主の変容 Transfiguration

主の変容 B (2006/8/6 マルコ9・2-10)

これはわたしの愛する子。これに聞け (マルコ9・7より)

 主の変容
  イコン  フェオファン・グレク作
   モスクワ トレチャコーフ美術館 14世紀末

<今週の表紙絵から> 
  フェオファン・グレク (1330頃-1415)はビザンティン帝国で活躍し、後にロシアに移住。ノヴゴロドで活躍した。伝統的な形式に従いながらも、静寂(せいじゃく)主義と呼ばれる東方神秘主義の深い精神性をこめた多くの作品を残した画家である。
   この変容のイコンも基本型に従いつつ、とりわけ「光」の神秘に対する深い感覚を示している。一見して目を引くように、白色の微妙な濃淡を含む球形の光輪とその鋭角的な閃光の重なりがイエスの姿を包んでいる。この発光色と区別がつかない色合いでイエスの衣が描かれ、なおかつ衣のひだも細かく描き分けられている。「服が真っ白に輝き」の描写のもとに、これほどに繊細に神の栄光を表現した画家の目の深さと技の高さを思わずにはいられない。イエスの背後の光から三人の弟子に光線が向かっている。イエスを仰ぎ見ている弟子がペトロである。イエスの右側はモーセ(十戒の石板を抱えている)、左がエリヤ(洗礼者ヨハネの描き方と似ている)であろう。両人の上の雲の中には小さく天使が描かれている。二人が神から遣わされたことを強調するものと思われる。二人の立つ岩山の下にイエスが三人の弟子たちの山を上る場面(左)と降りる場面(右)が描き込まれていることも興味深い。http://www.oriens.or.jp/Fnext.htm

モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、イエスの受難と復活が聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとこの2人が話し合っていた内容は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9・31)であったことを伝え、この出来事とイエスの受難・死の結びつきを明確にしています。
 ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、この光景のあまりの素晴らしさが消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょう。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光のときではなく、受難に向かうときだからです。マルコ福音書は、ここで弟子の無理解を描こうとしているのでしょうか。

ペトロは感激と興奮のあまり、あわてふためいて、この3人のために仮小屋を三つ建てましょう、と言いました。わたしたちも、モーセやエリヤが自分の家に訪ねてきたら、驚き感激し、「とりあえずお上がり下さい」と言い、よければ「泊まっていってください」と言うでしょう。ペトロは正直な人ですね。そしていろいろ会話を交わしたいでしょう。
 ところがそのペトロの願いは空しく、たちまち光り輝く雲が3人を覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者、これに聞け」という声がしました。父なる神の声のようです。そして、気がつくと主イエスしかおられなかった。つまり、神は、ご自分の愛する子であるイエスさまに聞けばそれで足りる、とおっしゃったのです。
http://www.nibanmati.jp/sermon/ser_mat112.html

  (4) 雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40・34-38参照)。雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子」という言葉は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マルコ1・11)。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエスは、ここからは受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。この受難の道も神の愛する子としての道であることが示されるのです。「これに聞け」の「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、聞き従うことを意味します(申命記18・15参照)。受難予告で「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8・34)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。

  (5) イエスの変容の姿は、受難をとおってイエスが受けることになる栄光の姿でした。それはイエスの受難と栄光を実際に経験する前の弟子たちには理解できないことだったでしょう。弟子たちがこの出来事の意味を理解できるようになったのは、復活後のことでした。ところで、今のわたしたちにとっては、イエスの受難も栄光も、もうすでに知っていることです。苦しみの先に栄光が待っていると知っているから、わたしたちは今の苦しみを耐えていくことができるのでしょうか。それだけでなくむしろ、どんな苦しみの中でも、神とのつながり・イエスとのつながりを感じることができる、だからこそ、イエスと共に「神の愛する子」としての道を歩むことができる、とも言えるでしょう。
 八月は、かつての戦争の悲惨な出来事を思い起こす時期になりました。そして今もこの世界の平和を脅かすさまざまな出来事があって、人々の心を不安にさせているかもしれません。そんな中でわたしたちは、「これ(イエス)に聞け」という言葉をどこまで深く受け取ることができるかが問われているのではないでしょうか。
http://tokyo.catholic.jp/cgi-bin/MT/archives/2006/08/index.html