたち小さな者のために十字架の道を歩まれたとてつもないあなたの恵みを悟らせて下さい。

Ash wednesday week

灰の水曜日

「断食するとき、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。」

マタイ6・1-6、16-18


四旬節の目的、キーワードは回心です。B・ロナーガンという神学者によれば回心には4種類(4段階といった方がよいかもしれません)があります。
神を信じない人は神を信じるようになる。神のみ旨に従っていない人は従うようになります。これは、「宗教的回心」(religious conversion)と言います。
その前に「道徳的回心」(moral conversion)、行動に関する回心があります。例えば悪口を言う人は、悪口を言う分だけ神様のことは分からなくなるわけです。モーセの十戒を守れない人は神を認めにくくなります。
さらに前に、「知的回心」(intellectual conversion)があります。例えば、今日の福音書にあるように、宗教行事は「人に見てもらう」ためにあります。「僕は何も悪いことしてない、何で回心せなあかんか」というかもしれない。けれどもあんたは世間からよく思われたいでしょ。それでしたらファリサイ派と一緒ではないか。あるいは、「お金はすべてであるとか。お金さえあれば大丈夫」という考えがある。他に、固定観念となっている考えはいろいろあります。また、唯物論や汎神論というような考えを持っていたらキリストの復活は分からないでしょう。
また、「感情の回心」(affective conversion)というのがあります。例えば、腹が立つと考えが硬くなり、誤った行動になり勝ちというように。愛情は生ぬるくなっているかもしれません。心がかたくなになっているかもしれない。恐れがある、人を憎んでいる、快楽に走りすぎている、愛情不足のため食べ過ぎているなどなど。
断食、節制はこのレベルで働きかけます。感情に刺激を与えて、回心を促します。そこから、知的回心がしやすくなり、誤った行動を正し、生き生きとした、豊かな信仰になります。
回心は一回限りではなく、実は人生の最後まで必要というわけです。四旬節はそれを思い出させるのです。
ロナガンは言うように、固定観念は堕落を呼びます。考えを広げるのは進歩を呼びます。
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寂しい時、失敗した時、心が弱っているとき、あたたかな思いやりの人に元気づけられることがあります。批判したりせず、そばにいて、いっしょに悲しみやもがきを共感してくれると、心は軽くなります。
神の訪れが来るときも、神はわたしたちを裁き、押しつぶしてしまうのではなく、ありのままのわたしたちを受け入れ、わたしたちを内部から回復させてくれます。悔い改めるとは、神がどんなにあたたかなかたであったか、ハッと気づき、そのかたに手を合わせ、頭をさげることです。いのちを与えてくれた神に感謝し、いのちをおろそかにしてきたことを思って胸を打ち、いのちの尊さを体を通してわかるために灰を頭に受け、断食をします。
ファリサイ派にとって、断食は義人になるための修業でした。貧しい人びとに施しをするために食費を切り詰め、断食をしました。
 キリスト者にとって、断食はさらに深い意味が加えられました。イエスは述べたように(マタイ9・14ー15)、「花婿の友人たちは、花婿がともにいるとき、悲しむことができようか。断食できようか」。やがて受難と復活を体験した弟子たちは、イエスのことばに加えます、「花婿が取り去られる時が来る。そのときには断食する」。断食は、キリストの死を悲しむ愛の象徴行為になりました。悲しくて、苦しくて、胸がつまってなにも喉を通らない。心の悲しみが体にまで影響するほど深い愛で大切なかたの死を悲しみたい。花嫁である教会は、花婿キリストへの愛を深めるために、貧しくなられたキリストに似るために断食します。(荒)
「施し」「祈り」「断食」。この3つのどのテーマにも「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」というメッセージが鳴り響いています。十字架上で完全に無となり、純粋な愛を全うされたイエスに従っていくために、なんと大きな力となるみ言葉でしょうか。

内面の自分の在りように眼をむけ、隠れたことを見ておられる御父に「よし」としていただけることだけをひたすらに望んでいくことができますように。
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施し・祈り・断食はよい行いです。これを実行していると人々から誉められます。しかし、神にも誉められるかどうかは分リません。神は外的行為から判断する方ではなく、心の奥を見るからです。
私たちが言う本音と建て前のことでしょう。実際には、理想としていることと現実に生きていることには大きなギャップがあることに気付きます。今年の四旬節はいいかっこしいことをやめて、もっと本質的なことを心がけましょう。
主よ、隠れたことを見ておられるあなたの目にふさわしく生きることができるよう、助け導いて下さい。sese07
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 今日から四旬節が始まります。四旬節は伝統的に、回心の季節として大切にされてきました。そして今日の福音は、回心の業として重んじられてきた「祈り、節制、愛の行い」についてのイエスの説教です。現代の教会は「祈り、節制、愛の行い」と言っていますが、福音書の言葉では「施し、祈り、断食」ですね。イエスはこの「施し、祈り、断食」にせっせと励みなさいと言っているでしょうか。そうではありません。むしろ、「施しをするとき、わたしたちの心がどこを向いているか」、「祈るとき、わたしたちの心がどこをむいているか」を問いかけています。施しをするのは、最低限、生活に必要なものにも事欠いている人に心を向けるということのはずじゃないか。人に見せたり、自己満足のために施しをするのは、まったくおかしなことではないか。イエスはそう問いかけています。祈るのは神に心を向けることではないか。それなのに、祈っている姿を人に見せびらかそうとしているなら、それはまったくおかしなことではないか、そう問いかけるのです。
 断食はどうでしょうか。今日は特別に断食する日。今も大斎・小斎と言って、この灰の水曜日と聖金曜日だけは全世界のカトリック教会で断食が呼びかけられています。断食とは何のためにすることでしょうか。それは決して我慢大会のようなものではありません。自分がどれだけ断食できるかを自慢するためのものではないのです。
 昔、ある本でイスラム教の断食について書かれている言葉を読んで感動したことがあります。さすが「ラマダン」という断食を実践している宗教だけのことはあると思いました。確かこのような言葉でした。
 「ムスリムが断食するのは、食を断つこと自体に意味があるのではない。食物なしに生きることのできない自分を見つめ、この自分を生かしてくださる神の愛を思うこと。また必要な食べ物にも事欠く兄弟のことを思うためである」
 実に見事な定義だと思いました。断食している人の心が向かうのは、神に対して、そして貧しい兄弟姉妹に対してであるはず。その断食さえ、人に見せびらかし、自分を誇る道具にしてしまう。イエスはそういう態度を厳しく批判しています。問われているのはそういうことなんですね。
 四旬節を迎えて、わたしたちの心がどこを向いているか?
 ミサにあずかり、灰の式で頭に灰を受け、黙想会に参加して、ゆるしの秘跡を受け、愛の献金をし、祈り・節制に励んで、じゃあ、本当に神に心を向けているのか、助けを必要としている兄弟姉妹に心を向けているのか。
 心から回心する恵みを願いながら、灰の式を行いましょう。


灰の式後の木曜日

ルカ9・22-25



「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざがあります。つまり、二匹のウサギを同時に追いかけるならば一匹もつかめないということでしょう。今日の聖書朗読はまさにこういう論理を表しています。「自分を捨てなければ」キリストに従うことはできない。全世界を手に入れても肝心なことを失う。この世のいのちを追求するなら、神が約束するいのち(第一朗読)を得ることはできないと。
この世を捨てなければあの世は得られないという論理は、現代人にとっては受け入れにくいように思われる。どちらかというと、感情的に嫌う面があります。せっかくこの世に生まれてきたのだから、この世を楽しんで何が悪いのか。いくらか開き直りにも聞こえるが、これにも、一理ありと考えられます。結論から言いますと、程度の問題です。神のいのちを妨げない程度でこの世のいのちを楽しむことは悪くないはずです。ですから、二者択一の問題ではないでしょう。
ところが、もう一歩を進んでみましょう。一日に私はどのぐらい(何分)神のいのちについて考えているのでしょうか。気にかけているのでしょうか。一ヶ月に、一年にどうでしょう。そもそも、神のいのちについて私はどの程度の認識があるのでしょうか。その現実性をどの程度感じているのでしょうか。その美しさ、その魅力を理解しているのでしょうか。これらの質問に対する私の答えは、「極めて少ない」「ゼロに近い」というのであれば、結局この世のいのちばかり追及してるではないか。つかめないウサギを選んだのではないでしょうか。ここで、「知的回心」について考えるところがあるでしょう。四旬節はまさにそのような反省をさせていただく時期なのです。
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現代人の十字架はなんでしょうか。家族を支える大変さ、病気、仕事、借金、人間関係など、心配事は数限りなくある。生きているからには「必ず多くの苦しみを受ける」ことが確実。仏教でも、「四諦(したい)」(四つの聖なる真理)には「一切皆苦」という根本的な教えがあって、すべては苦であると言われている(四苦八苦)。生まれるのも苦であり、人に出会う喜びもあるが、しばらくして分かれるからこれも苦(愛別離)、いろいろのものを求めるが得られないのも苦、死ぬのも苦である。
だれでも自分の十字架を背負っている。キリスト者は、その十字架をキリストにささげ、キリストの十字架にかえていただく。自分のいのちをキリストのために消耗させ、自己防衛のエネルギーを、自分を必要としている人、キリストのために燃焼(ねんしょう)する。

キリストのために日々の苦労をささげる決心を新たにしよう。


四旬節 灰の式後の金

「花嫁がいるときは断食できない」

マタイ9・14-15


ユダヤ人たちは断食をしていたのは、メシアの到来を早めるためでした。洗礼者よはねの弟子もそうでした。イエスの弟子たちは、メシアはすでにきているので、断食をしていなかった(面白いことに、ここにイエスの運動の独自性を見ることができます)。
花婿が取り去られる時だけは断食をするでしょう。これは明らかにイエスの死を意味しています。教会でも断食をしますが、それはきわめて少ない。灰の水曜日と聖金曜日ぐらいで、六十歳をこえていれば免除されます。ユダヤ人の断食はk未来に向かっていたのに対して、教会の断食は過去に向いています。つまり、キリストの死を思い起こす時だけです。後はずっと「花婿と一緒」なのです。断食という修行はさまざまな宗教に見られますが、キリスト教の場合は独特の意味をもっています。
私たちはどのような「時」に生きているかを見極める必要があります。「花婿と一緒にいる間」とはどう言うことなのか、これは四旬節の意味であり、課題です。
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神の国の到来は神と人類の結婚にたとえられてきました。イエスはその神の国が到来し、婚宴が始まったことを宣言します。神がすべての人を差別することなく愛し、婚宴に招きます。それがイエスと罪びととの食事によって示されます。神は私たちの負い目にもかかわらず、私たちをゆるし、親しい交わりに招いています。神は以前から私たちを愛していましたが、私たちはそれに気づきません。しかし、神の愛に気づいたとき、感謝の念が湧き上がってきます。ちょうど親のありがたさを、しみじみ懐かしく思うのに似ています。断食は、徳をつんで義人になるためではなく、キリストに似た者になるためである。キリストの十字架によって示された神のあわれみに感謝したい心から生まれます。
感謝の気持ちをなにかの形で表したいのです。(荒)

私たちは、喜ぶ時があれば、悲しい時もあります。花開く嬉しい時があれば、心沈む時もあります。晴れる時があれば、雨が降るときもあります。私たちは変化の多い状況の中で生きています。そのような中にあっての時の見極めではないでしょうか。
主よ、あなたと共に、あなたのうちに、時を見極める術を教えてください。sese07
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物質主義の現代社会では、精神或いは心を豊かにするtぴうことは、物質的な豊かさを前提にしています。「貧すれば鈍す」(人は貧乏になると頭が鈍くなる),衣食足りて、礼節を知る、という諺があり、逆に「健康な肉体には健康な精神が宿る」というオリンピックのクーベルタン伯爵が言ったとされる標語も日本人は大好きです。昨今の健康ブームを見れば分かります。
  この「心・精神」は「霊」とは違うと思います。人は、心身二元論でなく、心と体は「一体」と考える傾向があります。そこで、心を鍛える為には、体を鍛えるべしとされ、その典型として、学校の運動部での「しごき」「猛練習」「体をいじめ抜く」などが精神修養として美化されてしまい、ブレーキが利きません。大人になると、それが「過労」「企業戦士」の美化となり、その結果、皮肉なことに心も身体も壊れ、うつ病や自殺にまで至ってしまうのです。
他方では、豊かな心を育むためといって、親は子供に欲しいものを何でも買い与え、身も心もスポイルしてしまいます。
結局、身体と精神をはっきり分けないため、精神の為の身体となのか、身体の為の精神なのかわからなくなり、鍛えたり育んだりする目的が見えなくなってしまうのではないかと思います。先述の健康ブームは最たる好例で、健康そのものが自己目的化して、健康になったその次の目的が何もないのです。
だいえっとぶーむも同じです。一見斎戒(修行)に似ていますが、目的が全く違います。ダイエットは、肉体を美く見せる為のものでしかありません。確かに、ダイエットを続け、成功させるには精神の強さが必要です。しかし、その精神力は、美しくなりたい!という感覚的な自己愛が育むものであり、それ以上のものではありません。
聖書のいう霊的生活は、全く次元が異なります。その生活では肉体的なことは重視されません。そうなると、物質的な充実を前提とする心・精神の充実というものも、霊的いのちの成長や充実とは関係がなく、しばしば邪魔にさえなり得るでしょう。


四旬節 灰の式後の土

「私は来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」

ルカ5・27-32



「あなたの罪はゆるされた」という言葉があります。「神は決してお前を見捨てていない」という励ましの言葉です。われわれの死に至る病とは、絶望である、とある有名な哲学者がいっていますが、病の最大の問題は、それがわれわれから望みを失わせてしまうということなのです。それは罪とは絶望であるということです。聖書では、罪とは絶望であるという言葉はありませんが、内容的にはそのことを言っているのです。なぜなら、われわれが救われるということは、どんな時にも望みが失われないことである、と言われているからであります。パウロが救いについて述べて、結論のようにして最後に希望は失望に終わることはない。」というのです。その理由は「なぜなら、わたしたちに賜っ
ている聖霊によって、神の愛がわたしたちに注がれているからである」というのであります。
そうして「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とイエスは言われたのであります。ここでイエスが招いた罪人とは、ただ罪を犯した人間、罪を犯し続ける人間のことではないのです。自分の罪に気づき、自分の罪に絶望している罪人を招いておられる。それはもちろん悔い改めた罪人を招くというのではないのです。われわれは自分ひとりで悔い改めるなんてことはできないのです。ですから、まず自分で悔い改めて、それからイエスのところにいくなんてことはできないのです。イエスに招かれて、そうして、イエスの言葉を聞いて、始めて悔い改めることができるのです。Ekyamada