18 per annum

年間 第18月曜日  (A年) http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/ 8月2005
マタイ15・1-2、10-14

「聞きなさい、そして悟りなさい」

私たちの耳は、かなり音を選別して聞いています。鳥の声に興味を持っている人は、都会の雑音の中でも、その声を聞き分けます。つまり人間は、自分の好きなものは聞こえ、いやなことは聞こえないのです。つごうのよいことは聞こえても、つごうの悪いことは聞こえないお年寄りを、笑うことはできないのです。神に興味がなければ、神の声も人の出す雑音にかき消されてしまうでしょう。真理を求めていれば、真理の声をいつか聞き分けられるでしょう。見て悟るより、まず「聞け」と言われます。話すことはやさしいのですが、聞くことはむずかしいと思います。学ぶということは、聞くことでしょう。読むことも聞くことでしょう。聞くことからすべてが出発するのです。赤ちゃんも聞くことから発達していきます。
聞くことができれば、悟ることも可能になります。悟りは自分一人でひねり出すものではありません。生きている自然、人、神から聞く姿勢からおのずと生まれてくるのです。
私の天の父が植えなかった植物は、みな抜き取られます。

http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/sermon/ser_home.htm
 
年間 第18月曜日 (B、C年)  年間 第18火曜日(A年)
マタイ14・13-21

人を愛するとは具体的にどうすればよいのでしょうか?イエスと弟子たちの態度の違いから何が感じられるでしょうか?イエスは惜しみなく、自分から人に与えようとします。自分が問題とぶつかるとき、無力さしか感じられないときこそ、自分本位に判断することをとどまって、この日のイエスに問いかけてみたいものです。
どんなに無理な状態だと思えても、愛のちからで奇跡が行われるだろうことに信頼して、自分の持っているもの全てを差し出すことができますように。sese

 
年間 第18火曜日  (B、C年) http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/ 8月2005
マタイ14・22-36

ペトロたちがいどみかかってくるあらしに動転し、混乱します。凡人のようなもろさがばくろされます。
これをみても、神の力強さを体験することが、自分の弱さやもろさを卒業することではないことがわかります。いくら信仰をもっても、迷いやすさ、感じやすさ、崩れやすさ、傷つきやすさは、人間が人間であるかぎりはいつまでもついてまわります。信仰とは、そうした現実の中で神をみつめていく目であり、そうした現実の中で神の愛と力の確かさに自分をゆだねていく行為です。それが、しっかりと自分の心に根づいていなければ、あらしがおこれば、簡単に消えてしまうことになるのです。信仰が軽いものであればあらしとともに、どこかに吹きとんでしまいます。信仰は本来、不安と恐れから人間を解放する力であり、平安と希望を与える光であるはずです。しかしそれは、現実のあらしの中で試され、鍛えられてゆらぐことのないものになっていくのです。日々のどろどろしたありのままの人生の迷いや苦しみの中で、ひざまずき、葛藤しながら、徐々に徐々に根づき、成長していくものなのです。人生のあらしの恐ろしさに圧倒されて、思わず神から目をそらしてしまう自分の心にむちうて、神の方に心の目をあげようとする努力の繰り返しで、本当の信仰が育っていくのです。
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信仰と不信仰の違いは、どこにあらわれるのでしょう。不信仰は、弟子たちに見られるように、恐怖をもたらします。信仰は、ゲネサレトの病人達のように、イエスに近寄る気持ちをもたらします。私たちは、イエスが自分の隣におられることに気付いているのでしょうか、
それともこの世がもたらす「嵐」の恐怖に飲み込まれているのでしょうか。
病人達がイエスを探してイエスがいるところに出向いて行ったように、いつもイエスの姿を求めることができますように。sese





年間 第18水曜日   http://blog.goo.ne.jp/bonazzi/ 8月2005
マタイ15・21-28

「そのときには、私はイスラエルの神となり、彼らは私の民となる」(エレミア31・1)。神様の「時」がある。人間は望んでいることをなさる時がある。福音のカナンの女は、まだその時ではないと言われた。しかし、彼女は願い続けることで、スケジュールを早めた。立派な信仰によってその時を来させた。カナの結婚式の場面でも、「私の時はまだ来ていない」と言われたマリアは、とにかく信じ続けた。それで、その時を先に実現させた。早めに来させた。信仰は山を動かす(マタイ17・20)だけではなく、時を早めることもできる。信仰は、未来を近づける。未来を現在に存在させる。私たちが望んでいることは、いつ実現できるか。私たちが望んでいる福音宣教はいつ実現できるか。待っている恵みは何か。
「はっきり言っておく、あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたがわたしの名によっては何にも願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16,23-24)
「祈り求めるものはすべてすでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11,24)
「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18,19)
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福音書を読み続けてきて、わたしたちはいつの間にか、「イエスさまは、困っている人を助けて当然だ」と思いこんでいないでしょうか。「人が、いっしょうけんめい頼んだならば、イエスさまはその言うことを聞いて当然だ」と思いこんでいないでしょうか。わたしたちに置き換えて言えば、「わたしがこんなにいっしょうけんめいお願いして祈っているのだから、神さまが聞いてくれて当然だ」と思わないでしょうか。
その時、あまりにもわたしたちは、「自分中心」「人間中心」になってしまっているのではないでしょうか。つまり、「この人がこんなに頼み込んでいるのだから、イエスさまは聞いてくれて当然だ」と。「わたしがこんなにお祈りしているのだから、願いを聞いてくれるのが当然だ」、「こんなに困っているのだから、助けてくれて当然だ」、「こんなに頭を下げているのだから、願いが叶えられて当然だ」‥‥もっと言いますか? そして願いが聞かれなかったら、「こんなにお願いしているのに、聞いてくれないとは何事だ!」「役に立たない神さまだ」と言って、席を蹴って行ってしまう。
 しかしそこには、「ではイエスさまの都合はどうなのか?」ということが少しも考えられていないのです。「主はどのようにお考えなのか」「神さまのご計画はどうなのか」‥‥そのように主イエスの御心、神の御心を思い計るということ、神を第一にするということが、なくなってしまっているのです。そのことに気がついた時、きょうの聖書は解き明かせるように思います。
http://www.h6.dion.ne.jp/~nbc/sermon/ser_home.htm
「よく祈り、よく働いて、その他のことはすべて神様に任せましょう」 "I pray hard, work hard, and leave the rest to God." ~ Florence Griffith Joyner
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私たちが本気で求めているものは何でしょうか。きょうだいのために、私たちはどれほど願っているでしょうか。本気で願い求める気持ちがなければ、憐れみ深い神が共におられても、現実の中でそのありがたさを体験することができないでしょう。
私にとって本当に大切なものに気づかせてください。そして何度でも、いくら時間がかかっても、あきらめずに願うことができますように。

年間第18木曜日
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」
マタイ16・13-23

種まきのたとえ話で、種が岩(Petrode マタイ13・5参照)の上に落ちたという箇所があります。そこで、すぐに目を出すが根がないためにすぐ枯れてしまいます。説明としては、迫害に耐えられない信仰と言われます。これは、まさにペトロのような信仰でした。このようなもろい信仰の上に教会を立ててもいいのか。しかも、そこに神の国の「鍵」を授けてもいいのか。

確かにペトロは立派な答えを出します。けれども、おそらくその言葉の中身を誤解しています。十分深く理解していません。しかし、キリストに叱られて、また十字架の体験を通して自分が悪かったということを理解するようになって回心をします。悔い改めます。何回も回心します。使徒言行録の第十章には、ペトロはコルネりウスというローマの軍人に出会って、信仰はユダヤ人に限られるものではないと、自分の考えを改めます。回心、悔い改め、自分が悪かった、考えをあらためる、これらが岩であり、そこに教会が立てられ、天の国への鍵であり、それに黄泉の力は対抗できない。
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イエスさまのことを、キリスト、救い主、神の子であると言い表したことに対して、イエスさまが天の国の鍵を授けられたのです。これが天の国の鍵です。これも肉の目には見えない鍵です。しかし確かにそれが鍵であるということです。
「鍵」というものは、それがないと中にはいることができないものです。自動車のキーを差し込んだまま、車のドアをロックしてしまった経験があります。車をロックしてしまったことがありました。あれは歯がゆいものですね。目の前に自分の車がある。しかも窓からのぞくと、鍵がハンドルの横にぶら下がっているのが見える。しかしドアは鍵をかけてしまっていて、中にはいることができないのです。第3者から見ると、滑稽この上ない光景です。
ではどうしたらその天の国の鍵はいただけるのか? ‥‥イエスさまはなぜペトロに天の国の鍵を授けるとおっしゃったのでしょうか? ペトロが立派な人だったからでしょうか。ペトロが優秀な人だったからでしょうか? ペトロがイエスさまのために良いことをたくさんしたからでしょうか?‥‥いずれも違うのです。イエスさまがペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とおっしゃったのは、イエスさまの問いに対するペトロの答えにありました。
すなわち、イエスさまのことを、キリスト、救い主、神の子であると言い表したことに対して、イエスさまが天の国の鍵を授けられたのです。これが天の国の鍵です。実は、この個所は、キリスト教会にとって、解釈が大きく分かれる個所なのです。カトリックとプロテスタントが、この個所の理解の仕方で分かれると言っても過言ではありません。 カトリック教会では、このときイエス様は、ペトロという人に天国の鍵を授けた、と解釈します。すなわち、使徒ペトロに天国の扉を開けることのできる権能を授けた、ということです。鍵は何本もありません。ペトロが持っている。 
 
 
年間 第18金曜日
マタイ16・24-28

全世界とまで考えていなくても、けっこう些細なことの中でも、自分の理想通りにしたい、支配したい、上に立ちたい、などの思いが密かに生じてくるものです。どうすることが私にとって本当に意味のあることなのか、幸せなことなのか落ち着いて振り返ってみればわかります。力をもって周りの人々を従わせることか、人々と愛し合いながら共に歩んでいくことか。
自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従うことの幸いを、もっと深く悟ることができますように。sese

年間 第18土曜日
マタイ17・14-20

「限界だ!」という時を誰もが体験したことがあるでしょう。限界は何のためにあるのでしょうか?
限界は、次の段階に行くためのしるしではないでしょうか。その次の段階とは限りない信仰の世界だと思います。わたしの信仰がからし種一粒ほどでも、それは限りない大きさにつながっているのです。
限界とぶつかるとき、限りないこと信仰をもって、乗り越えていくことができますように。sese

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