納骨式


納骨の祈り

司:ただいまから2012年06月17日に神様の元に召されたフランシスコ平田  の納骨の式を行います。

聖歌

聖書の朗読
司:神はキリストの死と復活によって、信じるすべての人を復活の希望で満たしてくだします。聖書の言葉を聞きましょう。

使徒ヨハネの手紙  (1ヨハネ314,16ab)
愛する皆さん、わたしたちは、自分が
死から命へと移ったことを知っています。
兄弟を愛しているからです。
愛することのない者は、
死にとどまったままです。
イエスは、わたしたちのために、
命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました。   

司:祈りましょう。
いつくしみ深い神よ、
あなたは御子キリストの死と復活によって、信じる者に永遠の命と復活の希望を与えてくださいました。ここに葬られる者を、復活の日まで安らかに憩わせてください。
復活であり、命であるキリストによって、永遠の命を受けることができますように。私たちの主イエス・キリストによって。

一同:アーメン

聖歌

潅水

司:皆さんも聖水をふってください。
納骨

司:それでは、納骨をしてください。

結びの祈り

司:祈りましょう。
命の源である神よ、
私たちの兄弟フランシスコ平田  をあなたの手にゆだねます。
残された私たちが、信仰に支えられ、
希望を持って愛に生き、
共にあなたの国に達することができますように。
私たちの主イエス・キリストによって。

一同:アーメン

(遺族代表の挨拶)

司:以上をもちまして、フランシスコ平田  の納骨の式を終わります。

死者


死者

ヨハネ6・37-40


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聖者と死者のコラボレーション

「諸聖人の日」の翌日が「死者の日」。このことを不思議に感じたことはないでしょうか。「聖なるもの」と「死するもの」が自然に結びつくことなど通常ではありえないことです。そのコラボレーションを可能にするところがキリスト教「信仰」の妙なのです。
古代ローマ時代、一般的な「死」は恐れの対象であり、墓場は絶望に満ちた場所でした。ゆえに古代ローマ人は生活空間である城壁の中に墳墓を決してつくらず、城壁の外で葬りの場を設け、死と日常を切り離していました。
そんな通念をキリストの死と復活の福音がすっかり変えてしまいました。「永遠の命」の希望をもって生きた人の墓は、その人の追憶の場になると同時に、その人が生前用いた遺物をも「追憶」のしるしへと変化させました。
 特に信仰のゆえに命を賭ました殉教者への特別な思いが、
「死者」を「聖者」へと昇華させました(古代の聖者はほぼ例外なく殉教者)。「聖遺物」はやがて、その人のペルソナの宿るものとして大切にされ、そこから超自然的な力がもたらされると信じたキリスト者たちが、社を設け、その中心の祭壇の上に「聖遺物」を埋め込むようになりました。すなわち、聖堂は、「墓所」であると同時に、「聖者」のエネルギーの満ち満ちた場となったのです。聖者の葬られた場所は、この地上と神の国をむすぶ結節点でもありす。こうして、キリストの信仰をもって亡くなった「死者」は、「神」と人をむすぶ大切な役割を担うことになりました。
日本人にとって墓場は、葬られた方への生前の感謝を表し保護を願う場という意味が大きいようで、つまりは現実志向かもしれません。一方、キリスト教の墓地は、いずれ帰っていくべき「故郷」、大切な人々と再会できる未来への希望を強く感じさせます。この違いは、キリスト者の「信仰」というファクターから説明できます。
亡くなったあの人は、かならず「天国」にいて神の近くにある。だからこそ、その墓所は神の国と結びつく。永遠の命、そして復活の希望という信仰なしにはこの感覚は決して生まれないでしょう。もちろん、私たちの信仰は「死者の蘇生」を期待するものではありません。その復活がどのようなかたちで実現するか誰も知りません。ただ、二千年前、数百人に示された、「キリストの復活」の証言が私たちに、あのキリストと同じように復活すると確信させているのです。「死は終わりではない」イエス・キリストがみずからお示しになったその出来事のうちに、私たちは「死者」を尊び、「聖者」を追慕し、「またお会いしましょう」という希望のうちに、今、この瞬間を生きることができているのです。

(川村信三・イエズス会司祭)
「聖書と典礼」より

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御父のもとから降ってきたイエスのもとに行き、信じることが、永遠の命を得ることになるとイエスは言われます。しかしイエスと共にいた弟子でさえ、信じ抜くのは難しいことでした。今の私にとってイエスのもとに行くとはどういうことなのでしょうか。実際にイエスに出会った弟子がそうだったように、心の内に不安や恐れ、疑いを感じる時、 理解できない出来事に遭遇する時そこにはイエスがすでにいるのではないでしょうか。またイエスを否定し、心の鍵をしめてしまった時もイエスは私達の心の内に来られているのではないでしょうか。
主よ、私と共にいるイエスを感じとる恵みと、信じる心をお与えください。sese06
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永遠の命を頂けるのは遠い将来の話ではありません。神は復活の命へと、「今」招いて下さっています。今こうして生きている一瞬一瞬が神の御旨の実現ですが、私たちはそのことを受け入れようとせずに、救いを先へとのばそうとします。それではいつまでたっても神様から頂いたこの命を存分に生きることが出来ません。
今ここに来ている「神の国」を見出し、その中に生きる恵みを願います。sese05
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今日は死者の日。地上のあらゆるものは、時とともに過ぎ去り、消えていきますが、それらのものの奥にある永遠のものに思いを向けたいと思います。この信仰の基礎は、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」というイエスの約束です。今日、世を去った人々のために祈り、また、私たちのためにも、御心を行う勇気と光を願います。sese04

死と復活


人が死ぬ。亡くなるといいます。しかし無くなっていない。滅んでもいない。どこかに見失ったわけでもない。
 どこに行ったかはもう分っています。天です。ただ天に帰っただけ。帰天しただけ。
 死は確かに怖いこと。見たことがない。行ったことがない。


< 「空間」と「時間」の突破としての復活 >
 
 確かに私たちは、「空間」と「時間」を前提として日常生活を生きています。「空間」と「時間」がすべてではないとしても、「空間」と「時間」の中で私たちは生きているということを知っています。「空間」と「時間」は私たちが生まれる前からあって、人間の経験に先立って最初から存在し、その枠組みの中で私たちは物事を捉えるのです。 その意味では「空間」と「時間」も創造主なる神さまの被造物の一つであると言ってよいのだと思います。創世記が示す天地創造は、そこにおいて神が「空間」と「時間」を創造されたのだということが理解できると思います。
 私たちは先週の復活祭で主イエスの復活の出来事を祝いましたが、これもまた神の新しい創造であると申し上げることができましょう。週の初めの日の朝早く、まだ闇が開け染めない中で「光あれ!」と神は宣言されたのです。死のただ中に生命が、悲しみのただ中に慰めが、そして絶望のただ中に希望が創造されました。闇のただ中に光が創造された出来事、それが復活でした。パウロ的に言えば、主のご復活において死が死を迎えたのです。主イエスの墓は空っぽなのです。
 墓は、墓地は私たちのこの地上の生涯の終着駅であるかのように見えます。墓の前では、依然として、圧倒的な力をもって死は私たちに君臨しているように見える。墓とは私たちの深い悲しみと痛みと絶望の場であるとも申せましょう。しかし私たちはその墓の前で、キリストの言葉を聞くのです。死の現実のただ中で、死を越えた生命の言葉を聞くのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)という言葉を。このキリストのみ言葉にこそ私たちに死の悲しみを乗り越えさせる力があるのです。
「空間」と「時間」の中に人間が認識可能なすべての出来事は起こると、有名な哲学者カントがいいました。しかし「主の復活の出来事」とはこの「空間」と「時間」を超越しています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。鍵のかかった部屋の真ん中に主イエスは立たれたのです。そしてあの十字架の上に死んだはずの人間が今、目の前に立っている。それはありえないことです。「空間」と「時間」の突破がそこで起こっている。
 これは理性(頭)ではなく、信仰において捉えなければわからない真実であると思います。「空間」も「時間」も神さまの被造物の一つであるとすれば、神さまは創造主なのですから、それらを超越したところにおられるのです。「天」とか「永遠」という言葉は、「空間」と「時間」を越えたところに神が存在しておられるということを指し示す言葉なのです。そして神はそれらを突破したり、それらに介入したりする自由をお持ちのはずです。復活とは私たちの「空間」と「時間」とに閉ざされた現実への神さまの介入なのです。復活を信じることは、「時間」と「空間」に対する考えを広げることをも意味すると思います。

通夜・葬儀


【通夜・葬儀】【マコ5:21ー43 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女】

ちょうど今生きているこの世というのは、お母さんの中の子どものようです。そこから出たくない。そして思います。今のところがいい。このまま留まり続けたい。暖かいし、いつも守られているし。
 しかし本当は体内は闇の中。本当の世界は、お母さんのお腹の外に出たところにこそあります。
 そして最初は、外に出てそのあまりの明るさのショックで、大声で泣き、この世の空気を吸い始めるけど、そこではお母さんが「あぁ、かわいい。やっと生まれてきたね」。そういってニコニコ抱きしめてくれる。歓迎してくれる。
 それと同じように、人間も死ぬと、イエス様が迎えて、抱きとめてくれる。もしも仮にきびしい神様がたとしても、イエス様が守ってくれる。「もうこの人の罪の身代わりに、私がなった。だからゆるして」と神様にお願いしてくれる。だから何も恐れることはない。安心していい。

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 イエス様が、死者を甦らせたことは3度あります。ナインでやもめの一人息子を(ルカ7:15)、ベタニアでマルタとマリアの兄ラザロを(ヨハ11:43;ラザロの場合は4日も墓に入り腐敗が始まっていた)、そして今回、会堂長の12才の娘を。
 死んだ少女を取り巻く人々にイエス様は、言いました。「子供は死んだのではない。眠っているのだ」。この少女は「本当」に死んでいました。しかしイエス様は「眠っていた」と言ったのです。そして死から甦らせました。ここに記されたことは、間違いのない奇跡物語です。しかしまたヤイロの会堂長の少女だけでなく、すべての人に当てはまる話なのです。
 アダムとエバの罪によって死が入り込んだと聖書は教えていますが、とにかく人間は死ぬものです。それは避けられない現実で、死というどうにも超えられない壁があるのが、人間の常識です。
 しかし人間の死は、イエス様、そして神様にとってみれば、ただ眠っているようなものに過ぎないと聖書は述べるのです。この世的に見て確かに人間は死ぬのですが、それだけで終わることはない。永遠の命を人間は持っており、いつか魂・霊が肉・体と共に起きあがり、すべて人は神の御前に立つことになる。
 「神は人間を不滅な者として創造し、御自分(神)の本性の似姿として(人間を)造られた」(知恵2:23)のです。キリスト者が信じるのはこの永遠の命ということです。死んで、肉体が滅んだようにみえても、それで終わりではない。命は続く。人間の生はこの世限りのものではない。

 キリスト教は死と言う常識に挑戦し、ついに否定します。人間はだれもが永遠の命を持っており、世の終わりには、この私という人間も、すべての他の人と共に、体を持った形で復活し、永遠の命を確かに味わうことになる。そしてこの永遠の命があることは、イエス様の十字架と死と、その後に起こった復活の勝利によって、確約されているのです。
 キリスト教を知らない人にはまったく馬鹿げた話でしょう。しかしこの点をどうしても抜くわけにはいかないのです。キリスト教はこのばかげたこと、イエスの死と復活、そして永遠の命の保障を信じ、そのことを証するために、自分の命を本当に投げ捨てた。そういう弟子、証人たちによってできあがった宗教だからです。「永遠の命」と、その証明としての「イエスの十字架の死と復活」。これがキリスト教の中心点です。
 パウロは次のように述べています。
 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです」。
 こう述べたパウロは、実はかつてイエス・キリストを迫害していました。そしてキリスト教の最初の殉教者ステファノの殺害に加わり、多くのキリスト者を捕らえた人でした。そのパウロがこのように復活を証言し、実際命がけでキリスト教を伝えるようになったのはなぜか。なぜ180度生き方が変わったのか。それはパウロが、復活した主に直接呼びかけられ、出会ったからでした。だからこそパウロは、死者の復活、キリストにより与えられた永遠の命の保障を、命をかけて、宣教することになったのでした。
 ○○さんの人生にもいろいろなことがあったと思います。その中には、この世での悲しい別れもあったでしょう。人との誤解やいさかいもあったかもしれません。人との関係の中で、さまざまやり残したことがあったかもしれません。しかしとにかく、○○さんや○○さんとかかわったすべての人たちが、死んで、肉体の眠りにつき、魂が浄めを受けた後、「起きなさい」と呼びかけられる。その時、霊と肉が再び結びついて、皆、起きあがる。この世で傷つけ合った人、会えないつらさを抱えた別々に生きた人、別れた人、そういう人が再会し、互いに認め合い、和解し合い、喜びに浸る。そんなことがあると、私たちは確信し、そのために祈ります。
 「死んだのではない。ただ眠っているだけ」「起きよ」。そのことを信じ、安心し、希望を持ち続けるのが私たちの務めです。こうして私たちも、この世で残された命の使命を、立派に果たしぬいて、いつか○○さんとの再会を果たせるよう努力したいと思います。