Showing posts with label per annum. Show all posts
Showing posts with label per annum. Show all posts

年間第一 Mark 1, 21-28

年間第一 Mark 1, 21-28

イエスは、他のラビのように、他のラビの言葉を引用しながら律法を説明しませんでした。そうではなく、「わたしは、あなたがたに言います。」と権威をもって教えられたのです。福音のことばには権威があります。これを、学校の授業のようにして、知識のために聞くのであれば意味がありません。むしろ、親が子供にこれをしなさい、と言うのを聞いていくように、自分の行動を決めてしまうような言葉として受け入れていく必要があるのです。
イエスは悪の力を滅ぼすために来られたのです。この世をサタンから奪い取って、神のものに返すために来られました。イエスは、権威のあるように教えられただけではありません。実際に権威をお持ちだったのです。それで人々は驚きました。私たちは、目に見える世界が、目に見えない世界によって支配されていることを学びました。汚れた霊は、目に見えない霊の領域に属します。人々は、彼をどうすることもできなかったのですが、福音のことばには従わせるカがありました。イエスは確かに、ヨハネよりもさらに力のある方です。こうして、福音が霊の領域において現わされました。

Mark 1, 29-39

シモンのしゅうとめが、熱病からいやされました。イエスは、ことばをかけることなく、ただ手を取って起こされました。そして、彼女は彼らをもてなしたのですから、熱が完全にひいたことがわかります。こうして、イエスは、肉体、つまり肉の領域において福音を現わしてくださいました。
 人々は、汚れた霊が追い出されて、熱病がいやされたことを聞きつけて、イエスが病を治され、悪霊を追い出すことができると知りました。そして、彼らがやって来たのが夕方、日没の時であることに注目してください。ユダヤ人の暦は、一日が日没から始まります。安息日が終わってから彼らはイエスのもとに集まって来たのです。彼らは、ユダヤ人教師から教えられていました。病気をいやすことは神の禁じる「働くこと」になる、と。 したがって、彼らは、そのようなおきてや規則に縛られて、イエスに病人と悪霊につかれた者を連れて来るのを控えていたのです。イエスは、そのような規則に縛られている彼らをかわいそうに思われました。本当は、安息日の日に連れて来れば、夜遅くまで奉仕をする必要はなかったのです。でも、イエスはご自分のことはお構いなしに、彼らに仕えられました。イエスは、彼らを愛されていたのです。このように、福音は愛の行ないによって現われたのです。
 そして、再び、悪霊が、ご自分のことを話すのを禁じられています。イエスは、人々がご自分のことをどう見ているのかを気にされていました。もし、その時点で、ご自分が神の聖者、つまり神の御子であることを人々に知られたら、彼らは理解できなかったか、イエスを誤解したに違いありません。聞く相手に合わせて、ご自分のこと、つまり福音を紹介されていたのです。したがって、ここにも、人々に仕えるイエスの姿を見ることができます。 ところが、人々の心は、イエスの意図していたことから離れていきました。次に、イエスは、ご自分が奇跡を行われている自的を明確にされています。人々は、福音以外のものを求めてイエスを探していたのです。おそらく、魔術師とか、悪霊払い師のようにイエスを求めているのでしょう。しかし、イエスの願われていたのは、ただ一つ、人々が悔い改めて、福音を信じることなのです。しかし、そこから人々が離れていきました。奇跡だけを求めるようになりました。人々の心がそうなったとき、イエスは、他の村里に行くことを選ばれたのです。

Mark 1, 40-45

この出来事は、福音の自的が象徴的に示されています。 らい病人が、イエスのみもとに来ました。そして、「お心一つで、私はきよくしていただけます。」と言っています。彼は、イエスにある力と権威を認めています。つまり、彼はイエスを信じたのです。そして、彼の病がらい病であることに注目してください。らい病は、進行性の病気でした。しだいに体を蝕む病気です。神経を殺して、感覚を破壊しました。そのため、例えばストーブに手が触れても何も感じないので、二義的な災害も多かったのです。そして、当時は治癒が不能でした。だから、らい病はこのような病気だったので、律法の中では、らい病人はイスラ工ルの共同体からはずされていたのです。らい病人は、人に近づいてはならず、誰かが近づいたら、「私は汚れている。汚れている。」と叫ばなければなりません。でも彼は必死だったので、イエスに近づいたのです。次を見てください。
 イエスは、だれもが触れることのなかったらい病人にさわって、「きよくなれ。」と命じられました。ここにイエス・キリストの福音がはっきりと現われています。なぜなら、らい病は罪を指し示す型として用いられるからです。しだいに体を蝕む姿は、少しだけと思っていた罪がどんどん悪影響をもたらす姿を表しています。ヤコブは、「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます(1:15)」と言っています。また、治癒不能であることは、罪がガンのように直しようのないことを示しています。ソロモンは言いました。「だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた。』と言うことができよう。(箴言20:9)」このようにして、罪は人を滅ぼします。しかし、イエスは、このらい病人に触れられました。同じように、イエスは、罪人をかわいそうに思って、その人に触れられるのです。イエスがこのらい病をきよくすることがおできになるように、どのような恐ろしい罪でも赦すことがおできになります。イエス・キリストの福音は、罪を悔い改めて、イエスを信じる者を拒まずに、豊かに赦してくださるというものです。私たちは、逆のことを考えてしまいます。自分が良い子であったら、神に近づくことができるかもしれないが、悪い子であったら神に近づくことができないと思いがちです。そうではありません。むしろ、罪を赦そうと思って待っておられるのです。罪を悔い改めて、神のみもとに来るものを、腕をいっぱいに広げて受け入れてくださるのです。

Mark 2,1-12

 今から学ぶ2章と3章では、この福富宣教がどんどん広がっているのを見ます。と同時に、この福音に反対し、福音をけなす人が現われます。つまり、福音の内容を見つつ、私たちが気をつけなければいけない、福音を妨げる要因を見ます。人々がその家に入ってきました。当時は、人々を家にもてなす習慣がありましたから、見知らぬ人が入って来てもおかしくありませんでした。 中風をわずらっている人が、4人の人にかつがれています。彼らは、多くの群衆に遮られていました。でも、失礼ではないかと思われる方法で、中風の人をイエスのみもとに連れて行きました。他の記事を見ても、イエスの奇蹟を体験する人々は、世間体や常識から出て行ってイエスに近づいています。イエスに近づいたらい病人は、自分は汚れているので人にさわってはいけませんでした。長血をわずらう女もそうですね。また、カナン人の女は、異邦人なのにイエスに近づきました。取税人ザアカイは、なんと木によじのぼってイエスを見ています。彼らに共通することは、イエスに近づくのに大胆であることです。自分の霊的な必要に関して、決して遠慮をせず、食らいつくようにしてイエスに近づいたのです。この律法学者たちは、罪が赦されたという喜ばしい知らせに難癖をつけています。確かに、その言っていることは正しいものでした。つまり、神のみしか罪を赦すことができない、というものです。人に嘘をついたり、人のものを盗んだりしても、究極的には神に対して罪を犯しているのです。さすが、律法を調べている者であり、洞察は正しいものでした。しかし、彼の態度が間違っています。理屈を言っている、つまり、批判的になり、分析をしているのです。そもそも、なぜ、彼らはそんなところにいるのでしょうか。イエスのあら探しをするためですね。イエスが言われること、イエスが行われるすべてに、悪いものを見出そうとしています。このような態度で人々に臨むとき、たとえ自分の言っていることが正しくても、福音の働きを閉ざしてしまいます。どちらが、やさしいでしょうか。罪が赦されたと言うほうがやさしいですね。なぜなら、罪が赦されたこと自体は目に見えないからです。証拠を提示する必要がありません。起きて、歩け、と言っても歩かなかったら、その人の言葉には権威がないことがわかります。つまり、「罪を赦すことを見せることはできないが、「起きなさい。」とわたしが言うことで、わたしのことばに権威があることを示そう。それで、わたしに罪を赦す権威があることを知りなさい。」と言われたかったのです。これは、私たちにとても大切なことを教えてくれます。すなわち、人間的には不可能な命令であっても、イエスの御力を信じて従うこと。そうすれば、従うのに必要なカが与えられることです。


iPadから送信

エゼキエル 年間第19水

ケルビムの間から炭火をとってあなたの手に満たし……

                エゼキュル書10・2

エルサレム滅亡についての幻である。炭火というのは神の火であり、さばきをされる火である。さばきの火がエルサレムにまき散らされるのである。
エルサレムは、現実にはバビロンの軍隊によって壊滅に帰したわけであるが、そのエルサレム滅亡は、神が亜麻布を着た人に言った言葉が成就したのである、と示しているのである。バビロンの軍隊によって壊滅したということは、当時の王様が若かつたとか、軍隊が弱かったとか、政治家が怠慢であったとか、いろいろ考えられるだろう。しかし、それらは表面的なことであり、その奥では、不信の都エルサレムを滅びにいたらせたのは神であったのである。神殿の申でいまわしいことが行なわれ、町には神の嘆かれることが行なわれている。町はもはや神の選び、神の恩寵を受けて存在する意味がなくなっている。
だから神の意志によって神が臨まれたのである。ただ単にそのような思想を持つというのではなく、一つの歴史解釈を、上からの示しによって可能ならしめているのである。
 戦後まもなく、私たちが奪い合うようにして読んだ本に「日本の傷をいやすもの」というのがあった。矢内原忠雄先生が書いたもので、当時の青年たちがむさぼるようにして読んだものである。町にはまだ本らしい本も出ていない頃であった。矢内原先生はその本に「日本はアメリカに負けたのではないのだ、日本は神によって滅んだのだ、その滅んだ日本をいやすものは神以外にはない、本当に神に帰る以外に日本の復興はないのだ」という意味のことを書かれた。
 当時、軍隊やエ場から帰った人たちがキリスト教に目標を見いだし、神のご用に役立ちたいと献身していった。エゼキエルは、壊滅に帰したエルサレム、バビロンによって打ち負かされたエルサレムは、神によってなされたものであったことを、幻によって示されたわけである。
 神殿は、もはや神の住むべき所ではなくなったので神は去られた。あるじのいない神殿、あるじのいない教会になってしまった。
 神殿のすばらしさは外側の荘厳さにあるのではなく、そこに神が臨在しているかどうかにあるのである。教会もまた同じである。そこがどんなにみすぼらしくとも、キリストが臨在している所、すべてのものを満たしているかたが、満ち満ちている所が教会であると言われでいるが、本当に神が臨在し、神の手、神の言葉が見られたり、聞かれたりする所が教会でなければならない。
 教会は、キリストの血潮にあがない取られた所であって、キリストのいましたもう所であり、神のみ霊の満ちている所であらねばならない。そしてキリストの臨在する場として自らととのえていく努力をしなければならないと思う

榎本保朗、『旧約聖書一日一章』、主婦の友社、1977年

日本の傷を医す者 白日書院 1947

年間第15火

イザヤ書

7:2 ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。

 主がユダをお守りになったのに、アハズには神に対する信仰は全くありませんでした。そのため、心が大きく動揺させています。アハズはまことの神、主以外のものであれば、何でも頼ろうとする臆病な人間でした。シリヤにやられたら、その勝利を収めさせたのはダマスコの神々だということで、ダマスコの神々を寄せ集め、アッシリヤが力をふるうと、そこの神殿の祭壇の図面に基づいて、祭司にアッシリヤの宗教の祭壇を造らせました。

 主に願いを立てるということには、人格的な成熟が要求されます。単なる願い事ではなく、心と尽くして、思いを尽くして、力を尽くして主を愛するという、全人格的な付き合いが必要となるのです。一夜だけを共にする不倫関係と、何十年も一緒に暮らす夫婦関係と全然違うのと同じです。けれどもアハズは、生ける神との関係を避けて、コンビニでインスタント食品を買うように、よさそうな神々を手軽に入手して、それを拝んでいたのです。

 私たちも試練や苦しみがあると、他の安易な方法を取る誘惑が出てきますね、それです。

マタイ11・20-24

 イエスが比べておられるツロとシドンのとソドムの町は、いずれも神のさばきを受けましたが、神についてその多くを知りませんでした。けれども、コラジンとベツサイダとカペナウムは、見えない神の完全な現れであるキリストを目の当たりにしているのに、それでも悔い改めなかったのです、。これらすべての町を神はさばかれるのですが、少しだけ神のことを知らされた町と、多く知らされた町では、多く知らされた町の方が罰が重いのです。

 私たちはよく、「イエス.キリストの福音を聞いた事のない人は、死んだ後それでも地獄に行くのですか」という質問を聞きます。それに対する答えは、第一に、神は公正な方であり、神はえこひいきをなさいません。第二に、神について多くの知識を与えられたものはそのさばきは重く、少ない人はさばきは軽いと言う事です。神は私たちの知っていることのみに責任を問われるのです。ですから、そういう質問をする人には必ずこういいます。「あなたは、すでにイエス・キリストについての知識が与えられました。何も聞いたことのない人たちのことを心配するよりも、自分のことを心配されたらどうなのですか。」こうして、ご自分のことをはっきり知ったのに、それでも拒んだ町々をイエスは責められました。
--------

イザヤ10:5 ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。10:6 わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。
 イスラエルは、アッシリヤを通して神によって裁かれましたが、ではアッシリヤ自身はどうなるのでしょうか?そのような疑問が出てくるかと思います。主は、その答えを今、与えておられます。
 一つは、主は積極的に、アッシリヤを用いられたという事実を知らなければいけません。「わたしの怒りの杖」「わたしの憤り」「わたしは、送り、襲えと命じ、わたしが略奪を命じ、踏みにじることをさせた」と、神が介入されている様子が描かれています。
10:7 しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。
 アッシリヤ自身は、自分たちが神の怒りの器として用いられているとは考えませんでした。そして、ただ滅ぼすこと、断ち滅ぼすことしか考えなかった、とあります。歴史的にアッシリヤは非常に残酷な国民として知られています。遺跡として出てくるものの中には、彼らが引き連れる奴隷の体の一部がなくなっているものが多いです。耳を引きちぎったり、鼻をもぎとったりと残酷なことをして、人々を恐怖によって従わせていました。
 聖書の中で終始一貫、教えられている真理があります。それは神がすべてのことに主権をお持ちで、全てものを動かし、神の支配から漏れるものは何一つない、ということです。もちろん神は悪を行なうような方では絶対になく、悪は罪から、そして悪魔から出ているものですが、それらをも神は後にご自分の栄光のために用いられるのです。
 私がスーパーマーケットの魚部門で働いているとき、コスト削減ということで、魚のあらゆる部分を捨てないで、加工するなりして商品にしなさい、とマネージャーが言っていましたが、神はどのようなつまらないものでも、ご自分の栄光と目的のために用いられます。
 神が唯一、ご介入されない部分があります。それは人間の自由な意思です。北イスラエルがあれだけ神をないがしろにしていたのに、神はすぐに彼らを裁かれなかったのは、彼らに自由意志があることを尊重されたからです。そしてアッシリヤがイスラエルや他の諸国の民をことごとく滅ぼすようにされたのも、アッシリヤ人の自由意志を尊重されたからです。
 だから神はいつも、私たちが自分で選択して、神を認め、神をあがめることを待っておられます。自分が神を認めなくても何も変わらないではないか、と言って、神はいないと結論づけることに対して、神は怒りを発せられます。
-------
イザヤ26:8 主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。26:9 私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。
 主がこの地上に戻って来られて裁きを行われる時に、地上の住民は義を学びます。この日が来るまで私たちはあなたを待ち望みます、という告白です。特に「夜」、つまり世がさらに罪と不義の中で暗くなっているとき、ますます主の正義が現れることを願っている、ということです。
 「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)」と主は言われました。福音において、私たちは始めに自分の罪を示されます。それでへりくだり、その罪を悲しみます。それで罪の赦しを経験して、また信仰によって義と認められたことを経験した人は、今度は実際に義となる日を待ち望みます。主が戻って来られて、罪そのものを取り除いてくださり、キリストと似た者にしてくださる日を待ち望むのです。
 私たちは自分の罪を御霊に示されることを、始めは嫌がります。けれども成長するにしたがって、神様をもっと知りたいと願うにつれて、自ら自分の内に罪がないかを調べて、告白したいと願います。これが義に飢え渇くことであり、自ら自分を裁くことです。パウロは、「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(1コリント11:31)」と言いました。
------
イザヤ38:7 これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたこのことを成就されます。38:8 見よ。わたしは、アハズの日時計におりた時計の影を、十度あとに戻す。」すると、日時計におりた日が十度戻った。
 興味深い記事です。この日時計はヒゼキヤの父アハズが作ったものですが、イザヤは同じようにアハズに「しるしを求めなさい」と言いました。アハズは拒みました。主が彼に関わろうとされるのを、彼自身が拒んだのです。
 けれども、ここではヒゼキヤが積極的にしるしを求めています。ここではそれがはっきり書かれていませんが、この章の最後、また列王記第二20章を読むと彼のほうから、自分が確実に癒されて、主の宮に上れるようになるしるしを求めています。
 そして日時計の影が十度あとに戻るというのも、ヒゼキヤが積極的に求めたものです。列王記第二20章には、イザヤは十度進むか、十度戻るかという選択を与えましたが、ヒゼキヤは十度戻るほうが難しいから、という理由で戻るほうを求めています。自分の人生に主が関わるのを強く願ったヒゼキヤと、それを拒んだアハズの対比を見ることができます。
 ところでこの日時計ですが、新改訳聖書の下の説明に、直訳が「度」または「階段」であるとあります。この日時計は階段になっていたようです。みなさんは、この出来事についてどう思われるでしょうか?かつて、ヨシュアが敵を追跡しているときも日がとどまりましたが、科学的な自然現象の説明をどのようにすればよいでしょうか?
 私にはその説明が要りません。天と地をお造りになられた方ですから、日を十度戻すことも容易におできになるでしょう。神は、時間をも創造された方です。何も、地球の自転を止められるような物理的なことを行なわれなくても、タイムマシーンのように時間そのものを戻すことも容易におできになるでしょう。
神にはできないことはない(お告げ)




iPadから送信

箕面市 聖ヨセフ修道院にて

箕面市 聖ヨセフ修道院にて

民 槍で目を刺された 戦争に負けた人たちは君主に従属させる。

「聖なる者たち」という表現は、9章13節をはじめとして多くの箇所で使われていますし(9章41節、26章10節など)、旧約聖書では「聖なる民(国民)」(『申命記』7章6節など)という表現が用いられ、新約聖書でもパウロ書簡や『ペトロの手紙1』2章9節などでもたくさん用いられる言葉で、言うまでもなく、「神に属し、神を信じる人々」を意味し、新約聖書ではキリスト者を意味するものです。

この表現が、旧約聖書の「神の民(聖なる民)」の概念の流れを受けていることは明らかですが、キリスト者が「聖なる者たち」や「聖徒」と呼ばれ、教会が「聖徒の交わり」(信仰告白』)のは、「清く立派」というのではなく、「神に属する」ということで、これは、誰かほかの人間(王や権威ある者など)や人々、世の中に属するのではなく、「ただ神にのみ属する人間である」という「キリスト者の自由」の自覚と深く関係していることだろうと思います。

中風の患者を癒す奇跡、
『ルカによる福音書』8章40−56節に記されている「イエスによるヤイロの娘の復活の出来事」を彷彿させるものでもあります。『使徒言行録』のペトロやパウロの行為は、意識的にイエスの行いと平行して記述されているのです。

いやし」は、人間のわざではなく、どこまでも「神のわざ」です。「起きよ」は、復活を意味する言葉が使われていますが、これもそういう意味でしょう。アイネアにイエスによる復活がペトロを通してもたらされたというのです。

弟子はキリストのみ名によって、父と子と聖霊のみ名によって、キリストと同じわざを行うことができる。

聖体拝領の前に司祭は、「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と呼びかける。信徒は信仰告白で答える。「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちのかて、あなたをおいて、だれのところに行きましょう」。
「なんだか芝居役者のセリフのような言葉」と言われていますが、実は
�ペトロのこの積極的な信仰告白を拝領前の信仰告白としてみんなで唱えてから拝領する。

 ですから、ペテロは、「私たちがだれのところに行きましょう。あなたの他にはないではありませんか」と言ったわけです。
多くの人がイエス様のもとを去っていきました。しかし、イエス様を離れて、どこに行ったら本当のいのちがあるでしょうか。どこで罪が赦され、平安が与えられるでしょうか。イエス様のもとにこそ、いのちがあり、いつも共にいて支えてくださる方がいるという孤独からの解放があるのです。イエス様のもとにこそ死を乗り越えた希望があるのです。
 残念ながら、イエス様のもとから離れてしまう人はいます。いろいろなつまずきや、この世の忙しさなど様々なことで去ってしまうのです。しかし、いったい、イエス様の与える救いの約束と匹敵するものを、どこに行って手に入れることが出来るでしょう。
 皆さん、人生につまずくことはあります。だからこそ、イエス様のもとに踏み留まる必要があるのです。信仰を持続すること、信仰の粘り強さをもつことは、とても大切なのです。一生涯、イエス様を食べ続け、飲み続けていきましょう。
「すねかじり」



iPadから送信

21 per annum sabato (Parma)


Tra 5 talenti e 1 talento c’è una bella differenza! Si puo pensare che il Signore (Dio) del vangelo fa delle differenze?
Lo stipendio medio è 23.000 euro per gli italiani mentre è 41.000 dei tedeschi.
I VERI dati sono appunto 29.653 contro 38.000,  Insomma, i tedeschi guadagnano 650 euro in più AL MESE.
Dio non è un rivale della liberta' dell'uomo, ripete spesso il Papa. Eppure tanta gente lo pensa.
Che Dio faccia delle differenze è uno dei pensieri che sta alla base della crisi di fede dei nostri contemporanei.Dio non tratta tutti allo stesso modo, è piu' buono con alcuni che con altri.
Perche' Dio ha scelto il popolo di Israele e non, per dire,  i cinesi?
Qui ( far risalire in Dio le disparita' sociali) si puo' vedere la radice delle tante invidie e rivalita' che stanno alla base di tanti comportamenti.

Come rispondere a questa obiezione ? Intanto bisogna considerare che un talento è una cifra considerevole: lo stipendio di 20 anni di lavoro. (Mi hanno spiegato che un talento non è una monetina: un talento valeva 6000 denari, cioè la paga di 6000 giorni di lavoro, al tempo di Gesù!)
Poi il Vangelo dice "consegnò loro i suoi beni..., secondo le capacità di ciascuno".
Se a me chiedessero di dirigere la Banca d'Italia, probabilmente mi troverei in difficolta', se invece mi chidessero di dirigere una scuola, forse ce la posso fare. Anche tra di noi c'è chi fa il rettore, l'economo, il superiore regionale, e poi chi fa le pulizie. In un certo senso c'è una disparita', che non fa problema se è "secondo le capacità di ciascuno". Noi sappiamo quanti problemi creano gli incompetenti nella vita pubblica che pretendono di fare quello che non sanno fare. Dio non crea ne incopmtenti ne sotto-impiegati.
Una cifra considerevole (diciamo alcuni millioni di euro) mi viene consegnata. Questo vuol dire anche una grossa responsabilita'. Quindi non è difficile pensare che per qualcuno questo diventa una cosa insopportabile. Se mi dicessero di gestire tutti ifondi delle pensioni degli italiani, io direi: hey, aspetta un momento!
Quindi se il <Signore del Vangelo da' "secondo le capacità di ciascuno" questo vuol dire che conosce i suoi servi uno per uno, e da a loro secondo quello che sanno fare. Questo per me e' gia' una grande consolazione. Dio non pretende da me quello che non so fare.
Quindi non è tanto la cifra in se che conta ma come viene usata. Si tratta, per usare i termini dell'economia moderna, di "uguaglianza di opportunita'", non di "uguaglianza di risultato" (dare a tutti 1000 euro).
Uguaglianza di opportunità: alle persone devono essere offerte uguali possibilità di ottenere i beni disponibili.
Uguaglianza di risultati: alle persone devono essere offerte uguali quantità del bene disponibile.
Per fare un esempio: nella societa' moderna uomini e donne hanno (o dovrebbero avere) "pari opportunita'" ma questo non vuol dire che debbano fare le stesse cose.
Uno dei punti da rimarcare in questa parabola è che nessun servo fa fallimento (va in rosso), nessun servo ci perde (noi spesso abbiamo l'impressione di perderci se facciamo secondo la logica di Dio).
Quelli che trafficano il denaro ricevuto ottengono un profitto. In altre parole, i doni di Dio, se vengono usati, creano sempre un profitto, una crescita. E credere questo e' la caratteristica del servo buono.
Questo vale anche per l'attivita' della Chiesa. La Chiesa, i credenti, i missionari, di suo non hanno niente, hanno tutto ricevuto da Dio. E se credono, avranno risultati superiori ad ogni aspettativa.
Dio mi ha concesso la vita, e con la vita, che è un dono, mi ha assegnato un compito: il bene mi è semplicemente affidato, bene di cui sono personalmente responsabile.
Il primo dei beni che ho davanti a me, sono io stesso. Non sono io il padrone della mia vita, essa mi è stata concessa da Dio, ed egli me ne farà rendere conto, come il padrone del Vangelo che, al ritorno dal suo viaggio, chiamò i suoi servitori affinché rendessero conto dei beni ricevuti da lui.
Vi sono delle persone che non credono alla vita, che non credono al compito che Dio ha loro assegnato, e sotterrano così il loro talento, la loro vita nella sabbia di un egoismo prudente. Per loro vivere è aspettare la vita. Dio li condanna.
Altri, più audaci, fanno saggiamente prosperare il dono divino, e lo moltiplicano. Dio mi ha dato la vita, affinché io moltiplichi i beni sulla terra, affinché io trovi, per mezzo di questo lavoro, un senso alla mia vita, e scopra la mia vocazione, cioè il bene che Dio mi dà da compiere. Se non sotterro la mia vita nella sabbia e ho l’audacia di accogliere i doni di Dio, posso nutrire la speranza che egli mi approverà.
Molte persone non credono in se stesse, perché hanno sotterrato i loro talenti. Soltanto la fede nel Dio vivente ridà all’uomo la fede nella vita, poiché questa fede non è nient’altro che la fede nel bene che Dio mi ha dato da compiere, e che spesso si dimentica.
"Ci sono molti modi di essere presenti. Se due alberi si trovano l'uno vicino all'altro, sono presenti l'uno all'altro, ma in un senso del tutto esteriore ed imperfetto. Non sanno nulla l'uno dell'altro, non si preoccupano l'uno dell'altro e, nonostante la loro vicinanza, rimangono estranei l'uno all'altro.
La presenza nel vero senso della parola comincia solo nel momento in cui due esseri si conoscono spiritualmente e si mettono l'uno di fronte all'altro consapevolmente. Ciò permette loro di avere interiormente una sorta di immagine l'uno dell'altro, per cui l'altro ha, per così dire, una seconda esistenza in colui con il quale è in rapporto. E se una presenza di questo genere è mantenuta nella maggior parte delle persone che si incontrano, essa può diventare una realtà potente in chi ci conosce e ci ama. L'immagine dell'altro che ognuno porta in sé è, per così dire, carica di realtà. Anche la solitudine può essere piena della presenza dell'altro" (Balthasar).

1 per annum

年間第一月
マルコ1・14-20

イエスは、悔い改めて、福音の勧めに従って日々歩いていきなさいと、励まされます。四人の漁師たちは、舟、網、父親さえも後に残して、イエスの呼びかけに応えます。彼らは、それまで当然としていた生き方を、イエスの意向、望みにサッと切り替え、予想される心配事もすべて委ねてイエスに従います。
「わたしについて来なさい」というイエスの力強い招きに信頼して、イエスの望みを選び、行うことができるよう恵みを与えてください。sese04

年間第一火
マルコ1・21b-28

イエスの権威ある教えにもっとも鋭く反応したのは人間ではなく、悪霊でした。人間は霊的な事柄に鈍感なものですが、悪霊はイエスの聖なる本質と権威を知っています。イエスの出現によって自分たちの存在が根底から脅かされることを恐れていました。現代社会で悪霊のことなど話題にすれば、笑われるかもしれない。しかし、現代社会の狂った様子を見ますと、それはまさに悪霊のしわざであり、悪霊の意のままに動いている人々もいます。新聞やテレビが毎日のように伝えている暗いニュースはそのことをよく表わしていると思います。
このような世界の中でも、私たちはキリストにあって悪霊の支配を打ち砕き、勝利を得ることが出来ます。イエスは私たちの救い主として私たちを縛っている悪の鎖から解放するために来られました。しかし、悪からの解放は一生続く戦いでもあります。最近、子供を殺してしまった親たち、また親を殺してしまったこどもたちのために祈りたいと思います。彼らは悪から解放され、人間性を取り戻すことができるように祈りたいと思います。
----------------------
今日の福音書では、人間のほうは鈍いのに、汚れた霊のほうが、すぐにイエス様の正体を「神の聖者」(まだメシアまではいかないかもしれませんが)とはっきり見分けていることも興味を引く部分です。 でもそれも当たり前かもしれません。たとえば警察官とすれ違って一番びくびくするのは、おそらく指名手配中の人でしょう。加えて、制服を着ていない私服の警察官もいるでしょうから、それを見分けることは、そのような逃亡中の犯人にとって死活問題となります。私服の警官をも見破るほどの敏感さ。そのようなものを悪霊も持っていました。だからイエスが誰かすぐ見分け、また神の権威を持つイエスが、こうして自分の前にいることに、耐えられなくなって叫びだしたというわけです。「神の聖者。我々を滅ぼしに来たその正体を知っている。かまわないでくれ」。
 さて、悪霊も恐れ、逃げ出してしまうほどの神の権威を持った、最高のみ言葉、真理そのものを、私たちはこうして毎日聞きます。
私たちもいろんな「汚れた霊」をもっています。皆と仲良くさせない不和の霊とか、エゴイズムの霊とか、見栄っぱりの霊などです。
 そして私たちには、いろんな恐れがあります。将来への不安、犯罪にあうこと、事故にあうこと、自分をおびやかす人。しかしそんなことより何より、神の言葉を聞くことに恐れましょう。何の回心もなく、ただ聞き流して終わる。そうでなく、私たちの悪霊に恐れをなしてもらって、恐れて、神の御言葉に本当に聞き従うものになりましょう。
---------
ヘブライ2・5-12

ちょっとわかりにくいと思います。大切なことだけを申しますと、イエス様は神の御子であり、天使に勝れる者であるにもかかわらず、天使よりも低き者、弱き者、貧しき者、つまり人間となられたのだということが言われているのです。人間としての低さ、弱さ、貧しさを身に負われて、私たちのところに来てくださったということなのです。その人間イエスの弱さ、貧しさがここで語られているのです。
ある意味でとんでもないことが書かれています。イエス様は神様の御子であり、万物の創造者、支配者であるならば、それに従わないものは何一つないはずなのに、《しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。》と、現実はそうなっていないと語られているのです。万物の創造者だ、支配者だ、神の子だと言っても、イエス様はこの世に対して何の力もないじゃないか。それどころか、人々の手にかかって十字架につけられ、殺されてしまったのではないか・・・そういう風に言われても仕方がないような現実があると、言っているのです。
 こういう現実は、私たちも日常の生活で経験しているのではありませんでしょうか。イエス様は救い主だと教えられているのに、私の生活は苦しいことばかりじゃないか。ニュースを見ても悲惨なことばかりだし、戦争はなくならないし・・・いったいイエス様は何をしているのか? どこにその救いがあるのか? 『ヘブライ人への手紙』は、実はそのようなイエス様の弱さの中にこそ、神様の恵みが、救いがあるのだと言われるのです。9節
私たちは、イエス様に強き力を求めます。「神の御力をもって病気を治してください」、「立ちはだかる問題を打ち砕いてください」、「私たちの弱さを強めてください」(都合の良い神)・・・しかし、私たちに本当に必要な救いはそういうことなのでありましょうか? 病気が治ったら、問題が解決したら、自分が強い人間になったら、私たちの人生はバラ色だと本当に言えるのでしょうか。そうではないと、聖書は語っているのです。むしろ、私たちに必要なのは、イエス様の弱さ、貧しさ、小ささなのだというのです。いと高き神の子であるイエス様が、そのような者になってくださった。私たちと同じものになってくださった。私たちの弱さを、貧しさ、小ささを分かってくださるお方になってくださった。そこに神の愛、神の恵みがあるのだというのです。

年間第一水
マルコ1・29-39

「手を取ると、熱が去り、その結果、起き上がった」と言うかわりに、「そばに行き、手を取って起こすと、熱が去った」と述べています。「起き上がる」(ギリシア語で、エゲイロー)ということばに注目させ、死から立ち上がる復活を示そうとしています。(荒)奉仕できない状態は、死の状態に等しい。健康な人間は奉仕できる人だと言わんとしている。この奇跡は主婦の役割を引き立たせています。
イエスが手を取って起こされると、しゅうとめの熱は去り、彼女は一同をもてなしました。イエスの癒しは、私たちが自分に与えられた使命を生きることへと向かわせます。神の力はイエスを通してこの世にもたらされ、イエスに出会った者は神の国の実現に協力するようになります。それこそ、人間
が渇望する、救いではないでしょうか。
主よ、神から離れて倒れている私を癒してください。あなたからいただく使命を生きる喜びに立ち返らせてください。sese05 今わたしが罹っている熱病は何だろうか。イエスの差し出される手は、どこにあるだろうか。深く心を沈めてゆくと、イエスの手がわたしの痛むところに置かれ、わたしの手を取って引き起こして下さるのが分かる。あなたに起していただいたこの喜びを周りの人々と共に味わうことができますように。sese07

年間第一木
マルコ1・40-45

モーセの律法も救うことのできない領域があります。ハンセン病は罪によるけがれともされ(レビ記13~14章参照)、病人
は社会から締め出されていました。ただ神だけがらい病を清めることができるとされ、らい病人の清めはメシヤがもたらす終末的な祝福の一つとされたいた。神の働きはイエスの愛、さしのべられた手からあふれ、病人を清めます。「らい病人を清める」ことは、「死人を生き返らせる」ことと並んで、終末時の神の業として特別の意義を持っているので、マルコは一人のらい病人の癒しを詳しく伝えるのです。
らい病人は人に近づくことも許されていなかった。彼がその律法の枠の中に止まっていたならば、救われることはなかったであろう。彼が癒されたいという切なる願いと、イエスに対する信頼とによって、律法という隔ての垣根をあえて踏み超えて、イエスのもとに来てひれ伏した時、救いが始まったのである。イエスも律法を超えてらい病人を受け入れておられる。イエスのもとにひざまずくらい病人、そこはすでに律法を超えた場である。らい病人に触れることは、病気への恐れだけでなく、自分も宗教上の汚れに陥ることとして極度に嫌われていた。しかし、イエスはすでに浄・不浄の差別を超えた次元におられ、ただ社会から疎外され、治癒の見込みもない絶望的な病人へのあわれみから、その人に「さわり」、その人とひとつになって、ご自身の中にある神の力を注ぎ与えられるのである。
らい病人が清められることは何を意味するのか、らい病人本人はまだ十分に自覚していなかったであろうが、イエスはそれを知り、それがユダヤ教社会でどう受け取られるのかを知っておられた。それで、イエスはあわれみにより病人を癒しながら、メシヤであることを自称する者であると理解されることを極力避けようとして(すくなくともマルコの描くイエスはそうである)、この出来事の公表を厳しく禁じられるのである。

「御心ならば…」と、重い皮膚病を患った人はイエスに願い出ます。イエスの「よろしい」という言葉は、「私はそれを望む」(Autos thelo)と訳すこともできます。私たちが癒され、周りの人々とより良い交わりを持ち、喜んで生きることはイエスの望みでもあります。イエスはご自分の業が、名声を得たり、いたずらに好奇心を駆り立てるために用いられることを望まず、純粋な憐れみの交わりの中に留まることを望まれます。
主よ、あなたの憐れみの心に生かされる者としてください。sese05
イエスはいつもわたしに「よろしい。清くなれ」と言ってくださっている。それは私の痛みへの深い憐れみから。イエスのこの心をしっかりと受けていきたい。イエスのこの愛に触れた喜びを告げ知らせたい。主よ、日々の出来事の中であなたに清められる喜びを見出す恵みをお与え下さい。sese07
---------------------------------
ヘブライ3・7-14

『ヘブライ人への手紙』は、ひとりで読んでいても、なかなか難しい書物であるかもしれません。しかし、ところどころに信仰の核心をずばりと言い当てた珠玉の御言葉が出てまいります。とくに文語訳聖書で読みますと、心に響きます。たとえば、
《心をかたくなにしてはならない》とあります。かたくなな心とは、自分自身のねじれた考えに凝り固まってしまって、何も受け入れなくなってしまう心です。先ほどからくり返し言っていますが、人生には自分の意のままにならないものがあります。自分の力を超えたものが働いています。実はそこに神様の御心があったり、御業があったりするんですね。
 こんな話を聞いたことがあります。ある老牧師が、目を輝かせ愉快そうにこう言うのです。「長い間、仕事に邪魔が入ると、つねに文句を言ってきましたが、その邪魔というのが、じつはわたしに与えられた仕事であることが、だんだんと分かってきました」
 数多くの思いがけない出来事を、単に自分の計画を邪魔するやっかいな出来事として恨みがましく思うのではなく、そこに何らかの神様のご意志があるのだということを認め、信じると、人生の色がガラリと変わるのです。

年間第一金
マルコ2・1-12

目に見える状況がどんなに良くなったように見えても、内面が癒されなければ、人は本当に幸せにはなれません。イエスは私たちの最も深い望みに応えてくださいます。神から罪を赦された者は、外面的なことがどうであろうと、真の自由と喜びの内に生きるのです。
主イエス、私を罪の力から解放し、いつも神の子の自由と喜びを生きる者としてください。sese05
-----------
 イエスはその非常識で突飛な行動の中に彼らの信仰を見ておられる(五節)。聖書は信仰の内面の心理を説明しない。やむにやまれず外に現れる行動によって信仰を描く。イエスは彼らの、とくにそのからだの麻痺した人の「信仰を見て」こう言われる、「子よ、あなたの罪は赦されている」。病気だからつれてきたのに、イエス様は病気のことは何も言わずに、ただ罪が赦されたとだけ言い
ます。考えてみればおかしな話です。病気の癒しを求めてイエスのもとに来た者にとって意外な言葉でしょう。神の言は人間の願いにとってまことに意外です。それは、天が地よりも高いように、神の道は人間の道よりも高く、神の思いは人間の思いよりも高いからです(イザヤ五五・九)。人間は地のことを求める。眼前の切実な必要を神に訴える。しかし、その全存在をもってする訴えが信仰として神に受け入れられる時、神は天のものを与えられる。
また、私たちは恐れるべき病気は、体の病気よりも心の病気であると言うことが示されているのだと思います。実際、風邪を引いたなどの体の病気は、何日か寝ていれば治ります。治らない病気もありますが、多くの病気は治るようになってきました。神の「安息にあずかれない」(ヘブライ4・1-5 第一朗読参照)ような心の病気は人間の力だけでは治りません。意地悪な心、自分中心の心、不平不満ばかり言う心、優しさに欠けた心、人を傷付けるような心。この心の病気のために体は死ぬことはありませんが、そのために魂が滅びてしまうなら、それこそ恐ろしいことです。だから体を治す方が、心の重い病気によって犯し続けている罪を赦すことよりも簡単だと言っているのです。
 ですからイエス様にとって、心の病気のほうが大変なことでした。そこでまず何よりも、心の癒し、罪を赦すことを宣言したのです。(マタ10:28体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。)

年間第一土
マルコ2・13-17

神の前では同じ罪人にすぎない私たちの間で、互いに批判したり、裁いたりすることがよくあります。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」神のこの憐れみこそが救いです。自分の罪を自覚する者は神の憐れみに触れ、神の国に招かれます。そして今度は、他のすべての人を憐れみをもって迎え入れることにより、救いを告げ知らせるよう招かれます。
主よ、罪人の私を招いてくださったあなたの憐れみの心を一層深く味わわせてください。その心を人々と分かち合っていくことができますように。sese05
私がどういう人間か、イエスはすべてご存知です。その上で、『わたしに従いなさい』と声を掛けて下さっています。『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』と。主よ、あなたの招きに応えてゆきたいのです。素直に従っていく勇気を与えて下さい。sese07

2 per annum

年間 第二月曜日
「婚礼の客は断食できるだろうか」
マルコ2・18-22

信仰生活には目的と手段があるとすれば、断食は手段の方に入るでしょう。目的は神との生きた関係をつくることです。神と親しくなるためにさまざまな手段がある。悔い改めて、失った関係を回復するために断食するのも、よいことです。が、今は結婚式場に招かれているのに、喜ぶべきときに、悲しみの断食をするわけにはいかない。
信仰生活には目的意識が必要である。さらに動機も大切です。キリスト信者は断食をするのは、律法を守るためではなく、キリストの十字架を担うためです。神とつき合うためにこちらが手段を選ぶのではなくて、神から与えられた目的があるから、それにそって選ぶべきである。今は喜ぶときなのか、それとも悲しむときなのか、自分の動機はどうなっているのか。キリストと共に喜び、あるいは悲しむ。キリストに合わせる自由(覚悟)があるのか。新しい関係が生まれようとしているのに、態度を根本的にかえず、ただ習慣に固執するなら、よいことでもその価値を失ってしまいます。

年間 第二火曜日
「人の子は安息日の主である」
マルコ2・23-28

神は、戒めを設けられたとき、人間の益になるように設けられました。しかし、人間の側でそれを曲解し、おきてで人間をがんじがらめにしてしまいます。そのような掟と福音は、根本から対立するのです。不思議なことに、人間は、自分に益を与える福音よりも奴隷にするおきてを選ぶことが多いのです。

 「人の子は安息日にも主です。」

 イエスはここで、「あなたがたは、選ばなければなりませんよ。あなたが絶対に譲れない安息日にまさって、わたしを一番にすることができますか。」と言われています。絶対視しているものをイエスのために捨てるかそれともそれにしがみ続けるのか、どちらかを私たちは選ばなければなりません。
------------------
私たちは御言葉に従って生きて行こうとするとき、どこかでこの世の道理とぶつかることがある。しかし、従って生きることは神の御旨であるならば、神が荒れ野でマナを降らせたように、この世の道理を超えて、私たちに必要なものを備えて道を開いて下さるのである。イスラエル人は安息日を守ることができるために、神は必ず備えをして下さると信じていました。そこから考えると、キリストは「安息日の主」だということは、安息日(日曜日、「主日」)はキリストに従って生きるための備えであるということになる。
信仰生活のために休むことは大事であって、そのために安息日(主日)を守ることが大切である。やはりこれは信仰生活の一つの知恵だと思う。
ところが、安息日には、仕事をしないということ自体が目的となってしまった。神は安息日に仕事をするなと言われたのではなくて、神を礼拝するために仕事をしばらく止めることであった。けっしてそれは目的ではなく、一つの手段である。手段の目的化ということは、信仰生活において起こる誘惑である。やはり、健全な信仰生活には、目的と手段をしっかり見分ける勉強は必要である。(榎本)
科学技術の発展と共に人間の生活も便利になり、人間についての研究も進歩しましたが、人間自体は軽視されているのが現状です。人間のための技術なのか、人間のための経済なのか、それとも経済成長そのもの自体が目的なのか、わからなくなるときがある。神は人を愛して創りましたが、人は自分に都合のよいものを作り、これに愛着するようになりました。私たちが作ったものを神が創ったものより尊ぶことのないよう、いつも主に心を向け、御心を行なうことができますように。
-----------
ヘブライ人
《わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす》、文語訳で申しますと、「われ必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」と、
『ヘブライ人への手紙』が、ここで私たちに言いたいのは、今から4000年も前に、アブラハムに与えられた神の約束と誓い、「われ必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」との祝福の御言葉は、今も私たちに語り続けられているのだ、ということです。それどころか、イエス・キリストを通して、この祝福の御言葉はますます力強く、私たちに語りかけているのです。
クリスチャンは、この世に絶望した人間です。ひとりひとりがさまざまな人生経験を通して、たとえ学問を積んでも、財産があっても、健康でいられても、人生の空しさから逃れることができない、と知りました。しかし、同時に、そのようなこの世の暗闇の中に届く、一筋の光を見たのです。それはこの世のものではなく、天の神様のもとから、人間を照らす真の光として来てくださったイエス・キリストです。
 イエス様は、神様がアブラハムの人生に語られたように、私たちの人生にも「われは必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖さん」との神様の約束を、誓いを、語りかけてくださいました。アブラハムの場合、不妊の妻サラが年老いて月のものもなくなり、まったく子を産む能力がないにもかかわらず、神様の御業によって子が与えられたという奇跡をもって、神様がいかに無から有を生み出すお方であるか、絶望をも希望に変え給うお方であるかということが示されました。これも本当に大きな希望でありますが、イエス様は、私たちにそれ以上のことを示してくださいました。罪深い私たちの罪を清めて神の子にしてくださり、死ぬべき滅ぶべき私たちに復活の新しい命をあたえてくださったのです。そして、肉なる者としての絶望、罪人としての絶望に沈む私たちに、「我は必ず汝を恵み恵まん、殖やし殖やさん」との神の祝福の言葉を与えてくださったのです。


年間 第二水曜日
「安息日に許されているのは、命を救うことか、殺すことか」
マルコ3・1-6

この人の手は、前からなえていたので、安息日にいやす必要はない、しばらく待っていただければ、と人々は考えていただろう。しかし、イエスは、安息日にその手をいやされた。今まで手がなえていたから、いつか直ればよいというのは、他人の考えで、本人は一刻も早くその不自由さから解放されたいと願っていたであろう。本人の立場に立てば、今その手をいやしてもらうことが大切なことであった。イエスは官僚主義的な考え(ちゃんとした手続をふまえてからという)にとらわれず、事柄の本質を問います。安息日はそもそも何のためにあるか。それによって弟子たちは、安息日をどのような心構えで祝うべきかを理解しました。ただ単に仕事しないことによってではなく、善をなすことによって、神の栄光を証しすべきだと。
なえた手を伸ばしなさいとイエスが言われたとき、この人は自分の手は今まで伸びなかったという慣れきった現実に左右されないで、神の言葉には無から新しい現実を生じさせる力があり、神には可能であると信じ、自分の立場を神に委ねた。そのとき、彼の手は直った。慣れた現実に捕われない(こだわらない)で、神の可能性を認める、これは信仰である。
会堂の中には手の萎えた人が一人いました。しかし、心が萎えた人はたくさんいました。かたくなな心は外には見えません。善を行なうために、命を救うために、かたくなな心を治すことが何よりも大切でしょう。私たちも心の中の萎えたものを探し、癒していただくよう、イエスに差し出しましょう。sese07
----------------------
 「動物はその飼い主に似る」と言われています。先日、類人猿の優劣を比較して論じているテレビ番組がありました。ゴリラの研究者、チンパンジーの研究者、オランウータンの研究者が出ていましたが、面白いことに、永年つき合って心を通わせている動物に、それぞれの研究者が似ているのです。 夫婦は、性格は相当に違いますが、暗黙の了解ができています。テレビ番組も好んで見るもの、どうでもよいもの、絶対に見ないもの、の分類はほぼ一致しています。
 仏教徒は釈迦に似るはずですが、日本では釈迦は遠い存在ですので、各宗派の始祖、最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、道元などの教えを学び、生き方に感化されて、それらの人格に似る者になります。キリスト教徒はイエスの愛に学んで、それをお互いの間で実行することによって、イエスに似る者になります(ヨハネ13・34他)。その場合、いかなるイエス、どのようなイエス像がその教会に伝承されているかということによって、教会の性格が形成されます。

マタイとルカは、「彼は怒りに満ち…深く悲しんで…」のマルコの記事を省きました。マタイとルカは一貫して、マルコの記事にある、イエスの人間的な感情の表現を省きました。きっと時代が下ってマタイやルカの頃になると、神の子イエスを崇敬する念が高まり、神の子が怒ったり、憤慨したり、悲しんだり、驚いたり、恐れおののいたりするのは相応しくないと考えてのことでしょう。その結果、カトリック教会の聖像や、ギリシャ正教会の聖画(イコン)のような、人間的な感情を表わさないイエス像になってしまいました。彼ら以前のマルコのイエスは、人の子イエスです。マルコは神の子イエスを信じていましたが、それは隠れた姿にしておいて、不義不正を見ては憤り、偽善を見ては腹を立て、世の罪を見ては深く悲しみ、十字架を前にしては恐れおののく人の子イエスを描きました。
 このように福音書を学んで私たちは、人間的な感情を殺して信仰生活をする必要はなく、人間的な感情を豊かにもちながら、イエスに徒うことが許されていることを知るのです。
-----------
自動体外式除細動器(じどうたいがいしきじょさいどうき、Automated External Defibrillator, AED)というものは最近いろいろなところでよく見かけます。十万円前後もするそうですが、教会でも備えておこうかと検討されています。心臓がとまった場合、こういう機械をあてると心臓の働きは戻ります。
とことが、今日の福音書を読むと、安息日に人を助けてはいけない、救急車を呼んではいけない、医者は働いてはいけないみたいな印象を受けます。けれども、それは正しい捉え方ではないのです。マタイ12、11やルカ14、5を見ると、牛や羊が穴に落ちた場合、安息日でも助け出すことはできると書かれています。安息日という制度にはちゃんと例外が認められたのです。問題は、どちらかというと縄張り争いです。イエス・キリストは「メルキゼデクのような司祭」であった、つまり人間によって造られた制度での司祭ではなかった。安息日を守る祭司階級は人間によって決められていたもので、そこにキリストが入り込むと縄張り争いが起こるわけです。
現代教会にも縄張り意識は結構あります。そこにキリストが入り込むときは、縄張り争いが起こりうるのです。キリストの働き、癒しに抵抗するのです。キリストを追い出そうとして現状維持を図るのです。その場合、私はどうでしょうか、キリストの働き、癒しを受け入れるのか、それと既成の縄張りにこだわるのか、どちらにつくかを問いかける福音書です。
-------------
メルキゼデクは、旧約聖書においてもたったの二回しかその名が記されていません。一つは創世記14章17-20節です。アブラハムは彼に戦利品の10分の1を贈ったとあります。この短い記述があってから1000年後、ダビデの記した詩編の中に再びメルキゼデクの名が登場します。詩編110編4節です。
主は誓い、思い返されることはない。
『わたしの言葉に従って
 あなたはとこしえの祭司
 メルキゼデク(わたしの正しい王)。』
この言葉は、神様によって、ダビデがメルキゼデクの後継者に任じられたということを意味しています。そして、さらに1000年後、イエス・キリストが誕生し、この『ヘブライ人への手紙』の著者が、もう一度メルキゼデクに光を当てます。新約聖書の中には、この手紙を除いて、この名を見ることはできません。しかし、この手紙は、旧約聖書における上記のたった二回の記述をもとに、イエス・キリストこそはメルキゼデクに等しい大祭司であると、大胆かつ緻密に論じるのです。
メルキゼデクは王であり、祭司でした。王とは、人間と人間の間を結ぶ、社会を治める者です。祭司は、神と人間の間を結ぶ宗教を治める者です。今日では、政教分離こそが、先進国の印のようになっていますが、それは無用な争いを避けようとする方便にすぎません。
このようなことから、『ヘブライ人への手紙』は、メルキゼデクが、アブラハムに優るものであるということ、4-10節で語ります。そして、アブラハムに優るということは、その子孫であるレビ族にも優るということだとも言われています。さらに、先ほど丁寧にお読みしたところですが、11-19節では、イスラエルに与えられている神の掟、つまり律法にも優るのだということが言われているのです。もう一度、16節を見ていましょう。
メルキゼデクが、律法による祭司ではなかったように、そしてアブラハムを祝福したということからも分かるように、律法による祭司よりも優れた者でした。イエス様もまた、律法による祭司ではなく、アブラハムや、アロンや、レビ族や、律法すらも超越した祭司なのです。



年間 第二木曜日
「イエスは群集が自分に押し迫るのを避けた」
マルコ3・7-12

愛の人であり、救い主であるイエスが多くの群集がきたのに、その人たちを避けて、のがれるために「小船を用意しておけ」と命じられた。それは「多くの人をいやされたので、押し寄せてきたから」である、とある。この個所は、救いを熱心に求めていればよいものではない、ということを示していると思う。群集は非常に熱心にイエスを求めたが、その熱心さの動機は、自分たちの苦しみ、病気をいやしてもらおうという、自分の都合ないし欲望であった。そういう求め方をするとき、イエスは避けていかれる。(榎本)
 人々が病気や悩みから解放される状態は、神の国が実現しつつある状態なのである。あらゆる悪が追い出されていることは、神の国においては悪には用がないことを示している。ところが、人々の心の中に分裂を起こすために、一所懸命活動している悪霊がいることも事実である。神の国は何であるかを見えなくして、自分の悩みや苦しみばかりが見える、そんな目を作っている。(ステ)
イエスに従おうとする私たちは、ともすると、自分勝手な望みでいっぱいになって、イエスを押しやってしまいます。そんな時、イエスは少し私たちから離れるようですが、イエスの心が離れるわけではありません。イエスこそ、私たち一人一人の必要を最もよく知っています。私たちにとって大切な
ことはイエスと共に、イエスを中心に歩むことです。人間関係でも同じことが言えるでしょう。
自分を押し付けて近づくより、ある程度の距離を取りながら相手の内におられるイエスを尊重する中で、信頼関係を深めていくことができますように。sese07
-----------
『ヘブライ人への手紙』は、ヘブライ人つまりユダヤ人に向けて書かれたものです。したがって、ユダヤ人ならではの問題が、この書の中に含まれています。もちろん、私たちに関係ないということではありませんが、一義的には、ユダヤ人の抱えている問題ということがあるのです。祭司制度の問題も、その一つであります。これを読む場合、まずユダヤ人の知っている祭司制度とは、どういうものかを知ることから始めないと、わかりにくいのです。できるだけ分かりやすく、お話ししたいと思います。
 祭司とは、神殿に奉仕して、礼拝や祭儀を司る人たちのことです。「祭司」を逆さに読みますと、「司祭」になります。「司祭」は、カトリック教会で、礼拝や典礼を司る聖職者のことです。礼拝や礼典を司るという意味では、ユダヤ人の「祭司」も、カトリック教会の「司祭」も、そしてプロテスタント教会での「牧師」も、同じ働きをすると言ってもよいのです。司祭は、神父とも呼ばれ、信者たちの魂への父親的な配慮の働きもいたします。牧師は、信者たちを神の羊たちとして牧するという働きもします。それにたいして、イスラエルの祭司は、もっぱら神殿礼拝を司る働きをしていたのでした。

ヘブライ人への手紙とマルコ福音書のイエス・キリストの描き方は非常に対照的です。「聖であり、罪なく、汚れなく、罪びとから離され、もろもろの天より高」いとしている手紙。一方福音では、あらゆる病気を患った大勢の人々、汚れた霊どもに囲まれ、触れられ、「押しつぶされ」そうというほどであった。大変大きなギャップが描かれています。このギャップを埋めるには、「執り成し」、「仲介者」、「大祭司」というような言葉があります。イエスは、人間は手のどこかない世界、創造主の世界とつながっているからこそ、この世にいた間は、人々を癒す力、悪を追い出す力をもったのです。
今も、キリストの体である教会を通してキリストはあらゆる民族の人々から触れられる。と同時にキリストは父なる神の世界におられる。そのギャップの間に生きている私たちはどうすればかと言いますと。今日の答唱詩編に答えがあります。「神のみ旨を行うことは、私の心の喜び」。キリストのようにへりくだって、謙虚に人々に奉仕することではないでしょうか。



年間 第二金曜日
「十二人を任命した」
マルコ3・13-19

弟子たちは、来たのではなく、「呼び寄せられた」とある。信仰とは自分から進んでいくというのではなく、イエスによって呼び寄せられたことである。それは、「従う」ということにつながる。イエスに従うのと、イエスを従えるのとは大きな違いがある。私たちはともすると、イエスを従えようとしている。しかしイエスは私に従ってきなさいと言われたのであるから、いつもイエスのあとに従う存在であることを覚えたいと思う。
「そこで十二人を任命した」とある。弟子たちから言えば、任命されたのであり、受け身の立場である。さらに、「彼らを自分のそばに置くため」である。私たちは常にイエスのそばで養いを受ける必要がある。全く平凡な十二人が、ニ、三年後には、偉大な宗教家として働くようになった。彼らはそれを神から授かったことである。(榎本)
現代に生きる私たちにも、救いの歴史を担う役割が与えられている。
イエスに選ばれた十二人を見てみましょう。家族の名を取り上げたのは三人。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、アルファイの子ヤコブ。仕事と行動の説明があるのが二人、熱心党のシモンとイスカリオテのユダです。その他は名前しかない平凡な七人です。イエスの時代にも、優秀な学者、金持ち、力ある官僚はいましたがイエスは彼らを選ばれなかったのです。その意味をじっくり味わいましょう。イエスの力が私の弱さの中に働き、神の栄光が現されますように。sese07

年間 第二土曜日
「あの男は気が変になっている」
マルコ3・20-21

一般常識に反する行動をする人がいれば、気違いと言われる。これは昔も今も同じである。イエスの時代から今日に至るまで、一般常識と言われるものがそれほど変わっていないと思われる。福音書ではイエスが気違いと言われている理由は、民衆が抱えている問題に真剣に取り組もうとしているだけのことである。考えてみれば他人のことを気にするだけのことである。ごく普通の当たり前のことであるが、我を忘れるまで、食事の時間を惜しんでまでも、人のことを心配することが、常識的には許されない。当然イエスはそのような常識を無視して自分なりの常識、つまり愛の常識(論理)、に従って行動する。
一般常識のもう一つの原則は、皆がやらないことは自分もやらないことである。この原則を守らないと、自分の行動は、何もしない人への批判と受け取られる可能性がある。
私たちは普段どういう常識に従っているのであろうかと、反省させられる。(ステ)
イエスに従っていた人は食事をする暇もないほどでしたが、私はどうでしょう?イエスは気が変になっていると噂され、家族の者が恥ずかしくて取り押さえに来るほどでしたが、私はどうでしょう?
イエスに従うとはどういうことか、よりよく悟り、イエスと共に様々な苦難を受け入れていくことができますように。sese07

3 per annum

年間第3月
マルコ3・22-30

サタンとはどのようなものなのでしょうか?祈りのうちに過ごす日常生活においても私達の心は常に揺れ動きます。イエスはたとえ話の中で「内輪もめ」という言葉を繰り返されます。それは閉ざされたところで起こる、閉ざされた考え、他を受け入れようとしない頑固な態度、自分を守ろうとする心の狭さを感じさせます。それがサタンではないでしょうか。聖霊は御父から注がれるものであり、「内輪」ばかり見ていてはその存在に気づきません。
開かれた、柔軟な、広い心で聖霊を受け、聖霊に導かれて日々の生活を送ることができますように。sese07

ファリサイ派の人々はイエスをせめるための口実を一所懸命探していますが、それがなかなか見つかりません。そして最後に「おまえは悪魔たちの親分だから悪魔を追い出せるのだ」という、矛盾に満ちた理屈を言い出します。ここまで来ますと、彼らはイエスの人気を落とさせるために、手段を選びません。彼らはイエスに対して激しいうらみを持っているので、理性が効きません。
 イエスは目指しているのは、周囲の目を気にせずに、正しいことを正しいこととして受けとめることの出来る人の育成です。自分の心のわだかまりからも、周りの抑圧からも自由な人間の養成です。
ところがファリサイ派の人々は言われる通りにふるまうおとなしい人間を求める。疑問を持たない人間、疑問に思っていることでも、質問したり、問い掛けたりしない人間、世間の価値観をうのみしながら、行動する人間です。さて、私たちはどういうタイプの人間になりたいと望んでいるでしょうか。

 
年間第3火
マルコ3・31-35

イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われます。それまでイエスの周りに座りイエスだけを見ていた人達の信仰は「私と神」の間だけのものだったのではないでしょうか。それがイエスを通して、「私と人」「人と人」との間にも信仰が生まれます。「神の御心を行う心」すなわち「清らかで愛に満ちた心」は全ての人の心の奥にあるのではないでしょうか。今日出会う人達を私の兄弟、姉妹、また母として受け入れ、互いに支え合い分かち合いながら信仰の道を歩むことができますように。sese07

家族というのは、本来は、血のつながっている、一番の近親者のことです。ですから、それは血のつながっていないものから見たら、いくらその家の家族になりたいと思っても、なることは出来ない。そういうある意味で、閉鎖性を感じるものが家族です。何かのサークルだとか、組織だとかとは違って、開かれていないのです。 しかしイエスさまにあっては、血のつながりも何もない、幼なじみであるわけでもない、同じ出身地だというわけでもない。別々の家庭に育ち、それぞれ異なる人生を歩み、お互いなんのつながりもなかった人々が、イエスさまのもとに一つに集められている。この弟子
たちを指して、イエスさまは「わたしの母、わたしの兄弟」とおっしゃる、わたしの家族だというのです。
イエスさまのあとに従い、みことばに耳を傾けているならば、私たちもイエスさまの弟子なのであり、それゆえイエスさまから、「わたしの母、わたしの兄弟」と呼ばれるのです。わたしの家族、と言われるのです。
みことばを自分の中に受け入れることによって、イエス様が自分のなかに生まれるということだと思います。私たちは母マリアと同じようにイエス様を生んで、育て、世界にプレゼントすることができるというわけです。なにか照れくさいような、嬉しいような感じがするかもしれないが、それは教会という変わった家族のなかに毎日のように文字通り起こっていることなのである。
------------
『ヘブライ人への手紙』10章

みなさんもご経験があると思いますが、健康診断で再検査を言い渡されまして、お腹のCTとエコーの検査をいたしました。あるいは、レントゲンを考えてみてください。画像の写真を見ますと、白黒の陰影画像です。それを見せられて、「ほら、ここが○○ですよ」と、お医者さんのお話を聞いていましたが、白いものがみえたり、くろっぽいものがみえたりするだけなので、いったいお腹の中がどうなっているのか、私にはさっぱり分かりませんでした。わからなくても、「まあ、心配はないでしょう」と言われてホッとしたわけです。それにしましても、陰を見て実体を知るといいますか、お医者さんというのは、知識とか経験を駆使しまして、そういう陰影だけでできた写真からお腹の中のようすが手に取るように分かるようです。凄いことだなあと思いました。このように、実体そのものをみなくても、その影を見て、実体そのものを知ることができる人たちがいます。そういう影の話が、『ヘブライ人への手紙』10章1節に出て来ます。

いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。

律法は《影》に過ぎず、役に立たないと、律法否定みたいなことが書いてあるようにも読めますが、《影》を否定的な意味にとる必要はありません。律法は、十戒をはじめとして神様が与えてくださったお言葉です。しかし、神様の言葉と言いましても、神さまの言語で語られているわけではありません。神様の御心を、人間に分かる言語に置き換えて、語られているのです。ですから、それは神様の御心そのものではなく、《影》であると、『ヘブライ人への手紙』は注意をしているのです。
 その際、ただちに「だから、それは実体がないんだ」と結論に持っていくのは危険です。

年間第3水
マルコ4・1-20

イエスは私達のことをよくご存知です。このたとえ話の結論として「だから良い土地を持つ人になりなさい」とは言われません。私達の心の中には、道端、石だらけの所、茨の生えた所が常に存在することを承知しておられます。そのうえで全ての人の心の奥には神が創造された良い土地が存在する、という確信のもとにこのたとえを話されているのではないでしょうか。神の御言葉は私達への信頼、希望、愛なのです。たとえ今日実を結ばなかったとしても、この信、望、愛は決して途絶えません。
神の深い愛に満ちた御言葉を今日、誠実に受けとめることを通して、聖霊の助けによる実を結んでいくことができますように。sese07
--------
イエスは、群衆にたとえで言われる理由を話されています。彼らは、「見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟ら」なかったのですが、とても面白いですね。彼らは、みことばの裏に秘められた、暗された意味を解読できなかったのではありません。あまりにも明らかで、あまりにもはっきりしていることを理解できなかったのです。オウム真理教の事件が起こった後に、ある雑誌の編集長がハルマゲドンのことを知るために、ヨハネの黙示録を読みました。 しかし、彼は、何が何だかさっぱり分からなかった、ということをあるテレビ番組で話していました。しかし、本の内容というのは、たいてい初めのほうにその主題が書かれています。ヨハネは、「イエス・キリストの黙示」と書き始めています。黙示は現れることを意味しますから、イエス・キリストの現われがこの書物のテーマです。実際に19章には、ハルマゲドンの戦いのときに、イエスご自身が白い馬に乗って現れます。ですから、この事はキリストが現れることについて書かれているのです。こう説明して、わかる人はわかります。小学生でもわかるでしょう。なぜなら、あまりにも当たり前のことを話しているからです。

 しかし、多くの本を読んでいるはずのインテリが、そうした当たり前のことがわからないのです。見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟りません。なぜなら、「悔い改めて赦されることがない」からだ、とイエスは言われています。弟子たちのように、罪を悔い改めて福音を信じていないから、悟ることができません。真理を悟ることは、やはり、イエスとの関係なのです。イエスとともにいることなのです。これが、私たちが真理を悟るための鍵となります。

-------------
『ヘブライ人への手紙』10章
イエス様は、唯一の救い主である。これはイエス様の他に、私たちの救いはないということです。私たちは日々、いろいろな問題に直面しています。仕事のこと、家庭のこと、人間関係のこと、健康のこと、お金のこと・・・・この世にある限り、そういう様々なこの世的な問題を免れることはできません。そういう問題を、ひとつひとつ担ったり、解決したりしていかなければなりません。そういう時におきましても、イエス様は唯一の救い主であるということを信じ、イエス様への信仰をもって生きていくのが、クリスチャンの生活、つまり信仰生活でありましょう。

 ところが、うっかりすると信仰生活が、「信仰と生活」に分離してしまうことがあります。信仰がなくなってしまうわけではないのですが、その信仰が、日々の生活に結びつかなくなってしまうのです。本来は、仕事においても、家庭においても、人間関係においても、健康上の問題でも、あらゆることにおいてイエス様が私たちの唯一の救い主でいらっしゃる。これが私たちの信仰です。しかし、心の問題、魂の問題は、イエス様に祈り求める。けれども、毎日の生活においてはこの世の富、知恵、力を頼みとし、この世的な評価を追い求めて生きている。言ってみれば、ダブルスタンダードです。こうなりますと、最初のうちは、あまり気づかないかもしれませんが、イエス様の御救いに対する喜び、感謝、讃美が、だんだんおろそかにされていき、ついには何の力もなくなってしまうのです。これについては4章1-2節に、こういうことが記されています。

だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。

年間第3木
マルコ4・21-25

ここで「持っている人は与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」ということが起こる。聞く耳を持っている者、すなわち信仰をもってイエスの言葉を聴く者、さらにイエスと同じ御霊による理解力をもって聴く者は、イエスの言葉を真剣に受け入れるので、神の国の奥義をいよいよ深く示し与えられて、霊の次元でますます豊かになるが、それに対して、聴く耳を持たない者、すなわち悟りのない者は、だんだん神から遠ざかり、本来与えられている神への感受性をも失い、霊の生命の枯渇に至る。
 マルコが、本来はイエスご自身のことを言われた「あかり」の譬を、この「秤」の譬と組合せてここに置いたのは、「種まき」の譬を御言葉を聴く態度の大切さを説く譬と解釈した結果、その主題をさらに拡大強調するために、「あかり」の譬も弟子たちが受けた御言葉の光を輝かすことの大切さを説く譬として、御言を真剣に聴くことの大切さを訴える「秤」の譬と一組にしたのであろうと考えられる。

----------
「持っている人」「持っていない人」――何を、持っていたり、持っていなかったりするのでしょうか?神の言葉、福音の「ともし火」を燭台の上に置き、神の前で、自分の持っているものを一つ一つ見直してみなさい、ということです。自分の持っているものを量って、その重みはどのぐらいのものか。そうすると、持っていないものも見えてくるかもしれません。
自分の持ち物、自分の力や考えにより頼むなら、限界にぶつかり、暗闇に迷い込んでしまいます。神の愛とゆるしを信じないことから、恐れ、不安、疑いなどが生じてきます。それは、持っていない状態で、人間の心に害と病いをもたらすでしょう。それは人間にとって滅びの状態そのものではないでしょうか。信仰はこのような限界を乗り越える恵みをもたらします。主よ、いつもあなたに心を向け、すべてを越えてあなたを信じる恵みをお与えください。神の望みを知り、行う者となり、真理の光のうちに歩むことができますように。sese06
---------------
『ヘブライ人への手紙』10章
『ヘブライ人への手紙』は、第一部と第二部に分けることができます。第一部は、これまで読んできたところで、「イエス・キリストこそ唯一の、永遠の、完全なる救い主である」ということが語られていました。今日から、第二部に入ります。第二部の主題は何か。それが今日お読みしました19~25節に記されています。この部分は、新共同訳では七つの文章によってなっていますが、ギリシャ語の原点を当たりますと、長い一つの文章となっています。1955年訳の口語訳聖書は苦労しまして、それに少しでも近くなるように、これを二つの文章でまとめています。
 これが一つの文章であるということは、この文章全体の主語と動詞があるということです。主語は《わたしたちは》ということでありますけれども、動詞は何かといいますと、22節の《神に近づこう》(新共同訳)というのがそれにあたります。つまり、この文章のすべての言葉は、《神に近づこう》という一点に集中するのです。

 ちょっとくどい言い方になりますが、「イエスの血によって聖所に入れるという確信をもって、神に近づこう」、「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのだから、神に近づこう」、「わたしたちには神の家を支配する偉大な大祭司がおられるのですから、神に近づこう」、「心は清められ、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われているのだから、神に近づこう」、「約束してくださった方は真実なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようにしっかり保って、神に近づこう」、「ある人たちの習慣に倣って集会を起こったりせず、むしろ励まし合って、神に近づこう」、「かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合って、神に近づこう」、そのようにこの部分は語られているわけです。

そこで、先ほどの二つの側面が大事になってきます。一つは、イエス様の御業に注目することです。もう一つは、イエス様を心から信じて自分を委ねることです。『ヘブライ人への手紙』は、まず第一部でイエス様の御業に注目をしました。そして、これから第二部において、イエス様を心から信じて自分を委ねることについて語り始めるのです。


年間第3金
マルコ4・26-34

「種まき」の譬と同様、ここでも「神の国」が蒔かれた種と収穫を対比する譬で語られている。先の「種まき」の譬では、種がまかれる時の徒労に見えるような状況と豊かな収穫が対照されていたが、この譬では収穫に至る過程が人間の理解や努力を超えたものであることが焦点となっている。農夫は種をまいた後、作物が自然に成長して実を結ぶ時をひたすら待つ。農夫は作物が成長する仕組みを理解しているわけではない。土地に作物を成長させる力があることを信じて、夜昼寝起きして収穫の時が来るのをひたすら待つだけである。農夫は直接作物に働きかけて、芽を出させ、つぎに穂を出させ、実を実らせることができるわけではない。ただ「夜昼寝起きして」いるだけで、何をすることもできない。けれども種がまかれた以上、時が来ればかならず実は実り、刈り入れができるようになる。農夫は土の力を信じて、忍耐強く時を待っている。

 「神の国」も同じである。種はすでにまかれた。刈り入れの時は必ず到来する。神はすでに業を始めておられる。時が来れば神は審判の鎌を入れて、神の民を栄光の中に集められるであろう。イエスはご自身の中に「神の国」が到来していることを知っておられる。イエスの中に隠された形ではあるが、神の業はすでに始まっている。神においては隠された始まりは顕にされた終わりを含んでいる。どうして終わりが顕現するのか、その仕組みを理解したり、その過程を人間の工夫や努力で変えたり促進したりすることはできない。ただ神の力と神の信実に委ねて、時を待つだけである。こうして、ここでも「隠されているもので顕れないものはない」という「神の国」到来の原理が語られているのである。

からし種を見せていただいたことがあるが、それはゴマ粒をずっと薄くしたような大きさであった。わたしたちが「ゴマ粒のように小さい」とか「ケシ粒のように小さい」と言うように、イエスの時代の人々にとっては、「からし種」は小さいものを象徴するものであったのであろう。ところが、その目にもとまらない「からし種」が成長すると二メートル半から三メートルの高さになり、木のように枝を張って、人の目を驚かせる。この譬では小さな始まりと大きな終わりとの驚くべき対比が語られている。その小さい始まりの中にすでに大きな終わりが含まれて実在しているのである。


 軍隊を従えて王宮に座し、一国に命令している人物であれば、その支配は目の前に見ることができる。ところがイエスは漁師などの小さい弟子の群れを率いてガリラヤの町を巡回する一人のラビー(宗教教師)にすぎない。しかも宗教当局から神聖な律法の違反者としてにらまれて、ついに支配権力によって処刑される人物である。そのような人物が「神の支配はわたしの中に来ている。わたしこそその支配を体現する者である」と言っても、誰が信じることができようか。それは人の目には見えない現実である。「神の支配」はイエスの卑しい姿や弟子たちの貧しい群れの中に隠されている。しかしどのように隠されていても、それが「神の」現実である以上、必ず顕れる時が来る。

 たしかに、「神の支配」がすべての人の目の前に栄光をもって顕れる日はまだ来ていない。しかし「神の支配」の現実はすでに隠された形で来ている。そしてその目に見えないような小さい現実の中に、終わりの時に顕される大きな栄光が含まれている。「神の支配」はすでに始まっている。その中に含まれる終わりが圧倒的な力と栄光をもって顕れる時がすぐに来る。イエスはこのような終末の到来の「すでに」と「いまだ」との間の緊迫した関わりの場に生きておられるのである。

 ここにまとめられている「神の国」の三つの譬は、「神の国」という終末的現実の「すでに」と「いまだ」の緊迫した二つの面の関係を見事に指し示している。今わたしたちもこの譬を聴く時、いま自分が置かれている終末の場がどのようなものであるかを自覚させられる。わたしたちは聖霊を受け、すでに「神の支配」の現実の中にいる。しかしその現実は、神に敵対する生まれながらの人間本性の中に覆い隠されたり、世界の中であまりにも微弱な勢力であってこの世の権力に圧倒されているように思われ、旅路の途中で立ちすくむような思いをする。その時、これらの譬がわたしたちを励ます。どのように小さくて覆い隠されていても、またどのように悪い地に蒔かれていても、それが神の現実である以上、その全容が栄光の中に顕れる時がかならず来る。この滅びの世界、死の存在が栄光の天地、復活のからだに変えられる。それがいつ、どのようにしてであるかは知らない。しかしわたしたちの中にすでに始まっている現実の中にそれが含まれていることを確信し、その時を待ち望みつつ今を生きるのである。http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_027.htm#top
----------------
イエスは私達の「聞く力」に応じて語られました。私達が聖書を読む時そのたとえ話から受け取るメッセージは一人一人違います。読む時期や心のありかたによっても神は違うメッセージを与えてくださいます。それは「神」と「私」との個人的な関わり、ふれあいです。長い間聖書を読んでいると、
「ああ、このたとえ話ね」とわかったような錯覚に陥ることがあります。天の父は、今日私にどんなメッセージを送ってくださるのでしょう。心を静め謙虚な態度でみ言葉を味わうことができますように。sese06
-------------
『ヘブライ人への手紙』10章
明治時代のキリスト者で、多くの人に影響を与えた内村鑑三と言う人がいます。内村鑑三には、ルツ子という愛娘がおりました。ルツ子は、いろいろな意味で、内村鑑三の心を支える娘で、彼は、彼女に格別なる愛を注いでおりました。しかし、ルツ子は、実践女学校を卒業したばかりの、17歳という若さで病死してしまったのです。ルツ子の死は、内村鑑三にとって、人生にあってはならないことの一つでありました。
内村鑑三は、その打撃の大きさを、「神の手、余輩(よはい)に加はりて、余輩の腿(もも)のつがい挫(くじ)け、余輩はあゆむことを能はざるに至れり」と語っています。「腿のつがい挫け」とは、ヤボクは、神様と闘ったところ、ヤコブと自分を重ねているのでしょう。ヤコブは、、神と格闘したと、聖書に記されています(『創世記』32章23~27節)。その時、ヤコブは、腿のつがいを負傷したのです。内村鑑三も、愛娘の癒しを願い、ヤコブのように、神に挑む祈りを捧げてきたのでありましょう。しかし、あえなく死んでしまった。それを、「腿のつがい挫け」と表現しているのです。つまり、神様の愛を疑った。そして、イエス・キリストの十字架の意味は分かった。神様も大事なひとりごを失った、と。
今日お読みしました『ヘブライ人への手紙』10章26-39節は、少し長いところですし、その中にいろいろとハッとさせられる言葉があり内容豊かなところです。しかし、その中心は35節にあります。

自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。

 確信を捨てないとはどういうことか? 間違った確信は、試練の時に必ず打ち砕かれます。そういう確信をいつまでも持ち続けるのはよくありません。私たちに与えられている確信とは、十字架にかかられたキリストこそ、私たちの救いであり、そこにこそ神様の愛がこよなく現れているという確信です。どんな時にも、平和な時にも、戦いの日にも、この確信を捨ててはいけないというのです。それが私たちの持つべき信仰なのです。



年間第3土
マルコ4・35-41

このたとえ話のように私達の信仰の成長も「どうしてそうなるのか、その人は知らない」のだと思います。しかし御父は私達一人一人に対しその成長の道すじを用意しておられるのではないでしょうか。日常生活において辛く苦しいこと、また信仰の道からは遠ざかるような出来事も、それはもしかしたら「茎」であり、その出来事を通らなければ「葉」は出てこないのかもしれません。私達は自分が今、信仰の成長過程のどの段階にいるのか知ることはできません。しかし私達はイエスと共に舟に乗っています。突風が吹こうと舟が水浸しになろうと、また神から見捨てられたと思える時も、ただ信じること。イエスはそう私達に語っています。
主よ、私達に信じる力と、神の国へと成長していく希望をお与えください。sese07

4 per annum dispari

年間第4月
マルコ5・1-20


この物語の聖書的な意味は、昔ヨシュアがヨルダン川を渡ってカナンの土地で主の聖戦を行なったように、イエスはガリラヤ湖を渡って異教の地に入り、ローマの一軍団ほどの悪霊を滅ぼすことによって、異邦人の救い主でもあられることを証しし、異邦人の地に神の国の福音を伝えたところにあります。http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0104_mark_.html

悪霊から解放されて正気に戻った人は、イエスに従って一緒に行きたいと願ったが、イエスはこれを許されず、家に帰るように命じられた(一八~二〇節)。今まで社会から隔離され、まったく交わりのなかったこの人が、家や村の一員として受け入れられ、社会との交わりを回復されたことになる。これはたしかに神の救いの大切な結果である。しかし、このように疎外された人が社会に復帰することを、救いの業の目的と理解することは福音の質を見誤ることになる。よく伝道説教において、堕落して社会から疎外された人生を送っていた人が信仰によって更正し、社会で認められる立派な人物になったことが救いであるかのように語られるが、もしそうであれば、はじめから疎外されていない社会的に立派な人は神の救いは必要でなくなる。逆に福音を信じたために家や社会から追い出され孤立する場合もある。福音は社会に復帰させる力もあるが、社会から孤立させる結果を生む場合もある。福音が信じる者に与えようとするものは、罪の支配力から解放し、復活に至る神の生命に生きるようにすることである。このような質の生命に生きることが、社会に復帰させる力ともなり、社会から迫害される原因にもなるのである。
悪霊と戦うというようなことは、科学的に無知な時代のことであると考えるのは誤りである。現代でも神に敵対する霊が人を捉え狂わせることが多い。今世紀においても、ナチスや神格化された天皇制の下の日本の歴史を見ると、民族全体が悪霊に取りつかれ狂わされていたとしか言えないような悲劇があった。このような力と戦い正気に立ち帰るにはキリストの霊の力による他はない。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、……
「天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(エペソ六・一二新共同訳)。

http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_029.htm#top

年間第4火
マルコ5・21-43


「娘が死にそうだ、近頃評判の霊能者、ナザレのイエスにお願いしよう」。ユダヤ教会堂(シナゴーグ)の管理責任者ヤイロは、恥も外聞(がいぶん)もかなぐり捨てて、巡回聖(ひじり)イエスの前にひれ伏し、懇願しました。12歳の少女は、成長盛りの若木です。それが突然に枯れ死(じに)してしまうという不条理な現実が人生に起こります。死の壁を打ち破ることは誰にも出来ない。娘が生きているうちに何とかしてイエスをお連れしようと焦るヤイロの心を知らないかのようにイエスは群衆に押されながら歩を進めました。そして途中で難病に悩む女を癒したり、言葉を交わしたりして手間どってしまいました。そのうちにヤイロの家から使いの者が来て、「娘さんは亡くなりました。もう先生に来てもらう必要はなくなりました」と告げました。イエスはその言葉を聞き流し、信頼を持続するようにヤイロを励ましました。ヤイロの家に着いて見ると、葬儀の準備中で、笛吹きが葬送曲を奏(かな)で、泣き女が嘆きの声を張り上げていました。「君たちは何を泣き騒いでいるのか? 子供は死んだのではない。眠っているのだ」とイエスは言いました。彼は死の事実を直っ向から否定しました。「死は眠りである。眠っているなら、起こせばよいではないか」。すべての人間が冷酷な死の壁の前で無力を嘆き悲しんでいる時に、イエスは神の眼をもって、死の向こうに復活を見ています。イエスにとっても死は現実でしたが、復活はそれ以上に確かな現実でした。イエスは子供の両親と3人の弟子達をつれて子供の部屋に入り、少女の手を取って、「タリタ・クーム」と言うと、彼女は目を覚まし、起き上がって歩き始めました。人々はびっくり仰天しました。
 マルコの記事をマタイは改作しました。「私の娘がただ今死にました。しかしおいでになって、御手をその子の上に置いてやって下さい。そうすればあの子は生き返ります」(9・18)。マタイの描くヤイロは最初から「イエスは死人を甦らせる権威あるお方である」と信じていました。マタイは、病気の癒しのみを求めて、イエスの能力(ちから)に限界をおいているマルコの描くヤイロに不満でした。弱さと限界を持たない力強い神の子キリスト。これがマタイの神学でした。そのため「タリタ・クーム」という、恐らくイエスが語ったそのままの言葉をマタイは省きました。魔術的と思われる言葉の力を借りる必要は全くなく、ただ手を取りさえすれば子供は復活するのです。また「誰にも知らせるな」という禁止命令も省きました。マルコのイエスは「お忍びのメシア」でしたから秘密が必要だったのですが、マタイのイエスは正々堂々たる神の子キリストでしたから秘密は不要でした。しかしマルコとマタイが共通して語っていることは、肉の体が甦って以前と同じ地上の生に戻ることが大切なのではなく、イエスとの生きた交わりを通して、全く新しい生命に活かされ、神の平安の中に入れられることにありました。
 新約聖書にある復活観は多重的です。「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」(行伝24・5)。終末の日に神はすべての人間を甦らせるというのは、パリサイ人と民衆とが共通してもっていた希望でした。その希望に証明を与えたのが、「イエス自身に起こった死人の復活」(行伝4・2)だったというのが使徒達の論法でした。しかしこれは復活の教義を受け入れるというだけで、本当の生きた信仰ではありません。「"わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神"。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」(マルコ12・27)。今も生き、信じる者に生命を与え給う神の信仰のみが、復活の確信へと人々を導くのです。兄弟ラザロの死に会って、「終わりの日の復活を信じます」と言って悲しむマルタに対してイエスは、「わたしが復活であり、生命であるのだ。わたしを信じる者は死ぬとも生きる(復活)。生きてわたしを信じる者は決して死なない(生命)。あなたはこれを信じるか?」(ヨハネ11・25)と言われました。遠い未来に復活を求めるのではなく、今、目の前に出会っているイエスの中に私たちの復活も永遠の生命も実存しているのです。使徒パウロはその真理を得ていましたから、彼はキリストを信じる者の復活のみを語っているのです(コリント第一書15・21~23)。
http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0104_mark_.html

同じ死という現実を見ている。生まれながらの生命に生きている者の目には、死はその生命の絶対的な否定であって、執着して泣き叫ぶか、諦めて静かに受け入れる以外にどうしようもない。けれども、イエスの中に到来している終末的な生命から見れば、死は再び目覚めるまでのしばらくの間の眠りである(ヨハネ福音書一一・一一も参照)。神からの新しい生命は死によって無に帰するのではなく、しばらくの眠りの後、再び復活の形をとって目覚めるのである。イエスの復活後、主イエス・キリストを信じた者たちはこのことを理解し、亡くなった人たちのことを「眠った者たち」とか「眠っている人々」と呼んだ(コリントI一五章、テサロニケI四章)。この表現は、伝えらたこの時のイエスの言葉から来ていると推測してよいであろう。この時イエスが使われたアラム語「タリタ、クーム」がそのまま伝えられているのは、この時目撃した出来事がペテロたちにとって生涯忘れることができない強烈な印象を与えたからであろう。彼らはこの時のイエスの言葉を、その耳で聞いたまま、その心に鳴り響いている形のまま、伝えないではおれなかったのである。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_030.htm#top
-----------
 この状況を見ていたヤイロは、どのような心境だったでしょうか。彼は、彼女が話す一部始終を聞いていました。群衆でイエスがさえぎられていたのに、さらに拍車をかけるようにさえぎられています。イエスに自分の娘のいやしを願ったのに、他の女をいやされています。こんなことがあって良いものだろうか、と思ったに違いありません。私たちにも、このことはよく起こりますね。祈ったのに聞かれない。他の人は早々と聞かれているのに、自分だけは聞かれない。そうしたとき、私たちの信仰はためされます。
イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管里者の者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」 
一番聞きたくない知らせを受けました。何と、他の女をおいやしになって、その者と話をされているうちに、自分の娘が死んでしまいました。人間的に考えたら、最悪の状況です。そこですかさず、イエスは言葉をかけられています。
イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」 
   このみことばがなければ、ヤイロはその場で倒れていたかもしれません。しかしイエスは、あなたは娘に御手が置かれたら治ると信じていたのですが、それを信じ続けなさい、と言われています。
少女は生き返りました。もし、あの長血をわずらう女がイエスにふれなかったら、おそらく驚くようなみわざを見ることはなかったでしょう。病はいやされたけれども、究極の病である死がいやされることを見ることはありませんでした。ですから、時が遅れたことはよかったのです。時が遅れたのは、さらにすばらしい神のみわざを見るためだったのです。ここに、私たちが、神のみわざを待つことの重要性を見ることができます。主が預言者ハバククに言われました。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(ハバクク2:3-4)」 そして、被女が12才であったことに注目してください。同じ数字が先ほど出てきました。先ほどの女は、12年前に長血をわずらい始めたのです。ちょうどその時には、ヤイロの家に新しい命が誕生していました。その幸福の生活が始まったときに、女は不幸の道を歩み始めたのです。けれども、それらはみな、神の摂理の中にありました。ヤイロの家に信仰が与えられるために、また、この女に信仰が与えられるために、ほぼ同時に、ご自分の計画を実行し始められたのです。神のなさることは、時にかなって美しく、ご自分の計画にしたがって、すべてのことを益として働かせてくださるのです。


年間第4水
マルコ6・1-6


私たちは誰でも、他人(ひと)から誤解されると苦しみ、悩み、傷つきます。そして何とかして正しく理解されたいと努めます。しかし福音書を見ると、イエスほど人々によって誤解された人はいないのではないか、と思うほどです。イエスの生涯は悲劇的です。ローマの支配者からも、エルサレムの権力者からも、ガリラヤの民衆からも、故郷のナザレの人々からも、愛する家族からも、そして親しい弟子たちからも、誤解されていて、その誤解が解かれないまま、イエスは十字架上で死ぬのです。そして現在も、イエスは世間の人々からばかりでなく、キリスト信者や聖職者からも、誤解されているのです。(ですから教会のシンボルである十字架は、イエスに対する人間の誤解、盲目を表わしていると言えます。)
誤解の原因はどこにあったといういと、それは先入観でした。虚心になってイエスの語る言葉に耳を傾けるのではなく、自分達がイエスのすべてを知っていると過信している点にありました。故郷の人々の驚きから考えると、イエスは決して神童(しんどう)、天才児の誉が高かったわけではなく、平凡で静かな人間として彼らの間で30歳位まで生きていました。イエスが急に変わったのはやはり、洗礼からでしょう。その時に神の呼び声を聞き、召命を受け、聖霊の力に満たされて福音を語りはじめ、奇跡の業を行なうようになりました。故郷の人々は当然その変化の原因を知りませんでした。そこに問題があります。
私たちは世間の常識(コモンセンス)に従って物事を判断するのですが、それを絶対化しないで、10パーセント位は、神様が介入されて御業を行なって下さると考える余地を残しておかないと同じ過ちになります。それは信仰の知恵です。これは親子の関係、夫婦の関係、友人の関係、共同体にとって大切なことです。ナザレの人々の場合、イエスに変化が起きたのは、もしかすると神の御業ではないか、と考える余地があったら、イエスを預言者として受け入れることができたでしょう。彼らがつまずいたのは、イエスの語る言葉よりも、イエスとの肉の関係にこだわったからでした。 
http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0105_mark_.html
主よ、今、私が出会っている人に素直な心で向き合うことができますように。過去の出来事や人々の思いに振り回されず、憶測、推測で判断することなく、今をありのままに見る知恵と勇気を与えてください。あなたに耳を傾け、良い気づきをいただきながら成長することができますように。sese07


年間第4木
マルコ6・7-13


イエスは弟子たちの持ち物を厳しく制限しました。食べ物、着物、袋、お金、一切の余分な所有を禁じました。ただ野獣から身を守るための杖と、蛇やさそりから足を守るためのサンダルの着用を許しました。イエスは彼に従う者たちに、天の父なる神の御配慮を信頼して、「空の鳥」や「野の花」のように生きることを求めました(マタイ6・25以下)。「空の鳥を見よ、蒔かず刈らず倉に収めず、しかるに汝らの父は、これを養いたもう」。もちろんイエスの時代と現代とは実情が違いますから、文字通りこれを実行することはできません。当時ユダヤ教徒の町ではどこでも、旅人のために食べ物や衣服の世話をする人がいました。同様にキリスト教の巡回伝道者は、どこの教会に行っても、衣・食・住の提供を受けられたはずです。社会的、文化的、宗教的相違を無視して、これをそのまま実行することはできません。しかし基本は変わりません。無所有が信仰者のあるべき姿です。「何を食べ、何を飲み、何を着ようかと明日のことを思い煩う」ことは、神を知らない人の取り越し苦労です。天の父はそれら一切のものを私たちが必要としていることを御存知なのだから、それを天の父の御配慮にゆだねて、まず何よりも神の支配と神との正しい関係を求めて、日々を平安(シャローム)のうちに過ごしなさい、とイエスは告げられます。イエスの弟子たちは、イエス御自身のように自由に生きることを求められているのです。
http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0105_mark_.html
下着は二枚着てはならないとある。「二枚持っていってはならない」ではない。わたしたちは下着を二枚重ねてきることがあるだろうか。おそらくこれは野宿に対する備えであろうと思われる。野宿での寒さをしのぐために、下着を二枚重ねて着る。それほど厳しい状況の中に送り出される弟子たちだったのだが、下着を二枚着るなと言われている。それはすなわち、下着を重ねて暖かくして野宿しようと考えるよりは、だれかの家に泊めてもらうことを考えなさいということであったと思う。

イエスは宣教に出かける弟子たちに汚れた霊に対する権能を授け、何も持たないように命じて派遣します。弟子たちに優先させたことはイエスの教えを伝えに行くことだけでした。日常生活のさまざまな選択肢の中で、私たちも問われています。今、最優先されなければならないことは何か。本当に必要なことは、心が囚われるようなものを「持たない」ことでしょう。
どんな時も支えてくださる神よ、このときの弟子たちのようにあなたを全く信頼できますように。日々の生活の中で見過ごしている人々の支え、配慮に感謝することができますように。sese07


年間第4金
マルコ6・14-29


サロメが出て来てダンスをして宴席を大いに盛り上げた。宴会の客の前で踊ったのは、ヘロディアの連れ子サロメであった。宴席の一場の余興(よきょう)の褒美(ほうび)に、神の人の血塗られた首が提供されたのである。想像するだけでも吐き気をもよおす光景である。これは、権力の維持のためには人間の生命や尊厳を塵のように軽んじる権力者の冷酷、自分の虚栄を傷つける者に対する女の憎悪や情念、道理を焼き尽くす恋愛(情)の炎、そして何よりも自分の思いを貫くために神を憎み退ける人間の高慢、こうした人間性に巣くうあらゆる罪が凝集して現われた光景である。ヨハネの死はイエスの死を予表する出来事として、イエスの生涯の時期を画する出来事として、ここに置かれているのである。
まことに、イエスがヨハネについて言われたように、「エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は彼を好きなようにあしらったのである」(マルコ九・一三)。この世は神を恐れることなく、自分の本性にしたがって、自分の思いのままに、神から遣わされた先駆者を扱ったのである。そうであれば、この世は彼の後に現われる「人の子」にも同じようにするであろう。ヨハネの処刑をイエスご自身はどのように受けとめられたのかについては、福音書は沈黙している。けれども、ヨハネをご自分の先駆者として認めておられたイエスが、彼の処刑をご自分の受けるべき杯としておられたことは、その後の言動から十分推察することができる。いずれにせよ、ヨハネの死はイエスの死を予表する出来事として、イエスの生涯の時期を画する出来事として、ここに置かれているのである。http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_033.htm#top

--------------
今日の福音は、イエスについて様々な憶測が飛び交う中、ヘロデ王がイエスをヨハネの生き返りと思ったことから始まります。どうしてでしょうか。はっきりした理由は語られません。ヘロデ王は、自分が正義を行わず、洗礼者ヨハネを殺したことの不安に悩まされていたのです。ヘロデ王は、自分の兄弟、ヘロデ・フィリポから、その妻ヘロディアを横領し、ヨハネがそのことを激しく非難したので、ヨハネを捕らえました。しかし、ヨハネからの叱責で、自分の過ちを悟ったようです。ヘロデは自分の体面を取り繕うためにヨハネを犠牲にしましたが、それでは解決になりませんでした。聖書は、このような王の姿を通して、弟子たちが悔い改めを宣べ伝える世の中とそこに生きる人の姿も描いているのです。イエスの福音を受け入れない大きな原因は、見栄や自分を守るエゴに根があるとこの福音は伝えています。


年間第4土
マルコ6・30-34


「飼う者のない羊」という象徴は、牧畜の生活を身近に見ていた当時の人々には分かりやすいもでのであったろう。しかしそれだけでなく、この表現はただちに預言者エゼキエルの預言を思い起こさせる。エゼキエルはバビロン捕囚の苦難の時、主の民イスラエルが約束の地から追われて諸国に散らされたのは、群の牧者たる者が自分の利益のために民を食い物にし、牧者の使命を果たさなかったからだと、指導階級の人たちを痛烈に批判した。そして、終りの日には主ご自身が自分の群を捜し出し、世話をされること、具体的には「僕ダビデ」を民の牧者としてお立てになることを予言した(エゼキエル書三四章)。
 イエスは現在の主の民イスラエルの状況がエゼキエルの時代と同じであることを見て、やがてあのバビロン捕囚以上の苦難に直面しなければならない民に対して深い憐れみを持たれるのである。イエスの憐れみは、たんに彼らが病気や苦労の多い日々の生活に疲れ果てていることに対するだけのものではなく、真の牧者がいないために神の民としての真理の道に歩むことができず、祝福を失い、神の裁きの下に散らされていく者たちへの憐れみであろう。
 現在、神の民の牧者をもって任じている議員や学者たちは、民に背負いきれない重荷を負わせるだけで、民の前に「神の国」の門を閉ざしている。その上、終りの日に神がその民に遣わされたまことの牧者を殺そうとしている。やがてこの民が神の裁きのもとに打ちすえられ、追われ散らされていくことは避けられないであろう。このような状況の中で、イエスの主の民に対する憐れみは、そのお心の内に熱く燃えるのである。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_034.htm#top

5 per annum

年間 第五月曜日
「せめてその服のすそにでも触れさせてほしい」
マルコ6・53-56

ゲネサレトの人々は、イエスがこられたことを知ると、病人を担架に乗せて運んで来ます。しかしこのゲネサレトの人々は,イエスのことを悪霊を追い出し病気を治してくださる方としか考えていなかったようです。彼らは、イエスの告げる神の国の福音には関心がなく、病気の治癒にだけ異常な期待を持っていました。そこに民衆の正直な、しかしどちらかと言えばちょっと利己的な姿があります。
これはゲネサレトの民衆だけの問題ではなく、いつの時代、どの民族にも当てはまるところがあります。民衆がイエスに期待しているものと、イエスが民衆に与えようとしておられるものとの間には、本質的で決定的な違いがありました。しかしそのような食い違いにもかかわらず、イエスは民衆の要望にこたえて、多くの病人を癒されました。特に「せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った」(56節)ということばには、民衆のすさまじい期待が現れています(アイドルやタレントを追いかけるストーカーを思い出してしまいます)。民衆は霊的真理に対しては盲目であったが、病気や苦しみからの解放は真剣に求めていたのです。
イエスは民衆の苦しみをそこまで知っておられたのです。真実の宗教は、人々を霊的真理に導くものであり、また民衆の必要(ニード)に答えるものでなければならないことを今日のイエスの姿から学ぶことができると思います。(泉田)
----------
 
年間 第五火曜日
「ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守る」
マルコ7・1-13

昔こんな話を聞きました。ある二人が結婚して、次の週お嫁さんは主人のためにご馳走を作りました。大きなハムを焼きました。その時、お嫁さんは大きなハムの両端を切ってオープンに入れました。主人が「その両端をどうして切り取りましたか」と尋ねました。エー・・知りません。お母さんがいつもしていましたからそうしました。次の週お母さんに尋ねました。「どうしてハムの両端を切りましたか」知りません。お母さんがいつもしていたから。次の週おばあさんに尋ねました「どうして最後の部分を切りましたか」私の皿が小さすぎたから。全部のことが習慣でもはじめには目的がありました。目的がなくなってその習慣だけが残ったものはたくさんあるでしょう。法律にも役に立たないものがたくさんあるはずです。法律の目的は何でしょう。人を助けるためです。人を助けないものは捨てなければならない。けれども愛が、法律より重要だと考えないならファリサイ派と同じにように、愛することより、法律が私たちの神となります。一般社会において沢山の人にとっては世間の決まりは神さまになってしまっているでしょう。ですから人々を傷つけても世間の考えに従わなければならない。第一は愛です。法律が愛を傷つけるならそれに従わない。日曜日の御ミサは皆あずからなければならないが、両親が病気なら、残して教会に来ることはいいことではない。教会の法律よりも愛を大切にします。ですから、どちらがより愛することかは、自分で判断しなければなりません。ただ単に世間に従うというのは、人間の道とは違う。いつも愛の道を歩むことができるように祈りたいと思います。
---------------
きよめとは何か、何からきよめられるかという本来の意味は失われているにもかかわらず、形式だけが当然のこととして守られ、守らない者には厳しい制裁が加えられました。
日本でも、お禊(みそぎ)、お祓い(はらい)、地鎮祭、初詣、葬式、法事、七五三の宮参りなどたくさんの習慣や儀式が、その背景にある信仰と意味は失われているのになお盛んに行われている。また、きよめとの関係で部落差別がはじまったと言われています。これは当時のユダヤ人も同じで、一般の民衆は、宗教的な言い伝えや儀式をあまり深く考えず、習慣として行っていました。それは昔も今も変わらないことです。
ファリサイ派の人達は、こうしたしきたりを絶対化して、守らない人を攻撃していました(5節)。彼らの誤りは、言い伝えの意味を深く考えずにそれを絶対だと思いこみ、また権威主義的に人をさばくところにありました。
私たちも、しばしばファリサイ派的になります。自分の考え方ややり方を無意識のうちに絶対化して他人に押し付けるのです。そうならないために私たちは、一人一人の人格と個性を尊重し、何が真実で人を生かすものであるかを絶えず考えなければならないでしょう。何が真実であるかを厳しく自分に問い、安易に人をさばくことのないようにしたいものです。(泉田)
--------
 そして、彼らがたよっていたのは、「昔の人たちの言い伝え」でした。言い伝えは、文字通り、ある人から他の人へ言い伝えられたしきたりです。たいてい、最初にそれを言い始めた人は、ある事情があって一つのきまりをつくります。しかし、時がたって、その事情が変わっているのにもかかわらず、過去に行われていたという理由で、それが守られていきます。それがしきたり、あるいは言い伝えであり、私たちの生活を強く支配するものです。
戒め、とか、おきてという言葉を聞くとき、私たちは一つの規則のように捉えてしまいます。法律を守るように、それはとにかく守らなければいけないもの、守らないと罰を受けるものであると考えます。しかし、それは間違いです。戒めといっても神の戒めなら、それは、私たちの心に関するものです。言い換えれば、それは、私たちが生きておられる神と人格的な交わりを可能にするための手段なのです。私たちが人と会話をするときに、それは言葉だけの会話ではなく、その背後にある考えや、気持ち、その人の意思などを意識して会話します。そして、知り合いになり、友だちになれるわけです。同じように、神の戒めを私たちが聞くときに、私たちはこの生きている神がどのような方であるかを、親しみをもって深く知っていくのです。それとは対照的に、人の言い伝えは、人格のない無味乾燥したものです。とにかく守ればよい、という類いのものです。そこには私たちの心、あるいは人格が入ってきません。だから、神を礼拝していると言っても、むだなことになってしまいます。

 私たちはどうでしょうか。賛美の歌を先ほど歌いましたが、神をほめ讃えていたでしょうか。聖書をこのように読んでいますが、神の御声を聞いているでしょうか。祈りますが、神に語りかけているでしょうか。私たちは人に対してはほめたり、その人の言うことを聞いたり、また語ったりしますが、同じように、神を生きた人格のある方として捉えているでしょうか。しかし、神の戒めは、私たちの心を神ご自身に近づけます。こうして、パリサイ人・律法学者は、言い伝えによって、神の戒めをないがしろにしました。

年間 第五水曜日
「人の中から出て来るものが、人を汚す」
マルコ7・14-23

世間には本音と建前があります。つまり責任を取らされないために、考えることと話すことの間に適当な違いを入れることです。人を傷つけるようなことも言ってはいけないと思う人は、ニコニコしたり、テレ笑いしたりして、無難な道を選びます。

ところが、イエスが問題にしているのは建前のところではなく、本音のところです。イエスはマナーが悪いとか、人を傷つけたか傷つけていないかを問わない。むしる本人が人に対してどういう気持ちでいるかといことを問題にしています。

人を憎んでいる時に傷つくのはまず自分の心ですから、心の中身は一番大事です。ファリサイ派の人々はけがれから身を守り、聖なる「残りの者」になろうとしていました。それに対してイエスは神がすべての人を救おうとしていることを述べ、神の慈しみによりたのむようにと説きます。私たちは何が良いマナーか、何が悪いマナーかと外側のことばかりに気を取られて、本質的な事柄を忘れてしまうことはないでしょうか。(ステファニ、荒)外から腹の中に入るもののうち、悪いものは外に出され、中に残らない。人が汚されるかどうかは、ただひたすら、その心の状態にかかってくる。主は私たちに、外面的なことよりも内面的なこと、もっと本質的なことに目を向けさせる。自分から出る様々な「くしゃくしゃした感情」に流され、支配されて生きるなら、極めて善いものとして創られた私は、隠れてしまう。
主よ、あなたの光によって、今の苦しみや悩みが私を支配し続け、取り返しのつかないままにならないことを私は知っています。あなたの光に信頼して歩み、悪い思いから解放される恵みをお与え下さい。sese07


年間 第五木曜日
「それほど言うなら、よろしい」
マルコ7・24-3


フェニキアの女はよほど困っていたことでしょう。イエスから断られてもあきらめないで、お願いし続けます。結果としてイエスも断り切れず、ついにその願いをかなえます。祈りをする時にどこまであきらめずにがんばれるかが問われているように思います。一回手を合わせただけで「やはりだめだ
った」とつぶやく人もいます。結局、断られてもよいという程度のお願いでしかありませんでした。もっと真剣に祈る姿勢が求められます。

祈りの真剣さは信仰の強さによるという前に、生活に対する態度に目を向けるべきです。生活に真剣に取り組んでいる人は、祈りも真剣であり神からかなえられるでしょう。

異邦人の女は恵みがまずイスラエルに与えられることを認めます。その上で、異邦人にもおすそ分けを願います。イエスのことばは、地獄に落ちる者のように思われていた異邦人、遠く離れていた者を娘として扱い彼女をいやします。(ステファニ、荒)
この女性のように、どんな困難な状況でもあきらめずにイエスを慕い求め、信じ続けることが出来るようにいのりましょう。
娘が悪霊にとりつかれ、何とかしたいと強く願う女性が、子犬に目を向ける。イスラエルの子供の立場にいないことを知りながら、子犬の立場に身を置いてでも願い続ける。イエスの「よろしい」には、「あなたには脱帽だ」という意味が含まれるという。イエスのこの態度の変化は、信じて求める者
に、資格がなくても、神は救いを拒むことが出来ないことを示している。娘の救いのためにどんなことでもしようと、一心に願うこの女性の姿をいつも心に留めていたい。
主よ、自分のことで一杯な私の心を大きく広げてください。最も大切なことを一心に求めていくことができますように。

年間 第五金曜日
「指をその両耳に差し入れ」
マルコ7・31-37

PAシステムで、音が入らないことがよくある。マイク、ミキサー、アンプあるいはケーブル。神様が設計者なので、癒すことができる。
ある心理学者が「耳は2つあり、口は1つある」と言った。
福音書は、現実に働きかけて現実を変える、神の子の力ある言葉として伝えています。
なかなか、子どもの話に耳を傾けることが難しい親がいました。子どもが学校でお母さんの顔を描いた。口ばかり大きくて、耳がなかった。営業時には、耳を傾け、丁寧な口調で話す。しかし、家族にはぶっきらぼうということがある。家庭では、なかなか、耳を傾け、丁寧な口調で話すことができない。
肉体的に耳の聞こえない人は、1%以下かもしれない。しかし、生まれつき霊的に耳が聞こえない人は100%である。また、私たちはまことの神に祈ったこともない、口のきけない者であった。だが、クリスチャンになると(回心すると)、霊的な耳が開かれ、神様の声がなんとなく分かるようになる。祈りも最初はもつれたような状態だが、だんだんとなめらかになる。
父なる神(聖霊)は、私たちに大切なことを語っているのかもしれない。しかし、私たちは神様の御声になかなか耳を傾けようとしない。いたずらに動き回り、この世の情報(テレビや携帯)に耳を貸している。Ⅰ列王記19:11,12「しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」。 おそらく、聖霊様の声は静かではないかと思う。ということは、私たちが神様の御声を聞くため、静まる時が必要である。

37節「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という群集の反応は、創世記1章31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」を思い出させるかもしれません。これは神の天地創造のわざの結びにある言葉です。
「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」は、イザヤ35章5-6節「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」が背景にあるようです。こちらは神の救いが実現する時のありさまを語る預言者の言葉です。マルコは群集の口をとおして、神の創造と救いのわざが、神の子であるイエスの上に実現しているということを伝えようとしているのでしょう。
-----------
耳の不自由な子供は話もできない、因果関係がある。福音書もその順番に述べている。最初が耳は聞えない、それから口がきけなくなったと書いてあります。イエスはこの人をいやされるのに、話せることではなく、聞くことに力を入れられたのです。聞かれるようになれば話せるからです。私たちはいつも喜び、感謝を語りたい。あるいは自信をもって話したい。しかしそれはまず聞くことから始まります。自分がみことばに聞くとき、耳が開かれ、自然に舌のもつれがとけて、語ることができるようになるのです。司祭として、教師として、あるいはまた親として立場上適切な言葉を語りたい、福
音宣教をしたい。しかし、適切に話せない、効き目のある語り掛けができない理由は耳が聞えないことにあります。人前で話せない人がいますが、それを乗り越えさせるものが必要でしょう。神の言葉を聞き、深い感動を受けるなら、私たちは語らずにおられないのです。(榎本)
----------
第二ヴァティカン公会議以前の洗礼式では、司祭は受洗者の舌につばをかけて、「エッファタ」(開け)と述べて、悪霊からの解放を祈りました。病者の秘蹟では油を塗り、病者に心身の健康が与えられるように祈ります。つばや油を塗る行為は魔術の行為と似ていますが、教会の典礼行為は魔術と根本的に違います。魔術は神の名を利用し、神の力を奪おうとしていします。教会の祈りは神の絶対的支配を認め、神がお望みになるなら、いつくしみを注いでくださいと願います。 イエスは新しい天地創造のように、人を造りなおせます。耳の聞えない人が聞えるようになるなど、それはイザヤの予言が成就しているのです(イザヤ35・5-6)。又人々の賛美のことばのうちに、天地創造の神の業に対する賛美が反映しています(創世記1・31)。(荒)


年間 第五土曜日
「人々は食べて満腹した」
マルコ8・1-10


現代社会は消費社会と言われています。企業は必要に応じてものを作るというより、先に品物を作って、そして人に売り込むためにテレビのコマーシャル、宣伝、ポスターなどを使っています。これは、人のニードを満たすためではなくて、むしろ更にニードを広げて、より多くもうける策略でしょう。
 ところが、イエスが私たちに教えているのは、人々のニードを満たすためにはたくさんのものは要らないということです。わずかのもので結構です。少ないもので、ありあまるほど、皆が満足できるのです。問題は人々がその時、その場で何を必要としているのかをつきとめることです。消費社会に
おいては、たくさんの偽りのニードが生まれてきています。必至になってそれらに答えようとしても、後は残るのはむなしさだけです。本物のニードを見分け、それに本物の答えを提供するのは現代社会における教会の役割でしょう。人々は地上的な期待に縛られているため、イエスが本当の答え(メシア)であることに気づきません。(ステファニ)

「群集がかわいそう」と心動かされパンを増やされたイエスは、人々が満腹した後、あっけなく人々を解放し、自分は宣教に出る。本当にどうにもならない時、さっと手を差し伸べてくれる人がいる。
自分にとって軽くないものを渡すのに、何の気負いもないことが、こちらにも感じられる。お返しの話しをすると、さらりとかわされる。聖霊が働きかけるまま、自分さえ気付かないうちに、他者の必要に応えていくことのすごさ。
自分にこだわらずに、主に与えられた良さを使って、人々の必要とともに歩んでいくことができますように。sese07

6 per annum

年間 第六月曜日
今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。
マルコ8・11-13

しるしを求めるその奥に何があるのでしょう。イエスを試そう(従う)とするその奥にも何があるのでしょう。
イエスとの出会いは、その奥にあるものを自分自身が見て、それをイエスに差し出すことでしょう。
「しるし」というのは、本来コミュニケーション、意思疎通をはかるためのものです。ところが、ファリサイ派の人々は、「イエスを試そうとして」しるしを求めているとかいてあります。つまり、キリストを理解するためではなくて、キリストと競走するためです。しるしを理解するために、まずそれを受け止めて解釈する、つまり聴く姿勢が求められます。例えば、外国の人は日本に来て漢字というしるしを理解するためにまず開かれた姿勢、聴く姿勢が求められます。日本に来てすぐ自分の国に帰るなら、漢字を勉強する努力をしないかもしれない。そしたら、その人にとってはしるしは与えられていないということになります。同じように、キリストが絶えず与えているしるしを受け入れる姿勢がなければ、今の時代の私たちにも、「しるしは与えられない」のです。

年間 第六火曜日
ファリサイ派のパン種に気をつけよ。
マルコ8・14-21


「神は私たちに成功するように求めていない、忠実であるように求めておられる」(マザー・テレサ)

 "神の国を建設のために"という言葉をよく聞きます。そのために二つの「M」が必要と言われます。ヒト・モノ・カネー「Man power」と「Money」です。この世での動きのためにはそうでしょう。しかしイエスが言われるのもそうでしょうか。弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、船の中には一つのパンしかがありませでした。お金と人がいないとできないというのはファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種。この世の時の流れを遡らなければ神の国の建設はできないでしょう。
「わずかなパン種が練り粉全体をふくらませる」というコトワザ(格言)がありました(ーゴリント5.6、ガラテヤ5・9)。イエスのことばに対するわずかな悪意でも、イエスの真実の姿を見えなくさせます。弟子たちの無理解はファリサイ派と同じ立場へつながっていきます。舟の中におられる唯一のパン、イエスに対する信頼がなければ、パンの奇跡も恵みのしるしにはなりません。水の上を歩かれても、心の頑なさのためにイエスを認めることができません(マルコ6・52)。
この物語の背景には、イエスに対する信仰の欠如が、キリスト教の宣教の失敗になった、その苦い挫折の体験が感じられます。神の恵みがいかに豊かに注がれても、人間の自由な応答が必要なのです。


年間 第六水曜日
すべてがはっきり見えるようになった。
マルコ8・22-26

ベトサイダの盲人の癒しの直前にこういうことがありました。8章18節をごらんいただきたいのですが、イエス様の言葉を聞いても理解せず、見当違いな心配をしている弟子たちに向かって、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」と、イエス様がお叱りになるという話です。
 確かに、私たちには弟子たちのように「目があっても見えない」ということがあるのです。逆に言うと、物事をはっきりと見るためには目で見ているだけでは駄目だということではないでしょうか。「百聞(ひゃくぶん)は一見にしかず」という言葉もありますが、「見る」ということは意外と心の状態によって影響されるのです。
ガラスを見て、不満げに半分しかないという人もいれば、喜んで半分もある、という人もいるでしょう。
-----------
人を人たらしめるのは何でしょうか。時々、人と出会って、形は人でも中身は人ではないと感じる時があります。今日の福音の盲人は何でもはっきり見えるようになりました。というのは外も中もよく見ることができたのでしょう。自分は、歩いている木のようなものではないかと想像して見て見ましょう。
人を見ても、木のように平面的で無表情に見えることがあります。心が沈み、すべてが灰色なのです。そのような状態から、ある日、突然、生きかえるような体験をすることはないでしょうか。イエスと出会いによって世界が新しく見える、より希望的に見える。

草も木もすべてが生き生きと語りかけてきます。自分の顔にも喜びの表情がもどっています。一人ひとりが精一杯生きているのを実感します。花が咲き、魚は泳ぎ、鳥が飛んでいる自然を、ありがたいこととして、恵みとして感じるようになります。すべてがはっきり見えるのです。
マルコはわたしたちが日々の生活において体験する恵みを、盲人の奇跡物語を通して語ったのではないでしょうか。
--------
第二ヴァティカン公会議以前の洗礼式では、司祭は受洗者の舌につばをかけて、「エッファタ」(開け)と述べて、悪霊からの解放を祈りました。病者の秘蹟では油を塗り、病者に心身の健康が与えられるように祈ります。つばや油を塗る行為は魔術の行為と似ていますが、教会の典礼行為は魔術と根本的に違います。魔術は神の名を利用し、神の力を奪おうとしていします。教会の祈りは神の絶対的支配を認め、神がお望みなるなら、いつくしみを注いでくださいと願います。 イエスは新しい天地創造のように、人を造りなおせます。耳の聞えない人が聞えるようになるなど、それはイザヤの予言が成就しているのです(イザヤ35・5-6)。又人々の賛美のことばのうちに、天地創造の神の業に対する賛美が反映しています(創世記1・31)。(荒)


年間 第六木曜日
あなたメシアです
マルコ8・27-33

どうしてイエスの死が、わたしたちの救いになるのでしょうか。イエスがメシアだと認めましょう。しかし、そのメシアがなぜわたしたちを救うために死ななければならないのでしょうか。メシアは人を救うからメシアといえるのであって、殺されてしまうならメシアといえないではありませんか。このような疑問を持つわたしたちにイエスは言われます。「サタン、退け。あなたの思いは神のものではなく、人間のものである」。
では、神の思いとは何でしょうか。十字架の死という形においてしか、わたしたちの心に愛をよみがえらせることができませんでした。それが十字架の秘義であり、世の救いの根本問題です。「人の子は仕えるため、多くの人のあがないとして、自分のいのちを与えるために来た」(マルコ1O・45)。
「あなたはメシアです。」と素晴らしい信仰宣言をしたペトロは、その直後にイエスから「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている。」と厳しくとがめられます。
苦み、影、暗闇を拒否し、栄光、光り、幸せ、だけを求めるならばペトロのように言われるかもしれません。私たちもみんな影と光を持っています。自分の弱さ、影、辛い部分を育てて光の方に向けるのが神様の望みでしょう。



年間 第六金曜日
十字架をになって、わたしに従え。
マルコ8・34ー9・1

私たちは十字架を身につけたり、壁に掛けたりします。それらは見せる十字架です。私たちは、自分なりの荷を背負いながら、それを軽くする方法を探しています。しかし誰にも見せたくない荷もあります。それが私たちの本当の十字架ではないでしょうか。イエスは自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいといわれました。自分と神だけが知っている私の荷を背負ってイエスに向かいましょう。
「群集を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」とありますから、この教えは、特別な人に向けたものではなく、すべての人に向けられていることは分かります。
永遠のいのちを受けるかどうかは、この地上でイエスのことばを恥じず、イエスに従い、十字架の道を歩くかどうかによります。未来の裁きが、いま、ここで行われます。「わたしのためにいのちを失う者は、それを得る」(マタイ16・25)ということばに、マルコは「福音のために」ということばを加えています(マルコ1O・29も参照)。
キリストの愛の裁きは、すでに十字架の死と復活によって始まりましたが、最終的に明らかになるのは世の終わりの完成においてです。そのとき、主・キリストは霊魂と体を持つ人間すべてを愛のうちに受け入れます。
--------------
頭で分ってはいても、自分だけはこの世の終わりまで生きていけると根拠の無に錯覚に陥っていないでしょうか。
主よ、悟らせてください。命は流れて留まることなく、すべてを運んでゆくことを。虚無という死に向かうのではなく、人生が満ちる時に向かっているのだと、いのちはしがみつくものではなく、人生の一瞬一瞬が生き生きと目の前に現れ今を生きるものであることを。

年間 第六土
エリヤはすでに来たのだ
マルコ9・2-13
イエスの時代の高い山と言っても、実際の高さではなく祈りにおける高さではないでしょうか。祈りの中では、誰でも高い山に登れます。そして、肝心なことは、祈りの中で体験したことを自分の現実の生活に生かし、実現させること、それが祈りの実りと言えるでしょう。
エリヤについては、権力者から命を狙われたことが書かれている(列王記上一九・二、一〇)。そのように、名前はあげられていないが、ヘロデによって処刑された洗礼者ヨハネが再来のエリヤであり、彼の苦難は「人の子」の受難の先駆であるとされている。

山上での変容は、山を下りる時の対話が示唆しているように、「人の子」としてのイエスの栄光の啓示であった。すでに明白な言葉で語り出された「地上で苦しみを受ける人の子」が、じつに終末的な神の支配をもたらす天上の栄光の主であるという秘密が、特別に選ばれた三人の弟子たちに直接神から啓示される出来事であった。その秘密はイエスの復活の宣教によって世界に公示されるようになる。けれども、「人の子」という表現は本来神の終末的支配の体現者を指すものであるから、変容はイエスが栄光の中に世界に来臨される主、再臨のキリストであることを予告する出来事という意義を持つことになる。マルコは先に彼の福音の中心的使信として「苦しみを受け復活する人の子」のことを語り(八・二七~三三)、その後この人の子イエスに従う弟子たちのことを置き(八・三四~九・一)、続いてここで「六日後」の栄光の人の子の来臨を語る。これはマルコが、十字架・復活のキリストの出来事の後、世界史の中で十字架を担うエクレシアの時代を経て、「六日後」に栄光のキリストの来臨を迎えることになるという救済史を提示しているのではなかろうか。このような救済史の構造は、(学界で主張されているようにルカに特有の思想ではなく)パウロを含めて使徒時代の福音に共通の構造であったように思われる。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/mark_046.htm#top

7 per annum

年間 第七月曜日
マルコ9・14-29

病状からすると恐らく「テンカン」(epilepsy)の霊につかれた少年を中心にいろいろの事が書かれている。弟子たちはその病気の原因について論じてはいたが、力がなくて何もする事ができなかった。無力な弟子たちと、その弟子たちがどのようにして少年をいやすかを見物していた群集に対してイエスは非常に嘆いている。
イエスは悪霊を追い出すことを弟子たちの訓練の一つにしておられる。議論は、人間が考え、本を読み、研究すればできる。しかし霊の問題は、神から受けなければ解決する力をもつことはできない。聖霊を受けなくても議論はできるし、教会や修道会の仕事もできるだろう。しかし、人の中に巣くっている悪霊、それは人間の力や知恵の及ばないものであり、それを追い出す力を神からいただくという面が、今の時代には非常に少なく、軽んじられることさえある。「この種のものは、祈りによらなければ」とは、神から受けることなしにはということである。霊の世界は、肉の世界によってはどうすることもできないのである。
 神は真実な方であり、それに対して私たちが誠実にこたえていかなければ、契約は成立しない。そういう意味で、私たちが神に対して誠実に生きることが信仰生活である。誠実とは、完璧に生きるということではない。むしろ、自分は神によらず、十字架の贖いなしには生きていけないことを知り、神と対面して、憐れみを求めていくことである。(榎本)

年間 第七火曜日
マルコ9・30-37 


イエスは、再びご自分の死と、復活を弟子たちに話し始められました。ガリラヤにおける宣教は終わり、今は、弟子たちにご自分がこの世に来られた使命を教えておられます。
しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
彼らは理解できなかったのですが、それは、頭が悪かったからではありません。その事実を受け入れることは、あまりにも恐ろしいことだったからです。キリストが殺されるという事実は、とうてい受け付けることができませんでした。
2B 一番偉い者 33-37
 しかし、キリストの十字架と復活の事実がなければ、神の国について理解することはできないことを、先ほど学びました。その結果、弟子たちは、次の間違いを犯します。
カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。この家は、ペテロの家でしょう。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。」
だれが一番偉いか、という議論は、彼らの誤った神の国のイメージから来ています。キリストがローマ帝国を倒して、ユダヤ人による神の国を立てられる、というものです。そこでは、キリストが総理大臣なのですが、だれが右大臣(うだいじん)、左大臣(さだいじん)になるか、そうした高い地位をだれが得るか、ということを論じ合っていました。彼らは、本当は神の国を求めたのではありません。自分たちの国を求めたのです。神ではなく、自分たちに栄光を与えらて、神ではなく、自分たちに力が、権力が与えられることを求めました。
イエスは、おすわりになり、12弟子を呼んで、言われた。イエスは、ラビが人々を教えるときのように、おすわりになりました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者になりなさい。」
これを聞いているのは、そして、弟子でも、宣教の中心的な役割を担う12人です。人間的には、12人はみなの上に立ち、みなから仕えられるべき存在です。しかし、それは人間の国での出来事です。神の国では、人の先に立つものは、人々に仕えます。
それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕を抱き寄せて、彼らに言われた。
イエスは、人に仕えることの大切さを、ひとりの子どもを通して教えられます。
 「だれでも、このような幼子のひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
子どもは、目立たぬ存在です。特に、当時の文化では、子どもはつまらない者として考えられていました。人間の国では、見向きもされない存在ですが、イエスは、わたしの名のために、それを受け入れなさい、それに仕えなさい、と言われます。そして、大事なのは、その小さな者を受け入れることは、イエスご自身を受け入れることであり、イエスを受け入れることは、神ご自身を受け入れることなのです。つまり、神にとって、このような小さな者がとても大切なのです。私たちの奉仕や善行は、この真理に基づきます。
ーーーーー
「子供を受け入れなさい」ということは、子供が清くてかわいらしいからでしょうか。子供は確かにかわいらしい面をもっていますが、同時に憎たらしい面ももっています。子供が天使のようなものだったら、受け入れることは簡単です。しかし子供と言えども人間であって、天使ではないからこそ、大人がしつけなければなりませんし、教育しなければ、放っておけば野獣みたいふるまうでしょう。本当の人間になれません。ですから子供を受け入れるということは、かわいいところも憎らしいところも受け入れることでしょう。
 これは神の愛のやり方です。ですからイエス様は「私の名のために受け入れる人は」と言ったのでしょう。人間的には好きだからとか、人間的にゆるせるからとか、良い人たちだからといった(心理的)常識的な受け入れ方とは違うのです。純粋に信仰的なことでしょう。そのような受け入れ方は、人間には不可能に近いですから、ただ神の名によってだけ、できるというわけです。
 神は今の私を、ありのまま丸ごと受け入れて下さっている。互いが信仰的に、相手をそのまま受け入れ合うことができた時、互いが神の中に変え(変容)させられていくのです。受け入れる側も受け入れられる側も、ともに成長させていただくのです。子供を受け入れるということは、相手の成長を信じることであり、自分とあいての成長の可能性を受け入れることなのです。(静)
---------------
弟子たちは、「途中で何を議論していたか」とのイエズスの質問に恥ずかしくて黙ってしまいます。
私たちもこのような恥ずかしさを感じることがよくあるのではないでしょうか。けれども、子供たちを見ると恥ずかしいという気持ちは持たないかのように、単純に反応します。
本当に恥ずかしいことは、中途半端な恥ずかしさにとらわれて、そこから前に踏み出せないことではないでしょうか。主よ、私たちに素直で単純な心と勇気を与えてください。sese07

年間 第七水曜日
マルコ9・38-40

ここにヨハネの心がよくあらわれているわけですね。自分たちは、イエス様に従ってきて、それこそ自分の十字架を背負って、伝道の訓練を受けて、いつもイエス様の薫陶(くんとう)を受けている弟子グループであるという自負。だから、どこか自分たちが老舗であって、本物であって、自分たちのように、熱心にイエス様についていく弟子でなければ、だめなんだよ、というような、そんなヨハネの上から見下ろすような思いが見え隠れしますし、
 そして、近親憎悪(きんしんぞうお)といいますか、もし、イエス様の名前で奇跡をしていなければ、ヨハネはなんの問題も感じなかったのでしょうけれども、ところが、自分たちの師匠であるイエス様の名前をつかって奇跡をしているから、我慢がならないわけです。
 やはりどの時代でも、同業者、ライバルに対しては、なかなか寛容になれないわけですね。ヨハネにしても、自分たちこそが本家本元(ほんけほんもと)であって、いったい誰に断ってそんな仕事をそこでしているのか、というような縄張り意識のようなものがですね、あって、やめさせたのではないか。そう思うわけです。

 そして、三つ目に、ヨハネはこのことをイエス様に報告するわけですね。つまり、これは、自分たちだけがそう思っているのではなくて、イエス様もそう思っているに違いないと、ヨハネは考えたわけです。だから、堂々とイエス様に、生意気なやつがいましたから、やめさせておきました、というようなことを報告したわけですね。
 だから、ヨハネは、きっとイエス様が、そうか、よくやったと言ってくれると期待して報告したと思うわけです。イエス様もきっと、自分たち弟子グループじゃない人間が、勝手に自分の名前を使って奇跡をするなんて、気分が悪いだろう。だから、きっとやめさせたことを、ほめてくれると期待して、報告した。
 ところが、このヨハネの心とイエス様の御心は大きくずれていたわけですね。


この答えをきいて、きっとヨハネは驚いただろうと思いますけれども、そもそも、ヨハネも弟子たちもイエス様の御心をつかむのが下手というか、イエス様もきっとそう思っているに違いないと思っていたことが、見事はずれるということがよくある。

たとえば、この少し先の箇所のですね、マルコの10章13節以下に

10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
 
 というできごとですね。弟子たちにしてみれば、子どもたちがやってくることは、きっとイエスさまにとっても邪魔だろう。自分たちがということではなく、一生懸命弟子訓練をしてくれているイエス様のことを思って、純粋に、こどもたちをイエス様のところにこさせてはならないと思ったのだと思います。だいたい、子どもたちも、その親たちも、イエス様にしたがっていく覚悟をもってやってきたわけじゃじゃないか。イエス様は今、真剣に弟子訓練をしているのだ。それなのに、よくわかりもしないで、ただ、祝福だけもらいにくるなんて虫がいい。そういう思いもあったのかもしれません。今日の箇所で、弟子にもならないで、勝手にイエス様の名前を使って奇跡をしていた人と同じで、くろうもしないで、ずいぶん虫がいいじゃないか。調子に乗るのもいい加減にしろというような思いが、弟子たちにあったでしょうし、それは、イエス様を含めた、わたしたちのみんなの思いだと思っていた。ところが、その「わたしたち」のなかに、イエス様はおられなかったわけです。「わたしたち」はみんなそう考えていると思っていたのに、イエス様は違っていた。イエス様は幼な子を抱き上げて祝福しましたし、イエス様の名前を勝手に使って奇跡を行うことを「やめさせてはならない」と言われた。
 一生懸命イエス様に熱心についていっているからといっても弟子たちの心とイエス様の御心は同じではなかったということです。

 そういうことは、今、私たちの教会ででも起こりえることですね。私たちも、イエス様のためにと一所懸命いろいろなことをしますけれども、そのわたしたちの中に、当のイエス様がいない、私たちの思いと、イエス様の思いが違っているということが起こりえるということです。しかもイエス様に熱心で、自分たちはイエス様にこんなに従っているのに、あの人もこの人もイエス様を利用するだけだと思うようなら、イエス様との心のギャップが広がっているようにおもうわけです。本当に神様のために働いていくときには、人が何をしているということはそれほど気にならないですね。最終的な評価は神様がするわけですから、それぞれにそれぞれの働きをすればいい。比べる必要はさらさらないわけです。実際、イエス様も、ヨハネに、こういうわけですね。別にいいではないか、私の名によって奇跡を行って、それで祝福を味わう人があるなら、それでいいではないか。私の名によって奇跡をしていて、私の悪口をいうこともないだろう。わたしに逆らわないなら、私たちのみかたなのだ、という。
 つまり、結局は神様の御心がなされればいいわけであって、何もほかの人をねたんで、その働きをやめさせることはない。イエス様はそういう視点でものを言っていますけれども、でも、ヨハネは、自分の頑張りや苦労、また、純粋な気持ちが大切だったわけですね。どうしても、いい加減にやっているように見える人を我慢できずに、やめさせてしまった。
 でも、神様は神様に逆らうということでなければ、どんな人でも神の栄光のために神雅が用いられる。そういう意味で、みんな味方、仲間なのだということなのです。
-----------------------------------
小さな者を受け入れることは、イエスご自身を受け入れることであり、イエスを受け入れることは、神ご自身を受け入れることなのです。つまり、神にとって、このような小さな者がとても大切なのです。私たちの奉仕や善行は、この真理に基づきます。
3B 私たちの仲間 38-50
 ところが、ヨハネはそれに同意しませんでした。次を読みましょう。ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」
 見てください、また、「私たち」という言葉が出て来ています。自分たちは正統派で、他はみな異端である、という立場です。セクト主義、分派主義ですね。自分たちといっしょに行動しない者たちを無視したり、排除したりする立場です。それで、たとえ神の国を求めていると言っても、実は自分自身を求めているのです。
1C わたしの味方 38-41
 しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はいないのです。わたしに反対しない者は、わたしたちの味方です。」
 ものすごく、広く、寛容な考えですね。反対しない者は、みな味方である。そして、どこまでが味方なのかが
マタイとルカは同じ内容を否定文の形で伝えています。「私に見方しない者は、私に反対する者であり、私と一緒に集めない者は散らす者である」(マタイ12・30、ルカ11・23)。ここでは、エキュメニズムの問題、他の宗教との関係の問題が扱われていると思われます。私たちの仲間でない人たちが成功する、うまく行くと私たちは悲しんだり、ねたみとあせりに 襲 (おそ)われたりします。キリスト者の存在意義が根底から問われているのです。
反省すると、小さくならざるをえません。それは人々と比較することによってではありません。神の慈しみの前に、自分を置くことによってです。「人の為」と書いて、「偽り」と読みます。人のためにやろうとしていたことは、実は深く見ると自分の名誉のためにやっていたと。恵みをうけなければ、立っていることができない自分、神の恵みとの関係において小さな自分に気づきます。そこからどうすべきか、行動の原理も出てきます。小さなものとなって使えること、パウロの言うように、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(ピリピ2・3)ること、先入観と偏見を持たずに、何の差別をせずにすべての人と接することである。

年間 第七木曜日
マルコ9・41-50

イエスは、 私たちが人からつまずきを受けることは、特に問題にされていないようです。そうではなく、自分が人につまずきを与えることを、厳重に注意されています。なぜなら、兄弟の目にちりが入っているのを見ているとき、実は、自分自身の目に材木が入っているからです。
ーーーーーー
パウロは第一コリントへの手紙(9:24-27)で、キリスト者をスポーツ選手にたとえています。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」
今日の福音書に通じるたとえ方です。オリンピックに出る選手は様々な犠牲を払い、自分と戦うようにキリスト者も自分と戦わなければならない、と。自分との闘いは霊的生活に欠かせない側面です。第二ヴァティカン公会議の後にしばらく流行った解放の神学の影響で、不正と戦う霊性が強調されることがあります。これは、自分との闘いではなく、「そと」との闘いです。けれども、自分との闘いを知らない人は、正義と平和のために戦っても、結局世の中は変わらない。やはり、世直しは自分からでしょう。

-------------
火も塩も共に腐敗を防ぐ所から、聖霊と解することができるでしょう。「君達自身の中に塩を保ち、互いに平和を保ちなさい」50節。この言葉で「弟子の道」がしめくくられています。イエスの弟子たる者は、自ら小さい存在と成り、外側と内側から起こってくる躓きに対して、聖霊の火と塩を内に保って抵抗し、互いに愛し合って信仰の勝利を得よ、と励まされているのです。キリストが人を清め、一致させる地の塩でした。もしキリスト者がその塩を持たなければ、不和と分裂のもととなってしまいます。共同体の平和はキリストの塩があるかどうかにかかています。平和の祈りは、キリストの塩(愛)を求める祈りでもあります。

年間 第七金曜日
マルコ10・1-12

 イエスも、ファリサイ派の人も、モーセの言っていることについて話しています。ユダヤ人のあいだでは、モーセに与えられていた神の権威が認められていました。モーセは神の預言者であり、彼の語ったことは、神の語ったことだったのです。したがって、モーセの言っていることに反していることを言えば、それは、神のみことばに反していていることを意味します。ファリサイ派たちは、イエスがモーセの言ったことと矛盾したことを言わせて、群衆の間にあるイエスの信頼を崩そうとしていたのです。そして、モーセの言ったことは、離婚状を書いて離別することでした。
  イエスは、モーセの言ったことを否定することをせずに、むしろ、モーセがそんなことを言った理由を述べられています。あなたがたの心がかたくなだから、というものです。「かたくな」というのは、堅くなった、乾き切ったという意味です。土に水を注がなくなったら、土はしだいに堅くなり、そのまま注がないでいるとついには栽培できない状態になります。同じように、神の言われることを聞かないでいると、少しずつ私たちの心はかたくなり、いつのまにか、神の御声を聞くことができなくなります。

 罪を犯してもすぐに告白しないで、それでも、自分は赦されているから大丈夫だ。いつか悔い改めればいい、という誤った見方をしてると、生ける水である聖霊がもはや注がれなくなり、心がひからびてしまいます。離婚状を出さなければならないのは、夫婦の関係において心がかたくなになったからです。それでは、夫婦についての、神の御声は何でしょうか。イエスは、「しかし」という言葉で、人間の現状と神の理想を対照させておられます。

 イエスは、モーセに神の律法が与えられる前にさかのぼり、創造の初めの姿を話されています。
  一心同体とありますが、英語ですとone fleshつまり、一つの体となります。結婚は、男と女が心も体も深く結びついた状態であると同時に、子どもを宿すことによって実際にひとりになります。子どもは、父親から23の染色体を、母親から23の染色体を与えられ、一つのからだと人格を形成しているのです。したがって、子どもが与えられる見地から、結婚はふたりが一体となっている。イエスの答えは、離婚をしてはいけないというものですが、「神が結び合わせたもの」と言われて、神の権威を強調されています。
弟子たちにとっては、イエスの発言は驚くべきものでした。当時は、今と同じように、離婚は当然のものという考えが定着していました。とくに、男性にとって、離婚は男に与えられた権利として見なされていたのです。

 「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯かす。」 

 これは、強烈な言葉です。なぜなら、イエスは、ファリサイ派の人たちが、あんな質問をした背後にある動機をえぐり出したからです。今の妻はあきて、他の女に乗り移りたいという動機、つまり姦淫から離婚をするのです。それを、離婚状についての律法を引用してきて、実は、自分たちの悪い行ないを正当化していたに過ぎません。そして、イエスが指摘された姦淫の罪は、モーセの律法によれば、死刑に値することでした。したがって、彼らは、表向きは神のおきてに従っているのですが、本質は神のおきてを故意に破って、自分に死罪を招いているのです。
こうして、イエスは、結婚は生涯持続されるべきものであることを説かれました。ふたりはひとつになっており、特に子どもによってひとつになっています。したがって、離婚をすることは、子どもに破壊的な影響を与えます。離婚は、精神的に、霊的に、その子を真中から二つに引き裂くことに他なりません。ですから、神が結婚を生涯のものに定められたのは、神が子どもに高い価値を置かれている証拠です。
ーーーーーーーー
江戸時代の離縁状は一般的に、僅か三行半(みくだりはん)で書くものとされていました。そこには①離縁すること、②妻の再婚の自由を認めることが記されています。
離婚するには離縁状が必要で、もし離縁状を出さず、あるいはもらわずに再婚すると重婚罪に問われました[註1]。高木侃氏(たかぎ ただし)が三行半1000通を調査した結果[註2]、離婚の理由第一位は無し(書かない)27%、第二位は「我等勝手二付き」「熟談・示談」8.6%です。
氏によると理由を書かないのは、書かない方がよいから。また「我等勝手二付き」は自由気ままにという意味ですが、実際には夫婦間で協議したうえでの離婚が一般的でした。よって「我等勝手二付き」は「当方の都合により」と解釈。妻の無責任性を表示することで、男子の面子を保ち、夫権優位(男尊女卑)の建て前を辛うじて保持しました[註3]。次ページでは当史料の解読方法について伝授します。

イエス様は一人間の決めた離婚条件のことではなく、もともとのおきてはどうであったかを問います。人は、本来法(ルール)が立てられた時の状況を忘れて、外面にこだわり、結局自分たちにつごうのよい解釈をしてしまいます。
モーセが、離婚する時は離縁状を渡せと言ったのは、なるべく離婚をさけさせるためでした。安易な離婚、一時的な感情にかられた離婚をさせないため、書面によると決められたのです。今のように紙が簡単に手に入るわけでもなく、だれにでも読み書きができる時代ではありませんでした。ですから離縁状を書くことで、ことが公になり、プライバシーを知られることとなり、めんどうくさいものでもあリました。しかしいつの間にか人間は、離縁状さえ渡せば、かんたんに離婚できると考えるほど結婚を軽んじてしまいました。しかし人間のために神が定めた特別な関係を紙きれ一枚で消すことはできません。そして人間は悲しいことに、一枚の離縁状を前にした時に(「三行半(みくだりはん)をつきつけられた」)、そのことを悟らされるのです。モーセは、その悲しい悟りを命じたのではないでしょうか。(静)

年間 第七土日
マルコ10・13-16
「子供たちが私のもとにこさせなさい。防 (ふせ)げてはならない」

子供たちのほうからイエス様に近づいています。イエス様は弟子たちに、来るままに放っておけ、じゃまをするな、と二つのことを命じておられます。無心に近づいてくる子供たちを見て、イエス様は心からうれしかったでしょう。だらこそ、それを止めようとした弟子たちをしかったのです。来たいのだから来させなさい、来る人を判断してはいけません、まだわかりっこないとか、来る価値がないなどと。むしろ大人たちよりも子供のほうがずっと素直にイエス様に近づくのです。
子供がおそらく、イエス様の話が理解できたわけではないでしよう。でもみ言葉そのものを、ずつと深く感じ取っていたのではないでしょうか。イエス様の人格からあふれ出る真実さ、誠実さ、神の子としての厳しさやさしさ、その魅力あふれるペルソナそのものを。子供に囲まれているイエス様、まるで子供になったようだったでしょう。私たちもイエス様に近づく人のじゃまだけはしたくないものです。

8 per annum

年間 第八月曜日
「永遠のいのちを受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」
マルコ10・17-27
 

 
「人が神の国に入るためには何をすればよいのであろうか。この青年はまじめな求道者だったが、いくつかの間違いも犯していた。その一つは永遠のいのちの理解であるが、彼は多分それを地上における祝福やこの世的ないのちとして考えていた。
また、「何をしたらよいでしょうか」という言い方で分るように、彼は自分の努力で永遠のいのちを受け継ぐことができると考えていた。彼が誠実に求道していたことを疑う余地はないが、
結局は神の国も自分自身も分っていなかったのである。自らの弱さを知らずに自分を過信していた。
今日でも同じような考え方は人々の間に根強く、宗教的な規律を守り、道徳的なことを行っていれば救われると考えている者は多い。しかし、努力や行いでは永久に神の国に到達できないことを私たちは認めざるを得ない。
イエスは、「よい(尊い)先生」という言い方をたしなめてから、モーセの十戒の後半を要約して示された。すると彼は、それらすべては小さい時から守っていますと即座に、また確信をもって答えた。今日でも、多くの人々が同じように答えるであろう。しかしそれはきわめて皮相的な確信でしかない。その中にひそむ自己中心的な考え方と実際の自分の弱さや罪には少しも気づいていないのである。(泉田)
--------------------
ザアカイが自分の財産の半分を貧しい人々に施しますと言った時、イエスは彼をほめられたのであるが、ここでは、持ち物をみな売り払って貧しい人に施しなさいと言われた。「みな」というのは数量的なことではなく、そのことに徹することを言っておられると思う。青年のしていることは、自分が損しない限りにおいてしているにすぎず、それではほんとうに律法を行っているのではないことを示されたのである。
弟子たちは、この話を聞いて驚いたが、イエスは「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」と言われた。たとえば、私たちもいやな人を半日や一日ぐらいは愛することができるかもしれないが、それはいつまでもつづくものであれば「どうしよう」と思うでしょう。それができなければ救われないとすれば、いったいだれに救われる資格があるだろうか。律法は人間では守り通すことはできない。しかし、神にはできる。それは神に念願すれば、愛を全うすることができるようになるということよりも、十字架をさしている言葉である。イエスの十字架のいさおしによって許されるという世界でしか、私たちは律法の成就を見ることはできないということである。(榎本)

年間 第八火曜日
「今この世で、百倍を受ける」
マルコ10・28-31



今日の福音書のイエス様の約束は、ある意味で「約束の地」の約束に似ています。かつて、選ばれた民は「約束の地」に入るために、まずエジプトから出なければならなかったように、キリストの約束にあずかる人たちは、兄弟、親、畑を捨てなければならないのです。これは人間という存在者の大原則、人間の常を示しています。ロナーガンのことばでいうと、「自己超越」(self-transcendence)です。つまり、人間はいつも自分を超えて、より高いものを求めなければならない。例えば、大人になるために子供を捨てなければならない。70歳になるために60歳をやめなければならないというふうに。福音は、他人との比較について何も述べていません。世間並みになるといっていません。
さて、私たちにも「約束の地」があります。またキリストの約束を受けました。私たちは過去からの教訓、過去においてしてもらった約束と、未来に対する約束、希望を持っています。この二つは現在においてどのように組み合わさるかを今日思いめぐらしていきたいと思います。

-----------------
ベトロの質問に現れる気持ちは弟子たち皆の気持ちだったでしょう。実際に、彼らはイエスについて行くために家族と共に生活することを断念していました。族するのに歩くしか方法のない時代でしたから、定期的に家族と会うことは不可能でしたし、電話することもなかったでしょう。一生そのような生活を営むには、彼らにとって相当の覚悟が必要であったと思う。この質問に対して、イエスの答えは希望を与えます。この世で百倍を約束します。イエスは来世について目を向ける前に、この世に、弟子の目を向けさせています。一人の兄弟から離れると百人の兄弟に出会えると言います。
現代でも同じことが言えます。信仰に入ることで多くの兄弟、姉妹を得て、困った時に一人で苦労する必要がありません。問題になるのは、教会(修道会)が兄弟(姉妹)的な人間関係になっているかどうか、です。(ステファニ)

年間 第八水曜日
「人の子は使えるために来た」
マルコ10・32-45

日本の歌には、「実るほど頭の下がる稲穂かな」、またことわざには、「実る は頭を垂れる」というのがあります。その意味は、「稲穂が実れば実るほど頭を低くさげることから」、「成熟した人間、すぐれた人間になればなるほど、謙虚になる」ということであると説明されています。
ところで、謙遜のきわみともいうべき行動を示した人がいます。彼は、自分が指導していた弟子たちの心のなかに高ぶり、すなわち他人よりすぐれているという誇りがあるのを見抜いて、弟子たちが度肝(どぎも)を抜くような方法で謙遜の必要性を示しました。ある時、彼は「夕食の席から立ちあがって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた」のです。
これを見た弟子たちは唖然となり、驚いた弟子の一人は、「あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」「わたしの足を決して洗わないで下さい」と言ったほどでした。
ヨハネ福音書でイエス・キリストは、「あなたがたはわたしを教師、または主と呼んでいる。そういうのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがもまた、互いに足を洗うべきである」(ヨハネ13・13-14)と言われました。(新名)
-----------------
「皆に仕える者になり、すべての人の僕になりなさい。」イエスは弟子達と同じように見当違いの望み願いや競争心をあらわにしている私に諭してくださいます。「人の子は仕えられるためでなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」と。こうおっしゃるイエスを前にして、どう答えればよいでしょうか。
この慈しみ深い神の愛を充分に味わうことができますように祈るしかないでしょう。
主よ、神からこの上なく大切にされている者同志である私達を互いに敬い仕え合う者としてください。sese07

年間 第八木曜日
「先生、目が見えるようになりたいのです」
マルコ10・46-52

「あなたに欠けているものが一つある。持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それによって自由となり、それからわたしについて来なさい。」これを聞いた若者は悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからだと。
若者の悲しみと物乞いの喜び、これは全く対照的だ。若者は、世の富に執着していたので、イエスについて行くことが出来なかった。バルティマイは、イエスに呼ばれた瞬間、すべてを捨て、イエスのもとに行った。
若者は、少年時代からモーセの律法を堅く守ったが、にもかかわらずイエスに従う勇気がなかった。バルティマイは違う。彼の心を動かしているのは律法ではなく信仰、神の愛を輝かしているイエスヘの信仰だ。だから、イエスは彼に「あなたの信仰があなたを救った。」と言って、誉めた。そしてイエスは盲人の目をいやしたと同時に、心の目を救いのメッセージに開いた。
さて、バルティマイと同じような信仰と信頼を持ってイエスに向かって叫ぶなら、きっとイエスはわたしたちを顧みてくださる。わたしたちは、ぬくぬくとした上着を脱ぎ捨て、躍り上がって、イエスのもとに行こう。そうすれば、思いがけないすばらしい姿でイエスを見いだし、生きるための光を与えられるでしょう。(ジラール)
---------------------------
イエスはある時、「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知である。」と言われたのです。だから、くどくどと祈るな、と言われたのであります。イエスほどの人ならば、自分の目の前に盲人が来て、「わたしをあわれんでください」と叫んでいるのですから、その人が何を求めているかくらいは、すぐわかった筈です。しかし、イエスは「わたしに何をしてほしいのか、お前はわたしに何を求めているのか」と聞いているのです。

そしてわれわれも、イエスに「お前はわたしに何を求めているのか」と改めて問われるという事は、大変大事なことではないかと思います。
われわれはイエスから改めてそのように聞かれた時、その時にわれわれもイエスに自分が何を求めなくてはならないのか、何を求めていいのかという事に気づかせられるからであります。
一流の大学を目ざし、一流の企業に就職したいと願っているかもしれないけれど、それが本当にお前が求めている事なのかと問われてくると言う事です。

彼は道ばたで物乞いをしていたというのですから、イエスにお金を恵んでくださいと頼んでもいいのですが、彼はそんな事をイエスに求めたのではありません。
イエスは「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われるのです。本当はイエスがその人の目をいやしているので、その人の信仰なんかではないのです。その人の念力とか、信仰的な修業とかではなく、その人のそうした信仰ではなく、イエスがその人の目をいやしているのです。それなのにイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というのです。それはイエスがわれわれに対して、どんなに信仰を求めておられかという事であります。

それではそれはどんな信仰かと言えば、それは盲人の人がただ「見えるようになる事です」と求めた、ただそれだけの信仰なのです。たったそれだけの信仰なのです。イエスが、神様が、われわれに求めておられる信仰はそういう信仰なのであります。

-----------------------------------
「彼は再び見えるようになり、その道を進んで行くイエスに従った」52節b。この言葉によって、8章27節から始まる「受難に向かうイエスの道」シリーズをマルコは締め括っています。その道の最後に、この盲人の開眼物語を配置したのはマルコでした。彼は、その道シリーズの直前にも、ベッサイダの盲人の開眼物語(8章22~26節)を配置しました。マルコは、ベッサイダの盲人の開眼物語によって、第1部「ガリラヤ内外でのイエスの活動」を閉じ、今また、バルテマイの開眼物語によって、第2部「受難へ向かうイエス」にピリオドを打ちました。「マルコがこの出来事を取り上げた時、彼はそこに存在する象徴的な意味を知っていたものと思われる。即ち、肉体の視力の回復は精神的な洞察力の創造であるということを。しかし彼は52節bを加えることによって新しい象徴的意味を導入した。"見る"ということは、イエスと共に十字架の道を行くことである。強調点はもはや信仰を見出した弟子に置かれているのではなく、イエスに従ってイエスの道を行く弟子に置かれている。即ち、主題は弟子の道であり、その弟子の道は、苦難の道である」(E・ベスト)
エリコの乞食、盲目のバルテマイは、イエスに目を開けて戴いて、イエスに従ってその道を進みました。マルコはそう書き記すことによって、彼の福音書の読者にも、バルテマイと同様に、イエスに従って十字架の道を歩くように勧めているのです。

---------------------------------
イエス様は、ある時、ファリサイ派の人々を「盲人の道案内をする盲人だ」(マタ15:14)と言って批判したことがありました。ファリサイ派の人々は、自分が盲目であるとは思いも寄らなかった。しかし愛そのものであるイエス様という光から見れば、ファリサイ派の人々は実は、神様の深い愛と希望に欠けるという点で、盲目でした。
イエスはイスラエルの指導者たちに見えなかったもの、神のみ旨がはっきり見えた人でした。しかし目に見えるものであっても、周りが目の見えないものばかりである時には、目の見えるものというよりは、異常な人とみなされます。そのために迫害され、苦しみを体験しました。
闇を照らす光を、光であるがゆえに拒んでいる。そういうものになっていないでしょうか。光より闇を好む。そういう人間になっていないでしょうか。
日本では「百聞は一見にしかず」と言います。しかし目が見えれば、それで本当に正しいことが見える、分かるというわけではありません。見えるからこそ罪を犯す、ということもなかったでしょうか。ほんとうに大切なもの。真理であり光である神様をしっかり見すえているか。
バルティマイと同じように、私たちこそ叫びましょう。「私は何も見えていない人間です。自分の罪も、傲慢さも、何も。そんな私を憐れんでください。私は自分を知りたい。そして本当に大切なものを見つめていきたい」。
眠りからさめ、信仰に目覚め、光そのものであるイエス様と共に、光の中を歩みましょう。そのために回心の恵みを願いましょう。Moseos


年間 第八金曜日
「祈り求めるものは、すべてかなえられる」
マルコ11・11-26

 

「念ずれば花は咲く」というフレーズは、一般的には「信じれば奇跡は起こる」「心の力で望むことは実現する」という意味合いで使用されます。この表現は、思考や信念の力が現実を形作ることを強調しています。
このフレーズは、ポジティブな思考や信念の力が、人々の行動や結果に影響を与えることを示唆しています。ポジティブな思考や信念を持つことで、自信ややる気を高め、困難に立ち向かったり、目標を達成したりする力が生まれるという考え方です。
ただし、このフレーズはあくまでメタファー的な表現であり、現実世界の事象や結果を単純に思考だけで変えることを意味するわけではありません。努力や計画、適切な行動も必要ですが、ポジティブな思考や信念はそのサポートとなることができるのです。
要するに、「念じることによって、肯定的な思考や信念を持つことが重要であり、それが行動や結果に影響を与える」という意味合いで「念ずれば花は咲く」というフレーズが用いられることがあります。(ChatGPT)

----
エレミヤ書8章には、「わたしは彼らを、刈り入れたい。・・・しかし・・・いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。(13)」とあります。また、ホセア書9章には、「わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖を、いちじくの初なりの実のように見ていた。(10)」とあります。したがって、イスラエルは、実が結ばれるために、神の祝福と聖さが現われ出るために、神に選ばれました。しかし、イエスがご覧になられたのは、葉は生い茂っているけれども、実を結ばせない木だったのです。口や頭では神を信じているかもしれないけど、実質をともなっていないイスラエルの姿を表していました。
このことが、クリスチャンの場合にも当てはまります。イエスは言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。(ヨハネ15:5-6)」私たちは、実を結ばせるために召されたのです。私たちは、商売、金儲け、権力争いではなく、「すべての国の人の祈りの家」、つまり福音宣教に実を結ぶように召されています。
このように、神を信じることはとても大切になります。祈りの中で神を信じ、その生きた交わりに入ると、私たちのうちから実が結ばれます。イエスは、エルサレムの中にその実を見たいと願いましたが、見ることができませんでした。彼らは、預言のみことばに心が閉ざされていただけでなく、生きた信仰を持っていませんでした。
--------------
いちじくの木は昔からイスラエルを象徴する木であり、イエスのことばはエルサレムに対する警告であった。エルサレムは、葉は茂っていても実がなっていないいちじくの木のように、外面的には栄えていたが霊的には衰えていた。すばらしい大神殿、巨大な宗教勢力を有し、儀式が盛んに行われていたエルサレムであったが、神への真実の信仰、貧しい人々への配慮には欠けていたのである。
翌日、イエスと弟子たちが通りがかりに例のいちじくの木を見ると、何と根まで枯れていた。根まで枯れていたとは徹底的に完全に枯れていたことを意味している。この出来事は弟子たちに大きなショックを与えたようで、マルコはペテロのことばで彼らの驚きを代弁している(21)。
ペテロは、昨日のイエスのことばの力とそののろいの意味の重大さを感じ、大きな不安に駆られたのであろう。彼は「あなたののろわれた」ということばで、このいちじくの木に神ののろいとさばきが及んだことをはっきりと感じ取っていた。枯れたいちじくは、まさに信仰的に不毛なエルサレムに対する神のさばきを象徴するものであった。
イエスはペテロのことばに答えて真実な信仰と祈りの力について教えているが、これこそがエルサレムの宗教的指導者たちに欠けていたものである。私たちも壮大な教会聖堂を持ち荘厳な礼拝を守って、行きどいた組織、さまざまな評議会、委員会、無数の会議をしていても、社会に尊敬されるものをたくさんもっていても、もし真実の信仰と祈りの力に欠けているならば、結局神のさばきを受けて枯れてしまうのである。この点に関しては油断は禁物である。(泉田)
---------------------
いちじくの木は昔からイスラエルを象徴する木であり、イエスのことばはエルサレムに対する警告であった。実のないいちじくの木に対する呪いは、商売の家になりはてた神殿に対する呪いを表しています。イエスは呪いを用いて、イスラエルの回心を呼びかけます。
「山を移すほどの信仰」ということばは、パウロの愛の賛歌にもありますが(Ⅰコリント13・2)、信仰があっても、愛がなければ無にひとしいという意味で用いています。
マルコでは、神が信仰者の祈りに答えて山を動かし、すべてをかなえ(マルコ9・23)、人は、神が行うことをもすることができます(マルコ17・20)。わたしたちは、そのことばを取り引きの条件のように単純に思い込んでしまいます。信じるなら、なんでも聞き入れてくれる。だから信じようと。信じたから山を移すことができるのではありません。山を移すのは、信仰の結果ではなく、信仰の深さを表しているのです。(荒)


年間 第八土曜日
「なんの権威をもってそういうことをするのか」
マルコ11・27-33

新しいことをしようとすると、反対が起こり、その分野の権威者から非難されます。祭司長は祭儀について、律法学者は聖書の教えについて、長老は管理について権威者だと思っています。ところが預言者は伝統的な権威によらず、神のことばに促されて、革命的なことばを語り、民衆の心を捉えます。イエスも予言者のように語ります。
イエスは自分の権威がなにに基づくか述べるかわりに、天からのものを、天からのものとして認めるかどうか、根本的な態度について問い返し、かれらの偽善を明らかにします。
神からのものを、神からのものとして認めず、神を第一とする信仰がないなら、神殿は枯れたいちしくの木のようになります。

9 per annum

年間第9月
マルコ12:1-12

神の招きに気がつく

 この「ぶどう園」ですが、これはいろいろなものにたとえることができると思います。たとえば、このぶどう園を私たち自身の人生であるとたとえることもできると思います。そうすると、「私たちの人生なのだから、自分の好きなようにするのが当たり前だ」と思うのが普通でしょう。しかし、神様から見ると、私たちに命を与えたのが神様なのですから、私たちは神様のものであるわけです。そうすると私たちがその造り主である神様の御心に従って生きた時に、本当に幸福な人生を生きることができるはずです。しかしそのことがなかなか分からない。神様が招き続けてくださり、いろいろな人を遣わして、神に従うように導くのだけれども、このたとえ話の農夫のように、それを抹殺してしまう。
 しかし神様は、一人子であるイエスさまを十字架につけてまで私たちを見捨てずに愛してくださった。この愛に応えて行こうと、気がつくのを待っていてくださるのです。
-----------------
傷ついた葦を折ることなく,暗くなってゆく灯心を消すことがなかったように、捨て石を隅の親石にされたように…主はイエスを通して、私にも、そのようにしてくださった。弱く、貧しい存在である私を主は愛してくださる。主よ、あなたの愛に感謝する一日になりますように。

--------

トビト記は、旧約聖書の一部であり、トビトという名前の人物と彼の息子トビアスの物語が描かれています。この書は、ユダヤ人の教訓的な物語として知られています。
物語の背景は、アッシリアの支配下にあるイスラエル北部の地域です。トビトは病弱な状態にあり、失明してしまいます。彼は神に対して忠実で、自分の家族に善行をするように教えます。
トビトは息子のトビアスに重要な任務を与えます。トビアスは父親のためにアッシリアの首都ニネベに旅をし、トビトの旧友であるラグエルのもとに行き、トビトの財産を取り戻すための助けを求めます。
トビアスの旅は冒険的であり、天使ラファエルが人間の姿で彼に付き添います。彼はさまざまな困難や試練に遭遇しますが、信仰と勇気によって乗り越えます。
物語の終盤では、トビアスは婚約者であるサラと結婚し、彼女の呪いを解くことに成功します。トビトも視力を回復し、喜びに満ちた家族の再会が描かれます。
トビト記は、信仰、家族の絆、神の導きのテーマを探求しています。この物語は、困難な状況においても神への信頼と忠誠を保つことの重要性を強調しています。また、神の使者が人間の生活に介入し、神の奇跡や祝福が現れることも描かれています。
トビト記は、ユダヤ教の信仰と道徳的な教えを伝える重要な文書であり、またキリスト教の聖書でも使われています。この物語は、個人の信仰と家族の絆についての教訓を提供し、神への信頼と善行の実践の重要性を示しています。(ChatGPT)



年間第9火
マルコ12:13-17


神のものは神に

 私たち一人一人はいったい誰のものなのでしょうか? 聖書は、私たち一人一人は主のものだ、神様のものだと語りかけています。
 もしわたしという人間が、わたしという自分のものだとしたらどうでしょうか? 元気でうまくいっているうちはそれでも十分だと思うでしょう。しかし私たちにはいつか必ず死が訪れます。その時、もしこのわたしがわたしのものだとしたら、誰も救ってくれるものはありません。勝手に自分で救うしかないのです。しかしそんなことはできません。私たちは自分の髪の毛一本でも、白くも黒くもすることは出来ないのです。
 また私たちが、失敗をして挫折をしたり、あるいは人間関係でトラブルが起こったりしたような時、もしわたしがわたしのものであったとしたら、自分で責任をとるしかありません。時には負いきれない重荷を背負うしかありません。 しかし感謝すべきことには、聖書は、私たちは主のものであると書いているのです。私たちが神様を忘れて神様のもとを離れていった時にさえ、主はいてもいなくても良いようなこの私たち一人一人を、たった1ぴきの羊を捜して出かけてくださる方です。私たちが一人も滅びないようにするためです。
 そしてイエスさまは、神のもとを離れていった私たちを、また「神に返す」ために、十字架にかかられるのです。ご自分の命を引き替えにして、「神のものを神に返す」ために、すなわち、この私たちを神の元に返すためにです。
 それゆえ、こんなわたしでも、「神様のもの」なのだということができるのです。こんなどうしようもないわたしでも、主イエスの十字架を考えると、「わたしは神様のもの」なのです。そして主は、私たちを「憩いの水のほとり」に導いてくださるのです。
 私たちが毎日のようにミサをささげ、祈るのは、私たちが神のものであることのあかしです。そして神のものである私たちを、主は喜んで受け入れ、祝福を与えてくださるのです。
--------------

イエスの言葉は、信仰と政治の領域を明確に区別し、それぞれの範囲での責任を示しています。税金の支払いは、社会的な責務であり、政府の法律と規則に従うことが求められます。しかし、私たちが忠誠を示すべき最も重要なものは神であり、神への敬虔さと信仰が私たちの生活の中心にあるべきです。

この教訓は、私たちが信仰と政治の関係をバランス良く持つことの重要性を示しています。政治は重要ですが、信仰を犠牲にすることはありません。私たちは、社会的な責任を果たしつつも、神への忠誠を保ち、神の原則に基づいて行動する必要があります。

この教訓は、現代の私たちにも適用されます。私たちは社会的な関係や政治的な状況において責任を持つ一方で、神の教えに忠実であることを心がけなければなりません。私たちの信仰は、私たちの行動と選択に反映されるべきです。(ChatGPT)


ステンドグラスが美しく見えるのはそのものが美しいのではなく光があるから美しく見える私たちの姿も・・・。「神のものは神に」私たちがいただいたすべては神から受けたもの。この恵みに感謝しながら生きることができますように。たとえ痛みの中にあろうとも・・・。

年間第9水
マルコ12:18-27
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は、「ヤーウェ」という御名が啓示される前から用いられた神の名であって、イスラエルの民にとって最も古くて親しみ深い御名である。この御名の中にすでに、神が死者を復活させる方であることが示されているというのである。死者の復活の信仰はイスラエルの歴史の最後の時期になってようやく成立したものであるとされているが、イエスのような聖書理解によれば、その啓示はイスラエルの歴史の最初からすでに与えられていたことになる。それはイスラエルの盲目の故に隠されていただけで、いま神の命に直結して生きておられるイエスによって覆いが除かれ、聖書の全体が死者を復活させる神の啓示となる。


 神が燃える柴の中からモーセに語りかけた時、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに死んでいた。もし神が彼ら父祖たちを復活させないで死の中に放置する神であれば、その神は「死んだ者たちの神」となる。神が命の根源であり、生命そのものである以上、神は死んだ者たちの頭ではありえない。神は生きている者たちの生命の源泉、生きている者たちの頭である。その神が「アブラハムの神」と名のられる以上、アブラハムはその神に属する者として生きていなければならない。

神様は、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神だった」とおっしゃったのではなく、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」とおっしゃったのです。
 
 すでに死んだアブラハムが生きているというのは、彼の霊魂が存続しているという意味ではない。イスラエルにはギリシャ人のような霊魂不滅の考え方はない。生きるというのは、あくまで体をそなえた命の活動である。したがって、アブラハムが生きているということは、アブラハムの復活を前提とした表現である。神はモーセに「アブラハムの神」と名のられることによって、ご自身が死者を復活させる者であることを啓示しておられるのである。さらに、もし父祖たちが死の中に放置されるのであれば、彼らに与えると約束された神の約束は実現できない空約束になってしまう。約束に対する神の信実という観点からも、「アブラハムの神」という御名はアブラハムの復活を前提として含んでいることになる。
 
 このように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」という言葉は、伝承されたイエスの言葉(ロギオン)の中でも最も重要な言葉の一つである。このような根源的な神理解がイエスの聖書全体の理解を貫き、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という御名を復活の啓示と理解させるのである。このような理解は聖書の言葉の小手先の解釈技術から生まれるのではない。イエスが神の霊、神の力に満たされて生きておられた現実から流れ出るのである。たしかに当時の黙示文学には、復活にあずかる者たちは天使のようになり、結婚も飲食も必要でなくなるというような記述も見られる。しかし、ここに示されているような、最も古い神の名を、ひいては聖書全体を復活の啓示とするような理解はユダヤ教に類例がない。これはイエスだけが達しえた境地であろう。
 
 この段落は、死者の復活を宣べ伝える初代教団が、それを否定する者たちとの論争を、イエスとサドカイ派との論争という形で提示したものであるという解釈がよく見られる。しかし、ここには初代教団の復活理解や表現の痕跡がないことから、イエスご自身のものとする方が適切である(エレミアス)。一歩譲って、ここに初代教団とユダヤ教側との聖書解釈についての論争の形式が認められるとしても、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」というロギオンと、そこから出る聖書理解はイエスのような方だけにふさわしいものと考えられる。われわれもイエスのこの言葉に基づいて、「死者を復活させる神」を信じ、聖書全体をこの神の啓示として理解するのである。
---------------------------------------
あるアンケートによると、「来世も今の相手と結婚したい」と答えている男性が52%だそうです。しかし女性のほうは、「来世は今の相手とは結婚したくない」と答えている人が67.6%と、7割近くに上っています。こういう場合は、復活の時にはどうなるのか。
また、亡くなった方の棺桶(ひつぎ)の中に、家族が故人の愛用していたメガネや補聴器のイヤホンを入れたりします。故人があの世でも困らないように、という思いがあって入れるのでしょう。それはとても優しい心で、大切にしたいと思います。しかしこれもよく考えてみれば、復活の時には、やはり目は近視や老眼で、耳は遠いのか。天国でもそうなのか。
 私たちには分からないわけです。神と直接に顔と顔を合わせてお会いすると書いているだけで、それ以上のことは何も分からないのです。「天使のようになるのだ」と言われても、そもそもその天使というものがどういうものなのかよく分からないし、聖書にもそのようなことは書かれていません。
正直言って分からないのです。
主キリストが、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」とおっしゃるのです。それは私たちの想像を超えてすばらしいことになるに違いないのです。十字架にかかられて死んだイエスさまが、復活をなさるという、人間の想像を超えたすばらしい出来事が起こったように、です。 ですからわたしたちは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」というみことばを、希望のみことばとして受け止めることができます。私たちの神様の力は、私たちが想像する以上にすばらしいことをなさってくださるのであると。 「神よ、あなたは先に私たちを愛して下さいました。この愛に支えられる私たちが、いつも心から兄弟に仕えることができますように」(本日の集会祈願、年間週日16参照)。
--------------
人間的な思いに囚われる私たちに、主はこう呼びかけているのではないでしょうか。下と後は見るな。前にいる私だけ見てついて来なさい。どこまで来たのか思わずに、私だけを見ていれば良い。ゆっくり ゆっくりバランスをとって一歩一歩歩けば良い。私だけ見てついて来なさい。
過去に、未来に心を奪われることなく、今この瞬間私たちのために祈りながら待っている主に向かって一歩一歩進むことができますように。

年間第9木
マルコ12:28b-34

神を愛することなしに、本当に人を愛することはできるか

ヨハネ第一の手紙4:7にこのように書かれています。“愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。”
 愛は神から出るものだ、と書かれています。「神様を信じなくても、キリストを知らなくても隣人を愛することができる」と思う人がいます。しかし人間の感情というものほどうつろいやすく、また勝手なものはありません。最近、マスコミでよく取り上げられている問題の一つとして、「家庭内暴力」、つまり夫婦同士、あるいは親子同士で起こる暴力、がある。それを見ると、今ものすごく愛した人を、次の瞬間には殺してやりたいほど憎む、という
ことがあるのです。神様を愛して、キリストさまを愛して、愛をいただかなければ、隣人を愛することができないのです。
私たちに対してイヤなことを言ったりしたりする人、さらに私たちのことを憎んだり、悪口を言ったりする人を愛することは難しいのです。私たちは、私たちの悪口を言う人がいれば、その10倍の悪口を言いふらしたくなるものです。ですから、私たちに対して悪口を言ったり、イヤなことを言う人を
愛することはほんとうに難しいのです。
 だいたい、ふつうはそんな人を愛そうなどとは思いません。私たちの悪口を言ったりする人がいれば、逆に10倍の悪口を言いふらして、あとは関わらないようにするでしょう。だから、そんな人を愛そうなどとは決して思わないことでしょう。しかしなぜ、そんな人を愛そうとすることになるかと言えば、それはただ、神さまが、そしてイエスさまが、「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃっておられるからという他はありません。神さまが、イエスさまがそう命じておられるから、私たちは初めて、イヤな人でも愛する、ということを考えざるをえなくなるのです。そして、その難しさに頭を抱(かか)え、愛することのできない自分を発見するのです。


年間第9金
マルコ12:35-37

地上の生活の改善が「救い」ということか?

「この人が王になれば良くなる」「この人が総理大臣になれば、生活は楽になる」「この社会が変われば、幸福になれるはずだ」‥‥と、そのように人間が考えてきたのです。
しかし、ではそのことによって、「救い」ということが起きるのか、と言えば、そうではないと言えます。なるほど、現在の日本は、資本主義が発達し、ものが豊かになり、医療も進歩しました。長寿が当たり前のようになりました。
 しかし、だから「救われている」ということができるのでしょうか? たとえば、人は「死」を免れるようにはなっていません。人は必ず死にます。また、いくらものが豊かになっても、人間の不平や不満は無くなることがありません。ストレスから精神を病む人もむしろ増加しています。生きるこ
とに対する心配の種は尽きないのです。 イエスさまの問いは、そういう問いであるといえます。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。
」生活を改善してくれるのがメシア(救い主)なのか。独立を勝ち取ってくれる指導者がメシアなのか‥‥。メシアとは、この地上に生きている間だけ、私たちが毎日を生きることについて、物質的に改善してくれる人のことなのか、ということです。イエスさまの言葉は、旧約聖書の詩編110編の中の言葉です。ダビデ王が昔詠んだ詩です。
 この中で、最初の「主」は父なる神のことを指しています。次の「主」は、主人の主であり、メシア(キリスト)を指している、ということです。つまり、父なる神である主が、キリスト(メシア)である「わたしの主」におっしゃったと。
 ダビデはこの時から千年も前の人です。そのダビデが、すでにメシア(キリスト)を聖霊によって見ていたというのです。つまり、本当のメシアとは、ダビデ王の生きた時代にもおられた。神と共に、時空を超えた永遠に生きておられる方であるということが暗示されているのです。そのように、本
当のメシアとは、私たちに永遠の救いをもたらしてくれる方であるということが、暗示されているのです。
私たち教会は、そのメシア、すなわちキリストが、今から二千年前に十字架にかかられ、そして復活されたイエス、その方であると告白しているのです。このキリストが、聖霊によって、今も私たちと共におられ、私たちのことを愛してくださり、共に歩んでくださる。そこに、救いがあるということ
です。この世においては、キリストと共に歩んで、この私たちの生きる重荷を負って下さり、来たるべき世においては、永遠の命を与えて下さる方として存在されていると、告白しているのです。
 「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13:8)
-----------------
これは詩篇110篇からの引用で、この詩は元来、王の即位式に詠まれたものです。その場合、「主」は神を指し、「わが主」は新任の王を指しています。神によって立てられた王は、神の御業の代行者なのです。王の戦いは神の戦いであり、王の敵は神の敵でした。王は神より権威を賜ると共に、知恵や力をも賜るのです。

イエスの十字架と復活を見て、イエスこそ待望の救い主キリストであると信じた原始キリスト教団の人々は、この詩をメシア預言の詩として解釈し、イエスの出来事に当てはめました(使徒行伝2・34以下、コリント第一書15・25、ヘブル1・13、10・12、マタイ26・64、マルコ14・62、ルカ22・69) そしてこのように読み換えたのです。その詩の題は「ダビデの歌」であるから、ダビデが詠んだものである。それで、最初にくる「主」は、主なる神を指すが、次に来る「わが主」は、ダビデが霊感を受けて、到来するキリストなるイエスを予見して、イエスに対して「わが主」と言ったのである。それ故に、ダビデが「わが主」と呼びかけて尊敬したキリストが、どうしてダビデと同等の、「ダビデの子」であろうか、という論旨なのです。つまりマルコは、イエスはダビデ以上の存在であると言いたいのです。

「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死人の中からの復活をもって、力ある神の子と定められた。即ち、私たちの主なるイエス・キリストである」(ローマ書1章3~4節) これが使徒パウロのキリスト論であり、原始キリスト教団が一致を見た信仰告白でした。
 ガリラヤの田舎町ナザレに育ったイエスが、神の国の到来を宣べ伝えて権力と衝突し、三十数歳で十字架上に刑死した。その後、復活のイエスに出会ったと証言する弟子達が現われ、イエスはキリストであると信じてその福音を宣べ伝えていく過程において、ユダヤ教の律法学者達との「キリスト論」論争がありましたが、今日学んだテキストはその一断面を示しています。私達が今日受けている福音の恵みの陰に、先人たちの多くの苦労があったのです。

 

年間第9土
マルコ12:38-44

今日の朗読箇所には人間の二つの対極的な生き方が見られます。第一は、ここで出てくる律法学者のような“人々に見られるため”の生き方で、第二は、なけなしの金を献じた寡婦のような“神によって見られる”生き方です。
もう少し突っ込んでみると、第一の生き方は、人々に見られて、肯定的な反応を得るために懸命であって、謂わば人生を自分で握って、周りから褒められ満足することを求めています。それに対して、第二の生き方は、神によってのみ高められる生き方だと言えます。
この寡婦は人々から顧みられることがなかったばかりか、恐らく神によってその行動が肯定されたことさえ気づいていないでしょう。私たちはどちらの生き方でしょうか。
そればかりではなく、私は、どういう人に関心を持っているか自らに問うてみましょう。見かけか、それとも生き方を見据えているのかと。sese07

------------------
心を空に向けることができる力が命です。空を見てください。そして今自分が持っているものを見てください。何が永遠の命に係わるものか。
真に必要なもの、不必要なものを見分け、選んでいくことができますように。

10 per annum

年間 第十月曜日
「心の貧しい人は幸い」
マタイ5・1-12

「心の貧しさ」は精神的な貧困を指しているのではない。「貧しい」と訳されたことばは、物乞いをするという意味の語からきています。だからこのことばは、「心のこじきは幸いである」と言い換えることもできます。常識で言えば、富んでいるものの方が貧しい者よりはるかに幸せなはずである。それなのに「こじきが幸せ」だとは、一体どう言う意味になるだろうか。誰に何を物乞いをするのだろう。これは心の問題であるから、ローマ政府やユダヤの為政者にたいしてではない。富んでいる人に対してでもない。神に対してである。私達は皆自尊心を持っている。「いまさら神に頼らなくても、自分は自力で生きていける」と考えている。「神を信じるのは弱い人のすることだ。努力さえすれば神など必要ではない」という人もいる。だがイエスは、「人間の力には限界がある。それを認めて、全能の神に頼るのが、心のこじきなのだ」、その人こそ幸いだと教えます。これは一見して、自分の主体性を捨てて弱者になってしまうようであるが、決してそうではない。自分には罪があり、限界のある存在だということを認め、人間の本来の姿に立ち返ることである。そうすれば、神は私達に真の生き方といのちを与えてくださる。(山口)
-----------------
「悲しむ人は幸いである」
なぜ嘆き悲しんでいる人々が幸いなのでしょう。嘆き悲しみを知る人は、慰めというものを知るからなのでしょうか。でもそうであったら、たんなる人生訓です。もちろんイエス様の言葉が人生訓でないとは思いません。でもそれだけでなく、つねに宗教的な意味を持っているからです。ですから慰めというのは、人からのものでもあるでしょテが、それ以上に神からのものと考えられます。なぜなら、神から受ける慰めこそ絶対的なものであり、けっして失われることのないものですから。だとするならば、嘆き悲しみというものも、神のための嘆き悲しみでしょう。私の理由で悲しいのではなく、神の悲しみを私の悲しみとして嘆く、ということではないでしようか。
神は人が不幸になると悲しみます。人が幸せになると慰められます。神の悲しみを私の悲しみとする時、私は私の本当の幸せを望んでいることになり、神の慰めを味わうのです。私の罪を、私のためでなく、神のために嘆く時、神のゆるしと慰めを受けるのです。(静)

年間 第十火曜日
「地の塩」
マタイ5・ 13-16

塩は料理に入れると溶けてしまって塩としての形は完全に消えてしまいます。消えますが、塩がもたらす味は全体を包んでおいしくします。料理全体から考えると、塩はとてもわずかですが大きな影響を与えます。キリスト者はそのような存在だとイエスは言います。全体の中ではわずかですが、社会全体に大きな存在の意義を持っています。社会を人間のための社会に変える力を持っています。大きな力、圧倒するような力によって社会に影響を与えるのとは意味が全く違います。大きさでもって影響を与えるのではなくて、その社会のなかに溶け込んで、たとえば市場経済の社会、お金のための社会を人間のための社会に変えます。(ステ)キリストの受肉の原理にもとづいて、キリスト者も目立たないような形で、皆から喝采(かっさい)してもらわない、業績が見られないような形で、社会を中から変えて来たし、これからも世界を変えるために十分な力をいただいています。もし私達には無力感があるならば、今の社会とはタチウチ出来ないと思うことがあるならば、おそらく私達は、深く反省すべきであろう、塩気を失ったかどうかと。
---------------------
ともし火は昼の明るさの中では不要のもの。しかし、そのかすかなともし火も、夜の闇の中では辺りのものを照らし出す。イエスは、弱さや貧しさがたくさんあるわたしの中に、塩味や闇を照らす光を見て、呼びかけてくださっているようです。
主よ、わたしの中にある塩味、光に気付かせて下さい。あなたの愛の道具となれますように。

年間 第十水曜日
「律法の完成」
マタイ5・17-19

「他力本願」という言葉があります。たいてい、マイナス的な意味で使われることが多いかもしれません。他人任せ、他人依存、成り行き任せ。 それに対して、「自力本願 」という言葉もあります。これは、もっぱら自分の力に頼っていきることでしょう。 律法を守るということに関しては、自力はだめでしょう。今日の第一朗読にもありましたように、民は預言者の働きにもかかわらず、神から逃げる。人間は自力で正しく生きることはできない、これは旧約聖書の長い経験が教えることでしょう。 キリストが必要であった。キリストだけが、キリストお一人、律法を成就させました。キリストは、できない人間の「身代わり」になって、道を示しました。私たちは、このキリストに結ばれてこそ、正しく生きることができるのです。 やはり、他力です。マイナス的な意味ではなくて、プラス的な意味で。他人任せの代わりに、キリストに任せ、他人依存ならぬ神依存、成り行き任せではなく、神のみ旨のままに、と。ところが、他人任せという時に、他人ということには、強い実在感があります。キリスト任せという場合は、どれだけの実在感があるでしょうか。また、自分はどのような傾向でしょうか。他力傾向なのか、それとも、自力傾向なのか、今日、これについて考えてみましょう。
 -------------
と預言者は、「神と隣人を愛せよ」というただ一つの命令を実践することによって成就します。「小さなことにも忠実であれ」(ルカ16・10-12)というイエスのことばを、ユダヤ人キリスト者の指導者たちに適用すると、愛について教えるだけでなく、実行しなければならない、小さな掟を実行する者こそ偉大なものだということになります。
律法を守るというのは大変難しいですので、外面的なものになってしまいがちです。「そうしなさい」と言われても、それを聞いているだけでよいはずがない。ところがユダヤ人はそうなっていた。これは律法のワナだと言えます。どの時代でもそういう問題があると思う。献金さえしていればそれでいいとか、日曜日のミサにだけ出ておればそれでいいとか、、、、。信者の義務は、これとこれです、これだけしておれば、「それでいい」ということを言い出すと、信仰はおしまいです。たとえば、親子の間でも、親の義務はこれとこれですというようなことになると、親子の関係はこわれてしまいます。信仰というものは、そのように何かこれを持っているとかこんなことをしているとかいうことでうすっぺらになってしまったのでは、心からのものは死んでしまう。キリストはただ一人律法を全部守り、完成されました。私達は自力で律法を部分的にでも守ることができない、ですからキリストに頼るしかないのです。
----------------
推理小説は、最初に犯罪が起き、それを刑事や探偵が犯人を突き止めていきます。わずかに残された物的証拠、目撃者の証言、アリバイの裏付け‥‥。そういったものを丹念に集めて、犯人へとたどり着いていきます。
しかし旧約聖書はいわば小説の前編(第一巻)です。ですからまだ犯人は捕まっていないのです。未完成です。未完成ではありますが、その前編がなければ、新約聖書という後編(第二巻)もまた、ないのです。旧約聖書という前編は、少しも間違っていない、「一点一画」に至るまで、失われてはならないのです。証拠や証言が一つも失われてはならないのです。
わかりやすく「推理小説」と言ったので、これは「純愛小説」でも構わないし、「歴史小説」でもかまわない。ただ違うのは、ふつうの小説と違うのは、推理小説や純愛小説などは、他人事であるということですが、これは私たち自身の運命に関わる物語だということです。そしてそれは事実である、私たちの運命に関わるノンフィクションの物語だということです。
旧約聖書だけで終わっていたとしたら、それは失敗と挫折の歴史です。未完成です。しかしそこに究極の「神の義」があらわされた。それが新約聖書です。イエス・キリストの出来事です。こうして私たちの命運を握る物語が完成していくのです。救いが完成していくのです。(nibanmati)

年間 第十木曜日
「律法学者やパリサイ派の人以上の義」
マタイ5・20-26

アウグスティヌス。ここで言われていることは文字通りとるなら、兄弟は立ち会っているときにこうすべきであると、誰かが思うかもしれない。というのは、「祭壇の前に置きなさい」と命令されているからには、長く先にのばすことできない。もし兄弟は不在なら、それは海の彼方にいるかもしれないので、祭壇の前で置いた後に、海を渡って大陸を渡ってから神に捧げものをすると思うのは不条理である。この不条理をさけて理解するために、霊的意味に訴えるべきである。従って、祭壇の意味を霊的にとって、信仰であると考えることができる。神へのいかなる捧げもの、学問、祈り、その他何であれ、信仰なしには神に喜ばれることはない。従って、もし兄弟を傷つけたなら、和解に向かうべきである。それは、体の足でではなく、魂の運動で、捧げものを捧げるべき方の御前で、謙虚で心を込めて兄弟の前でひざまずく。こうして、兄弟が立ち会っているかのように、見せかけではないように傷を宥めることができる。そして、「戻ってきて」つまり、し始めたことに注意を向き直し、捧げものを捧げることができる。(トマス・アクィナス著、Catena aurea: glossa continua super Evangelia, 第 1 巻、caput 5, lectio 14)
---------------
律法学者やファリサイ派の人以上に義しくなければならないとは、大変厳しいお言葉です。彼らほど義しさを追求した人々はいないのですから。ただイエス様は「天の国へ入れない」と言います。これは宗教の分野のことを指し、当然のように「宗教的義しさ」を言っていることがわかります。律法学者やファリサイ派の人が追求した義しさは、むしろ道徳的義しさと言ってよいでしょう。道徳的に正しい人は人間の国で受け入れられ、賞賛されるのです。人をだまさず、うそをつかず、不正をせず、宗教の定めをきちんと守っていれば立派な人と見なされ、人々の尊敬を集めるのです。しかし宗教的義しさは、人の目に義しくあることではなく、神の目に義しくあることです。外的な行為の義しさではなく、内的な思いの義しさです。いくら外の行動が美しくても、心の中に美しさがなければ、宗教的美しさはないのです。逆もそうで、外的に美しくないように見える行為も、心のあり方によって、宗教的に美しいこともあるのです。(静)
--------------------------------
律法学者やファリサイ派の義(正しさ)が外面的なものです。キリストが求めているのは、内面的な正しさ、心が正しいこと、です。例えば、誰かに腹を立てていてどうしても腹の虫が収まらないとき、私の心は穏やかではありません。その一点を深く見つめてみると、腹を立てていることで私自身が裁きを受けているのだということに気づかされます。
主よ、兄弟と和解するために、私に落ち着きと勇気を与えてください。(seseragi06)
---------------------------
今日の福音書は、近くにいる隣人を愛しなさいと教えています。兄弟に対するののしりや怒りは隣人にまで燃え広がることになることもあるのですと。心に灯(とも)された愛の火は平和を、人々の幸せを、そして和解をもたらします。これは神の喜ぶささげものです。会神へのささげもの、神への礼拝と同等に紹介されています。兄弟との和解と神を礼拝することは同一のことなのですと。
主よ、あなたがお喜びになる供え物をささげることができるよう、人を心から愛する恵みをお与えください。

年間 第十金曜日
「しかし、私は言っておく」
マタイ5・27-32

イエスは外見的に悪い事していなければそれで十分なのだという安易な考え方に挑戦します。殺人、姦淫、偽りなどという行為は、突然現われるものではないはずです。衝動的と思われるものでも本をたどってみれば、形となって外に現われるまでには、心の中でのつみかさねがあったはっずです。大きくはっきりとだれにでもつかめるあやまちとなる以前に、隣人を傷つけたり、おとしめたり、自分のわがままのために他人を押しのけたり、人を人とも思わず、傲慢に人を批判したり、軽蔑したりする心のうちなる動きがあったはずです。私達の周囲にくり返し、たえず現われる、戦争、殺人、強盗、わいろ、さぎ、レイプ、暴力などは、そうした根っ子からふきでてくるのです。私達のうちには、自分でも計ることのできない暗い欲望の淵が生きています。それは自分で見定めることもできず、ときには自分で抑えることもできないほど、あらしのように荒れ狂うときもあります。「しかし、私は言っておく」とイエスがいうとき、イエスは殺人や姦淫という外面よりも、むしろ、そうした行為の根っ子である人間の欲望を指摘しようとするのです。私達が、自分のうちにある醜い不条理な欲望に対決していくことを求めているのです。それが、いつまた外に形をとって現われるか、わからないのです。(森)
---------------
手を切り捨て目をえぐり出せ、教会は(どの時代でも)この言葉を文字通り実行すべきだと受け取っていない。もしそうしたのであれば、教会は片目片手のない男で溢れたことでしょう。また、片目片手を捨てたからといって、残った目で心の中の姦淫を犯さなくなる保証はありません。当然、この言葉は象徴的に理解されてきました。すなわち、心の中で姦淫の罪を犯さないために、イエスの弟子は自分にとってもっとも価値あるものも放棄する覚悟が必要である、という理解です。
この理解は、目や手に「右の」という形容詞がついていることからも補強されます。すなわち最も価値のあるものを意味します。それをも切り捨てる覚悟が、ここで求められているのです。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/MAT_11.htm#top
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。(ルカ14、26)
キリストの弟子となることは、個人の内面、生活の最もプライベートな領域にまで食い込むことであると。外面的なものではない。

年間 第十土曜日
「誓ってはいけない」
マタイ5・33-37

誓うということは、何を表すのでしょうか。人はなぜ誓いを立てるのでしょうか。天に誓って、地に誓って、この白髪頭(しらがあたま) などに誓って、おおげさに誓ってみせて、結局おのれの正しさを主張することなのです。自分の言っていることは本当だと、自分の絶対の正しさを人に認めさせようとするのです。
しかし、天は神の玉座(神のもの)、地は神の足台だとイエスは言います。あなた達は髪の毛一本も、白くも黒くもできないのだ、と言います。これは白髪染(しらがぞ)めのことを言っているのではありません。それはしょせん見せかけですから。ただ自分の正しさを証明する道具として神を引き合いに出すな、ということでしょう。
天の父は、髪の毛一本一本を数えておられる、つまり神は天地を統(す)べ治めておられる、というのです。私達は神を統べ治めて、私の正しさのために神を利用してはいけないというのです。神の正しさを証明するために、私を誓いとしてささげるのです。神の愛を証しするために私自身を利用していただき、そのためにこの身をささげつくすことを誓うのです。(静)
-----------------------
本日の主イエスの教えは、「誓ってはならない」ということです。『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』というのは、旧約聖書の中に出てくる教えです。
たしかにその通りです。真実を誓って言った言葉にウソ偽りがあったのではどうしようもありません。何を信用してよいやら分からなくなってしまいます。ですから、誓った以上はそれが果たされなくてはならないでしょう。
しかし同時に私たちは、そういう誓いの言葉というものを守るということが難しいことを知っております。すぐに私が思い浮かべたのは、国会で政治家が証人喚問などをするときです。これは真実だけを述べることを誓い、約束するわけです。しかしそれがいかにいい加減なものであったかということを、国民はイヤと言うほど見せつけられました。選挙の公約もそうでしょう。私はいい気になって政治を批判しようというのではありません。私たち自身にも同じことが言えるのです。


イエスさまは「誓ってはならない」と言ったが、教会では誓っているではないか、と思われる方もあるでしょう。
例えば、教会の結婚式でも誓います。

しかし、この教会の結婚式での誓約=誓いは、このあと司祭が2人のために祈るのです。そこを忘れてはならないのです。

つまり、神さまがその2人の気持ち、約束を祝福し、守るように支えて下さい、ということです。神さまが支えて下さらなければ、誓い、約束すらあやふやとなって行くであろうことを前提にしているのです.

結婚式だけではありません。私たちが、クリスチャンとなるとき、キリストについていこうと決心するとき、つまり洗礼式の時も、誓約をいたします。これも、クリスチャンとなった最初のころは、新しく生まれ変わった喜びに満たされ、誓いの言葉も心から告白できるとしても、やがてマンネリ化する、あるいはつらいことに出会う、時には試練にさえ出会うことがある‥‥その時、同じ言葉を持って告白できるか、ということです。「やはり神などいない!」‥‥そう叫びたくなるような時に、はたして「私は主を信じる」と言い続けることができるでしょうか?


洗礼式の誓約の時にも、祈りがそのあとにあるのです。祈りをもって洗礼が成り立つのです。洗礼を受けた兄弟姉妹が、神の支えによってはじめてその後を歩んでいくことができるのです。神がその告白を支え、あらゆる危害から守ってくださり、導いていって下さるように祈る‥‥その時初めて洗礼が成り立つのです。クリスチャンの新しい歩みができるのです。
祈りなくして誓いというものは成り立ちません。これは、聖霊の支えなくして私たちは進んでいけないということです。

大学の先生は英語でProfessorといいます。これも、ラテン語語の語源profiteorをたどって行くと、誓いというようなものです。公にみなの前でPRO、真理をのべることを職業としているという意味です。

私たちの誓いは、政治家のようなものではなく、せめて結婚式、あるいは洗礼式のような誓いになるように今日祈りたいと思います。