seijin (february-march)

聖人固有祝日  (1月~6月)
PROPRIUM DE SANCTIS



2月 2日  主の奉献  祝日
ルカ2・22-32


今日は、イエス様が生まれて40日経ち、律法に従ってヨセフとマリアがエルサレム神殿に赴き、イエス様を神に捧げたことを記念するお祝い日です。
教会はこの神秘において「神に奉献されたお方」「新しい人類の長子(ちょうし)」であるキリストを祝うのです。答唱詩編の中で歌われた「栄光の王」「戦いにおいて力強いお方」の神殿への荘厳な入場を記念しました。
 神殿の中に入場される力強い神とは、いったい誰のことでしょうか。その母、聖母マリアの腕に抱かれている幼きイエスです。 聖家族は、こうして母親の清めと長男の神への奉献、そしてその贖いという律法の規定を遵守します。 神への従順と、試された信仰、そして苦しみへの参与における第一人者、それは主の御母、聖母マリアでした。 その子イエスをエルサレムに連れて行くことによって、聖母はその子を世の罪を取り除く真の子羊として神に奉献し、シメオンとアンナには救いの告知として差し出し、そして、すべての人々に真理と愛の安全な歩みにおける光として示すのです。 教会は、今日、この主の奉献の祝日に「世界奉献生活者の日」を記念します。

奉献生活が、愛の表現、また愛を学ぶ学校として、重要な意味をもつことを考えるように、わたしたちを促します。第二バチカン公会議は、貞潔、清貧、従順によってキリストに倣うことが、徹底的に完全な愛に達することをめざすものであることを強調しました(『修道生活の刷新・適応に関する教令』1参照)。奉献生活の重要性と価値を示すために、教会は、2月2日の主の奉献の祝日に「奉献生活の日」を記念します。教皇ヨハネ・パウロ二世が好んで行っていたように、わたしも2月2日の午後、サンピエトロ聖堂でミサを司式します。このミサには、特にローマに住む奉献生活者の方々をお招きします。
 奉献生活の恵みを、ともに神に感謝しましょう。そして、奉献生活が、世において神の憐れみ深い愛を雄弁にあかしするしるしであり続けることができるように、祈りたいと思います。
 愛の鏡である、至聖なるマリアに祈りたいと思います。マリアの母としての助けによって、キリスト信者が、また特に奉献生活者が、聖性の道を速やかに、また喜びのうちに歩んでいくことができますように。(カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳)

                                                  



2月 5日 日本26聖人殉教者

マタイ28・16-20


長崎の西坂の丘に、二十六人の殉教者の記念碑がたっています。かれらは寒さにこごえ、泥にまみれて殉教していきました。記念碑の一人一人の像は、「すべての民よ、主をほめよ」(Laudate Dominum omnes gentes)(詩篇117)と歌いながら天に召されていきました。「すべての民よ、主をほめよ」日本二十六聖人は身をもって証しをしましたメッセージです。イエスの弟子として命をささげました。殉教者の血が身を結ぶように、いま、わたしたちに祈りと生活の証しが求められています。(荒)現代社会での「殉教」は、快楽や利益や効率を追求する流れに逆らいながら、社会の様々な圧迫の中で、苦しみを捧げていくことかもしれない。イエスの言葉は力強い。疑う者にさえ、いや疑う者にこそ、「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と語る。イエスの復活を信じることは、生かされている自分の存在を信じること。私がそれを疑い、あきらめや無力さを感じても、主は共にいてくださる。主よ、あなたと共にあることを感じられない時、あなたに気付くきっかけを与えてください。sese07
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マタイ書の終わりに、イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」そして最初は「その名はインマヌエル(神はわれわれと共におられる)」と共におられる神は、マタイの一貫したテーマです。しかしキリスト者同士の集いの中にそれを実感できない現実もあります。教会内での中傷、人間関係の問題やトラブル、キリストが共にいると感じられず、信じられないこともしばしばです。教会という組織にも、そこにキリストを見いだすことは難しいかもしれません。教会は組織よりも、人と人が本気で、キリストに信頼して集うということが最も大切なことです。私たち一人一人がイエスの名において人と出会おうとすることからすべては始まるのではないでしょうか。
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1549年聖フランシスコ・ザビエルの来日から40年、信長の後を継いだ秀吉の時代に入ると日本社会がほぼ統一に向かい始め、キリスト教に対する態度が変わってきました。
 1587年秀吉は宣教師たちの追放を命ずる「伴天蓮追放令」を出し、地域的に温度差はありましたが、各地で迫害が始まりました。まずキリスト教を述べ伝える宣教師とその身近な協力者が迫害の対象となりましたが、次第に地域も対象も広げられ、秀吉の追放令が出て、10年目の1597年にフランシスコ会のペトロ・バプチスタ神父、イエズス会のパウロ三木神父を始めとする聖職者9人と信徒17人のいわゆる26聖人の殉教がありました。

1. 聖パウロはローマ人への手紙の中で述べています。
「誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができましょうか。
 艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、死か。然しこれらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださった方によって輝かしい勝利を収めています。死も、命も・・・
 支配する者も私たちを主キリスト・イエスによって示された神の愛から引き離すことはできないのです」。
 日本の殉教者も聖パウロと同じことを叫び、神様の恵みに信頼して信仰に生きることを怖れるなと叫び続けています。

 4. 殉教者は呼びかけています。毎年3万人以上の自殺者が出る日本の社会に呼びかけています。生きるとはどういうことか、死ぬとはどういうことか、人間は何のために生きるのか、人生の目的、意義とは何か、苦しみに意味があるのかなどの人生の根本問題について深く考えるよう求めています。
 信仰の自由を否定され、殺された殉教者は叫んでいます。神の似姿に創られた人間の尊厳性、また人間が持つ固有の精神的能力、考え、判断し表現する自由などの重要性、それに反するあらゆることを避けることを強く訴えています。なかでも人間の生きる権利が胎児のときから死にいたるまで大切にされること。武器の製造、売買、それを使っての殺人行為である戦争。極度の貧富の差により非人間的生活を余儀なくされている者たちへの配慮など、すべての人が大切にされ、尊敬され、人間らしくいきられる世界となるよう祈り、活動することを求めているに違いありません。

白柳誠一枢機卿 「ペトロ岐部と187殉教者列福式」ミサ説教 2008年11月24日 長崎県営野球場(ビッグN)で
二十六聖人の氏名 (Wikipedia)
(以下、二十六聖人記念碑の右側から順に列挙)

伊勢のフランシスコ
日本人大工。フランシスコ会員の世話をするため、一行に付き添い、道中で捕縛された。
コスメ竹屋
日本人、38歳。大阪で捕縛される。
ペトロ助四郎(またはペドロ助四郎)
日本人、イエズス会員の世話をするため一行に付き添い、道中で捕縛された。
ミカエル小崎(またはミゲル小崎)
日本人、46歳。京都で捕縛。トマス小崎の父。
ディエゴ喜斎
日本人、64歳。大阪で捕縛。イエズス会員。
パウロ三木
日本人、33歳。大阪で捕縛。イエズス会員。
パウロ茨木
日本人、54歳。京都で捕縛。レオ烏丸の兄。
五島のヨハネ草庵(またはヨハネ五島)
日本人、19歳。大阪で捕縛、イエズス会員。
ルドビコ茨木
日本人、12歳で最年少。京都で捕縛。パウロ茨木、レオ烏丸の甥。
長崎のアントニオ
日本人、13歳。京都で捕縛。父は中国人、母は日本人。
ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ)
スペイン人、48歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
マルチノ・デ・ラ・アセンシオン
スペイン人、30歳。大阪で捕縛。フランシスコ会司祭。
フェリペ・デ・ヘスス(またはフィリッポ・デ・ヘスス)
メキシコ人、24歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
ゴンザロ・ガルシア
ポルトガル人、40歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
フランシスコ・ブランコ
スペイン人、28歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
フランシスコ・デ・サン・ミゲル
スペイン人、53歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
マチアス
日本人、京都で捕縛。本来逮捕者のリストになかったが、洗礼名が同じというだけで捕縛。
レオ烏丸
日本人、48歳。京都で捕縛。パウロ茨木の弟。ルドビコ茨木のおじ。
ボナベントゥラ
日本人、京都で捕縛。
トマス小崎
日本人、14歳。大阪で捕縛。ミカエル小崎の子。
ヨアキム榊原(またはホアキン榊原)
日本人、40歳。大阪で捕縛。
医者のフランシスコ
日本人、46歳。京都で捕縛。
トマス談義者
日本人、36歳。京都で捕縛。
絹屋のヨハネ
日本人、28歳。京都で捕縛。
ガブリエル
日本人、19歳。京都で捕縛。
パウロ鈴木
日本人、49歳。京都で捕縛。
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豊臣秀吉
26聖人殉教した翌年1598年5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった。

露と落ち 露と消へにし わが身かな 浪速(なにわ)のことは 夢のまた夢」
※秀吉の辞世の句といわれる
※夢のように儚く消える我が身である。人生は夢のまた夢であった。
露のようにこの世に生まれ落ち、そして露のようにはかなく消えていってしまった
この身であることよ。大阪城で過ごした栄華の日々は、夢の中の夢のようにはかないものだった。


百姓として生まれた秀吉は、 異例の出世を果たしていった多くの難関を乗り越え、そして、さまざまな優れた人物との出会いが訪れたり、 天下獲りのチャンスが到来したりと、 秀吉の人生には、あちこちで素晴らしい幸運が散らばっている。

戦国時代を駆け抜け、天下統一を果たし、この世の栄華尽くした男の人生は、死に対する恐れとの戦いだったかもしれない。最高権力者であった秀吉はこのような悟りを得た。


2月22日聖ペトロの使徒座
「あなたはペトロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。」
マタイ16・13-19



あいさつ:聖ペトロの使徒座の祝日は、不完全な人間にもかかわらず、選ばれた者の奉仕をとうして神の恵みが教会にそそがれるという事実を私たちに思い起こさせます。
ペトロの信仰宣言、「イエスは神の子、キリストである」の上に教会は建てられました。人間的に見れば、お人よしで、そそっかしく、洞察力の足りない漁師シモンは、キリストによってぺトロ(アラム語で「ケファ」)と改名され、キリストの教会を導いていく一代目の教皇になりました。ペトロの信仰告白は、天の父からの啓示、恵みであって、単なる人間の知恵を越えています。同じように、教会が地上で解き、あるいは結ぶ(つなぐ)権能も、地上的なものではなく、神の恵みの世界に属しています。罪と悪の束縛から解放するのは、神の愛であり、同じように、分裂し、散らされていた子らを一つに結ぶのも、神の愛(聖霊)です。神の恵みに仕えるしもベペトロは、恵みの独占者ではなく、ましてキリストの羊たちに対する独裁者でもありません。ペトロの首位権とは、兄弟たちの和解と一致のため、悪と不正に束縛されている人びとを解放し、平和をもたらす愛の奉仕職を意味しています。
ペトロは、キリストを裏切った辛い思い出をもっていました。その人間的弱さをゆるしてくださったキリストに対する愛と懐かしさが、他の兄弟たちに対する愛、やさしさとなって表されました。
ローマの聖ペトロの使徒座は、ペトロの人間的弱さ、歴史上繰り返された数多くの罪にもかかわず、神が、そのような不完全なささげものをも、喜びとして受けいれてくださる祭壇を象徴しています。(荒)
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354年にさかのぼる"Depositio Martyrum"という書物にすでに二月22日に"Natale Petri de Cathedra"という祝日の記述があります。Cathedraとは「座席」という意味であり、死者を記念する際、故人を思い起こさせる空席が置かれていたことに由来する。


3月17日 「日本の信徒発見」

1.150年前に何が起こった?
 鎖国政策を行っていた幕府は、1858年、5カ国(米蘭露英仏)と修好通商条約を締結して、長崎、神戸、新潟、横浜、函館の5港を開き、条約国に居留と独自の宗教施設の建設を容認したのです。こうして1859年、パリ外国宣教会のジラール神父が横浜に着任、
62年に教会を建て、63年、プティジャン神父を長崎に派遣して大浦天主堂建設に当たらせます。献堂式の1カ月後、65年3月17日、十数名の浦上の潜伏キリシタンたちがプティジャン神父を訪ね、信仰を打ち明けたのです。「信徒発見」の出来事です。
 その後、各地の信者たちと神父たちとが密かに行き交います。ところが、浦上での自葬事件(700世帯がお寺で葬式を断った)を機に各地で最後の「崩れ」(大量検挙による組織の崩壊)が起こり、殉教者も多数出ます。
このような弾圧を西欧から非難された明治政府は、73年、ついに禁制高札を撤去します。

 「信徒発見」の出来事は、260年に及ぶ禁教と迫害の末に、殉教者の信仰の種が芽をふき、日本の教会の復活となる摂理的な出来事でした。
(2)迫害と潜伏の中での信仰の継承の歴史を明らかにする 「信徒発見」は、特に聖職位階のない中で、殉教に至るほどの信仰を絶やさず守り伝えた事実を世界の教会に明らかにした衝撃的な出来事です。
 
(イ)潜伏教会の最初の告白は、「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ」でした。「ムネ」は、代々受け継いだ信仰の内容、福音と教会の教えです。日本の教会は、『どちりなきりしたん』をもとに同じ信仰を共有していました。プティジャン神父をカトリック司祭と確認する基準は、聖母マリア、司祭の独身性、ローマ教皇でした。孤立していた彼らは、一貫したカテケジスのおかげで、マリアに導かれて、主イエスと、主イエスを頭とする教会と再会したのです。
 
(ロ)「サンタ・マリアの御像はどこ?」「御子ゼズスさまを御腕に抱いていらっしゃる!」信仰告白に次いで口にしたのが「サンタ・マリア」でした。「マリアを通してイエスへ」という信仰は、「イエス、マリア」と唱えた多くの殉教者と共に、潜伏の中で受け継がれ、日本の教会は、聖母のご出現と教皇ピオ9世による「無原罪の御宿りの聖マリア」の信仰箇条の公布の後、マリアを通して復活へ導かれたのです。ちなみに長崎奉行が絵踏みの中止を宣言したのは、ルルドでの聖母の最初のご出現の翌日のことでした。
 
(ハ)潜伏の教会は、神父に「今は悲しみ節(四旬節)です」と言います。彼らは、毎年、主の降誕と復活祭の日を繰り出して、1年の暦を定めていました。悲しみ節には祝い事を慎み、主の受難と死にあずかる生活をするなどして、信仰を連綿と受け継いだのです。
 
(ニ)キリシタンたちは、毎年の「絵踏み」のとき、絵を踏み、良心の痛みを強く感じながら、帰宅すると「こんちりさん」の祈り(「完全に痛悔してゆるしを求める祈り」)を唱えたのです。彼らは、心から神のゆるしを求め続けた信仰共同体でした。
 
(ホ)潜伏時代、各地の教会共同体には帳方(指導者)、水方(授洗役)、聞役(帳方の指図を聞いて各戸に触れまわる)の3人の世話役がいました。また、「慈悲」「サンタ・マリア」「聖体」「ロザリオ」「帯」の名を冠した組も信仰の涵養と隣人愛の実践、支え合いにより共同体づくりに参与しました。
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1549年、キリスト教はザビエルによって伝えられた。当時のキリシタンは30万人に膨れ上がった。しかし、為政者によるキリスト教禁止令は日本26聖人をはじめ多くの殉教者を生んだ。江戸幕府はキリシタン禁制を徹底させ、巧妙残酷な拷問や処刑方法を案出した。踏絵を強行し、踏めば棄教、拒めば処刑である。この踏絵は九州、特に長崎では江戸時代末期まで続いた。隠れキリシタンは信仰に背いた良心の呵責をコンチリサン(懺悔)でなだめた。それでも絶えず信仰の自由が与えられる時を忍耐して待ち続けた。

日本が開国して外国人寄留者のためにプティジャン神父が長崎に派遣、1865年2月、大浦天主堂が建立された。同年3月17日のことである、浦上の約15名の隠れキリシタンが見学を装ってやってきた。その中の婦人が「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」と信仰を証しした。しかもプティジャンがカトリック信者と確信したのが、「サンタ・マリアの御像はどこ」という言葉だった。

その後、長崎県周辺で次々と信仰を告白する者が続出。これが浦上四番崩れを引き起こした。多くのキリシタンが流罪に処せられた。日本政府は外国の非難にさらされ、キリシタン禁令を撤回したのが1873(明治6)年2月のことだった。流刑者は浦上に帰郷することができたが、ほとんどは拷問で死んだ。やがて浦上に東洋一の天主堂が献堂される。しかし、その感動は束の間だった。1945年8月、浦上天主堂上空で原子爆弾が炸裂した。多くの信者が死んだ。

私たちは3月17日、信徒発見150年を祝う。浦上の歴史は日本のカトリック教会の殉教の歴史でもある。隠れキリシタンは迫害下で信仰を伝授する知恵を授かった。しかし、今、私たちは多様化していく社会の中で確固たる信仰を伝えていく知恵を持ち合わせているだろうか。現代文明が引き起こした負の遺産を担いながら、文明というバビロン捕囚の中で福音の喜びを宣べ伝えていきたい。神は独り子をお与えになったほどに、この世を愛されたのだから。
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宮崎賢太郎、「信徒発見の真相にかんする新見解」、福音宣教(オリエンス)2015年4月号 参照。 



3月19日 聖ヨセフ
「ヨセフは正しい人であった」
ルカ2・41―51a


ヨセフはとてもつつましい、おとなしい父親だったと想像できます。聖書の中ではヨセフの言葉が一つも見当たりません。彼は自分の苦労を宣伝しようとせず、黙々とマリアとイエスのために働きました。「ヨセフは正しい人でだった」というのはこの意味でしょう。
 今回も母親マリアはイエスを叱って、父親の心配を代弁しています。彼の中心的な役割は妻のマリアを保護し、マリアの法律上の立場を保障するところにありました。そして彼はその役割をかんべきに果たしました。自分の子供でない子供の父親となって、神の言葉を信じてマリアを妻に受け入れたことは、ヨセフの人間性の豊かさを示しています。家族を一つにつなぐのは血筋ではなくて、メンバーのお互いの愛であることをヨセフは教えてくれます。
 何人ものベトナムの少年を育てた神父がいますが、彼らから「お父さん」と呼ばれていましたす。たとえ、血のつながりがなくても、そこにはまぎれもない一つの家族があります。(ステファニ)
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--第2朗読は、ローマの信徒への手紙4章、神の約束とアブラハムの信仰について読まれます。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせる」約束です。
神の約束は、アブラハムの信仰ゆえに実現しました。この実現は神の寛大な恵みによるものです。神の約束は、神の無償の恵みとアブラハムの信仰、神はまさにそのようなお方であるという確信にかかっています。
聖ヨセフの祝日にこの箇所が読まれるのは、「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ……多くの民の父となりました」という、まさに聖ヨセフの信仰を考察すると理にかなったことと言えます。
 「ヨセフは主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」(マタイ1・24)。このことばはすでに神がヨセフにゆだねた使命を含んでいます。それは、守護者(custos)となるという使命です。ヨセフはだれの守護者となるのでしょうか。マリアとイエスです。しかし、ヨセフが守護する対象はさらに教会にも及びます。福者ヨハネ・パウロ二世が強調したとおりです。「かつて聖ヨセフは愛をこめてマリアの世話をし、喜びをもって献身的にイエス・キリストを養い育てました。その聖ヨセフが、今も同じように、キリストの神秘体である教会、聖なるおとめマリアを理想像、模範と仰ぐ教会を見守り、保護しています」(使徒的勧告『救い主の守護者聖ヨセフ』1:Redemptoris custos)。
ヨセフは聖家族をヘロデから守りました。
 残念ながら、歴史のあらゆる時代に「ヘロデ」が存在します。彼らは死を企み、人間の姿を壊し、醜いものとします。
  経済、政治、社会の領域で責任を負う人々は、またすべての人々は、ヨセフにならって、被造物の守護者となるべきです。憎しみと妬みと高慢が人生を台無しにすることを忘れてはいけません。それゆえ、守護するとは、自分の感情と心に注意を向けることです。よい意向も悪い意向も心から出てくるからです。こうした意向が、家族、社会を築き、また壊すからです。
  配慮し、守護するには、いつくしみが必要です。柔和さを生きることが必要です。福音書の中で、聖ヨセフは力強く、勇気に満ちた労働者としての姿を示します。しかし、ヨセフの心の中に見られるのは深い柔和さです。柔和さは弱者の特徴ではなく、むしろその反対に、心の強さを示します。それは、注意し、共感し、他者に心を開く力です。愛する力です。いつくしみと柔和さを恐れてはなりません。

 
3月25日 神のお告げ
ルカ1・26-38

マリアの頭の中をさまざまな思いがよぎったことでしょう。‥‥そんな大それたことが自分に起こるということ。そしてなによりも、婚約者であるヨセフはどう思うだろうか?「裏切られた」と思うに違いない。神さまによって宿ったなどと信じるだろうか?また、ヨセフが自分を姦通罪を犯したと言って訴えるかもしれない。そうすると姦通罪は石打ちの死刑‥‥そのようなさまざまな思いが浮かんできたことでしょう。それは大いなる不安です。 
 それなのに自分の所に現れた天使は、最初に「おめでとう」と言いました。とてもおめでたく思えない。いったい何がおめでとうなのか、なぜ「おめでとう」なのか? 

 「神にできないことは何一つない」!‥‥この言葉こそ真理です。そしてそれは神さまだけに当てはまる言葉です。私たちにはできないことだらけです。しかし私たちにはできないことも、神さまにはおできになります。この事実があるからこそ、私たちは生きていけるのだと思います。 それに対してマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。 
 「はしため」とは、分かりやすく言えば「女奴隷」という意味です。奴隷というのは主人の所有物でした。ですからここでマリアが言っていることは、「主なる神さま、わたしはあなたのものです。どうぞ御心のままになさって下さい」ということです。神さまを信じたのです。聖霊によって神の子を身ごもったなどということを、この世の中の誰も信じないようなことを、それゆえに婚約者のヨセフも信じないだろうし、したがって自分は姦通罪で死刑になることが当然予想される。‥‥この一大事に、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたのです。全面的に神さまに信頼し、ゆだねる言葉です。 
 わたしたちはここに、何故神さまがマリアをお選びになったのか、ということが分かってきます。神さまが、イエスさまをこの世に遣わされるために、人間に求めておられたものは、宮殿の中のふかふかのベッドでもなく、この世の権力でもなく、金銀財宝でもありません。神さまがただ一つ必要とされていたものは、「信仰」です。信じる、ということです。これこそが神さまが求めていたものです。マリアが信じなかったなら、私たちの救いもなくなるのです。 
 この信仰によって、あらゆる困難が予想されるにもかかわらず、御使いは「おめでとう」と最初に言ったのです。そして困難というものは、「神にはできないことは何一つない」、その言葉を受け入れることによって、神さまの御業へと変えられる。祝福へと変えられる。私たちもその信仰の世界へと招かれています。不信仰な私たちですが、どうか聖霊が信じることへと導き、助けて下さいますように。
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教皇ベネディクト十六世の2007年3月25日の「お告げの祈り」のことば
聖ルカによる福音書の初めに語られる神のお告げは、つつましい出来事です。それは隠れていますが――マリア以外の誰もそれを見ず、誰もそれを知りませんでした――、同時に人類の歴史にとって決定的な出来事です。おとめマリアが天使のお告げに「はい」と答えたとき、イエスは胎内に宿りました。そしてイエスとともに歴史の新しい時代が始まりました。この新しい時代は、後に「新しい永遠の契約」としての過越の中で確かなものとされます。実際、マリアの「はい」は、キリストが世に入ったときに述べた「はい」の完全な映しです。ヘブライ人への手紙が詩編40を解釈しながら次のように述べる通りです。「ご覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてある通り、神よ、み心を行うために」(へブライ10・7)。御子の従順は聖母の従順の内に反映しています。そして、このようにこの二つの「はい」が出会うことによって、神は人間の顔をとることができました。だから神のお告げはキリストの祭日でもあります。この祭日は受肉という、キリストの神秘の中心を祝うからです。
 「ご覧ください。わたしは主のはしためです。おことば通り、この身になりますように」。マリアの天使に対するこたえは教会の中で引き継がれます。教会は歴史の中にキリストを現存させるよう招かれているからです。ですから教会は、神があわれみをもって人類を訪れ続けることができるように、自らを進んでささげます。こうしてイエスとマリアの「はい」は、聖人たち、特に殉教者たちの述べる「はい」によって更新されます。殉教者たちは福音のために殺されたからです。わたしがこのことを強調するのは、昨日の3月24日のサン・サルバドルの大司教オスカル・ロメロ(1917-1980年)が暗殺された命日祭に、わたしたちは「殉教した宣教者のための祈りと断食の日」を行ったからです。司教、聖職者、男子修道者、女子修道者、そして信徒が、福音宣教と人間性の推進の使命を果たしているときにいのちを奪われました。今年の「殉教した宣教者のための祈りと断食の日」のテーマが述べるように、これらの殉教した宣教者たちは「世の希望」です。彼らは、キリストの愛が暴力と憎しみよりも強いことをあかししているからです。彼らは殉教を求めたわけではありませんが、福音に忠実にとどまるためにいのちをささげる準備ができていました。キリスト教の殉教は、ただ神と隣人への愛という最高の行いのゆえにのみ正当化されるのです。
 この四旬節の間、わたしたちはしばしば聖母を仰ぎ見ます。聖母は、ナザレで述べた「はい」に、カルワリオ(されこうべの場所)で証印を押したからです。御父の愛のあかしであるイエスと一つに結ばれながら、マリアは魂の殉教を生きました。信頼をもってマリアの執り成しを祈り求めようではありませんか。どうか教会がその使命を忠実に果たし、全世界に対して神の愛を勇気をもってあかしすることができますように。

(カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳)(2007.3.26)
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マリアは、おとめである母として、教会にとって「永遠の模範」となっています。(…)教会は「信仰によって受け入れた神の言葉を通して、自分もまた母となります」。マリアが、お告げで示された神の言葉を受け入れ、十字架に至るまでも試練に耐えて忠実を守ることによって、信じた最初の者となったように、教会も、神の言葉を忠実に受け入れ、「宣教と洗礼をもって、聖霊によって懐胎(かいたい)され、神から生まれたこどもたちを、新しい不死の生命に生む」とき、母となるのです。(教皇ヨハネ・パウロ二世『救い主の母』より)

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