2 easter

復活節 第2月
ヨハネ3・1-8

キリストの復活を信じることによって、弟子たちは生まれ変わる体験をしました。イエスはかつてニコデモに語ったことが復活の後に、その意味が明らかになった。私たちは、キリストから聞いたことばはニコデモみたいに素直に受け止めるが、その意味は必ずしも分かると限らない。十字架で行き詰まって、復活する体験で初めて分かることがあります。弟子たちは、イエス様の十字架を見て、裏切り、復活したイエス様にゆるされ、イエス様のすごさを本当に体験したのでした。だからこそ命を捨て、証しすることができるようになったのでした。その伝えによって、キリスト教は成立したのです。
ファリサイ派の教師であるニコデモは、「神のもとから来られた教師」であると認めたイエスから、律法の理解や満たし方について新しい教えを期待していたのでしょう。ところが突然、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」というイエスの答えを聞いて、その意外さに驚きを見せます。ニコデモはイエスの言葉《アノーセン》を「新しく」と理解して、イエスは「もう一度」《デウテロン》(二度目を意味するギリシア語)肉体が生まれることを語っておられるのだと誤解するのです。
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「新たに生まれかわる」とは、肉からではなく霊から生まれた者にかわること、自分の力に頼るあり方から、神の力、神の働きに心を開くあり方へとかわること。神の霊にすべてを委ねる時、私たちは神の国を見ることができます。それは神の正義と憐れみの支配する所です。神の霊が私をどこへ導くのかわかりませんが、心配せずに神の息吹に信頼しましょう。その時、希望と平和、喜び、慈しみに満ちた神の国に導かれるのです。
主よ、復活の栄光に満ちたあなたを信じます。「自分」という思いを取り去ってください。み旨のままに新しく生まれかわることができますように。

復活節 第2火
ヨハネ3・7-15

私たち人間は生きながら天に上り、上からこの世を眺めることはできません。この世の価値観の中に生まれて生きる、地からの者です。しかしイエス様だけでは、天からの者だと言われています。その天からの者が、この世に下りてきたと言うのです。天が上、地が下という空間的な意味ではなく、これは神の子のへりくだりを示す言葉でしょう。つまりこの世の価値観の中に、神の価値観を持ち込んでこられたのです。じつは、この世をこの世たらしめているのは、神の価値観なのですが。
私たち人間は、この世の価値観ですべてを判断しがちです。自分の立場から語るのであって、神の側に立つことは難しい。しかしイエス様は、神の側から語られたみ言葉です。つねに神の側に立って考え、それをこの世の言葉で語るのです。神の側と人の側の両方に立てる方なのです。ですから、この世の言葉であって、この世の言葉ではないのです。だからこそこの世を救う言葉なのです。私たちはこの世の価値観を、神に押しつけてはならないのです。かえってこの世の価値観を、神の価値観で見直さなければならないのです。
この風の比喩で大切なことは、風は「欲するままに吹く」とか、「あなたは風がどこから来てどこへ行くのか知らない」と言われているように、人間は風をコントロールすることはできないという事実です。風があることは、「その音を聞く」ことで分かります。すなわち、御霊の働きがあることは、力ある業(奇跡)が現れたり、人間の在り方を変えるという事実によって知ることができます。しかし、その御霊の働きを人間の側からコンロールすることはできません。御霊は「欲するままに」働かれます。人間は、ひれ伏して、あるいは虚心に、その働きに身を委ねるだけです。
では、どうすれば御霊の働きを身に受けることができるのでしょうか。この問題はすぐ後に取り上げられることになりますが、ここでは御霊の働きが、まったく人間の側の計らいとか努力を超えた、神の側から一方的に与えられる事態であることが指し示されています。
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水のこころ
                   高田敏子

            水は つかめません
            水は すくうのです
            指をぴったりつけて
            そおっと 大切に──

            水は つかめません
            水は つつむのです
            二つの手の中に
            そおっと 大切に──

            水のこころ も
            人のこころ も



         作者(高田敏子 Takada Toshiko) 1914(大正3)~1989(平成1)。




復活節 第2水
ヨハネ3・16-21

闇を照らす光を、光であるがゆえに拒んでいる。そういうものになっていないでしょうか。光より闇を好む。そういう人間になっていないでしょうか。
 百聞は一見にしかずなどと言います。しかし目が見えれば、それで本当に正しいことが見えると断言できるでしょうか。物質的なものが見えること、それはもちろん大事ですが、しかし本当はそれよりはるかに大切なものがあるのです。
 「心の目が見えているのか」。それが神様から今問われています。バルティマイと同じように、私たちこそ「私は何も見えていない人間です。私を憐れんでください。私は目が見えるようになりたいのです」と、何度も何度も叫ぶべきなのです。そして眠りからさめ、光そのものである神に照らされて、立ち上がり、光の中を歩めるよう、回心の恵みを願っていきましょう。

神は肉眼の目で見ることはできません。イエスさまも、天国に行くまでは目でみることはできません。しかし神さまは、信仰によって見ることができます。
聖霊なる神さま。それは目で見ることはできません。しかし、風は目で見ることができなくても、風が吹いた結果を見ることはできます。風が吹いてカーテンが揺れるのを見て、風があることが分かるように、神さまもそのように見ることができるのです。そのように、神の恵みを見る喜び。‥‥神さまの世界が見えてきた、というのはそういうことです。

もちろん、今だって見えなくなることがあります。「自分は見える」「自分だけは見える」と、傲慢になった時に、何もかも見えなくなります。それゆえ、「罪人の私をあわれんでください」とへりくだりながら、主を礼拝する毎日を送りたいと思います。神の恵みを見て歩むためです。
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彼らは使徒たちを捕えましたが、天使が彼らを連れ出したので、使徒たちはいのちのみことばを神殿の中でことごとく語りました。天使の存在を信じないサドカイ派の人たちに対して、天使が登場していることは興味深いです。サドカイ派の人たちは、物理的な方法によって物事が解決できると思っていました。目に見えるものだけが実在しており、目に見える物質的な手段を用いて、使徒たちを捕まえたと思いました。
 しかし、実際は、目に見えない存在のほうが目に見えるものよりも力があり、目に見えないものが目に見えるものを支配しているのです。パウロは牢獄に入っているとき、「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。(Ⅱテモテ2:9)」と言いました。また、主イエスは、「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。(ルカ12:4)」とおっしゃられました。したがって、目に見えないみことばや私たちのたましいは、決して物理的な方法によって縛られることができません。

 ちょっと、どろぼうのことを考えてください。どろぼうは、真昼間にどろぼうをすることよりも、夜にしますね。それは、どろぼうという悪い行ないが明るみに出されるのを恐れるからです。イエスは、この光と暗やみの関係を用いられて、なぜ救われるという良い知らせを拒むのかを説明しておられます。つまり、悪い行ないを愛しているからです。自分が行なっている悪いことを続けたいからです。イエスを信じると、新たに生まれて、罪から離れて生きることを知っています。でも、罪から離れることは嫌なので、イエスのところに来ないのです。人はイエスを信じない理由をいくつも並べ立てますが、その理由はただ一つ、今の生活を変えたくないこと、自分が罪を犯しているのを認めたくないことにあります。

 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 イエス・キリストを信じるということは、真理を真理と認めることです。当たり前のことを当たり前のこととして受け入れることです。
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この御子を信じる者は永遠の命を与えられ、神との交わりに入っているのですから、もはや神からの断絶を意味する「裁き」はありません。それに対して、神との交わりに入るための唯一の道として神が世に遣わされた「ひとり子」を信じない者は、神との交わりに入ることを自分から拒否したのです
から、そのことがすでに神からの断絶、すなわち「裁き」なのです。
こうして、世の光として来られたイエスが、彼を信じるか拒否するかによって、地上の人々を光に属する者たちと闇に属する者たちに分けられるのです。これが裁きです。
「最後の審判」というように、神の裁きと言えば、未来にある、歴史の最後にあるというイメージがあります。 ヨハネ福音書では、神の裁きは将来のことではなく、現に今地上で始まっています。
この意味深いおことばを平べったく解釈すると、ウソに頼らないでいつも真実を求めて生きる人は、一時的にこまることがあっても、損しても、最終的に困ることはない、裁かれない、ということになる。逆に、隠れみのをしながら生きる人間、ネコババ(ねこじじ)しながら生きる人間、「家族のために」、「教会のために」と言いながら、実は自分のためにしか生きていない人は、一時的にうまくいっても、世間から認められても、最終的に裁きを受ける、困ってしまうようになる。神は心を見ていて、神の世界ではごまかしはきかないということでしょうか。
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神の愛はイエスの十字架と復活に示されています。人類のすべての罪を担うという愚かなまでの神の愛は、私たちが真に生き、永遠のいのちを得ることを願うものです。御子を信じる者は、もはや裁きを恐れることはありません。光と真理は神の愛とあわれみ、そのみ言葉のうちに、そして神と人間との喜びにあふれた生き生きした関係のうちにあります。光であり、真理である主と共に歩み、主に仕えるものになりましょう。そこに光が輝き、闇は光に照らされます。
主よ、自分に死に、キリストの光のうちに生きるものとなりますように。


復活節 第2木
ヨハネ3:31-36

「上から来られる方」となっていて、天からの来られたとはなっていないことに注目する必要があります。つまり今でも来られる。負けたように見えながら、その中でこそ神の愛の価値観が勝利したのです。この世の価値観の真ん中に、神の愛の価値観が十字架の形に打ち立てられています。私たちは神の価値観を十字架につけるべきではなく、私たちの不平不満をこそ、十字架につけるべきなのです。この世の価値観で十字架を見るのではなく、十字架の価値観によって、この世と私の人生を見るべきなのです。
地からの者は地に属し、地からのことを語る と言います。私たちのふだんのおしゃべりは、ほとんど地のことでしょう。天のことを語ろうとすると、何となく白けてしまうでしょう。修道院でさえ、いや修道院だからこそ、朝はサッカーの話で始まります。もちろん、地のことを話すことが悪いのではありません。地のことは大切です。また地のことも天のことにつながっており、厳密には地のことと天のことを分けられないのです。私たちは地に足をつけて生きているのですから、まず地のことが優先されても当たり前かもしれません。
  しかし、それでもなお、地のことだけを見ていたら、地のことは見えないことも確かなのです。地のことだけを見ていたら出口はなく、やがて地に失望するでしょう。地のことを本当に大切にしたかったら、天のことから見なければなりません。「天にまします、天におられる」と祈る時、天は上の天だけを意味するのではありませんが、また上の天をも意味します。やはり一日の始めに天を見上げ、それからしっかりと地を踏みしめて生きることが大切なのだと思います。永遠のいのちとは、死後の世界だけではなく、今から始まる。天を仰ぎながら、地上に生きる、これが永遠のいのちを得ることだとヨハネは言いたい。
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イエス以外の者は天から地に来た天界の啓示者ではない、「上から来られる方」、つまりキリストはイエス以外の者は地上で人間として体験した事柄の限度内で語るにすぎないと主張されていることになります。それに対して、「天から来る方(イエス)は、(天界で)見たこと、聞いたことを証ししておられる」のです。 イエスが神と一つなる方として直接神の言葉を語られるのは、神がイエスにご自身の霊を無制限に与えて、ご自身と完全な交わりの中に置いておられるからです。御霊による神とイエスの一体性は、次節で「御父と御子」の愛の交わりと表現され、神性における御父、御子、御霊の三位一体が、地上のイエスの姿に顕現しているとされることになります。
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「御子を信じる人は永遠の命を得」ます。御子を信じるとは、イエスを通してあらわされた神の愛を自分自身の内に満たしていただくことです。御子を受け入れることによって注がれる神の霊は私を神への憧れと一致へと導き、「自分」をむなしくして、ただキリストの命に与ることのみを渇望させます。そして喜びと希望のうちに御子に従う道が開かれます。キリストの十字架と復活を前にして、私たちは「あいまいな立場でいることはできません。懐疑的な知識人、ピラトは、出世のための順応主義ゆえに中立の立場をとろうと、部外者でいようとしましたが、まさにそのために正義とは反対の立場をとることになってしまいました。私たちは自分の立場を知らなくてはなりません。」(ベネディクト16世、聖金曜日:十字架の道行・ 説教 2006.4.14)。「神が”霊”を限りなくお与えに」(34節)なった、ぎりぎり間に合うようなものではないことを信じるかどうかに「永遠のいのち」はかかっています。

聖霊の七つの賜物…イザヤ書2章1~3節の記述に基づき、カトリック教会は聖霊が人間に与える七つの賜物を教えている。上智(知恵)sapientia・聡明(理解)intellectus・賢慮(判断)consilium・剛毅(勇気)fortitudo・知識scientia・孝愛(神さまを愛するこころ)pietas・敬畏(神さまを畏れるこころ)timor Dominiの七つである。
これらを求めると永遠の命を得る。

安定した生活、安全な生活、苦しみのない生活、トラブルのない生活、快適な生活。これを求めるとぎりぎりに間に合うことになる。


主よ、聖霊によって心の扉を開いてください。主の霊に導かれ、神の愛と御子イエスの証し人となれますようにお導きください。
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例えば私たちが聖地イスラエルに行きたいと思ったとします。しかし事情によって行くことができないとします。その時は、どうするでしょうか。イスラエルに行ったことのある人に話を聞くでしょう。そうすれば、行けなかったとしても何となくイスラエルの事情や、自然や気候はどうなっているかとか、食べ物は何がおいしいかとか、どういう暮らし方をしているとか‥‥イスラエルに行ったことのある人が話してくれれば分かるでしょう。 
 しかしもっとはっきり分かるのは、イスラエル人に聞けば一番良く分かるでしょう。そこに住んでいるのですから。そこから来たのですから。
 では「天国」のことはどうか。それはそこから来た方が一番良く知っているに違いありません。しかし「地から出る者」は地から出たのですから、天国のことは分かりません。また旧約聖書にも出てきますが、「預言者」という人たちがいました。預言者は、神の言葉を聞いて、そのまま伝えました。しかしこれも断片的なことしか分かりません。
 そうすると、天国のこと、神さまのことは、天から来られた方が一番良く分かるのです。ではそれは誰なのか、という話しなのです。‥‥それはもちろん、天から来られたただ一人の方、イエスさま、その方であるということです。
私たちは、イエスさまという方をどのように見ているのか。きょうの聖書を読んだ時に、そのことをあらためて、考えさせらるのです。


復活節 第2金
ヨハネ6:1-15

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大麦のパン5つと魚2匹というわずかな食べ物が癒しを求めて集まった大勢の人々のお腹と心を満たしました。イエスはわたしたちの必要のすべてをご存知です。わたしたちは、自分の持つわずかなものを主の前に差し出しているでしょうか。一人占めしていないでしょうか。自分の手の中にあるどんなに小さなものでも、イエスの前に差し出され、イエスによって祝福され、イエスのために用いられるとき、まわりの者と分ち合われ、それは何十倍にも何百倍にもなります。こうして、満ちたりた心と感謝の気持ちを味わうことができます。そこに平和がおとずれます。
いのちのパンである主よ、心の中にあるどんな思いも執着も手放して、あなたに委ねます。どうぞ一人一人の必要を満たしてください。
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私たちはキリストを信じて従っていくという時に、いろいろな心配があります。その心配の一つは、「キリストに従っていって、生活していけるのだろうか?食べていけるのだろうか?」ということがあるだろうと思います。きょうのイエスさまのなさる出来事は、イエスさまがちゃんと養って下さるという答えです。旧約聖書の出エジプト記で、神に従ってエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の放浪生活を体験しました。食べるものも飲み水もないのが荒れ野です。神さまに従って出て行ったのに、荒れ野の厳しい生活が待っていたのです。しかしその時、イスラエルの民は飢え死にしてしまったでしょうか? 飲み水が無くて死んでしまったでしょうか?‥‥そうではありませんでした。何もないはずの荒れ野に、神さまは毎朝地面の上に「マナ」という食べ物が現れるようにして下さいました。そして砂漠では、岩から真清水を流れ出させて下さり、人々の渇きを癒して下さいました。そのように、神さまに従って行った人々を、神さまは養って下さったのです。
 そしてそれと同じ事は、私も体験したところです。私が献身して、修道生活する時に生じる不安は、「蓄えもないのにどうやって暮らしていくことが出来るだろうか?」ということです。しかし神さまは御言葉を通して、献身するように導かれました。それに従っていきました。すると、不思議にもあちこちから助けが起こって、神学校生活を続けることが出来るようになったのです。主が養って下さったのです。

     
 フィリポは答えました。「みんなが少しずつ食べたとしても、200デナリオン分のパンでも足りないでしょう」と。200万円分パンを買っても足りない。フィリポの答えは「それは無理です」「あり得ない」という答えでした。フィリポは、常識的な答えをしたのです。フィリポが正常なのであって、この大群衆を食べさそうというイエスさまのほうがおかしいのです。
 
     御言葉に従う

 するとイエスさまは、弟子たちに群衆を座らせるように命じられました。‥‥座らせるというのは、食事のために座らせたのです。いったい5つのパンと2匹の魚で何をなさろうというのか?
 弟子たちは、イエスさまが命じられたとおり、群衆を地面に座らせました。イエスさまが何をなさるのか、何が起きるのかも分からないまま座らせました。これも大切なところです。弟子たちは何も分かっていなかった。イエスさまが奇跡をなさることも分かっていなかった。何が起きるのかも分からなかった。神の偉大な力にも目がふさがれていました。‥‥にもかかわらず、イエスさまがおっしゃったとおりに群衆を座らせたのです。そのように、分からなくても主の御言葉に従うということです。その結果、たった5つのパンと2匹の魚で大群衆を養うという、主の奇跡を経験することが出来たのです。
 私たちも聖書の御言葉について分からないことが多い。なぜそうなのか、分からないことがある。しかし分からなくても、主イエスを信頼して、その御言葉に従う時に、思わぬすばらしいことを体験するのです。

     感謝をなさる主

 イエスさまは、アンデレが連れてきた少年が持っていた、たった5つのパンと2匹の魚を受け取られると、「感謝の祈り」をなさいました。感謝の祈りをなさったのです。これっぽっちしかないのに、神さまに感謝をささげたのです。
 私たちはどうでしょうか。このような時に感謝をささげることが出来るでしょうか。「これっぽっちしかない」と文句を言わないでしょうか。
 5つのパンと2匹の魚は、人間の手に持っている限りは5つのパンと2匹の魚でしかありません。しかしそれがイエスさまの手に渡った時に、事情が変わるのです。大きく用いられるのです。結果的にその1万人もの人々が満腹するという奇跡が起きました。ここに私たちは、大きな希望を与えられるのです。私たちも小さく少なく、弱い者です。しかしこの私たちが、自らを主のみ手に委ねた時、御言葉に従って委ねた時、それは考えられもしない大きな祝福となるのです。
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車に乗っている人たちの中で、車はどのようにして動いているのか、どんな技術が使われているのかを知っている人は、どのぐらいいるのでしょうか。多分少ないでしょう。けれでも、車が動いていることを疑う人は一人もいないのです。
テレビのスイッチを入れてテレビ番組やニュースを見ている人は、なぜそこに画像が移されているのか、なぜ遠くにいる場所や出来事はこんなに近くに見えるのかを分かっている人は少ないでしょう。けれどもテレビはちゃんと働いていると皆思うわけです。
同じように、私たちはキリストに対する信仰はどのように働らいているのか、なぜこうなっているのかを分からないこともあるでしょう。けれども、キリストの復活を本当に(本気で)信じた人々(例えば、マザーテレサ、ヨハネ。パウロ二世、アルベリオーネ神父など、2000年前から現在に至るまで)の生き方は変わったことは疑えないでしょう。キリストの復活はどうして可能なのか、分かる人は少ないでしょう。しかし、キリストの復活にはすごい力があるということは疑う余地はないのです。
誰か言ったように、信仰はレーダーのアンテナのようものです。レーダー (Radar) は電波を対象物に向けて発信し、その反射波を測定することにより、対象物までの距離や方向を明らかにする装置である。レーダーを使えば、暗くても深い霧があっても、物事は見える。肉眼で見えないものでも、見えるのです。
"Faith is somewhat like a radar. It can see through a dense fog at a distance our eye cannot see" (Corrie ten Boom)

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コーリー・テン・ボーム(Cornelia Johanna Arnolda ten Boom、Corrie ten Boom、1892年4月15日 - 1983年4月15日)は、第二次世界大戦中に多くのユダヤ人をナチスから助けたオランダ人クリスチャン、ホロコースト生残者である。テン・ブームはその体験を、同名の映画にもなった自伝『わたしの隠れ場』の共著で著した。1967年12月に、イスラエルから諸国民の中の正義の人の栄誉を受けた。





復活節 第2土
ヨハネ6:16-21

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「わたしだ。恐れることはない。」この言葉は、湖の上を歩いているイエスを見て恐れている弟子たちを安心させました。夕闇の嵐が吹きすさぶ中で、彼らは、どれほど不安におののいていたでしょうか。しかし救いなどないと思われる闇の中にも神は存在するのです。そこにイエスはおられます。
つらく苦しく、恐怖に負けそうな時こそ、イエスに耳を澄ませましょう。イエスを心に迎え入れるなら、私たちは素晴らしい目的地に着くでしょう。
主よ、困難にあるとき、あなたが訪れてくださっていることに気づかせてください。不安を癒し、目的地に導いてください。

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