葬儀ミサ説教


葬儀ミサ説教

イエス・キリストの復活を信じることは人間の力ではできない。すなわち、人間がどのように頑張っても、イエス・キリストの復活を信じることは出来ません。それは、死んだ人間が生き返るなんて今まで一度も無かったからです。人間は死ねば、それで終わりでした。一巻の終わりです。その後はないのです。もう二度と会えないのです。いくら立派な仕事をしても、いくら立派な人格者であっても、いくら善行を積んだとしても、死んでしまったら、二度と生き返ることはないのです。これは変えることの出来ない事実でした。ですから人間であるイエス・キリストが生き返る話は信じることが出来ないのです。

それでは、なぜキリストの復活がしんじられないのかを考えてみましょう。それは、人間の罪に原因があります。「罪の支払う報酬は死」とローマの信徒への手紙(6:23)に書いてあるように、罪の結果 は死であって、けして命ではありません。永遠の死は私たちの内にありますが、永遠の命は私たちの内にありません。したがって、私たちには死を考えることが出来ても、永遠の命を考えることが出来ないのです。私たちのうちに永遠の命に至る正しさがないからです。

復活が信じられない第二の理由は、どちらかといえば、心理的な反発からです。信じられないというよりも、信じたくないといった方がよいかもしれません。つまり、死によってこの世の苦しみから解放されたいと願う人たちにとっては、無意味な延命はごめんこうむりたいと願うことでしょう。復活してまで苦しい人生を続けたくはないという気持ち、この気持ちも人間として理解できないわけではありません。

弟子たちは素直に復活を信じたのかといえば、決してそうではありませんでした。イエスの墓が空っぽであったことを最初に発見した婦人たちの報告を聞いたとき弟子たちは「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)とはっきり聖書は記しています。

それでは、最初に空の墓を発見した婦人たちはどうだったのでしょう。マルコによる福音書の記事はとても印象的な終わり方をしています。

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:8)

 恐ろしさのあまり、正気を失うほどの衝撃的な体験だったというのは、喜ばしい復活の出来事を書き表すにはあまりにも薄気味悪い表現です。報告を聞いた弟子たちが、婦人たちの言ってることが「たわ言のようの思われた」というのももっともだと感じられます。

 しかし、誰もが信じられないと思っていたところに、かえって「何かが起こったに違いない」という印象を強くされます。 さて、キリストの復活は事実であったのかという疑問もさることながら、もっと興味のあることは、聖書がそこでどんな意義を説き明かそうとしているのかということです。もし、その意義付けがなければ、キリストの復活を信じる意味が失われてしまいます。

復活は事実だと信じても、それが、もし、私たちにとって意味のないことであれば、いくら事実であっても、私たちの人生に何のインパクトもあたえません。

ところが、キリストが復活されたということは、死が終わりでないことを、私たちに教えてくれます。キリストの復活を信じる者たちも、やがて、復活にあずかることができるのです。もし、私たちの人生がこの世のものだけなら、生きているうちに好きなことをして、楽しめるだけ楽しんでおけば良いということになります。パウロの時代も、そうした生活をしている人が多くいたようで、パウロは、この手紙の32節で、その人たちのモットーを引用しています。「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」しかし、私たちは、死のかなたにも輝かしい将来があることを知っているので、正しい生活に励むことができるのです。キリストの復活によって、私たちは生活の方向を定めることが出来るのです。

パウロも、きょうのコロサイの手紙のなかで、天を見つめるように呼びかけます。「上にあるものを求めなさい、そこにはキリストが神のの右の座についておられます。地上のもではなく、上のものに心を向けなさい。

(祈り)

 父なる神さま、キリストの復活が無ければ、私たちの人生はどんなにか、無意味なものになっていたでしょうか。しかし、事実、キリストはよみがえられました。キリストは生きておられます。このキリストの復活の事実が、私たちの生活の中に働くように、私たちの信仰を、もういちど新しくしてください。人々が「キリストは生きておられる」ことを私たちの中に見いだすことができるまでに、私たちを導いてください。主イエスの御名で祈ります。

通夜の説教


通夜の説教


私たちはいつ、どういうふうに死ぬのでしょうか・・・。長い病気を経て、ゆっくり立派に死の準備ができ、ゆるしの秘跡、ご聖体、並びに病者の塗油を意識しながら受けて、それから静かに死ぬ恵みをいただけるのでしょうか。それとも、突然に倒れて、意識不明になって死ぬのでしょうか。あるいは、事故にあって、自分が知らないうちにあの世へ渡るのでしょうか。
 イエズスさまがおっしゃったとおり、死は泥棒のように、予想していないときに襲ってくることもあるから、いつも目覚めていなさい、準備しなさい、ということになります。

人には死という最後があります。草や木、空の鳥や野の生き物、自然界に生きるすべての物に終りがあるように、人にも死という最後があります。その死という最後を、私たちは毎日の忙しさ、あわただしさ、わずらわしさに、思い浮かべることも稀にしかありません。
しかし、私たちが、日常生活の忙しさ、あわただしさ、わずらわしさに、いくら束の間忘れ去っていようとも、死は私たち一人ひとりに確かな足音をもって、そして誰一人例外なく忍び寄って来るのです。

 死とは何でしょうか。人の死とはいったい何でしょうか。肉体と霊魂の破滅でしょうか。生きていた人間が無へと帰っていくことでしょうか。それとも、ただ謎なのでしょうか。

 死を体験したことのない私たちは、経験から死を語ることは出来ません。しかし、キリストを信じる私たちは、キリストの言葉から死の神秘を解き明かす術を知っています。

 キリストによれば、死は復活する日までの仮の住まいの場なのです。人は皆、新しい命へと復活するために、死という暗く、悲しい闇を通らなければならないのです。

 生きている私たちは、親しい者の死を体験する時、そのあまりに辛く、悲しい闇の深さに、身を焼かれる程の苦しみを味わわなければなりません。親しい者との別れほど私たち人間にとって悲しいことはないからです。

 別れは誰にとっても辛く、別れは誰にとっても悲しい出来事です。しかし、キリストを信じる者の死は、何も見えぬ真っ暗な中の悲しみではありません。死の彼方に、悲しみの彼方に一筋の光の見える悲しみです。

 その光とは、復活という光。キリストが約束して下さった復活という光。私たちは、死という暗闇を前にした時でも、その一筋の光から目をそらしてはいけないのです。

 今、平田さんは、私たちが遥か彼方に小さく見えている光、その光を体いっぱいに浴びて、暖かな神の恵み、永遠の憩いの中で、やすらかに生きているに違いないのです。

 教会のたくさんの方に慕われた平田さん。その平田さんが亡くなられてまだ3日。家族の方、生前親しかった方、皆さんの悲しみの涙が、まだ乾いていようはずもありません。

 しかしこの場は、ただ悲しみの場ではありません。もう一度悲しみを呼び起こす場ではありません。

何よりもこの場は、残されたご家族が、皆さん一人ひとりが、自分の人生を精一杯生きることを誓う場なのです。なぜならば、そのことだけが天の国へ召された平田さんに対し、私たちが送ることのできる、ただ一つの捧げものだからです。

 神を信じ、その生涯を誠実に生きた平田さん。その平田さんに今イエス様はこう言っているに違いありません。

「平田○○、来たれ我がもとへ。休ませてあげよう、お前は最後まで私の十字架を担ったのだから。

地上のあらゆるものは、時とともに過ぎ去り、消えていきますが、それらのものの奥にある永遠のものに思いを向けたいと思います。この信仰の基礎は、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」というイエスの約束です。今日、世を去った人々のために祈り、また、私たちのためにも、御心を行う勇気と光を願います。sese04

トマスのグロッサ、マタイ5章23-24


 Augustinus. Si autem quod hic dicitur, accipiatur ad litteram, fortassis aliquis credit ita fieri oportere, si frater sit praesens: non enim diutius differri potest, cum munus tuum relinquere ante altare iubearis. Si vero de absente, et, quod fieri potest, etiam trans mare constituto aliquid tale veniat in mentem, absurdum est credere ante altare munus relinquendum, quod post terras et maria pererrata offeras Deo. Et ideo prorsus intro ad spiritualia refugere cogimus, ut quod dictum est, sine absurditate possit intelligi. Altare itaque spiritualiter fidem accipere possumus. Munus enim quod offerimus Deo sive doctrina, sive oratio, vel quicquid aliud, Deo acceptum esse non potest nisi fide fulciatur. Si ergo fratrem in aliquo laesimus, pergendum est ad reconciliationem, non pedibus corporis, sed motibus animi, ubi te humili affectu prosternas fratri in conspectu eius, cuius munus es oblaturus. Ita enim, ac si praesens sit, poteris eum non simulato animo lenire veniam postulando, atque inde veniens, idest intentionem revocans ad id quod agere coeperas, offeras munus tuum. (Sancti Thomae de Aquino Catena aurea in quatuor Evangelia Expositio in Matthaeum a capite V ad caput IX, caput 5,lectio 14)

「捧げものをしようとしているときに、あなたの兄弟に恨みがあると気づいたら、捧げものを祭壇の前に置きなさい」(マタイ5:23-24)
アウグスティヌス。ここで言われていることは文字通りとるなら、兄弟は立ち会っているときにこうすべきであると、誰かが思うかもしれない。というのは、「祭壇の前に置きなさい」と命令されているからには、長く先にのばすことできない。もし兄弟は不在なら、それは海の彼方にいるかもしれないので、祭壇の前で置いた後に、海を渡って大陸を渡ってから神に捧げものをすると思うのは不条理である。この不条理をさけて理解するために、霊的意味に訴えるべきである。従って、祭壇の意味を霊的にとって、信仰であると考えることができる。神へのいかなる捧げもの、学問、祈り、その他何であれ、信仰なしには神に喜ばれることはない。従って、もし兄弟を傷つけたなら、和解に向かうべきである。それは、体の足でではなく、魂の運動で、捧げものを捧げるべき方の御前で、謙虚で心を込めて兄弟の前でひざまずく。こうして、兄弟が立ち会っているかのように、見せかけではないように傷を宥めることができる。そして、「戻ってきて」つまり、し始めたことに注意を向き直し、捧げものを捧げることができる。(トマス・アクィナス著、Catena aurea: glossa continua super Evangelia, 第 1 巻、caput 5, lectio 14)