14 per annum

年間 第十四月曜日
「触れさえすれば治してもらえる」
マタイ9・18-16

 お母さんは赤ちゃんを抱けば抱くほど、安心するので、元気な子供が育つと心理学者が言っています。触れ合いは人間にとってとても大切な体験です。社会的に見ても、同じことが言えます。例えば「汚い」と思われる人と握手したり、触れたりする人はいないであろう。こうして、社会的な隔たり、差別も生まれるのです。差別する社会はやはり健全な社会ではない。差別される側も、差別する側も損すると言われています。
出血のとまらない女性はけがれた者として社会からしめだされていました。イエスはそのようなタブーに12年間もしばられていた女性を解放します。「娘よ、安心しなさい。あなたの信仰があなたを救った」。私達の造り主、親である神に触れることによって、スキンシップを持つことによって、安心できて、元気な生活ができるようになるのです。
マルコ福音書(5・26)によれば、彼女は病気の治療のために財産を使い果たしたが、よくなるどころか、悪くなるばかりであった。これは、孤独や寂しさを紛らわすために全財産を使う現代人の姿勢に似ています。

年間 第十四火曜日
「収穫の主に願いなさい」
マタイ9・32-38

私達は、だれかを信仰に導こうと考えるとき、その人に多くの期待を持ちます。あの人がもっと熱心に教会へ行ってくれたらとか、もっとまじめに聖書を読んでくれたらと思い、またそういうふうになるように仕向けたりする。しかし、大事な事は、自分が神をしっかりと信じることである。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16・23)ということばがある。私達の家族、共同体に信仰の問題があれば、召し出しの問題があれば、それは私達自身に問題があるのである。神には救いについて深いご計画がある。今これとこれの問題があるのは、あなたの不信仰のためだと、せっかちにきめてはいけないと思うが、イエスを信じているかどうかを反省することが大事ではないかと思う。
 働き手が少ないということに関しては、イエスは「もっと頑張りなさい」、「もっとうまくやりなさい」と言わずに、「主に願いなさい」と言いいます。これは信仰の問題でなければなんでしょう。イエスが注目されることは、活動力ではなくて、どのように神を信じているかということである。そしてどこまでもイエスに対して深い信頼を持って生きていくとき、そこでイエスの栄光を見ることができるのである。
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  第1は、福音宣教が収穫に例えられ、収穫の主は神であると語られます。宣教の主体は神なのです。宣教は神が主人で、神が責任を持っておられ、神が働き人を遣わしておられるのです。私たちは神の管理しておられるの畑で働く働き人に過ぎません。宣教活動の中でさまざまな失敗や挫折を味わうこともありますが、神が私たちのすべての奉仕の業を生かし用いて完成してくださいます。神に信頼して、なすべきことをなしていくのです。

 第2は、「収穫は多い」と言われた主イエスのお言葉を正面から受け止めることです。多くの人は、この主イエスのお言葉の逆を考えるのではないか。「収穫は少ない」と。しかし、ここも神の畑なのです。田畑の実りがそうであるように、人間が稔りを作るのではなく、収穫の主が収穫を生み出してくださいます。収穫には時がある。働き人は神の生み出してくださる収穫を刈り取るだけです。伝道する時、悲観は禁物です。あきらめてはならない。神は不思議なことをなさるお方です。信仰には遠いと思う人が思いもかけない方法で救いに導かれるのです。悲観主義に陥ることなく積極的な伝道を展開していく時に、豊かな収穫を実感するのです。

 第3は、「働き手が少ない」。そのために「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われた。「働き手が少ない」とは、シスターや神父の数が足りないことか。それもあるが、宣教の緊急性を表す言葉なのです。麦でも米でも収穫には時期がある。一定の時期、一週間か2週間の内に刈り取らねば一年間の労働が無駄になってしまう。刈入れ時を失った穀物は虚しく朽ちてしまう。収穫の時を失ってはならない。そのため主の手もとにいる全ての弟子72人が動員されたのです。「働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とは、自分を除いて、自分を脇に置いて、「他の人が働き手となるように」ということではない。他人ごとではない。この私に対して、あなたに対して、働き人となるようにということです。旧約預言者イザヤが「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と祈ったように祈れということなのです。

 収穫のための働き手というと、稲を刈り、脱穀する表立つ働きを考えてしまう。表だった働き手も必要です。しかし、その人たちだけで収穫のすべての働きが出来るのではありません。「二人ずつ」がここで生きてくるのです。食事を作る人、子守をする人、手筈(てはず)をつける人、いろいろな人の働きがあって収穫はなされるのです。表に立つ人、人目には立たない裏で働く人も必要なのです。表に立って説教する人、その説教者を支える人、来会者を暖かく迎える人、裏で配慮をしてくれる人、祈りでとりなす人、そのような人たちによって福音の伝道はなされるのです。すべての人が働き手です。若い者も年老いた者も、男も女も、健康な人も病む人も、キリストに贖われた者はキリストの弟子であり働き手なのです。それぞれの状況の中で、キリストの証人・働き手として祈り、奉仕するのです。

年間 第十四水曜日
「行って」
マタイ10・1-7

この言葉は、福音宣教の姿勢をよく教えていると思う。まず「行って」、ということは、出ていく、進んでいくことを表す。人が来るのを、座って待っているのではない。自分のほうから出ていくのである。アブラハムみたいに、よく知らない国に向かって出かける。自分の中に閉じこもっていては出て行ったことにはならない。相手のことを考えなければ、出て行く気持ちにもならないでしょう。内に閉じた信仰は、もう信仰ではない。つねに外に開かれていなければ、信仰は死んでしまう。
信仰と宣教とはひとつのことなのである。宣教することによって、信仰はいきいきと生かされるものなのである。宣教しない信仰は、すでに死に向かうものなのです。信仰はつねに前向きでありつつ、人のために宣べ伝える時、いちばん自分のためになるのです。自分のことしか考えない信仰というものは、すでに信仰に矛盾しているのです。信仰はつねに自分の価値観、考え方、願望、自分の物事から飛び出して前に進みつつ、人々に宣べ伝えていくものなのです。(静)
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「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」
十二人は派遣されたとき「異邦人の道に行ってはならない」とイエスに言われました。これはイエスが異邦人を差別しているからではなくて、どれだけイスラエル人のことを心配していたかの現れです。せっかく、救いの歴史において長い関わりを持ちながら、一番肝心な時に切り捨てられることをイエスは黙って見ていられませんでした。そのためにイエスは十二人を通じてイスラエル人に神の国のメッセージをあらためて説明する道を選びます。それでも彼らから理解してもらえなければ、しかたがありません。神の国のメッセージの正しい理解はイスラエル人にとってさえ大変難しかった、受け入れにくかったのであれば、今日の私たちにとっては難しいということは、無理のないことでしょう。
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「権能をお授けになった」
イエス様は十二人を選び、彼らに「権能(Exousia, Potestas)をお授けになった」とあります。「権能」ということばは、おそらく翻訳されたときに丁寧に選ばれた言葉だと思います。「権利」、「権力」の権(この字は「はかり」「おもり」という意味)と「能力」の能。そして、この権能は、「汚れた霊に対する」ものであり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患(わずら)いをいやすため」のものです。現代風にいえば、生活、生き方、人生を変える力、よくする力。人間の生活にマイナスとなるようなものを除く力です。私たちもそうですが、実際に、キリストの弟子に出会って、人生、生き方を帰られた人は多いと言えるでしょう。ほかにも生き方を変える力はあります。例えば、お金もそうです。お金は人の生活、生き方をよくしたり、悪くしたりする。政治的な権力もそうです。あるいは暴力を使う軍隊や警察の強制力、拘束力。しかし、使徒たちに授けられた権能は違います。お金の力、政治的力は長く続かない、もろいものです。この権能は二千年近く続いているし、世界的な広がりがあります。このように考えてみると、やはりこの権能はこの世的なものではない、神からの力だということは分かります。今日はこの神の力に与かるように祈りたいと思います。「神にその力を求め、いつもその顔を慕い求めよ」(詩編105、偶数年の答唱詩編)。

年間 第十四木曜日
「ただで受けたのですから、ただで与えなさい」
マタイ10・7-15

ただで、と訳されている語は「賜物(たまもの)として」という意味です。賜物として与えられたということは、まったくその権利がないのに、ふさわしくないのに、値打ちがないのに、という意味です。ふさわしかったり、値打ちがあるのなら、それは賜物ではなく、たんなる支払いになってしまうのです。神の恵みは一方的なのです。
しかし私たちは、自分は恵みにふさわしい者だと望たいのです。ですから私たち人間にとって、ただで与えられたと考えることは、プライドを傷つけられることなのです。ただで与えられたことを認めると、何だか自分が安っぽくなった気がするのです。また同時に、自分の持っているものを、ただで与えるのが惜しくなるのです。
そして私が与えるとすれば、私にふさわしい人にだけ与えるべきだと考えるのです。それにふさわしくない人になど、けっして与えたくないのです。せっかく与えたものがむだになることは、とても耐えられないことなのです。そのうえ、たとえふさわしいと思った相手に与えても、私たちは必ず報いを要求(期待)します。もし報いが与えられない時には、怒り狂ったりするのです。「もう二度と与えるものか」と考えることもあります。これではただで与えていることにはなりません。
私たちはただで受けた、といっても、ただの安物を受けたのではありません。とても支払いきれないほど高価なものだからこそ、ただでくださったのです。それを深く悟るなら、今度は私も、ただですべてを人々に与えることができるのでしょう。私がふさわしくないと思っている人(それは私が勝手にそう判断しているだけで、本当にそうかはわからないが)にも見かえりも期待せずに与えることができるのでしょう。自分の力で、何かを持っている人は、そう思っている分だけ神の恵み(賜物)を受け取れないのです。自分が空だと思っている人こそ、神の豊かな富みを受けとって、人と分け合っても、損しないのです。(静)
安いもの買いの銭失い。
ただより高いものはない。
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旅には、袋も持って行ってはいけない、二枚の下着もいけない、履物もいけない、杖もいけない。」
 つまり、「いけない」「いけない」「あれもダメ、これもダメ」と、まるでお母さんが子供に口を酸っぱくして言うような印象を受けるのです。なるほど考えてみると、金貨、銀貨、銅貨というのは、要するにお金のことであるわけですから、まとめて「お金を持っていってはならない」と一口に言えば良さそうなものですが、イエスさまはここで細かく言っておられるのです。現代ふうに言えば、「1万円札も5千円札も千円札もダメ、五百円玉も100円も50円も10円も5円も1円もダメ」と言われているようなものです。要するに誰も拡大解釈したり、聞き間違えのないように細かく言っておられる。要するに、お金も持ち物も何も持って行くな、何も持たないで、福音宣教の旅に出かけなさい、とお命じになっているのです。
 そうしますと、私は出張の旅に、忘れ物をしますといやなので、チェック・リストで「何か忘れ物がないか、切符は持ったか、下着は持ったか、本はあったか、ひげ剃りは持ったか、財布は持ったか、財布の中にクレジットカードは入れたか‥‥」などと確認するわけですが、そういうことをしてはダメだ、とここでイエスさまはおっしゃっているのかと言えば、そうではないわけです。私たちが日常の生活の中で、何も持たないで旅に出かけなさい、出張に出かけなさい、と命じられているのではありません。
 福音宣教に出かけるときの、心構えなのです。イエス・キリストのことを知らない人々の所へ出かけていく、イエスさまのことを宣べ伝えるために行く。その時に、何も持って行く必要はないと言うのです。

神さまが助けてくれることを知るために 何も持たない体験をしなければならない。

 私たちは、自分に足りないものがれば、不安を覚えるでしょう。 しかし実は、それは恵みなのです。たとえ、お金がなくても、ものがなくても、知恵がなくても、健康がなくても、その「ない」ところに神の業が現れるからです。
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ヨセフは、今まで、神がいろいろなところで働かれたのを見ました。しかし、これが最も偉大で知恵のある働きです。兄達がヨセフを売ったという罪はあります。しかし、神はその悪事さえも用いて、イスラエルの家が飢きんから救われるようにされました。そして、ヨセフは、「心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。」と言いました。そのような赦しの心、優しさがつくられたのは、神が全てのことを支配し、すべての事を働かせて、益としてくださるのを身をもって体験したからです。
 これが、人を赦す原動力です。自分に罪を犯したり、悪い事をする人が現れても、神がそれを益に変えて下さる事を認める事が出来ます。「あの人は、こんな悪い事をした。」で終わってしまえば、確かに怒りや苦味が出てくるでしょう。けれども、「神が、このことを赦されて、私がもっとキリストの似姿に変えられていき、何か素晴らしい事が、ここから現れる。」と考えるならば、私たちは、自分に罪を犯した人を、豊かに赦す事が出来ます。大事なのは、神の主権を認める事です。そして、神の愛を信じる事です。そうすれば、自ずと人を赦す心が造り出されます。


年間 第十四金曜日
「人々を警戒しなさい」
マタイ10・16-23
人々に注意しなさい、と警戒をうながすのですが、同時に人々を恐れてはならない、と26節で命じられます。イエス様はこの世の現実をよくご存じです。この世が、けっして甘い世界ではないことをです。弱肉強食の狼の論理で動いていることをです。ですから注意深い警裁が必要ですが、また人間を恐れるな、とも言われます。狼の論理が支配するこの世ですが、その一人一人は、やはり弱い人間だからでしょう。
だれかを信じなくては生きていけない人間ですし、一人では生きられず、身内や家族を信じ、愛しているのです。人殺しを何とも思わないマフィアの親分でも、愛人だけには心を許している、ということもあります。どんなひどい人間でも、妻か子どもか腹心(ふくしん)の部下を信じざるを得ないのです。人を見下す必要もありませんが、人を恐れる必要もないのです。弱みを持たない人は一人もいないのです。愛へはあと一歩のところです。
 人々に警戒しなさいということは、ただ用心することなのです。ここでイエス様は、むち打たれたり、殺されたり、迫害されたりするという、マイナスの面を強調しています。しかし迫害とか苦しみというのは、じつはそれほど信仰にとって危険なものではないのです。(教会の歴史を見ればわかるように)人間にとっていちばん危険なものは、むしろ賞賛(世間的栄光)です。
人は弱い者を迫害しますが、強い者にはすり寄ってくるのです。弱い者には強く、強い者には「へいこら」する、へつらうのが狼(世間)の論理なのです。宣教者はこうした論理に負けないように用心しなければならない。苦難は人をみがきこそすれ、めったに人をだめにしません。苦しみも迫害も、確かに私たちの信仰をためします、もっと強くするのです。しかし、世間的な栄光も私たちの信仰に試練を与え、だめにする危険性をもっています。
賞賛、人気は簡単に人をだめにします。人は苦しみに耐えても、栄光には耐えにくいのです。ほんのちょっとした栄光で、だめになった人はたくさんいます。人は厳しい言葉より、甘い言葉を好みます。きつい言葉は耳にいたい、ほめ言葉は気持ちいいのですが、危険なのです。ですから人々に気をつけろ、と言うのです。(静)宣教には、一時的な情熱ではなく、迫害に耐える忍耐が必要です。
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元々はことわざ「渡る世間に鬼は無い」をもじったタイトルで、とかく人間関係では苦労させられるというぼやきの意味合いを込めたタイトルだが、今やこの「渡る世間は鬼ばかり」という任期番組(TBSテレビ)があります。知名度が高いとすら言われている。「渡る世間は鬼ばかり」は今日の福音書にぴったりだと思います。特に「渡る」とはよく言いえています。道を渡る前に左右を見る、川や海を渡るときのように何が起こるのかわからない、とにかく危険は多い、気をつけないといけない。そのなかで、「蛇のように賢く」、「鳩のように素直」とはどういう意味を持ってくるのか、今日黙想したいと思います。『渡る世間に鬼は無い』とは、「世間の未知の人はこわく見えるが、皆困った人を助けるようなやさしい心を持っている」(広辞苑)という意味だそうです。「どちらが賢いでしょうか?」
  「渡る世間に鬼は無い」と信じて生きるか
  「渡る世間は鬼ばかり」と注意して生きるか
 信じたほうがいい時/相手と、注意したほうがいい時/相手がある/いるのでしょう。
 その時々に、うまく使い分けることができれば理想的でしょうか。
世間では鬼は多いから、自分も鬼になろうと考えるクリスチャン、神父もいます。しかし、それではあまり意味はないですね。やはり、クリスチャンというのは、世間とはちょっと違う持ち味をもった方がいいでしょう。昔は、Perseverantia 堅忍(けんにん)の全う、堅忍の恵みを求める祈りがありました。堅忍の賜物を祈りながら生活をすることがどれほど大切か考えさせられます。

年間 第十四土曜日
「人々を恐れてはならない」
マタイ10・24-33
私たちは、いろいろのものを恐れます。死ぬことを恐れ、生きることを恐れます。病を恐れ、明日の生活が成り立たなくなることを恐れます。時には十年先、二十年先のことまで恐れます。
 人々を恐れるということは、人の評判を恐れるということでしょう。何か人から言われるのではないか、悪く思われたり、悪く言われたらどうしよう、と考えます。人の視線を気にし、人々のうわさを気にします。そして悪く言われたりするとガッカリし、すべてがむなしくなったりします。つまり人を恐れるということは、人にしばられていることを意味します。人からの評価にがんじがらめになっているのです。
人を恐れるな、とイエス様は言います。それは人を無視し、人の評判を気にせず信念を貫き、自分の好きなように、強引にマイウェイを、とおっしゃったわけではありません。なぜなら、恐るべき方、神を恐れよ、とおっしゃるからです。
神を恐れるとはどういうことでしょう。人の評価より神の評価を気にしろ、ということでもあるでしょう。人の評価というものは、えてして自分勝手なもので、何とでも言えるものですし、また何とでも言うのです。ですからそれにたよっていたら、何の行動もとれないということなのでしょう。何の行動もとらなくても、人は必ず何かを言うに決まっています。だから人の言うことを気にせず信念を貫け、ということではありません。
神の評価こそ私に対する正しい評価であり、けっして間違うことがないものです。神にどう評価されるかを、第一に考えることが、神を恐れることなのでしょう。すべてをお見通しの神のまなざしの中で、厳しさとやさしさに満ちたまなざしのなかで、まず正しくあろうとすることが一番大切なことなのです。人の評価を軽んじるのではなく、人の評価にとらわれない自由な生き方を持つことです。世間の見方を恐れる間は、まだ神との関係がしっかりしていないことを示していると思います。(静)
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イスラエルは息子ヨセフがまだ生きていることを聞きました。生きているだけでなく、エジプト全土を支配していることを聞きました。ヨセフは、父とその家族が全員エジプトに下ってくるようにお願いしました。飢きんがあと5年続くので、このままでは飢え死にしてしまうからです。それで、イスラエルはすぐに身支度を整え、家族と一緒に大移動を開始しました。
 けれども、彼はふと、こう思ったことでしょう。「自分の父アブラハムとイサクは、このカナンの地に住んだ。私も、パダン・アラムで妻と子どもを得てから、カナンの地の戻ってきた。ここは、神の約束の地であり、私は今まで、ここに、留まってきたのだ。それなのに、今、ここを離れてよいものか。」と、彼は考えたにちがいありません。それで、ベエル・シェバにきたときに、神に伺いを立てたのです。神がこの移住を喜んでおられるのか、エジプトに行くことを神は願っておられるのか、ヤコブは知りたいと思いました。いけにえをささげた場所は、父イサクが住んだベエル・シェバです。神はベエル・シェバで、イサクに現れてくださいました。
 ですから、この場所でいけにえをささげることは、神の約束を思い出し、神との交わりをし、神に自分をささげるときを持つことです。私たちも、日々の生活の決断において、神に立ち戻り、主のみこころをうかがわなければいけません。
 神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ。」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」
 神は、ヤコブを愛されていました。ヤコブよ、ヤコブよ、と優しく語り掛けておられます。そして、ヤコブは、「はい。聞きたくないことは、聞かないというような条件つきの聞き方ではなく、何でもお話ください、という無条件の聞き方でした。
 ある小冊子に、お父さんが子どもを呼ぶときに、好き勝手な聞き方をしていることが書かれていました。「ほら、部屋の掃除をしなさい。」とか、「ほら、ちゃんと、宿題をしなさい。」とお父さんが言っても、子供達から何の反応もありません。けれども、「アイスクリーム買ってきたぞ。」とか、「ディズニー・ランドに行こう!」と言うと、子供達はどこからともなく、ふって沸いたように出てきます。私たちも、神の御言葉に対して、そのような聞き方をしていないでしょうか。聞きたくないことは聞かない。自分勝手に解釈することはありませんか。けれども、ヤコブは、夜眠っているときに、「はい。ここにいます。」と言いました。何でも聞きます、いつでも聞きます、という態度をもっていたのです。
 いろいろな約束を与えられて、ヤコブを安心させておられます。1つ目の約束は、エジプトで、ヤコブを大いなる国民にすると約束されたのです。アブラハムがこの約束を受けてから、もう215年たちますが、まだ70人の家族しかいませんでした。けれども、エジプトに下っていったら、大いなる国民にすると約束されたのです。事実、イスラエルが430年エジプトに滞在してから、大人の男性だけでも60万人になっていたことが、出エジプト記12章に書かれています。そして、神ご自身がヤコブとともにエジプトに下ると約束されました。彼は、異国の地でひとりぼっちになりません。神がともにおられて、彼を励まし、慰め、力を与え、まもってくださいます。イエスも弟子達に、「私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」と約束されています。
 さらに、神ご自身が必ずヤコブを導き上らせると約束してくださいました。ヤコブは、自分がずっとカナンの地に滞在して、神の祝福の約束が実現されると思っていました。しかし、そうではなく、エジプトにいるイスラエル人が、カナンの地に導かれることによって約束が実現します。アブラハムには、自分の子孫が外国に行って、寄留者になり、奴隷とされ、苦しめられることが伝えられていました(15:13)。彼らは、こうした苦しみと奴隷の状態から救い出されて、約束の地に連れ戻され、祝福を受けます。
 これを言い換えると、贖いと言います。これはもともと、「買い戻す」という商業用語で、奴隷を代金をはらって自分のものとすることを言います。神が、奴隷状態になっている民を買い戻し、ご自分の民にすることが、ここで言う贖いです。私たちが贖われるというのは、罪の奴隷状態から贖われることです。神はご自分の子を代価にして、罪の奴隷になっていた私たちを買い戻してくださいました。ですから、神がヤコブに約束してくださったのは、救いの約束であり、将来、必ず救い出される保証をしてくださったのです。そして、神は、ヤコブの死を息子ヨセフが見届けてくれる約束もしてくださいました。安心して死ぬことができる保証をしてくださったのです。
 ヤコブは、神の御声に聞き従いました。そして、すべての財産、すべての子孫を連れて行きました。何か一部を残して主に従ったのではなく、全部従いました。神を全面的に信頼したのです。「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる(箴言3:5-6)」とソロモンは言っています。

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