28 per annum

年間 第28月曜日・パウロ会・'96/10/14
「ヨナのしるし」
ルカ 11・ 29-32

ヨナが説教した時には、ニネベの人々は、その神の声を認め、それに答えた。最後の審判の日には、ニネベの人々は立ち上がって、イエスの時代の人々を訴える、と書いてあります。イエスと同時代のユダヤ人たちは、かつてないほどの特権に恵まれたにも関わらず、キリストを受け入れるのを拒んだのです。このユダヤ人達の罪は、その特権があまりにも大きいだけに、いっそう徹底して訴えられるだろう。
特権と責任は同じものの「おもて」と「うら」なのです。特権のもっているこの二面性に心を留めて、それをどのように使うかを考える必要があります。
 例えば、私たちはみことばにふれる機会はたくさんもっています。そうでない人々もたくさんいます。みことばにふれる機会、祈る時間、共同体の支えなど、非常に恵まれた立場にいる。聖書ほど高価な書物はない。ところがそれはともすれば、「誰もがその名を耳にするが、誰も読むことのない書物」という、ある人の皮肉な定義にあてはまりかねない有様です。私たちは聖書にいつでもふれることのできる特権が与えられています。そして、その特権は、それに対して答えるという責任を伴っています。
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信仰とは、自分勝手な基準を作って、救い主を試そうとする態度から生まれないのです。むしろ、へり下って神を求める者に神は信仰を与えて下さるのです。
死人の世界から誰かをおくってと願う金持ちに対してアブラハムは言いました。「もし彼らがモーセと預言者に耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても彼らはその勧めを聞き入れはしないだろう」(ルカ16・31)。しるしを求める人間ではなく「神の言葉を聞いてそれを守る人たち」が「めぐまれている」(28)のです。
それでも、神は救い主を信じ得るために豊かなしるしを与えて下さいます。それは「ヨナのしるし」です。預言者ヨナは大魚の腹の中に三日三晩いたように、イエスも地の中(墓)にいて三日目に復活することを、救い主のしるしとされるのです。
イエスの十字架と復活こそ、天からしるしに匹敵する意味で、救い主のしるしです。現代人にとって、処女降誕や復活は、特別のつまづきとなっているようです。「そういう非科学的なことをいうからキリスト教は信じられない」というのです。イエスの時代、悪霊の追い出しを見た人々は、そんな小さな奇跡では、イエスを信じられない、と言いました。現代、復活を聞く人々は、そんな大きな奇跡では信じられない、というのです。不信仰は証拠の問題ではなく、心の「邪悪」(29)のためであることを思わされます。(山中)

年間 第28火曜日・パウロ会・チャペル '96/10/15
「杯や皿の外側をきれいにするが….」
ルカ11・37-41

 私たちは毎日のようにお風呂を入ります。それで体も心もすがすがしい気持ちになって一晩ぐっすり眠れるわけです。もし、誰かが長い間お風呂をしていない人に接するならば、私たちはおそらく、その人はくさいとかきたない人と感じます。今日の福音書できよめのしきたりをやぶったイエス様も同じように受け止められたかもしれない。
 でも、イエス様は言いたかったのは、体を洗うのはよいことだが、お風呂を入ったからと言って、心まで清められたと思ってはならない、ということでしょう。実は、まず心を考えるべきです。心を清めることこそ大事ですと。
 私たちは毎日、ていねいに、入念に体を洗ったりして、健康管理を心がけます。それは結構なことだが、同じように心の健康にも気を使えばいいのですが、精神的なストレス、心の疲れ、罪によって残る心のきず、毎日たまる心の「アカ」をとる努力をあまりしないのはなぜでしょうか?
 しかしまた、清めというものは、私の力によってできることではない。神に清めていただけなければならないのです。でもそのために、私たちはまず清められることを願わなければならない。清めていただく必要を感じなければならない。そしてまた、私の心から「よごれ」が生まれることを知らなければならないのですが、私の心を清められるのは神だけです。神から罪をゆるしていただいて、内側から清めていただくのです。神の側から、私たちの不完全な心と行動を、補ってもらうからこそ、清くなるのです。
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「器の中にある物を人にほどこせ」
イエスはここで、外側のみをきよめて内側は強欲と悪に満ちているファリサイ派の人々に具体的な挑戦を投げかけています。イエスはここで外見よりも魂が大切だ、というような目に見えない事柄ではなく、具体的な言葉で内側のきよめを迫られたのです。強欲からきよまるためには、魂の問題ではなく、具体的な解決として施しをしてみよ、とイエスは言われたのです。あなたという人間の外側ではなく、「内にあるもの」(所有物)を施すことが、あなたの人間性全体のきよめに必要だ、と言われたのです。
イエスは、ある時、律法を全て守っている、と自称している富める若者に対して、「持っている物をすべて売って貧しい人々に施せ」(18・22)と挑戦されました。律法を完全に守っているきれいな人間ならば、強欲からも解放されていて、自分の所有に対して自由であるはずなのです。
私たちは、抽象的な人生論、信仰論では美しくふるまえても、お金の問題になるといやしいことを考え、相手にたいしても卑しい邪推(ジャスイ)をしがちなものです。お金に魔力があるのは、私たちの内側が強欲に対して本当にきよめられていないからです。いつでもどこでも施しをすることがよいこととは限りませんが、必要な時には、人々のために自分の所有物を差し出すことのできる自由できよめられた心を持つべきなのです。(山中)

年間 第28水曜日・パウロ会  '96/10/16
「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」
ルカ11・42-46

 律法学者やファリサイの人々のことがいろいろでてくるが、そこで共通していることは、外側ということです。信仰は内側を大事にしていくものであると思う。外側をととのえていけば内側がととのうというものではない。内側をいい加減にして外側だけを飾っていくというか、外側だけをよくしていこうとするのは、いつの時代でもどんな宗教でも陥りがちな欠点ではないかと思う。それをイエスは鋭く突いておられるのです。
 でも、聖書を読む場合、イエスが誰かに語られたとして読んでいくことは、これは「お話」として読んで、流してしまうのです。私に語られた言葉として読んで(聞いて)いなかったら、聖書読みの聖書知らずになるのです。自分が関係ない、という読み方をしていたのでは、聖書のすばらしさもわからない、神のみことばへの驚きも生まれてこない。
 私たちに語られた言葉として聖書を聞いていくときに、はじめて私たちが律法学者と同じように不幸であるということに気づく。そして私は自分を不幸にしているのは他人ではなく、ほかならないこの自分であるとみことばによって示されていく。ちょうど自分が、目で見てまっすぐな線を引いたと思っても正しい定規をあてるとゆがんでいることがわかると同じように、福音の言葉に自分をあわせていったとき、自分がどうなのかはわかるのです。
 そういうふうに聖書を読んでいかない人は、自分は人よりも偉いとか、一生懸命やっているとか、そういうことをいかにも大事なことのように思ってしまう。 自分が罪人だと知らない人間は、イエスの十字架はどうでもよいという気持ちになってくるが、私たちが謙遜になったとき、主の呼びかけが聞こえてくる。自分が愛されている罪人だと知るとき、イエスの十字架以外に救われる道がないという姿勢になるのです。(榎本) 
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人の評価を何よりも大事にする、最優先する生き方は、律法主義にだけではなく、どの社会・文化にも見られる生き方です。律法主義は、真面目な動機と立派な外見を持ちます。不真面目な教えと異なりますのでまじめな民衆の心をとらえます。しかし、優等生のように神の戒めを守っていきようとすればするほど、人は神の御心から遠く離れ、神に対する愛を失い、人間の名誉に心を配る誤った生き方に陥ってしまいます。不良化によってではなく、まじめに生きようとすることで人間性をおとしてしまう危険性を律法主義はもつのです。
ルカ福音書は、ファリサイ派とは縁もゆかりもない異邦人向けの福音書であるのに、ファリサイ派に関するイエスの嘆きを詳しく収録しました。それは、ファリサイ派的な生き方が信仰者は常に警戒せねばならない生き方だからです。福音のみがこの危険から人を救うのです。(山中)

年間 第28木曜日・パウロ会・チャペル  96/10/17
「預言者の血について責任を問われる」
ルカ11・ 47-54

亡くなった予言者の墓を建てることに熱心なら、なぜ、その熱心さを、いま語っている予言者のことばを聞くために使わないのか。神は、いまも語っておられるのに。イエス様の嘆きと怒りが聞こえます。
 もし、私はイエス様が生きていた時代に生きていたら、どのように振る舞ったか、考えたことがないでしょうか。もしかすると、私もキリストを十字架に釘つけた一人だったかもしれない。あるいは無関心のうちに通りかかった人々の一人だったかもしれない。今は無難だから十字架をたたえます。
 教会に行きますと、信者さん達が、いつも前の主任司祭がよかった、いまはちょっと、と言います。では、前の主任司祭に聞くと、彼の時代にも前の司祭の方がよかったと言っていました。
 私たちは、私も含めてですけれども、前の共同体はよかったとか、前の先生はよかったとか、前の院長よかったとか、思ったりしませんか? 今も(今こそ)神が語っておられるのに。まあ、なんと言いましょうか、結構わがままはびこっている人間が多くて、神の声を聞きたくないなら、いいわけをいくらでも作れるわけです。そして、いいわけを作る間は、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてしまうのです。 
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「知識のかぎ」といわれるのは、救いに至る知識のかぎです。律法学者たちは、旧約の御言葉に注釈を積み重ねることで、旧約の御言葉を学者の専門書としてしまったのです。旧約聖書が指し示していたやがて来るべき救い主像はおぼろげになり、規則に規則が積み重ねられて行きました。そして、旧約の指し示したキリストが現実に来られた時、この救い主を受け入れる事が人々にできなくなっていたのです。
 聖書は神の言葉であって、すべての神の民に向けられたのです。これは専門家の書ではなく、神の民全員の書なのです。聖書は難解な個所も多くありますが、明かに語る所も多くあって、救いのために必要な知識は、専門家でなくても、普通の人々が普通に熱心に読めば、理解することのできるものなのです。この知識のかぎを取り上げて、聖書と宗教を専門家のものとしてしまった点で律法学者は、わざわいなのです。(山中)

年間 第28金曜日
「ファリサイ派のパン種に注意しなさい」
ルカ12・ 1-7

最近、「振り込め詐欺」というものはよく新聞などで報道されて、それに対する注意を呼びかけられています。 フアリサイ派に対する厳しいことばは(ルカ11・37-54)、その「偽善」に対する注意に似といます。内面の考えと外面の行為が一致せず、神を心から礼拝せずに、いけにえをささげているとき、それが偽善です。フアリサイ派のパン種とは、その偽善を指しています。マタイでは、かれらの教え(マタイ16・12)、マルコでは頑固さを指しています。 心の奥にかくされている思いが、やがて態度、行動、すべてに反映し、現れるように、偽善も自分ばかりでなく、まわりの人々にも影響を与え、腐敗させます。
パン種が小麦粉全体をふくらませるように、神を第一とせず、自分を第一とする不信仰、頑固さも、外面にも現れてきます。電話で内緒で言われたことは、銀行の振込みに現れます。
 内密なものが公に知れわたるパン種の原理は、偽善ばかりでなく、よい意味にもあてはまります。福音宣教がその一例です。イエスがひそかに弟子の心に、祈りのうちに述べたことを、弟子たちは、のちに公に宣教します。宣教はすべての人に向けられ、福音の内容も全部明らかにされます。真理を一部の人の独占物にしないのです。
 神を恐れるなら、すなわち、神を第一とするなら、この地上の権力を恐れず、地上の思い煩いでいのちをすりへらす必要はありません(ルカ12・16-21)。
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「多くの人を神への道の途中で立ち止まらせたのは、偽りの謙遜である。その謙遜は、実は傲慢を含んでいる。神から愛されるために、まず私たちが美しくなろうという考えが頭にこびりついているのである。
世俗の人々のように、注目を引くために身を飾ることが必要であると考え、そのように考える人には、神は私たちが美しいから愛してくださるのではなく、私たちは愛されているから美しくなるのだということがわからない。」(Pablo Guzmanの言葉。マグダレナ・E・トーレス=アルビ著、『雅歌に親しむ』、イー・ピックス出版、31頁参照)


年間 第28土曜日
「言うべきことは、聖霊がその時教えてくださる」
ルカ11・ 47-54

 イエスは、「いまから、なにを言うべきかを考えておきなさい」と言うかわりに、「証しのために、どう弁明しようかと考えないことに、いまから心にきめておきなさい」と勧めます。これは驚くべきことばです。反対者が反駁できない知恵のことばを、キリストご自身が与えてくださいます。それは、あたたかな愛のことば、聖霊です。聖霊を受けて、キリストに変身し、キリストがわたしたちにおいて、ご自身を示してくださいます。それが証しです。
知らずして罪をおかすことがあっても、父は子イエスの取りつぎによってゆるしてくださいます(ルカ23・34)。父はゆるそうと待ちかまえているのです。しかし、そのようなゆるしを拒絶するならば、つまり神が本当に罪をゆるすことがおできになるということを信じないなら、父と子の心を冒涜することになり、ゆるされることはないのです。(荒)

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