7 easter

復活節第7月曜日

ヨハネ16:29-33

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。何と力強い、そして慰めに満ちた言葉でしょうか。すべての注釈を抜きにして、私たちの心に、直接、響いてくる言葉です。これこそが聖書の究極のメッセージであると言ってもいいのではないでしょうか。

若者には若者なりの悩みがあります。壮年には壮年の、熟年には熟年の悩みがあります。いや子どもにだって、子どもなりの悩みがあるものです。どうしてもそこから抜け出すことができない。そこで押しつぶされそうになる。このところで、苦難、悩み、と訳された言葉は、圧迫、重圧というニュアンスのある言葉です。それはどんなに文明が発達しようと変わらないものです。医学は発達し、さまざまな病気が克服されてきましたが、それと同時に、新しい病気も生まれてきました。
機械は発達し、多くのものを作れるようになりましたが、それだけ忙しくなりました。乗り物が発達し、どこへでも行けるようになりましたが、それだけ活動半径が広がり、仕事が多くなり、かえって押しつぶされそうになります。コンピューターが発達し、どんどん世界が広がりましたが、それだけ問題も世界規模で広がってしまいました。現代人には、現代人ならではの悩み、ストレスがあります。メンタルクリニックが、これまで以上に重要な時代になってきました。
そうした中、先ほどの16章33節の言葉こそは、私たちが、どんな困難な課題、苦しみ、悩みに遭遇しようとも、自分を見失わないで生き抜く、そしてそれを乗り越えていく人生の秘訣が含まれているのではないでしょうか。しかもそれは単なるまやかし、先のことを見ない、深く悩まない、というのではなくて、真の解決が、ここに示されていると思います。イエス・キリストの遺言とも言える長い別れの説教の締めくくりの言葉でありますが、まさに遺言中の遺言、結論です。この言葉を告げるために、イエス・キリストは、この世に来られたと言っても過言ではないでしょう。

しかしそれによっても、私たちはどこまでも誤解している部分があります。この時、弟子たちも「今、分かりました」というのですが、イエス・キリストは、「今ようやく、信じるようになったのか。だか、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31~32節)とおっしゃった。
またまた弟子たちを不安にさせるような言葉です。しかし実際、そのようになっていくのです。このすぐ後、イエス・キリストは逮捕されます。その時、弟子たちは、去って行ってしまうのです。イエス・キリストはそのことさえも、既にご承知であった。承知の上で、弟子たちを受け入れておられる。
そして同じように私たちを受け入れてくださっているのです。私たちも「今、分かりました。信じます」と言いながら、次の瞬間にはどうなるか分からない、そういう不安定なものであります。それを承知しながら、イエス様は、そのもう一つ先まで見越して、励ましておられるのです。
イエス様御自身、みんな去ってしまって、ひとりぼっちになってしまうと言いながら、それでも父なる神様が共におられると語られました。これはもう一つ次の時代に、弟子たち自身が経験することです。みんなが去って、弟子たちがひとりぼっちにされてしまう時が来る。
それでもあなたがたはひとりではない。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(14:18)。そういう御言葉が二重写しになってくるのであります。そして「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と、締めくくられたのでした。
私たちは、毎週の礼拝で「使徒信条」を唱えていますが、この「使徒信条」の一番終わりに、「永遠の命を信ず」という箇条があります。
天に召された方々を思う時に、そうした信仰に立って、その方々の信仰を私たちも引き継ぎながら、私たちも新たな一歩を踏み出してまいりましょう。http://www.km-church.or.jp/preach/


復活節第7火曜日

ヨハネ17:1-11a

「あなたがた皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。」と、今日の第一朗読でパウロは自分の最後を意識しています。福音書では、「時が来ました」、「わたしは、もはや世にはいません。みもとに参ります」とキリストも自分の最後を語っています。人生の最後から見て、人生には何が大事なのか分かってきます。「福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」。そして、「主にお仕えしてきました」、「一つ残らず、あなたがたに伝え、また教えてきました」とパウロは振り返ります。「永遠(本当)の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とイエスは言います。
私たちはどれほど自分の最後を意識しているでしょうか。人生の最後に一番大事な仕事が残っていると言われます。人生を無駄にしないためにどうしたらよいでしょうか。自分の最後から見て、今自分が心配していること、恐れていること、または望んでいる、欲しがっていることは、どの程度のものかを考えたことはないでしょうか。
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この後、イエス・キリストは、こう祈られました。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(ヨハネ17:1)。少しわかりにくい言葉であるかも知れません。父なる神が栄光を受けるために、父が遣わされた子(イエス・キリスト)が栄光を受けなければならない。子なるイエス・キリストが栄光を受けることによって、父なる神様に栄光が帰せられるのです。それは、父なる神様が神様として立てられるということです。しかし、それは内容的に言えば、人の目に華々しいようなことではなく、実際には十字架にかかって死ぬことを指しています。それを通してでしか、神様に栄光が帰せられないのです。人が人として、神様の前に立つために、本当に立つためには、それを経なければならない。そのことを、イエス・キリストは、ここで心して受けとめておられたのです。
「あなたは、子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」(2節)。この前半は、先ほど申し上げた言葉で言えば、イエス・キリストは王の王として、まことの支配者として立てられたということです。そうであるがゆえに、イエス・キリストは、すべての人に永遠の命を与えることができるようになりました。
そして有名な3節、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」永遠の命とは、まことの神様を知ることと、イエス・キリストを知ることだ。そういう風に書き記されています。この言葉は、イエス・キリストご自身の言葉であるのかどうか。あるいは、福音書記者ヨハネの言葉がイエス・キリストの言葉の中に挿入されたのであろうと議論されます。イエス・キリストが、ご自分のことを指して「イエス・キリストを知ることです」という言い方は、不自然ではないか、また文体も、少し違いがあるということです。私たちにとっては、どちらでもいいことかと思います。いずれにしろ、内容的にいえば、神様を知ることとイエス・キリストを知ること、それこそが永遠の命だと、ここで宣言されているのです。
私たちは、永遠の命と言いますと、すぐにいつまでも死なないことだと思いますが、そしてそれは必ずしも間違っているわけではありませんが、もっとも大事なこととして、神様を知ること、イエス・キリストを知ることだと言うのです。そして聖書が言う「知る」というのは非常に深い意味を持っています。交わりを指しています。聖書では特に、男女の交わりを指して「知る」と言う言葉を使いますが、そこからも分かりますように、私たちと神様が一体となること、イエス・キリストと一体となること、それが永遠の命であると、告げられているのです。
そのことがあるがゆえに、私たちの肉体の死、それさえも絶対的なものではない。むしろイエス・キリストの命の中に、私たちも含み入れられ、神様、あるいはイエス様と一つとなること、それによって、私たちは肉体の死を超えて、イエス・キリストにつながっていることを、今生きている生の中で、すでに前もって経験することが許されているのではないでしょうか。
今日は、このヨハネ福音書に合わせて、詩編第90編を読んでいただきました。

「あなたは人を塵に返し
『人の子よ、帰れ』と仰せになります。
千年といえども御目には
昨日が今日へと移る夜の一時(ひととき)にすぎません。
あなたは眠りの中に人を漂わせ
朝が来れば、人は草のように移ろいます。
朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい
夕べにはしおれ、枯れて行きます。」
(詩編90:3~6)

この詩は、親しい人の死に直面した時に、書いたのではないかと、私は想像するのです。この詩に、「祈り。神の人モーセの詩」という題が付けられています。もちろん実際には、後代の詩人が、モーセの名前でモーセの心を詠んだものでありましょう。
モーセは、聖書によりますと、120歳まで生きたと伝えられています(申命記34:7)。普通の人よりも長く生きたということは、祝福のしるしでありましたが、それでもいくら長生きしようとも、いつか死ぬということには変わりありません。遅いか早いかの違いであります。これはどんなに医学が発達した現代でも同じことであります。永遠にこの肉体の命が続くことはあり得ないのです。しかしそうした私たちの肉体の命のはかなさを思いながら、この詩人は、嘆きから不信仰にいたるのではなく、信仰を貫き、告白するのです。

「主よ、あなたは、代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」(同1~2節)。
親しい人の死に直面した時に、私たちは人の世のはかなさを思います。そして信仰をもって歩んで来た人が、どうしてこういう死を迎えなければならないのか。この人の信仰は一体何だったのか。どうして助けてくださらなかったのか。遺された者には割り切れない複雑な思いが募ります。ぽっかりと穴が空いてしまったような空虚感。「神も仏もあるものか」と嘆くこともあるでしょう。しかしそう思ったところで、自暴自棄になったところで、慰めを得られるわけではありません。
むしろそうした時に、神様の「時」を思い、そして神様のなさることが、私たちの思いを超えて、最もよい時を備えてくださったのだという信仰をもつ中で、生きる力を与えられていくのではないでしょうか。

ここはイエス・キリストの大祭司の祈りと呼ばれるところです。祭司の中の祭司、大祭司として、イエス・キリストが執り成しの祈りをしてくださっているのです。十字架にかかられる直前の長い祈りです。これほど長いイエス・キリストの祈りが記されている箇所は、他にありません。これは弟子たちへの長い別れの説教に続く祈りです。弟子たちを置いて去って行かなければならない。その弟子たちのための執り成しの祈りです。
そしてこの後、18章からいよいよ受難物語が始まるのです。ここにはイエス・キリストがどのような方としてこの世界に来られたか、また何のために来られたかということが示されているのです。ここに神様の歴史(それは救いの歴史に他なりません)が、大きな視野で描かれています。歴史の意味と目的が、ここに示されています。その大きな流れの中で、クリスマスの意義を考えることは意義深いことではないでしょうか。
「(あなたが)わたしをお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)。ここに「わたしをお遣わしになったように」と、さらりと記されていますが、これが受肉ということに他なりません。17章2節には、「あなたは子にすべての支配する権能をお与えになりました」という言葉がありました。それはイザヤ書9章5節で預言されていたことの成就であると言えるでしょう。

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、『驚くべき指導者、力ある神、
永遠の父、平和の君』と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵の業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」
(イザヤ書9章5~6節)

この「万軍の主の熱意」こそが、クリスマスを生み出したのです。この預言は、イスラエルの歴史を通して成就するのですが、それを超えて神様の支配は全世界に及んでいくということまで指し示しているのではないでしょうか。イエス・キリストによって、その御心が成就し、さらにイエス・キリストから弟子たちが派遣されることへとつながっていくのです。そしてそこには、大きな一つの目的があります。 「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11節)。ここに歴史の意味と目的が記されています。ここにこそ、神様の御心があると言えるでしょう。

世から選び出された弟子たちは、世から選び出された者であるということです。「世から選び出して、わたしに与えてくださった人々」とあります。この世から召しだされている。最初、弟子たちのいた場所は、他の人々と同じ場所であります。そこから、自分の弟子として選び出されていく。出発点です。最初は、クリスチャンとこの世の間には区別はなかったと言うことができるでしょう。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」(6節)。しかしもっとさかのぼって言えば、もともと神様のものであったけれども、今、その神様がはっきりとわかるようにしてくださったということになるでしょうか。http://www.km-church.or.jp/preach/


復活節第7水曜日

ヨハネ17:11b-19

世から選び出された弟子たちは、皮肉なことにというか、当然なことにというか、世に憎まれる者として立っている。「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました」(14節)。この世と対立する部分がどうしても出てくる。イエス・キリスト自身が世に憎まれて、そして十字架にかかって死んでいかれたわけですから、そのイエス・キリストに従っていく弟子たちも、多かれ少なかれ、この世と対立する部分が出てきます。同じではない。その中から選び出されて、この世と対峙するかのようにして、異質なものとしてある、ということです。

「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」(14節)。前の聖書では、「この世のものではない」という言葉でした。主イエスは、この世に来られましたが、そのふるさとは天にある者として生きられました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)と言われました。そのイエス・キリストに従って生きる弟子も同じように、この世に属さない者となるのです。
それは、私たちの意志によってそうなると言うよりも、イエス・キリストが聖別してくださるのです。イエス・キリストは、こう祈ってくださいました。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」(17節)。
こういう話を聞いたことがあります。あるミッションスクールの高校生の女の子が、夜、公園を歩いていて、痴漢に襲われそうになった。ふと学校で覚えた聖書の言葉を思い出して、それを口にした。「わたしはこの世のものではない。」そうすると、痴漢が逃げていったそうです。
私たちは、この世に属していない者として、寄留者のように生きているのです。天に国籍を持つ者として、地上を生きている。それがクリスチャンの姿です(フィリピ3:20参照)。

この世から憎まれ、この世に属さない者として生きるのですが、この世から離れてしまうわけではありません。何か隠遁するかのように生きるのではありません。再びこの世の中へと遣わされていく。11節に、「わたしはもはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります」とあります。
「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(15節)と言われました。さらに「(あなたが)わたしをお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)とあります。クリスチャンはこの世に迎合しないけれども、この世から遊離して生きるのではない。逃げることはできません。
この世の真っ只中で生きる。この世の中から召しだされて、イエス・キリストのものとされ、聖別されて、再び、この世へと遣わされて行くのです。
「洗礼を受けるということは、私たちがキリストのものとなる。キリストと共に死んで、キリストと共に復活することだ。」ローマの信徒への手紙の6章に書いてあります。
キリストのものとして、この世と対立しながらも、この世の真っ只中で生きていく。そこには、イエス・キリストのこの世への愛があります。この世はイエス・キリストを憎み、イエス・キリストを死に追いやったわけですが、イエス・キリストは、この世をどこまでも愛されました。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。この父なる神の愛を独り子イエスも受け継がれましたが、その弟子となる者も、同じように、世を愛していくことが求められているのです。http://www.km-church.or.jp/preach/

ミサの一番最初に私たちは「父と子と聖霊のみ名によって」と唱えます。その由来はヨハネ福音書の「み名の神学」です。今日の福音者もそうです。「わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」

 「み名」とは何を指しているでしょうか。たとえば、徳川時代には「大名」(だいみょう)というのがありました。人気のテレビ番組で「水戸黄門」(徳川家)がいましたね。彼は大変力持ちでしたが、正体を明かすと、「家紋」(かもん)を見せるとみな従う。

私たちは、名だけのものに優越感をもつことはないでしょうか。出生地、出身校(東大)、役職(課長、部長)、肩書き(東大名誉教授)などに、結構、振り回されることがあると思います。それから、トレード・マーク「住友」「三井」 TOYOTA、NISSAN、LEXUS(力強さ、カッコよさがみなぎる)。そして、「ブランド名(めい)」などにも。アルマーニ、ヴェルサーチ、イヴ・サンローラン、ルイ・ヴィットン。その背景にはそれぞれの生活スタイル、価値観、生き方があります。私たちイエスを信じる者は、イエスの名こそが誇りです。イエスの名が、私たちの誇り、力となりますように今日祈りたいと思います。

復活節第7木曜日

ヨハネ17:20-26


ヨハネ福音書は、13章後半から16章まで、イエス・キリストの弟子たちに対する長い別れの言葉を記していましたが、その後の17章は、イエス・キリストの長い執り成しの祈りです。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」という言葉に続いて、「父よ、時が来ました」(1節)と、イエス・キリストの祈りが始まります。
6節から19節は、イエス・キリストの目の前にいる弟子たちのための執り成しの祈りでありますが、それを受けて、今日の20節から26節は、後の弟子たちのための執り成しの祈りです。
「また、彼らのためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。
イエス・キリストの祈りは、空間的にも時間的にも、大きく広がっていきます。「彼らの言葉によってわたしを信じる人々。」まだ存在しない後の教会の人々をも見ておられる。キリストが教会の誕生を夢見たのです。その人々のために、イエス・キリストがここで祈られたということは、この祈りには、私たちも含まれているということです。私のために、私たちのために、イエス・キリストは、すでに十字架の前夜、祈ってくださっていたのでした。また「彼らの言葉によってわたしを信じる」ということで、福音宣教のわざが、まさに説教、みことばの奉仕という手段によって担われていくということを、改めて深く、重く考えさせられます。
そして「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(21節)。ここでイエス・キリストと父なる神はすでに一体であるということが前提になっています。
父なる神様はイエス様のうちにおられ、イエス様も父なる神様のうちにおられる。三位一体というキリスト教の教義があります。父と子と聖霊が三つにして一つであるという教義です。それを基礎にしながら、イエス様と父なる神様の交わりのただ中にすべての人を入れるような、大きな祈りです。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)。何とスケールの大きな祈りでしょうか。イエス様の宣教の目的が、外へ外へと広がって、すべての人がひざをかがめてあがめるようになることと同時に、すべての人が一つになる。イエス・キリストの名のもとに一つになるということが見えてまいります。

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スイスの有名な神学者バルタザール(H.U. von Balthasar, 1905-1988)には有名な著作がある。タイトルは、直訳すると「真理は交響曲(コウキョウキョク)的である」(Die Wahrheit ist symphonisch. Aspekte des christlichen Pluralism, 1972)。交響曲(シンフォニー)には何十種類の楽器(バイオリン、ピアノ、フルート、オボエ、ファゴットなどなど)が「交わって響く」ように、神の真理も多様性で豊かなものである。バラバラに引かれると不愉快な音になるが、楽譜どおりにやれば大変素晴らしい調和、メロディーになる。モーツァルトやバッハ、べーへトベンなどはたくさん作曲しています。音楽を聴くと平凡な世界から別世界に運ばれるように、ヨハネ福音書を聞くと私たちは別世界、神の世界に惹かれれます。宇宙に大変豊かな多様性と一致がある、交わりがある、ハーモニーがある。ヨハネ福音書はこのハーモニーを感じさせてくれる交響曲である。
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「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(23節)。エキュメニカル運動というのは、ただ単に伝統や思想の違う教会がお互いに妥協して、一致点を見出してやっていくことではありません。イエス・キリストがすでに、父なる神様との間にもっておられる豊かな交わりに、私たちも引き入れられて一つになっていくということが根底にあるのです。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(22節)。この言葉こそは、エキュメニカル(キリスト教一致)運動の基礎となった言葉なのです。
この「わたしたち」というのは、イエス・キリストと父なる神のことですが、イエス・キリストと父なる神が一つであるように、弟子たちも、そしてさらに後のすべての人たちが一つであるように、というイエス・キリストの祈りの言葉です。

「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(23節)。
ヨハネ福音書では、「世」と言う言葉が二重の意味で用いられている。「世」はイエス・キリストや父なる神様と敵対するものであると同時に、イエス様が愛して、愛して、愛し抜かれた、イエス様の愛の対象でありました。「世」の方はそれを知りませんでした。
「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」(24節)。イエス様が「わたしのいるところに彼らもおらせてください」と祈られたのですから、これほど力強く、慰めに満ちた言葉はないでしょう。「それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(24節)。 そして続けます。

「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」(25~26節)。
ここに宣教の最終目的が記されています。まだ見ていない、弟子たちの言葉によってこれから信じるようになる人々。空間的にも時間的にも大きな広がりをもっています。その人たちがすべて一つになる。主をあがめ、紛争がなく、愛の内に一つとなっていく。イエス様はそういう幻を見ておられたのです。そしてそうしたことは、やがて「その日」に完全に達成されるものでありましょうが、私たちはやがてくるそうした神様の御国を仰ぎ見ながら、それをすでに先取りするように一致の夢を見ることを許されているのではないでしょうか。ミサ(エウカリスチア、聖体祭儀)というのは、まさにそうしたキリストにあって私たちが一つであることを心にする時であり、またそれを味わうことによって、キリストご自身が私たちの身に宿っていただく時であります。http://www.km-church.or.jp/preach/



復活節第7金曜日

ヨハネ21:15-19

イエスはペトロが裏切ったことを責めません。そのかわり、新しい使命を与えます。イエスのために、羊たちの牧者になるように招きます。ペトロが「愛します」と三回誓うのは、司教や司祭の叙階式を思い出させます。
人生におけるあらゆる使命への招き、召命は、恵みであると同時に、十字架の恵みです。イエスはそれを若いときと年をとったときの生き方にたとえて説明します。若いとき、エネルギーにあふれ、理想に燃えているとき、自分で帯をしめて行きたい所に行くことができます。時間や場所に左右されず、自分の思うままに、行動できます。年をとると、自分の思うように行動することができなくなり、自分の意志に反して、しかも縛られて身動きできない状態で、十字架に釘付けにされて、望んでいない仕事や場所を通して、主イエスへの愛を表します。
イエスはペトロがどのような死にかたをして神に栄光を帰すかを預言しました。それはペトロの殉教を示すだけではなく、イエスのために、日々、死んでいく生き方を示したのです。ペトロは羊たちのために、いのちをささげる牧者となり、イエスに似た者となりました。そのとき「主よ、あなたを愛しています」という祈りは聞き入れられたのです。(荒)
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ペトロは、イエス・キリストが三回も同じことを尋ねてこられたので、悲しくなりました。
普通は二回までではないでしょうか。コンピューターの暗証番号(パスワード)でも、「確認のため、もう一度入力してください」とよく出てきますが、三回はありません。
もっとも耳の遠いお年寄りとお話をしていると、時々、こういうことがあります。「また同じことを聞いてる。」話が堂々巡りします。「さっき答えたばっかりなのに。何回も同じことを聞いて。おじいちゃん、もうこれで三回目だよ。」
それにしても、なぜ三回も同じことを聞かれたのか。それは恐らく多くの人が指摘するように、ペトロが三度、「イエス・キリストを知らない」と否定したことと関係があるのでしょう。
イエス・キリストは、そんなペトロの気持ちを思いやって、三回、ペトロに「私はあなたを愛しています」と言わせたのではないでしょうか。一回ごとに、ペトロがイエス・キリストを否定したことを取り除くようにして赦し、そして三回、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられる。これは、恵みの命令です。いったん挫折し、もう弟子と呼ばれる資格がなくなったような者をさえ、もう一度立たせて、遣わされるのです。http://www.km-church.or.jp/preach/


復活節第7土曜日

ヨハネ21:20-25
ペトロがその答えを聞いた後、彼が振り返れば、そこに愛する弟子、すなわち恐らくヨハネであろう人物が目に留まりました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21節)と尋ねました。私たちは主イエスの招きに応え、それに従うのですが、どうも人のことが気になります。「自分は、年をとると、行きたくないところへ連れて行かれるそうだけれども、彼は一体、どうなのか。自分だけ、そういう目に遭うのか」。この二人は筆頭(ひっとう)格の弟子で、ある意味でよきライバルのような弟子であったかと思います。ヨハネ福音書は、そのような書き方をします。
そのようなペトロの問いに対して、イエス・キリストは、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(22節)と言われました。非常にまわりくどい言い方ですね。この言葉から、「この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間で広まった」(23節)とあります。さらに、この21章の筆者は、「しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」と、くどい程に説明するのです。
恐らく、この21章が書かれた当時の状況として、第一に「ペトロは殉教した。しかし愛する弟子と呼ばれた人は、殉教はせず、長生きした」ということがあったのでしょう。第二の状況は、その愛する弟子も長生きはしたけれども、やがては死んだということでしょう。そこで「イエス様は、『死なない』とは言われませんでしたよ」ということを伝えようとしているのだと思います。

私たちがこの言葉を読む時に心に留めるべきことは、イエス・キリストの召し出し方です。「あなたは、わたしに従いなさい」(22節)。「人は人、あなたはあなた」ということです。ペトロが、この答えを聞いて、どう反応したかは書いてありません。しかしこの問いは、いつも繰り返し、繰り返し、私たちの心にのぼってくるものです。それは、ペトロの好奇心を表していると同時に、この福音書が書かれた当時の人々の好奇心をも表しています。そして、私たちの好奇心にも通じるものです。
イエス・キリストへの従い方、宣教の仕方というものは、それぞれに異なっております。その生涯の歩み方もそれぞれに違っております。ペトロのように殉教のような形で生涯を閉じる人もありますし、「愛する弟子」のように長生きをして、長い間イエス様に仕える人もあります。それは、神様が私たちのために備えられることであります。
神父・修道者の中にも、いろんなタイプがあります。目立たない生涯を生き抜く人もいますし、いわば、この世的に「成功する」人もいます。そして神父・シスターといえども、どうも他の同僚のことが気になることがあります。
現場の教会ではなく、大学の教師になる人もあります。この世的には、どうもその方が成功したかのように見えます。(社会的評価が高いからでしょうか)もちろん神学校の教師、中学高校の教師になる人もいます。しかしこれは、どちらがいいか、どちらが正しいか、ということではありません。それぞれの仕方で召し出され、それぞれの仕方で従っていく。それでいいのです。
「主よ、この人はどうなるのですか。」この世的に成功し、輝けば輝く程、「どうなってるの。イエス様の生き方と随分、違うね」という素朴な問いが出てくる。しかしそのような問いに対して、主はこう答えられるのです。
「人は人、あなたはあなた。人のことは気にするな。」「あなたは誰にも増して、そして何にも増して、私を愛するか。」「あなたは、あなたの仕方で、真っ直ぐに私に従ってきなさい。」私たちは、その呼び声に、「はい」と答えて従って行くかどうかが問われているのです。
このことは聖職者だけのことではないでしょう。クリスチャン一人一人も同じことがあるのではないでしょうか。清貧に生き抜く信仰者もいますし、社会的に成功し、名声を得る人もいます。しかしながらそうした人が、その地位にいるからこそできる大きな働きをすることもしばしばあります。神様の人の用い方の不思議さというのを思わざるを得ません。http://www.km-church.or.jp/preach/

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